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晴ればれとBlog

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東日本大震災〈いまを歩む〉

2020.11.08
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〈いまを歩む――「コロナ禍の中で」総集編〉から

コロナ禍で奮闘する被災地の友

 東日本大震災から間もなく9年8カ月。本紙では、毎月11日を中心に、被災地で生きる友の「今」を伝えている。この8月から10月までは「コロナ禍の中で」をテーマに、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けながらも奮闘する宮城・岩手・福島の友を掲載してきた。ここでは、その総集編として、取材した代表3人をダイジェストで紹介する。
 

 
宮城 真心で介護に尽くす

介護福祉士として、唱題根本に前進の節を刻む佐々さん
 介護福祉士として働く佐々康太郎さん(男子部ニュー・リーダー)。勤務する介護福祉施設には、90人以上の高齢者が入所している。
  


 2011年の震災の折、佐々さんは、泊まり込みで入所者を支えた。地域一帯が停電と断水になり、暖房がつかない冷え切った施設で、一人一人の体調管理に集中する。夜は暗闇の中で手洗いに立つ人を注意深く先導した。あっという間に1週間が過ぎた。その後も必死に働いた。
  


 そんな佐々さんを支えたのは、「題目」だった。気力を振り絞って御本尊に向かい、一日また一日、使命を果たす決意を強くした。
  


 現在、宮城県内でも新型コロナウイルスの感染が拡大し、医療や介護現場では緊張が高まっている。
 

 「深い祈りで、入所者に真心を尽くしていきたい」と、佐々さんは使命の道を歩む。
  
 

 
  
岩手 苦難の中でつかんだ再就職
佐々木さん㊧が妻・郁子さんと自宅の前で
 佐々木愛延さん(副支部長〈地区部長兼任〉)は、コロナ禍の影響で、勤めていた会社が経営難に陥り、本年5月に職を失った。「悔しかった。でも同時に“さらに成長するチャンスだ”と思い直しました」
  
これまで、幾つもの苦難を越えてきた。東日本大震災の津波で自宅が流失。同居していた義父が亡くなった。また震災の翌年には、妻・郁子さんに乳がんが見つかる。夫婦で祈り抜き、手術は成功。今に至るまで再発はない。自宅も再建した。
  


 今回の失業も、“必ず勝利する”と決意し、職業訓練校に通い、七つの資格を取得。自信を胸に就職活動に挑み、食品会社から採用を勝ち取ることができた。相次ぐ試練を“前進の糧”に変えてきた佐々木さんに、郁子さんがほほ笑みかける。「“日本一明るい失業者”の大逆転劇だね!」
  

 
  
福島 葛藤を力に変えて
 いわき市内の病院で臨床心理士を務める阿部麻美さん(県女子部主任部長)。就職した翌年に「3・11」は起きた。相馬市にいる家族は無事だったものの、自宅は津波で全壊。日を経るにつれ、同級生など親しい人の訃報が届いた。さらに、原発事故が発生し、県外の親戚宅へ。いわき市に戻ることができたのは、1カ月後だった。


 余儀なくされた原発避難だったが、職場を離れたことで、患者は見捨てられたと思っているのではないか――医療職ゆえの“怖さ”があった。カウンセリングでは、必ずといってよいほど震災の話題になる。「先生は避難したんですか?」。患者からの質問に、あいまいに返答することも多かった。噓をついているようで、胸が締め付けられた。


 そんな最中、本紙で小説『新・人間革命』「福光」の章の連載が始まった。「『悲哀』を『勇気』に変えるのだ。『宿命』を『使命』に転ずるのだ」――池田先生の言葉がすうっと生命に入ってきた。“先生は、分かってくださっている!”。その安心感が患者と向き合う力になった。
  

臨床心理士の阿部さんは、目の前の“一人”に寄り添い続ける
 いくら時間を経ても埋まらない喪失感がある。ましてや苦しみを全て分かち合うことは難しい。それでも、相手の言葉に耳を傾け、表情やしぐさに想像力を働かせて、“ああかな”“こうかな”と解決に向かって一緒に考えることはできる。その中で、自分が葛藤したことは全て、相手に寄り添うための“引き出し”に変えていけると気付いた。そして、自分と向き合った分だけ引き出しの数は増やせる、とも。


 信心根本に心を錬磨しながら、スキルアップにも挑戦。働きながら大学院に学び、新たな資格を取得した。


 新型コロナウイルスの影響で、働き方は大きく変わった。感染防止対策を徹底し、従来の時間を半減してのカウンセリング。それでもこの間、キャンセルする人は一人もいなかった。


 「ここでしか話せないんだ」。そんな患者の声に触れるたび、“宿命を使命に”との誓いを深くする。
  
  
顧客第一の精神
 桜井利彦さん(副本部長)は、開業者である父の後を継ぎ、相馬市内で薬局を営む。店を構えて51年。“顧客第一”の姿勢を貫いている。


 東日本大震災の当日は、強い揺れはあったが、自宅兼店舗は無事だった。薬を求める人のため、桜井さんは薬局を開け続ける決断をした。


 数日後、相馬市薬剤師会、保健所などの要請を受け、保健所職員や複数の薬剤師が桜井さんの店舗に常駐するように。浜通り北部の“薬提供の拠点”となった。


 物資が不足する中、避難者の要望に対応できるよう、桜井さんは、卸売業者に掛け合い、懸命に薬をかき集めた。


 「先行きが見えない皆さんの不安を、少しでも軽減したい一心でした」。桜井さんは“抜苦与楽”の精神で震災に向き合ってきた。


 翌12年には、次男の利宏さん(男子地区リーダー)が、「登録販売者」(医薬品販売の専門職)の資格を取得する。その4年後には、病院薬剤師をしていた妻のユリ子さん(副白ゆり長)が定年退職し、以来、家族3人で店舗に立つ。
  

家族で薬局に立つ桜井さん一家(左から次男の利宏さん、桜井さん、妻のユリ子さん)
 また学校薬剤師として、近隣の小学・中学・高校に赴き、子どもたちが健康で安全に生活できるよう、校内の衛生管理に努めている。


 本年3月ごろから、新型コロナウイルスの影響が深刻化すると、多くの人が集まる学校や公共施設では、消毒用アルコールが不足していった。


 品薄になる消毒用品を手配するため、桜井さんは全力で祈り、動いた。そして親交のある企業から、なんとか十分な量を仕入れ、学校や公共施設に提供することができた。


 「薬などの物資をお客さまに届けるという薬剤師の使命を、どんな困難な状況下でも果たし抜けるよう、日々、題目を上げています」と桜井さん。どこまでも一人一人に寄り添う姿勢は、震災の時から変わっていない。


 地域に親しまれる店を目指し、開業以来、薬の宅配を続けている。新型コロナの影響で、人々の生活は変化してきた。顧客それぞれのニーズに対応できるかが、今まで以上に求められている。一人を大切にするという地域密着の姿勢は、コロナ禍の中で、皆から喜ばれる模範の姿として輝く。
 

 
  
試練のたび強く
 福島県庁近くの繁華街で、新鮮な海鮮料理と酒を提供する加藤眞一さん(副本部長<支部長兼任>)。コロナ禍の影響で客足が遠のき、一時は売り上げが従来の半分以下にまで落ち込んだ。


 “やれる手は全て打とう”と新メニューの開発や食材が無駄にならない方法を考え抜く中、震災の頃の苦労を思い出した。


 フランチャイズで20年間、飲食店経営に携わった経験を生かし、居酒屋を開いたのは2010年9月のこと。少しずつ常連客が増え、“これから忙しくなるぞ”という時に東日本大震災が発生した。


 直接的な被害は少なかったものの、原発事故による風評被害が加藤さんに大打撃を与えた。原発から50キロ以上離れた福島市でも、土地を離れる人が相次いだ。比例するように客の数は激減。また、県外から福島県への材料の輸送を断られるなど、食材を確保するのも一苦労だった。
  

