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晴ればれとBlog

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覚え書き

2019.03.22
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カテゴリ:覚え書き

2009年3月22日に、楽天ブログの「晴ればれとBlog」を始めて、10年となりました。

3653日、日記記入率 96.4%、トータルのアクセス数 6366163


アクセスしていただいた方、コメントを送ってくれた方々に感謝です。

「冥の照覧」を信じ、自分らしく、最後に勝ちゆく人生を目指していきます。
これからも、創価の偉大さ、池田先生の指導を伝えていければと願っております。
今後とも、宜しくお願い致します。







最終更新日  2019.03.23 01:08:19


2010.06.10
カテゴリ:覚え書き

絶対勝利の原則

 

「法華経の兵法」
「湿れる木より火を出し 乾ける土より 水を儲けんが如く」
 強盛に祈り抜く決意の信心だ。

「異体同心」の団結
 上も下もない。師弟を根本として皆が平等である。

「師弟不二」の呼吸
 広宣流布の大師匠に心を合わせるならば力が出ないわけがない。
 道が開けないわけがない。
 師弟の一念のギアが噛み合えば無限に力が増す。

「行動第一」の同志
 皆が勝利の責任を担い一人立つ実践の師子である。

破邪顕正」の勇気
「いよいよ はりあげてせむべし」と敵陣に切り込む行動である。
「声仏事を為す」これが仏法の真髄だ。

「電光石火」のスピード
 組織の生命線たる連絡と報告を素早く、だらだらしない。
 打てば響くリズム

「負けたらあかん!」という勝利への執念
「やり切る!」「戦い切る!」







最終更新日  2010.06.10 10:01:13
2009.03.23
カテゴリ:覚え書き

  • — 「戦う心」でやっているか
  • — 「求道心」を奮い起しているか
  • —  部員さんの幸せを祈っているか
  • —  言葉使いは丁寧か
  • —  約束は守っているか
  • —  謙虚に誠実にやっているか
  • —  威張っていないか
  • — 「人ではない自分だ」との自覚でやっているか
  • —  自らの人間革命に努力しているか
  • —  勉強しているか






最終更新日  2009.03.23 13:09:14
カテゴリ:覚え書き
幸福の6条件

 1—「充実」
 2—「深き哲学をもつ」
 3—「信念をもつ」
 4—「朗らか」
 5—「勇気」
 6—「包容力」


 日蓮大聖人は仰せである。
     「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書970頁)—— 
 一生むなしく過ごして、万年の間、悔いてはならない——と。

     人生いかに生きるべきか。どう生きることが、一番価値があるのか。

 日本の著名な作家の言葉に「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのはくるしきことのみである——と。人生も事実、そのとおりかもしれない。

 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて、楽しいことのほうが多かったのか、それとも苦しみのほうが多かったのか、その結果によって幸・不幸を決めるしかないのかもしれない、と語っている。
  どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。愛別離苦は避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人はたくさんいる。美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。

  いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。これが人生の根本問題であり、永遠に追及すべき課題である。これを解決したのが仏法であり、信心なのである。

 結論的にいえば、幸福は自分自身をどう確立するか、という問題である。立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。揺るぎない「絶対的幸福」ではない。
 どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、苦しみを感じていれば、不幸である。

  最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。皆がうらやむような有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。
 幸福は、“見かけ”のなかにはない。“見栄”のなかにはない。自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。

  それを前提に申し上げれば、幸福の第1条件は「充実」であろう。

 「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」——毎日が、そのように感じられる人は、幸福である。多忙であっても充実感がある人のほうが、暇でむなしさを感じている人より、幸福である。

 私どもの場合、朝起きて勤行をする。いやいやの人もいるだろうが(笑い)、勤行をすること自体が偉大である。勤行は、いわば大宇宙を見わたし、見おろしていく荘厳な儀式である。宇宙との対話である。
 御本尊に向かって勤行・唱題することは、わが生命の夜明けであり、太陽が昇ることであり、このうえない生命の充実である。この一点だけでも、私どもは幸福である。

  幸せそうに見えても、朝から憂うつな気分で1日をスタートする人もいる。朝、奥さんに叱られ(笑い)、「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と(爆笑)。ふさぎこんで1日を出発する——これでは不幸である。充実はない。

 朝だけとっても、私どもは最高に充実した、価値ある人生となっている。
  そのうえ、だれよりも立派に仕事をし、生活を勝利しきって、あまった時間を「法のため」「広宣流布のため」「人のため」「社会のため」に使っている。
 “根性曲がり”の人間が多い末法にあって(笑い)、苦労しながら、ただ相手の幸福のために、祈り、足を運び、心をくだき、面倒をみておられる。
 まさに菩薩であり、これほど偉大な「哲学ある人生」はない。最高の哲学を実践し、弘めておられるのが皆さまである。

