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晴ればれとBlog

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教学

2020.11.14
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カテゴリ:教学

〈御書池田大学運動のために 池田華陽会御書30編に学ぶ 女子部教学室〉

諸法実相抄 ㊤  
    “今いる場所”で幸福開く
 今月から2回にわたり、「諸法実相抄(しょうほうじっそうしょう)」を学びます。


 池田先生はつづられました。


 「私たちは、地涌の自覚(じかく)によって、師匠と不二の誓願に立つことができます。同志とも異体同心の連帯を築いていくことができます。自身の境涯を開く人間革命の真髄(しんずい)は、『我、地涌の菩薩なり』との深き使命の決意、そして地涌共戦の行動から始まるのです」


 広宣流布を誓願し、躍り出る「地涌の菩薩」の誉(ほま)れの使命を学び、学会創立100周年の2030年へ出発していきましょう。(拝読範囲は御書1358ページ冒頭~1360ページ8行目「是なり」です)​


本抄について
 本抄は、文永10年(1273年)5月、日蓮大聖人が流罪地の佐渡(さど)で認められ、最蓮房(さいれんぼう)に与えられたとされるお手紙です。


 最蓮房は、大聖人と同時期に佐渡に流罪されていた人物で、もとは天台宗の学僧でしたが、大聖人と出会って弟子になりました。


 本抄は、最蓮房が大聖人に、法華経方便品第2に説かれる「諸法実相」についてお尋(たず)ねしたことに対する御返事とされています。


 大聖人は、本抄で「諸法実相」の意義を述べられ、この法理に照らし、一切衆生の生命が本来、妙法蓮華経の当体であることを明かされます。


 また、大聖人と同じ心で広布に進む人は「地涌の菩薩」であり、滅後弘通の使命を果たす“地涌の実践”によって末法の広宣流布は疑いないとの大確信を示されます。


御文
​​​​​​​​​​ いかにも今度(こんど)・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意(どうい)ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠(しゃくそんくおん)の弟子たる事あに疑(うたが)はんや、経に云く「我久遠(われくおん)より来(この)かた是等(これら)の衆(しゅ)を教化(きょうけ)す」とは是(これ)なり​​​​​​​​​​(御書1360ページ6行目~8行目)​


通解
 なんとしても、この人生で、信心に励み、法華経の行者として生き抜き、日蓮の一門となり通していきなさい。日蓮と同じ心であるならば、地涌の菩薩でしょう。


 地涌の菩薩であると定まったならば、釈尊の久遠の弟子であることは疑う余地がありません。経文に「私(=釈尊)は遠い昔から、これらの者たち(=地涌の菩薩)を教化してきた」(従地涌出品第15)と説かれているのはこのことです。


[解説]信心に励み「地涌の生命」を涌出
 法華経に示される「諸法実相」とは――最蓮房の求道の質問に、大聖人は本抄で「あらゆる事象(諸法)の本質(実相)が妙法蓮華経である」との、仏の甚深の智慧によって悟った真実を明かされます。
 南無妙法蓮華経の題目は、全宇宙とわが生命を貫く根本の法則です。無限の生命力を湧き立たせ、福徳を生み、全ての人を成仏させゆく幸福の源泉が、妙法です。


 大聖人は本抄で、この偉大な妙法に巡り合ったことが、いかに深い「使命」であるかを教えられています。


 本抄の御執筆当時、大聖人は佐渡流罪という最大の苦難の中におられました。


 そうした状況の中、掲げた御文で大聖人は、いかなる困難があっても信心を貫き、「法華経の行者」として、また「日蓮の一門」として生き抜くよう、弟子に呼び掛けられます。


 そして、大聖人と同じ心で広布に尽くす人は、法華経に説かれる「地涌の菩薩」であると明かされました。



 法華経では、全宇宙から数え切れない菩薩が集まり、釈尊の滅後、悪世の娑婆世界(迷いと苦難に満ちた、私たちの住む現実世界)で、妙法を弘めると決意を述べます。


 ところが釈尊は、その決意を制止し、“この娑婆世界に直弟子である無数の菩薩がいる。彼らが弘めるからだ”と、理由を語ります。


 するとその瞬間、大地を破り、無数の、立派な姿をした「地涌の菩薩」が出現します。釈尊は“彼らは私が久遠の昔から教化してきた弟子である”と明かし、最も困難な末法の娑婆世界の広宣流布を、この地涌の菩薩に託したのです。


 ゆえに、大聖人は続く御文で、地涌の菩薩であると定まったなら釈尊の久遠の弟子であることも疑いないと述べられました。


 地涌の菩薩は、悪世末法の広布を誓願し、大地を破って躍り出ました。この出来事を私たちの信心の上で拝すれば、苦悩に満ちた現実の中で、自分自身の生命の大地に、久遠より師に鍛え抜かれてきた「地涌の生命」を涌出させることであるとも言えるでしょう。


 すなわち、実践で言えば、今いる場所で妙法を唱え抜き、自身の人間革命から自他共の幸福を勝ち開いていくこと――それこそが、地涌の菩薩の誓願であり、誇り高き使命なのです。(㊦は12月12日付に掲載予定)


池田先生の指針から
 大聖人は、あらゆる大難を乗り越え、末法広宣流布を担う「地涌の菩薩」について、「よくよく心を鍛(きた)えられた菩薩なのであろう」(御書1186ページ、通解)と述べられている。


 苦難に負けないこと、屈(くっ)しないこと、そして乗り越えること――それは言い換えれば、本来、鍛(きた)え抜かれた偉大な生命を持っているということなのである。


 地涌の生命の底力が、どれほど深く、どれほど強く、どれほど大きいか。(中略)


 眼を開いて見れば、皆が大聖人に直結する、尊貴な地涌の菩薩なのである。(『随筆 希望の大道』)


                  ◇ ◆ ◇ 

 
創価学会の「創立の心」――それは、この「地涌の菩薩」の誉れ高き使命と力を自覚することなのである。

 自分を卑下したり、人を羨んだりする必要など、まったくない。


 わが生命の奥底には、尊貴なる地涌の生命が脈動しているのである。深き誓願の祈りと、勇敢な行動で、その清らかで力強い生命力を「涌出」させていくことだ。「この世で果たさん使命あり」である。(2006・11・22付、創立記念日最高協議会でのスピーチ)


研さんのために
 ○…『勝利の経典「御書」に学ぶ』第17巻(聖教新聞社)


 ○… 2020年6月号「大白蓮華」掲載の「世界を照らす 太陽の仏法」







最終更新日  2020.11.14 09:43:54


2020.11.10
カテゴリ:教学

〈明日を照らす〉 テーマ:御供養の精神

​ 御書には、御供養に対する感謝や励ましをつづったお手紙が、数多く収められています。そこには、心温まる師弟の絆が輝いています。


 かつて池田先生は、「広宣流布のためにとの誠実な『心』は、誰が称賛しなくても全て御本仏が必ず御照覧です。一切が偉大なる功徳、福運となって自身を荘厳していきます」とつづっています。


 今回の「明日を照らす」は、「御供養の精神」をテーマに学んでいきましょう。


松野殿御消息
 ​​​​​​​昔(むか)し徳勝童子(とくしょうどうじ)と申せしをさなき者は土の餅(もち)を釈迦仏に供養し奉りて阿育大王(あそかだいおう)と生れて閻浮提(えんぶだい)の主(しゅ)と成りて結句(けっく)は仏になる​​​​​​​(御書1380ページ)​


大切なのは真心
【通解】

 昔、徳勝童子という幼い者は、土の餅を釈迦仏に供養して、阿育大王と生まれて閻浮提(=全世界)の主となり、最後には仏になったのである。


 本抄では、種々の品物の御供養を送られた、松野殿への感謝とともに、末法の法華経の行者に供養する功徳の大きさをつづられています。その末尾で引用されているのが、「徳勝童子」の話です。


 当然ながら、土の餅は食べることはできません。しかし、「釈迦仏のため」という真心の供養が、仏法に基づく善政を敷いたアショーカ王(阿育大王)、さらに仏となるような、大きな福徳の因となったのです。


 また、本抄に「あなたは人々が日蓮を憎んでいるのに、しかも、いまだ一度もお目にかかったこともないのに、なぜこのようにご信用になるのであろう」(御書1379ページ、通解)とあるように、松野殿は一度も大聖人にお会いしたことがなかったようです。


 さらに、大聖人は当時、世間的には権力から迫害されているお立場でした。それでも、“師匠を支えたい”という、松野殿の真心を、大聖人は感嘆をもってたたえられています。


 本抄以外にも、「ねんごろの御心ざしは・しなじなのものに・あらはれ候いぬ」(同1529ページ)等、門下から送られた品々に対する、心からの御礼を述べられた御書は数多くあります。大聖人は門下の思いを、全てご存じであったと拝されます。
 師を思う弟子の心と、その思いを大切にされる大聖人との心通う交流――“御供養の精神の根本は真心である”と、温かな感動をもって拝することができます。