客の笑顔を思い、料理を盛りつける加藤さん
 一方で、“こんな状況下で、お酒を提供してもよいのだろうか”という葛藤もあった。ありのままの思いを祈りに変え、御本尊にぶつけた。意を決して店を再開した時、訪れた常連客から声を掛けられた。「いつ開くかと思って首を長くして待ってたよ」


 その言葉に奮起した。復興に携わる人の疲れを癒やす場所にしようと、“負げでたまっか”と祈りを重ねた。


 食材の新規輸送経路の開拓や提供できるメニューの見直しなど、地道な企業努力が実り、復興のつち音と共に少しずつ客足を伸ばした。13年には2店舗目をオープンした。


 3年前、仕事中に心筋梗塞を発症したが、妻・悦子さん(支部婦人部長)や同志の祈りに支えられ、再び厨房に立つことができた。その感謝を胸に、新型コロナウイルスの脅威に悩む同志に寄り添い、励ましを送っている。


 「池田先生に教えていただいた『波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す』という言葉を体現する自分でありたい」と話す加藤さん。“信心で越えられない試練はない”と強く確信し、コロナ禍と向き合い、前進を重ねる。

取材後記――支え合いの心
 今回は、コロナ禍の中で復興へ歩みを進める同志を取材してきた。
  


 福島で薬局を営む壮年は、震災直後、薬を求める人々のため、薬剤の確保に奔走。本年のコロナ禍にあっても、地域の学校等で消毒用品が不足しないよう尽力した。壮年は“どんな状況でも、薬剤師としての「使命」を果たす”と祈ってきたという。
  


 この壮年の姿に象徴されるように、買い物、食事、物流、医療――私たちの“あたりまえの生活”は、多くの人々の支えで成り立っている。
  


 だが、社会を支える人々の中にも、不安や葛藤を抱えている人がいることを、忘れてはいけない。ケア宮城の畑山代表が強調されている「支える側の人に対するケア」は、不安が続くコロナ禍にあって、ますます重要になってくるだろう。
  


 学会の信仰も、社会を支えるエッセンシャルワーカーの方々に活力を与えてきた。それは、今回紹介した3人の姿からも見えてくる。
  


 宮城の佐々さんは、信心に出あい、あきらめかけていた介護職の夢をつかんだ。さらに震災という極限状態の中で、題目で自身を鼓舞し、入所者に尽くしていった。還暦で職を失った岩手の佐々木さんが再就職への意欲を湧き立たせることができたのは、度重なる苦難を乗り越える中で培われた「不屈の信心」があったから。その朗らかな生き方は、これからも周囲の希望となるに違いない。福島の阿部さんは、津波で自宅が全壊に。同級生の訃報にも接した。そうした中、“悲哀を勇気に”との池田先生の言葉に励まされ、自分らしさを見いだした。
  


 人は皆、支え合って生きている。誰でも、誰かの力になることができる。そして、苦難に立ち向かう中で、その力は磨かれる。震災を経験した東北の友の姿には、支え合いの心が光っていた。

(2020年11月8日  聖教新聞)







最終更新日  2020.11.08 14:33:32


〈いまを歩む――「コロナ禍の中で」総集編〉から

インタビュー 「ケア宮城」代表 畑山みさ子さんに聞く「“支える側”の心のケア」の重要性

 東日本大震災の被災地の今を取材する〈いまを歩む〉では、「ケア宮城」代表の畑山みさ子さんにインタビューした。

 東日本大震災後、宮城県では、小・中学校の不登校発生率が年々増加し、2016年から4年連続で全国1位となってしまいました。いじめや、児童虐待も増えています。
  


 その背景に、人との関わり方が分からない、人との適切な距離感が保てないといった「反応性愛着障害」の子どもたちの存在も指摘されています。これは、愛着行動を身に付ける幼児期に、親が生活再建に追われて、子どもへの関わりが少なくなってしまったことなどが影響していると考えられます。
  


 そうした子どもたちには、時間を掛けて丁寧に関わり、粘り強く信頼関係をつくっていかなければなりません。笑顔で子どもに向き合い、その心の成長を支援していくことが大事です。
 

 


 宮城県内の3つの心理士会有志からなる「ケア宮城」は、震災直後から、「子どもの心を支援する人たち」を支援してきました。
  


 被災地では多くの学校が避難所となり、教員もその運営に奔走していました。そこで“子どもの心を支援するためには、まず教員の心を支援する必要がある”との思いから、震災の翌月に、教員や保護者らを対象とした「心のケア」の研修会をスタートさせました。本年まで計159回開催し、延べ6500人近くが参加しています。
  


 それらを通し、訴えてきたことは「支援者自身の心のケア」の必要性でした。支援者本人が疲れをためたままでは、支援を必要とする人に笑顔で向き合うことは困難です。
  


 人は強いストレスを抱えると、①他者に対して攻撃的になる②自分の無力さを責めて落ち込む③無気力になってどうでもよいと思う、など好ましくない方向に向かいがちです。
  


 本年のコロナ禍で、エッセンシャルワーカーが、にわかに注目されました。医師や看護師、教員、保育士、スーパーの従業員など、人々の健康や生活を守るために不可欠で、かつ自宅外で働く人たちです。感染リスクと隣り合わせの日々で、強いストレスを感じながら働いています。低賃金、長時間労働、人手不足などが重なる、より厳しい環境にいる人もいます。
  


 東日本大震災の時にも、エッセンシャルワーカーは大きなストレスを抱えながら奮闘していました。一般的にも、過去に心に傷を負った人は、その後に受けたストレスで精神的健康を崩しやすいものです。それだけに、コロナ禍では、誰よりも心のケアを心掛けてほしいのです。具体的には、仕事と私生活の切り替えをしっかり行い、家族と過ごす時間を大切にしたり、多忙な仕事の中でもリラックスできる時間をつくったり。気分転換を上手に図る工夫をしていただきたいと思います。
  


 創価学会の皆さんも、被災者の“心の復興”の支援を続けています。今も被災地の思いと暮らしを丁寧に伝える聖教新聞の報道姿勢にも共感します。こうした取り組みは、今後も継続してほしいと願っています。


  
  
 【プロフィル】はたやま・みさこ 「ケア宮城」代表、宮城学院女子大学名誉教授。専門は発達心理学・臨床心理学。長年、保育者と教員の養成および現任保育者の研修等に当たってきた。







最終更新日  2020.11.08 14:23:07
2020.10.11

連載〈いまを歩む〉
東日本大震災から9年7カ月 コロナ禍の中で奮闘する福島の友
2020年10月11日

苦難に輝く、自らの使命
 東日本大震災から、きょうで9年7カ月となった。ここでは、コロナ禍という未曽有の危機に直面しながらも、復興へと奮闘する福島の友を紹介する。
  
葛藤を力に変えて
 いわき市内の病院で臨床心理士を務める阿部麻美さん(県女子部主任部長)。就職した翌年に「3・11」は起きた。相馬市にいる家族は無事だったものの、自宅は津波で全壊。日を経るにつれ、同級生など親しい人の訃報が届いた。さらに、原発事故が発生し、県外の親戚宅へ。いわき市に戻ることができたのは、1カ月後だった。
 余儀なくされた原発避難だったが、職場を離れたことで、患者は見捨てられたと思っているのではないか――医療職ゆえの“怖さ”があった。カウンセリングでは、必ずといってよいほど震災の話題になる。「先生は避難したんですか?」。患者からの質問に、あいまいに返答することも多かった。噓をついているようで、胸が締め付けられた。


 そんな最中、本紙で小説『新・人間革命』「福光」の章の連載が始まった。「『悲哀』を『勇気』に変えるのだ。『宿命』を『使命』に転ずるのだ」――池田先生の言葉がすうっと生命に入ってきた。“先生は、分かってくださっている!”。その安心感が患者と向き合う力になった。
  
