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晴ればれとBlog

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信仰体験

2020.11.22
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カテゴリ:信仰体験

信仰体験 韓国の大手企業で生産保全の中心を担う
    数々の困難が最大の財産に
    韓国SGI 梁 龐烈(ヤン バンヨル)さん

仏法に無駄はない
 私は1971年に、韓国南部の光州(クアンジュ)広域市で、3人兄弟の次男として生まれました。母方の祖母は、韓国SGIのメンバーでした。私自身、創価学会のことは何も知りませんでしたが、祖母が唱える題目の声がいつも心地よかったことを覚えています。



 私は大学進学を目指していたものの、父が体調を崩し、母が家計を支えていたので、経済的に大変に苦しい状況でした。2歳上の兄が大学進学したこともあり、私は就職を視野に工業系の高校に進みました。



 高校1年の時、祖母に誘われて私たち3兄弟はSGIの会合に参加しました。高等部担当者の人柄に引かれ、私だけがその場で入会を希望し、晴れて韓国SGIのメンバーに。日々の勤行・唱題を根本に、会合にも進んで参加していました。



 さて、いよいよ就職という段階になって、希望した企業はなぜか軒並み不採用になりました。担任の教師も「君ほどの優秀な成績で合格できないのはおかしい」と首をかしげるほどです。落胆していた私を、高等部の担当者は「仏法に無駄(むだ)はないんだよ」と、確信を込めて励ましてくれました。



 今の困難も信心の確信を深めるチャンスだと、自らを奮い立たせて真剣な唱題に挑戦。さすがにもう進路を変えた方がいいのだろうかと思った時、偶然(ぐうぜん)にも、当時はまだ知名度が低かった、現在勤める化学メーカーが募集を始めたのです。



 数々の困難を経て、ようやく勝ち取った就職でした。今思うと、この高等部時代に信心の“核”を築けたことが、私の人生の最大の財産になったと思います。

安全情報を随時公開
 就職に伴い、全羅南道(チョルラナムド)の麗水(ヨス)市に移転。最初は、高校時代の専攻を生かした、機械の設備保全の業務に就きました。その後も、さまざまな部署を経て、94年に配属されたのは企業の生産性を高めるTPM(全員参加の生産保全)を担う部門でした。



 TPMの概念は、当時はまだなじみがなく、海外のマニュアルを参考に、自社に合ったものに修正する必要がありました。私にはそれらをこなすスキル(技術)や語学力がなかったので、必死になって勉強を重ねました。そして、数年後には、社内で品質管理に関する指導ができるほどになり、この経験が確固たる技術力を身に付ける基盤になったのです。



 業務で最優先にしていることは「環境保護」と「安全」です。工場内では、発生した有害物質が外部環境に流出することのないよう、徹底して除去し、それらの情報を近隣住民にも随時公開して理解を得るよう努めています。



 若い頃の必死の努力がかけがえのない経験となり、現在は専門課長として工場内の中心者の役割を担っています。毎日、現場に足を運び、安全事項を丹念にチェック。事故を未然に防ぐため、合理的でないところや非効率な点を改善しています。



 また、社内では社員が働きやすい環境づくりを目標に、常に部下への明るい声掛けを忘れずに実践してきました。一人を大切にし、青年に焦点を当てることを、SGIの中で学ぶことができたからです。

左から梁龐烈さん、妻・金恩美さん、長女・梁誓願さん、長男・梁龍鳳さん
地域社会に信頼広げる
 他人の幸福を願って心から祈る大切さも、SGIの活動で学んだことです。もともとわが社の工場内にも冠婚葬祭の互助会がありましたが、さらに地域社会に役立てることはないかと、96年に社内にボランティア活動の組織を立ち上げました。



 今では、私が勤務する工場内の全従業員が加入し、年配者へのサポート、地域の清掃活動や食事ボランティア、子どもセンターの手伝いなど、年間30回、100人を超す規模で活動を続けています。その功績が認められ、2016年には、第1回「麗水自願奉仕(ボランティア)大賞」で金賞を受賞、17年には麗水市の「一日市民市長」に選ばれるなど、地域社会で信頼の輪を広げています。



 そして、18年11月、私は韓国の「国家品質名匠」に選定されました。韓国全土から、毎年、勤労者20人ほどが選ばれ、大統領からの褒章を受けるのです。


 社内外での活動や実績、取得している資格など企業生活の全てが判断材料となり、推薦を受けた後、試験や面接など半年以上を費やし、晴れて選定されたのでした。

2018年の「国家品質名匠」
 就職した当時は小さかったわが社が、今では韓国を代表する世界的なメーカー「LG化学」になり、私もその中で最高の待遇を受ける社員になることができました。定年まで残り10年ですが、品質向上のために磨いた力を次世代につなげていきたいと思います。



 思えば、かつて高等部担当者の先輩が言った通りになりました。御書には、「過去の因(いん)を知らんと欲(ほっ)せば其(そ)の現在の果(か)を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(231ページ)と仰せですが、全てに意味があると実感できたのです。



 広布の庭では、壮年部本部長として、妻の金恩美(キムウンミ)は圏婦人部長として奮闘しています。また、長男・梁龍鳳(ヤンヨンポン)は男子部部長、長女・梁誓願(ヤンソウオン)は未来部の一員として、創価後継の道を歩んでいます。一家和楽の信心を続けながら、師匠への報恩感謝の思いを胸に、朗らかに前進していきます。


(2020年11月22日 聖教新聞)







最終更新日  2020.11.22 13:19:49


カテゴリ:信仰体験

信仰体験 名物母ちゃん
精肉店で働くコスプレ事業部長

金子恵美子さん(50)
支部副婦人部長 地区婦人部長 兼任


 【岩手県・普代村】肩書は「コスプレ事業部長」。エンタメ系の仕事かと思いきや、金子恵美子さん(50)の勤め先は、村の精肉店である。


 月に1回、店ではコスプレ・デーを設けていて、金子さんが好きなタレントやキャラクターの仮装をして、お客さんを迎える。


 観光サイトでは、「会いたい! 三陸人」として、金子さんが紹介されているが、どうもコスプレ写真にクセがある。というか、クセしかない。濃厚なキャラを生んできた恒例イベント。新たなキャラの誕生を目撃すべく、普代(ふだい)村へ向かった。

こどもの日に現れる“人間こいのぼり”

獅子舞より顔のクセが強くてごめんなさい!

 この日のコスプレは、金子さんが「一番、生まれ変わりたい顔」と憧れるタレントだと聞いていた。
 ぱっと見たところは、ワンピース姿のやわらかな雰囲気である。そこで、こちらがガードを下げたのが間違いだった。じっくり顔をのぞくと、笑いのツボにはまって抜け出せなくなってしまう。


 名札には「石原ささみ」の文字……。それ以上は掘り下げまい。どうして、こうなってしまったのだろうか。ゆっくり現実を受け止めることにした。

実物とは似て非なる現実。思い通りのクオリティーに仕上がらなかった時は、自らキャラ名を名乗り、力わざで乗り切る。そういえば、この日も、やたらと「石原ささみです」と連呼していた

 店の前をランニングをする中学生たちが通ると、金子さんがすかさず表に出て、「頑張ってねー」と手を振る。横目で見てしまったが最後、思わず吹き出し、体力が削られていく。恐るべき攻撃力である。
 店には、SNSでコスプレ・デーの案内を見た、お客さんたちが次々とやって来る。「えっ、意外にかわいい」「一緒に写真撮ってほしい」と好反応。不思議の国に迷い込んでしまった気がした。


 毎月、コスプレのキャラを決めると、金子さんは徹底的に動画サイトで研究する。今回のマスクの制作時間には6時間を費やしたそうだ。


 金子さんに、目指す先を聞いてみたところ、「歩くパワースポットになりたい」と。予想もしなかった返答に、こちらの処理能力が追い付かない。


 それに、そのマスクで凝視されると全く話が頭に入ってこない……。一度、心を落ち着かせ、翌日、素顔の金子さんに話を聞くことにした。

ハロウィーンの日は、客も仮装で来店。一日中、爆笑が続く

そのマスクで見られると、全然、話が入ってこないのですが……
 青春を振り返ると、嘔吐(おうと)に苦しんだ日々が鮮明に浮かぶ、と金子さんは言う。小学生の時から、吐(は)き気をもよおすと1週間は嘔吐が続き、バケツから顔が離せなかった。自律神経失調症と診断された。


