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晴ればれとBlog

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「潮」池田大作の軌跡

2009.04.08
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潮 2009年4月号 
ドキュメント企画 〈第二部〉 連載第八回
世界が見た真実 池田大作の軌跡

池田会長夫妻と東京婦人部-4



女性リーダーの育成
 戦後、女性は強くなった。
 政治や経済の動向も、もはや女性の支持なくして機能しない。相対的に男性が元気を失った感もある。
 その一方で、イデオロギー闘争に呑み込まれていった団体もある。売名、集票、集金……。女性運動の美名は、さまざまな思惑に利用された。
 池田会長は一貫して「女性は幸福に」と言い続けてきた。そのための運動でなければ無意味だと。女性の人生は長い。
 人それぞれだが、就職、結婚、出産、離婚などを経験すれば、そのたびに役回りが変わる。短いスパンでは、真の幸福は実像を結ばない。

 学会に女子大会というグループがある。女子大学の卒業生と現役生で一九六八年(昭和四十三年)に結成された。
 いかに池田会長が会員を長い目で見守ったか。その例をいくつか紹介したい。
 第一期の原田秀子。
 ある時、池田会長に指導された。
「大学に行った女性は、教育を受けることができなかった人のために尽していく責任がある」
学歴を立身出世の道具にするのが世の常。それを真っ向から否定した。
 第五期の笠貫由美子。
 結成当時は、まだ入会二年半だった。山梨県の六郷町(現・市川三郷町)生まれ。旧習の深い地域で、学会に対する偏見は強かった。
 結成式で意を決し、覚悟を述べた。
「トイレ掃除でも何でも構いません。先生のそばで働かせてください」
「私のところは大変だよ。一年三六五日、会員のために尽くし抜くんだ。身体は丈夫かい?」
「ハイッ、よろしくお願いします」
 翌日、創価大学に呼ばれた。
「お母さんに手紙を書いたかい?」
母を気にかける暇がなかったことを見抜かれた。
「お母さんを大切にできない人が、どうやって他人を大事にできるのか。好きな物を買ってあげなさい」
 後に笠貫は学会の女子部長になる。
 任命の前、母に電話すると、こう言われた。
「田舎者の娘を、ここまでしてもらったんだ。池田先生と奥様に恩返ししなさい」
 同じく第五期の三井麻生。
 こんな場面を記憶している。七七年(昭和五十二年)、第四回女子大会総会が学会本部で行われた。
「未入会のご主人と結婚した人?」
 三井が場内を見ると、何人か手が上がった。前に呼ばれ、それぞれの思いを会長に話している。「こんなに大変だとは思いませんでした」という人ばかりである。
 池田会長は全魂で励ました。「どんな人と結婚してもいい。ただ、信心根本に福運をつけるしかない。どんなことがあっても、私は皆さんを絶対に見捨てません」
 三井は感激した。学生時代の恩師をもつ人は多い。しかし、池田会長は大学を出て、社会で働き、配偶者のもとに嫁いでも、まだ見守ってくれる。
 それから十数年後、三井も山梨県に嫁ぐことになった。師から遠くなる。直接、報告する機会に、言われた。一生、一緒だよ!」
 恐縮していると、念を押された。「いいね!」
 会長が山梨を訪れる折、家族ぐるみで励ましてもくれた。
 二〇〇八年(平成二十年)三月、彼女は学会の婦人部長になった。

卒業アルバム
 創春会。創価大学に学んだ婦人部・女子部のグループである。
 責任者は三期生の大倉三佐子。
 一九七五年(昭和五十年)二月二十八日、創立者のいる信濃町の聖教新聞社に集った。
 厳しい指導だった。「決意は信用しない。二〇年後の姿しか私は評価しない」あえて谷底に突落とすような口調だった。
「創価大学みたいな美しい世界があると思ったら大間違いだ」
 一同、驚きを隠せなかった。一歩、社会に出れば、創価の看板を背負うことになる。
 嫌がらせを受けるかもしれない。だが誰一人として落伍者を出すな。道なき道を切り開け !
 大倉は卒業後、学会本部の職員になった。
 後年、池田会長の執務室に入った折のこと。
 机上に、一冊のアルバムが置かれているのを見た。
 見覚えのあるデザインだった。
 これは !
 創価大学の女子卒業生のアルバムだった。
 執務の合間に夫人ともどもアルバムを開く。顔と名前を確認しながら、近況を問い合わせる。伝言を託す。
 一〇年、二〇年、三〇年と、見守り続ける。

 遠い日、西神田の一隅で、日本の女性運動の将来を展望した。その一結論である。
(文中敬称略)
「池田大作の軌跡」編纂委員会






最終更新日  2009.04.09 00:15:17


潮 2009年4月号 
ドキュメント企画 〈第二部〉 連載第八回
世界が見た真実 池田大作の軌跡

池田会長夫妻と東京婦人部-3



琴の大演奏の陰で
 一九六八年(昭和四十三年)当時である。練馬区の井上綾子は香峯子夫人に琴を教えていた。
 月に一回、信濃町の自宅を訪問した。必ず玄関の軒先に立ち、丁寧に迎えてくれた。
 稽古の合間に、相談したことがある。学会の入退会を繰り返す会員がいた。それを強くとがめもせず「いつでも戻って来ていいのよ」と言っている幹部がいた。
 それでいいのだろうか。答えは明快だった。
「創価学会は、そんな簡単に戻って来られるところではありません」
厳しい表情である。井上はハッとした。優しいなかにも、善悪をハッキリさせる強さがあった。

 一九七二年(昭和四十七年)十月十二日。静岡県で「一千人の琴の大演奏」が行われた。その指導をしたのが、井上だった。
 成功させるため各地を飛び回り、練馬の家に帰れないこともあった。
留守宅を支えたのは、娘の良子である。病気がちな家人の面倒をよく見ていた。ジリリリリン……。

 練馬区の都営団地に住む井上宅の電話が鳴ったのは、静岡での行事が終わった直後だった。留守番の良子が受話器を取る。
「池田でございます」
 女性の声。池田 ? もしや……。
「創価学会の池田です」香峯子夫人からだった。
「今、お母様たちの演奏が終わりました。大成功でしたよ。お留守番、本当にありがとうございます」池田会長からの激励が伝えられた。だれもが大イベントの成功にわきたつなかで、陰で支えた存在を忘れなかった。

  余談だが、世田谷区の婦人部幹部が、香峯子夫人に、区内の成城地域の発展ぶりを伝えたことがある。成城といえば、企業の重役や、芸能人などが多く住む街で ある。学会員にも、そういった人たちが増えてきたことを報告した。華やかな話題だけに、少し得意げであったかもしれない。
 意外な反応が返ってきた。「そういう方々が現れる前に、その地域を支えてきた方は、どなたですか」虚を突かれた。その通りだ。華やかな発展の陰には、必ず地道な努力がある。
 世田谷の幹部は、成城八丁目の都営団地に住むメンバーのことを報告した。
 そのメンバーに記念の品が届けられたのは、数日後のことである。

「どうか学会の組織からは離れないでください」

「不退転」の揮毫
 練馬区の山本典子の家で開かれた座談会に、婦人部員が続々と集ってきた。
一九七九年(昭和五十四年)三月十七日。香峯子夫人が住宅街の路地を抜けて、山本宅を訪問した。
「こんにちは」
 場内がわく。話題は豊富だった。子息たちのこと、信仰の姿勢、池田会長のエピソード…。
 静かな口調で語りかける。すると、話を遮るように、ある婦人部員が手をあげた。山本はドキッとした。ふだんから、学会を斜めから見ていて、ちょっとくせのありげな人だった。
「みんな、池田先生、池田先生と言うけど、私は、そういうふうには思いません」
 しまった。不安的中である。
「そうですか。いいんですよ。ただ……」
 香峯子夫人は笑顔を崩さない。
「好きとか嫌いとかではなく、会長は、創価学会の責任者として指揮を執ってくださっています。使命は皆さんを幸せにすることです。どうか、学会の組織からは離れないでくださいね」
 山本は胸を打たれた。押しつけがない。好きでも嫌いでもいい。使命は会員を幸せにすること。しかも即座に。とっさに考えて出てくる
言葉ではない。終了後、山本は用意していた色紙を出した。
「何か指針となるものを、お願いします」
「私は主人ではないので」と一度は断った。しかし、山本たちの熱意に押され、恐縮しながらサッとペンを走らせた。
「不退転」
「七つの鐘の総仕上げの年」との言葉が添えられていた。

 第三代会長を辞任するニュースが流れたのは、翌月の二十四日だった。
 山本は呆然とした。
  大変な時期に、練馬に来てくれたのか。
  不退転揮毫を見つめ直した。

蘭のしおり
 香峯子夫人が、地元の新宿・須賀町地区の婦人部総会を訪れたのは、一九八五年(昭和六十年)一月二十七日である。
 冬空がくっきりと澄みわたる昼下がりだった。会場の焼き肉屋「カウベル」の三階に、二〇人ほどの婦人が集まっている。
 夫人の出席が伝えられたのは開始直前だった。地区婦人部長の田代正子は驚きと感激を抑えきれない。香峯子夫人は徒歩で会場を訪れ、参加者に深々とお辞儀した。
「創価学会の池田でございます。いつも大変にお世話になっています」
 外部の友人も参加している。緊張した空気がパッと和んだ。
 高齢者の話に熱心に耳をかたむける。夫の信仰への無理解に悩む婦人には、懇切に言葉を掛けつづけた。さっと和やかな視線をあげた。
「皆さんのお手元のしおりに、蘭の写真がありますね。一六種類あって、どれも生き生きとした素晴らしい写真です」
しおりは全国各地の総会で参加者に配られているものだった。みな思い出したかのように、手元に目を落とす。
「この写真には、世界中を足しげく通い、時には崖っぷちの高所で命懸けの撮影をするカメラマンの努力があります。だから感動を与えてくれるんですね」
 小さなしおりの中の蘭は、清楚な中に凛とした強さをたたえていた。
「私たちの活動も同じです。一人の人を思って、足しげく通う。その真心は絶対に通じます。だから、自分自身がこの蘭の花のようにみずみずしく輝くんです。一緒に頑張りましょう」
 田代は、あの凛と咲き誇った蘭のしおりと、香峯子夫人の笑顔が二重写しになって忘れられない。
今、武蔵野から多摩地域までの広大な地域をあずかる「第2総東京」の婦人部長として奔走する。

