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信仰体験

2019/11/20
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カテゴリ:信仰体験
​信仰体験 店舗の全焼に負けず、先月、同じ場所で再オープン


 この街で再起してみせる! “祈りとしてかなわざるなし”の確信


 【山口市】JR新山口駅から徒歩2分の立地にある「Cafe はなめ」。


 安田和子さん(54)=婦人部副本部長=が「喫茶店で、この街を盛り上げたい」と、食堂を営んでいた友人の協力を得て、昨年5月、オープンした“地域の灯台”だ。

 

「長州鶏むね肉の大葉巻き定食」など、県内産の食材にこだわったメニューや、香りのいいコーヒーを求めて常連客もできた。



  ところが開店2カ月後――。


 「隣の家が燃えとる! すぐ外に出ろ!」。近隣の学会員からの電話に、安田さんは一緒にいた家族に声を掛け、着の身着のまま飛び出した。自宅を兼ねた店は全焼。負傷者は出なかったが、この火事で7棟が焼損した。


 見る影もなくなったわが家を前に、次女・律子さん=副白ゆり長=は過呼吸を起こし、母・三輪芳子さん(79)=地区副婦人部長=は辺りをウロウロするばかり。


 安田さんは、毅然と言い放った。「こんなことで泣きなさんな! 絶対、大丈夫じゃけえ!」


 火災の翌日、驚いた。のれんが奇跡的に焼けずに残っていたのだ。“もう一度、この場所でやってみせる!”と、再建を決断する。


 安田さんには、これまで幾つもの苦難を、“祈りとして叶わざるなし”の信心で乗り越えてきた確信があった。


  ――しかし、2004年(平成16年)、が多額の借金が発覚する。安田さんは夫・芳三さん(54)=圏副書記長=と共に、一家の経済革命を懸けて真剣に祈り始めた。


 10年9月、今度は当時19歳の律子さんに、子宮頸がんが見つかった。翌年3月には、長女・扶美子さん=女子部員=が交通事故に。大きな音を聞くと、当時の恐怖が思い出され、仕事もままならず、寝たきりの状態に。


 一家に次々と襲い掛かる苦難。安田さんは心が折れそうだった。しかし、“ここで負けてたまるか”と、懸命に唱題を重ね、支部婦人部長として一歩も引かず、学会活動に挑戦した。


 同年8月、迎えた律子さんの手術の日。医師も驚くほど、がんの進行は止まっており、短時間で終えることができた。手術の成功を祈っていた扶美子さんも、元気を取り戻し、新たな仕事に就いた。さらに同年、負債を完済――。


 “いろんな困難が一気に解決の方向へ動いた”あの日々。安田さんの胸には信心の確信が燃え立った。


 池田先生の言葉も背中を押してくれた。


 「無限なる/変毒為薬の/法なれば/断じて勝ちぬけ/諸天も守らむ」


 周辺の飲食店の店主たちは、それぞれの店に募金箱を設置し寄付金を募ってくれた。常連客からは励ましのメッセージが、連日届けられた。


 安田さんは地域への感謝を胸に、火災に遭った他の店舗の事務処理などを買って出た。


 そして――。


 さまざまな困難を乗り越え、先月15日、同じ場所で再オープンすることができたのだ。


 開店当日、この日を待ち望んでいた多くの常連客らが訪れ、地元紙やテレビでその模様が紹介された。


 店は以前と変わらず、母と自分、2人の娘の「親子三代」で切り盛り。米は夫が萩市で作る県産コシヒカリ「みのる米」を使用。甘みが強いと評判だ。当時の定番メニューも健在。


 安田さんは、民生委員や児童の登校時の見守り隊など、地域貢献にも力を尽くす日々。


 「地元の皆さんをはじめ、多くの人に支えてもらいました。恩返しの思いで、今度は私たちが地域を元気にしていきます!」


(2019年11月20日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/21 01:07:15 AM
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カテゴリ:信仰体験
​信仰体験 20代のリアル ボクらのイマ。
 

新卒2カ月半で仕事を辞めた俺  
悩んで乗り越えるこの波も楽しい!


 <新山英雄さん(26)=東京都府中市、男子地区リーダー=が大学に入学すると、創価学会学生部の先輩が訪ねてくるようになった>
  


 “自分には必要ない”って、最初は断り続けました。親はバリバリ活動してるんで、“だから英雄もやるでしょ?”みたいな周りの空気が嫌だった。“イヤイヤオーラ”を出しまくってたんです。


 けど、先輩が懲りずに何回も来るので、仕方なく会合に顔を出すようになった。気が乗らないので、一番最後に行って一番最初に帰って(笑い)。



 <ある学生部の会合で、聖教新聞に掲載された小説『新・人間革命』を皆で読み合った時のこと……>
 

 
 感想を求められたんですけど、何もなかったので、とりあえず「挿絵が良かった」って言ったら、「その視点はなかったわ。すごいね!」って、参加してた同期のメンバーが言ったんですよ。


 テキトーに言ったのに、何でこんな前向きな言葉を掛けてくれるんだろうって、気持ちが揺れました。


 最後は先輩の、「“一緒に”頑張ろうよ!」って言葉にやられた(笑い)。


 学生部には友達もいたし、“自分一人じゃないなら、頑張れるかも!”と思うようになったんです。



 <仲間と学会活動に走り、友人に弘教を実らせることもできた。無事に大学を卒業したが、就職先では人間関係に悩み、2カ月半で会社を辞めることに>


 
 “俺が頑張ってきた4年間って、何だったんだろう”と落ち込みました。すごくふがいなかった。


 これからどうしようか迷ってた時、学生部で一緒だった仲間に、思いを打ち明けたんです。


 失望させてしまっただろうなと思っていたら、「何があっても、新山は新山だから」って。


 “こんな自分を見捨てないでいてくれるんだ”と、一気に気持ちが軽くなりました。



 <題目に拍車を掛け、自分のこれからを模索した>
 

 
池田先生が“舞台は世界だ”ってよく言ってたのを思い出して、行ってみようって思い立ちました。 国際交流基金(独立行政法人)主催の「日本語パートナーズ」に応募して、10カ月間、ベトナムに日本語教師の補佐として派遣してもらうことができました。


 帰国後は、2回目の就活。“海外経験を生かしたい”って祈る中で、外国人留学生を支援する今の会社に、派遣社員で入りました。


 そしたら、働きぶりを見ていた上司が推薦してくれて、4カ月で正社員になれたんです!