 入退院を繰り返し、高校は中退。

「なんで私だけ、こうなんだべ」。青春を謳歌(おうか)する友をうらやみ、自らの境遇を卑下した。


 鈍色の人生に光を注いだのは、ある壮年の一言だった。知人に誘われた創価学会の集い。「この信心でおまえさんの病気は治るよ」。その響きに温もりを感じ、入会を決めた。


 すぐに障魔が競う。


 勤行を教わりに通っていた同志の家に、母親が乗り込んできた。荒々しく怒りをぶちまける様は、鬼に見えた。1人暮らしのアパートでも、大家から「そんなとこさ入ったら、ここにはおいてられない」と追い出された。


 18歳の心が揺らぐ。「でも信心から遠ざかると、どうも具合が悪くなる」。信心を遮ろうとする雑音を題目で打ち消した。いつからか、あれほど苦しんだ病も好転していた。

 金子さんが信心に励むほどに、試練の雨脚は強まっていった。


 24歳で結婚。授かった男の子は虚弱体質だった。小さな体で懸命に明日へと生きようとする姿に、何度も涙し、勇気をもらった。しかし、ぜんそくが悪化し、息子は1歳9カ月で息を引き取った。


 心が枯れるほど、泣き明かした。離婚も経験し、これ以上どん底に落ちることはないと思った。


 しかし、苦難は続いた。


 弟がアルコール依存症になり、地獄が始まった。窓ガラスを割って家に上がり込み、短刀を振りかざす。親の年金を酒に変え、かんに障ると暴力を振るった。警察沙汰は日常茶飯事だった。


 そこへきて、母親が脳出血で倒れた。父親の日常の世話をしながら、看病に当たる日々。試練の雨が激しくたたきつける中で、心をつなぎ止められたのは、隣に寄り添い、傘をさしてくれる人がいたから。


 勤行指導の時から、ずっと面倒を見てくれた下道静子さん(77)=婦人部副本部長。育ての親となって、時に温かく、時に厳しく、いつも金子さんを悲しみの淵からすくい上げてくれた。「下道のお母さんがいたから、私の帰る場所があった」
 だからこそ、つらくても苦難に立ち向かえる自分がいた。怖くても毅然と弟と向き合い、施設で更生させることもできた。


金子さん㊨が18歳で入会して以来、育ての親となって、支え、励まし続けてくれた下道さん㊧。カメラを向けると、すぐにおちゃらける金子さんに、「こんな子に育てたつもりないのに」と笑う
 ただ、5年前に乳がんが見つかった時は、「さすがに難がありすぎんこと」と嘆(なげ)いた。震えて眠れない夜もあった。でもメソメソしていると、下道さんが現れ、ビシッと弱い心をたたき出してくれた。がんは投薬治療で小さくなり、手術で無事に切除することができた。


 受難の半生に鍛えられ、人の痛みを知れる自分になれた。笑う時間が心を癒(い)やしてくれることも知った。だから、みんなが笑顔になればとコスプレを始めてみた。想像以上に村の人たちが喜んでくれ、店の定番イベントになった。


 しかし、2年前――。


 金子さんにがんの転移が見つかった。「1度目よりショックは大きかった」。それでも、「人生は進むわけだから、笑って生きていきたい」とコスプレを続けることにした。


 店のブログでも、がんを公表。すると、闘病中の人が店を訪ねてくるように。金子さんの励ましに涙し、コスプレに大笑いしと、感情が大忙しだが、最後は「元気をもらえました」と笑顔で帰っていく。


 その姿を見送りながら、金子さんは池田先生の言葉を思う。


 「必死に宿命と戦う中で境涯を開いてこそ、人々の苦しみが分かり、誰をも励ませる、慈悲深い人間になるのです」


 宿命との戦いは続く。だからこそ病魔を笑い飛ばし、どんな境遇でも、心一つで希望が生まれることを自らの姿で伝えようと決めた。


 次のコスプレでは、一体どんな姿を見せてくれるのだろう。歩くパワースポットになる日も、そう遠くないのかもしれない。(康)

取材余話
 コスプレ・デーが開催された日、上神田精肉店には盛岡から2人のご婦人が訪ねてこられた。


 2人とも、がんを患っていて、闘病中とのこと。金子さんの話を聞きつけ、車を走らせてきたという。


 接客の合間、2人の苦悩に寄り添うように話を聞く金子さん。深くうなずきながら、「私も何回もどん底に落ちましたよ」と。「でも、冬は必ず春となりますから。どうせ生きるなら、笑って頑張りましょう」


 涙をこぼし、何度も何度もうなずいていた2人のご婦人が、帰り際に語ってくれた。


 「私たちも病気してるから分かるけど、苦しい時に笑顔になるのは本当に難しい。芯があるんだろうね。あの人には。本当に会えてよかった」


 なぜだろう。あれだけ度肝を抜かれたマスクの表情が、不思議と優しく見えた。



盛岡から駆けつけた闘病中の2人のご婦人と。店の前で、温かなひとときが紡がれていた

心は永遠の少女! ビッグまる子だよ!

とん山の金さんが、肉の争いを成敗する!

日本人選手初となる全肉オープンの覇者!

かの有名な大御所の演歌歌手。祭りだ~肉祭りだ~!

旦那と別れ、自由を満喫する出戻り雛よ!

(2020年11月22日 聖教新聞)







最終更新日  2020.11.22 13:16:29
2020.11.21
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 エッセンシャルワーカー⑤ 障がい児施設の施設長・看護師

​    “置き去りにしない”ために
 【北海道江別市】隣接する札幌市では、新型コロナウイルスの感染が急速に拡大。警戒ステージが「4」に引き上げられ、条件付きで自粛要請が出された。西部久美さん(48)=婦人部副本部長=は毎日のように、行政からの電話を受ける。多機能型児童通所施設・短期入所事業所「風の丘」の施設長。どの施設や学校で感染者が出たか、利用者の中に関係者はいないか、情報交換を行う。ウイルスが猛威を振るう中、子どもたちの“居場所”を維持できるよう、悪戦苦闘を続けている。

大切な赤ん坊を預かる。その責任の重みを腕に感じながら
抜苦与楽の心で接する
 玄関を入ると、大きなホワイトボードがある。
​

 今朝は送迎車で何人が来て、帰りは何時になるか。お泊まりするのは誰か。赤、青、黄などのマグネットで色分けされ、利用者一人一人の行動予定が分かるようになっていた。
  


 この日は、朝から女子高生が車いすでやって来た。首も腰もすわっておらず、しゃべることもできない。重症心身障がい児である。
 


 胃ろうからの栄養剤注入、たんの吸引などが必要で、24時間、目が離せない。両親は共働きで、夜間は呼吸器を装着するために母が付きっきり。そのため日中に預かることが多いという。
  


 体調が良ければ、特別支援学校に通うこともあるが、車で往復1時間かかるため、なかなか行けないのが実情だ。


 「それでも学校は数少ない学ぶ機会。JK(女子高生)らしい経験もしたいよね」。そう西部さんが語り掛けると、彼女の表情がわずかに変化したように感じた。
  


 「反応しなくても、周りの会話は聞いてるんです。ほんとかわいいんですよ」
 

「この子をいつまでもお風呂に入れてあげたい」。体力の維持も欠かせない仕事の一つ
 施設には、発達障がい児もいれば、彼女のように重度の子も。江別市で唯一、医療的ケア児を受け入れる。
  


 2階の一室には、3歳の男児が寝ていた。「この子は元気なので、『動く医療ケア児』って呼ばれているんです」


 見た目は健康だが、心臓が奇形でこれまで3度の手術を受けた。血栓ができない薬を服用。出血すれば止められないため、見守りが欠かせない。
  


 保育園には受け入れてもらえず、入院もできない。そんな子たちが居場所を求めて、行き着いた先が「風の丘」だった。
  


 医療的ケア児を受け入れる事業所は少なく、経営も安定しづらい。同施設も一昨年、経営難に。当時、パートだった西部さんが管理者の資格を取り、昨年から施設長に。課題は山積するが、「ここを頼みにしてくださる人がいる。できる限り、努力したい」。譲れない使命があった。

 旭川生まれ。6歳で父が腎臓がんに。入院した父を、母が泊まり込みで看病。寂しく留守番する西部さんに「題目をあげよう」と地域の同志が声を掛けてくれた。それからは勤行・唱題を欠かさなくなった。病を克服した父と一緒に勤行した後、御書を拝読するのが日課に。


 手に職をと言われて、思い浮かんだのが看護師だった。
  


 初めて配属されたのは、NICU(新生児集中治療室)。そこで医療的ケア児に関心をもった。早く生まれたり、小さく生まれたりした赤ん坊は、さまざまな理由で医療・看護を必要とする。