妙密上人御消息
 ​​​​​​​​便宜(べんぎ)ごとの青鳧五連(せいふごれん)の御志(おんこころざし)は日本国の法華経の題目を弘めさせ給ふ人に当れり、国中の諸人(しょにん)・一人・二人・乃至千万億の人・題目を唱うるならば存外(ぞんがい)に功徳身(くどくみ)にあつまらせ給うべし(御書1241ページ)​​​​​​​​


計り知れない功徳が
【通解】

 便りのたびに送られる青鳧(銭)五連の御供養の志は、日本国に法華経の題目を弘められている人に相当するのである。国中の人々が、一人、二人、そして千万億の人が題目を唱えるならば、思いもかけない功徳が、身に集まるであろう。


                    ◇ 


 不惜身命で法華経を弘通される大聖人を支えようと、妙密上人は、「便宜ごとの」とあるように、便りを送るたびに「青鳧五連」(銭五貫文(ぜにごかんもん))の御供養を送っていました。


 大聖人はその「志」を、日本中に法華経の題目を弘めることと同じであり、今後、国中の人々が題目を唱えるならば、その功徳が妙密上人の身に集まることは間違いないとたたえられています。“広宣流布の前進を支えよう”という心には、想像できないような無量の功徳があるとの仰せです。



 本抄に「須弥山(しゅみせん)の始(はじ)めを尋(たず)ねれば、一つの塵(ちり)である。大海の始めは一滴の露(つゆ)である」(御書1237ページ、通解)とあるように、末法の広宣流布は、大聖人ただお一人から始められました。そして、相次ぐ大難の中、「二人・三人・十人・百人・一国・二国・六十六箇国・已(すで)に島二(しまふたつ)にも及びぬらん」(同1241ページ)と、日本中に妙法を弘められました。

 大聖人直結の創価学会は、三代会長の大闘争によって、世界192カ国・地域にまで広がりました。今やあらゆる国々で、“師弟の志”を共にする同志が信心に励んでいます。この世界広布の大潮流を支える功徳は計り知れません。
 かつてない試練に立ち向かう今こそ、“学会と共に”との心で、社会に希望を広げる前進を開始しましょう。


池田先生の指導から
 日蓮大聖人は、御供養の品々について、農水産物だけでも、数十種もの名前を丁寧に記し残されている。(中略)大聖人にとって、門下がお届けした米は、単なるモノではなかった。


 粒々辛苦の結晶を、「民のほねをくだける白米」(御書1390ページ)、「白米は白米にはあらず・すなはち命なり」(同1597ページ)とまで言われた。まさに、お届けした弟子の尊極の生命そのものとして受け取っておられる。(『池田大作全集』第139巻所収、随筆「人間世紀の光」農漁村の春の喜び)

                  ◇ ◆ ◇
 

法華経への供養とは、妙法と共に生き抜くことです。万物を潤し、本有の生命を輝かせていく妙法を、自分も実践し、他者にも勧めていく。この功徳は日月の光明の如き、無上の価値を生み、尽きることはありません。


 ゆえに、現代においても、妙法一筋に、広宣流布のため、社会のために、日々、献身している学会員の功徳は計り知れません。厳たる生命の因果の法則に照らせば、すべての行動が、将来、無量の福徳となって、爛漫(らんまん)と陰徳陽報(いんとくようほう)の花を咲かせていくことは絶対に間違いありません。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第21巻)


                  ◇ ◆ ◇
 

大聖人をお慕いする門下たちは、大聖人がいらっしゃる佐渡や身延にまで、遠く危険な道のりを歩みぬいていった。そのなかには、幼子を連れた女性もいた。かなりの年配の方もいた。

 大聖人のもとにお届けした御供養の品も、一生懸命に節約して用意したものであろう。こうした門下の“広宣流布の志”を、大聖人は心から讃嘆された。“ありがとう、本当にありがとう”“こんなところまで、よくきてくださいました”と深い深い感謝の心で包んでいかれたのである。(『池田大作全集』第99巻所収、第55回本部幹部会でのスピーチ)


(2020年11月10日  聖教新聞)

​​







最終更新日  2020.11.10 16:20:27
2020.11.07
カテゴリ:教学

〈教学〉 11月度座談会拝読御書 異体同心事

拝読御文
 ​​​​​​日本国の人人は多人なれども体同異心(たいどういしん)なれば諸事成(しょじじょう)ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心(いたどうしん)なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚(おぼえ)へ候、悪は多けれども一善(いちぜん)にかつ事なし、譬(たとえ)へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし​​​​​​(御書全集1463ページ5行目~7行目、編年体御書792ページ5行目~7行目)​


[池田先生の指針から]
 妙法こそすべてを結ぶ善の原理
 大聖人は本抄で、妙法の力を現して悪と戦い、前進する大聖人の一門を「一善」と表現されています。
 妙法こそ、すべてを結びつけて、いかなる悪をも滅していける「唯一の善の原理」だからです。


 「分断は悪」「結合は善」です。


 仏界の生命は、すべてのものが互いに結びつく宇宙の実相を悟(さと)った智慧(ちえ)で、現実を生きていく生命です。


 仏とは、分断の悪にあえぐ人間たちが織り成す現実の中で、人間と人間を結びつけ、安国の理想実現に尽力しつつ、全人類の平和を目指していく価値創造の生命に他ならない。


 ゆえに「悪は多けれども一善にかつ事なし」と仰せです。
 善の太陽が昇れば、いかに深い悪の闇(やみ)も、直ちに、そして必ず滅します。


 「一善」とは、大聖人の一門のことです。


 それは、大聖人の一門にこそ、障魔との戦いを恐れず、妙法という根本の善を弘通しぬく戦いに徹する決意と実践があるからです。


 私たちは、法華経の理想を実現する広宣流布の戦いに生きています。


 誰にどう批判されようと、「民衆の力」を解放し、「民衆の時代」を築くために、汗を流し、足を鉄板のようにして歩き、岩盤に爪(つめ)を立てる思いで戦ってきたのは、創価学会だけです。その事実があるからこそ、世界からの賞讃が絶えないのです。


 一面から言えば、私たちが築いてきた「異体同心」の哲学と実践は、今、世界で注目される段階になったともいえます。(中略)


 「善」と「善」の連帯を築き上げていく、私たちの「異体同心」の実践を、世界が待望しています。どこまでも、威風堂々と前進し、勝利の歴史を築いていきましょう。(『希望の経典「御書」に学ぶ』第3巻)


一人一人が輝く麗しい団結を
尊い仏子を敬う
 日蓮大聖人が広宣流布実現の最大の力として示されたのが、「異体同心の団結」です。


 「異体」とは、それぞれの個性や特質が異なっていることです。
「同心」とは、志や目的を同じくすることです。


 大聖人の仏法を実践する私たちにとって「異体同心」とは、互いの違いを認め合い、尊重し合いながら、広宣流布という大目的に向かって心を合わせることといえます。


 一般的に団結とは、共通の目標を達成するための「手段」と考えられます。しかし、創価の「異体同心の団結」は、自他共の幸福を築く麗(うるわ)しい連帯であり、それ自体が広宣流布の「目標」ともいえます。


 「団結しよう」と言うだけで、容易に団結することはできません。だからこそ、大切な広布の組織を守り、絆(きずな)を結ぶ努力が欠かせません。


 大聖人は、「法華経を持つ者をば互(たがい)に毀(そし)るべからざるか、其故(そのゆえ)は法華経を持つ者は必ず皆仏(みなほとけ)なり仏を毀りては罪を得(え)るなり」(御書1382ページ)と仰せです。妙法を持つ同志は、皆が尊(とうと)い仏子(ぶっし)です。互いに尊敬し励まし合いながら、広布に前進することで、麗しい団結が築かれていくのです。


 戸田先生は「異体同心の心は、信ずる心です。信仰が同じという意味です」と述べています。


 つまり、単に仲が良いといった次元にとどまらず、お互いが妙法を根本とした不退の信心を持つことが、信心の団結においては重要なのです。


 コロナ禍で生活様式が大きく変わろうとする今、一人一人の幸福を願う発露から、創意工夫を重ねて行学の実践に励む学会員の信心によってこそ、異体同心の団結が築かれるのです。


広布に心を定め
 「異体同心」の反対が、「体同異心」です。
 大聖人は、命に及ぶ迫害を何度も受けられ、その弾圧は門下にも及びました。迫害する者たちは「反大聖人」という点で結託しているように見えて、利害も思惑もバラバラの「体同異心」でした。


 これに対し、少数であっても信心の団結があれば、「大事を成じて」「一定法華経ひろまりなん」と、打ち勝つことができると仰せです。


 すなわち、広宣流布の伸展を決定づけるのは、人数の多少ではなく、広布に心を定め、心を一つにできるかどうかです。一人一人の持てる力が足し算ではなく、あたかも掛け合わされるように発揮されることで、前進の力は何倍にも増します。


 その上で心すべきは、広宣流布は仏と魔との闘争であるということです。広布を阻もうとする魔の働きは、人々の心を分断させます。


 だからこそ、「悪は多けれども一善にかつ事なし」との仰せを心肝(しんかん)に染めていくことが大切です。異体同心の仲良き団結で広布にまい進する限り、あらゆる障魔を打ち破り、必ず勝ち越えていけることを約束されています。


