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晴ればれとBlog

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第3代会長就任60周年記念 

2020/05/03
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​〈社説〉
第3代会長就任60周年に誓う
皆が「大衆の味方」との自覚で


 きょう3日は「創価学会の日」。全国・全世界の同志が目指してきた池田先生の第3代会長就任60周年を迎えた。
 
 先生が会長となった1960年は、日蓮大聖人が疫病をはじめ、飢饉や異常気象などが相次ぐ中、「立正安国論」で「汝須(すべから)く一身の安堵(あんど)を思わば先(
ま)ず四表の静謐(せいひつ)を禱いの)らん者か」(御書31ページ)とつづられてから700年となる年であった。
 
 立正安国とは「正を立て国を安(やす)んずる」との意味であり、仏法の慈悲の力で社会の平和を目指すことである。そのためにも、一人一人の心を利己から利他へと転じていくこと。そして、いかなる災害や試練にも負けない民衆の連帯を築くことが要となる。先生の60年の歩みも、その「一人」をつくる戦いであった。
 
 人類が感染症の危機に直面する今、世界の池田門下は「新型コロナウイルスの早期終息」を強盛に祈り抜きながら、周囲の人々に寄り添い、メールや電話で懸命に励ましを送っている。
 度重なる水害で大きな被害を受けた広島県が、大阪大学の教授と共同で実施した調査の結果が興味深い。激しい雨の中、行政からどんな呼び掛けがあったら避難しようと思うかを聞いたもの。単なる避難の呼び掛けよりも、“あなたが避難することで、周囲の人も避難するようになる”といった「利他性」を軸にしたメッセージの方が効き目があるというのだ(日本経済新聞4月6日付)。
 
 現在の感染症対策に置き換えれば、人との接触を控えることは“自分だけでなく、周囲を守ることにもなる”との訴えが大切なのであり、人々の心にある利他性をいかに呼び覚ましていけるかが、危機を乗り越える鍵となるのであろう。
 こうした時代にあって、他者に尽くす生き方を貫く学会員の役割は大きい。
 アメリカ実践哲学協会のルー・マリノフ会長が「ひたすら人々のため、人類のために励ましを行っておられるのです。まさに、利他に徹した行為です」と称賛するように、自らの行動を通して、その生き方の模範を示してきたのが池田先生である。先生の激闘によって、利他の心に燃える創価のスクラムは、この60年で192カ国・地域へと広がった。​


 「化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます」――池田先生は会長就任式の折、こう師子吼するとともに、「学会は全大衆の最大の味方であります」と高らかに宣言した。
「5・3」は、戸田城聖先生が第2代会長に就任した日でもあり、師匠の魂を受け継ぎ、弟子が立ち上がる日。今こそ一人一人が「全大衆の最大の味方」との自覚で、地域に社会に、さらに励ましの光を送りゆくことを誓い合おう。


(2020年5月3日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/03 04:58:24 PM


2020/05/02

​​​​​​第3代会長就任60周年記念特集――
​「人間革命」の証明の劇   第2回「芸術の守り人」​
芸術こそ平和の力――この信念で文化を守り、文化交流を通して世界を結んできた池田先生。「5・3」記念特集②では、先生が創立した民主音楽協会(新宿区)、東京富士美術館(八王子市)の歩みや、これまでに寄せられた識者の声などを紹介する。


Ⅰ「師弟の原点」
 戦後の混乱期。19歳の池田先生は痛感していた。「文化国家をつくるしかない。戦争の悲劇から精神的に立ち上がるのは、文化しかない」と。その心は、人間の幸福は「美・利・善」の追求にあるとし、戦時下にも「美」である文化を大事にした初代会長・牧口常三郎先生、そして「安穏な、平和な文化国家をつくろう」「世界人類のために貢献する国を築こう」と呼び掛けた第2代会長・戸田城聖先生の精神と響き合っていた。
 こうした師弟の魂の結晶として、創価の文化運動の原点ともいうべき音楽隊が誕生したのは1954年。池田先生が結成を進言した折、周囲は「音楽が広宣流布に何の関係があるのか」と難色を示したが、戸田先生だけは「大作がやるんだったら、やりたまえ」と後押しした。
 池田先生は、自ら費用を工面して楽器を贈るなど、音楽隊の友を励まし続け、56年には鼓笛隊を結成した。音楽隊と鼓笛隊は、国内のコンクールで金賞を受賞するなど、今や日本を代表する音楽団体に発展。海外でも音楽隊・鼓笛隊が結成され、あの地この地で勇気と希望を送る調べを届けている。


Ⅱ「建設と飛翔」
民主音楽協会――心を潤す音楽の旅
 池田先生が第3代会長に就任した翌年の1961年2月9日。初のアジア歴訪中だった先生は、ビルマ(現ミャンマー)からタイに向かっていた。
 ビルマは、先生の長兄が太平洋戦争で命を落とした地。終戦から15年余、アジアには、いまだ戦火が絶えなかった。
 人類が悲惨な戦争と決別し、平和を築くには何が必要か――思索を重ねていた先生は、その夜、バンコクで同行の幹部に語った。「真の世界平和のためには、民衆と民衆が分かり合うことが絶対に重要だ。特に芸術の交流が不可欠だと思う。これから国境を超えて進めたい」
 この構想から2年後の63年10月18日、民主音楽協会(民音)は産声を上げた。