 それだけの価値ある哲学をもったということ——それ自体が幸福である。
 幸福の第2の条件は「深き哲学をもつ」ことである。

  第3に「信念をもつ」ことである。何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
 これは世界的傾向である。このままでは、人間は混乱と退廃に向かう以外にない。そのなかにあって、皆さまは「最高善」の仏法を奉じ、その教えを実践しぬいておられる。

 日蓮大聖人の仰せに「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書233頁)
    ——結局のところは、諸天もわれを捨てたまえ。諸難にもあえ。身命をなげうとう——と。

 “日本国の支配者の地位をゆずろう”というような誘惑、“父母の頸をはねるぞ”というような脅迫に紛動されてはならない、と。
  何があろうと、大聖人の言われるままに、厳然と「信念」を貫くことである。そういう「信念」のある人が、必ず幸福になる。それが皆さまである。

 第4に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。

「いつも文句」「いつもグチ」——それでは自分も周囲も不幸である。いつも前向きに、はつらつと生きている。

 人にも「あの人と会うと元気がでる」「気持ちが明るくなる」と言われる朗らかさがある。その人は幸福である。
 いつ会っても、つまらなさそうな顔をして(笑い)、喜びも感激もない。それでは、人生は暗い。
 反対に、奥さんに叱られても「何か浪花節が聞こえるな」(爆笑)。子どもの成績が悪くても「将来、だんだんよくなる前兆だ」(爆笑)。たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、とらえていく。その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。

 すべて善意で受けとめるといっても、愚かな、お人よしになるという意味ではない。現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、実際によい方向にもっていくという「賢明さ」のことである。そういう「人格」をつくるのが、信仰であり、仏法である。そういう人格を築き上げれば、いかなる財産よりもすばらしい人生の宝である。

 第5の条件は、「勇気」である。勇気のある人は、何でも乗りきっていける。
 勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。

 第6の条件は、「包容力」である。包容力のある人は、皆に安心感をあたえる。

  小さなことで人を責めたり、いちいち騒ぎ立てたり、そういう心の狭い人は、皆を疲れさせるし、怖がらせる。
 リーダーは、怖がらせてはいけない。あたたかく、皆が安心して親しめる包容力がなければならない。大海のごとく広々とした心をもつ人は、自分も幸福である。周囲もこれらのすべての条件も、結局は「信心」の2字に収まっている。
 信心に生きぬく人生こそが「最高に幸福な人生」なのである。

  御聖訓に「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書788頁)と。
  このお言葉を、しみじみと実感し、晴れやかに証明する皆さまであっていただきたい。
   ( 『第21回SGI総会』 フロリダ自然文化センター 1996-08-23)







最終更新日  2009.03.23 12:37:09
2009.03.22
カテゴリ:覚え書き

 われわれの生命、われわれの体が即南無妙法蓮華経の当体である。
 したがって南無妙法蓮華経と唱えて人間革命に進むわれわれにとって、どういう姿が現代という時代をふまえてふさわしいのかを、明らかにしたい。

健康 health
信仰者はまず健康である、という厳たる証拠を示していきたい。
つまり健康即信仰をめざすべきであり、健康をそこねることは、本質的には妙法に反する。
もちろん生身の体である以上、体をこわすこともあるだろうが、つねに健康であろうという祈りをもって、わが生命のリズムを宇宙のリズムに合致させていく。
この祈りと規則正しい生活なくして、真の信仰とはいえない。

青春 youth
生涯、青春の気概で進もう。妙法はその根源の力である。
生涯、若々しい信仰を持続することによって、ほんとうの意味での若さである精神の若々しさを失わずにいけるのである。
そのためにこそ、信仰によって生命をみがくのである。

福運 fortune
人生に不可欠なものは福運であり、福運なき人生は、結局は悲劇に終わる。
福運ということは、生活を大切にすることであり、その姿勢がまた、福運を積み、助長していくことを銘記したい。
末法今時においては、福運を積む修行は唱題である。
荒れ狂う怒濤の社会にあって、生活を大切にし、唱題第一に進むとき、福運は、朝日の昇りゆくように、集積されていくであろう。

知性 wisdom
知性に欠ける人は、やはり社会の敗北者となろう。
仏法によって英知をみがき、知性を涵養し、社会の常識あるリーダーに育っていこう。その努力なくして一流の人生とはいえない。

情熱 passion
知性の持ち主であったとしても、人間的な感情の躍動のない人生は、生ける屍といっても過言ではない。
人生の大部分の幸、不幸というものは、パッションをもっているか、いなか、によって決まるものである。

信念 belief
信念なき人生、信念とする哲学なき人生は、あたかも羅針盤をもたず、方向を見失い、海原をさまよう船のような悲しい存在である。
今後の激動社会が暴風雨のごとく荒れ狂ったならば、信念なき人は、嵐に沈む船のごとくであろう。信念強き人のみが、悔いのない、勇んだ船出が可能である。