臨床心理士の阿部さんは、目の前の“一人”に寄り添い続ける

 いくら時間を経ても埋まらない喪失感がある。ましてや苦しみを全て分かち合うことは難しい。それでも、相手の言葉に耳を傾け、表情やしぐさに想像力を働かせて、“ああかな”“こうかな”と解決に向かって一緒に考えることはできる。その中で、自分が葛藤したことは全て、相手に寄り添うための“引き出し”に変えていけると気付いた。そして、自分と向き合った分だけ引き出しの数は増やせる、とも。
 信心根本に心を錬磨しながら、スキルアップにも挑戦。働きながら大学院に学び、新たな資格を取得した。
 新型コロナウイルスの影響で、働き方は大きく変わった。感染防止対策を徹底し、従来の時間を半減してのカウンセリング。それでもこの間、キャンセルする人は一人もいなかった。
 「ここでしか話せないんだ」。そんな患者の声に触れるたび、“宿命を使命に”との誓いを深くする。
  
  
顧客第一の精神
 桜井利彦さん(副本部長)は、開業者である父の後を継ぎ、相馬市内で薬局を営む。店を構えて51年。“顧客第一”の姿勢を貫いている。
 東日本大震災の当日は、強い揺れはあったが、自宅兼店舗は無事だった。薬を求める人のため、桜井さんは薬局を開け続ける決断をした。
 数日後、相馬市薬剤師会、保健所などの要請を受け、保健所職員や複数の薬剤師が桜井さんの店舗に常駐するように。浜通り北部の“薬提供の拠点”となった。
 物資が不足する中、避難者の要望に対応できるよう、桜井さんは、卸売業者に掛け合い、懸命に薬をかき集めた。
 「先行きが見えない皆さんの不安を、少しでも軽減したい一心でした」。桜井さんは“抜苦与楽”の精神で震災に向き合ってきた。
 翌12年には、次男の利宏さん(男子地区リーダー)が、「登録販売者」(医薬品販売の専門職)の資格を取得する。その4年後には、病院薬剤師をしていた妻のユリ子さん(副白ゆり長)が定年退職し、以来、家族3人で店舗に立つ。
  
家族で薬局に立つ桜井さん一家(左から次男の利宏さん、桜井さん、妻のユリ子さん)

 また学校薬剤師として、近隣の小学・中学・高校に赴き、子どもたちが健康で安全に生活できるよう、校内の衛生管理に努めている。
 本年3月ごろから、新型コロナウイルスの影響が深刻化すると、多くの人が集まる学校や公共施設では、消毒用アルコールが不足していった。
 品薄になる消毒用品を手配するため、桜井さんは全力で祈り、動いた。そして親交のある企業から、なんとか十分な量を仕入れ、学校や公共施設に提供することができた。
 「薬などの物資をお客さまに届けるという薬剤師の使命を、どんな困難な状況下でも果たし抜けるよう、日々、題目を上げています」と桜井さん。どこまでも一人一人に寄り添う姿勢は、震災の時から変わっていない。
 地域に親しまれる店を目指し、開業以来、薬の宅配を続けている。新型コロナの影響で、人々の生活は変化してきた。顧客それぞれのニーズに対応できるかが、今まで以上に求められている。一人を大切にするという地域密着の姿勢は、コロナ禍の中で、皆から喜ばれる模範の姿として輝く。
  
試練のたび強く
 福島県庁近くの繁華街で、新鮮な海鮮料理と酒を提供する加藤眞一さん(副本部長<支部長兼任>)。コロナ禍の影響で客足が遠のき、一時は売り上げが従来の半分以下にまで落ち込んだ。
 “やれる手は全て打とう”と新メニューの開発や食材が無駄にならない方法を考え抜く中、震災の頃の苦労を思い出した。


 フランチャイズで20年間、飲食店経営に携わった経験を生かし、居酒屋を開いたのは2010年9月のこと。少しずつ常連客が増え、“これから忙しくなるぞ”という時に東日本大震災が発生した。
 直接的な被害は少なかったものの、原発事故による風評被害が加藤さんに大打撃を与えた。原発から50キロ以上離れた福島市でも、土地を離れる人が相次いだ。比例するように客の数は激減。また、県外から福島県への材料の輸送を断られるなど、食材を確保するのも一苦労だった。
  
客の笑顔を思い、料理を盛りつける加藤さん

 一方で、“こんな状況下で、お酒を提供してもよいのだろうか”という葛藤もあった。ありのままの思いを祈りに変え、御本尊にぶつけた。意を決して店を再開した時、訪れた常連客から声を掛けられた。「いつ開くかと思って首を長くして待ってたよ」
 その言葉に奮起した。復興に携わる人の疲れを癒やす場所にしようと、“負げでたまっか”と祈りを重ねた。
 食材の新規輸送経路の開拓や提供できるメニューの見直しなど、地道な企業努力が実り、復興のつち音と共に少しずつ客足を伸ばした。13年には2店舗目をオープンした。


 3年前、仕事中に心筋梗塞を発症したが、妻・悦子さん(支部婦人部長)や同志の祈りに支えられ、再び厨房に立つことができた。その感謝を胸に、新型コロナウイルスの脅威に悩む同志に寄り添い、励ましを送っている。
 「池田先生に教えていただいた『波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す』という言葉を体現する自分でありたい」と話す加藤さん。“信心で越えられない試練はない”と強く確信し、コロナ禍と向き合い、前進を重ねる。
  







最終更新日  2020.10.11 13:21:13
2020.07.11

​インタビュー 福島大学食農学類 小山良太教授に聞く“食”の復興へのヒント
    〈いまを歩む――「“食”の復興へ」総集編〉から

 東日本大震災の被災地の今を取材する〈いまを歩む〉では、福島大学食農学類の小山良太教授にインタビューした。
 原発事故から10年目となった今も、福島の農業が受けた損害は色濃く残っています。いわゆる“風評被害”ではありません。汚染を懸念する声は、ほとんど聞こえない。むしろ、気にも留められていない。アンケートをとると、原発事故があったことすら忘れてしまっている人もいる。事実上の風化です。
​

 それでも、福島の農産物の価格は震災前の基準に戻っていません。これは産地ブランドが毀損され、ブランド価値の低下が固定化されたことを意味します。風化よりも深刻です。


 2012年から、県産米の放射性物質濃度を調べるために福島県は全量全袋検査を実施してきました。15年以降、5年連続で基準値を超える米袋がゼロだったことから、一部地域を除き、今年度からはモニタリング(抽出)検査に切り替わりました。全量検査は農家にとって多大な負担でした。科学的には抽出検査で十分リスクは回避できます。


 今回の検査の見直しがネガティブなニュース報道とならないよう、国が責任をもって安全性をアナウンスすることが必要です。その上で、新たな価値をつくる取り組みが求められます。


 今、福島のお米の7割超が価格の低い業務用米として出荷されています。高齢化が進むと、家族構成が少人数となり、家庭用米の比率が減るため、これからの日本でお米の需要が増えるのは業務用米です。すると、業務用米の中で産地間の競争が起こる。そこで生き残っていくためには、自らをアピールする企画力が欠かせませんが、福島のみならず日本の農業は、ここが弱い。生産者視点の「農」と消費者目線の「食」が分かれているのが、現在の農業の最大の欠点であると考えています。


 本来、「農」という漢字には「食」の意味も含まれるそうです。切り離せない食・農の関係の再構築が必要です。そして、この両者をつなぐのは「人」です。


人の心と心を繋ぐ存在が 新たな価値をつくる力に
 福島大学では昨年4月、食農学類が誕生しました。土づくりから食べる人の生活までを総合的に考え得る人材の育成を目指しています。そのために重視しているのが、長期間の農業実習を通して“現場”を知ること。農業が抱える課題や解決策も、そこにヒントがあるからです。


 もう一つは、最新科学の知見をもって、真に有益な情報を検証・発信することです。例を挙げます。福島のお米には、肝機能を向上させる働きを持つアルギニンが、胚乳の中まで入っていることが研究によって分かりました。そうすると、福島県産米からできた日本酒は“二日酔いになりにくい”と、証明されることになる。このように、付加価値を高め、今まで世界になかったものを作れば、全く新しい市場が開拓できます。私は、食を通して福島のファンを増やしていけると信じます。