 <現在は、男子部の一員として活動している>
 


 今でも、仕事で失敗したり、日常でも“やだなあ”って思ったりすることはあります。


 男子部の先輩には、たまに厳しいことも言われるけど(笑い)、だからこそ成長させてもらえる。そう思えるようになりました。


 海外経験とか、今の会社のこととか、前の会社を辞めた当時は、こんなんになるとは思わなかった。


 悩んでる間は、しんどいですけど、乗り越えられた時の充実感はたまらない。この波も楽しいなって。


(2019年11月20日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/21 01:04:08 AM
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2019/11/19
カテゴリ:信仰体験

​〈女子部〉 
苦難を越え、朗らかに前進するメンバーを紹介


福岡・飯塚栄光圏 林由美子さん(女子部本部長)
母との約束を胸に前進


 女子部の本部長として、周囲の友に励ましを送り続ける林由美子さん(飯塚栄光圏穂波本部)は、信心強盛な両親の姿を見ながら、創価家族の中で育った。
 母の家事、特に調理の手伝いをするのが好きだった林さんは、母の勧めもあって栄養士を目指し、短期大学で資格を取得。卒業後、老人ホームを経て、飲食店で働くことになった。
 正社員となり、慣れない1人暮らしに加えて、仕事で求められることも増える中で、多忙を理由に、学会活動からは次第に遠ざかっていった。人間関係にも悩み、転職が頭に浮かび始めた2016年、母が倒れたとの連絡が届いた。くも膜下出血だった。
 
40日間の闘病
 職場に長期の休みを相談したが、受け入れられず、やむなく退職し、実家に戻った。家事全般をこなし、1日2回の面会時間に合わせて病院に通う日々。母の回復を信じて、懸命に祈った。更賜寿命(きょうしじゅみょう)
して40日間の闘病の末、母は霊山へと旅立った。
  「今は遠回りに感じるかもしれないけど、信心根本で進むのが一番の近道だよ」という言葉が、母の口癖だった。いつも味方でいてくれた母。御本尊に向かっても“どうして母が……”という気持ちが込み上げてきた。何度も励ましてくれた同志のおかげで、少しずつ「信心を受け継ぐことが私のできる親孝行」だと思えるように。
  亡くなって半年後、友人の薦めで市役所の臨時職員となり、働き始めた。新しい生活にも慣れた頃、母との、ある約束を思い起こした。
 
諦めない祈り
 母の闘病中、母への思いをつづる中で、ノートに「管理栄養士になる」との決意を記していた。資格の取得に必要な実務経験が積める職場を目指して、転職活動をすることを決意した。
 勤務時間、家からの距離、給与など理想の条件を掲げて、祈りながら転職活動を始めた。条件に合う求人は少なく、ようやく見つけて受けても不採用が続いた。諦めそうになる中、女子部の先輩が手作りの小冊子を見せながら励ましてくれた。そこには、祈りについての池田先生のスピーチや指針がまとめられていた。
 先生の言葉を一つ一つかみ締めながら、諦めずに祈り続けた結果、希望通りの転職を勝ち取ることができた。信心の確信をつかんだ林さんは今、報恩感謝の思いでメンバーの激励に歩きながら、友人への仏法対話にも挑戦している。
  「“信心根本が一番の近道”との母の言葉が、最近、実感できるようになりました。これからも祈りを大切に、人を励ましていける道を歩んでいきます」
 
北海道・本陣白石区 岡田百合香さん(地区リーダー)
自分で自分を励ませる人に


 「毎日、普通の生活を送れることに幸せを感じています」と語る岡田百合香さん(本陣白石区・菊水創価部、地区リーダー)が、体調の異変を感じたのは昨年の初頭だった。
  動物関連の職を目指す専門学校で学び、動物と触れ合うことで心を癒やすアニマルセラピー(動物介在療法)を知った岡田さん。介護施設に就職し、日々の業務の中で、アニマルセラピーを取り入れることにも挑戦していた。そんな時、軽い目まいや、ふらつきを感じ、よく転倒するように。病院で検査した結果、「アーノルド・キアリ奇形」と「頭蓋底陥入症(とうがいていかんにゅうしょう)」と診断された。
 
長期戦になる
 小脳が変形していたことに加え、転倒を繰り返したことで首の骨がずれてしまい、脳幹を圧迫していたため、目まいやふらつきが起こっていたことが分かった。
  医師からは、「次、転んだら歩けなくなるところだった」と言われ、「治療は数カ月かかる長期戦になる」と告げられた。14時間にも及ぶ手術を受け、リハビリ生活が始まった。
  術後は激しい目まいや頭痛に苦しみ、手術前よりも歩行が困難な状態になった。職場からは、「戻ってくるまで待っているから」と言ってもらえたが、不安でいっぱいだった。そんな時、女子部の先輩が、何度もお見舞いに来ては励ましてくれ、胸中で真剣に唱題しながらリハビリに励むことができた。
 
頑張ることがある
 入院中、池田先生から書籍の激励が届いた。その中にあった次の言葉が目に留まった。
  「自分で自分を励ませる人は、すてきな人だ。人のつらさも、わかる人だ。自分で自分を喜ばせる言葉を、強さを、賢さを! 落ち込んだ心を、よいしょと自分で持ち上げて!」
  自分は誰かに応援されてばかりだと感じていた岡田さんにとって、「よいしょと自分で持ち上げて」との言葉は、“自分で自分を励ますこともできるんだよ”と言われているようで心が晴れる思いがした。そう自分に言い聞かせていくと、生きる希望が湧いた。
  7カ月半の長期入院の末、無事退院した。自宅療養中には、かつてない唱題に挑み、社会生活に支障がないほどまでに回復。本年7月、念願の職場復帰を果たすことができた。
  現在、職場の第一人者を目指して奮闘しながら、闘病中に知り合った友人への仏法対話にも挑戦している岡田さん。
  「日々の生活で“疲れたな”と感じることもありますが、そのたびに病気が治らなかったら、この“疲れ”さえも感じることができなかったと思うと、“ありがたい”と思えるんです。頑張ることがあるって本当にありがたいですよ。普通の生活ができることに感謝をしながら、これからも信心根本に進んでいく決意です」​​​


(2019年11月19日  聖教新聞)







Last updated  2019/11/19 04:50:08 PM
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2019/11/14
カテゴリ:信仰体験
​​信仰体験 頸髄損傷、乳がんを克服した准教授​ 