110カ国・地域と交流事業 鑑賞者はのべ1億2000万人
世界最高峰のオペラ「ミラノ・スカラ座」の来日公演。“スカラ座の壁以外、全て持ってきた”という公演は民音の歴史のみならず、日本の音楽史に燦然と輝く(1981年9月、東京・NHKホールで)
 創立に当たって、先生が提案したのは「庶民が“下駄履(げたば)き”で行けるコンサート」。その言葉には、“一流の文化で全ての人々の心を潤(うるお)したい”との信念が脈打っていた。
 以来、民音は110カ国・地域の人々と交流を結び、ミラノ・スカラ座やアルゼンチン・タンゴの巨匠の公演など、音楽史に燦(さん)たる足跡を刻んできた。これまで民音の公演は8万回を数え、のべ1億2000万人が鑑賞している。
 また、世界的な指揮者の登竜門として定評がある「東京国際音楽コンクール<指揮>」の開催や、「学校コンサート」などの公益事業にも力を注ぎ、若き才能を育んできた。


東京富士美術館――世界を語る美術館
池田先生ご夫妻が、東京富士美術館で行われた「大三国志展」を鑑賞(2008年6月)。歴史と文化薫る同展では、中国の「国家一級文物」53点を含む200点余が展示された
 一方、“文化を民衆の手に”との思いで池田先生が創立した東京富士美術館は、83年11月3日の開館以来、“世界の優れた文化に触れる機会をつくろう”と、独自の視点で海外文化交流特別展を開催してきた。その回数は現在、48回に上る。
 先生が同美術館に贈った指針は「世界を語る美術館」。その記念すべき開館を飾った「近世フランス絵画展」には、ルーブル美術館をはじめ、名だたる美術館の傑作が出展された。
 その後も「大ナポレオン展」「第九の怒濤展」「大三国志展」などを開催し、一流の美術を紹介。その中には、日本初公開のものも少なくない。


3万点のコレクション、20カ国・地域で所蔵品展
 さらに、“世界との文化交流のために日本一、世界一のコレクションを”との先生の期待を受け、東京富士美術館は美術品収集にも力を入れてきた。その数は、絵画や版画、写真、彫刻など合わせて約3万点。特に西洋絵画は、ルネサンスから20世紀まで500年の歴史を俯瞰できる国内屈指のラインアップとして名高い。
 これらは館外への貸し出しも行われており、「日本美術の名宝展」など、政府・文化機関からの要請による海外での所蔵品展も20カ国・地域で開かれた。
 文化・芸術は、人間精神を豊かにし、国境や時代を超えて人々をつなぐ力となる――その創立者の心をわが心とする東京富士美術館の挑戦は、今も続く。​​​


 池田先生は、こうした民音や東京富士美術館の文化活動を支えながら、世界的バイオリニストのユーディー・メニューイン氏やモスクワ児童音楽劇場のナターリヤ・サーツ総裁ら、世界五大州の文化人や芸術家と語り合い、友情のハーモニーを広げてきた。その中で「平和の拡大は、文化の拡大と切り離せない」(フランスの美術史家のルネ・ユイグ氏)など、文化の力を確かめ合ってきた。

 そうした“芸術の守り人”としての貢献に「私は池田会長と力を合わせて、平和へと進みたい。悲劇を断じて繰り返さないために」(アルゼンチン・タンゴの巨匠オスバルド・プグリエーセ氏)、「音楽という私の分野で、『池田先生に代わって』、先生の思想と心を表現し、人々に伝えたい」(ブラジルの音楽家のアマラウ・ビエイラ氏)など、世界は称賛を惜しまない。

Ⅲ「世界が称賛」
ハンブルク・バレエ ノイマイヤー芸術監督 「民音は平和を目指す兄弟」
「ハンブルク・バレエ」と民音は、同じ目的を目指す“兄弟”と思っています。
 それは民音が、商業主義とは一線を画し、「世界平和のために何ができるか」という崇高なビジョンのもと、世界各国との文化・芸術交流を行っているからです。
 経済至上主義で行き詰まる現代文明。今こそ民音のような深き哲学と強き意志、堅実な実行力が必要であると思えてなりません。
 だからこそ私は民音と協力します。私もまた、バレエという至高の人間芸術の輝きによって、世界の人々に勇気を送りたいのです。
 世界の人々を励まし、人類の幸福のために行動される民音創立者の池田SGI会長と共に、私も、世界平和への道を力強く進みたいと思います。


国立タンゴ・アカデミー ガブリエル・ソリア会長 「池田会長がタンゴを蘇生」
(アルゼンチン・タンゴの民音公演が始まった)1970年当時、タンゴは大きな危機に直面していました。有名な巨匠の死や、ビートルズに代表される英語圏からの新しい音楽の台頭で、タンゴの人気に陰りが出ていたのです。
 演奏の機会は減り、活動に限界を感じた作曲家や楽団、ダンサー、歌手たちはバラバラに。創作活動や演奏・公演を休止する人たちも出てきていたのです。
 その中で、池田会長は「民音タンゴ・シリーズ」を開始して、演奏者やダンサーを日本に次々と招待してくださいました。「蘇生の舞台」をつくってくださったのです。
 実際に日本で公演したメンバーは、地球の反対側で自分たちの芸術を愛してくれる人がいると知り、感激しました。日本で成功を収めたタンゴは、アルゼンチン国内での評価を取り戻すことができました。​​​