 会長の海外渡航中も、心は一緒に戦っていた。

 世界からの名誉称号
 池田会長が、海外訪問をスタートするのは、一九六〇年(昭和三十五年)の十月である。
 歴訪中に体調を崩したこともあり、六四年から香峯子夫人も同行するようになる。
「将来、海外に行くようになったら、香峯子を連れていけ」とは、恩師の言葉でもあった。それまでの留守中、香峯子夫人は、どんな心境だったか。
 山浦千鶴子には、忘れ得ぬ記憶がある。
 会長が渡欧した六一年(昭和三十六年)の十月。
「お留守見舞い」に、大田区小林町の自宅を訪問した。
 小さな子どもを抱えた香峯子夫人。毎日、二時間、三時間、仏壇の前に端座して題目をあげているという。山浦は、会長一行の無事故を祈っているのかと思ったが、それだけではなかった。
「主人は海外に行くたびに大きくなってか帰ってくる。
 いい加減に過ごしていると、その境涯に、追いつかない。だから必死にお題目をあげているの」
 山浦は述懐する。
「先生の海外渡航中も、心は一緒に戦っていらした。それが奥様でした」

 今、世界中から池田会長夫妻に顕彰が相次ぐ。大連大学副教授の劉愛君(りゆうあいくん)は分析する。
「池田先生は、非難中傷の激動の人生を歩んできました。普通の人なら耐えきれない。愚痴も言わずに香峯子夫人が支え抜き、夫妻で乗り越えてきたからこそ今の評価がある」
 劉は一九九八年(平成十年)夏、研究のために二カ月間、大阪に滞在した。
 そこで大阪の学会員と知り合いになり、聖教新聞を読むようになる。こんな日本人がいたのか。
 池田会長の著作を読むたびに、驚きは増すばかりである。
しかし、中国では出会ったことのないタイプの思想だった。果たして本当に実践できるものなのか。きれいごとではないのか。半信半疑だった。
 その後、大連で活躍する学会員を通じて、池田哲学を本格的に学びはじめた。
 二〇〇七年二月、遼寧師範大学「池田大作平和文化研究所」の一員として、創価大学など八つの施設を訪問した。
 どこの会場でも、平凡な庶民が平和や哲学をテーマに堂々と語り合っている。
仏法の世界観、人生観が確立している。
 思想が民衆に息づいている! 別の会場の展示では、池田会長夫妻の半生を知った。
「池田先生と香峯子夫人の関係は、周恩来総理とトウ穎超女史の関係に似ています。まさに戦友なのだと」

 再び、新宿区の料理屋に場面を戻す。
 矢口小学校の同窓会も終わりに近づいてきた。
 参加者の一人が口を開いた。
「この前の聖教新聞、見た?」
 小学校を卒業して、六〇年以上がたった。お互い、だいぶ髪は白くなった。
「かねちゃんが中国の大学の名誉教授になったんだって。すごいわね。名誉会長と結婚して、かねちゃんも幸せだったね」








最終更新日  2009.04.09 00:12:17
潮 2009年4月号 
ドキュメント企画 〈第二部〉 連載第八回
世界が見た真実 池田大作の軌跡

池田会長夫妻と東京婦人部-2


児玉隆也のインタビュー
 この連載も四年目を迎えた。
 読者からの声や要望が数多く寄せられるが、その中で、池田会長の香峯子夫人(SGI名誉女性部長)について知りたいという要望が後をたたない。
 当連載の主眼である池田会長の実力像に迫るためにも、欠かせないテーマである。
 婦人部の草創期を切り開いてきた一人でもある。本稿では、その横顔の一端を紹介したい。

 週刊誌「女性自身」の副編集長(当時)・児玉隆也が信濃町を訪れたのは、一九六八年(昭和四十三年)の年の瀬であった。
 一年間の交渉を経て、やっと叶った香峯子夫人のインタビューのためである。「池田」と表札に書かれた門のくぐり戸を入る。敷石には打ち水がされている。数歩で玄関に着く。質素な家である。
「いらっしゃいませ」。静かな笑みをたたえた夫人に、応接間へ案内された。

 濃い赤地に、更紗模様風のプリントのあるツーピースを着ている。
 ごく普通の、どこにでもいる中流家庭の奥さんという印象を受けた。
 聞きたいことが山ほどある。何しろ、今までメディアに出たことは、ほとんどない。児玉のインタビューは四時間に及んだ。
 結婚の経緯、三人の子息の母として、一千万の会員を持つ指導者の妻として……。
 夫である池田会長は会員から渇仰されている。不安はないか。「私は池田の妻であると同時に、一学会員でもございます」
夫人が姿勢を正した。
「家にいるときは妻でも、一歩外へ出ましたら、一般会員と同じ気持ちで会長を見ます。会長就任の日に、この人は、もう、私ひとりの主人ではない、と決意しましたから」なるほど……。
 会長就任の日、夫に「今日は、わが家のお葬式だと思っております」と告げただけはある。
 少し意地の悪い質問をしてみた。
 創価学会は短期間で教勢を拡大した。多少なりとも、強引なやり方があったのではないか。
 事実、児玉の母が近所の学会員に折伏された時、入らないと罰が当たると言われていた。香峯子夫人の答えは。
「会長は、常識豊かな行動というとを常に強調しています」
児玉は記者としての眼力には自信がある。多くの取材現場を踏み、後には首相・田中角栄を失脚に追い込む潭身のルポも、ものにする。
 少しのごまかしも逡巡も、表情や仕草に必ず出る。ところが、目の前の夫人は毅然としている。
「社会の人から慕われ、好かれ、尊敬される人にならなくてはいけない、と口を酸っぱくして繰り返しています」

矢口小学校の同窓生
 東京・新宿区の料理屋に、よそゆきの服を着た女性が集まってきた。
 懐かしげに、若かりし日を振り返っている。
 二〇〇八年(平成二十年)六月。
 大田区の矢口小学校六年三組の仲間たちだった。香峯子夫人の母校である。
「そういえば、最近、かねちゃんは、どうしているのかしら」
 いつも話題の主役になる。世田谷の学会員・佐藤きよ子が反応する。
「すごい元気よ。今回も忙しくて来られないって」
「そうなんだ。かねちゃんも相変わらず頑張っているわね」

 佐藤きよ子は、小学校の六年間、香峯子夫人と同じクラスだった。学校帰りによく家に寄って、小説を借りた。勉強も教えてくれた。正義感が強く、心優しい。クラスの憧れの存在だった。
 卒業後の進路は分かれ、戦争中は、それぞれ疎開した。
 戦後、佐藤とつは世田谷に嫁ぎ、やがて学会に入会する。
出産で実家に戻ると、同窓会の通知が届いていた。十数年ぶりの学友との再会。知らないうちに同窓会が回を重ねていたようだ。
 この同窓会は「睦会」という。もともとは、香峯子夫人が道筋をつけたものだった。だが、そこでの参加者は決まって、いぶかしがった。「かねちゃんも、何であんな大変なところにお嫁に行ったんだろうね」
学会への批判が強いころである。
 偏見に満ちたイメージを信じ込んでいる同窓生も多い。佐藤は悔しかった。

 優しいなかにも、善悪をハッキリさせる強さがあった。

 もう昔の「かねちゃん」とは違うんだ。いったい、どれだけ大変な人生を生きてきたか、誰も分かっていないー。
 参謀室長の家へ目黒から東急目蒲線(現目黒線・多摩川線)に乗ると、矢口渡駅は終点・蒲田のひとつ手前である。
 戦後は駅のそばにバラック小屋が点在していて、古川乃子が嫁いだ家は、六畳と四畳の二間のみ。天井がない。雨になると、たちまち家中が水びたしになる。
 一九五二年(昭和二十七年)に、二月闘争と呼ばれる弘教の波が蒲田に巻き起こり、やがて古川の貧乏所帯も入会した。
 学会の組織は草創以来、紹介者との縁故でつながる「タテ線」で成りた立っていた。
 そこに五五年(昭和三十年)十月、地域ごとのまとまりである「ブロック制」が導入された。これを「タテ線」に対して「ヨコ線」と称した。
「ヨコ線」の名簿を渡された古川は一軒一軒、部員掌握のため、たずねていった。
「ブロックで来ました」と告げるのと、「ブロック塀なんか頼んでねえ」と即座に追い返された。
 名簿の中に一度も座談会で目にしたことのない人物の名があった。
「池田大作教授参謀室長」参謀室長?
 当時の古川は、学会で、いちばん偉いのは支部長だと思っていた。
さっそく家庭訪問しなくちゃ。家の戸を勢いよく開けると、清楚な夫人が出てきた。
「こちらは池田さんだね。創価学会は会合に出ないと幸せになれないんだよ。今度、座談会があるから、旦那によく言っといてよ」
いつものくせで、がらっぱちな口調である。
「わざわざ来てくださり、ありがとうございます。よく主人に伝えておきます」
 夫人に折り目正しくあいさつされ、古川は面食らった。