​全員が人材 一人ももれなく!​
 【栃木県那須塩原市】新聞のコラムなどから、ためになる言葉を紹介して授業を始める。社会性を養ってもらいたいとの思いからだ。

まずは3日頑張る


 2年前から短期大学の准教授を務める髙野マチ子さん(68)=地区副婦人部長=の授業は、「パワーをもらえる」と大好評。養護教諭一筋に現場で培った経験と、2度の苦難を乗り越えてつかんだ確信を、学生たちに惜しみなく伝えている。



 2年前から准教授として看護学を担当する髙野さん。養護教諭を志す学生に、“学校看護”を教えている。


 卒業が近い学生には、「つらいことがあっても、まずはこらえて頑張ること。その先に、きっと開ける時が来るから」と。それは、自身の経験から発した言葉だ。
  

                    ◇


 1972年(昭和47年)4月、髙野さんは“保健室の先生”として中学校に赴任。当時、養護教諭は学校に1人だけだった。


 相談できる先輩が近くにいない不安と、一人で背負う責任の重さ。手探りで仕事に取り組んだ。心掛けたのは「目の前の生徒を、子ども扱いしないこと」。不登校や素行不良の生徒が保健室を訪ねてくる。どんな時も、真剣に耳を傾けてきた。



 「保健室に来た生徒にとって、教室に戻るのは、とても勇気がいるんです。だから本人の自尊心を大切にし、背中をそっと押すよう、工夫してきました」


 ある時には、生徒の手を取り教室の前まで送った。また、他の生徒に気付かれないよう物陰に隠れて見送ったりもした。苦労は多かったが、生徒の笑顔に、疲れは吹き飛んだ。



 そんな髙野さんが2004年(平成16年)6月、交通事故に巻き込まれ、車の下敷きに。奇跡的に一命を取り留めるも、左半身が全く動かなくなってしまった。


 「頸髄損傷(けいずいそんしょう)」との診断。ベッドをゆっくり起こすだけで、激しい頭痛やめまいに襲われた。看護師の介助を得ても、立ち上がることなんて到底できない。先の見えない不安に涙が止まらなかった。


 髙野さんには、困難に直面した時、決まって思い出す母の言葉があった。



 「いいかい、マチ子。『石の上にも三年』という言葉があってね、どんなにつらくても、まずは、3日頑張るんだ。そうして努力を続けると、30日、3カ月、3年の節目ごとに、事態は少しずつ変わっていくものだよ」


 それは、信心根本に助産師として生きてきた確信の言葉――。


 “これまでも、この言葉を胸に頑張ってきたじゃないか。負けてたまるか!”

 ベッドの中で題目を唱える。2階の病室からは、輝く新緑の木々が見えた。“この葉が落ちる前に、元気になって家に帰るんだ!”。そう自身を鼓舞した。


 朝から晩まで時間いっぱい、リハビリに取り組んだ。動かない体に題目を染み込ませる思いで、一歩ずつ足を運んだ。弱音を吐きそうになる時も、待っている生徒の顔を思い浮かべては、力を湧かせた。


 入院から5カ月後の11月。懸命のリハビリが功を奏し退院を果たす。いつしか紅葉が、外の景色を黄金色に染めていた。


 翌年4月に職場復帰。「オリンピック選手に負けないぐらい、歩く練習を頑張ったのよ」と笑い飛ばす髙野さんは、多くの生徒に囲まれた。



行き詰まりとの闘争

 退院から3年後の07年11月、再び苦難が押し寄せた。定期健診で右乳房にがんの疑いが。その日のうちに精密検査を行った。


 翌週、医師から「進行性の乳がんの可能性が高い」と告げられる。目の前が真っ暗になった。


 自宅に戻ると、真っ先に御本尊の前に座った。おえつが止まらない。ひたすら題目を唱えた。“どうして私ばかり、つらい目に遭うんですか……”。そんな気持ちのまま、唱題に次ぐ唱題。唱えるほどに、種火のように小さかった“負けじ魂”が燃えさかってくる。



 師匠との出会いが思い出された。1968年(昭和43年)9月8日、「日中国交正常化提言」が発表された学生部総会に参加した日のこと。“次の時代を君たちに託す”との池田先生の心に触れ、生涯不退を誓った原点の日――。

 先生の指導を求めた。「何か困難にぶつかったならば、行き詰まりとの“闘争”だ、障魔との“闘争”だ、今が勝負であると決めて、自己の宿命と戦い、勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのです」



 “そうだ! 必ず題目で乗り越えて、先生に勝利の報告をするんだ”
 手術の日を迎え、3センチの腫瘍を摘出。幸い、がんは進行性のものではなかった。

 その後、通院での抗がん剤治療に。副作用のつらさは想像以上だった。家に帰ると全身がだるく、抜け落ちる髪の毛を見ては、憂鬱な気持ちに襲われた。


 それでも唱題を重ねるごとに、心が前を向く。家族や同志の励ましも心強かった。

 いつしか“交通事故の体験は、がんを克服するために与えられた試練なんだ”と思えるようになった。

 半年間、治療に専念した後、職場に復帰。その後も2年にわたって治療は続いた。




 11年3月、髙野さんは定年を迎えた。一つのことをやり遂げた充実感でいっぱいだった。

 翌年4月、請われて大学の講師に。自身の経験を、次の世代に生かすことができる仕事に魅力を感じた。

 しかし、全くの畑違いで苦労の連続。放送大学大学院に通い、さらに専門性を深めた。

 自身に課したテーマがある。それは「一人ももれなく」。一対一の懇談に力を注いだ。専門的な知識はもちろん、社会で通用する人格の育成に心を砕く日々。


 「学生一人一人が健康で充実した生活を送れるよう、毎日、題目を送っています。今まで中途退学者が一人も出ていないんですよ」

 がんの治療が終わって10年を迎える本年。事故と病を乗り越えて学んだ、患者としての経験を生かして、今日も元気に教壇に立つ。

(2019年11月14日   聖教新聞)






Last updated  2019/11/14 10:38:14 PM
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2019/11/12
カテゴリ:信仰体験

信仰体験 アスペルガーの息子がつづる母への手紙
​「心を育ててくれてありがとう」

​


 【東京都小平市】「ママさんには、心を育ててもらいました。ありがとうございます」。冒頭の一文に、家族の日々が凝縮されているように感じた。
小林知己(ともみ)さん(51)=地区副婦人部長=には、ASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群)の長男・湧人(ゆうじ)さん(18)=高校3年=がいる。先日就職が決まった息子が書いた、母宛ての手紙を頼りに、これまでの歩みを追った。



“丁寧に”寄り添い

 小さい時は、困らせてばかりで大変だったと思います。今の僕はずいぶん変わったと思いませんか?