 今までの方法を踏襲するだけでは、社会は衰退してしまう。それが今回のコロナ禍で一段と浮き彫りになりました。そして、新しい仕組みづくりには効率性の追求だけではなく、人の心と心をつなぐ存在が欠かせません。


 私はかつて、創価学会の会館で講演し、青年部の方々と意見交換する機会がありました。皆さんをはじめとする若い世代が、新たな社会建設の主役の気概で「今」を生き抜いてほしいと思います。


  
【プロフィル】こやま・りょうた
 1974年、東京都生まれ。博士(農学)。日本学術会議特任連携会員、多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会委員などを兼務。専門は農業経済学、地域政策論、協同組合学。共著に『放射能汚染から食と農の再生を』『福島に農林漁業をとり戻す』など。


(2020年7月11日 聖教新聞)







最終更新日  2020.07.11 14:01:14

東日本大震災の被災地で“食”の復興に尽くす友
〈いまを歩む――「“食”の復興へ」総集編〉から
 東日本大震災から9年4カ月。本紙では、毎月11日を中心に、被災地で生きる友の「今」を伝えている。この4月から6月までは「“食”の復興へ」をテーマに、農業や漁業、飲食業に従事する宮城・岩手・福島の友を掲載してきた。ここでは、その総集編として、取材した代表3人をダイジェストで紹介する。
​

  
宮城 農林水産大臣賞に輝く
 神山百合子さん(圏副婦人部長兼支部婦人部長、写真㊨)は、夫・庄一さん(副支部長)の実家がある長面浦(宮城・石巻市)でカキの養殖業に従事する。かつては農・漁業の繁忙期に仙台から通い、家業を手伝っていたが、“復興の力になりたい”と、震災後に石巻へ転居した。


 庄一さんは漁協・河北町支所の運営委員長を務めるなど、地域に貢献。神山さんも女性漁業者グループの仲間と共に、長面浦ブランドの「牡蠣の贅沢ソース」を開発し、懸命なPR活動に取り組んだ。


 そして今年1月、宮城県の水産加工品品評会で、180点以上の中から、第1位である農林水産大臣賞に輝いた。


 神山さんは学会活動にも全力。今年、再び支部婦人部長に。題目を唱え抜き、一人を大切にする姿勢を貫いている。
 (4月10日付)
  


岩手 話題を呼んだ郷土料理
 岩手・久慈市で食生活改善推進員協議会の一員として活動する、山﨑よしえさん(支部副婦人部長、写真㊧)。“食”による市民の健康促進に努めている。


 9年前の津波で大きな被害を受けた久慈市。山﨑さんは震災後、愛する地域のために、炊き出しのボランティアに奔走。毎週のように避難所や仮設住宅を回り、料理を振る舞った。その中で、特に喜ばれたのが「まめぶ汁」だった。


 この新たな郷土料理は、2013年、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で脚光を浴び、全国のご当地グルメが集まる「B―1グランプリ」でも入賞を果たすなど、“町おこしの推進力”になっている。山﨑さんは「困っている人を気遣う、地元民の優しさが味と重なり、逸品を誕生させることができました」と声を弾ませる。
 (5月8日付)
 

 
福島 挑戦し続ける青年農家
 白井雅拓さん(男子地区リーダー、写真)は、福島・喜多方市の「認定農業者」。熟練の農家の下で技術を習得し、“いよいよ”と思っていた矢先、震災に見舞われた。


 原発事故の影響で、作物の卸価格は大幅に落ち込んだ。検査で安全が保証されても買い控えされる現実。何度も折れそうになる心を、題目で支えた。


 「どんなに苦しくても後退はしない」との決意で、2棟のビニールハウスを整備。それまでのニラに加え、ホウレンソウ、カボチャなどの栽培も始めた。改良を重ねた作物はその後、地域の品評会で3年連続の優秀賞に輝き、学校給食にも使われるようになった。休耕地を活用した蕎麦の栽培にも挑み、今年は昨年の5倍の規模に拡大する。


 信心根本の成長を誓う青年農家の挑戦が、地域の未来を開く。
 (6月12日付)
  


取材後記――支え合う“絆の強さ”
 東北の大きな魅力の一つである“食”。今回は、その味と心を未来へつなごうと奮闘する宮城・岩手・福島の友を紹介した。
 津波によるがれきの堆積や塩害の発生、原発事故、人手不足、風評被害……。東日本大震災が残した傷跡は、あまりにも大きい。その中で、“食”の復興を目指す人々が、前に進んでくることができたのはなぜか。


 それは、東北の食材や料理に対する愛情であり、地元産に対する誇りであろう。
 そして、地域全体で励まし合い、支え合うという“絆の強さ”があったからではないだろうか。組合などで要職を務める学会員も数多い。


 福島大学の小山良太教授も、あらゆる危機に対応する新しい仕組みをつくるには「人の心と心をつなぐ存在が欠かせない」と語っている。
 震災後も東北は、豪雨や大型台風などの災害で、深刻な打撃を受けてきた。しかし、そうした状況下でも、同志が献身の行動を貫いてきたのは「地域に尽くす」という創価の使命を、深く自覚しているからだ――取材を通して、そう感じずにはいられなかった。


 池田先生は不屈の歩みを続ける東北の友をたたえてやまない。
 

「時に悲嘆の涙を流し、時に運命の非情さに憤怒しながら、題目を唱え抜き、『負げでたまっか』と励まし合って、広宣流布に邁進してきたのだ」


 今、私たちは「コロナ禍」という新たな困難に直面している。取材した方々も皆、逆境から再び活路を見いだそうと、真剣に祈り、懸命に闘っている。


 相次ぐ試練にも負けないその姿は、激動の時代を照らす光となって、人々の勇気を呼び覚ますに違いない。


(2020年7月11日 聖教新聞)







最終更新日  2020.07.11 13:56:02
2020.06.12

連載〈いまを歩む〉

東日本大震災から9年3カ月 「“食”の復興」に尽力する福島の友​

地道な努力で信頼を築く

 東日本大震災は、食の宝庫である東北に甚大な被害を及ぼした。特に福島県では、原発事故による風評被害が、今なお続いている。震災から9年3カ月となる今回は、福島で「“食”の復興」に奮闘する友を紹介する。
一人を大切に
 親潮と黒潮がぶつかる「潮目の海」と呼ばれる福島沖。日本有数の水揚げ量を有し、その漁場で取れた魚介類は「常磐もの」として高い評価を得ていた。
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 石河トミさん(地区副婦人部長)がいわき市内で営む飲食店「くろしお」は、そんな「常磐もの」を扱う誇りと共に歩んできた。夫の昌晴さん(故人)と、鮮魚店から始め、今年で40年。店の看板メニューは、市の魚にも選定されている「メヒカリ」の天ぷらだ。


「『おいしい』ってお客さんが喜ぶ顔を見られること以上の幸せはありませんよ」。そう語る石河さんのとびきりの笑顔は、乗り越えた「人生の荒波」に磨かれてきた。

自慢の料理を手にする石河さん㊧と、長男の保晴さん
 昌晴さんが病で亡くなったのは、2009年のこと。一度は店をたたんだが、再開を望む常連の声がやまなかった。意を決してオープンした直後、「3・11」が襲った。


 原発事故により、2カ月間の県外での避難生活を経て、いわき市に戻ったが、店は苦難の船出を強いられた。


「常磐もの」は放射線量の安全が確認できるまで出荷が制限。断腸の思いで、県外で水揚げされた魚へと変えざるを得なくなった。大切な常連の中には、やむなく県外に定住した人も。


「それでも、立ち止まらずに来られたのは、信心のおかげ。“必ず何とかなる”“できる”と思っていますから」


 料理の工夫を重ね、来店する「一人」を大切にする接客を貫く中、客足は少しずつ戻ってきた。さらに今年2月には、原発事故による全魚種の出荷制限が解除。本格操業に向け、福島の漁業復興も節目を迎えた。