 五六年(昭和三十一年)四月四日、水曜日の夜である。座談会を開く拠点の雰囲気が違う。
 どうしたのだろう。いつも偉そうにガミガミ怒る部隊長でさえも、かしこまっている。
 玄関先で声がした。「こんばんは、池田です。いつもお世話になっています」 りゅうりゅうとした和服姿で、池田室長が現れた。
 ちょうど「大阪の戦い」の渦中である。
 二日に夜行列車で帰京したばかり。八日には、大阪・堺の二支部連合総会が控えていた。座談会の前にも、その運営について、詳細な指示を関西に与えていた。
 そんな事情など知らない古川。
 約束を守って来てくれたことに跳び上がらん思いだった。
 あの人こそ戸田会長が懐刀と頼む人であること。あの二月闘争の指揮も執っていたことを知るのは、後年のことである。
 私は、なんてことを…。
 家庭訪問の時のことを思い出し、顔が真っ赤になった。と同時に思った。それにしても、すばらしい奥様だ。会長の名代としてこれを機に、古川乃子は、香峯子夫人と家庭訪問に歩くようになった。
 だれもが素直に話を聞いてくれるわけではない。古川が行くと、いつも怒鳴られる家があった。酒ぐせの悪い壮年がいる。
 入口で戸を叩く。
「なんだい」。例の男が出てきた。
 決まりが悪いので、香峯子夫人の後ろにかくれ、「よっ」と手を軽くあげた。
 男の息は酒臭い。また来たかという顔をしている。
「池田でございます」
 初対面の香峯子夫人は丁重に腰を折った。
「俺は創価学会が嫌いなんだよ」
 いつもなら、そこでしゅんと立ちさちが去ってしまうが、香峯子夫人は違った。「そうでございますか。あなたにも必ず分かるようになります。あなたのことを祈っています」
 短い言葉だが、ぴしりと確信がある。あまりにも爽やかである。
 酔っていた男の目が、一瞬、正気に返った。
「それでは」と、すぐに退出した。
古川が急いで後をついていく。夫人が振り返った。
「古川さん、どんな人にも誠実に、相手の立場になって考えることが大事よ。あと、親しき仲にも礼儀あり、です」
 そんな道々、教えてもらった。「これから創価学会はどんどん大きくなるから、戸田会長に指導を受ける機会も少なくなるわ。だから、私たちが会長の名代として、会長の手足となって家庭訪問に歩くのよ」
 会長の名代 !
 そういう自覚で活動をしていたのか。今まで、折伏の成果をあげるこはとばかり考えていたことを恥じた。

 空を夕闇が包み始めている。
 古川乃子は、しょぼしょぼと下を向きながら、蒲田駅から矢口渡に歩いていた。
 婦人部の幹部に叱られた直後だった。女のくせに、なんで班長の代理をやっているのか。本来は壮年の役職じゃないか。もっと夫に活動させたらどうなの。
そうは言われても、ギャンブルに明暮れていた亭主が真面目に働き出したこと自体が大功徳なのに……。
 ふと気がつくと、香峯子夫人が向こうから歩いてきた。
「どうしたの?」
 夫の仕事が忙しくなり、女性の自分が班長の役割も担っている。自分は間違っているのではないか。
「古川さん、人は何とでも言うのよ。ご主人に働いてもらうために、あなたが班長の代わりをやっているんじゃないの。だから、気にしないで」
 うなだれていた肩を、ポンと叩かれた。

目黒班の折伏
 東京の信濃町で懇親会が開かれていた。並みいる大幹部の中で、目黒区の土肥多賀子は平凡な支部幹部である。
 場違いのような気がして、少し離れたところで、ぽつんとしていた。
 一九九九年(平成十一年)六月十六日である。
 彼女の不安を吹き飛ばしたのは、香峯子夫人の笑顔だった。
 会場に入ると、真っ先に自分のところに歩いてくる。
「お久しぶりです。お元気ですか」
「はい !」
「藤永さんもお元気ですか」
「藤永さん、ですか?」言われて思い出した。それは、四○年以上も前に折伏した友人の名前だった。

 広島県出身の土肥が上京したのは、一九四九年(昭和二十四年)。
 同郷の友人から紹介され、GHQ(連合国軍総司令部)で働く。
 食糧難の時代で、物資が豊かなGHQは、あこがれの職場だった。
 入会後、職場で知り合ったアメリカ人と結婚した。
 一九五六年(昭和三十一年)、蒲田支部目黒班の班担当員だった香峯子夫人と出会う。
 土肥は、友人の藤永初枝のもとへ一緒に仏法対話へ向かった。
藤永は国際結婚すべきか悩んでいる。土肥も対話を重ねてきたが、最後の決着がつかない。
 しかし不思議なことに、香峯子夫人が話し出すと、みるみる藤永の表情が変わっていく。
 ほかの幹部のように罰論で脅かすわけではない。大声を張り上げることもない。いつものように静かな口調だが、心を開いていく様子が手にとるように分かる。
「この仏法で、必ず幸せになります。一緒にやりましょう!」その場で入会が決まった。

懇槻会で夫人と再会した土肥。
 大勢の中から自分をぱっと見つけてくれたこともうれしかったが、瞬時に藤永の名前が出たことに、心底から驚いた。
 出会った人は忘れない。ひとたび仏縁を結んだ以上、責任をもって、その人が幸福になるように祈っていく。
 あの日、不思議なほど友人の態度が変わった理由がのみこめた。

大田区。品川区。目黒区。
 かつての東急目蒲線の沿線には、蒲田支部目黒班時代の香峯子夫人の足跡が多く残っている。
 武蔵小山駅の駅前で駄菓子屋を営んでいた宮田兼之。
 蒲田支部の小山班だった。
 一九五五年(昭和三十年)の夏、二人の子どもを連れ、質素な服装の婦人が店に入ってきた。池田室長の奥様だ!
 近所の腕白坊主ばかり相手にしてしつけいるが、二人の男の子は、躾が行きとどいていた。
 "うーん、どうも、ほかの婦人部の人とは違うなあ"
 小山班は隣の班だったが、組織の枠を超えて、会合に来てもらうこともあった。








最終更新日  2009.04.09 00:09:17
潮 2009年4月号 
ドキュメント企画 〈第二部〉 連載第八回
世界が見た真実 池田大作の軌跡

池田会長夫妻と東京婦人部-1



 戦後、西神田の小さな出版社で、青年は世界一の婦人団体を展望した。

日本婦人新聞の記者
 取材先から職場に急いでいた新聞記者が、西神田の街角で呼びかけられた。
「塩田さん!」
 記者が振り向くと、知り合いの青年である。仕事柄、いつも時間に追われているが、この青年との何げない会話は気が休まる。

「きょうは、どんな取材だったんですか」
「いやあ、インタビューが意外と手こずってね……」
 いつものように話しながら「日本正学館」の看板が掛かった建物の中に二人は消えた。
「塩田さん」と呼ばれた記者は、評論家の塩田丸男。
一方の青年は、若き日の池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長である。
 塩田は一九四九年(昭和二十四年)当時、池田青年と連日のように顔を合わせていた。中国から復員後、しばらく、ぶらぶらしていたが、四八年(昭和二十三年)に日本婦人新聞の記者になった。
 その編集室が一時期、戸田城聖が営む日本正学館の屋根裏に身を寄せていたのである。
 日本婦人新聞。
 戦争が終わってから、女性の解放を目的に創刊されたオピニオン(主張)紙である。女性のために生まれた、日本で最初の新聞といわれる。後に参議院議員になる市川房枝が顧問だった。婦人参政権運動のリーダーである。

 塩田たちは、取材のネタに困らなかった。なにしろ、今日もどこかで新しい女性団体が結成されている。そんなご時世だった。新日本婦人同盟。新日本婦人会。新生活協会。母子問題懇話会。婦人民主クラブ。民主婦人協会……。
 食糧難の時代である。駅前でエプロン姿の主婦がスクラムを組んでいた。気勢をあげてから「食わせろ」と書いたムシロ旗を立て、デモが始まる。
 政界でも三九名の女性議員が一挙に当選(一九四六年)し、国会の赤じゅうたんを踏んだ。
 しかし……塩田は、どうも違和感がぬぐえない。つい数年前まで、戦争を礼賛していた大衆が、まるで服でも着がえるとのように、社会運動に飛び乗っている。日本人は本当に変わったのだろうか? 
 女性に取材すると、たしかに手応えがある。しかし、問題は男性である。戦前とくらべ、さほど意識に変化があるとは思えない。
 いくら女性のためのオピニオン記事を書いても、そこに関心を寄せてくる男性など、まったくと言っていいほどいなかった。

 日本正学館には創価学会本部の機能もあった。塩田が、一階のガラス戸を開けると、L字型のカウンターがある。
 入って右側の壁を背に事務机が三つ。そのいちばん奥に戸田城聖が、どんと座っている。見るからに怖い。近寄りがたかった。
 戸田に限らず、出入りする学会員は、屋根裏の居候を気にも止めない。塩田も愛想がいいほうではなく、あまり口をきく機会はなかった。
 唯一の例外が池田青年である。会えば必ず向こうから声をかけてくれる。気さくで明るい。年下だが、しっかりしている。それに塩田の記憶では、池田青年がのんびり席に座っているところを見たことがない。

 いつも動いている。事務所から、さーっと出ていったかと思うと、ハヤブサのように戻ってくる。
 なにより驚かされたのは、会うたびに質問攻めにあうことだった。ある日は「塩田さん、いったい日本に婦人団体は、どれくらいあるんですか」。
 別の日は「そういう運動は庶民に根づいているのでしょうか」。
 各団体の中心者の横顔をたずねてきたこともあった。さらに、婦人新聞は何をめざしているのか。主な読者層は。発行部数は。女性記者の仕事ぶりは。
たいていは立ち話だが、真剣そのものである。塩田だけではない。彼の同僚である女性記者・春野鶴子。後に主婦連(主婦連合会)の副会長になる論客である。
 白いシャツに背広姿。短く刈り込まれた髪に黒縁のメガネ。いでたちも一風、変わっていた。
 春野も一階を通りかかると、カウンターのあたりで、よく池田青年につかまった。質問の端々から、丹念に婦人新聞を読み込んでいることがうかがえる。こんな青年がいるのか!塩田は、うなった。女性運動に、これほど誠実に向き合っているとは。