 湧人さんが小学生になると、夕方にかかってくる電話に、小林さんはビクビクした。小学校の教員や同級生の保護者からの電話。受話器を握り締め、頭を下げ続けた。


 トラブルを起こす息子を問い詰める。「ちゃんと説明して」。泣いてばかりの湧人さんにいら立ち、母子で泣き腫らすのが常だった。


 家にいる間は、心優しい息子。ペットのカメの死をいつまでも悲しんだり、雨が降れば「地球が泣いてるね」と言ってみたり。豊かな感受性があった。夫・隆さん(53)=本陣長(ブロック長)=と、ぬいぐるみを介して兄弟のようにじゃれ合っていた。


 “なのに、どうして……”。教室では暴言を吐き、叫び、暴力行為も。学校からたびたび呼び出された。


 小学2年の春、「アスペルガー症候群」と診断された。医師は「頭の中の設計図が、他のお友達とちょっと違うだけ。君は何も悪くない」と。


 誰にも分かってもらえない“生きづらさ”の理由が分かり、湧人さんは「ぱっと気持ちが明るくなった」。


 小林さんも暗闇に希望を見いだす。


 自身はしつけの厳しい家庭に育ち、「杓子定規(しゃくしじょうぎ)で融通の利かない性格だった」。膠原病(こうげんびょう)、うつ病に苦しんでいた時、職場の同僚だった隆さんから信心の話を聞き、創価学会に入会。結婚後、無理と言われた出産がかなう。だが、思い通りにならない子育ては、ただただ苦しかった。


 医師に診断されたことで、小林さんの接し方にも変化が生まれた。“どうやったら彼が楽になれるのか”“定規ではなく、メジャー(巻き尺)になろう”。周囲とは比べず、相手に合わせ、あるがままを受け止めようとした。学会活動の中で出合った、池田先生の言葉を根本に据(す)えた。


 「最大に子どものことを思っていくことです。それが子どもの心に刻まれ、大きくなってから、生きてくる。『愛情』に勝る家庭教育はないのですから」



 小さいことにも、やたらオーバーに褒(ほ)めてくれたし、失敗しても怒ったり否定したりしなくて、結果よりも努力を認めてくれました。「できないことを数えるより、できることを伸ばそう!」って。やることを全力でサポートしてくれたから、僕もたくさん努力できました。



 母は、いつも自身に言い聞かせていた。“丁寧(ていねい)に丁寧に”。わが子に掛けた言葉が、息子の心をつくっていく。「自分自身を、一から訓練し直す思いで」接していった。


 “空気を読む”“相手の顔色をうかがう”のが苦手ならば、一つ一つ具体的に説明していこう。「この言葉を言われたら、相手はこんなふうに思うんだよ」


 言葉だけでなく、文字にして整理をしたり、絵を描いたり。周囲とのギャップを、知識や経験で埋めていく作業。ささいなことも、ないがしろにせず、繰り返し教えた。


 母の変化に応えるように、湧人さんは見る見る成長していく。


 小学3年の時、湧人さんが力の加減をできずに、同級生の利き手を骨折させてしまったことがあった。


 「あなたが起こしたことで、彼はつらい思いをしているの。何ができるかな」。湧人さんは、同級生のカバンを持ち、手の代わりになろうとした。二人はぐんと仲良くなった。


 母は、息子の理解者を増やしたいと、学校やミニバスケットボールの保護者会など、あらゆる活動に顔を出した。学校側も聴覚と視覚が敏感な湧人さんのため、チャイムの回数や掲示物を減らすなど、協力してくれた。


 小学校を卒業する時、ママ友から声を掛けられた。

「湧人くんのおかげで、皆の中に優しい心が育ったと思う」と。



個性伸ばした長男が就職

 走るのが苦手だったけど、一緒に走った時に、「走るって苦しいね」と僕の気持ちに寄り添ってくれましたよね。うれしかった。小6の運動会、リレーのアンカーになった時は、めちゃくちゃ喜んでました。



 母は寄り添うことで、息子から学んだ。湧人さんは、いじめや嫌がらせを受けても、相手を決して悪く言わない。「あの子は家で厳しくされてるから」「いじめる人は弱いから、強く見せようと、いじめてくるんだよ」と。


 才能の芽は開花の時を迎える。バスケで得点王に。全国大会にも出場した。プロリーグのジュニアチームに合格し、生き生きとプレーした。小林さんも、湧人さんを通じて、多くの友人に恵まれるようになった。



 卒業したら、社会人として僕もパパさん、ママさんを支えていきたいと思います。そして、どんなことも楽しみながら頑張っていきます。とにかく健康でいてください!

 湧人さんは母の回復を祈ってきた。中学2年の時、小林さんにがんが見つかる。肛門管がんのステージ4。おにぎり大の腫瘍があり、子宮、ぼうこうに転移していた。


 「お母さん、がんになったんだ」と告げる母に、「大丈夫! 2人に1人はがんになる時代だから」。平然と言いのけた。


 湧人さんは突然の変更や思わぬ事態にパニックになる傾向がある。小林さんの入院中に一度、授業中に倒れた。母の闘病という過度のストレスにも、弱音を吐かず、気丈に振る舞っていた。


 夫と息子は一緒に御本尊に向かった。地区の多くの同志が題目を送り、応援してくれた。退院後の放射線治療は、ママ友たちが支えてくれた。治療は奏功し、がんが消滅して、3年になる。


 湧人さんは高校では抜群の記憶力で、成績は優秀。教員は大学進学を勧めてくれたが、早く社会に出る道を選んだ。電車や電飾好きが高じて、電気工事士を志す。


 小林さんは10年前、湧人さんが診断を受けた日のことを鮮明に覚えている。家族で多摩川の土手にたたずみ、隆さんは言った。「今は苦しいけど、乗り越えたと言える日が必ず来るから」――。


 その言葉を信じ、わが子を、そして自身を信じて“今”がある。家族3人でたどり着いた“今”を誇りに、未来へさらなる一歩を進める。


(2019年11月12日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/12 10:57:41 PM
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2019/11/11
カテゴリ:信仰体験

​信仰体験 生きるよろこび
下口唇がんを越えた感謝の心
「口べたやけど一人でも励ませたらそれでいいねん」
ステージ4a 転移に勝つ


 【京都市】鏡に映る顔には傷痕(きずあと)があり、しびれも残る。村山繁治(しげはる)さん(66)=副支部長=の一日は、口の中のマッサージから始まる。起床後に30秒ほど、唾液腺(だえきせん)と筋肉に刺激を加える。5年前から欠かせなくなった習慣だ。ステージ4aの「下口唇(かこうしん)がん」。病魔によって、会話も笑顔も奪われかねなかった。今、妻・久美さん(58)=支部副婦人部長=と交わす「おはよう」の一言と、朝の勤行・唱題に感謝を込め、一日を出発する。
 