「信心してるんだもの、自分も周りも幸せにしていかないと」


 “人のため”との思いは地域活動でも発揮されている。これまで、「市のさかな」選考委員、いわき常磐地区交通安全協会の会長などを歴任。2年前には、交通栄誉章緑十字銀章を受けた。


 新型コロナウイルスによる1カ月間の休業を経て、先月下旬から再び営業を始めた。


 傍らに立つ長男・保晴さん(壮年部員)と共に誓う。“何が起ころうとも、笑顔は失わない”と。
  


試行錯誤して
 白井雅拓さん(男子地区リーダー)は、喜多方市の「認定農業者」。後継者不足が懸念される地域にあって、期待の存在だ。


 中学、高校と、いじめに遭い、不登校を経験。転入した通信制高校を卒業し、専門学校に進学したが、進路に悩んだ。自宅に引きこもり、悶々とする日々。そんな時、両親に背中を押され、農家の知人と会う機会が。「手間暇を掛けた分、応えてくれる」農作物に魅了され、亡くなった祖父の土地を引き継ぎ、2005年、農家としての第一歩を踏み出した。


 試行錯誤の連続だったが、熟練の農家に教えを請い、必死に技術を習得。“いよいよ、これから”。東日本大震災が起こったのは、その矢先だった。

白井さんが畑で
 原発事故の影響で、作物の卸価格は大幅に落ち込んだ。検査で安全が保証されても買い控えされる現実。何度も折れそうになる心を、題目で支えた。


「どんなに苦しくても後退はしない。とにかく“前進! 前進! 前進!”と、自分に言い聞かせました」


 不屈の祈りは“攻め”の行動に。2棟のビニールハウスを整備。それまでのニラに加え、ホウレンソウ、カボチャなどの栽培も始めた。改良を重ねた作物はその後、地域の品評会で3年連続の優秀賞に輝き、学校給食の食材にも使われるようになった。


 今回の新型コロナウイルスによる再びの試練。小学校の一斉休校に伴い、給食用の食材がキャンセルになるなど影響は小さくない。


「電話やLINEで『大丈夫?』と声を掛けてくれる同志の存在が、どれほどありがたいか。男子部のライブ講義にも励まされ、全てを信心で受け止めようと腹を決めました」


 先月下旬から学校給食が再開。さらに、高齢化などにより耕作を行っていない休耕地を活用した蕎麦の栽培に挑み、今年は昨年の5倍の規模に拡大する。また、農業の魅力を伝えたいと、SNSを通した発信も。
 信心根本の成長を誓う青年農家の挑戦が、地域の未来を開く。
  


「みちのく魂」で
 果物の栽培が盛んで、全国有数の出荷量を誇る福島市。高澤徳雄さん(総県長)は長年、この地でモモと梨の栽培を続けてきた。


 初めは家業を継ぐつもりがなかったが、男子部の活動を通して地域に根を張る学会員の使命を学んだ。20代で兼業農家の道へ。旧習深い土地で信頼を得るため、妻・享子さん(婦人部副本部長<支部婦人部長兼任>)にも支えられながら、地域の人々の中に飛び込んだ。


 サラリーマンとして働きながら、農業にも一歩も引かずに挑んできた高澤さん。業績は順調に伸び、その実直な姿勢で、学会理解の輪も大きく広がった。

一つ一つ、丹精込めて作業する高澤さん㊨と妻・享子さん
 だが、東日本大震災の発生で、状況は一変してしまう。原発事故による風評被害が売り上げに直撃した。土壌を除染し、果樹の表皮を削るなど、安全対策は万全に行った。それでも、一度広がってしまった不安と疑念は、なかなか消し去ることができず、途方に暮れた。


 そんな時、小説『新・人間革命』で「福光」の章の連載が始まった。


「われらには、不撓不屈(ふとうふくつ)の『みちのく魂』がある」――池田先生の励ましに再起を誓うと、不思議と前進の力が湧いた。真剣に題目をあげ、“自分にできることを”と、購入者へ向け、安全性を発信し続けた。


 やがて、高澤さんを信頼して購入を希望する人が現れ始めた。「頑張る姿を応援したい」――それは、誠実に交流を重ねてきた友人たちだった。


 そこから口づてで評判が広がり、今日まで地道に購入者を増やしてきた。


 9年が経過し、復興は道半ば。それでも、信心のおかげで着実に前に進んで来ることができた。


 新型コロナの影響で「ロックダウン」という言葉を耳にした時には、“放射能の恐怖に分断された福島も同じだった”と感じたという。


 “自分にできることを精いっぱいやれば、必ず壁は破れる”との確信で、高澤さん夫妻は使命の道を歩み続ける。


(2020年6月12日  聖教新聞)







最終更新日  2020.06.13 00:17:41
2020.05.08

​連載〈いまを歩む〉 未来につなぐ味と心

東日本大震災から9年2カ月 「“食”の復興」に尽力する岩手の友
 11日で、東日本大震災から9年2カ月を迎える。本州最大の肥沃(ひよく)な土地と海の恵(めぐ)みが豊かな三陸海岸。岩手県は、山海の幸があふれる“食材の宝庫”である。今回は「“食”の復興」を通して、地域に尽くす岩手県の友を紹介する。
 
養殖の組合長
 二つの海流がぶつかる三陸沿岸は、海藻(かいそう)や貝類の養殖(ようしょく)が盛んな“世界有数の漁場”である。中でも、岩手県の養殖ワカメは生産量日本一。肉厚で歯ごたえがあり、磯の香りが口中に広がる。
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 釜石市箱崎町(かまいししはこざきちょう)で養殖漁業を営む植田勝雄さん(ブロック黄金長)も、その品質に誇りをもつ一人だ。だが、9年前の大津波によって、船や資材を失った。


 箱崎地域の養殖組合長を務める植田さんは、施設が流された漁師を取りまとめ、いち早く復旧に尽力。震災の翌年にはワカメの水揚げを再開させた。「悔しい思いはあっても、迷いはなかった。絶対良くなると思えたのは、信心のおかげだね」
 男子部時代、仕事と学会活動の両立に励み、「仏法即社会」の精神を生命に刻んだ。


 自身の姿で学会の正義を証明しようと、旧習が根強い地でも恐れずに創価の旗を掲げ、自宅を広布の会場として提供してきた。その家も被災したが、題目で培った負けじ魂が、仕事や生活を復旧させる原動力に。以前より広い仏間を設け、同志を真心で迎えた。


 「宿命と向き合い、自分に原因を求めれば、未来に向かって生きていける。だから希望は常にあるよ」
 植田さんにとって“食の復興”は、三陸の豊かな漁場を守り、未来につなぐこと。震災後に立ち上げたNPO(非営利団体)法人では、小・中学生に対して養殖漁業の体験を企画するなど、後継者の育成に一役買っている。


 「地震から数年は“復興のため”に三陸の海産物を買ってくれる人がいて、助けてもらった。だけど、いつまでも頼ってはいられない。自分たちから動かないと」


 ホヤの串焼きなど、新たなメニューを考案。県内の各種イベントに出店し、工夫を重ねてきた。


 コロナ禍で今、飲食店の自粛が相次ぎ、三陸産の食材も売り上げが激減している。それでも、植田さんは「復興はまだまだこれから。だから、絶対に負けないよ」と、力強く前を向いている。
 
地域を活性化
 「奇跡の一本松」で知られる陸前高田市。松本タミ子さん(婦人部副本部長)は、この地に嫁いでから58年間、農業にいそしんできた。


 自宅前には、キャベツやキュウリ、ナスなどの畑が広がり、4棟のビニールハウスも並ぶ。裏に回ると、リンゴやナシなど、数百本の木々が茂る。78歳になった今も毎日、農作業に汗を流す。


 松本さんは近くの高台から見える景色を指さしながら語った。「震災前は海沿いに7万本の松が植えられ、街並みも美しかった。変わり果てた光景を見るたび、復興への祈りを深くします」