 ホウナンショウ?
 一方、このころの創価学会。
 戸田の地方指導があり、一行の中に、二人の婦人部幹部がいた。
 朝早い出発だったせいか、顔は腫れぼったく、髪もぼさぼさである。その顔を戸田がじっと見る。「君はしっかりと化粧しなさい。女性は女性らしく。おしろいがなければ、うどん粉だっていいじゃないか」もう一人は、運良く難をまぬがれたが、別の雷が落ちた。
「君は気が利かない。出発するならするで、普通は一本、電報を打つものだ」
 こんなエピソードも残っている。
 戸田会長が学会本部で女性の職員に声をかけた。「すまんが、ホウナンショウを持ってきてくれないか」
 勢いよく返事をして、部屋を飛びわ出したが、何のことかさっぱり分からない。ホウナンショウ?
 ほうれん草のことかしら。
 先輩の女性に相談した。
「戸田先生が、ほうれん草を持ってきなさいと……」「あっ、そう。それなら、おひたしでしょう」あわてて商店まで買いに行った。
 急いで厨房でゆでる。汗だくになって、おひたしを届けた。戸田会長は、おひたしと女子職員の顔を見て「はあ」と溜め息をついた。
 ホウナンショウ。
 当時の学会の栄誉の印である「法難賞」と知るのは後のことである。
 草創期の学会。女性リーダーといっても、必死に学会の活動についていくのが精いっぱいだった。

 貴婦人になれ
 下駄履きの婦人部員五、六人がソバ屋の暖簾をくぐっていく。
 一九五〇年(昭和二十五年)のある日、横浜の鶴見で座談会が開かれた。
 婦人たちは池田青年から夕食にソバをごちそうになった。食事を終えると、池田青年が口を開いた。
「皆さん、貴婦人になりましょうよ」皆、ぷっと吹き出した。
 なりふり構わず、折伏に明け暮れていた時代である。貴婦人と聞き、おしゃれに着飾ったハイカラな女性を想像した。お紅茶、お召し物……。言葉づかいも上品で、どう考えても別世界の話である。「いいですか。気どって、なんでも『お』を付けて話すような人が貴婦人ではありません」
 一同、ポカンとした。
「貴婦人とは、どんな身分の高い人とでも臆することなく対等に話せる人です」
 お互い顔を見合わせる。
「そして、どんな苦労している人であっても、分け隔てなく語り合っていける人。それが貴婦人です」ソバ屋の一角の、時ならぬ女性論に、誰もが聞き入っている。当時、池田青年は二十二歳である。若いのに、なんて立派な話をする人だろう。
 ちょうど日本婦人新聞の塩田丸男や春野鶴子をつかまえ、熱心に質問をしていた時期である。

婦人部を学会の柱に
 いっせいに報道陣が信濃町の学会本部に押し寄せてきた。当惑気味な顔の記者もいる。
 一九五九年(昭和三十四年)六月三日である。
 この日、正午過ぎに、参議院選挙の東京地方区で柏原ヤスに当確が出た。最終的な票に記者たちは驚く。
 一位、柏原ヤス。四十二歳。四七万一四七二票。二位、市川房枝。六十六歳。二九万二九二七票。

 市川房枝といえば、あの日本婦人新聞の顧問だった人物。戦後の女性運動のシンボルである。それが、学会の支援する柏原に、一七万票もの大差をつけられたのである。
 読売新聞で社会部記者や編集委員をしていた浅野秀満が語っている。
「柏原ヤスなんて、誰も知らない無名の一婦人です。まさか、一位で勝つなんて、当時の社会常識では考えられなかった」

 柏原は前回(一九五六年)、二〇万票余で落選している。
 それから三年で、二七万もの票を上積みした。
 年齢も、まだ四十代。六十代の市川と比べ、世代交代の感さえ抱かせた。
 いったい、この三年で何があったのか。

 この連載でも「東京首都は勝ってひとつになった」(『池田大作の軌跡』第二巻に収録)として詳述しているので、ここでは一点にとどめたい。
 すべては中心者である。
 柏原が敗北した選挙では、石田次男が指揮を執った。当時を知る幹部の証言。
「決して自分から話しかけてくるような人じゃない。気難しい。人間的に熱いものがなかった」
 特に相手が女性だと、さらに冷たい。なにごとも命令口調になる。職場でも、お茶くみぐらいしか仕事をさせない。当然、大きな意思決定の際にも耳を傾けない。大事なことは男がやるから、手を出すな—女性は萎縮させられた。
一方、東京が雪辱を果たした選挙では、池田会長(当時・総務)が主将だった。
一切の運動の基軸に、婦人部を置いた。
平凡な主婦が、社会に生き生きと声を上げはじめた。

 読売新聞の浅野。
「選挙というのは完全に男社会の仕組みでできている。自民党はもちろん、共産党ですらも、男性中心の仕組みで選挙をしてきた」
 学会は違った。演説会場。どこに行っても婦人部が、はつらつとしている。理屈っぽい話を女性は敬遠しがちだが、ここでは生活感に根ざした内容が多く、親しみがある。
「学会の場合は、池田会長によって、言論戦の仕組みが、女性中心に変わったように感じました。
 平凡な主婦層が生き生きと社会に声を上げれる。これには本当に驚いた」(浅野)

 戦後、急速に伸びていった学会である。ある意味で極端な男社会だった。早くから変革を試みたのは、池田会長である。
 東京の文京。女性支部長の田中都伎子が苦戦していると、支部長代理としてバックアップした。
 地方組織は、なおさら古い体質がこびりついている。福岡の八女でも女性支部長の田中シマ代が悩んでいた。ここにも応援に飛んでいる。
 九州では石田次男らの影響力が大きく、そこに昔ながらの男尊女卑の気風も相まっていた。
 いずれも戸田会長が「大作、行ってくれ」と直接、命じている。その抜きんでた力量を頼みとして、組織の体質改善をはかったのである。
 今日なお池田会長は、女性を見下す男性幹部に厳しい。けじめをつけさるため、きちっと頭を下げさせることもある。
 女性の声に丁寧に耳を傾ける。インチキを許さない女性の正義感、潔癖性を大切にする。重要な判断を下すとき、しばしば男性よりも女性の考えを選択する。

 日本正学館の職場のなかで、人知れず日本女性運動に着目していた池田青年ー。
 それから、わずか一〇年で、市川房枝すら抑えてマスコミを瞠目させる旋風を巻き起こしたのである。
 一九六〇年五月に第三代会長に就任するが、その四力月前の日記に綴っている。
「世界一の婦人団体、(中略)これ、創価学会婦人部の異名か」(一月十六日)







最終更新日  2009.04.09 00:05:35
2009.02.22
『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』を読んで
月刊「潮」掲載より


池田SGI会長の業績は日本全体の遺産。
佐藤優さとうまさる(作家、起訴休職外務事務官〕

創価学会への正当な評価を
 ソ連がそもそもなぜ創価学会を評価し始めたのかについてはっきりと言えば、日本共産党と旧日本社会党が頼りなかったからだ。ソ連がもっとも軽く見ていたのはぽう社会党左派である。社会党左派は貿えきそうさ易操作や様々なセミナーにより、ソ連から金をもらっていた。「我々から金を持ち出すような政党はろくな組織でない」とソ連は評価していたてまえた。建前で革命を叫び、労働者を組織すると言っていても、結局、銭金みくだが目的かと見下していた。
 次に違和感を持っていたのが日本共産党である。ソ連ではマルクス・レーニン主義など、誰も信じていなかった。時代に適合できないことが明白だからだ。ソ連共産党はマルクス・レーニン主義を建前として使っていた。だが、日本共産党はマルクス・レーニン主義を本気で信じていた。しかも、日本共産党幹部もある時期までかなりの額の金をもらっていた。
日本の中で、社会的に抑圧されている層を解放し、結集して社会問題に取り組んでいったのは誰なのか。どの組織なのか。ソ連が調べてみると、池田会長と創価学会の存在が浮かび上がってきた。創価学会は本来日本共産党がまとめるべき層をきちんと組織していて、かつ銭金をせびらない。逆に文化事業においては逆に金を持ち出しにするほどである。外交において、金銭を自前で持つということは当然の常識である。それをせずに外国にたかると、後で必ず証拠が出てくる。しっぺ返しを食らうものなのである。私はモスクワの日本大使館に勤務していたとき、旧日本社会党や日本共産党と同様、創価学会や公明党とソ連当局との交渉についても文書記録を丹念に調べた。だが、創価学会、公明党に関する金銭の授受の記録は一つもなかった。もちろん創価学会、公明党に関する記録はいくつかあった。
 例えばソ連共産党書記局がモスクワ大学名誉博士号を授与することに関して」決定した文書である。ロシア人が創価学会を尊敬したのは、金に対して潔癖だったからである。これほど親密に付き合えば、利権などの誘惑がたくさんあるはずだが、創価学会はそれに全く乗らなかった。だから、ソ連は創価学会を信頼できる組織で、かつ日本の民衆に真の影響力を持つ組織だと判断したのである。
 このことについては、私が指摘するよりもっと前に、上智大学の内村剛介ごうすけ名誉教授が指摘している。内村氏は著書『ロシア無頼』において、「ソ連が一番評価しているのは公明党・創価学会だ。そこを日本人はどうもわかってない」と指摘している。
 一部には、創価学会工作はKGB(ソ連国家保安委員会)がやっていて、創価学会はKGBによって操られていたのではないかとの誤解がある。だが、実際に創価学会を担当していたのは、KGBのような低いレベルの組織ではない。KGBを指導する共産党中央委員会が、創価学会との関係を強化する方針を定め、直接、関係を構築したのだ。三年ほど前、創価学会がシンポジウムを開催した際、クズネツォフ氏の回想が聖教新聞に掲載されたが、クズネツォフ氏というのは外務省出身ではなく、ソ連共産党中央委員会国際部の代表であった。創価学会はソ連の中枢と付き合い続けたのである。だが、それでいて創価学会はソ連に取まれり込まれなかった。きわめて稀な例である。
 問題は、日本の有識者や、ロシアの専門家たちが、池田会長とSGIがソ連・ロシアとの関係において果たした役割を等身大で見られなくなっていることである。創価学会の関連することになると、なぜ色眼鏡で見るのか。なぜ、事実関係をもとに正当な評価ができないのか。今後は、創価学会がやってきた事実を文書に残し、日本全体で共有することが重要になる。私はキリスト教徒なので創価学会に阿る必要はない。しかし、以下のことは一人の日本の宗教人として指摘したい。「日本の宗教団体である創価学会の業績は、創価学会の遺産であるとともに、日本全体の遺産でもある。だからたいせつにしたい」と。このようなごく当たり前のことを創価学会に関しては言えなくなっている状況がおかしい。
 宗教的偏見によって人を駈めるようなことは絶対に許してはならない。そんな国は国際社会で絶対に尊敬されない。具体的な反社会的事実や行動があるとしたら、批判すればいい。だが創価学会という組織であゆえるが故に、偏見にさらされ、不当に評価されるのは絶対におかしい。
 公明党が与党側にいると言っても、創価学会は日本社会の中では少数派である。創価学会に対する偏見が横行し続けるのならば、他の宗教的な少数派に対し、偏見に基づく抑圧が加えられる恐れが生じる。宗教的少数派であるキリスト教徒の私にとっても、それは他人事ではない。だから私は創価学会や池田会長を椰楡するような言説には与しない。