信心で闘う
 医師の話を聞き、妻へ絞り出した言葉は短かった。
 「おまえに任すわ」
 3人の子育てや経済苦。村山さんは、これまでそう言って、妻に任せっきりだった。自らの病に直面した時も、同じ言葉しか出なかった。
 2014年(平成26年)7月、下唇に見つかったがんはリンパ節にも転移があった。同じ症例の手術は国内に無く、医師の説明に気力が抜けていく。
 唇を切除し、頰を切る。顔がゆがみ、口が開かなくなるかもしれない。その逆に、神経がまひして口が閉じなくなる可能性も。言語障害のリスクもあるという。
 新潟の豪雪地帯で生まれ育った寡黙(かもく)な性格。ひたすら忍耐強く生きてきた。それでも、現実を受け止められない。「まな板のコイのような状態」。逃げ出したい心を変えたのは久美さんの笑顔だった。
 「顔が変わってしまうかもしれん。イヤじゃないか……」「顔なんか、どうでもいいやん。あなたは、あなたなんやから」
 「話し方も変わるかもしれん……」「何を言うてんの。今更やわ。もともと滑舌
(かつぜつ)悪いし、変わらへんて!」
 久美さんは、村山さんとの結婚を機に創価学会に入会した。決意を聞いた日、妻に伝えた言葉を覚えている。「貫くには、決して楽な信心じゃないで」
 御聖訓にこうある。「水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心
は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし」(御書1262ページ)
 病状がどうあれ、信心で勝つ。共に歩んできてくれた妻を思えば、ずっと後ろ向きではいられなかった。
 「題目を、あげられなくなるのは困る!」
 術後、生活が一変するかもしれない。迷いや不安があれば、御本尊に向かった。
 8月の手術前日。妻に言った。
 「おれは、絶対に大丈夫や!」
 
笑顔で挑む
 「パピプペポ、言えますか」
 7時間半の手術を終え、集中治療室で目を覚ました。医師から、懸念された半濁音の発音をするよう促された。
 「……パ、ピ、プ、ペ、ポ」
 ゆっくりだが声が出た。手術では、下唇の一部を摘出し、唇を縫い合わせ、右頸部(けいぶ)のリンパ節を切除。当初予定していた頰(ほお)は切らずにすんだ。「話せること」「口から食事できること」――祈った通りの結果になった。
 術後、鏡の前には立てなかった。傷ができ、顎(あご)の形も変わっている。発語もしづらい。楽しみは、以前と変わらぬ妻との会話だった。
 久美さんは自宅で唱題を重ね、病院へ通った。“笑わせてあげたい”と、毎日必ず、笑い合える話を夫にした。
 程なく退院の日を迎える。看護師の一人から言われた。「ここまで回復され、感動しました。夫婦の力はすごいですね」
 だが、2カ月後の検査。医師が「痛恨の極みです」と。左頸部リンパ節への転移だった。再び切除手術。その後、放射線と抗がん剤治療へ。
 死を何度も意識し、日を追うごとに副作用の苦しみが増す。口内炎、頻脈(ひんみゃく)、白血球の減少……。治療の継続さえ危ぶまれた時もあった。
 「病魔につけ込まれるで! 笑顔、笑顔」
 妻に元気をもらい、病室の机には何枚ものファクス用紙を重ねていた。錦宝会(多宝会)の先輩からの手紙。池田先生の指導を書き留め、励ましの熱と共に、次々と自宅に送ってくれた。
 〈入院しているとお題目があげにくいでしょうが心配するな。私は責任もって村山君の分をあげている! 治療に頑張って!〉
 あふれる感謝が、生きる力になった。年が明け、治療が功を奏し退院する。
 
同志と共に
 退院後、しばらくマスクが外せなかった。手術した顔を人前にさらすことをためらった。それでも15年5月、久しぶりの座談会へ。常勝長(ブロック長)として御書講義をすることに。
 「手術をしまして、上手にしゃべれるか分かりませんけど」
 そう前置きし、講義に入った。
 「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なにのなげきか有るべき」(同976ページ)
 温かい同志の目。隣には“あなたらしくね”と見守る妻の笑顔。この一節を自らに言い聞かせ、新たな出発を切った。
 仕事にも復帰。2カ月に1度の検査では、恐怖と向き合う。秋には体験発表を頼まれた。
 「何を伝えていいか分からへん」
 「私が一緒に考えてあげるから」と久美さんに背中を押された。
 迎えた当日。文字にすると改めて、過酷(かこく)な日々が思い出された。言葉に詰まりながら読み終えると、拍手に沸いた。「感動した」と喜んでくれる同志もいた。
 人に何かを伝えるのは容易ではない。だが、難しく考える必要はなかった。生き抜こうとする姿、言葉には、確かな力が宿っていた。
 村山さんはこれまで以上に、学会活動に喜びを感じ広布に駆けた。
 節目の5年が近づいた先月末、医師から「もう心配ない」と告げられる。夫婦は「目指してはきたけど、ゴールはここじゃない」。通過点として走り抜いていくと誓い合った。
 妻の手帳には闘病の経過と共に、「取材」の文字が幾つも。久美さんは本紙の通信員。夫を支えながら、同志のもとへ足を運び、記事を書いてきた。
 「『ペンの勇者』って池田先生がおっしゃってるんやから。これも私の戦う場所なんです」
 試練と闘う今だからこそ、紡(つむ)ぐことができる言葉がある。そう信じ、挑戦を重ねてきた。
 今月の地区大会で、村山さんは再び体験発表をすることに。今、久美さんと原稿の準備を進めている。
 「話すのは得意とちゃうし、たくさんの人には上手に伝えられへん。でも」と、村山さんは言葉を継いだ。
 「口べたやけど、一人でも励ませたら、それでいいねん」
 がんが顔にできたため、病(やまい)の痕(あと)がいつも目に映る。「それは、感謝を忘れないため。そう受け止めてます」
 池田先生が京都市中京区の友に贈った指針がある。その通りに、これからの人生を生き抜きたい。
 「感謝ある人は常に幸(さいわい)なり」​


(2019年11月10日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/11 07:00:06 PM
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2019/11/08
カテゴリ:信仰体験