 「一善」の勢力こそ大聖人一門であり、現代においては創価学会です。わが地域に善の連帯を広げ、学会創立90周年の「11・18」を晴れやかに迎えていきましょう。











最終更新日  2020.11.07 12:22:15
2020.11.03
カテゴリ:教学

〈紙上セミナー 仏法思想の輝き〉

盛上駒(もりあげこま)の職人
天童将棋駒 伝統工芸士
 桜井和男

 【プロフィル】さくらい・かずお 天童将棋駒・伝統工芸士。雅号「掬水(きくすい)」。23歳で将棋駒職人の道へ。28歳で独立。これまで天童将棋駒伝統工芸士会会長など歴任。現在、山形県将棋駒協同組合副理事長。山形県卓越技能知事表彰や文化庁長官表彰など受賞。山形県天童市在住。72歳。1985年入会。副支部長。芸術部員。


道を究める歩み貫き
 藤井聡太二冠が将棋界の最年少記録を次々と塗り替えたことは、国民的な話題になりました。山形県天童市は、将棋駒の生産量日本一。私はここで「天童将棋駒・伝統工芸士」として、「掬水」という雅号(がごう)で駒製作をしています。

 将棋駒の種類は、大きく分けて五つ。「押駒(スタンプ駒)」「書駒(駒木地に直接、文字を書いた駒)」「彫駒(印刀で文字を彫った駒)」「彫埋駒(彫った文字を下地漆で埋めた駒)」「盛上駒(彫埋した文字に漆を重ねて膨らみを出した駒)」です。最高級品の盛上駒は、プロのタイトル戦でも使われます。私が製作するのも、盛上駒です。


 大半の職人は分業して製作しますが、私は、駒木地の選別から仕上げまで、全工程を一人で行っています。


 製作は、まず木地の選別から。私が用いるのは、東京・御蔵島(みくらじま)の黄楊(つげ)。これを、手元に届いてから最低5年は寝かせる。そして、木地を駒の形に切り、文字を彫り、下地の漆を入れて、研磨します。仕上がりの良しあしは、ここまでの作業で決まります。


 最後に、漆で文字を凸状に浮き立たせる“盛り上げ”の工程です。わずかなほこりも入らないよう部屋を閉め切り、漆の状態を均一に保つために温度と湿度にも気を付けながらの作業は、毎回、神経を使います。蒔絵筆(まきえふで)は、猫の毛を使った手作りのもので、まち針のような極細の筆先に漆を含ませて、一文字、一文字をなぞり、漆を乗せます。1組40枚の駒を仕上げるのに、2カ月ほどです。

独学で技を磨く
 もともと、天童では「書駒」の生産が主流でした。江戸時代後期ごろに武士の内職から始まったといわれています。やがて、製造工程の機械化によって日本一の生産量を誇るようになった半面、天童の駒は“大衆用の普及品”として扱われるように。いつの間にか、職人の手作りは下火になっていました。


 私自身、23歳で駒職人に弟子入りしましたが、最初は書駒職人として、量産型の駒を書いていました。


 そんなある日、兄弟子から「タイトル戦で使ってもらえる盛上駒を一緒に作ろう」と言われました。プロ棋士から「天童の駒は対局では使えない」と言われたことがきっかけでした。


 28歳で駒師として独立。漆工専門書などを読みあさり、独学で技術を磨きました。特に、文字の表現には手間暇を惜しまず、字の成り立ちや歴史まで研究し、駒に命を吹き込むように、心を込めて印刀と筆を握りました。


 御書には、「ちかいし願やぶるべからず」(232ページ)、「日蓮一度もしりぞく心なし」(1224ページ)、「いまだこりず候」(1056ページ)など、どんな苦難にも屈することなく信念を貫くことの大切さが、繰り返し述べられています。


 高品質な盛上駒の製作は、試行錯誤の連続でした。生活も苦しかったです。周囲から冷ややかに見られました。それでも、題目をあげ、“必ず日本一の駒を作る”との職人の誇りを燃やして、課題に挑んでいきました。


 1983年(昭和58年)に「銘駒工人会」を結成して、展示会などで内外に職人の技を示していく中、評判が評判を呼び、対局用としての駒の受注が増えました。


 そして、85年(同60年)、十段戦(現在の竜王戦)で初めて、私が作った駒が使用されたのです。“タイトル戦で使われる駒に”との誓いを果たすことができました。

「完成」はない
 以来、名人戦をはじめ、各種の公式棋戦で私が作った駒が使われ、歴史に残る最高峰のタイトル戦でも、幾度となく使用されてきました。


 その間、天童将棋駒は国の伝統的工芸品に指定され、私は伝統工芸士に。現在、認定されている天童将棋駒の工芸士は、私を含めて5人です。郷土の大切な伝統を担う後継者育成のため、「彫駒」の育成講座に携わるなど、技の継承に力を注いできました。指導した受講生は、市内の温泉施設で駒製作の実演をしています。


 私の息子も後を継ぎ、同じく伝統工芸士として「淘水(とうすい)」という雅号で活躍してくれています。



 私自身、「丈夫で美しく、使いやすいこと」をモットーに、常に最高品質の駒を作り出せるよう努めています。木地の質、彫り具合、漆の状態など、さまざまな要素が小さな五角形に凝縮して、将棋駒は生まれます。そこに、難しさと奥深さがあります。


 日蓮大聖人は、「賢人(けんじん)は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり」(御書1151ページ)と仰せになり、八つの風に惑(まど)わされずに仏道修行を続ける人が賢人であると教えられています。


 どんなに技術を磨いても、職人の世界に「完成」はありません。毀誉褒貶(きよほうへん)に左右され、くじけたり、おごってしまったりしないよう、題目をあげて心を定める毎日です。


 これまで、数々の表彰を受けることができましたが、全ては、支えてくださった師匠・池田先生や同志、家族、職人仲間のおかげであると感謝しています。これからも、日本の将棋文化に貢献できるよう、一層の精進を重ねていきます。


[視点]化城即宝処
 御書に「化城即宝処(けじょうほうしょ)とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念(ねんねん)の化城念念(けじょうねんえん)の宝処なり」(732ページ)とあります。日蓮大聖人は、法華経の文を深く拝されて、化城と宝処は別々ではなく「化城即宝処」であると示されました。


 この御文を拝し、池田先生は語っています。


 「前進するためには、目標という『化城』を設定しなければならない。しかし、その『化城』に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作なのです。その舞台が、すでに『宝処』なのです」


 将棋の格言「一歩千金(いっぷせんきん)」は、一枚の「歩」にも、大きな価値があることを表します。私たちが地道に信心に励む日々の歩みそのものが、人生の金の思い出と輝くのです。


(2020年11月3日 聖教新聞)







最終更新日  2020.11.03 08:45:56
2020.10.24
カテゴリ:教学

​​​​〈森中教学部長「SOKAnet」の講義から〉 
10月度「御書講義」㊦   顕仏未来記

「丈夫の心」で世界広布を!
 「仏法西還」を実現した創価の連帯――。ここでは、森中教学部長の10月度「御書講義」㊦を掲載します。配信中の講義の動画は、こちらから視聴できます(31日まで)。(㊤は10月20日付に掲載)

“人間の宗教”の系譜を継ぐ
御文
​​​​​​​​​​ 願くは我を損(そん)ずる国主等(こくしゅとう)をば最初に之(これ)を導(みちび)かん、我を扶(たす)くる弟子等(でしとう)をば釈尊に之を申(もう)さん、我を生める父母等には未(いま)だ死せざる已前(いぜん)に此の大善(だいぜん)を進めん
​​​​​​​​​​ (御書509ページ5行目~6行目)

一切の人々の幸福を
 まず大聖人は、御自身を迫害した国主を第一に救おうと仰せられています。これほど深い大慈悲の境涯はありません。


 自身が魔と戦い抜き、境涯を大きく開いた時に、一切の悪知識(あくちしき)を善知識(ぜんちしき)へと変えていくことができる、という原理を大聖人は自ら門下たちに教えてくださっています。


 さらに大聖人は、「我を扶くる弟子等をば釈尊に之を申さん」と、自身を支えてくれた弟子の真心を仏に伝えようと仰せです。


 また、「我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進めん」と、自分を生み育んでくれた父母に、自身が亡くなる前に大善を送っていこう、と示されています。


 三世永遠に自身の眷属を成仏の光明で照らしていこうとされています。まさに、仏法者の報恩の生き方を教えられています。父母を思うことは、自分に関わる一切の人々の幸福を願っていくことに通じていきます。

師弟共戦の生き方
 ここで、「国主」「弟子」「父母」とあるように、自分に関わりのある、家族や社会の人々、そして師弟の生き方へと、歓喜と感謝と慈愛が広がっていくことが、まさに仏法者の人間としての最高の振る舞いにほかなりません。


 そして日蓮仏法は、大聖人お一人が偉大であるということで終わる宗教ではありません。大聖人が佐渡で示してくださった人間の最極の尊厳性は、同時に誰人も実現可能だということを教える宗教です。