最終更新日  2009.03.23 11:45:10
『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』を読んで

池田SGI会長の業績は日本全体の遺産。
佐藤優さとうまさる(作家、起訴休職外務事務官〕

 本年二月十八日、池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長に対し、ロシア連邦「友好勲章」が授与された。ソ連時代に「ドゥルージュバ・ナロードフ(諸民族の友好)」勲章と呼ばれていたこの勲章は、思想・信条が異なる外国人に対しても、授与できるように制定された勲章である。
 政治家や政府関係者などで授与されることは時々あるが、文化人に対して授与されることは珍しいと言っていい。ロシアで最高レベルの勲章だ。このロシア連邦「友好勲章」が池田会長に授与されたということは、ロシア国家が池田会長の日ロ友好に対する貢献を高く評価しているということである。
 もう一点の「友好勲章」授与の意義は、プーチン大統領(当時)の下で大統領令が発布されているという点だ。プーチン大統領自身が、池田会長とはいかなる人物なのかを徹底的に調べさせて、池田会長の経歴や、ソ連・ロシアとの関係における貢献を知った上で授与しているのである。
 この関連で、聖教新聞紙上で紹介されている「各界の識者が推薦」という記事が興味深い。この記事に掲載されているロシアの識者は、ゴルバチョフ氏、アイトマートフ氏、セレブロフ氏、サドーヴィニチ氏、バブーリン氏である。ゴルバチョフ元大統領は池田会長と昔から縁がある。アイトマートフ氏も同じく池田会長と縁がある。同氏はキルギス人の作家で、ルクセンブルクの大使となった人物だ。セレブロフ氏は宇宙飛行士でロシア国家院(下院)議員だ。国民的人気の高い人物である。サドーヴィニチ氏はモスクワ国立大学の元学長だ。両者とも池田会長とは古くから縁がある。注目すべきはバブーリン氏だ。
 ロシア国家院前副議長のバブーリン氏は、「クリル擁護同盟」の代表者で、北方領土に対して、非常に厳しい立場を取っている人物である。ロシアにおける右派・保守派の中で非常に有力な政治家でもある。このバブーリン氏が推薦者として名を連ねているということは、ロシアが党派を超え、イデオロギーを超えて、池田会長を評価していることの表明である。その評価の表れの最たるものがプーチン大統領の発した大統領令と読み解くことができる。

ソ連外交を変えた池田会長の対話
 さて、この授与をどう読み解くか、である。なぜ、この時期に池田会長に叙勲したのか。
 私は、これを日ロ関係を本格的に改善したいというロシア政府のシグナルと見ている。領土問題についても何らかの調整をして、両国間の関係を改善し、洞爺湖サミット前に日本との提携を強めたいという意図が見える。その突破口になるのはどこかといえば、創価学会なのである。少なくともロシアはそう見ている。考えてみれば、両国間が困難な状況に陥った時、突破口を作ったのはいつも池田会長であり、創価学会であった。
 一九七四年、池田会長が初めてソ連を訪問したのは、中ロ対立が頂点に達していた時期であった。池田会長はコスイギン首相と会見し、コスイギンから「中国を攻めることはない」との言質を取り、中ロ関係改善に貢献した。この訪ソではその他にも大きな業績を残したことが、二〇〇七年十月に潮出版社から上梓された評伝『池田大作の軌跡』第二巻の「第五章ロシア共産主義の大国が驚いた外交戦」を読むとわかる。創価学会の惚口が、対日関係の「灰色の枢機卿」といわれたイワン・コワレンコ・ソ連共産党中央委員会日本課長であったことを明らかにしている。池田氏は、コワレンコを手玉にとつている。池田氏の巧みな働きかけによって、ソ連外交が左翼勢力を通じて、日本に革命を起こそうとする方向から、相互の国益を尊重する実務外交に転換したことが、この本から浮き彫りになる。
〈 池田会長は会見でコスイギンに直言している。
 「ソ連ロビーの人だけでなく、各階層の日本人と会ってほしい」
「日本人は、ソ連を怖い国 、恐ろしい国と思っています。これを変えなくてはいけません」
コワレンコには、さらにストレートに言った。「共産党系の人物と付き合っているだけでは、日本の実態も分からず、世論形成には何の役にも立たない。スタンスを変えるべきです。決断の時です。
時にはソ連にとって好ましくないと思う人物も招待すべきです」〉(『池田大作の軌跡』第二巻一六一-一六二頁)
 また、以前、私が『潮』(二〇〇七年十一月号)で述べたことだが、"コルバチョフの初訪日が暗礁に乗り上げそうになった時にも、池田会長が取り持った。「友好勲章」の授与には、池田会長の過去の実績に対する感謝の気持ちとともに、今後の対日戦略において創価学会を重視するというシグナルが込められている。
 では、ロシアにとって、創価学会が優れている点は何なのか。特にロシアの指導者層が抱いている創価学会のイメージから探ってみたい。
 旧ソ連時代、外国の宗教団体がソ連国内で宗教活動をすることは厳しく禁じられていた。ソ連は科学的無神論を国是とする無宗教国家であったからである。当初、創価学会と関係を持つことに対して、ソ連共産党内部でも当然警戒感があった。ところが、池田会長はソ連内での活動は文化・教育活動に留めると断言した。これはソ連共産党に遠慮しているということではなく、池田会長のもと大きな世界戦略に基づくものと私は理解している。
 世界が発展していく過程で、それぞれの国には、それぞれの国の事情がある。ソ連のように、無神論を国是に掲げる国家もある。だが、そうした国家に対しても、宗教人という存在が必ずしも有害ではないということを伝えていかなければならない。このようなことを池田会長は考えていたのではないか。平和運動や文化交流、人材育成などの分野で互いに役に立つことがあったら、ソ連とも協力し合うべきである。そこからソ連エリートが持っいる宗教への偏見が除去されるのではないか。ソ連の宗教政策が内側から変わっていくために、我々創価学会はまず宗教人として信頼されるようになる、というのが池田会長の戦略だったと私は見ている。
 このように考えると、池田会長がソ連崩壊後もゴルバチョフ元大統領との付き合いを続ける理由が見えてくる。ゴルバチョフがクーデターで失脚した後も、池田会長が人間的な付き合いを続けてきたことは有名だが、それは、一九八八年の「宣教千年祭」において、ゴルバチョフがソ連における宗教の自由化を実現したことを、池田会長が宗教人として高く評価しているからではないかと私は見ている。ゴルバチョフがソ連の民衆に、宗教への道筋を作ったことを非常に高く評価したからこそ、池田会長はゴルバチョフをことさら大切にするのではないか。
 ともあれ、池田会長は創価学会のソ連における活動を文化・教育分野に限定すると約束し、実践した。文化関連においては、音楽・美術を中心に交流を深め、教育分野においては、創価大学を表に出すという形式で、モスクワ大学と留学生の相互受け入れを行った。たとえば、現在の在日ロシア大使館のガルージン公使は創価大学の留学生である。
 ソ連は当時、一番優秀な人たちを創価大学に送り、現在、その成果が日ロ関係の第一線で花開いている。ソ連・ロシアは人材育成の組織として創価学会を高く評価している。ソ連が国内における信教の自由を認める道筋を作る際、宗教に対する根強い偏見もあっただろうが、創価学会の存在がその偏見を取り除く一助になったのだと思う。文化・教育という地道な交流がソ連に安心感を与えていたのではないかと思われる。(つづく)








最終更新日  2009.03.23 11:44:14
『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』を読んで
月刊「潮」掲載より

「池田思想」は人類共通の宝。
馬興国ま・こうこく(九州国際大学国際特別顛間、元遼寧大学副学長)