​​信仰体験  急性リンパ性白血病に勝った長女  
母と娘は“鼓笛姉妹”
受け継がれる「負けない心」 
夫も入会し一家和楽の信心に励む

【大阪府守口市】大西恵さん(42)=支部婦人部長=の自宅には、一風変わった記念写真がある。10年前、夫・康雄さん(47)=壮年部員=の入会記念勤行会の際に撮影されたもの。祝福する同志が皆、マスクを着けて参加している。当時、6歳だった長女・うららさん(16)=高校1年=は、白血病の治療のため、入院していた。“娘さんに付き添うご家族に、風邪などうつしてはいけない”と、同志が細心の注意を払って写した一枚だった。

気丈なわが子
 2009年(平成21年)8月、左耳の後ろにできた小さなこぶが、最初に見つかった異変だった。
 その後、うららさんの体には、手足の関節の腫れや、発熱などの症状が現れた。何度目かの検査で、「急性リンパ性白血病」と診断された。
 「血の中に、ばい菌がいるから、お薬でやっつけようね」。大西さんは、幼いわが子にそう言い聞かせて、治療に付き添った。鎖骨の下に挿入されたカテーテルを通して、抗がん剤が投与されていく。副作用で激しい口内炎ができ、指の爪は黒く変色して、?がれ落ちた。
 うららさんは時折、おなかが痛くて眠れないと訴えた。大西さんは見守ることしかできないもどかしさに耐えながら、静かに唱題し、わが子が寝息を立て始めるまで体をさすり続けた。
 やがて、頭を洗うたび、ごっそりと髪の毛が抜けるようになった。大西さんは胸を突かれた。
 ところが当の本人は、「お薬が効いてるってことか!」と明るく振る舞う。地域の同志から届いた「病気に負けないでね」というメッセージを伝えた時にも、「負けるわけないやん!」と言い切ってみせた。
 髪の抜けた自分の姿を、初めて次女・こころさん(13)=中学2年、当時4歳=に見せる時は、少しためらいがあるようだった。しかし帽子を取った頭を、こころさんが「かわいいやん!」と褒めると、うららさんもすぐ、屈託のない笑顔を見せた。
 入院中のうららさんは、何度も母や妹と共に、決意を記した手紙を池田先生に送った。ベッドの上で小さな手を合わせながら、毎日、題目を唱えた。

大粒の涙 
 過酷な治療に弱音を吐くこともなく、前向きな心を失わないわが子に、大西さんは自分が励まされる思いだった。
 これまで母として、娘たちに信心の素晴らしさを伝えようと努力してきた。自身が未来部・女子部時代に鼓笛隊に所属し、胸に刻んだ“師匠を求め抜く心”も、わが子に受け継いでほしいと願ってきた。
 会合で感動した話や先生の指導を、自然と娘たちに語っていた。一緒に会合に参加する時には、にぎやかに学会歌を歌いながら、自転車をこいだ日もあった。
 やがて、うららさんは「池田先生がつくった小学校に行きたい」と言うように。学校見学会に参加し、受験を数カ月後に控えていた時、病魔に襲われたのだ。
 “闘病するわが子を支え、何かしてやりたい”。その思いは、当時、未入会の康雄さんも同じだった。だが「うららが頑張っている今だから、一緒に信心してほしい」と言う妻に、返事ができないでいた。かつて入会はしないと言い張っていた手前もあり、踏み出せなかった。
 ある日のこと。病室のベッドの上で、うららさんが、真っすぐな瞳で見つめてきた。「パパも一緒に、なんみょうして」。娘の純粋な思いが父の心を揺り動かした。この09年11月、康雄さんは入会を決める。
 入院中のうららさんは、入会記念勤行会に参加できなかったが、後日、記念写真を病室でうれしそうに手に取った。学会同志の輪の真ん中で、緊張気味に笑みを浮かべる父の姿。娘の?に大粒の涙がこぼれ落ちた。

家族で祈る
 家族一丸となっての唱題が始まった。
 大西さんの祈りは一層、強くなった。“うららの病を治す。夫と一緒に、信心の確信をつかんでみせる!”
 そして――治療も奏功し、うららさんは晴れて退院を果たす。その日は、康雄さんの入会から、ちょうど100日目のことだった。
 その後の通院治療も懸命に取り組み、発症から2年後の11年10月、「寛解」を告げられた。
 中学から、憧れだった関西富士鼓笛隊に入隊し、今春には念願かなって、関西創価高校に入学した。
 次女のこころさんは、小学校入学前、重度のアトピー性皮膚炎に苦しんだが、大西さんと唱題に挑戦する中で、克服していった。関西富士鼓笛隊で、母や姉と同じドラムなどを担当している。
 今、思春期を迎えた娘2人のいる家庭にあって、康雄さんは少し、肩身が狭い。「女性3人がおしゃべりで盛り上がっていると、とてもその輪に入れる気がしない」と照れ笑いだ。
 そんな夫のことを、「以前は少し、頑固なところがあったけど、今はとっても優しいお父さんです」と大西さん。
 片や康雄さんは、「何か、妻の真剣な思いに引っ張られるような感じで、ここまで来たように思います」と。
 家族で一緒に勤行をする時、導師を務めるのは康雄さんだ。その背中を見つめると、じんわりと込み上げる思いがある。“平穏な毎日を送れることが、どれほど素晴らしいか”――大西さんが、信仰の喜びをかみ締める瞬間である。​​


(2019年11月8日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/08 07:10:04 PM
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2019/11/07
カテゴリ:信仰体験