 西部さんは、わずかな変化も見逃すまいと保育器のそばに立ち、計器の数値を見つめた。24時間体制で看護に当たる現場は、いつも緊張感にあふれていた。
  


 奇跡的に命が助かった赤ん坊がすくすくと育ち、母子が一緒に退院するのを見送る。達成感のある、かけがえのない瞬間だった。


 ある時から、“その先のこと”が気に掛かるようになる。

 医師や看護師などチーム一体で支えてきた、小さな命。だが退院してしまえば、母親一人で背負わなければならない現実が多くあった。


 障がいのある子、酸素吸入が欠かせないまま退院する子もいる。退院前、不安を口にする母親の本音を何度も聞いた。どうすれば寄り添えるだろうか。仏法で説く「抜苦与楽」とは何かを自問する。“いつか在宅の子どもに携わりたい”との思いが募った。
  


 その後、西部さんは結婚し、2人の子を出産。PTA副会長を務めるなど、積極的に地域に関わる。学会では白ゆり長から地区婦人部長、支部婦人部長を担い、配達員も買って出た。実感したのは、地域全体で人を育む大切さだった。池田先生が教えてくれた「誰も置き去りにしない」使命の大きさを知った。
  

 子育てが一段落すると看護師に復帰。デイサービスで働いた後、転職した先が今の施設だった。
  
 立ち上げたばかりの事業所で、当初はパート勤務。実際に携わって見えたのは、孤立し疲弊する親たちの姿だった。子の存在をひた隠しにする親もいれば、愛し方を知らない家庭もある。他のきょうだいが、なおざりにされている場合もあった。
  


 西部さんは、できることは小さくとも、目の前の一人に向き合おうとした。
 

「お母さんたちに、一杯のコーヒーを楽しむ時間を取ってほしい。ほんの少し自分の時間を持てるだけで、『明日も頑張ろう』と前向きになれると思うんです」 

 施設長となって半年後のコロナショック。やっと利用者が増え、軌道に乗りかけた頃だった。


 災害時と同様、しわ寄せはいつも、意思を伝えられない弱いところにやって来る。
  


 今年2月、休校措置が取られると、特別支援学校やその寄宿舎も例外ではなかった。


 利用者の親にはシングルマザーや、コンビニで仕事を続ける人もいた。さまざまな事情で自宅にいられない子は、行き場を失った。
  


 普段なら、放課後や土日だけの利用者が、平日の朝から夕方まで居続ける。「足の踏み場もないほど」過密だった。


 苦渋の決断で休業した事業所からの、受け入れ希望も相次いだ。スタッフと心を合わせ、懸命に開所し続けた。

 マスクができない自閉症の子。思わぬ予定変更にパニックを起こす子。マスク越しの介助だと食事を受け付けない子もいる。
 

 
外で遊んでいれば非難の声が飛び、理解されない場合も多い。子どもの側に立ちながら、西部さんは優しく、時に厳しく接する。


「世の中には、『信じられる大人がいる』と、この子たちに思ってほしい。その一人でありたい」
  


 取材の途中、男の子が「にしべー」と呼びながら、近寄ってきた。抱っこしてもらいたいらしい。西部さんがぎゅっと抱き締めると、彼の表情がゆるんだ。
  


 “全ての子どもにとって、そんな光景が当たり前になるべき”――西部さんと同じように、人を笑顔にするために働く人は津々浦々にいる。

(2020年11月21日 聖教新聞)







最終更新日  2020.11.21 07:06:33
2020.11.20
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 日向灘の恵みに感謝 潮風浴びて漁師56年

逆境に勝利の活路あり!
後縦靱帯骨化症に負けず海に出る

網に掛かった伊勢エビを「手かぎ」を使って外す岩﨑さん。「漁は、幾つになってもおもしろい」と
 【宮崎県延岡市】海に生きて半世紀。筋金入りの漁師・岩﨑敏明さん(71)=支部長=は闘病など、人生の荒波に幾度も襲われた。そのたびに“逆境にこそ勝利あり”と、試練の時も船を出し続けた。海の男がつかんだ確信と心の宝とは――。
 

   
 複雑に入り組んだリアス式の海岸が美しい、日豊(にっぽう)海岸国定公園の一角。県最北に位置する直海(のうみ)港は、夜ごと沖合に出漁する船でにぎわう。


 建網漁師の岩﨑さんが狙うのは、旬の伊勢エビ。用いる網は全長65メートル、5センチ四方の網目になっている。これを7反、海中の魚やエビの通り道に仕掛け、獲物を絡め取るのだ。
  波が、2・5メートルと高かったある日。


 海のうねりを見た同業者は「漁は無理じゃ」と嘆いた。


 午前3時。岩﨑さんは天気図をにらんでいた。家の縁側から、じっと波の様子をうかがった。月明かりはなく、うねりがある……。これは、岩穴に潜む伊勢エビが、エサを求めて活発に動く条件。大漁のサインでもある。


 御本尊の前に座り、深く祈った。しばらくしてパーンと膝を打った。「ここは勝負じゃね!」
  
 無謀な“直感”に懸けたわけではない。漁師歴56年の経験が、岩﨑さんを突き動かす。
 前日昼に仕掛けた網まで、港から約5キロ。0・8トンの小型船「福栄丸」の船外機がうなりを上げた。亡き父親から譲り受けた愛船である。


 四方の闇を船の作業灯が照らす。岩礁に打ち付ける荒波の音。顔を刺す波風。船は何度も大きく振れ、しぶきをかぶる。ハンドルを握る手にも自然と力が入る。
 波間に目印の“ウキ”が見えてきた。電動ローラーで網を巻き上げにかかる。「掛かっちょるね!」。大漁の手応えを感じながら、網から獲物を外す。
 

「ギー、ギー」と伊勢エビの威嚇音(いかくおん)が響く。クロダイ、カワハギも掛かり、甲板の上で跳(は)ねる。その生きの良さが、日向灘の豊かさの証しだ。
 4時間に及ぶ洋上の格闘を終えると、岩﨑さんは「きょうも守られた」と右手に目を落とした。実は、五本の指全てが、第一関節から先の感覚がない。それは病によるものだった。

 2018年(平成30年)10月。指のしびれがひどくなり、食事中、箸を落とすようになっていた。


 医師は「頸椎後縦靱帯骨化症(けいついこうじゅじんたいこっかしょう)」と診断した。首の靱帯(じんたい)が骨化し、神経を圧迫することで神経障害をもたらすという。
 厚生労働省の指定難病と告げられた時、岩﨑さんの心の傷がうずいた。前年の2月、次男の健司さんが病のため、33歳の若さで亡くなっていた。


 先天性の心臓病だった健司さん。丈夫な体になってほしいと、二人きりで船に乗り、漁に出たことも忘れられない。
 “次男に続いて俺にも病魔か……なぜだ……”。70歳を前にして宿業の鉄鎖(てっさ)に苦しんだ。真剣に唱題を重ねる中、これまでの来し方に思いをはせた。

 ――漁師の父親の背中を見て育った。経済苦で家庭内のけんかは絶えなかった。中学を卒業後、海に生きると決め、船団に入った。
 19歳の時、友人の父親が小説『人間革命』を渡してくれ、衝撃(しょうげき)を受けた。「広宣流布」という壮大なロマン。心から求め続けた「一家和楽」の人生。


 父親は信仰を知り、激怒した。周囲からも無理解の非難を受けた。歯を食いしばり、“この信心で誰もが認める一流の漁師になってみせる!”と誓った。
 毎日のように、船上で寝泊まりして漁に出た。懸命に働く姿を船団の親方は見ていた。いつしか重責を担うようになっていた。
 1976年には、君子さん(69)=支部副婦人部長=と結婚。3人の子どもを授かった。今では孫に囲まれ、和楽をつかんだ。そんな時の人生の難局だった。


 胸に込み上げてきたことがある。「親の信心で子どもを救う。子の信心で親も救える!