松本さん(前列左)がキャベツ畑の前で(前列右は夫・利彦さん。後列右から長男・信寿さん、長男の妻・宣さん)
 「3・11」の大津波は、松林ごと市街地をのみ込んだ。松本さんは、妹、次男の妻、そして孫も失い、悲しみのどん底に沈んだ。それでも再び立ち上がれたのは、丹精込めて育ててきた野菜のおかげだという。


 「大地に根を張り、成長する野菜を見た時に“負けちゃだめだよ”って教えられている気がして。“そうだ、少しでも前に進むことが復興じゃないか”って思ったんです」


 これまで野菜を出荷していた大型の直売所は全壊。そのため、松本さんは近隣の仲間と協力しながら、震災から2カ月後、産地直売所「産直はまなす」を立ち上げた。朝から夕方まで客足が絶えず、地域の人とのつながりが、復興への力になっていった。


 松本さんは4年間、直売所の代表を務め、地域の活性化に貢献。そんな母の心を、長男・信寿さん(地区部長)と妻の宣さん(地区婦人部長)が受け継ぐ。2人は他の仕事に就きながら、農作業を手伝い、しばしば直売所の店頭に立つ。地域広布のリーダーとしても、後継の道を真っすぐに歩んでいる。


 「この9年、苦しいことも多かったけど、若い人が育っている。その喜びも大きいね」と松本さん。自宅の玄関には「冬は必ず春となる」と記された額が飾られている。
 
新たな郷土料理
 久慈市で食生活改善推進員協議会の一員として活動する、山﨑よしえさん(支部副婦人部長)。“食”による市民の健康促進に努めている。


 山﨑さんは未熟児で生まれ、幼少から病弱だった。18歳で入会。胆のう炎や慢性気管支炎など、多くの病と対峙し、題目の力を痛感した。祈ると、頑健(がんけん)になるための智慧(ちえ)が湧(わ)き、病魔に挑む勇気がみなぎった。


 結婚後、5人の子を授かったが、夫と離別。昼夜を分かたず働き、女手一つで子どもを育てた。会合に参加できない時もあったが、同志が真心の励ましを送り続けた。
郷土料理「まめぶ汁」を振る舞う山﨑さん
 9年前の津波で大きな被害を受けた久慈市(くじし)。山﨑さんは震災後、愛する地域のために、炊き出しのボランティアに奔走。毎週のように避難所や仮設住宅を回り、料理を振る舞った。その中で、特に喜ばれたのが郷土料理「まめぶ汁」だった。


 まめぶは、市内の山形地域(旧山形村)で親しまれてきた料理。ゴボウやニンジンなど具だくさんの煮物と甘い団子の組み合わせが特徴的だ。被災地で多くの人に食べてもらいたいと、これを汁物にして提供したところ、体が温まると好評を博した。


 真心のこもった新たな郷土料理は、2013年、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」で脚光を浴びた。

「甘いのか、しょっぱいのか、微妙な味」として人気に。全国のご当地グルメが集まる「B―1グランプリ」でも上位入賞を果たすなど、“町おこしの推進力”になっている。


 山﨑さんは「困っている人を気遣(きづか)う、地元民の優しさが味と重なり、逸品を誕生させることができました」と声を弾ませる。


 震災以降も、2016年、昨年と2度の台風で甚大な水害に見舞われた久慈市。山﨑さんの自宅も被害に遭った。それでも、友と励まし合い、乗り越えてきた。「苦難に直面するたび、支え合うことの大切さを実感しました。料理の基本は、人を思いやる心。それは、学会で学んだことでもあります。これからも、地域に尽くしていきたい」


( 2020年5月8日  聖教新聞)







最終更新日  2020.05.08 21:03:44
2020.03.13

〈東日本大震災9年〉 

共に歩む​――宮城・岩手・福島の友



あの励ましがあって今がある

3月11日の朝焼け。宮城・仙台市若林区の荒浜で 

 どれだけ時が経過しても、胸の奥に抱えた悲しみは癒(い)えない。その中で、前へ進むことができたのは、同苦の心で寄り添い、励まし続けてくれた人がいたから――。東日本大震災の被災地で、苦難の底から立ち上がった友の9年の歩みを追った。​


私は一人じゃない

 夫の良成さんは同級生だった。優しくて真面目な人。そんな彼と大原枝里子さん(副白ゆり長)が結婚したのは2008年の元日。直前には学会に入会してくれた。大原さんの前向きな振る舞いから、信心に魅力を感じたという。


 震災の日、トラックの運転手として宮城・気仙沼市内を走っていた良成さん。地震発生直後は電話がつながった。「荷物を届けてから逃げる」と語る夫に不安を覚えながらも、大原さんは2歳と生後4カ月だった2人の娘を車に乗せ、家を出た。津波にのまれかけたが、辛うじて避難することができた。


 翌日から夫を探し続けた。見つかったとの連絡が入ったのは、3月17日。遺体安置所に向かう途中も、「生きている」と信じて疑わなかった。 葬儀の前後からしばらくは、記憶が飛んでいる。愛する人を失った悲しみと、幼い2人の子育てで、心は混乱していた。


 多くの人が寄り添ってくれたが、とても受け止められない。“なぜ夫は亡くならなければならなかったのか……

”

復興工事が進む宮城・気仙沼市の大谷海岸(本年2月撮影)


 悲嘆(ひたん)に暮れていた時、婦人部の先輩である飛髙優子さん(総県総合婦人部長)がよく顔を見に来てくれた。特に何かを語るのではなく、手を握りながら、じっと話を聞いてくれた。この“無言の励まし”が、一番の支えになった。


 少しずつ“家族で幸せに生きていくんだ”と思えるようになり、真っすぐに唱題を重ねていった。


 娘2人も、地元の同志からたくさんの愛情を注がれて育ち、笑顔と思いやりにあふれる未来っ子へと成長していった。小学生となった長女・里桜さん(5年)と次女・里愛さん(3年)は今、少年少女部の合唱団で活躍している。


 大原さんも、婦人部の人材大学校の一員に。小説『新・人間革命』を学ぶ中で、「登場人物も、大学校の同志も、みんな悩みながら進んでいる。“私は一人じゃない”との実感が湧いてきました」。


 2018年の欧州・奥州青年友好総会で宮城を訪問したイタリアの友とは、今も交流が続いている。国も言語も超えた真心が、どれほど勇気を与えてくれたことか。感謝は尽きない。


 震災から9年。今でも時々、夫の帰宅時間を気にすることがある。“あれは夢だったのではないか”――どれだけ月日が過ぎようとも、そう思いたい自分がいるのが正直な気持ちだ。


 それでも「多くの人に励まされてきた分、私も誰かの力になりたい」。心の中の夫と共に、大原さんは歩み続ける。


人の幸福祈れる自分に



 岩手・宮古市内で飲食店を営む坂本恭子さん(地区婦人部長)。震災当時は、長男と一緒に自宅にいた。揺れがいったん収まった後、すぐさま2人で避難所の小学校へ。その晩は激しい揺れにおびえ、何度も目を覚ました。


 翌朝、変わり果てた町の姿に言葉を失った。高さ約17メートルの津波に襲われた宮古市。押し流されてきた船や家屋、車などが道をふさいでいた。


 自宅は床上1メートル50センチまで水に漬かり、物が散乱。その惨状を目の当たりにし、これまでの日々を思い返した。


 ――今から40年前、自宅1階にあった店を義母から継ぎ、夫と共に切り盛りした。だが18年前に夫が病で急逝。坂本さんは2人の息子を育てるため、朝はホテルでパートとして働き、夜は店に立った。2009年から貸店舗にしていたが、店への愛着は消えなかった。


 震災を機に、もう一度、自分で店を開こうと決意。壁や床を全て張り替え、7カ月後、店を再開した。常連客が戻り、仕事が軌道に乗り始めた。

店は、宮古駅から徒歩6分ほどの場所に立つ


 しかし、坂本さんの心配は尽きなかった。長男が職を転々とし、自暴自棄な生活を続けていたからだ。家では、ほとんど会話もなく、何を考えているのか、全く分からなかった。
 

「また仕事を辞めてきて、もう……」。最後の言葉は、ぐっとのみ込んだ。自分が言っても、どうせ変わらないという、諦(あきら)めの心があった。そんな時、寄り添ってくれたのが、婦人部の先輩だった。