 大聖人と同じ価値を共有し、同じように自他共の幸福の実現を目指す弟子の生き方の中に、こうした尊極な仏の生命が顕現していきます。だからこそ、日蓮仏法は、師弟不二の宗教なのです。私たちの実践でいえば、自他共の誓願を果たし抜く師弟共戦の生き方が重要になるということです。

御文
​​​​​​​​​​​​​​​ 但(ただ)し今夢の如く宝塔品の心を得(え)たり、此の経に云く「若し須弥(しゅみ)を接(と)って他方の無数の仏土(ぶっど)に擲(な)げ置かんも亦未(またいま)だ為難(これかた)しとせず乃至(ないし)(も)し仏の滅後に悪世の中に於(おい)て能(よ)く此の経を説(と)かん是(これ)れ則(すなわ)ち為難し」等云云
 ​​​​​​​​​​​​​​​(御書509ページ6行目~8行目)

仏の願いを実現する
 次に大聖人は、「宝塔品の心」を得たと仰せです。この「心」とは、いかなる大難があっても、全民衆の救済のために法華経を弘めきるという仏の願いであり、弟子の誓願です。まさしく師弟不二の大願の心です。


 ここで具体的に、法華経見宝塔品第11の六難九易(ろくなんくい)の原理が挙(あ)げられています。


 では、末法に法華経を説くことが、なぜ、最も難しいか。それは、法華経が万人成仏の教えを説いているからです。


 すべての人が仏になる教え――それだけ聞くとすばらしいと思います。しかし、人間には抜きがたい差別の心があります。そうした、人々の心の奥にある無明の生命、真理を認めようとしない衝動的な働きが発動して、法華経を弘める者に対する嫉妬心(しっとしん)を抱(いだ)き、やがて迫害が始まります。最後は三類の強敵の弾圧(だんあつ)に耐え抜いて弘教をしなければならない。


 このように、人間の生命の変革ほど難しいものはありません。それを成し遂げるのが地涌の誓願です。だからこそ「宝塔品の心」とは、いかなる大難があっても、広宣流布を貫くという仏の願いを実現する真の仏弟子の証しです。その心を持った人が、本当の「丈夫」、「ますらお」であることを次に述べていきます。

御文
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 伝教大師云く「浅(あさ)きは易(やす)​く​(ふか)きは難(かた)しとは釈迦の所判(しょはん)なり浅きを去(さ)って深きに就(つ)くは丈夫(じょうぶ)の心なり、天台大師は釈迦に信順(しんじゅん)し法華宗を助けて震旦(しんたん)に敷揚(ふよう)し・叡山​(えいざん)​の一家は天台に相承(そうじょう)し法華宗を助けて日本に弘通(ぐつう)す」等云云、安州(あんしゅう)の日蓮は恐(おそら)くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通(るつう)す三に一を加えて三国四師(さんごくしし)と号(なづ)く
 ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​(御書509ページ8行目~11行目)

自分のいる場所から
 続いて、この宝塔品の六難九易を解説した伝教大師の著作が引用されています。


 まず「浅き」とは爾前経の教えです。「深き」は法華経です。爾前経は、人々の機根に応じて説いた教えですから、弘めても反発はありません。法華経は、今述べたように人々が聞いたこともない万人成仏を説いている故に迫害がある。この法華経の教えこそが「釈迦の所判」、すなわち釈尊の教えの結論であり、爾前経を捨てて法華経を選びとることが「丈夫の心」だと示されているのです。


 この「仏の心」を実現しようと難事に挑戦して法華経を宣揚したのが、中国の天台大師、日本の伝教大師です。これを受けて、今度は、安房(千葉県南部)の地に生まれた大聖人御自身が、インドの釈尊、中国の天台、日本の伝教の後を受け継いで法華経を弘通していると仰せです。


 しかし、違うのは、「震旦(しんたん)」、すなわち「中国」や、「日本」という表現でなく、「安州」、すなわち安房国(あわのくに)と仰せです。世界広宣流布といっても、自分の故郷、自分のいる場所から始まるということです。

仏の未来記の主人公
 また、天台は釈尊を受け継ぐ、伝教は天台を受け継ぐとされていることに対して、大聖人は、釈尊・天台・伝教のすべてを受け継いでいる、つまり、仏法の一切を私は受け継いだのだとの大確信を示されています。


 そして、天台が中国に弘め、伝教が日本に弘めたことに対して、大聖人は「末法に流通す」と、末法万年、全世界に広宣流布していくことを宣言されていると拝されます。まさしくインド・中国・日本の三カ国の三人に一人を加えて「三国四師」であると宣言されています。これは、釈尊以来の法華経の系譜の中にいるという宣言です。池田先生は、この三国四師の系譜は、万人に尊極の生命を開く「真の法華宗」であり、「人間宗」であると述べています。



 法華経を軸に考えた本来の仏教は、どこまでも人間を根本とした、「人間の宗教」です。池田先生は「創価学会は、この三国四師の系譜において創立された、真の法華宗を世界に弘通している唯一の仏勅の教団です。(中略)私は、私とともに戦ってきてくださった皆様とともに、『我らこそ御本仏の未来記の主人公なり』と、誇り高く宣言したい」とつづっています。


 どうか、この人間宗の系譜のなかで、世界広宣流布の大前進とともに、私たちも、学会創立90周年を荘厳し、100周年に向かって、勇躍前進していきましょう。​​​​







最終更新日  2020.10.24 10:27:50
2020.10.20
カテゴリ:教学

〈森中教学部長「SOKAnet」の講義から〉 
10月度「御書講義」㊤ 顕仏未来記

​   仏法西還の未来記を実現!​
 創価学会公式ホームページ「SOKAnet」で配信されている、森中教学部長の10月度「御書講義」を、上下にわたって掲載します(抜粋・編集)。教材は「顕仏未来記(けんぶつみらいき)」です。世界広布を前進させる、学会精神の源流を学んでいきましょう。講義の動画は​こちら​から視聴できます(31日まで)。(㊦は10月24日付4面に掲載の予定)


はじめに
 今、世界広宣流布は同時進行ですが、世界各国・地域の教学運動も同時進行です。日本の「大白蓮華」に連載されている、池田先生の御書講義「世界を照らす太陽の仏法」を世界中で同時に学習しています。また、御書全集も10言語を超えて発刊されています。そして、各国で今、熱心に小説『新・人間革命』の学習運動が進められています。コロナ禍の中で、いやむしろ、コロナ禍だからこそ、世界中の教学運動は水かさを増しています。


 さらに今、世界の青年部が師弟不二と異体同心の連帯を築き、地涌の誓願に立って新たな旅を開始しました。これからが、ますます楽しみです。


 そうした希望と、いよいよこれから、との決意を込めて一緒に「顕仏未来記」を学んでいきたいと思います。


本抄について
 本抄は文永10年(1273年)閏(うるう)5月、日蓮大聖人が流罪先の佐渡・一谷(いちのさわ)で著されたものです。今日、明日の命も分からない流罪地で、世界広宣流布を宣言されていることに、あらためて深い感動を覚えます。

 さて、本抄を拝するうえで大事なのは、「顕仏未来記」という題号です。この題号を読み下すと、「仏の未来記を顕す」となります。「未来を予見し、記した、仏の言葉を実現する」という意味になります。
 題号にある「仏」を、どう拝するかで、本抄の題号には二重の意味が込められています。


 まず、「釈尊の未来記」と拝すれば、日蓮大聖人が、仏の未来記、すなわち法華経で予見されていた末法広宣流布の道を実現してきた、ということになります。

 釈尊は法華経で、私が亡くなった後、とりわけ悪世で広宣流布を断絶させてはならないと遺言の如く弟子たちに命じています。広宣流布とは民衆を断じて幸福にするとの仏意、仏の願いの実現です。人々の思想が乱れ、戦争や災害が相次ぎ、悪人も多い時代に、悲惨と不幸を根絶するために、迫害や弾圧を覚悟して立ち上がる仏弟子が誕生しなければ、広宣流布は進みません。



 「顕仏未来記」は、そうした末法の時代に、日蓮大聖人が、法華経の精髄である南無妙法蓮華経の大法を掲げて、大難の中、広宣流布を実現してきたことが述べられています。「私一人」が立ち上がったのだと断言されています。


 そして本抄の後半では、大聖人の仏法が全世界に広宣流布していくと、「御自身の未来記」を記され、「末法には東より西に往く」「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書508ページ)と、日蓮大聖人の太陽の仏法が、東の日本から西のインドへと広がっていく、いわゆる「仏法西還(ぶっぽうせいかん)」を宣言されています。


 末法万年は、南無妙法蓮華経を説き示した大聖人の太陽の仏法が世界を照らし、人類を救います。ゆえに私たちは、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝して、南無妙法蓮華経の大法を弘通し、広宣流布を進めているのです。これが題号にある「仏」を「日蓮大聖人」と拝する読み方です。

 その立場から見れば、大聖人の末法世界広宣流布という予見を現実のものとして顕したのは創価学会しかありません。また、その自覚と決意に立って、創価学会は「顕仏未来記」を拝してきました。