 俺の心がここで退いたら、誰も幸せにしてやれん!」
 昨年1月、人工骨を7カ所、首に埋め込む手術を受けた。リハビリは激痛を伴った。
 

「辛抱強い夫の顔がゆがむのを、初めて見ました」と君子さん。回復を願い、懸命に題目を唱えた。


 “もう一度、夫を海に出させてください”

日向灘に注ぐ太陽の光を浴びる
  
 手術から半年後――。船上で潮風を浴びる岩﨑さんの姿があった。漁に出る喜びにあふれていた。
 「妻も作業を手伝ってくれて感謝よ。建網漁やからこそ、この年でも続けられるのもあるんよ」


 この漁法を始めたのは60歳の夏。それまでは、20人からなる巻き網漁の船団員だった。
 当時、岩﨑さんが操(あやつ)る灯船(ひぶね)は、集魚灯(しゅうぎょとう)で魚群を集める役割。魚との“知恵比べ”に、醍醐味(だいごみ)を味わった。そして還暦を一つの区切りとして、45年間働いてきた船団を退(しりぞ)いた。
 陸に上がり心機一転、学会の組織で地区部長に就く。地域では民生委員としても尽くすように。充実した日々だったが“やっぱり漁に出たい……”と、母屋にあった父親の船と網を手にした。
  
 「おやじは最後まで信心せんかったけど、この船を使えば親孝行もできるち思ったね」


 素人同然でスタートした建網漁。当初は網にゴミばかりが掛かった。悔しくて同業者の仕事を見て学び、試行錯誤(しこうさくご)を重ねた。今は、腕利きの伊勢エビ漁師として教えを請われる側だ。
 「海に生きてきた。いや、海に生かされてきたんだ。人生の荒波にもまれた瞬間こそ、ひるまず前に進む。そうすれば道は開けるんよ。それを信心が、海が教えてくれた」
 突然のコロナ禍は、鮮魚の値崩れを引き起こし、多くの漁師の生活を直撃した。しかし、岩﨑さんは動じない。漁に向け、きょうも網の手入れを続ける。


 潮焼けした顔に刻まれた一本一本の笑顔じわが、つかんだ「心の宝」の証しに見えた。
(宮崎支局発)

夜明け前。岩﨑さん㊧と妻・君子さんの作業の一こま
夫婦円満のコツは「互いを思いやること」と岩﨑さん㊨と君子さん

( 2020年11月20日  聖教新聞)







最終更新日  2020.11.20 21:18:09
2020.11.19
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 〈スマイル 自分らしく〉 私の悩み・・・長女の脳梁欠損症

希望の青空 必ず開ける


陽菜(前列左)は今、5歳。療育の学園で「ひなさま」って呼ばれてる。どんな時も堂々としてるし、興味がないことには素っ気ないから、女王様みたいって(笑)。結菜(右から2人目)は2歳になった。お姉ちゃんが大好きで、「ねえ(姉)ねえ」って呼んで、じゃれ合ったり、陽菜の車いすを押してあげたり。かわいい二人のやりとりを見てる時が、一番幸せ



 「夫と出会うまで、宗教には全く興味がありませんでした」と、小阪菜見(なみ)さん(36)=埼玉県狭山(さやま)市、副白ゆり長=は言う。夫・弘之さん(36)=男子部本部長(部長兼任)=や義父母の人柄に引かれ、結婚から2年後(2013年)、創価学会に入会した。ある日、夫と一緒に地区座談会へ。皆、悩みを赤裸々に打ち明けていた。「一緒に祈るからね」「頑張ろうね」と周りの人が声を掛けている。“あったかい人たちだな。こんな世界があったんだ”――学会や信心のことを少しずつ理解していた頃、菜見さんのおなかに命が宿った。待望の第1子は女の子。太陽のような明るい子にと願って、「陽菜(ひな)」と名付けることにした。


「大丈夫だよ」夫の目にも涙
 陽菜の産声が聞こえた時、“無事に産めた”って、ホッとした。でも聴力検査の結果が良くなくて……。
 陽菜を抱き、祈るような思いで、大学病院に向かった。お医者さんの顔は暗かった。

「急激に頭が大きくなっていることが気になります。中で出血してるかもしれません」


 すぐ入院になった。“これから、どうなっちゃうんだろう”。怖くて不安で、体が震える。その夜、夫と一緒に御本尊様の前に座った。お題目の途中、涙があふれてきて、声が出ない。「大丈夫だよ」って夫が声を掛けてくれた。夫も目が真っ赤になってた。


 陽菜は「脳梁欠損症(のうりょうけっそんしょう)」と診断された。右脳と左脳を結ぶ脳梁の一部が欠損してて、「運動機能に影響が出るかもしれません」と言われた。もう一つ、「娘さんの耳は全く聞こえていない状態です」って……。夢であってほしいと思った。


「必ず守られる」励ましの言葉
 耳元で、「陽菜」って呼び掛けても反応がない。抱っこしても、手をつないでも、嫌がられちゃう。顔を近づけても、そっぽ向かれて。陽菜が心を開いてくれないのは、私の不安が伝わってるからかな……。
 音のない世界で、陽菜はどんなことを思っているんだろう。母親なのに分かってあげられない。そのことが悔しくて、情けなくて。


 実家の母やお義母さんに支えられながら、毎日毎日、陽菜と向き合ったけど、思うようにいかないことばかり。落ち込んでいた時、家のピンポンが鳴った。ドアを開けると、婦人部の先輩だった。「菜見ちゃん、大丈夫? 頑張ってるね」。あったかい声だった。優しい笑顔だった。涙がポロポロこぼれた。


 私の状況を聞いてくださった後、「実は私もね……」って、お子さんの闘病の経験を話してくださった。「お題目だよ。負けないで! 必ず守られるからね」。この励ましに、どれほど救われただろう。自分の心ごと包んでもらった気がした。


 陽菜が10カ月になった頃、ろう学校への母子通学を始めた。同じ月齢の子たちはハイハイしたり、ママとニコニコ見つめ合ったり。


 だけど、陽菜はあおむけのまま、手足をバタバタしてるだけ……人見知りもひどくて、ずっと泣いてた。


 周りが心配するくらい号泣しちゃうから、いつも隅っこで陽菜をあやしてた。寂しかった。周りのママ友さんたちとも、子育ての悩みが違いすぎて、孤独を感じてた。


 よく、〈ママは赤ちゃんの泣き方で求めていることが分かる〉って言うけど、私は陽菜の気持ちを分かってあげられない。泣きやまない陽菜の頭をなでながら、何度も「ごめんね」ってつぶやいた。


心の余裕は祈りから
 心が苦しくなるたび、私はいつも池田先生の本を開いた。


 「つまずいたっていい。転んだっていい。子どもと一緒に、何度も起き上がればいいのです」「出口のないトンネルなどありません。苦しくても一歩一歩、母子で手を取りあいながら前へ進んでいけば、必ず目の前に青空が開けてくるのです」


 そうだ。私と陽菜にも、きっと、青空を見上げる時が来る。母親の私がくじけたら、陽菜のことを守れなくなる。負けてたまるか!


 “陽菜の気持ちを、もっと分かってあげられますように”。お題目をあげればあげるほど、生命力が強くなって私の笑顔も増えていく。私が元気になると、陽菜もニコニコ笑ってくれることが増えた。


 1歳を過ぎて、陽菜と一緒に療育に通うことにした。お医者さんから「陽菜ちゃんの体は人より過敏で、筋肉の発達が遅れています」って。抱っこや握手を嫌がったり、ハイハイできない理由が分かって、心のモヤモヤがすっと消えた。


 療育の学校では、素晴らしい先生やお友達に巡り合うことができて、陽菜もうつぶせで顔を上げたり、ずりばいや、おすわりもできるようになったり。家族以外の人にも笑顔を見せるようになった。


 うれしかったのは、年を重ねるごとに、陽菜が聴力を少しずつ取り戻していったこと。音の鳴るおもちゃを喜んでくれたり、「抱っこ」って言ったら両手を上げてくれたり。3歳になる頃には、お医者さんから「40デシベル(ささやき声程度)にも反応がありますね」って。うれしくて、夫の手を取り跳び上がって喜んだ。


 この頃、次女の結菜も生まれて、トンネル続きだったわが家に、ようやく出口の先の青空が見えてきた。


おでんのぬくもり
 でも、結菜(ゆな)が生まれて4カ月後、母が原因不明の病気で入院し、夫も仕事中、左手に大けがを負った。追い打ちを掛けるように、今度は父の肺にがんが見つかって……。


 抱っこひもで結菜を抱き、陽菜を療育に連れて行きながら、夕方には両親のお見舞いに駆け付けた。夫と母は快方に向かっていたけど、父の病状は悪化するばかり。


 “もう無理”。心も体もクタクタになってしまって、ご飯を作る気力もなくて……。そんな時、またピンポンが鳴った。「おでん、作り過ぎちゃったから、よかったら食べて」。婦人部の先輩だった。私が苦しいこと、どうして分かるんだろう。湯気の向こうのあったかい笑顔。おでんのぬくもり。絶対に忘れない。


 皆さんの祈りに包まれ、父も最後まで病に負けず、明るく闘い、眠るように旅立っていった。父は生前、私によく話してた。「陽菜はすごい子だよ。陽菜に教えられることはいっぱいあるぞ」って。


 父の言葉の通り、陽菜は驚くほどの成長を見せてくれた。オムツを替える時、足を床につけて踏ん張れるようになったし、私や夫と目を合わせて、目で意思を伝えてくれるようにもなった。横に寝てる結菜の頭をなでてるのを見た時、“お姉ちゃんなんだな”って、ほっこり。そんな姿を見るたび、私の胸には、父のうれしそうな笑顔が浮かぶ。