 四〇年前の一九六ハ年九月八日、池田大作SGI会長は、第十一回創価学会学生部総会の席上、日中国交正常化実現への提言をされた。歴史はすでに「池田提言」の偉大さを証明しており、私も中国人の日本研究者として、尊敬の念を禁じえない。
 本書『池田大作の軌跡』にもそのもよう模様が記されにいる。当時、社会党委員長・浅沼稲次郎氏は、演説で日中国交正常化に触れたところ右翼によって殺害された。そんな時代状況の中、池田会長は堂々と日中国交正常化を提言された。そこに私は池田会長の、真理と正義を守る偉大な勇気と行動力を見る。中国では「無私而無畏(私心がなければ、恐れることことわざがない)」という諺がある。池田会長も自分の利益ではなく、人類の利益しか考えていないから、偉大な勇気が出せるのだろう。私はそのころ、周恩来総理が創立された大連日本語専門学校(当時)の学生だったが、池田会長はまさに日中友好の開拓者であると思い感動したものだ。
 また同じく中国では「水を飲むとき、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」と教えられる。まさに池田会長は日中友好の開拓者であ"り、中国は極めて高く評価している。その証拠に、周恩来、トウ小平、江沢民、胡錦濤という四代にわたる中国の最高指導者たちが、池田会長と会見している。いま世界で他にそのような人物はいない。
 中国の指導者が池田会長と会うのは、もちろん過去の日中友好への貢献を称える意味もある。だが同時に、現代の日本において、多くの「池田大作」が日中友好に立ち上がってほしいというメッセージでもある。そして未来においても友好を結んでいきたい、と。池田会長もその気持ちに応えて、青年を中心とした訪中団を組織するなど、未来へ布石を着実に打っている。本書の一巻では、池田会長が訪中し周恩来総理と会見する場面も描かれている。周総理が重病をおして池田会長と会ったのは、日中関係の未来を委託する相手だと考えたからであろう。
『池田大作の軌跡』を拝読しながら、私は、六年前の池田会長との出会いを思い返していた。
 二〇〇二年四月一日、創価大学の第三十二回入学式にて、池田会長に中国・遼寧りようねい大学の名誉教授称号の授賞式が行われた。当時、私は遼寧大学の副学長として、池田会長を名誉教授として招聰したいと発案した。池田会長の世界における学術地位、あらゆる分野での業績、さらに素晴らしい人徳に魅了されていたからである。大学の学術委員会でも満場一致の賛成を得て実現に至った。授与式の前に、程偉ていい学長や私を含めた遼寧大学の一行は、池田会長と懇談する機会があった。私ははじめて会うので少々緊張していたのだが、池田会長は「やあ馬先生、あなたは日本研究でたくさん著作を出されてますね。すごいですね」と、昔から知っている親しい友人のように話しかけてきてくれた。本当に気楽になり、同時にその人格に魅了され、た。池田会長にとって地位や立場な微塵も関係ない。ただ平等の人間同士という関係があるだけなのだ。授与式で、池田会長の姿を見た学生たちは感激のあまり涙を流していた。池田会長のスピーチは、まるで祖父さんが優しく孫に語りかけるかのようなあたたかさであった。話の途中で、池田会長は髪の毛を辮めて長く伸ばした新入生を壇上に呼び、「こんな変な髪の毛ダメだよ。明日、散髪しなさい!」と言った。学生は感激しながら「はい!」と元気よく返事をする。さらに会場の学生たちに池田会長は「遼寧大万歳!」「創価大学万歳!」「親に万歳!」と呼びかけた。もし、自分が招待客という立場でなければ、学生の中に飛び込んで私も一緒に大きな声で笑い合い涙したかった。創価大学には池田会長が周総理を偲んで植樹した「周桜」がある。私が訪れたときも、学生らが音楽や詩を朗読するなどして歓迎してくれた。大学という教育の場に「周桜」を植樹したのは、池田会長が次世代の若い人たちに日中友好の心を伝えたかったからだろう。私は池田会長の心のあたたかさ、人間性を感じ、涙が溢れたことを覚えている。
 現在、中国の青年の多くは池田会長を尊敬している。それは中国で日本のことを教える人々が皆、池田会長の功績について触れるからだ。池田会長の平和思想と人間思想は日本だけではなく、中国を含めた世界各国の国民から理解されている。まさに「池田思想」は人類共通の宝であると確信する。


人々の幸福に尽くす姿に感動を禁じえない。
菅原浩志すがわら・ひろし(映画監督)

 まだ単行本化されていない箇所になるが、やはり、映画「人間革命」をめぐる珠玉のエピソードに刮目した。
 映画「人間革命」自体の記憶は、鮮烈に残っている。高校生のとき、札幌東宝日劇という当時、北海道で一番と言っていい映画館で観た。そのころの私は、毎週のように映画館に通っては片端から、まさにむさぼるように公開映画を観ていた。自分自身の映画好きが昂じていくなかで出合った数ある映画の一つであったが、そのときの印象は他の映画に増して衝撃的だった。
 丹波哲郎演じる戸田城聖が、獄中で"仏とは何ぞや"と探求し悟達に到る場面は、いまも覚えている。その舞台裏である本連載(二〇〇八年二月号「映画人と池田会長」など)を興味深く拝読したが、映画の制作過程や専門用語が正確に使われるなど、映画人としても納得の、丁寧な取材と調査・検証に基づいたドキュメンタリーという印象を受けた。
 そして、単行本に描かれた池田名誉会長の行動の軌跡は、映画監督のしさ私にとっても、非常に示唆に富むものであった。まず、名誉会長は指示が常に具体的であるということ。次に、常に第一線にいること。中国であれロシアであれ、夕張であれ、現場の最前線に自ら赴き、指揮を執る。そして、これらの行動が決して自分のためでなく、すべての人々のため、世界平和のための行動であるということ。」
 池田名誉会長が身を粉にし、神経をすり減らして、人々の幸福のために尽くしている姿に感涙を禁じえない。このエネルギー源こそ、戸田会長の弟子としての誇りなのだろう。「私は戸田先生のおっしゃることなら、何でもやっちゃうんだ」との言葉に、名誉会長の気持ちが凝縮されているように思う。そもそも、映画「人間革命」の制作を讃識したのも、名誉会長が戸田会長の軌跡を映像で残したいという気持ちからだったのではないだろうか。
 池田名誉会長は、常に相手を「一人の人間」として励ましてこられた。相手が国家元首であれ、まったく同じだ。この行動は、小説「人間革命」の主題でもある、"すべてのことは一の人間から始まる"という哲学に基づくのではないか。名誉会長の存在と生き方を知ってから私が撮った映画が、「ほたるの星」という作品であるが、私はこの映画に、"すべてのことは一人の人間から始まる"という名誉会長の哲学を表現させていただいたつもりである。今後も、生命の尊厳と平和を願う一人の人間として、池田名誉会長から学んでまいりたいと思っている。










最終更新日  2009.03.22 14:03:48

『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』を読んで
月刊「潮」掲載より


「庶民を愛した」超一級の指導者
高崎隆治 たかさき・りゅうじ(評論家)

視野の広さと深さ、判断力の的確さと実行力、それに加え、人間としての優しさがあれば、人はまちがいなく超一級の指導者となり偉人になる。もちろん、それらの条件の根底には信念が欠かせないが、信念は日々の生によって得られるもので、どこかに転がっているものではない。この本は、そういう現代の傑出した人間の評伝である。だが、政治家にしろ宗教家にしろ、小物ばかりがひしめいている現代にあっては、傑き出した存在は存在自体が否定され忌避されるのがこの国の思想風土でる。池田大作氏はこれまでの永い年月、そういう扱いを受けてきた。情けないとしか言いようがない。傑出した人物言いようによっては英雄的な人物から学ばずして、人はいったいなにから学ぼうとするのか。ことわっておけば、それは宗教家になるためでもなければ、政治家になるためでもない。
「中国が信じた。権力が負けた。労組が驚いた。庶民が愛した。」これは、この本の一巻の帯に書かれている言葉である。「中国」というのは「日中国交正常化を提言」(第七章)であり、「権力」は一章から四章までの「大阪事件」で、また「労組」は「炭労事件」、さらに「庶民」は一章から九章までのすべてにわたることだが、同時にそれは続編としての二巻の全章にかかわってくる。
「大阪事件」「炭労事件」といってもj現在では知る者も少ないが、これはともに選挙戦にからむ問題で、前者においては指揮に当たった池田大作氏が検挙された事件である。むろんそれは無罪となったが、この国の権力はいまもなお戦前・戦中の体質を清算できないでいるらしい。初代の牧口会長と第二代の戸田会長は、あの戦争下に治安維持法という世界の悪法によって投獄されている(牧口会長は獄死)から、大阪の会員はいささかも動揺せず、むしろ反権力の姿勢を強めたくらいであった。大阪の庶民はそういう資質の持ち主が多いようで、余談を言えば、十数おもむ年前、講演に赴いた私に、大阪の創価学会の幹部が、本部に対する遠慮のない言葉を発したことがあった。私は驚き、大丈夫かと言ったところ、「東京は東京、大阪は大阪」と朗らかに笑った。先に記した「庶民が愛した」というのは、ひょっとすると、そういう「庶民を」の誤植ではないかという気がする。いささか妙な書評になってしまったが、どうしても言っておかなけれはならないことは、日中国交の問題である。かつて、「日中国交回復」は自分がやったと虚言をふりまいた政治屋がいたが、「日本は池田提言に救われた」(一巻第七章)事実を正しく理解する日本人は少数でしかない。いま、「人間のため」「平和のため」の旗印を掲げる池田大作氏の軌跡はさらに前進するだろう。ドキュメントの続編を期待したい。


池田会長は現代における"突出した巨人
"石井英朗いしい・ひでお(東日本国際大学学長)