勝利 victory
勝利なくして、不幸な弱き人は救えない。
社会的な敗北者であっては、慈悲の行為にも説得力を有しない。
ここでいう勝利とは、あくまで社会、そして個々人の生活の真の繁栄に通じ、正義に根ざしたものである。


 以上の七項目の指針は、
 南無妙法蓮華経の七文字を実践する信仰者の具体的、現代的な人間革命の指標である。
 さらに七項目を包括する指針として
慈愛 mercy」をあげたい。
 たとえ名誉が、財産があろうとなかろうと、真実の法をもって、真実に人のために、社会のために尽くす人こそ、真実の"尊貴の人"なのである。

【広布第二章の指針第4集】より






最終更新日  2009.03.22 22:04:42
2009.03.20
カテゴリ:覚え書き

「彼岸」と「回向」の本義

日本では一般的に、春分、秋分の日を中心に前後各3日の合計7日間を「彼岸」として、墓参りや彼岸会などの法要を行い、先祖に回向する風習があります。
「彼岸」とは、仏教用語の「到彼岸」の略で、もともとは「悟りの岸に到達する」――仏道修行によって成仏の境涯に到ることを意味します。
 私たちの場合、仏法の本義に照らして、自ら仏道修行に励むことを前提としたうえで、春・秋の彼岸を先祖回向の機会としてとらえています。
また「回向」も、本来は自らが仏道修行を行って得た功徳を他の人に「回し向ける」という意味です。
 したがって、「彼岸」といっても、「回向」といっても、自らが正しい信心に励み、福運を積んでいくことが大前提となります。
 池田名誉会長は、「一人ひとりが広宣流布に戦い、成仏の功徳を得ていってこそ、父母をも成仏させることができる。また、父母が一生懸命、広布に尽力して亡くなった場合には、子どもに福運がいく。守られていく。その意味で、正しき”広宣流布の団体”創価学会にしか、真の追善はないのである」と指導しています。
 そういった意義を踏まえ、創価学会では、広布の尊い使命を果たして亡くなられた功労者や各家の先祖、友人など物故者の永遠にわたる福徳を祈念するために、各会館で春・秋の「彼岸勤行法要」、お盆の「諸精霊追善勤行法要」、月例の追善勤行法要などを行っています。
 こうした勤行法要は、追善回向にとどまらず、自身の信心の深化と広宣流布への決意を新たにしていく場ともなっています。
 創価学会の各種の追善勤行法要は、自身の成長のため、人々の幸せのため、地域の平和、繁栄のために汗している尊い仏道修行の積み重ねのうえに行われる法要であり、仏法の本義に、最も適っているのです。


朝晩の勤行で追善

 もちろん私たちの場合は、毎日、朝晩の勤行で「先祖代々ならびに会員・友人の先祖代々諸精霊追善供養のために」と祈念することが基本です。
 日蓮大聖人門下の一人であった曾谷教信が、亡き父の回向のため毎朝、自我偈を読誦してきたと報告したところ、大聖人は「これこそ真実の孝養なのです」(御書1051ページ、通解)と称賛されています。このように、故人や祖先への回向は彼岸などの”特定の時”だけに限られるものではありません。
 名誉会長は、「学会の法要こそが、大聖人のお心にかなった追善である。また『常盆』『常彼岸』といわれるように、年に数回だけでなく皆さまの毎日の勤行・唱題、そして日々の学会活動こそが、何よりの追善となっている」と述べています。
私たちの広布の活動こそが、何よりの追善となることを銘記していきたいものです。

“僧侶まかせ”は回向の本義に背く

 いうまでもなく、故人を偲び、先祖に回向すること自体は尊いことです。
 しかし、“僧侶に拝んでもらうこと”が先祖回向であるという錯覚が日本人の間に広まっていることが問題です。
 大聖人は「自分自身が仏にならないのでは、父母すらも救えないし、ましてや他人を救うことはできない」(御書1429ページ、趣意)と仰せです。自身の仏道修行をないがしろにして、回向を他人任せ、僧侶任せにすることは、回向の本義に背くものなのです。
それを「僧が祈らなければ故人は地獄に堕ちる」「塔婆をたてないと成仏しない」などと脅す日顕宗は悪の極みであり、仏法違背の“悪行坊主”の集団です。日顕宗にとって塔婆や戒名など、すべてが「金集めの道具」なのです。そうした悪縁に近寄ってはいけませんし、断固、破折していくべきです。
 私たちは、どこまでも仏法本来の彼岸、回向の意義を踏まえつつ“学会とともに広宣流布に邁進していく”使命の尊さを確認し、決意を新たにしていきたいものです。






最終更新日  2009.03.22 15:15:49

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