​信仰体験   さわやか寸景
妻が入会した理由
真心が伝わる時 
母が教えてくれた姿勢
 【東京都大田区】本年1月2日に創価学会に入会した栗林和佳奈(くりばやしわかな)さん(42)=婦人部員。これまで夫・孝史(たかし)さん(41)=男子地区リーダー=から仏法の話を聞いてきたが、入会には踏み切れないでいた。
 昨年11月、孝史さんが“結婚10周年の節目に”と意気込んだ時もそう。「一緒の方向を向いていきたい」と伝えると、和佳奈さんは「同じ宗教をすることが、一緒の方向を向くことなの?」と。
 「家族を大切にしてくれているとは思うけど、仕事で忙しく、平日の夜も会合に行き、趣味で買った服と靴は家にあふれてて、整理もできないじゃない」。妻に論破され、対話はいつも平行線に終わっていた。
 その和佳奈さんが信心を始めたきっかけは、義母・淑子(よしこ)さんの逝去だった――。
 結婚以来、和佳奈さんを温かく励ましてきたのが淑子さん。働きながら出産、子育てに励む和佳奈さんの身を、常に気に掛けてくれた。
 夫婦で大田区に移り住んだ時も、生まれ育った品川区に住むと主張していた孝史さんへ、淑子さんが「あなたのこだわりよりも、和佳奈ちゃんのことを第一に考えなさい」と一喝した。
 その淑子さんが心筋梗塞で倒れたのは、年の瀬の12月24日。妹からの電話で孝史さんは事態を知った。病院に駆け付けるも、心肺停止の状態で、淑子さんは眠るように息を引き取った。
 あまりに突然の出来事。孝史さんは現実を受け止められないまま、家に帰るなり御本尊に向かった。
 雨の日も雪の日も、仕事前の早朝から本紙の配達を行った母。常に自分のことよりも人のことを優先して、時間を見つけては、友を励ましに歩いた母。
 心にぽっかりとあいた穴。どれくらい祈っただろうか。ふと孝史さんの耳に、後ろで自分の声に合わせて唱題する声が聞こえた。
 妻が題目を唱えている。にわかには信じられなかった。結婚以来、初めての光景に母の言葉が思い出された。
 “家族を大切に思って生きなさい。学会の会合に出させてもらえるのも、当たり前じゃないんだよ。感謝の気持ちを常にもって。あなたの背中で、姿で、信心を語っていきなさい。和佳奈ちゃんは、頭のいい子だから、いつかきっと、分かってくれるわ”
 唱題を終えると、言葉が口を突いて出た。
 「一緒に信心したいんだ」
 「うん、いいよ」
 「え、いいの!?」
 思わず聞き返した。和佳奈さんは当時を振り返って言う。
 「夫があまりに落ち込んでいるんで、元気が出たらいいなあと思って。それに、お義母さんほど、人のために行動してきた人を他に知りませんでしたから」
 孝史さんが、現役で働き続けた母の職場へ荷物を引き揚げに行った時のこと。20代の若い社員たちが惜しんでくれた。「栗林さんほど、後輩思いで、声を掛けてくださる方はいませんでした」
 孝史さんは感じた。「実証って、肩書とか業績をイメージしがちだったんですが、それだけじゃないんだなと。どう生きて、その姿で人の心に何を残すかを、母は教えてくれたんだと思うんです」
 大手おもちゃメーカーのマネジャーとして、世界を舞台に活躍する孝史さん。結果と共に中身を追い続ける。​


(2019年11月7日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/07 06:00:11 PM
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2019/11/06
カテゴリ:信仰体験

​信仰体験   生きるよろこび
クローン病と闘う製薬会社の営業マン
不動の信念 堂々たる人格で


プロローグ
 【名古屋市東区】2003年(平成15年)1月、中学3年の小林寿(ひさし)さん(32)=区男子部書記長=宛てに、創価高校から受験の合否を知らせる封筒が届いた。中身をそっと取り出すと、「合格」と。「やったー!」。父・秀(ひでし)さん(71)=副圏長=と母・和子さん(62)=支部副婦人部長=も声を上げて喜んでくれた。
 故郷の佐賀から上京することに不安はあったものの、日に日に期待が膨らんでいく。
 だが、3月の中頃に突然、腹部の激痛に襲われる。食あたりと思ったが、鈍い痛みは治まらない。病院を幾つも回った末、「クローン病」と診断された。創価高校の栄光寮に入寮する直前、4月1日のことだった。
 
食べられない
 炎症性腸疾患(IBD)のクローン病は、厚生労働省の指定難病。口から肛門までの全消化器官のどこにでも、慢性の炎症や潰瘍が発生する。
 “ナンビョウって何? 手術すれば治るんじゃないの”と思っていた。だが寛解と再燃を繰り返すため「一生、治らない」と医師から告げられた。頭の中が真っ白になった。
 自宅に戻っても、何も手につかない。“学園を諦めるしかないのか”。「食事療法」として、脂質の多い食事を避けるように言われた。また、過度のストレスも良くないという。やりきれなかった。
 地域のドクター部員が駆け付けてくれた。「油が少ない健康的な食事を心掛ければ、他の病気の予防にもなる」「絶対、病に心が負けちゃいけない。病になった意味が分かる時が来るよ」
 家族も背中を押してくれ、創価高校へ。教職員も配慮をしてくれた。寮の食堂では、鶏のささみを使うなど、専用メニューを用意。また、養護教諭の望月理(もちずきおさむ)さん(故人)が何かと気遣ってくれた。
 体調を崩すと、寮の先輩が夜通し看病してくれた。本当の兄弟のようだった。
 “僕は一人だと思っていたけど、一人じゃない”
 多くの仲間に支えられ、治療も功を奏し、症状は悪化することなく高校を卒業。創価大学に進学する。
 大学1年の11月。病との向き合い方を変えてくれる先輩との出会いがあった。
 「その頃、日常生活は問題なく送っていたけど、そのことにだんだんと甘えてしまうようになって。大学の講義にも身が入らず、成績は良くはなかった」
 そんな小林さんに先輩は「厳しいことを言うけど、小林君は、病気を言い訳にしているんじゃないのか」と。
 ハッとした。「悔しかったけど、その通りだった。当然、無理はしちゃいけない。でも、“できること”までセーブしていた」
 以来、講義を一番前で受講するように。教授にも積極的に質問した。課題にも真剣に取り組んだ。すると、2年から4年までの3年間、成績優秀者に。「いつも陰に陽に支えてくれる両親に、親孝行ができた」
 学会活動にも懸命に励み、同じ病で悩む友に仏法対話を続けた。そうした中、4年次にはクローン病の寛解を勝ち取る。
 真っ先に行ったのはラーメン店。共に泣き、共に笑った仲間たちと一緒に麺をすすり、“勝利”をかみ締めた。「少ししか食べられなかった。でも“格別な味”だった」
 