サンパウロ美術館 マガリャンエス元館長 「民衆が主体の文化を創造」
 現代世界において、文化は、必ずしも国家の先導ではなく、社会の中から生まれてきています。現代は、民衆が主体となって、文化を創造していく時代なのです。その重要な模範が池田博士です。
 博士は、美術館を創立しただけではありません。美術館の活動を通し、過去の遺産を大切にするとともに、未来をも創造しておられます。このことは、東京富士美術館のダイナミックな活動を見れば、明らかです。
 そして、その東京富士美術館を、多くの民衆が支持しています。それは、どれほどの鑑賞者が訪れているかを見れば明白です。
 東京富士美術館は、単なる貴重品の「陳列の場」ではなく、訪れる人の「友好の場」なのです。
 池田博士は、芸術・文化を通して、異なる文化圏の人々を結び付けようとされているのです。​


スコットランド チャールズ・ブルース伯爵 「展覧会は社会を動かす力」
 1991年、東京富士美術館などが共催し、スコットランド国立博物館で「日本美術の名宝展」が開催されました。これをきっかけに、スコットランドでは、日本との芸術交流のためのシンポジウムが行われたり、日本の建築家が設計した美術館が建てられたりするなど、一段と日本文化への理解が進みました。
 これは、一つの展覧会によって、文化交流の永続的な流れが生まれたという一つの好例と言えるのではないでしょうか。
 展覧会には、社会を動かす力があります。こうした流れを生み出すことができたのは、やはり、創立者である池田先生をはじめ、東京富士美術館の皆さまの、西洋哲学や文化に対する造詣の深さの表れであると確信します。
 今後も各国・地域と実りある文化交流を進めていかれることを心から期待しています。​


(2020年5月2日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/02 12:11:06 PM
2020/05/01

​​​第3代会長就任60周年記念特集――
​「人間革命」の証明の劇 第1回「平和の建設者」​
 来る5月3日は「創価学会の日」であり、池田先生の第3代会長就任から60周年の佳節である。本紙ではこれを記念し、本日付から5回にわたり、「『人間革命』の証明の劇」と題して特集を掲載。戸田先生との師弟の原点をはじめ、池田先生の文化・教育など各分野における人類貢献の業績、世界からの称賛の声を紹介する。ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長は“池田SGI会長は人類の未来を開く平和の指導者”と。特集の第1回は、先生の「平和の建設者」としての功績に焦点を当てる。​


Ⅰ「師弟の原点」
平和実現への遺訓「原水爆禁止宣言」 核兵器の奥の“爪”をもぎ取れ

 60年にわたる池田先生の平和行動――その原動力は、若き日に戸田先生から受けた薫陶(くんとう)と、恩師から受け継いだ平和思想にある。
 第2次世界大戦中、軍部政府の弾圧(だんあつ)に屈(くっ)せず、2年間の獄中闘争を貫いた恩師。戦後の焼け野原に一人立ったその胸には、仏法の生命尊厳の哲理を根本に、断じて平和と民衆の幸福を実現するのだとの誓いが燃えていた。
 19歳で戸田先生に師事した池田先生は、恩師の思想と精神の全てを、その命に刻(きざ)み付けていった。
 なかでも戸田先生が“遺訓の第一”として若き弟子に託した「原水爆禁止宣言」は、池田先生が核兵器の廃絶を目指し、多彩な活動を展開する重要な原点となった。
 米ソ両陣営による冷戦が激化し、世界各地で核実験が繰り返されていたさなかの1957年9月8日。青年部の東日本体育大会「若人の祭典」(横浜・三ツ沢の陸上競技場)で、戸田先生は訴えた。
 「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠(かく)されているところの爪(つめ)をもぎ取りたいと思う」
 仏法者としての透徹(とうてつ)した眼から、核軍拡や原水爆の使用を正当化する思想を、人間生命の奥底に潜(ひそ)む魔性(ましょう)であると喝破(かっぱ)。人類の生存の権利を脅かす核兵器を「魔ものであり、サタンであり、怪物」と厳しく断罪したのである。
 また、戸田先生は52年に「地球民族主義」の理念を提唱。人類は地球を故郷とする一つの民族である、との思想を示した。
 そして約10年にわたる「戸田大学」で、池田先生に万般の学問の個人教授が続けられた。“将来、世界の指導者と語り合えるだけの力を鍛えておくからな”――師が心血を注いだ薫陶(くんとう)を力に、池田先生は各国の識者と対話を重ね、世界的な平和運動のうねりを起こしていくのである。