 創価学会インタナショナル(SGI)は、こんにち、一千万有余の人から成る信仰に結ばれた活動的な共同体である。しかもSGIが、釈迦の仏法の精髄といわれる法華経を日蓮の教説と併せて現代的に普遍化する宗教的実践団体でありながら、一貫して、世界平和の推進や創価大学に象徴される広汎な教育活動を展開し、加えて東京富士美術館や民音の実績にみる美術や音楽を主とする質量とも超一流の芸術文化活動を発展的に継続していることは、使命感に支えられた運動体としての軌跡そのものが、まさに新時代を画するものを発信しているといってよい。さらに記憶されねばならぬことは、あのアンドレ・マルローも脱帽した人類史において驚異的なこのSGIの国際的かつ組織的発展が、第二次大戦後の六〇年余にして達成されたという歴史的事実である。 これらを念頭において本書を一読すると、そこに、現代における突出した運動体の巨人・組織的実践体の指導者としての卓越した資質に裏づけられた忍耐と寛容と努力の積み上げの軌跡が、池田大作SGI会長の青年時代からいまに至るいくつかの典型的なドキュメントを通して、検証されていることが理解される。
 本書の第一巻で格別の関心を増幅させたのは、まず第三章の大阪事件である。一九五七年四月の参院選大阪地方区補欠選挙において、池田青年室長が公職選挙法に抵触する戸別訪問を会員に教唆したとして、七月三日に逮捕されたのであった。公判は十月八日から一九六二年一月二十五日の判決に至る四年三カ月に及んだ。買収ではない戸別訪問といった選挙違反レベルの容疑でありながら、検察庁での取調中は手錠をかけられて桐喝され誘導されたうえでの検察調書の信用性が問題とされ、つまりは供述調書の証拠としての採用が、裁判長によって却下されたわけである。
 威信を失墜した検察側は、通常の戸別訪問のばあい略式起訴による罰金刑なのに、八一回目の公判で池田室長には禁固一〇カ月という異常な求刑がなされた。判決の日、裁判長は池田室長の無罪を宣告したが、法治国家としての司法の良識が示されたのであった。大阪地検はさすがに控訴を断念したが、このいわゆる大阪事件は、躍進途上の創価学会に対する検察権力による弾圧的介入のリアルな状況を活写している。当時、私は学生として在阪していたが、この時代の匂いが伝わって懐かしい感慨を覚えたところであった。
 第九章「創価大学の開学」は、設立構想発表の一九六四年六月から一九七一年四月開学に至るドキュメントである。広くて豊かな自然があり富士が見えるところという立地条件、大学紛争の世相のなかでの住民の説得、関係者による設計コンセプト確定のための欧米著名大学の視察、独立した学校法人における資金面での池田会長の少なからぬ印税の投入、難航した教員確保などなど、こんにち五〇万平方材の公園のなかに浮かびあがるような創価大学の偉容の草創期が、池田イズムの教育に対する強い願望とリーダシップにおおきく依存した成果であったことが、抑制された筆致で記されている。
 六・七・八章は、平和を推進する国際交流活動が静かに光る画期的なエピソードである。「中南米への旅」では、一九九六年六月、あのキューバのフィデル・カストロ議長が、池田SGI会長と公式の席ではじめて、軍服を脱いで面談した姿がテレビ放映されたことを知った。
 また日中交流では、四面楚歌の時代からアジアの未来を確信して、中国に対して信義を積みあげてきた成果として、病重き周恩来首相が求めた礼節と親密に充ちた会談への経緯が深い感動を誘発する。
 本書の第二巻は、いささかテレビのシナリオ的で、アナログ派の私には、デジタル的断片の積みあげによるイメージ構成に苦慮したが、一気に読了させるスピード感と迫力には充分である。
いずれも苦節と大難を克服する知恵と心配り、そして不滅の信念に圧倒されるばかりである。

読む者に「前進する勇気」を与えてくれる。
又吉栄喜またよし・えいき(作家)

本書を読んで感じたことは多々あるが、ここでは大まかに六点、「プロット」「戦い」「勝利の秘訣」「庶民の力」「成長」「勇気」という角度から、『池田大作の軌跡』という書物の魅力を考えてみたい。
 まず一点目に「プロット」であるが、人間を深く掘り下げている描き方に感銘した。登場人物はそれぞれに悩みを抱え、虚偽を削ぎ落とした赤裸々な人物像が描かれている。どの章でも、そこから人間の思想、戦い、良心があぶり出されてくる。美辞麗句で飾り立てるわけではないが、本質を突いた文章が、読者の心を動かす。ドキドキ、ワクワクしながら、息をつめて読んだ。 二点目に「戦い」である。池田会長と対談した歴史学者アーノルド・トインビーは人類史を「挑戦と応戦」の理論で探求したが、まさに池田会長の「軌跡」も、「挑戦と応戦」の連続である。権力の陰謀と戦った「大阪事件」、泣く子も黙る夕張炭労と対時した「炭労事件」、そして「宗門問題」等々、一日一日が生きるか死ぬかの戦いの連続であった。繰り返される死闘のなかで、池田会長は人間の潜在的な力を出し切ってきたのではないだろうか。
 三点目に「勝利の秘訣」が記されていることである。古今東西、人々はコつの書(言葉)」を心の支えにし、生きてきたと考えられている。どのような一つの書」なのかが、人生を深くしたり、浅くしたりするともいわれている。本書の中では何度も「御書を基本に」という点が強調される。「たとえ何万冊、本があっても、御書がなければ活かしきれません。御書から、あらゆる書物や社会事象を見ていくのです」(一巻一五頁)これらの記述からは、基本となる一つの書」を大切にしてきたからこそ、道に迷わなかったということが伝わってくる。
 さらに、池田会長にインタビューをしたことのある横内恭・中日新聞編集局長は次のように語っている。「創価学会は、三代の会長が信念を貫き、牢に入った。幾多の辛い時期を乗り越えて発展してきた。そんな不屈のエネルギーが学会員一人一人の心にある。これが学会の強さだと思います」(二巻二三四頁)この不屈のエネルギーが、さほど長くもない時間の中でこれほど多岐にわたることを世界中に実現させた。このことには驚嘆させられる。本書は「軌跡」だが、「奇跡」のようにも思えてならない。
 四点目に「庶民の力」である。本書では一貫して名もない庶民一人一人のエピソードが光を放っている。池田会長と一体になった庶民が、専門家をうならせる戦いをやってのける様は痛快でもある。一九五六年の参議院選挙。新聞が「まさかが実現」と報じた大阪の戦いで、池田会長のもとにいた青年たち。「借金王」「大学に落ちた浪人生」「結核で休職していた病み上がり」その一人が振り返る。「そんなあぶれ者みたいな連中を、池田先生は、活かしきってくださったのさ」(一巻一八頁)こうした多くの庶民の声によって、池田大作という人物の一つの実像が浮かび上がってくる。
 五点目に「成長」である。本書は事実を描きながら、同時に人間の磨き方が描かれている。例えば若き日の池田会長が、師匠である戸田城聖・第二代会長に電話をするシーンがある。「受話器を手にした池田室長がぴんと背筋を伸ばし、正座していた」(一巻三三頁)とは目撃者の証言だ。峻厳な行動を貫いている「師弟」の絆、無形の信頼関係が本書には随所に出てくる。
 また池田会長との絆によって、弱い人が強くなっていく。開拓移民、被爆した人、庶民……。弱かった人が強く立ち上がっていく姿は、涙が出るくらいに素晴らしいものだった。
 そして六点目、それは「勇気」である。本書の魅力を述べてきたが、つまるところ『池田大作の軌跡』は、読んでいて勇気が湧く本である。それは普遍的な戦いが描かれているからであり、人間が主体的に明るく生きているからである。特に若き日の池田会長をはじめ、全編に青年の強い息吹が横溢している。今の時代、「弱さ」や「先が見えない不安」から犯罪に走る青年が少なからずいるという。このような青年に、本書の中の青年たちが大きな示唆を与えそうな予感もする。
 本書は人物の評伝でありながらその枠を超えて読む者に「前進する勇気」を与えてくれる。いくつもの言葉を心に刻み、さらに自身の創作に遭進しようという「勇気」を受け取って本書を閉じた。







最終更新日  2009.03.23 11:42:33

『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』を読んで
月刊「潮」掲載より


世界が「本物」認めた日本人。
宮島遣男みやじまたつお(東北芸術工科大学副学長、現代美術家)

『池田大作の軌跡』を拝読していちばん感銘したのは、師匠である戸田第二代会長を純粋に、一途に求め抜く池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の姿である。
 私は二四カ国を訪問し、海外を含めて二〇〇カ所以上で展覧会を開いてきたが、美術の世界では「学ぶよりまねろ」といわれる。初めのうちは自分が憧れる芸術家をまねることで力がつくからだ。だからモデルとする師匠や先輩がいるかどうかがその人の成長を左右する。池田会長は、戸田会長をまさにモデルとし、戸田会長の遺志を継いで平和のために戦われている。
その姿が青年たちの感動を呼び、今度はその青年たちが池田会長をモデルとて立ち上がる。そういうモデルの連鎖というか継承を、私は『池田大作の軌跡』に感じ取る。
 なかでも印象的だったのは、若き日の池田会長が大阪から東京の戸田会長に電話で報告する場面である。姿が見えない電話であるにもかかわらず、東京の方角に向かって正座し、襟を正して受話器を握る。そこに弟子たる者のあるべき姿を見る思いがした。もう一つ印象に残ったのは、日中国交正常化の提言と訪ソのくだりである。「中国は不気味な国だ」「ソ連は怖い国だ」という当時の日本人の対中、対ソ観からすれば、ある意味で日本中を敵に回すようなものであり、「よく提言されたものだ」「よく行かれたものだ」と思う。しかも批判されても批判されても友好の橋をか架けるために何度も訪中し訪ソする。これはよほどの信念がなければできることではない?「なぜソ連へ行くのか」「そこに人間がいるからだ」。なんと重い言葉だろうか。
 私は一九九四年、中国各地を訪れた。驚いたのは、敦煙とんこうの入り口に、「敦煙の遺跡の保全に貢献された方」という説明書きとともに、私たちの大先輩である平山郁夫先生と池田会長の肖像画が、一人のドイツ人の写真とともに掲げられていることだった。日本人として誇らしく思うと同時に、この一事に、中国の人たちがいかに池田会長に対して敬愛の念を抱いているかを知った。フランスの学士院やハーバード大学での講演はよほどのことがないかぎりできるものではない。アンドレ.マルローやルネ・ユイグとの対談集の出版もフランスを知る者として驚嘆の一語に尽きる。彼らは命をは張ってナチスと戦ったレジスタンスの闘士である。偽物は絶対に許さない。芸術を観る目も厳しい。「きみのオリジナリティは何だ?コピーじゃないか」。それで一刀両断である。そういう人たちと池田会長は対談されている。それは彼らが会長を本物と認めたからだろう。