 坂本さんは入会していたものの、夫が他界すると、糸が切れたような脱力感を覚え、学会活動から遠ざかっていた。訪ねてきた同志にも「忙しい」と無愛想に応対したり、居留守を使ったりしたこともあった。


 それでも変わらぬ同志の真心に触れ、少しずつ悩みを相談するように。真剣に唱題を重ねると、心にも変化が生まれた。


 「息子ではなく、私が変わらなければ、と思うことができたんです」。自分から優しく声を掛けるようにしたことで、徐々に親子の会話も増えていった。


 その後、長男は運送会社に就職し、結婚。2人の子宝に恵まれ、幸せな生活を送っている。

 一方、坂本さんは2015年から地区婦人部長に。翌年8月の台風10号で自宅が再び床上浸水に遭ったが、池田先生や同志の激励に奮起し、唱題根本に乗り越えた。


 学会の素晴らしさを伝えたいと、昨年11月からは座談会に毎月、友人を誘い、これまで5人の友が参加。地域に友好の輪を広げる。「自分のことしか考えていなかった私が、人の幸せを祈れるようになれました。支え続けてくれた同志に、感謝の思いでいっぱいです。今度は、私が皆さんのお役に立てるように頑張りたい」
  


妻が結んだ絆を守る



妻・陽子さんを手伝って、本紙を配達した川内村の“思い出の地域”を歩く小林さん


 福島県東部の山あいに広がる川内村は、原発事故の影響で「全村避難」を余儀(よぎ)なくされた。震災翌年、村は「帰村宣言」を発表。避難指示は段階的に解かれ、2016年6月に村全域で解除となった。現在、住民の約8割が帰還している。


 だが、以前と同じ生活に戻れたわけではない。仕事を失った人もいる。除染されたものの、放射線への不安は消えない。若い世代の多くが村を離れたままという課題もあり、先行きは不透明だ。


 そうした中、川内の同志は村の復興へ、励まし合って進んでいる。隣接する富岡町の除染作業に携わる小林正好さん(副ブロック黄金長)は、亡き妻への思いを胸に、地域に尽くすことを誓う。


 川内支部の婦人部長を務めていた妻・陽子さんは、まさに“村の学会の顔”ともいうべき存在だった。労を厭わず、いつも前向きな人柄は、学会員のみならず地域の人々からも慕われていた。


 30年以上にわたり、「無冠の友」として本紙を配り続けた。配達中、訪問先の住人が起きていれば、明るく声を掛けて新聞を手渡し、対話に花を咲かせることも多かった。


 震災から2年半がたった頃、避難指示が解除されたエリアで本紙の配達が再開。復興へと歩み始めた村で、再び“励ましの便り”を届けていた。



家族と家の前で


 そんな陽子さんを病が襲ったのは、2016年の秋。ステージ4の大腸がんだった。


 陽子さんは「負げでたまっか」と、一歩も引かずに病魔に立ち向かった。その姿に、それまで信心に消極的だった小林さんも、真剣に題目を唱えるようになった。


 小林さんは軽自動車を運転し、片道1時間以上の通院をサポートした。入退院を繰り返す妻の体を気遣い、翌年には普通車を購入した。しかし、納車された車に陽子さんが乗ることはなかった。
 生きている時は“俺が食わせてやっている”と思っていた。でも失ってみて分かった。どれほど支えられていたのかを――。


 小林さんはタバコをやめた。パチンコにも行かなくなった。「なんか急につまらなくなっちゃってさ」
 そんな小林さんの元を、学会の同志は何度も訪ねてきてくれた。会合に参加するようになると、「奥さんには世話になってね」と、皆から声を掛けられた。顔を合わせるだけで不思議と元気になり、いつしか“俺も誰かを励ませるようになりたいな”と思うようになった。


 地域の人と会うと、「あっ、陽子ちゃんの旦那さんね!」と話が盛り上がる。妻が絆を結び広げた人々と、少しずつ心を通わす日々だ。


 学会では“励ます側”となり、自宅を広布の会場に。胸には陽子さんの写真を忍ばせている。

妻と共に――持ち歩くカードケースに、昔の妻の写真を忍ばせる 


 「母ちゃんが、この信心を一生懸命やっていたのを、ずっと見てきた。その思いを継いでいきたい」。妻の分まで広布に生きると決めている。


(2020年3月13日 聖教新聞)







最終更新日  2020.03.13 22:54:46
2020.03.11

​〈社説〉 2020・3・11 東日本大震災から9年
社会照らす福光10年目の歩み
 東日本大震災から9年がたった。被災地では、ハード面の復興が進む一方、観光や経済の低迷、加速する過疎・高齢化など、課題は山積する。さらには“3・11”以降も、相次ぎ発生する自然災害により、二重、三重に被災した地域も少なくない。昨秋も、台風19号が、三陸沿岸地域等に甚大な被害をもたらした。
 今、東北地方が抱える課題は、日本の課題ともいえる。「心の復興」は、いまだ道半ば。震災から10年目に入る時に、東北の友が何を思い、どう生きるのか、その心に向き合うことが望まれる。
 岩手の大槌町(おおつちちょう)に暮らす婦人部員は、震災で娘と2人の孫を失った。深い悲しみに、月日が流れても心は曇ったままだった。最近まで、町で子どもを見掛けると、つい、目をそらしていたという。テレビや新聞の取材を断り、震災の話は意図的に避けてきた。本音を話せたのは、震災前から寄り添い続けてくれた創価学会の同志だけだった。「頑張ろう」とは言わず、黙って話を聞いてくれたことが、救いだった。やがて会合に参加するようになり、何か一歩踏み出そうと思えた。
 今年になり、震災後初めて本紙の購読推進に挑戦。友人から「元気が出たよ」との感想を聞いた時、胸奥に刺さっていたとげが一つ取れた気がした。「ずっと自問してきた“生かされた意味”が少し分かりました。それは、“娘と一緒に”との思いで広布に走り、私自身が幸福の実証を示すことなんです」。
 以来、彼女は、生き生きと対話に歩けるようになった。

 震災後、被災地域でよく読まれた本に、V・E・フランクルの『夜と霧』がある。第2次世界大戦中、ナチスのホロコーストから生き延びた精神科医フランクルは、同書でつづった。
「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」(池田香代子訳)。
“支えられている”こと以上に、“誰かの支えになっている”という使命感こそが、人間の大きな力を引き出すのであろう。
 日蓮大聖人の御生涯は、大難に次ぐ大難だった。弟子たちにも迫害の嵐が吹き荒ぶ中、大聖人は、利他の行動を貫くよう激励される。苦境の中で他者に尽くすことにより、自身の仏性を開花させる。被災地で献身の行動を続ける同志は、大聖人の御精神を体現してきたともいえよう。
 今日から始まる“10年目”の歩み。それは、学会創立100周年に向けた“人類にとって重大な分岐点となる10年”の第一歩とも重なる。ある被災地のリーダーは語っていた。「“大悪”の後に必ず“大善”は来る。“必ず”というのは確信であり、誓いです」と。創価の師弟が放つ福光の輝きで、社会を照らし続けたい。​



(2020年3月11日 聖教新聞)







最終更新日  2020.03.11 08:12:30

​​​きょう東日本大震災から9年 学会の取り組みと識者の声

 きょう11日で東日本大震災から9年。ここでは、復興に向けた東北創価学会の取り組みと代表の決意、識者へのインタビューを掲載する。

東北のアピール
“最後の一人”まで寄り添い続ける
 東日本大震災の発生から9年――全国・全世界から寄せられた激励、そして何より池田先生の励ましに支えられ、東北は今日まで前進してくることができました。皆さまの真心にあらためて御礼を申し上げます。
 先生は東北の同志に呼び掛けてくださいました。「目の前の一人を励まし、目下の一つの課題を打開すれば、そこから必ず希望の活路が開ける」「題目を朗々と唱え抜きながら、心の復興の大哲学の旗を高らかに掲げていってください」と。