Ⅱ「建設と飛翔」
市民の意識啓発を推進――不戦へ各国で展示を開催
 恒久平和の実現へ、池田先生のリーダーシップのもと、SGIは市民の意識変革に向けた多様な平和活動を展開してきた。
 東西冷戦下の1982年に行われた第2回国連軍縮特別総会に寄せて、先生は平和提言を発表。SGIは同年、「核兵器――現代世界の脅威(きょうい)」展をアメリカ・ニューヨークの国連本部で開催した。以来、約6年間で16カ国25都市を巡回した。
 冷戦の終結を経て、核兵器の拡散(かくさん)など新たな脅威が高まる中、96年には「核兵器――人類への脅威」展を開始。各国間の不信の打破に向け、対話による信頼醸成などを訴えた。同展は中南米8カ国で実施され、50万人が観賞した。
 「原水爆禁止宣言」発表から50周年となった2007年には、「人間の安全保障」の視点から核兵器の問題を根本的に問い直すよう訴える「核兵器廃絶への挑戦」展をスタート。230都市以上で開催され、反響を呼んできた。
 さらに、12年には国際NGO「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」と共同で「核兵器なき世界への連帯」展を作成。これまで21カ国90都市以上で開かれている。
 また、人権教育では「現代世界の人権」展(1993年)や「変革の一歩」展(2017年)、環境問題では「変革の種子」展(02年)や「希望の種子」展(10年)などを通して、生命尊厳と持続可能な地球社会の建設を広く呼び掛けている。
地球的問題群の解決へ 研究機関を各地に設立
 人類が直面する地球的問題群の解決に向けた具体的な方途を探究するべく、池田先生は学術・研究機関を設立し、人類の“英知の連帯”を広げてきた。
 仏法の人間主義、生命尊厳の思想を世界に展開し、異なる宗教や文明を結ぶための機関として、1962年に「東洋哲学研究所(当時・東洋学術研究所)」を設立。93年には、アメリカに拠点を置く平和研究機関として「池田国際対話センター(当時・ボストン21世紀センター)」が発足している。
 さらに96年には、戸田先生が提唱した地球民族主義や原水爆禁止宣言の理念をもとに「戸田記念国際平和研究所」を創立した。
 これらの機関では、各国の研究所や学術者と協力しながら、シンポジウムや研究会議などを活発に開催している。
あらゆる差異を超え「対話の力」で人間を結ぶ
 池田先生は第3代会長就任以来、イデオロギーや宗教、そして国家や民族などの差異を超え、「対話」の力で世界の人々を結び、平和への道を切り開いてきた。「人間」を信じ抜き、勇気の行動を貫いた60年だった。
 1968年に日中国交正常化を提言。東西冷戦と中ソ対立のさなかにあった74年から75年にかけては中国、ソ連、アメリカを相次いで訪問。コスイギン首相、周恩来総理、キッシンジャー国務長官ら各国首脳と胸襟(きょうきん)を開いて語り合い、分断の“谷”に“平和の橋”を架けていった。
 74年9月のコスイギン首相との会見では、“ソ連は中国を攻撃するつもりはない”との言葉を引き出し、同年12月の訪中の際に中国の首脳に伝えるなど、両国の緊張緩和(きんちょうかんわ)に大きな貢献を果たした。
 当時、共産圏の国々を訪問することに反対する人々もいた。しかし先生は、「そこに人間がいるから」との信念で果敢に行動を続けた。
 96年にはキューバへ。アメリカと緊張関係にあった同国のフィデル・カストロ国家評議会議長と会見。「核兵器は絶対に無用」との意見で一致をみた。
 また先生は、イギリスの歴史学者トインビー博士をはじめ、キリスト教やイスラム教など、異なる宗教的背景を持つ学識者とも語らいを重ねてきた。その成果は、幾多の対談集に結実している。
 さらに南アフリカのマンデラ大統領、アメリカ公民権運動の母パークス氏ら、平和と人道の闘士とも友誼を結んできた。こうした世界の指導者・識者との対話は、1600回を超える。
 「不信」を「信頼」に。「分断」を「結合」に。そして「善の連帯」の拡大を――池田先生が重ねてきた対話の波動は今、大きな平和のうねりとなって地球に広がる。

1983年から「SGIの日」記念提言を毎年発表 
 1983年以来、池田先生は毎年、1月26日に「SGIの日」記念提言を発表してきた。本年で38回を数える。
 提言では、世界の喫緊(きっきん)の課題について仏法の人間主義に根差した哲学的考察を行い、問題の本質に鋭く迫るとともに、解決への方途や国際的な取り組みについて具体的な提案をしている。これまで取り上げたテーマは核兵器廃絶や軍縮をはじめ人権、防災、気候変動、民族紛争、難民の問題など多岐にわたる。
 提言は諸言語に翻訳(ほんやく)されており、海外のメディアでも紹介さているほか、世界の識者や指導者から賛同の声が寄せられている。
 また、提言についてのセミナーやシンポジウムも各国で活発に開かれており、「平和の世紀」を築くための指標として、国際社会に大きな影響を与えている。​​


Ⅲ「世界が称賛」
パグウォッシュ会議 スワミナサン元会長 

​「非暴力の価値を宣揚する闘士」
 池田博士は、対話を信じています。そして、対立ではなく和解を信じています。何より、博士自身が慈悲(じひ)、智慧(ちえ)、勇気(ゆうき)を体現されています。
 ガンジー、キング、そして池田博士は、非暴力という共通の価値を宣揚(せんよう)する闘士(とうし)です。非暴力は弱さではなく、強さの象徴であり、勇気であります。歴史を見れば明らかなように、暴力では何も成し遂げられないのです。
 戸田第2代会長の遺志(いし)を受け継いだ博士は、核兵器の全廃を訴え続け、持続可能な社会を築いていくためには、核兵器の廃絶が最重要課題の一つであると述べられています。
 博士の平和提言は、非常に重要な意義を担っていると確信するとともに、全人類が提言の深い意義について知らねばなりません。
 (2013年9月、インドのセミナーでの講演から)


フィリピン最高裁判所 ダビデ元長官 

「社会のため無私の精神で行動」
 池田博士は、仏教の悟りと智慧を持ち、それを人類の繁栄のために、無私の精神で、全ての人と分かち合ってくださっている、天からの類いまれな贈り物です。
 核戦争の脅威は、いまだ深刻な問題です。私たちは、日本が核廃絶の運動の先頭に立っていること、そして池田博士が長年にわたり、核廃絶を訴え、戦われてきたことを忘れてはなりません。
 勇敢で心強き人、未来のビジョンを持つ人、人間主義の人、啓発の文化の中で育った人、そして、平和と真実と正義を愛し、掲げる人のみが、人類と世界を救うことができるのです。
 牧口常三郎先生、戸田城聖先生、池田博士の精神こそが、皆さんを導(みちび)く光です。池田博士を“私たちの歩みを照らす灯火”としていきましょう。
 (15年3月、創価大学卒業式での祝辞から)​​​