 池田先生は「現代に、(末法万年の全民衆救済という)この尊極な精神を受け継ぎ、人々の幸福と平和、安穏な社会の構築のために、創価三代の師弟とともに、日々、奮闘してきたのが世界中の学会員です。釈尊、法華経、日蓮大聖人、そして創価学会――民衆勝利の時代を築きゆく、この仏教の歴史の中に『人間の宗教』の壮大な系譜があるのです」とつづられています。それでは、御書の御文に入っていきます。


​大難の中で大歓喜の境涯開く

御文
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 日蓮此(こ)の道理(どうり)を存(ぞん)して既(すで)に二十一年なり、日来(ひごろ)の災(さい)・月来(つきごろ)の難(なん)・此の両(りょう)三年の間(あいだ)の事(こと)(すで)に死罪に及(およ)ばんとす 今年・今月 万(まん)が一も脱(の)がれ難(がた)き身命(しんみょう)なり、世の人疑(うたが)い有らば委細(いさい)の事は弟子に之を問え、幸(さいわい)なるかな一生の内に無始(むし)の謗法(ほうぼう)を消滅(しょうめつ)せんことを悦(よろ)ばしいかな未だ見聞(けんぶん)せざる教主釈尊(きょうしゅしゃくさん)に侍(つか)え奉(たてまつ)らんことよ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​(御書509ページ2行目~4行目)

妙法を身読した喜び
 「顕仏未来記」で、仏法西還という大聖人の未来記を示された後、本抄全体の結びとなる段落が、今回の拝読範囲です。


 まず大聖人は、「日蓮此の道理を存して既に二十一年なり」と仰せです。この道理とは、「真実の仏法が、末法において必ず広宣流布する」という、釈尊が法華経で説き残した仏法の原理です。「二十一年」とは、建長5年(1253年)の立宗宣言から、本抄を認められた文永10年(1273年)までのことで、足かけ21年です。​



 「日来(ひごろ)の災(さい)・月来(つきごろ)の難(なん)・此の両(りょう)三年の間(あいだ)の事(こと)既(すで)に死罪に及(およ)ばんとす 今年・今月 万(まん)が一も脱(の)がれ難(がた)き身命(しんみょう)なり」とは、この21年の間、大難の連続であったが、とりわけ、この数年、つまり、「竜の口の法難」や「佐渡流罪」は死罪に等しいものであったということです。現実には、赦免(しゃめん)はおろか、大聖人が生きて帰るなどとは、この時は誰も想像だにしていなかったと思います。



 ところが本抄で、大聖人は、「一たびは喜んで云く何なる幸(さいわい)あって」(御書505ページ)、「喜悦(きえつ)せしむる」(同506ページ)、「幸(さいわい)なるかな」「悦(よろこ)ばしいかな」(同509ページ)と仰せられています。
 言うまでもなく、妙法を身読し、末法広宣流布の大道を開き、釈尊の遺命を実現した喜びです。拝読御文では、この現在の御心境を弟子たちに伝えています。


全人類の宿命転換へ
 「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」とは、世間の人たちに対して、大聖人は、「私の言葉に疑いがあるなら、詳しいことは私の弟子に聞きなさい」と仰せです。これは、「開目抄」や「佐渡御書」等で、大難の意味を既に教えられていることを示されるとともに、門下たちに対して「日蓮と同意」の信心で戦うように促されているとも拝されます。



 続いて、「幸(さいわい)なるかな一生の内に無始(むし)の謗法(ほうぼう)を消滅(しょうめつ)せんことを悦(よろ)ばしいかな未だ見聞(けんぶん)せざる教主釈尊(きょうしゅしゃくさん)に侍(つか)え奉(たてまつ)らんことよ」と仰せです。
 これは、大難の中で、仏界の生命を実現し、仏の大願に生き抜いた大歓喜の境涯の表明です。まさに学会指導にもありますが、成仏の大境涯とは、何ものにもおかされず、何ものをも恐れない絶対の幸福境涯です。



 池田先生は「障魔との戦いである広宣流布の闘争は、各人の宿命転換を実現する力に漲っています。それが、一国の宿命転換、そして全人類の宿命転換へと広がっていきます。仏の大願に生き、自他の仏界の生命を湧現していく戦いであるからこそ、人類の境涯を高める大道になるのです」とつづられています。


(2020年10月20日 聖教新聞)







最終更新日  2020.10.20 18:05:42
カテゴリ:教学

〈森中教学部長「SOKAnet」の講義から〉 
10月度「御書講義」㊤ 顕仏未来記


仏法西還の未来記を実現!
 創価学会公式ホームページ「SOKAnet」で配信されている、森中教学部長の10月度「御書講義」を、上下にわたって掲載します(抜粋・編集)。教材は「顕仏未来記(けんぶつみらいき)」です。世界広布を前進させる、学会精神の源流を学んでいきましょう。講義の動画はこちらから視聴できます(31日まで)。(㊦は10月24日付4面に掲載の予定)​


はじめに
 今、世界広宣流布は同時進行ですが、世界各国・地域の教学運動も同時進行です。日本の「大白蓮華」に連載されている、池田先生の御書講義「世界を照らす太陽の仏法」を世界中で同時に学習しています。また、御書全集も10言語を超えて発刊されています。そして、各国で今、熱心に小説『新・人間革命』の学習運動が進められています。コロナ禍の中で、いやむしろ、コロナ禍だからこそ、世界中の教学運動は水かさを増しています。


 さらに今、世界の青年部が師弟不二と異体同心の連帯を築き、地涌の誓願に立って新たな旅を開始しました。これからが、ますます楽しみです。


 そうした希望と、いよいよこれから、との決意を込めて一緒に「顕仏未来記」を学んでいきたいと思います。


本抄について
 本抄は文永10年(1273年)閏(うるう)5月、日蓮大聖人が流罪先の佐渡・一谷(いちのさわ)で著されたものです。今日、明日の命も分からない流罪地で、世界広宣流布を宣言されていることに、あらためて深い感動を覚えます。


 さて、本抄を拝するうえで大事なのは、「顕仏未来記」という題号です。この題号を読み下すと、「仏の未来記を顕す」となります。「未来を予見し、記した、仏の言葉を実現する」という意味になります。


 題号にある「仏」を、どう拝するかで、本抄の題号には二重の意味が込められています。


 まず、「釈尊の未来記」と拝すれば、日蓮大聖人が、仏の未来記、すなわち法華経で予見されていた末法広宣流布の道を実現してきた、ということになります。



 釈尊は法華経で、私が亡くなった後、とりわけ悪世で広宣流布を断絶させてはならないと遺言の如く弟子たちに命じています。広宣流布とは民衆を断じて幸福にするとの仏意、仏の願いの実現です。人々の思想が乱れ、戦争や災害が相次ぎ、悪人も多い時代に、悲惨と不幸を根絶するために、迫害や弾圧を覚悟して立ち上がる仏弟子が誕生しなければ、広宣流布は進みません。



 「顕仏未来記」は、そうした末法の時代に、日蓮大聖人が、法華経の精髄である南無妙法蓮華経の大法を掲げて、大難の中、広宣流布を実現してきたことが述べられています。「私一人」が立ち上がったのだと断言されています。


 そして本抄の後半では、大聖人の仏法が全世界に広宣流布していくと、「御自身の未来記」を記され、「末法には東より西に往く」「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(御書508ページ)と、日蓮大聖人の太陽の仏法が、東の日本から西のインドへと広がっていく、いわゆる「仏法西還(ぶっぽうせいかん)」を宣言されています。


 末法万年は、南無妙法蓮華経を説き示した大聖人の太陽の仏法が世界を照らし、人類を救います。ゆえに私たちは、日蓮大聖人を末法の御本仏と拝して、南無妙法蓮華経の大法を弘通し、広宣流布を進めているのです。これが題号にある「仏」を「日蓮大聖人」と拝する読み方です。



 その立場から見れば、大聖人の末法世界広宣流布という予見を現実のものとして顕したのは創価学会しかありません。また、その自覚と決意に立って、創価学会は「顕仏未来記」を拝してきました。


 池田先生は「現代に、(末法万年の全民衆救済という)この尊極な精神を受け継ぎ、人々の幸福と平和、安穏な社会の構築のために、創価三代の師弟とともに、日々、奮闘してきたのが世界中の学会員です。釈尊、法華経、日蓮大聖人、そして創価学会――民衆勝利の時代を築きゆく、この仏教の歴史の中に『人間の宗教』の壮大な系譜があるのです」とつづられています。それでは、御書の御文に入っていきます。


大難の中で大歓喜の境涯開く
御文
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 日蓮此(こ)の道理(どうり)を存(ぞん)して既(すで)に二十一年なり、日来(ひごろ)の災(さい)・月来(つきごろ)の難(なん)・此の両(りょう)三年の間(あいだ)の事(こと)(すで)に死罪に及(およ)ばんとす 今年・今月 万(まん)が一も脱(の)がれ難(がた)き身命(しんみょう)なり、世の人疑(うたが)い有らば委細(いさい)の事は弟子に之を問え、幸(さいわい)なるかな一生の内に無始(むし)の謗法(ほうぼう)を消滅(しょうめつ)せんことを悦(よろ)ばしいかな未だ見聞(けんぶん)せざる教主釈尊(きょうしゅしゃくさん)に侍(つか)え奉(たてまつ)らんことよ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​(御書509ページ2行目~4行目)