 信心を始めて7年。たくさんの「励まし」に支えられて、今、娘たちと笑顔で過ごせる。今度は私が誰かを支える番。夫と一緒に、恩返しの人生を歩んでいきたい。


(2020年11月19日  聖教新聞)







最終更新日  2020.11.19 19:57:49
2020.11.18
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 雨のち笑顔でいのち輝け 

    激闘 前立腺がんとの4年半
    娘に言った。「お父さん、絶対治すから」

苦しみも葛藤も一切越えて、師匠を求めた。「池田先生は分かってくださっている」。谷口さんの笑顔は極上に輝く
【大阪府門真市】命を懸(か)けた修羅(しゅら)の中でこそ、つかみ取れるものもある。2016年(平成28年)6月、社会保険労務士の谷口達洋さん(48)=副本部長(支部長兼任)=は、前立腺がんの告知を受けた。転移もしており頭蓋骨に5センチ大の腫瘍が見つかった。光を求めたセカンドオピニオンでは「余命」の二字を聞く。命の瀬戸際で深い苦悩に苛(さいな)まれながらも、谷口さんが手にした痛切な思いとは何だったのか。
 


左から谷口さん、長女の洋美さん、妻の悦子さん。撮影時も、家族の輪から笑い声がひたすら飛んでいた
 谷口さんの半生をたどる時、いつも題目の響きがある。


 トラック運転手をしながら社労士試験の狭き門を突破した29歳、妻の悦子さん(56)=副白ゆり長=と結婚した32歳、赤いランドセルを背負った長女の洋美さん(14)=中学2年=の入学式で目を細めた41歳。気迫の題目で人生を好転させてきた。


 がんの告知はそうではなかった。


 唱題しても喜びが出てこない。涙なら出た。これといった自覚症状がないのに、がんの悪性度は高く、医師から「手術はできない」と説明された。


 受け止めきれなかった。「治すしかないね」。悦子さんの声に頭を上げた。
 支部の同志数人には打ち明けた。


 ある夜の会合終わり、30畳ほどの個人会場の前方で小さい車座を作った。小学4年生だった洋美さんは、後ろで絵を描いていた。
 

「娘に知られたくなくて小声で話したんです。心配させたくなくて……」


 洋美さんは聞いていた。担任に泣きながら胸の内を明かした、と連絡があった。


 元気に登校したのに。めったなことでは親の前でも泣かないのに。胸を締め付けられた。


 谷口さんは夕方のバス停で、娘の帰りを待った。


 車通りの多い道を2人で歩きながら、全てを話した。
 

「お父さん、絶対治すから」


 大きくうなずく娘の瞳に、ようやく腹をくくった。

揺れ惑う心
 毎日の服薬と3カ月ごとに注射するホルモン治療が始まった(男性ホルモンを遮断することで前立腺がんを抑える)。


 治療の影響で、ホットフラッシュと呼ばれる症状が出た。仕事の打ち合わせ中に突然汗だくになり、ハンカチを出して「汗かきなんです」とごまかした。倦怠感(けんたいかん)もあった。


 食事療法を続けながら家族で囲む食卓には、いつもの明るさがあった。谷口さんは娘の屈託のない笑顔を見ていると、うれしくなった。ただ、同時にこうも思った。


 俺はこの子の未来を見られるのか。


 この自問一つで、暗闇(くらやみ)に落ちていく。落下の衝撃(しょうげき)も尋常(じんじょう)ではなかった。谷口さんの父親も40代でがんを発症し、世を去った。


 死の怖さなら題目で越えたはずだった。しかし暗い寝室で布団にもぐると、不安でたまらない。
 「明」と「暗」のあいだを揺れ惑う時、人は何をもって生き抜くのか。谷口さんは支部長として励ましの人生を歩む。


 「がんは学会活動を休む理由になりませんから」


 みんなといると元気になれた。笑い話もたくさんした。折伏となれば深夜でも駆け付け、会えない人には手紙を書いた。筆を進めると自分が励まされていることに気付いた。
 

「がんじゃなかったら、ぐうたらな支部長やった思います」

娘の懸命な声
 力強い支えをもらったのは、告知から1年半が過ぎた年の瀬だ。


 1階の仕事場に座卓がある。そこで洋美さんが冬休みの宿題の書き初めをしていた。姿勢正しく一本の筆を握り、半紙に「希望」と書いては乾かし、また書いた。


 谷口さんが階段を下りてきた。「うまいじゃないか」。どれも墨汁(ぼくじゅう)をたっぷりつけた力強い筆致(ひっち)だった。谷口さんは床一面に散らばる「希望」の字を何となく眺めていると、一枚一枚が娘の懸命な声のように感じてきた。


 生きて――。


 胸の奥が温かくなった。「1枚もらっていいか」。仕事机の真正面にあるキャビネットに張り付けた。それは紛(まぎ)れもなく希望そのものだった。だから思った。宿命転換してみせる。

洋美さんが小学5年の時に書いた「希望」。ふさぎ込みそうになる父を絶え間なく引っ張り上げた


題目で突き抜けろ
 心の揺らぎは簡単に収まらなかった。収まらなかったが、谷口さんは怒濤(どとう)の唱題を開始した。自分に「いつか」はない。これまでの人生で唱えたことのない題目の質のみならず量だった。


 「設(たと)い業病(ごうびょう)なりとも法華経の御力(おんちから)たのもし」(御書975ページ)


 もちろん病魔は谷口さんの隙を狙う。それを吹き飛ばすほどの風を、谷口さんは感じていた。


 「池田先生の一言一言が、生命の真ん中に響くんですね。弟子の命を本気で救おうっていう。弟子が命懸けで悩まないと、池田先生の慈悲って分からないんだと思いました……すいません、ボロボロ泣いてもうて」


 池田先生につながる題目また題目そして題目。表層の雑踏を離れ、命の奥底に祈りが向かった時、谷口さんはかつぜんと光を見る。
 

「もう治療がどうこうじゃない。池田先生と共になら、何があってもいいじゃないかっていう喜びを感じたんです」


 葛藤(かっとう)を突き抜けて、心の揺らぎが丸ごと宝となっていく。18年7月、ついに全身から病魔が影を潜めた。

師を思い、一遍の題目に億劫の辛労を尽くす。「すがっている題目は一遍もない」と激闘を一番近くで見る悦子さんが言う


「希望の星やぞ」
 この格闘は同志の追い風になった。闘病する友の励ましに、谷口さんの体験が語られている。


 ある壮年に言われた。「病気で悩んでる人みんなに、谷ぐっちゃんの話をしてんねんで」。そして続けた。「希望の星やぞ」。その言葉を聞いた時、谷口さんのまぶたの裏には、娘の書が浮かんでいた。
 安心の区切りといわれる5年を目前に、血液中のPSA(腫瘍マーカー)が正常値の範囲内で微増した。
 ゆるやかな右肩上がりの時系列グラフを手にしても、嘆(なげ)かず、動じない自分がいた。


 「仁王立(におうだ)ちになって戦う姿を、みんなに見せたい」


 闘病の腹を固めてからの日課がある。家族3人で朝の勤行・唱題をすることだ。


 「一緒に祈ってくれてるので、家族で宿命転換できる勇気をもらってます」


 谷口さんの隣で洋美さんのはつらつとした声が、宿命の鉄鎖(てっさ)を断ち切る。

洋美さんが小学校の卒業式の日に教室で、親に贈った「いつもありがとう賞」。下の手紙には、つらいはずの父から「大丈夫」という言葉を聞けた喜びが


常勝の風
 現在、谷口さんはキャリアコンサルタント1級の国家試験に向け猛勉強の日々……の合間に「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」にハマった。漫画もそろえた。「なんか分からないですけど、壱ノ型(いちのかた)なんちゃらーとか言ってます」とは洋美さん。谷口さんが底抜けに笑うと、悦子さんに「うるさい」とあしらわれ、口をへの字に結ぶ。


 かつては、娘を見ただけで涙を流した日もあった。地面に膝をつきそうな時もあった。


 それでも「希望」だけは手放さなかった。闇を知る家族は、本当の光を知る。学会創立90周年。3人の磨きのかかった明るさに、常勝の風が吹く。


(2020年11月18日  聖教新聞)







最終更新日  2020.11.18 10:01:33
2020.11.17
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 創価家族という絆 自律神経失調症を経験して
みんなが気付かせてくれた 「私も尊いんだ」