(2020年5月1日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/01 12:28:52 PM
2020/04/30

第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 

​​特別編「1960年5月3日」への道

永遠なれ! 我らの五月三日

「一歩前進への指揮を執らせていただきます!」──第3代会長就任のあいさつに立つ池田先生
 「我らの五月三日」よ、永遠なれ!──池田大作先生の第3代会長就任から、5月3日で60周年を迎える。「師弟凱歌の記憶」特別編として、1960年(昭和35年)5月3日の会長就任式に参加した友の手記や証言等を交え、「5月3日への道」をたどる。

 1960年(昭和35年)の「5月3日」は日本晴れだった。
 夜来の雨は上がり、青く広い空に新緑が映える。東京・両国の日大講堂が、ひときわ輝いて見えた。
 新会長の池田先生がタクシーから降りると同志の歓声が上がる。
 香峯子夫人が、「會長」と書かれた菊花の胸章を胸に挿した。
 第3代会長就任式となる第22回春季総会は、正午に開会した。
 音楽隊による学会歌の演奏が轟(とどろ)く中、池田先生が入場。恩師・戸田城聖先生の形見のモーニングをまとっている。
 途中、先生は歩みを止め、前方に高く掲げられた、師の遺影を見上げた。
 壇上に立った池田先生は、力強く就任の第一声を放った。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀(けぎ)の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
 会場を埋め尽くした同志が、頬(ほほ)を紅潮(こうちょう)させ、雷鳴のような拍手で応える。
 世界広宣流布の使命を帯びて出現した不思議なる教団は、この日、この瞬間から、青年会長のもと、怒濤(どとう)のごとき、本門の前進を開始したのである。

 第3代会長の誕生を、同志がどれほど待ち望み、どれほど喜んだか。
 参加者は振り返る。
 「両国駅から会場までの役員は、どの顔も、今日の喜びが満面にあふれて『おはようございます。ご苦労さまです』と元気いっぱい。言葉を掛けられただけで、ただ感激で、もう涙でした」(婦人部員=当時)
 「ろくな着物も持っていなかったので、私は長男の入学式でやっと作った黒のスーツ、主人は色あせたグレーの上下別々の背広を着て参加しました。でも心の中は金襴緞子(きんらんどんす)の錦(にしき)を着飾っているようでした」(同)
 「池田先生が真ん中の通路より入場されました。今までの興奮がいっぺんに爆発し、拍手と歓声で鉄傘(鉄骨の丸屋根)が吹き飛ぶようなすごいものでした」(壮年部員=当時)

 第2代会長・戸田城聖先生の逝去から2年。「ゆらぐ創価学会の屋台骨」「壊滅寸前の創価学会」等と一部マスコミが書き立てる中、学会を支え、前進の推進力となってきたのは若き池田先生だった。
 1958年(昭和33年)5月3日、戸田先生亡き後、初めての春季総会で先生は“七つの鐘”の構想を示した。当時は学会創立から28年。7年を一つの節として前進してきた学会が「第四の鐘」を経て、「第五の鐘となる、新たな七年」へ出発するとの宣言である。
 6月には、ただ一人の総務に就任。学会の運営の、実質的責任を担うことになった。翌59年(同34年)を「黎明の年」とすることを提案したのも先生である。今日まで続く年間テーマの始まりである。
 同年には、戸田先生の御書講義などの音声をレコードにして残すことを決定。
 夏の参院選では、主戦場の東京を激励に駆け巡り、前回は苦杯をなめた東京地方区をトップ当選、全国区5人を全員当選に導(みちび)いた。
                   ◇◆◇ 
 当時、先生は大田区小林町の自宅から国電(現JR)で信濃町の学会本部に通っていた。
 「先生が到着されるや、本部は偉大なモーターが動き始めるように、回転を始める」――会長就任直前の本部の模様を、当時の女子職員が証言している。
 先生は午前中、机上に積まれた手紙や書類の山に向かい、どんどん処理した。午後は、訪れる同志の激励に当たるのが常だった。
 「先生は1階の応接などで、一人一人、懇切丁寧(こんせつていねに)に指導されていました。部屋に入り切れず、廊下まであふれた方々が、必死で先生の言葉に耳を傾けている情景が毎日のように見られました。夕方には必ず、座談会や御書講義に、青年部の会合にと出掛けられ、まさに休む間もない、戦いの毎日であられました」
 とりわけ先生は、青年を大切にした。
 以下は、当時の一男子部員の述懐である。
 59年秋のある日。父から継いだ事業の借財に悩んでいた彼は、先輩に“池田総務に相談しては”と勧められ、本部に向かった。
 いつも指導を受ける人でいっぱいと聞いていたが、応接の扉を勢い込んで開けると、2、3人しかいない。
 あわてて出ようとすると「やあ、どうした、いいんだよ」の声。池田先生だった。
 先生は、経済の苦境、仕事と活動の両立の悩みに耳を傾けると、師のもとで苦闘した体験を語り、こう激励してくれたという。
 「若いうちに苦労することは、それがそのまま、人生の財産になるのだよ。負けちゃいけない。歯を食いしばって頑張るんだ」「ところで、友達はいるかい。信心を貫き通すには良い友達を持つことだ」
 指導を受けたいと、小林町の自宅を夜遅く訪ねる同志もいた。先生は、仕事に個人指導に会合に精魂を使い果たし、疲労困ぱいのはずだが、「どうしたんだい」と温かく迎え入れてくれた。団らんの場であるはずの自宅もまた、広布の“戦場”となったのである。
 先生は戸田先生の膝下で、誰よりも厳しい薫陶を受けてきた。
 蒲田の二月闘争、札幌夏の陣、大阪の戦い、山口開拓指導と、ひとたび広布の戦の庭に立てば、必ず師匠の期待に応え、勝利の歓喜の渦を巻き起こした。
 そして師匠亡き後も、命を削って同志に希望を送り続けてきた。事実の上から、戸田先生を継ぐ指導者は、先生以外にあり得ないと誰もが思った。
 60年を迎える頃には、青年部を中心に、第3代会長推戴(すいたい)の声が澎湃(ほうはい)とわき起こってきた。何より同志は、「信心の師匠」を求めていたのである。