富士と待つ
 “病で苦しんだ分、誰かの役に立ちたい”と、創大の大学院修了後は製薬業界に飛び込み、MR(医薬情報担当者)になった。
 医師が求める医薬品の情報や研究データなどを提供するだけではなく、臨床現場の情報を集めるなど、高い専門性が求められる仕事。膨大な薬品の知識を身につけるとともに、話す技術を磨いた。社内で模範的な成績を残すこともできた。
 だが、16年1月、腹部に激痛が走った。“まさか”と思った。忘れることができない“あの痛み”だった。
 「クローン病の再燃です」。医師からそう告げられた。手術は3カ月後になった。
 “頑張ると、いつもこうだ。僕は何のために生きているのか”
 不安で押しつぶされそうになる。御本尊の前に座っても、ボーッとするだけ。ふと1枚の写真を手に取った。
 高校1年の7月、創立者・池田先生が写した、白雪の富士。“小林君が万が一、体調を崩して学園を辞めるようなことがあったら渡してほしい”との言付けがあったという。裏には、池田先生の字で「君の帰りを 富士と待つ!」と。
 大学に進み、社会人になり、その間、何度も見返した。そのたび心に師の励ましが響いた。
 「富士の頂上は、烈風が吹きつけ、豪雪が襲う。しかし、富士は悠然として動じない。富士のごとき不動の『信念の人』、富士のごとき堂々たる『人格の人』になっていただきたい」
 “あの時、誓ったじゃないか。勝利を待っていてくださる池田先生のために、何があっても負けないと!”
 地域の同志も祈り、励ましてくれた。合唱団の担当者として関わってきた未来部のメンバーも手紙を届けてくれた。
 「みんなでおうえんしてます。すごくまってます。笑顔でもどってきてください」
 胸が熱くなる。手術の成功を猛然と祈った。3カ月後、小腸を約50センチ切除した。幸い、炎症は1カ所だけだった。“守られた”と思った。
 退院から1カ月後、職場復帰を果たした。
 
エピローグ
 現在、毎食時の飲み薬と、2週間に1度の注射を続けている。多少の食事制限もある。
 仕事で、医師と面会していた時のこと。小林さんは、患者だけでなく、一緒に暮らす人、一緒に仕事をする人にまで思いを馳(は)せながら、薬の使用法や効果を語った。
 聞き終えた医師は「小林さん自身が病と闘っているからか、言葉に優しさと実感がありますね。ぜひ薬を使いたい」と。
 先月、優秀な営業成績を収め、400人のMRの中から20人に選ばれ表彰された。
 小林さんはその勝利を、支えてくれている人たちにささげたいと思っている。
 「今も治療は続いています。だから常に、“限界”なのか、“妥協(だきょう)”なのか、一瞬一瞬を勝負しています。そのことが、今まで支えてくださった方たちへの感謝になり、同じ悩みを持つ人の勇気になると信じているから」


(2019年11月6日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/07 12:45:53 PM
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2019/11/01
カテゴリ:信仰体験

​世界の体験プラザ
韓国SGI 金京美(キムギョンミ)さん
地域に尽くす陶芸家夫妻
磁器の伝統楽器が評判を呼ぶ

独自の技法で特許を取得
 「年齢ではない。環境でもない。心である。人生は心ひとつで、いつでも、どこでも、最高に輝かせることができる」との池田先生の指導があったからこそ、粘り強く前進することができました。
 
品質よくても売上は低迷
 夫は、父も陶芸家で、幼い頃から遊び場は工房だったそうです。父の背中を見て陶芸を学び、自然にこの道に入りました。
 一方、私は若い頃に陶磁器に強く引かれ、ソウルと利川(イチョン)を行ったり来たり。陶芸を学ぶ中で、学校の同級生に紹介され、夫と出会ったのです。
 1995年の結婚を機に独立。現在、600坪(約2000平方メートル)の土地に、190坪(約630平方メートル)ほどの作業場兼住宅を構え、従業員は夫と私、契約社員が1人という小さな規模で営んでいます。
 2人の子どもに恵まれましたが、当初、作っていたのはカップやお皿などの日常的な磁器ばかり。競争が激しく、なかなか特徴が出せません。
 夫の技術は確かで、陶磁器コンクールなどでも成績は良いのですが、売り上げには結びつかないのです。
 そんな中、大きな試練が襲ってきました。夫が、原因不明のリウマチ性疾患・強直性脊椎炎になったのです。
 発熱や倦怠感に襲われ、全身がこわばる病。病状が進行すると脊椎が固まって動けなくなります。ろくろを回すのはもちろん、ひどい時には、足を前に出すことさえできないほどです。
 崖っぷちに立つ私たち夫婦の姿を見て、私の姉が韓国SGIの仏法の話をしてくれました。
 “必ず幸せになれる”と聞き、2000年に夫婦そろって入会。題目をあげ、真剣に御書や池田先生の指導を学ぶと、人生に前向きになり、次々と知恵が湧いてくることを実感しました。
 特に「や箭のはしる事は弓のちから」「をとこ(夫)のしわざはめ(婦)のちからなり」(御書975ページ)との御聖訓を胸に刻み、夫の仕事も、私の信心で必ず打開していこうと誓いました。
 
2人の息子も後継の道を
 「地域に価値を生み出す作品を作ろう」と目標を定め、少し前から知人に勧められていた、伝統楽器チャングに力を入れようと決めました。
 もちろん、簡単なことではありません。楽器用の副資材を選ぶのも一苦労で、専門家に相談したり、あちこちの工場を見て回ったりしました。また、チャングに使う革を大量に購入したところ、梅雨で全てにカビが生えてしまい、泣く泣く廃棄したこともあります。
 しかし、信心の功徳は厳然でした。04年に、夫の強直性脊椎炎(きょうちょくせいせきついえん)が大きく好転。前後して私たちのチャングがテレビ番組で紹介され、一気に知名度が上がったのです。
 07年にはチャングが「第8回京畿道(キョンギド)優秀観光記念品公募展」大賞を、08年にはカヤグムが「第2回利川(イチョン)陶磁器公募展」大賞を受賞できました。
 形だけをまねる模倣品も出てきましたが、土選びから、構造の研究など、いい音が出るように積み重ねた試行錯誤の成果が生きました。私たちが贈ったチャングが韓国伝統の音楽・舞踊楽団で使われるなど、“本物は音が違う”と、コピー商品は自然に駆逐されていったのです。
 今、地域に恩返ししようと、夫は伝承陶芸協会の理事を務め、私は地区婦人部長として広布に駆けています。
 うれしいことに、陶芸高校を卒業した長男は、行政機関に勤めながら夫の仕事を学んでいます。大学でコンピューターを専攻した次男も、店のホームページ制作や事務作業を手伝い、男子部ではグループ長として活動しています。
 先日、夫がしみじみと「この信心で、絶対に立て直すと決めたからこそ、今もこうやって陶芸ができているね」と言ってくれました。
 これからも利川の素晴らしさをどこまでも追求し、韓国へ、世界へ発信できるよう、全力で取り組んでいく決意です。​


(2019年11月1日 聖教新聞)







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