妙法を身読した喜び
 「顕仏未来記」で、仏法西還という大聖人の未来記を示された後、本抄全体の結びとなる段落が、今回の拝読範囲です。​


 まず大聖人は、「日蓮此の道理を存して既に二十一年なり」と仰せです。この道理とは、「真実の仏法が、末法において必ず広宣流布する」という、釈尊が法華経で説き残した仏法の原理です。

「二十一年」とは、建長5年(1253年)の立宗宣言から、本抄を認められた文永10年(1273年)までのことで、足かけ21年です。

 「日来(ひごろ)の災(さい)・月来(つきごろ)の難(なん)・此の両(りょう)三年の間(あいだ)の事(こと)既(すで)に死罪に及(およ)ばんとす 今年・今月 万(まん)が一も脱(の)がれ難(がた)き身命(しんみょう)なり」とは、この21年の間、大難の連続であったが、とりわけ、この数年、つまり、「竜の口の法難」や「佐渡流罪」は死罪に等しいものであったということです。現実には、赦免(しゃめん)はおろか、大聖人が生きて帰るなどとは、この時は誰も想像だにしていなかったと思います。

 ところが本抄で、大聖人は、「一たびは喜んで云く何なる幸(さいわい)あって」(御書505ページ)、「喜悦(きえつ)せしむる」(同506ページ)、「幸(さいわい)なるかな」「悦(よろこ)ばしいかな」(同509ページ)と仰せられています。


 言うまでもなく、妙法を身読し、末法広宣流布の大道を開き、釈尊の遺命を実現した喜びです。拝読御文では、この現在の御心境を弟子たちに伝えています。


全人類の宿命転換へ
 「世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」とは、世間の人たちに対して、大聖人は、「私の言葉に疑いがあるなら、詳しいことは私の弟子に聞きなさい」と仰せです。これは、「開目抄」や「佐渡御書」等で、大難の意味を既に教えられていることを示されるとともに、門下たちに対して「日蓮と同意」の信心で戦うように促されているとも拝されます。



 続いて、「幸(さいわい)なるかな一生の内に無始(むし)の謗法(ほうぼう)を消滅(しょうめつ)せんことを悦(よろ)ばしいかな未だ見聞(けんぶん)せざる教主釈尊(きょうしゅしゃくさん)に侍(つか)え奉(たてまつ)らんことよ」と仰せです。
 これは、大難の中で、仏界の生命を実現し、仏の大願に生き抜いた大歓喜の境涯の表明です。まさに学会指導にもありますが、成仏の大境涯とは、何ものにもおかされず、何ものをも恐れない絶対の幸福境涯です。

 池田先生は「障魔との戦いである広宣流布の闘争は、各人の宿命転換を実現する力に漲っています。それが、一国の宿命転換、そして全人類の宿命転換へと広がっていきます。仏の大願に生き、自他の仏界の生命を湧現していく戦いであるからこそ、人類の境涯を高める大道になるのです」とつづられています。







最終更新日  2020.10.20 12:02:32
2020.10.17
カテゴリ:教学

〈紙上教学研さん「世界を照らす太陽の仏法」に学ぶ〉 

第10回=完 絶対勝利の信心〈下〉 谷川主任副会長

 「紙上教学研さん『世界を照らす太陽の仏法』に学ぶ」の最終回となる今回は、前回(3日付)に続き、「絶対勝利の信心」について、谷川主任副会長と共に学びます。(池田先生の講義は『創価学会 永遠の五指針』から引用)


 池田先生の指導


 悪と戦うことで、


 わが生命が鍛えられます。


 清められます。

 
悪と戦う中にこそ、


 功徳も成仏もあるのです。


1 臆病であってはならない
 前回に続き、「絶対勝利の信心」について学んでいきます。先生は御文を拝して、勝利の要諦を教えてくださっています。​


【御文】


 法華経の行者は信心に退転無(たいてんな)く身に詐親(さしん)無く・一切法華経に其(そ)の身を任(まか)せて金言の如く修行せば、慥(たしか)に後生(ごしょう)は申すに及ばず今生(こんじょう)も息災延命(そくさいえんめい)にして勝妙(しょうみょう)の大果報(だいかほう)を得(え)・広宣流布大願をも成就(じょうじゅ)す可(べ)きなり(祈禱経送状、1357ページ5行目~7行目)


【現代語訳】


 法華経の行者は信心において退転なく、身において偽り親しむことなく、一切、法華経に身を任せて金言の通り修行するなら、確かに後生はいうまでもなく、今生においても息災延命ですぐれた果報を得、広宣流布の大願をも成就することができるにちがいない。


 池田先生の講義


 大聖人は、御自身の大難との闘争について言及された上で、法華経の行者の「絶対勝利」の信心と実践について、三点にわたって御指南されていきます。


 第一に「信心に退転無く」と仰せです。決定した信心です。どこまでも妙法根本に生きるとの大誓願です。わが一念に迷いやためらいがあったり、臆病(おくびょう)であってはならない、ということです。


 「進まざるは退転」です。
                    ―◆―
 私たちの信心の実践では、たゆみない一日一日の積み重ねが重要です

。「不退の信心」とは、言い換えれば「諦(あきら)めない」ことであり、「負けない」ことです。臆病な心を排して、勇気を奮い起こした挑戦の中でこそ、勝利の道は開かれます。


 私自身、折伏や結集をはじめとするさまざまな広布の戦いにおいて、困難を感じることもあります。しかし、そうした時にこそ祈りを根本に勇気を奮い起こし、家庭訪問や個人指導といった同志への励ましに徹してきました。



 かつて池田先生は“「二月闘争」はなぜ勝利できたのか”について、「それは、目の前の一人を徹して誠実に励ましてきたことに尽きる」と語られました。そして、「『広宣流布』は、一人の『人間革命』から始まる。決意した一人が、一人を立たせる。その一人が、さらにまた、もう一人を奮い立たせていく。勇気は勇気を呼ぶ。この『一対一』の決意の連鎖こそが、拡大の鉄則である」と教えてくださいました。
 目の前の「一人」への励ましを根本に、いかなる試練や苦難にも負けない「地涌の同志の陣列」を築く――。この地道な戦いによって、創価の師弟の人材城は築かれてきたのです。

音楽隊の勇壮な調べに合わせ、学会歌「威風堂々の歌」の指揮を執る池田先生。見事なる王者の舞に、幾多の同志が士気を鼓舞され、広布を開拓してきた(2001年5月、東京戸田記念講堂で)


2 御書に仰せのままに生き抜く
 社会にも、人生の途上にも、予期せぬ困難が立ちはだかることがあります。今回のコロナ禍もそうでしょう。そうした中でも、世界中の同志は、祈りを根本に立ち上がり、周囲の友を励ましています。


 それは、「御書」という明確な指標があるからです。​


 池田先生の講義


 第二に「身に詐親無(さしんな)く」です。行動や振る舞いにおいて、偽(いつわ)り親(した)しむことなく、常に誠実に信念の行動を貫(つらぬ)くことです。信じる道をどこまでもまっすぐ進むのです。


 また、悪を見て黙(だま)っているのは、「詐親(さしん)」になってしまいます。正法に背(そむ)く悪に対しては毅然(きぜん)と責めていくことが、「身に詐親無く」の実践となるのです。



 第三に「一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば」とは、仏の心である法華経を如説修行することです。私たちの立場でいえば、どこまでも南無妙法蓮華経の御本尊を根本とし、信行学を貫き、御書に仰せのままに広宣流布の大願に生き抜くことです。
                    ―◆―
 学会は日蓮大聖人の仰せのままに、「御本尊根本」「御書根本」で進んできました。学会の教学は、学問的な探求を目的とするものではありません。どこまでも「実践の教学」であり、自身の境涯を開いていくためのものです。


 御書を拝し、大聖人の大確信の言葉に触れることで、自身の臆病や不信、恐怖などを打ち破っていくことができます。



 私が学生部で初めて折伏に挑戦した際、なかなか結果が出ずに思い悩んだことがありました。その時、学生部の先輩から次のように励まされました。


 「とにかく一人でも多くの人と対話をすることだ。トランプのカードはジョーカーを除いて52枚ある。それをめくっていけば、必ず4枚のエースが出てくる。初めの方に出てくる場合もあるし、最後の方に固まっている場合もあるが、必ず出てくる。同じように粘り強く多くの人と対話すれば、必ず信心する人が現れる。地涌の菩薩が題目を唱えて折伏に挑戦し、結果が出ないことは絶対にないんだ」と。


 先入観で相手を選ぶのではなく、多くの人に下種(げしゅ)していく――。御書の「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし」(552ページ)との仰せのままに、折伏を実践していく重要性を学んだ出来事でした。

青空に映える三色旗を月天子が見守る。我らは創価の旗を掲げ、創立100周年の“さらなる勝利の峰”へ(2001年4月、山梨で、池田先生撮影)