 4月の戸田先生の三回忌を機に、当時の首脳は会長推戴で一致。3月末から繰り返し就任が要請された。
 先生はその都度、固辞(こじ)した。当時の真情が随筆につづられている。
 「せめて、戸田先生の七回忌までは、との思いであった。また、当時、私は、大阪の事件の被告の身であった。会長になって、万が一にも、有罪判決となれば、学会に傷をつけてしまう。断じて無罪を勝ち取るまでは、お受けできないと、私は決めていた」
 それでも首脳は引かなかった。
 4月13日に重ねての要請。先生は一晩、回答を保留したが、14日午前、本部の応接室でさらに就任を懇請(こんせい)されると、ついに受諾(じゅだく)した。
 午前10時10分。壁にある牧口先生と戸田先生の写真が、じっと見守っていた。
 この日の日記に、先生はつづった。「万事休す。この日――わが人生の大転換の日となれり。やむをえず。やむをえざるなり。戸田先生のことを、ひとり偲ぶ。ひとり決意す」
 15日にはこう記した。「戸田会長に、直弟子として育てられたわれだ。訓練に訓練をされてきたわれだ。なんで戦いが恐ろしかろう――ご恩を返す時が来たのだ。日本の歴史、世界の歴史を創りゆく戦いなのだ」
 19日、学会本部で全国代表幹部会が開かれ、第3代会長就任が発表。週刊だった本紙は4月22日付で報じている。
 喜びは大波となって、全国へ広がっていった。

長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」


 我ら創価の友はいかなる試練に直面しても
常に原点の五月三日から元初の太陽を心に燃やして
勝利へ出発するのだ。


 当時、年2回開かれていた本部総会は、各支部の持ち回りで運営され、この年の春季総会は、川崎支部が担当することになっていた。2月から準備を進めていた同支部の友にとって、総会が会長就任式になることは予想外の出来事であった。
 “一つの支部に任せて大丈夫か”と懸念の声も上がったが、池田先生の「今まで、一生懸命やってきているのだから」との一声で、そのまま運営を託されることになった。
 “とんでもない使命だ! 一生に一度あるかないかだ!”――準備に一段と力が注がれていった。
 支部拠点で、講堂正面に掲げる総会の大看板、戸田先生の和歌を大書した垂れ幕、新会長が上る特設階段などが次々と出来上がる。
 女子部員は先生の胸章にするため、季節外れの菊花を探し求め、婦人部と青年部は、日大講堂の柱や床を懸命に磨き上げた。
                   ◇◆◇ 
 5月3日は、美しい五月晴れとなった。多くの人が、はやる気持ちを抑え切れない。始発電車で吉祥寺駅(きちじょうじえき)を出た人は、両国(りょうこく)の日大講堂に着くと、既に長い列ができていたと話す。
 午前7時15分に入場開始。整理役員の証言によれば、“8時にはもう整理もほぼ終わり、開会を待つばかり”だった。開会は正午だが、午前9時頃に到着した人はもう、場外から耳を傾けるしかなかった。
 同志は全国から集い、日本返還前の沖縄からも、59人が船で駆け付けた。鼓笛隊や音楽隊の演奏などの晴れがましい光景に、旅の疲れも吹き飛んだという。


 正午。学会歌のトランペットが高らかに鳴った。
 正面には戸田先生の遺影と共に、2首の和歌が掲げられた。
 「いざ往かん 月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」
 「一度は 死する命ぞ 恐れずに 佛の敵を 一人あますな」


 力強い手拍子と歌声に包まれて、就任式が始まった。
 池田先生は、就任の第一声に続き、戸田先生の七回忌までに、恩師から託された会員300万世帯を達成する決意を語った。新しき時代の黎明を告げる大師子吼であった。
 感動と決意のうちに就任式の幕は閉じ、続いて行われた祝賀会も終わって、先生が退場しようとした時のことである。
 青年たちがワーッと歓声を上げながら駆け寄った。
 「万歳! 万歳!」
 胴上げが始まった。池田先生の体は、高窓から注ぐ光を浴びて、何度も宙に躍った。小説『人間革命』第12巻「新・黎明」の章の最後を飾る名場面である。