不屈の闘士」を垣間見る秘話
今中亘いまなか・わたる(中国新聞社特別順問)

 SGIを創設し、自ら会長のポストについて三三年。世界平和に貢献とする組織の指揮を執り続け、すでに五大州の二〇〇を超える大学・学術機関から名誉学術称号を受けた。平和の伝道者として、その精力的な活そ伝える著作物は枚挙にいとまがない。そんな中で刊行された本書は、異色のシリーズといえよう。
 青・壮年期、体を張って常に「戦い」の最前線に立ち、学会の礎を築いていった日々がドキュメンタリータツチで描かれている。時系列の展開ではなく、エポックメーキングな事象を切り口にしていることが、若き日の「池田像」を一層際立たせている。
 序章の「大阪の戦い」は、学会が戦後初めて国政選挙に打って出存ときのことだ。弱冠二十八歳。学会への入会歴が一〇年にも満たない若者が、単身大阪へ乗り込んで陣頭指揮している。傲を飛ばし続ける一方で、黒田節を舞って陣営の指揮を鼓舞したという件は、知られざるエピソードであった。  国政・地方レベルを問わず、選挙戦では常に死力を尽くしている。第一巻五章の「炭労事件」は北海道夕張での戦いを再現している。当時、日本最強と謳われた夕張炭労を相手に一歩も引かず、下駄を三足すり減らす「下駄三足」で応援し、組織を拡大していった軌跡は興味深い。第二巻一-三章の「九州」でも、劣悪な環境に追い込まれた炭鉱労者や水俣のメチル水銀中毒で苦しむ民衆のもとへ立ち入って手を差し伸べ、折伏していった軌跡が綴られている。学会創立から七八年余。活動の原点がここにあることを示すエピソードの数々だ。
「宗門大石寺の闇」(第二巻四章)や「言論問題」(同八章)でも「反転攻勢」のスタンスで常に真っ向勝負。いま静かに平和を語り、説くSGI会長の姿からは想像できない「不屈の闘士」の断片である。
「民間特使」として日中・日ソ交渉に果たした役割も、「軌跡」の中では大きく位置づけられるべきものなのであろう。早くに周恩来やコスイギンなど両超大国の首脳と会っているが、重病の周恩来と入院先で面談した件(第一巻七章)は臨場感にあふれ、秘話といえるのではないか。
 とりわけ日中の国交正常化には並々ならぬ意欲を示し、政府間の国交正常化が実現するより四年も前に、公式の場で正常化を「提言」しているのだ。
一九七四年に二度の訪中と訪、ソ、そしてキツシンジャー米国国務長官との会見も果たしているが、翌七五年のSGI発足に繋がっかたたことは想像に難くない。東京・八王子郊外の丘陵地に広がる創価大学の広大なキャンパス。二〇〇五年秋、ここを初めて訪れ、威容に感嘆したが、「たった一人で開いた創立への道」(第一巻九章)からは、四面楚歌の中で孤軍奮闘し開学にこぎつけた軌跡がつぶさに記されている。
「人材を育てたい。世界平和の、そして社会貢献の人材を、なんとしてもつくりたい」と熱い思いに呼応。各界のリーダーによる「トツプが語る現代経営」講座を載録したシリーズはすでに二一巻に達した。平和に劣らず教育へも潭身の力を注ぐ姿を映し出している。


「師弟不二」にもとづく創価の精神の継承。
渡邊弘わたなべ・ひろし(宇都宮大学敦授)

 ジャン・ジオノの有名な小説『木を植えた男』の中に次のような一節がある。
「どんな成功のかげにも、逆境にうちかった苦労があり、どんなに激しい情熱を傾けようと、勝利が確実になるまでには、ときに絶望とたたかわなくてはならぬことを知るべきだ。」(ジャン・ジオノ・寺岡嚢訳『木を植えた男』あすなろ書房)
 池田大作氏という一人の人間の"軌跡"とは、まさに"平和と文化の大城"を築くため、熱き情熱を傾注した数々の逆境と絶望との戦いの、いわば未知の世界に立ち向かう先人としての宿命とも言うべき"軌跡"だったといえるであろう。
 弱冠二十歳代からの室長時代には、大阪での民衆との異体同心による選挙、そして公職選挙法違反の汚名による裁判事件や、学会として初めて政治権力の弾圧を受けた夕張炭労事件、さらに第三代会長就任後の時代には、公明党結成や日中国交正常化の提言、さらに九州におけるさまざまな妨害による宗門事件など、まさに息をつく暇のない戦いの連続の"軌跡"がそこに見られる。
こうした逆境を乗り越えさせたものとは一体何だったのだろうか。それは、池田大作氏の人間性に帰着するといっても過言ではない。本書の中には、次のように池田氏の人間性を表した言葉が数多く見られる。
 "相手の心を引きつける「磁力」をもった人""どんな多忙でも、周囲の人の心を窮屈にさせない人" "青れつれつ年を愛する人" "烈々たる言論の人" "正邪を明確にする人"。これらは、根本的に二つの精神に貫かれているといえる。一つは「慈愛の精神」であり、もう一つは「権力に対して一歩も引かない不擁不屈の精神」である。実はこれらは、創価の精神そのものであるといってもよい。つまり、師弟不二にもとづく初代会長牧口常三郎から第二代会長戸田城聖、そして第三代会長の池田大作と続く精神の継承と呼ぶべきものである。この二つの精神以外にも、池田氏は創価の精神を数多く継承し、それらによって戦いに挑んできたのである。それは、世界平和の精神、対話の精神、連帯の精神などである。こうした創価の精神をもって、池田氏が最も傾注した事業の一つに創価大学の創設がある。創価大学の設立構想は一九六四年に発表され、翌年大学設立審議会が発足。設立場所の条件として、自然が豊かであり、広大で、静かな富士の見える場所ということであり、最終的に八王子に決定した。当時大学紛争の真っ只中にあり、地域住民からの反対運動もあったが、池田氏の「教育は私の事業である」という強い熱意が地元の学会員の青年たちの自発的行動を起こさせ、やがてそれが住民の心を動かすことになった。
 池田氏の大学創設の目的はひとつである。それは、世界平和に貢献する人材の育成ということであった。つまり、将来世界を舞台に、人類全体のために活躍する人物を輩出したい、この一点である。そしてついに、一九七一年創価大学は開学した。
 中国、ソ連の留学生も受け入れ友好関係を深めていくことになった。まさに創価大学は、"大木を植えた男"池田大作氏により、"平和と文化の大城"となったのである。


日ソ関係に光明をもたらし池田・コスイギン会談。
中澤孝之なかざわ・たかゆき(時事総合研究所客員研究員、元時事通信社外侶部長)

 評者は五〇年近く、ソ連・ロシアを専門にしてきた。池田SGI会長の第三次訪ソの際、モスクワ在勤中だった。
一九八一年五月、つまり二七年前のことだ。訪ソ団取材の縁で、二〇〇四年に書き下ろし『ゴルバチョフと池田大作』(角川書店)を上梓した。同書の中で、池田初訪ソ(七四年九月)に触れた。
本書(『池田大作の軌跡』第二巻)第五章「ロシア共産主義の大国が驚いた外交戦」には、その初訪ソが実現するまでの舞台裏と画期的な池田・コスイギン会談の詳細が描かれている。
 そこにかげの立役者イワン・コワレンコというロシア人が登場する。彼は〇五年七月に病死したが、知る人ぞ知る人物で、特にシベリア抑留者には忘れられない名前だ。「日ソ関係を牛耳る"闇の司祭"」コワレンコ。池田会長がこのこわもての男を説得した結果、コスイギン首相との会談が実現した。これをきっかけとして、米ソ冷戦のさなか、それまで、米国の同盟国日本に対して疑心暗鬼で、頑なだったクレムリンの姿勢が和らぎ、両国関係に一筋の光明が見え始めたのだった。日ソ関係史の一つの転換点ととらえることができよう。
 チェコ事件直後の六八年秋から二回通算九年強、ブレジネフ政権下のモスクワに滞在した経験から確信すのだが、日本で猛威を振るった狂信的な対ソ脅威論とは対照的に、当時のソ連の人びと(今のロシア人もそうだが)の多くは日本(および日本人)に対して「畏敬の念」を持っていたように思う。
「戦後の日ソ関係のキーマンであり、生き証人」だったコワレンコも、シベリア経験や公式的な建前はともかく、心の中では、本当は「親日家」だったのではなかろうか。コスイギンのほかチーホノフ、ルイシコフ各ソ連首相と会っていた池田会長だが、ゴルバチョフとの会談(九〇年七月)も、特筆すべき出来事だった。
 ゴルバチョフは「席上、ソ連の国家元首としては、史上初の訪日を表明した」。「(彼にとって)池田氏との出会いは、対日関係の政治的側面の本質を洞察するのに極めて大切な"日本人気質"を、ユニークで傑出したこの体現者の一人に教えられる一つの機会であった。二人は友人として別れた」(元ソ連大統領国際問題補佐官チェルニャーエフ著・拙訳『ゴルバチョフと運命をともにした二〇〇〇日』九四年・潮出版社)。
 ソ連最初にして最後の大統領ゴルバチョフと池田会長は、初の出会いから肝胆相照らす仲となったようだ。レーニンの革命に次ぐ「第二の革命」ペレストロイカにより、米ソ冷戦は終結し、ソ連は解体された。何度となく試練に立たされたゴルバチョフ。彼に「窮地になるほどエールを送った」のは池田会長だった。











最終更新日  2009.03.23 11:41:28

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