3 極悪と戦えば極善に
 広宣流布とは永遠に仏と魔との闘争です。先生は、悪と戦う重要性について教えてくださっています。​


【御文】


 悪を滅(めっ)するを功(く)と云(い)い善(ぜん)を生ずるを徳と云うなり(御義口伝、御書762ページ12行目)


【現代語訳】


 功徳とは、悪を滅するのを「功」といい、善を生ずるのを「徳」というのである。


 池田先生の講義


 末法という正邪(せいじゃ)が顚倒(てんどう)した時代は、「元品(がんぽん)の無明(むみょう)」が現実社会に蔓延(まんえん)する悪縁(あくえん)に触れて、増長(ぞうちょう)していく。ゆえに法華経の行者に対する魔の勢力の反発も強まるのです。


 だからこそ、現実の「外なる悪」と戦い、勝たねばなりません。

「外なる悪」との戦いは、「内なる悪」に打ち勝ち、「内なる善」を開き顕(あらわ)す戦いと一体だからです。


 悪と戦うことで、わが生命が鍛(きた)えられます。清(きよ)められます。「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」です。悪と戦う中にこそ、功徳も成仏もあるのです。
                    ―◆―
 1990年(平成2年)に男子部長の大任を拝した時、池田先生は次のように指導してくださいました。
 「青年とは“戦い”の異名である。捨て身の戦いなくして、青年部の“魂”はない。口ではない。格好でもない。要領でもない。『信心』である。広宣流布の全責任を自覚して、すべてを祈り、立案し、一切を行動で切り開いていく。それが青年部の伝統であり、学会精神である」



 これは、先生の青年部時代の戦いそのものです。後継の弟子として、この指針を命に刻んで戦う中、「第2次宗門事件」が勃発(ぼっぱつ)しました。


 男子部の同志と共に、全国の末寺を訪問し、坊主に学会と池田先生の正義を訴えるとともに、徹して極悪を責め抜きました。


 その中で日顕宗に根深く残る権威主義、差別主義の実態を改めて目の当たりにし、大聖人の御精神は、創価学会にしか受け継がれていないことを確信しました。


 悪を責めることは、何が善で、何が悪かを明らかにすることでもあります。声を上げることで、悪に惑わされる人を救うこともできます。勝ってこそ正義であり、勝ってこそ広宣流布です。


 学会は日顕宗と戦い、勝利したからこそ、世界宗教として大きく飛翔したのです。


4 異体同心の団結で凱歌の歴史を
 先生は最後に、「異体同心の団結」の重要性について教えてくださっています。​


 池田先生の講義


 「悪は多けれども一善(いちぜん)にかつ事なし」(御書1463ページ)です。その勝利の要諦を教えられている御文が、「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚(おぼ)へ候」(同ページ)です。


 正義の陣営が異体同心の団結で臨(のぞ)めば、最後には絶対に勝てるのです。


 広宣流布の師匠と心を合わせて、法華経の兵法で戦えば必ず勝てる!


 勇気ある信心を貫けば、必ず正義を宣揚(せんよう)できる!


 異体を同心とする善の団結を築けば、いかなる悪をも打ち破れる!


 これが「絶対勝利の信心」の極意(ごくい)です。
                    ―◆―
 2000年に青年部を卒業して、東京方面書記長と新宿総区長を拝命しました。そのころに先生から頂いた指針があります。それは、「本陣の勢いが一切を動かし、本陣の団結が万軍の勝敗を決する」「わが本陣城は、いかなる戦いにも負けない。断じて勝つ」というものでした。


 先生は「異体同心」について、「仏の心であり遺命である『広宣流布』を我が使命として自覚し、実践し抜いていく『師弟不二の信心』にこそ、『同心』の核心があります。師と同じ精神に立って、戦いに挑み、勝利することが『異体同心』の根幹です」と語られたことがあります。


 実際に、異体同心の団結を実現することは簡単ではありません。さまざまな違いを乗り越えて、同じ心になっていく。その中心の一本の軸こそが「師弟」です。広布拡大の勝利の結果をもって師匠に報告し、喜んでいただく――。その弟子の誓願の心で皆が一致していくところに真の団結は生まれます。


 そのためにも、私たち弟子が決定した信心で、一人立ち上がっていくことが大切です。今、「わが地域の広布は私が担う」との誓いを持った地涌の同志が世界中に広がっています。この池田門下の連帯こそ、異体同心の姿であると思います。


 絶対勝利の信心を持った私たちは、師弟不二の実践に徹して、世界広布にまい進していきましょう。


 池田先生の講義


 創価学会・SGIの永遠の五指針は、私たちの信心を深めゆく不変の原理です。一生成仏の源泉であり、広宣流布の指標です。


 全世界の皆さんが、和楽の道、幸福の道、栄光の道、健康の道、長寿の道、勝利の道を力強く歩んでいくことが、創価の三代の師弟の根本の誓願です。


 創価学会は、永遠に師弟不二で絶対勝利の信心を貫き、凱歌の歴史を刻んでいくのです。


さらなる研さんのために
 本連載で学ぶ講義「世界を照らす太陽の仏法」は、『創価学会 永遠の五指針』に収められています。本社刊。713円(税込み)。全国の書店で発売中。聖教ブックストアへの電話でも注文できます(0120-983-563、平日9時~17時)。コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「HMV&BOOKS online」での注文、受け取りも可能。電子書籍でも好評発売中。







最終更新日  2020.10.17 10:49:10
2020.10.10
カテゴリ:教学

​〈御書池田大学運動のために〉 

池田華陽会御書30編に学ぶ 女子部教学室 経王殿御返事

勇気の信心で人間革命の劇を

 今月は、「経王殿御返事」を学びます。
​

 池田先生はつづっています。


 「苦闘の中で、どこまでも人間として成長し、偉大な人間になるための信心であり、それが人間革命なのです。戸田先生はよく、『強く生きよ』『この信心は師子をつくるのだ』と言われました。『師子』とは、仏の異名です。師が師子王であれば、弟子も師子王となるのです。(中略)人間革命は、勇気から始まります。大事な時に、わが胸中の『師子王の如くなる心』(御書957ページ)を涌現させるための信仰です」


 栄光の学会創立90周年へ。日蓮大聖人が示された「師子王」の生き方を心に刻み、勇気の信心で一日一日を勝利していきましょう。
 (拝読範囲は本抄全編です)


本抄について
 本抄は、文永10年(1273年)8月、日蓮大聖人が流罪先の佐渡で著されました。幼いわが子・経王御前が重い病にかかったことを、大聖人にご報告した門下に対する御返事です。


 冒頭、大聖人は経王御前の回復を一日中祈っていると、門下を励まされます。


 続いて、本抄を認められる直前にこの門下に与えられた「御本尊」について、正法・像法時代に誰も顕したことのない未曽有の本尊であり、大聖人が全生命を注いで御図顕(ごずけん)されたものであることを教えられます。そして、勇気を奮い起こして御本尊に祈り抜いていくならば、どのような願いも成就しないわけがないと述べられ、今こそ強盛な信心に励むよう促されます。


御文①
​​​ 師子王は前三後一と申して・ありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時も・いきをひを出(いだ)す事は・ただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊を・したため参(まい)らせ候事(そうろうこと)も師子王に・をとるべからず​​​(1124ページ4行目~6行目)​


通解
 師子王は前三後一といって、蟻(あり)を取ろうとする時も、また猛獣を取ろうとする時も、勢(いきお)いを出す様子はまったく同じです。日蓮が、(経王御前を)護(まも)るための御本尊を認めたことも、その姿勢は師子王に劣(おと)るはずがありません。


御文②
​​​ 但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用(もちい)る事なし、法華経の剣(つるぎ)は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼(おに)に・かなぼうたるべし​​​(1124ページ10行目~11行目)​


通解
 ただし、すべてはあなたの信心によるのです。剣なども、進もうとしない人のためには役に立ちません。法華経(=御本尊)という剣は、勇気ある信心の人が持ってこそ、役に立つのです。まさに「鬼に金棒」なのです。


[解説]強盛な祈りに「師子王の生命」が
 日蓮大聖人は、人々の幸福のため、万人成仏の妙法を弘める戦いを貫かれ、御自身の生命の上に、いかなる大難にも屈することのない「師子王」の大境涯、すなわち仏界を開かれました。


 そして、一切衆生を救うために、御自身の仏の生命をそのまま「御本尊」に御図顕されました。本抄を認められる直前には、この門下に御本尊を与えられています。



 御文①で大聖人は、百獣の王である「師子王」は、相手が小さな蟻でも、大きな猛獣でも、常に「前三後一」といって、力をためる体勢から全力で飛びかかることを示されます。


 そして、御自身が御本尊を認める姿勢は、どんな相手にも渾身の力で立ち向かう師子王のごとく、常に全生命を注ぐ勢いであると述べられました。


 本抄では続いて、この御本尊に真剣に題目を唱えていくならば、いかなる病苦や障魔をも打ち破り、諸天善神に守護されて、福徳に溢れた師子王の境涯を開くことができると教えられます。

 そのうえで、御文②では、こうした御本尊の偉大な功力を引き出すのは、どこまでも御本尊を拝する人の信心であると仰せです。


 大聖人は「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(御書383ページ)と述べられています。自分が妙法の当体であると一念を定めることが、正しい信心の姿勢なのです。

 すなわち信心とは、大聖人と同じ“いかなる困難も乗り越えゆく「師子王」の生命”が、自分にも具(そな)わっていることを確信し、妙法を唱え抜いていく勇気であるともいえるでしょう。


 そして、「法華経(御本尊)の剣」は、この「勇気ある信心」の人が用いてこそ、最高の力を引き出すことができるのです。



 池田先生は「世界青年部総会」で、この時に集った世界の青年部に「『新・人間革命の世紀』を創る『山本伸一』のスクラム」と呼び掛けてくださいました。


 いよいよ、学会創立100周年の大佳節へ出発を切る、「11・18」を迎えます。私たちは小説『新・人間革命』を通して「師子王の心」を学びながら、勇気の信心で、自身の「人間革命」の勝利劇をつづっていきましょう!
 