 【大阪府茨木市】日本の若者の「自己肯定感」は、諸外国と比べて低いといわれる(令和元年版「子供・若者白書」)。悩みを抱えやすく、自分の価値を認められない。加藤玲子さん=女子地区リーダー=も、そうした一人だった。
 幼少から生きづらさに苦しみ、社会人になると心のバランスを崩してしまった。支えとなったのは、母・伸子さん(62)=支部副婦人部長(地区婦人部長兼任)=であり、学会家族の絆(きずな)だった。
 創価学会の90年。それは、どこまでも一人をたたえ、励まし、蘇生(そせい)させてきた歴史である。声なき声に親身になって、悲しみに寄り添い、未来を信じてくれる。そんな人がいたからこそ、今、加藤さんには言葉にできる思いがある。
                   ◆◇◆


 私は勉強が得意じゃないし、テストになると、周りの鉛筆の音が怖くて。“私のこと、どう思ってるんだろう”と、誰かの気持ちを想像してばかり。悪いイメージを心の中にため込んだ。
 家では両親に会話は少なく、いつもピリピリ。不穏な空気を変えようと、間に入ってバランスを取った。気を使い、いつも自分の気持ちを押し殺して。誰かの期待に応えなきゃっていう思いに縛(しば)られていた。
 昔から得意だったのは、一人で没頭(ぼっとう)できる絵を描くこと。デザイン会社に就職した。でも、社会人2年目になると、毎日、涙が止まらなくなった。電話が鳴るのも怖い。終電帰りが多くて体もきつい。
 もう限界だった。だからといって、会社で話し掛ける勇気は1ミリもないし、休む自分も許せなくて。どうしたらいいか分からなかった。

 そんな時だった。仲のいい婦人部さん2人から、お母さんと一緒に旅行へ行こうと誘われた。気力なんて無かったけれど、4人だったら行ってみようと思えた。


                    * 


 この婦人部さんは、岩村美佐子さんと中野尚子さん。30年前、母が幼稚園のママ友として出会った。この頃の母は愚痴が多かったらしい。そんな母に2人は「自分が変わることちゃう?」って。
 母は2人の姿に魅力を感じて、創価学会に入会した。以来、真面目に学会活動をしている。岩村さんと中野さんがずっと母を支えてくれ、母が2人に何でも話す姿を見てきた。
 父(二郎さん)がうつ病で大変だったのは、私が高校生の時。家に帰ってこなかったり、線路で立ち止まったり。不安で怖くて。

加藤さんと母・伸子さん㊨。「学会の中で出会った人の数だけ、多くのことを学んできました」と


 心をすり減らした母は、よく岩村さんの家へ泣いて駆け込んでいった。岩村さんも中野さんも、私のことまで心配してくれて。私にとっても、家族のような身近な存在だった。



                    * 

 旅行は長野の上高地へ。大自然に囲まれ、心から癒(い)やされた。これまでの人生で見てきた中で、一番きれいな景色だった。旅行中、岩村さんと中野さんは、私の奥にある気持ちを引き出そうとしてくれた。
 「ゆっくりしたらええんちゃう」。その言葉が優しくて温かくて。抱き締められている感覚。この時から、私は自分に優しくしようと思えるようになった。それから心療内科で自律神経失調症と言われ、休職の末に退職。ほとんど家で過ごす生活が始まった。

加藤さんには大きな喜びがある。「今が一番、両親の仲がいいんです。信心のすごさを感じます」と
 私の心の中は、えたいの知れない糸が絡(から)まった状態。どこから、ほどいていいのか分からなかった。「生きててごめんなさい」なんて言うこともあった。母は、いつも池田先生の話や学会活動で感動したことを話してくれた。
 本当はつらいはずなのに、笑顔で楽しそうに。母に付いていけば、婦人部の集まりに参加できた。毎回、すごく喜ばれた。「玲ちゃんが来てくれました!」。“えっ私、いるだけで喜ばれるんや。必要とされてるんかな”。そう思えた。
 女子部の先輩は「一人で抱え込まなくていいんだよ」って。受け止めてくれる人たちのおかげで、私は心の糸を少しずつほどいていくことができた。

加藤さん親子を支えてきた岩村さん(右)と中野さん(左)
 私は、花に水をあげるように祈るようになった。例えるなら、あの頃の私は今にも枯れそうな植物。太陽になってくれたのが、岩村さんと中野さん。もしいなければ、きっと枯れたままだった。
 岩村さんはリアクションが大きい。ささいなことでも、「すごいやん! 玲ちゃん」って。心をいつも持ち上げてくれる。“あれ? もしかしたら、私、すごいんや”って、つい思ってしまう。
 中野さんも話をすると、心が楽になる。あれもできない、これもできないと言うと、できていることを教えてくれる。いつも捉え方を変えてくれた。おかげで、少しずつ仕事を始められて、デザインの仕事にも就くことができた。
 落ち込んだ時は、池田先生の言葉に触れると自分を肯定できた。

「あなたも、恥(は)ずかしがり屋なら、そのままでいい。無神経になり、デリカシーをなくすことが『大人になる』ことじゃない。コンクリートみたいに固い花はない。花は、みんな柔らかい。初々しい。傷つきやすい。人の思いに敏感(びんかん)なままの、その心を一生咲かせ続ける人が、本当に『強い』人なのだ」
 学会では、よく自他共の幸福っていう。だから、私も幸せになっていい。南無妙法蓮華経は、仏の生命で自分自身のこと。だから、私も尊いんだ。みんなから、そのことを教えてもらった。
 自分を好きになるにつれて、人への苦手意識も無くなり、今は接客の仕事をしている。人の気持ちを気にしがちな性格は、嫌ではなくなった。細かいことにも気付けるってことだから。お客さんの思いを感じ取れるっていう長所になった。
 “私は私のままでいい”。今、心からそう思える。

余話
 母・伸子さんにとって、岩村美佐子さん(67)=婦人部副本部長(地区婦人部長兼任)=と中野尚子さん(64)=支部婦人部長=は出会って以来、憧れの存在だという。神奈川から大阪に転居し、子育てに奮闘していた30年前。この2人のママ友の姿に「心をゆだねていい強さを感じました」と。


 「3人そろうと、いつも爆笑してて。本当の家族みたい」と娘は言う。その絆を強くしたのは、共に祈り、泣いた年月の積み重ねだ。何度も共に仏法対話に行き、悲しい時は一緒に涙してくれた。


 伸子さんは振り返る。


 「真っ暗なトンネルを進むような毎日でも、岩村さんと中野さんに会えば、笑顔になれました。娘のことも、わが子のように大切にしてくれて。一人では乗り越えられないことも、学会の中にいたから乗り越えてこられた。私も地区婦人部長として、創価家族の素晴らしさを一人一人に伝えていきたい」


 (2020年11月17日  聖教新聞)







最終更新日  2020.11.17 09:27:01
2020.11.16
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 映画・テレビの衣装デザイナー 本年、エミー賞を受賞

   ​ 心を磨く中に人生の勝利が​
    アメリカSGI シャレン・デービスさん

ドラマ「ウエストワールド」で使用された、自身の作品の前で。同ドラマは、2018年のエミー賞で「衣装賞」にノミネートされた(AP/アフロ)
私を幸せにするのは私
 「あなたを幸せにできるのは、あなたしかいないのよ」――この一言が、私の人生を変えるきっかけとなりました。
 1976年、交際していた男性との関係が破綻し、私は失意のどん底にいました。そんな時、先に入会していた友人が冒頭の言葉を掛け、私を励ましてくれたのです。
 その前年までの5年間、私は空軍に勤務する父の仕事の関係で、東京・調布に住んでいました。その時の友達のお母さんが学会員で、遊びに行くと、いつも唱題の声が聞こえてきたのです。
 友人から「南無妙法蓮華経」という言葉を聞いた時、その記憶がよみがえり、とても懐かしい気持ちになりました。そして勧められるままに、初めて題目を唱えました。
 祈っていくと、体の内側から勇気と希望が湧いてくるのを感じました。やがて前を向いて進もうと思えるようになり、深い悲しみを乗り越えることができたのです。信心の力を実感し、御本尊を受持しました。


 80年代後半から、私はロサンゼルスで、衣装デザインなどの映画製作に携わる仕事に従事していました。
 信心を始めてからは、「もっと創造的な仕事ができるように」「周囲の同僚を大切にして働けるように」と祈り、撮影現場へ。仏法の素晴らしさを自らの振る舞いで示せるよう、予算管理や縫製、衣装の材料の買い付けなど、どんな仕事も喜んで取り組みました。そんな生活を10年以上続けました。
 90年代のある日のこと。共に働く映画プロデューサーから電話がありました。「君の素晴らしい仕事ぶりは、多くの人から聞いてるよ。次のプロジェクトから、ぜひ衣装デザイナーをやってみないか」と。
 実は以前、ビートルズのジョージ・ハリスンと何度か一緒に仕事をしていたことがあり、彼からも“衣装デザイナーに挑戦してみたら?”と言われていたのです。真剣に祈り抜いた結果、私は新しい道を歩み始めることを決意しました。