 ――その夜。「大阪の戦い」を共に勝ち抜いた白木義一郎・文夫妻が、ひと言だけでもお祝いをと、小林町の先生宅を訪れた。日中の興奮と打って変わって、留守かと思うほど静かだったという。玄関先だけで辞去しようとする夫妻を、先生が招き入れた。
 「いいじゃないか。誰か来ないかなあと思っていたんだよ。よく来たね。本当によく来たね」
 「今日は、家ではお赤飯も炊いてくれないのだよ。(香峯子夫人を指して)この人がね。今日は池田家のお葬式の日だといって……」
 白木夫人が語っている。「いつどんな時でも笑顔をくずされない奥さまが、この日に限って笑顔をお見せになりませんでした。その奥さまの姿と、先生の言葉に、何か胸をつかれる想いでした」
                   ◇◆◇ 
 あの歴史的な一日から60年。池田先生は、戸田先生に託された構想を全て実現し、創価の連帯は192カ国・地域に広がった。創価学会は世界宗教として、全地球の平和と民衆の幸福に貢献(こうけん)する時代に入った。
 今、池田門下の我々は、いかなる決意で「2020年5月3日」を迎えるのか。
 先生は呼び掛けている。
 「おお/我らの五月三日!/永遠に忘れ得ぬ/五月の三日よ!」
 「我ら創価の友は/いかなる試練に直面しても/常に原点の五月三日から/元初の太陽を心に燃やして/勝利へ出発するのだ。/目標と定めた/新たな五月の三日へ/完勝の旗を打ち立てゆくのだ」(長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」)


池田先生と歩んだ60年
 池田先生は、学会が1959年(昭和34年)から「年間テーマ」を掲げて前進することを提案。学会の同志は、この年間テーマと共に、人間革命と師弟共戦の歴史を刻んできた。本年までの全ての年間テーマは以下の通り。


(2020年4月30日  聖教新聞)


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Last updated  2020/04/30 12:55:23 PM
2020/04/27

​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 
第3回「大阪の戦い」の金字塔


池田先生が1983年3月18日にしたためた「勇戦」の書


 威風堂々たる「勇戦」の書。縦1・7メートル。日付は「3月18日」。1983年(昭和58年)のこの日、関西文化会館で揮毫された。
 
 この年から27年前の「大阪の戦い」で、先生は、「勇戦」の書を同志に書き贈っていた。それを長らく保管していた同志が真心を込め、“お返ししたい”と申し出た。“その代わりに”と、池田先生が改めて筆を振るったのが、この「勇戦」の書である。
 “これからも、共に勇気を奮い起こして戦い勝とう”――師弟の闘魂が脈打つこの二字に触れると、どんな嵐をも、必ず勝ち越えようとの決意が燃え上がる。

戸田先生も出席した大阪・堺2支部連合総会で登壇する池田先生。2万人の同志は雨が降りしきる中、拍手し、歌い、涙し、決意した。「大阪の戦い」は常勝関西の原点である(1956年4月8日、当時の大阪球場で)

 「大阪の戦い」――それは、56年(同31年)の年頭、池田先生が大阪を訪れ、勢いよく始まった。

 学会はこの頃、約30万世帯。恩師の悲願であった75万世帯の弘教を成就するには、関西に民衆の大連帯を築かねばならなかった。
 
 青年部の室長だった池田先生は前年10月、戸田先生から大阪派遣を命じられた。師の心を誰よりも知る弟子は、広布開拓の活路を開こうと、覚悟を決めた。「私の使命はただ一つ。この関西に、難攻不落の錦州城を築くことであった。そのために、私は全生命をなげうって、断じて勝ってみせるとの決心であった」
 
 大車輪の戦いが始まった。
 焦点は、強盛な祈りを根本に、徹底して信心の闘士を育てることだった。
 毎朝、関西本部で御書講義を行い、仏法の確信を烈々と語った。夜まで1軒1軒、駆け巡った。「行く先々で『まだ、時間がある』『まだ、励ませる』と動くうち、日に25、6会場を回ったこともある」と池田先生は述懐。
 誰もが口々に、“あんなに楽しかった戦いはない”と振り返った。

力強く「勇戦」と大書する池田先生(1983年3月18日、大阪市の関西文化会館で)

 池田先生は時間を惜しんで、はがきや手紙にペンを走らせた。「一念に億劫の辛労」を尽くして祈り、会えない友とも心を結んだ。
 「立ち止まることもできず、手を振り、目で挨拶を交わしながら、心で題目を送った時もある。
 たとえ一瞬でも、心が触れ合えば、『仏縁』を結ぶことができる。ただ通り過ぎてしまえば、何も価値は生まれない」
 大阪支部は3月、広布の歴史で初となる“一支部で5000世帯以上”の弘教を達成する。
 
 魔も蠢動した。新聞が「暴力宗教」等と書き立てた。
 
 池田先生は、いよいよ勇み立った。“「三障四魔紛然として競い起る」だ。学会が正しい証明だ”
 迎えた5月、圧巻の金字塔となる1万1111世帯の弘教を成就したのである。
 そして、師弟の無限の力を証明し、「“まさか”が実現」と世間をあっと言わせた、参院選の大阪での大勝利。偉大なる歴史を今、世界中の同志が、小説『人間革命』第10巻を通して学ぶ。
 常勝の「カンサイ・スピリット(関西魂)」は、世界のあの地この地で、試練に立ち向かう友の心に「勇戦」の炎をともしている。​


(2020年4月27日 聖教新聞)