池田先生の講義から
 戸田城聖先生のもとで、女子部の「華陽会」が学んだ、『トム・ソーヤーの冒険』の作者である、アメリカのマーク・トウェインは語っている。


 「どれだけ多くの人間が自分の力を知らないことか! 人間には宇宙を動かす力が秘められている」のだと(ドロシー・クイック著、野川浩美訳『マーク・トウェインと私』ほんのしろ)。


 人間生命に秘められた、この宇宙大の力を解き放つ鍵こそ、「勇気」であります。 そして、その極致こそが「勇気ある信心」なのであります。(2012・1・8付、本部幹部会へのメッセージ)


                 ◇ ◆ ◇


 誰人の胸中にも、「師子王の心」が必ずある。
 それを「取り出す」源泉が師弟不二の信心なのです。
 広宣流布のために、不惜身命で道を開いてこられた師匠の心が「師子王の心」です。


 その心と不二になれば、わが生命に「師子王の心」が涌現しないわけがない。(『御書と青年』)







最終更新日  2020.10.10 11:55:29
2020.10.06
カテゴリ:教学

〈教学〉10月度座談会拝読御書 「一生成仏抄 」

​拝読御文
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 衆生と云(い)うも仏と云うも亦此(またか)くの如(ごと)し迷(まよ)う時は衆生と名け悟(さと)る時をば仏と名けたり、譬(たと)えば闇鏡(あんきょう)も磨(みが)きぬれば玉(たま)と見ゆるが如し、只今も一念無明(いちねんむみょう)の迷心(めいしん)は磨かざる鏡(かがみ)なり是を磨かば必ず法性真如(ほっしょうしんにょ)の明鏡(みょうきょう)と成(な)るべし、深く信心を発(ほっ)して日夜朝暮(にちやちょうぼ)に又懈(またおこた)らず磨くべし何様(いかよう)にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是(これ)をみがくとは云うなり​​​​​​​​​​​​​​​​​​​(御書全集384ページ2行目~5行目、編年体御書22ページ2行目~5行目)​


【通解】
 衆生といっても仏といっても、また同様なのである(二つの隔てがあるわけではない)。迷っている時には衆生と名づけ、覚った時には仏と名づけるのである。
 たとえば、曇っていて、ものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものである。
 今の(私たち凡夫の)無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くなら、必ず真実の覚りの智慧の明鏡となるのである。

 深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠ることなく自身の命を磨くべきである。
 では、どのようにして磨いたらよいのであろうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである


[池田先生の指針から] 一切は祈りから始まる
 祈りとは、正しい実践、粘り強い行動を貫くための源泉であります。祈りのない行動ほどもろいものはない。それは、ある時は順調で、意気盛んにみえるかもしれません。しかし、ひとたび逆境に直面するや、枯れ木のように、もろくも挫折してしまうでありましょう。なぜなら、そこには、我が胸中を制覇(せいは)するという一点が欠けているがゆえに、現実社会の浮き沈みの中で、木の葉のように翻弄(ほんろう)されてしまうからであります。


 人生の坂は、一直線に向上の道をたどるようなものでは、決してありません。成功もあれば失敗もある。勝つときもあれば負けるときもあります。そうした、様々な曲線を描きつつ、一歩一歩、成長の足跡を刻(きざ)んでいくものであります。その過程にあって、勝って傲(おご)らず、負けてなお挫けぬ、強靱(きょうじん)な発条(ばね)として働くのが、祈りなのであります。


 ゆえに祈りのある人ほど強いものはない。我が強盛なる祈りに込めた一念が、信力、行力となってあらわれ、それと相呼応して仏力、法力が作動するのであります。主体はあくまで人間であります。


 祈りとは、人間の心に変化をもたらすものであります。目に見えないが深いその一人の心の変化は、決して一人にとどまるものではありません。また一つの地域の変革は、決してその地域のみにとどまってはいない。一波が万波を呼ぶように、必ず他の地域に変革の波動を及ぼしていくのであります。


 そうした展転の原点となる最初の一撃は、一人の人間の心の中における変革であると、私は申し上げたいのであります。(中略)


 ともかくも、私どもは、生活の、人生のすべての問題を御本尊に祈りきって、取り組んでいこうではありませんか。


 祈ることが大事であり、そこから一切が出発することを忘れてはならないと申し上げたい。(指導選集『幸福と平和を創る智慧』第1部[上])

唱題行に徹し生命を磨き抜く
[キーワード1] 万人に仏性が具わる
 一生のうちに何ものにも微動だにしない、仏の境涯をどうやって築くことができるのか。
 凡夫が今世で仏の境涯を得ることを「一生成仏」といいます。「一生成仏抄」は、成仏の要諦である唱題行の意義について、法理と実践の面から記されています。


 拝読御文の直前で日蓮大聖人は、仏の住む国土である「浄土(じょうど)」といっても、煩悩と苦しみが充満する「穢土(えど)」といっても別々の国土があるのではなく、そこに住む私たちの心の善悪によって違いが現れると仰せです。


 同様に、衆生と仏も別々の存在ではなく、両者の違いは、迷っているか、覚っているかによって決まると教えられています。
 無明という根本の迷いに覆(おお)われた凡夫の生命も、題目を唱えて磨けば必ず「法性真如の明鏡」という覚(さと)りの生命を開き顕(あらわ)すことができます。なぜなら、全ての人に等しく仏性が具(そな)わっているからです。


 しかし、法華経以前の爾前経(にぜんきょう)では、九界の迷(まよ)いの生命を断じ尽くさなければ仏になることができないとされていました。何度も生まれ変わって修行を重ね、その結果として初めて成仏できるとされていたのです。


 一方、法華経では万人の成仏が強調され、凡夫がその身のままで、しかも今世で成仏できることが明かされました。


 成仏について「御義口伝」には「成(じょう)は開(ひら)く義(ぎ)なり」(御書753ページ)と仰せです。成仏とは、自身とかけ離れた特別な存在になることではなく、自身の内に仏の生命を開くことです。


 現実生活の中で、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築くためにも、唱題行に徹することが肝要なのです。

[キーワード2] 求道と実践の継続を
 唱題行の姿勢について、ポイントが二つ挙げられています。


 第一に「深く信心を発して」と仰せのように、信心を奮い起こして御本尊を拝する大切さが示されています。


 大聖人の仏法にあっては、“信心”が成仏の肝要となります。


 現実の課題に直面し、不安や恐れる心が

 現れる時こそ信心が試されます。困難を乗り越えるために、勇気を奮い起こして唱題に励む中で自身の生命が磨かれます。そして、仏の智慧(ちえ)や勇気を発揮し、努力を重ねることで現実を変えていけるのです。


 また、信心に励めば、必ず成仏を妨げようとする働きが現れます。そうした障魔(しょうま)を打ち払い、信仰の実践を重ねていくことで、強盛な信心を築き、一生成仏を果たすことができるのです。


 第二に「日夜朝暮に又懈らず」と、“持続の信心”を教えられています。


 鎌倉時代の鏡は、銅鏡が一般的で曇りやすいものでした。鏡本来の用をなすためには、磨き続けなければなりません。


 そのことを例えに、常に生命も磨き続けなければ、無明に覆われるからこそ、日々、題目を唱え、仏の境涯を顕していく大切さを教えられているのです。


 信心には“ここまでやればいい”という、いわば到達点はありません。仏法を求める姿勢と実践の継続が、一生成仏の要諦なのです。


 強盛な祈りこそ、人生の一切の原動力です。御本尊への確信を胸に唱題に励み、自他共の幸福境涯を開いていきましょう。

背景と大意

 建長7年(1255年)に鎌倉において、日蓮大聖人が富木常忍に与えられたとされる御書です。
法華経以外の経典では一生成仏は叶わないとされた上で、南無妙法蓮華経の題目を唱えることが一生成仏の直道であることを強調されています。
 また衆生も仏も別々のものではなく、迷うときを衆生といい 悟るときを仏と名づける、鏡も磨けば明鏡になる、ゆえに深い信心で題目を唱えなさいと御指南されています。







最終更新日  2020.10.06 15:59:06

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