アメリカ「衣装デザイナー組合賞」の授賞式でスピーチするデービスさん(昨年2月、Photo/Getty Images)
“成功”の裏の孤独と寂しさ
 その後は懸命に衣装製作に励み、経験を積んでいきました。しかし、この頃から仕事が多忙を極め、SGIの活動から遠ざかるように。出張でほとんど家に戻れず、同志とも疎遠になってしまいました。
 この間も仕事は続き、依頼が増えるように。最初の大きな仕事は2004年、米音楽界の巨匠レイ・チャールズの伝記映画「Ray/レイ」の衣装担当でした。
 続いて06年には、ブロードウェーミュージカルの名作を映画化した「ドリームガールズ」を担当させていただき、両作品において、アカデミー賞の衣装デザイン賞にノミネートされました。
 はたから見れば、成功を勝ち得たかのような状況でしたが、私の心は疲れ、寂しさでいっぱいでした。そのつらさを隠すように、仕事に没頭しました。しかし、有名な賞にノミネートされても、心が満たされない日は続きました。“信心を正しく実践する方法を教えてくれる人とつながりたい”との思いとは反対に、同志と接する機会もなく、題目を唱えることしかできませんでした。


 転機となったのは13年。仕事でカナダのバンクーバーに出張した初日のことでした。
 撮影現場で会話をしていると、同僚の一人が、「今晩、SGIという仏教団体の集いがあるの。興味があれば参加してみない?」と、誘ってくれたのです。
 私は即座に「行きたい!」と答えました。久々に学会の同志と共に唱題すると、長年の孤独を洗い流すかのように、涙が頰を伝いました。その時、まるで実家に帰ってきたかのような温かい気持ちが込み上げ、胸いっぱいに歓喜が広がっていくことを実感したのです。

デービスさんが地区婦人部長を務めるホープ・ダイヤモンド地区の友(昨年7月)
一日の出発は深い祈りから
 同志とのつながりを改めて築くことができ、ロスに戻ってからは、“絶対に信心と学会から離れない”と決め、時間をこじ開けて会合に参加するようになりました。ただ祈るだけでなく、池田先生の指導を学び、活動に挑む中で、仕事にも通じるさまざまな発見がありました。
 衣装デザイナーの仕事で大切なことは、ディレクターを支え、そのビジョンを実現することです。そのために、カメラやセットを担当するスタッフとも綿密に話し合い、最高のスタイルを生み出すように努力しています。


 メンバーの話をよく聞き、求めていることを理解しようとする学会活動で培った「心」は、映画製作の現場でも、そのまま生きています。
 創意工夫を重ねる中、大変ありがたいことに、周囲が高く評価してくれ、ソニー・ピクチャーズ、ワーナー・ブラザース、パラマウント・ピクチャーズ、ディズニーなど、名だたる映画配給会社等からオファーをもらい、自身の使命の道を歩むことができています。
 本年には、アメリカで人気のテレビドラマシリーズ「ウォッチメン」で、ついにエミー賞の衣装賞(ファンタジー/SF部門)を受賞することができました。


 現在、アメリカは厳しいコロナ禍の中ですが、週3回のPCR検査、マスクの着用など、感染対策に万全を期しつつ、これまでにない緊張感の中で映画製作の現場は動いています。こういう時だからこそ、私は毎朝、強き祈りと小説『新・人間革命』の研さんから一日をスタートし、生命力を満々とたぎらせて、職場に向かっています。
 いついかなる瞬間も、“広布を進める”との一念を強く持ち、池田先生の弟子として、これからも勝利の実証を示してまいります。

(2020年11月16日 聖教新聞)







最終更新日  2020.11.16 17:25:31
2020.11.15
カテゴリ:信仰体験

​信仰体験   連載企画〈登攀者2020〉江戸指物師として生命の美を追究
  「ただ精進あるのみ」
江戸指物師 櫻井久明   1:52

 日本古来の伝統技法である「指物(さしもの)」は、くぎやネジを一切使わず、ほぞを用いて木材を精緻(せいち)に組み合わせる職人技である。江戸指物師・櫻井久明(さくらいきゅうめい)さん(73)=静岡県焼津市、地区幹事、総静岡副芸術部長=は、1890年(明治23年)に祖父が創業した指物の工房「指孝(さしこう)」の3代目。その研ぎ澄まされた感覚と卓越した技術から生み出される家具、器や盆などの秀麗(しゅうれい)な作品からは、厳かな雰囲気がにじみ出る。100年、200年の歳月にも耐えうる堅固な木工作品を生み出す第一人者として、「用の美」を追求する道を、櫻井さんは「人間錬磨の道場」と表現する。

 工房の壁に並んだ200を超すかんなの数々が、制作現場の緊張感と精緻な作業を物語る。かんなは全て、祖父が刀鍛冶(かたなかじ)に作らせたという。それを受け継いだ父は、空襲の戦火に遭っても、かんなを土の中に埋め、守り抜いた。

 戦後は静岡市内に制作拠点を移す。そこは、かつて徳川家康が技術者の名工を多く住まわせたという駿府(すんぷ)の城下町。ものづくりの空気が色濃く残る町で櫻井さんは生まれた。
 ​


 「いい仕事は、いい道具から生まれる」が口癖(くちぐせ)の父の背中を見て育った少年時代。指物を施した木材に、にかわが接着するよう、真田ひもで固定する作業を手伝った。


 木のにおいに包まれながら、“名人”の呼び声高い父の技法を目の当たりにした。


 商業高校を卒業後、父に弟子入り。本格的に修業を始めた。


 20代初めの頃。知人の運転する車に乗っていた時、車体側面に、車が突っ込んできた。とっさに柔道の受け身を取り、頭部のケガは免れたが、背中を強打し、治療生活に入る。


 木に触れることができず、将来の夢が遠のく。不安に押しつぶされそうなどん底の日々。手を伸ばしたのが御書だった。
 


 「先業(せんごう)の重(おも)き今生(こんじょう)につきずして未来に地獄の苦(く)を受くべきが今生にかかる重苦(じゅうく)に値(あ)い候へば地獄の苦みぱっときへ」(御書1000ページ)
 

「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし、ともかくも法華経に名(な)をたて身(み)をまかせ給うべし」(同1360ページ)
 


 生命に刻みつけるように、一字一字を丹念に読み込み、紙に書き留めては、壁に貼り付けていった。見舞いに訪れた友人には、信心の歓喜を語った。


 一点の曇りなき心で題目を唱え、躍動する生命で誓いを立てた。「木工芸の世界で、信心の実証を示す」。療養生活の中で御書を拝し、自身の目指すべき道がはっきりした。

 1973年(昭和48年)、26歳の時。無形文化財保持者(人間国宝)の竹内碧外(たけうちへきがい)氏に師事。さらに、木工芸作家・本橋玉斉(ぎょくさい)氏のもとで、腕を磨き上げる。
 88年には、櫻井さんの代表作とも言える「神代木彩八稜箱(じんだいぼくさいはちりょうばこ)」が日本工芸会奨励賞を受賞した。

 「神代木」とは、1000年以上の長きにわたって土中に埋まっていた木材のこと。この神代木をはじめ、黒檀、黄楊、黒柿など色や木目の異なるさまざまな素材を組み合わせ、自然の風景美を表す「木彩」が櫻井さんの秀抜の技法である。


 それは、数万に及ぶ極細の木材を、天然の接着剤である鮸膠(にべにわか)で丹念につなぎ合わせる執念のたまもの。頭に描くデザインが形になるまで、気が遠くなるような繊細な作業が続く。
 


 「それでも諦めない。負けない。御書に『日蓮と同意ならば』とあるように、広宣流布を誓願する真剣な題目を唱えていくと、“あ、そうか”とひらめく時が来る。その繰り返しです」


 苦労を重ねた末、出来上がった時の喜びは大きい。


 「苦労を避けたら駄目です。『苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ(1143ページ)』。御書にある通りです」


 そうして命が宿された作品には、木の温かさがにじみ、品格が漂う。
 


 99年(平成11年)に完成した「玉蟲撥鏤荘葡萄杢紫檀箱(たまむしばちるそうぶどうもくしたんばこ)」は、正倉院(しょうそういん)の宝物にあしらわれた撥鏤技法(ばちるじほう)(象牙の彫刻)を復元した話題作となり、翌年、日本橋三越本店で展示された。