Last updated  2020/04/27 02:00:04 PM
2020/04/22

​​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」
第2回「御書全集の発刊」

御書の発刊後、幸福の哲学を求める声はさらに広がり、戸田先生は1953年11月に再版を決定した。教学部の代表として校正に当たる池田先生
 「御書根本」こそ、難を乗り越え、勝利の道を開く、学会の永遠の魂である。


 1951年(昭和26年)5月3日に第2代会長となった戸田城聖先生は、翌6月、早くも『御書全集』の発刊を発表する。


 “戦時中の弾圧で幹部が退転したのは、教学がなかったからだ。
広布を進めるためには一人一人が御書を心肝(しんかん)に染(そ)め、揺るがぬ信心を築く以外にない”――これが、戸田先生の結論であった。


 池田先生は、依然厳しい状態にあった師の事業の一切の責任を担いつつ、御書発刊を黙々と支えた。連日連夜にわたる校正作業を経て、52年(同27年)4月28日、立宗700年の日に御書全集は発刊。発願から、わずか10カ月の短時日で、約1700ページに及ぶ「希望の経典」が完成し、同志の手に届くことになった。
戸田先生が池田先生に贈った御書。

「山を抜く 力はみちたり 若き身に 励み闘(たたか)へ 妙法の途(みち)に」との和歌が力強い筆でつづられている
 発刊からまもなく、師は弟子に御書を贈った。その見返しには、戸田先生が書いた一首が残る。


 「山を抜く 力はみちたり 若き身に 励み闘へ 妙法の途に」


 「山を抜く」とは、山を抜き取るほど力が強大であるとの意味。“ますます行学を深めて、広布の実現へと勇み戦え”との、最大の期待と激励だったと拝せよう。


 御書の「発刊の辞」に、戸田先生は「剣豪(けんごう)の修行を思わせるが如きその厳格なる鍛錬(たんれん)は、学会の伝統・名誉ある特徴となっている」と。その言葉通り、厳しき教学研さんの薫陶(くんとう)を受け切ってきたのが、若き日の池田先生だった。


 当時の日記には、「御義口伝」「立正安国論」「観心本尊抄」「生死一大事血脈抄」など、恩師から教授された御書の数々が記録されている。師の自宅や就業前の職場、また、移動中の列車の中でも日蓮仏法の深義が伝えられた。


 「ある日、先生は、横になってお休みであったにもかかわらず、『よし、やろう!』と言われて、快く教えてくださったこともある。しかし、私に少しでも真剣さが欠けた時には、先生は言下に叱咤(しった)された。『やめた! 私は機械じゃないんだ』」――池田先生は、こう回想する。「火花が散るごとく、全精魂を傾けて、師から弟子へ、生命から生命へ、日蓮仏法の真髄を伝授してくださったのである。有り難い師匠であった」


 池田先生は、師から打ち込まれた「御書根本」の精神で勇戦の指揮を執り、広布開拓を続けた。


 御書は今、英・仏・西・中など10言語以上に翻訳(ほんやく)され、人々に希望を送る。「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事をひたすら祈念して止まぬものである」(戸田先生の「発刊の辞」)との念願は、余すことなく実現したのである。​​


(2020年4月22日 聖教新聞)







Last updated  2020/04/22 06:58:47 PM
2020/04/14

​​第3代会長就任60周年記念 
​師弟凱歌の記憶 第1回 戸田大学の薫陶​

 来る「5月3日」、池田先生の第3代会長就任60周年を迎える。世界広布を開いた“凱歌の記憶”を、資料を通してたどる。
                                                                ◆◇◆ 
 師弟の出会いから約2年半。
 経済がどん底に落ち込み、戸田先生の事業は最大の難局を迎えていた。1950年(昭和25年)の年頭、師は一人頼る弟子に言った。「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」
 池田先生は、前年秋から夜学を休んで師子奮迅(ししふんじん)の日々を送り、師の会社を支えていた。同僚は次々と去っていく。「はい。先生のおっしゃる通りにいたします」
 まもなく、戸田先生の自宅で毎週日曜、御書や古今東西の小説を教材にした講義が始まった。やがてそれが政治、経済、歴史、漢文、化学と、万般にわたる個人教授、すなわち“戸田大学”になっていく。後に、会社の始業前に時間と場所を移し、数年間続いた。 ​​


 池田先生は緊張感に満ちた一対一のやりとりを振り返っている。
 ──ある日の漢文の時間。
 戸田先生が問うた。「『誠心を開き、公道を布く』という名句がある。その意味を言いたまえ」
 池田先生は、記憶をたどり、言葉を振り絞る。「誠意をば人びとに表現し、そして公明正大な道を広く行き渡らせることである」
 「だいたい、いいだろう」。恩師は笑顔を見せ、さらにたたみかけた。「出典は、どこだ?」
 「確か、『三国志』だったかと思います」
 戸田先生は黙って横を向いて、少しだけ頷いた──。
 峻厳な真剣勝負の授業であった。メモを取ることも許されなかった。「いかなる大学者、大指導者とも、いかなる問題であれ、自由自在に論じられる力を鍛えておくからな」。この恩師の心を池田先生は、全身で受け止めた。
 「私は戸田先生から、訓練を受けきった……その薫陶(くんとう)を受けたことが、私の青春の誉(ほま)れであり、幸福である」。不二の師弟の歴史は、校舎なき“戸田大学”から始まったのである。


(2020年4月14日 聖教新聞)










Last updated  2020/04/14 12:11:51 PM

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