 厳しい状況であればあるほど、不屈の“みちのく魂”を燃え上がらせてきたのが東北家族です。復興に向けた祈りは決して途切れることはありません。むしろ、いやまして目の前の一人の心に寄り添い、“励ましの絆”を日々、強めています。

 本年は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、先行きが見えない不安の中で迎える「3・11」となりました。しかし東北の同志は今、祈りを根本に、知恵を湧かせながら励ましを広げています。
 ある家庭では“ファミリー座談会”を開催。三世代でわが家の広布史や信心の原点を語り合い、苦難に負けない信心の大切さをあらためて確認し合いました。男子部のあるリーダーは、SNSが連絡手段の主流となる中、あえて手書きのはがきにこだわり、一文字一文字に思いを込めてメンバーに送り、心の交流を図っています。

 明年は震災から10年。そして東北広布70周年の佳節となります。この一年、東北青年部では、震災の風化を防ぎ、教訓を未来に生かすために福光連続セミナー「励ましの絆」を開催していきます。また、福島の青年部を中心に、被災体験の証言集作成に向けた、聞き取りも推進する予定です。
 スローガン「我ら東北家族は折伏で勝利! 折伏で築こう! 青年の大城 折伏で果たそう! 福光の誓い」を合言葉に、東北創価学会は被災者の“最後の一人”が立ち上がるまで寄り添い、「心の復興」に全力で取り組んでいく決意です。

東北創価学会の取り組み
 東北の被災地では住宅や交通網などのハード面の復興が少しずつ進む一方、今もなお、約4万8000人が全国で避難生活を余儀(よぎ)なくされている(復興庁発表)。
 これまで東北創価学会の同志は、学会青年部とも連携しながら、甚大な被害に遭った被災者の「心の復興」を願って支援の輪を広げてきた。

音楽隊・しなの合唱団による「希望の絆」コンサート。“少しでも東北の力に”との思いを託して(2014年3月、福島・三春町で) 
 
 2014年3月からは東北の友と音楽隊が手を携えて、「希望の絆」コンサートを実施。宮城や岩手、福島をはじめとする各地で、被災者と共に歩む思いを託した妙音を届けてきた。その公演数は6年間で全国170回を超え、「一歩を踏み出す力をもらいました」等の声が寄せられている。

岩手・久慈市立久慈小学校での図書贈呈式。ある児童は「大切に読み、勉強に役立てたい」と語った(2018年4月)
 さらに、震災によって良書に触れる機会を失った小・中学校の児童や生徒らのために、図書贈呈を実施。「皆さんの思いを大事にしながら読書に励みます」など、喜びの声が多く届いている。

東北文化会館に隣接する「東北福光みらい館」を見学する中華全国青年連合会(全青連)の代表団(2018年7月)
 東北文化会館に隣接する「東北福光みらい館」では、全国・全世界からの真心の励ましや、不撓不屈(ふとうふくつ)の魂で進む東北の同志のドラマを紹介。国内外から訪れた多くの人々に、人間の絆が防災に果たす役割を学ぶ機会を提供している。
 
「国連防災世界会議」の公式関連行事として、東北青年平和会議が開催した東北青年復興フォーラム(2015年3月、宮城・仙台市で) 
 このような復興支援で培った知見や教訓を未来につなごうと、学会の代表が「国連防災世界会議」の関連フォーラム(15年3月)等で発表。信仰を基盤とした団体(FBO)が被災者の心のケアに貢献する事例などを紹介した。このほかにも復興青年主張大会や、震災体験の聞き取りを収めた証言集の発刊などを通して、「レジリエンス(困難を乗り越える力)」を発信している。

インタビュー 宮城学院女子大学 平川新学長
学会が広げた“つながり”が人々に活力与える

 東北大学災害科学国際研究所の初代所長を務めた宮城学院女子大学の平川新学長に話を聞いた。
                     ◇
 ――歴史上幾度も災害に直面し、立ち向かってきた東北の経験と復興の歩みは、災害が頻発する国際社会に重要な教訓を提供しています。
  
 歴史学者として私は東北の人々が持つ忍耐強さと持続力に注目してきました。その象徴が米作りです。
 もともと米は南方の作物であり、なぜ東北で作られているかといえば、東北人の頑張りとしかいいようがありません。東北は、日本列島で最も自然条件が過酷な地域の一つと言っていいでしょう。冬の寒さは厳しく、夏もしばしば寒冷になる。東北がおいしい米の産地という評価を受けるようになったのは、戦後の話です。品種改良や農耕法、肥料の与え方など、約2000年にわたってさまざまな工夫を重ねてきた東北の人々の血と汗のたまものであり、それこそ、度重(たびかさ)なる冷害と飢饉(ききん)を乗り越えてきた結果なのです。

 災害がないことが一番であることは言うまでもありませんが、災害を経験することで、現在の社会に何が足りず、必要なものをどう開発・供給するのかという次の段階に進むことができる。その意味で、災害は人々や社会に大きなダメージを与えますが、同時にダメージを克服する力も生み出す――東北の歴史は、そう教えてくれているのではないでしょうか。

 私たちは今、“3・11の経験”を克服し、社会全体をさらに強くする過程を歩んでいるのだと思います。社会をより良くするには、課題を発見し、教訓として学ばなければなりません。その役割を東北は担っていますし、この9年間は一面、そうした取り組みの積み重ねであったとも思います。

SDGsのビジョンを掲げて
 ――2030年を目指した共通指標として、国連はSDGs(持続可能な開発目標)を掲げています。その一つである目標11「住み続けられるまちづくりを」の推進には、「仙台防災枠組」に沿った政策が推奨(すいしょう)されており、東北の知見が地球社会の目標に重要な視座をもたらしています。
  
 これまで民主主義国家においては、自由・平等・友愛が基本的な理念として広く受け入れられ、理想の社会の姿として語られてきました。しかし、自由・平等・友愛の理念だけでは、あらゆる社会を守るには限界があることも事実でした。

 SDGsの17目標には、現代社会が直面する課題が網羅(もうら)されています。その課題に取り組んでいくことで地球と人類社会は持続可能になるという目標値であり、SDGsは今後、普遍的な理念になる可能性を有しています。そうしたビジョンが掲げられた意義は大きいでしょう。もとより人類の歴史は、皆が安心、安全に暮らせる社会の建設を目標としてきたはずです。米作りにしても、食料の安定供給が目的であり、それは飢えを防ぎ、皆が安心して暮らせるための取り組みでした。しかし、現代の社会は富の偏在が激し過ぎるように思います。SDGsは、そうした社会の在り方を見つめ直す手掛かりにもなると思います。

宗教は社会に関わってこそ
 ――大変な道のりですが、東北の復興の姿は世界の希望になると思います。創価学会としても、“最後の一人が立ち上がるまで寄り添い続ける”との思いで、被災者の「心の復興」に向けた活動に尽力しています。
  
 人間は特定の宗派に属していなくても、祈りの心を持っているものです。祈りという行為は、個人の心の不安定性を取り除くという点で非常に大きな役割を有しています。

 創価学会が大きな組織となってきたのは、その根幹に存在している祈りと理念が、多くの人の共感を呼んだということでしょう。あるいはそうした人との「つながり」が、人々に生きていく活力を与えていった。そこに信頼感があるからこそ、創価学会は社会的に非常に大きな組織になってきたのでしょう。一方で、活動が組織の内部にとどまっていたのでは社会の安定には直結しません。その意味で私は、創価学会の方々が積極的に政治や社会に関わっていることは非常に重要だと評価しています。

 個人レベルでは個人の救済、社会レベルでは福祉の充実に取り組む――そこに創価学会が社会において果たしている重要な意義があると思います。​​​


(2020年3月11日 聖教新聞)







最終更新日  2020.03.11 08:03:36

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