 泉のごとく湧き上がる創作意欲にせき立てられるように、作品に没頭(ぼっとう)する。一方で、体の消耗(しょうもう)はすさまじい。櫻井さんの創作人生は常に逆境とともにあった。若き日に負った事故の後遺症との闘い……。


 頭痛、耳鳴り、吐き気、背中の痛み。弱気になりそうな時もあった。しかしそのたびに、師匠のことを思った。
 


 「若き日の池田先生は肺病に苦しまれる中で、戸田先生のために、と戦い抜かれた。私も師匠への報恩を胸に、“作品で実証を示す”との誓いを貫いてきたんです」
 


 10年ほど前、高級木材である「マホガニー」の買い付けでベトナムを訪れた。蓄積した疲労により、背中の痛みがピークに達した。たまらず、現地の人にマッサージ師を呼んでもらった。日本でマッサージを学んだという盲目の人だった。


 「不思議なことですが、その時施術を受けて以来、背中の痛み、事故の後遺症がピタリと治まったのです」
 


 長年の苦しみから解放され、さらに創作に励んだ。さまざまな展覧会の鑑査委員などの要職にも推挙(すいきょ)され、2012年には、日本工芸展の「特待者」に認定される。江戸指物師の中心的存在として、業界発展にも尽くしてきた。

 「苦心の末に編み出した技法は、通常、人に言わないものです。しかし、私は若者たちに全て教えてしまうんです。それで、追い抜かれそうになったら、また私が精進すればいい。その切磋琢磨(せっさたくま)が指物を次代へ継承することになる」
 


 常に自身に言い聞かせてきたことがある。

「謙虚(けんきょ)は力」。


 どんなに名を上げようと、人に、作品に、そして自身に対して誠実であり続けてきた。
 


 卓越した技量に品格という風を吹き込み、到達した境地は、次の言葉に集約される。


 「私の人生は、全て広宣流布のためにあります」


 “ただ精進あるのみ”。指物師・櫻井久明の美学が、木肌の自然美を存分に引き出す。

(2020年11月15日 聖教新聞)







最終更新日  2020.11.15 13:09:27
2020.11.13
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 祈りの詰まった笑顔

宋ちえみさん(58)区総合婦人部長


 【福岡市東区】会合中に会場の空気を和らげたい瞬間がある。そんな時にもってこいの人がいる。
 宗(そう)ちえみさん(58)。アトラクションとなれば必ず登板。いつも爆笑の余韻(よいん)を残して、式次第の次へと最高の橋渡しをする。



 ある日のアトラク――。


 婦人部の広瀬昌子さんとの名コンビで、コロナ禍の夫婦の日常を描き出す。



 夫▼うちの母ちゃん、コロナ禍でずっと家におってから、まったく化粧もせんごとなったばい。ちょっと気が緩(ゆる)みすぎやん!


 妻▼なんねー、今、韓流(ハンりゅう)ドラマのいいとこばい! 今までは学会活動ばっかりで、こげん楽しいもんがあるやら知らんかったー。もう元の生活には戻れんばい。


 夫▼えーっと、言いづらいんやけど、実は少しずつ従来の活動も再開しよるけん、そろそろ地区の会場になってるわが家も掃除せんといかんばい。


 妻▼はー、そげんこと急に言われてからー。うれしいと悲しいが同時に押し寄せてきたー。ばってん、広宣流布は停滞したらいかんもんね!



 ちゃめっ気たっぷりの掛け合いで会場を笑い声で満たす。アトラク歴は12年。ネタは「題目あげれば降ってくる」と。


 「みんなが楽しく活動できるように」と言いながら、ちゅうちょなくカツラをかぶり、ペンで顔に皺(しわ)を入れる姿を見ていると、明らかにご自身も楽しんでおられる。

アトラクの台本ボックス
アトラクションの台本

 そんな宗さんだが、昔は心の底から笑顔になれない自分がいた。


 青春時代は、アマチュアのシンガー・ソングライターとしてバンド活動に明け暮れる日々。友達はたくさんいても、どこか空虚(くうきょ)で、いつしか独(ひと)り善(よ)がりの生き方が踏み固められていった。


 転機は25歳の時。唯一、自分の心を分かってくれていた恋人と別れることに。悲しみのあまり姉に電話をかけると、「南無妙法蓮華経と唱えてみて」と、思わぬ返答。創価学会に入会していた姉の唐突な助言に、「絶対に嫌やけん」と即答した。


 しかし、宗さんは失恋の苦痛に耐え切れず、こっそり題目を唱えてみることに。すると「頭痛薬が効くみたいにスーッと痛みが引いてった」。さらに聖教新聞を見て驚いた。弾けるような笑顔の写真の数々。「こんな笑顔に私もなりたい」。1987年(昭和62年)、学会に入会した。


 自分のことしか考えなかった人生に「自他共に」という選択肢が増え、人に尽くす充実感の中で、「自分が人間らしくなっていく気がした」という。

九州つくしの合唱団の団長を務める宗さん。作詞・作曲も自らが手掛け、アトラクションではユーモアあふれる替え歌も披露する
 93年(平成5年)には、知紀(ともき)さん(62歳、副支部長)と結婚。2人の男の子を授かり、和楽の人生行路を進むはずだった。だが、嵐は突如として訪れた。


 大学の助教をしている知紀さんが仕事中に脳内出血で卒倒。なんとか一命は取り留めたものの、脳への影響からか、感情のコントロールが不安定に。穏やかな夫が、声を荒らげるようになり、家庭の空気がこわばっていった。知紀さんはうつ病と診断された。

 時を重ねるように、中学2年だった次男の征史(まさし)さん(20歳、学生部員)の様子にも変化が。ある日の夜、気の優しい息子が、血相を変えて宗さんに言い放った。
 

「おまえは俺を見てない! 何も分かってくれてない!」


 思春期のせいだと思い込んでいた息子の変化は、宗さんが理想とする息子像を、わが子へ押し付けてきたことへのはね返りだった。


 自らの無神経さを恨んだところで後の祭り。どんな言葉も息子の心には届かず、やがて征史さんは不登校に。その後、自律神経失調症の診断を受けた。


 いつしか、宗さんは腫(は)れ物に触るように、ささいな息子の言動にもおびえるように。やり場のないいら立ちを夫にぶつけてしまい、夫の心をさらに追いつめるという悪循環。もう二度と家族は一つになれないと思った。

とにかく、よくしゃべる。本題に入る前に、すでに2時間が経過。「もっといろんな話があるんですけど、はしょりますね」と言いつつ、また1時間が経過する。尽きないドラマの数々。6時間を目前にして、ついにこちらが白旗宣言。宗さんの人生劇場はまだまだ輝き続ける
 それでも、宗さんは学会活動に一歩飛び出すと、気丈に振る舞い、アトラクでは明るくおちゃらけて見せた。


 会合後は、すぐに帰宅せず、しばらく車を走らせる。涙が枯れるまで泣き切り、家では笑顔の母でいることに努めた。


 今にも決壊寸前の宗さんの心をすくい上げてくれたのは、池田先生の指導だった。


 「妙法を唱えていて、かりに不幸に見えることがあっても、それは、最大に幸福になる意義をはらんでいるのだから。どんなことがあっても、信心だけは微動だにしてはならない」「一歩も引かないで、悩みを突き抜けて進むのだ。どんな状況であっても、必ず幸福になれる信心だ」


 どんなに苦しくとも、母は学会活動から逃げなかった。一番つらい時に折伏も実らせた。「なんもかんも負けんかった」

 折伏で生命が変わると、家族への感謝が込み上げ、その思いを言葉にするようになった。そんな宗さんの変化に呼応するかのように、夫や征史さんの病状は好転。穏やかな表情が戻り、家族の心が再び一つに重なっていった。


 やがて学校にも通えるようになった征史さん。高校卒業の日、保護者が見守る教室で、母へ感謝の言葉を贈った。「いろんな困難があった時、励ましてくれてありがとうございました」。目に焼き付けたいはずの息子の晴れ姿が、涙でかすんで仕方なかった。


 かつては、家庭と学会活動との温度差に耐えきれず、先輩に「笑う役を演じているだけの私です」と訴え、嗚咽(おえつ)したこともあった。それでも母は笑い続けた。どんな状況でも口角を上げ、同志の笑顔を引き出してきた。


 笑顔でいることで、笑顔の未来を引き寄せた不屈の母ちゃん。そのほほ笑みには、強さと優しさと祈りがみっちり詰まっている。
 苦しい時にいつも優しく声を掛けてくれる長男の武史さん(左から2人目)。次男の征史さん(右端)は今年から創価大学へ。夫の知紀さん(左端)と、わが子の成長に目を細める
夫婦仲むつまじく


(2020年11月13日 聖教新聞)







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