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教学

2019/12/10
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カテゴリ:教学

​​ロータスラウンジ――法華経への旅
第11回 五百弟子受記品第八
深心の本願 ――自分は仏と同じく「救う人」でありたい

大要
 「化城喩品( けじょうゆほん )第七」で「宿世(しゅくせ)の因縁(いんねん)」を理解した、「説法第一」の「富楼那(ふるな)」と、1200人の阿羅漢(あらかん)(小乗の覚りを得た最高位の声聞)に授記(未来に仏になれるとの記別を授けること)がなされます。
 特に500人の阿羅漢は、「普明如来(ふみょうにょらい)」という同一の名をもつ仏になると記別が授けられます。
 それを受けて、阿羅漢たちは「衣裏珠(えりじゅ)の譬(たと)え」を語り、釈尊に感謝の意を表します。それでは内容を追ってみましょう。
 
シーン1
 富楼那は説法を聞いて歓喜し、釈尊のもとへ行って、仰ぎ見ながら思います。
 「釈尊だけが、私たちの心の深いところにある本来の願い(深心(じんしん)の本願)を、よく知っておられます」
 その時、釈尊は比丘(男性の出家者)に、富楼那の素晴らしさを語ります。
 “説法する者の中で第一である。法をよく理解し、法を人々に説き、喜ばせることができる”
 “声聞の姿で、無数の人々を教化してきたのです。未来もまた、仏土を清めるために精進し、衆生を教化するであろう”……。
 ここで、富楼那はその本地(本来の境地)が菩薩でありながら、方便によって声聞の姿を現じ、人々を導いてきたことが明かされます。
 そして、釈尊は記別を授けます。
 “富楼那は、菩薩の道を十分に満足して、「法明(ほうみょう)如来」という名前の仏になるであろう”
 
 富楼那が授記されるのを見ていた1200人の阿羅漢たちは歓喜し、思います。
 “私たちにも授記してくださればうれしいのだが……”
 釈尊は阿羅漢たちの思いを知り、「頭陀第一」とたたえられる弟子の「摩訶迦葉(まかかしょう)」に告げます。
 “今ここで、1200人の阿羅漢たちに、順々に記別を授けよう”
 “この中の大弟子である憍陳如(きょうじんにょ)は、6万2千億の仏に供養し、「普明如来」という仏になる。500人の阿羅漢も、全員が同じ、「普明如来」という名の仏になるであろう”
 授記された500人の阿羅漢は、歓喜し、自分たちの得たものを「衣裏珠(えりじゅ)の譬(たと)え」として語ります。
 
シーン2
 ――ある貧しい男が親友の家に行って、ごちそうになり、酒に酔(よ)いつぶれて寝てしまいました。
 この時、親友は、公用で急ぎ、出掛けなければならなくなりました。
 そこで親友は、酔いつぶれている友人の衣の裏に「無価(むげ)の宝珠(ほうじゅ)」、すなわち値段のつけられないほど高価な宝の玉を縫(ぬ)いつけて、出掛けていきました。
 貧しい男は酔いつぶれて寝ていたために、そんなことはまったく知りません。目が覚(さ)めて起きてからも、さまざまな国を流浪します。
 そのうちお金がなくなり、生活が苦しくなってきます。衣食のために働きますが、苦しさは変わりません。少しでもお金が入ると、それで満足していました。
 やがて親友は、男に出会います。そのみすぼらしい姿を見て、男に語ります。
 「君は何と愚(おろ)かなんだ。どうして、そんなに衣食に窮(きゅう)しているのか。私はあの時、君が安楽な生活ができるよう、また、欲しいものは何でも手に入るようにと思って、『無価の宝珠』を君の衣の裏に縫いつけておいたのです。今も、そのままあるではないか。それなのに、君はそのことを知らないで、ひどく苦労し、悩んでいる。まったく愚かだ」
 貧しい男は、親友が教えてくれた宝珠を見て、大歓喜しました――。
 
シーン3
 阿羅漢たちは語ります。
 “釈尊は、私たちを教化し、「一切智の心」(仏の智慧を求める心)を起こしてくださったが、忘れてしまっていました”
 “すでに覚りを得たと思って、その小さい覚りで満足していました”
 “「一切智の願」(成仏を願う心)を失っていなかったので、釈尊は私たちを目覚めさせてくださった”
 “釈尊よ。私たちは今、実は菩薩であることを知り、大いに歓喜しているのです”……。
 
菩薩の目覚め
 “自分たちは、はるかな昔から成仏を願い、師である釈尊とともに菩薩の実践をしてきた”――声聞たちは、「宿世の因縁」を理解します。
 つまり、菩薩の道を実践することこそ、本来の自分が求めていた「深心の本願」であることを思い出したのです。
 池田先生は語っています。
 「『深心の本願』と表現されているが、要するに全人類を救っていこうという『大願』です」
 「声聞(しょうもん)たちの目覚めとは何か。それは、結論的に言えば、『救われる人』から『救う人』に変わったということです。人々を断じて救いきるという『大願』に目覚めたのです。声聞たちは、悪世の苦しみから逃れたい、救われたいという思いで仏の教えを求めた。仏は、その心を知って、苦しみから脱却(だっきゃく)する道として、声聞たちに、まず小乗の教えを説いた」
 「しかし、仏の本意は小乗にはなかった。弟子たちをたんに『救いを求める人』で終わらせたくはなかった。そこで、仏の本意を明かす法華経を説くのです。
 ――求めるべきは、小乗の悟りではなく、仏の智慧(ちえ)である。すべての人に、仏の智慧を得させて、仏と同じように、自在に人を救っていける境涯へと仕上げたい。それが仏の本意である、と」
 「法華経を聞いて、“自分は、仏と同じく『救う人』でありたい”という『師弟不二の願い』に立った人が、法華経の『菩薩』です。その誓願は同時に『仏子の自覚』でもある。“自分は、仏の子である。だから智慧という仏の財産を全部受け継いでいけるのだ”という自覚です」(『法華経の智慧』普及版<上>)。
 私たちにとっては、広宣流布という師弟不二の道を歩めることこそ、本当に自身が求めていた人生であると確信することです。その時、無上の歓喜があふれてくるのです。
 
 
【『法華経の智慧』から】 
民衆とともに幸福に
 久遠以来の「大願」を果たすために、今世に生まれてきた。そう確信すれば、今世の苦悩の姿も、迷いの姿も、全部、人を救うための方便だと分かるのです。
 すなわち、初めから何の悩みもない恵まれた姿で人々の前に現れたのでは、だれも妙法の偉大さが分からない。また、そういう人には、民衆の心も分からないでしょう。
 どんな宿業の苦しみも、それを克服して勝利の実証を示すために「あえて自分が選んだ苦しみ」なのです。そう確信することです。
 勝つために自分があえてつくった苦悩なのだから、勝てないわけがない。負けるはずがないのです。「大願」を自覚すれば、つまり「我、本来仏なり」と自覚すれば、自身の宿命すら使命に変わるのです。
 多くの人々と同じように「悩める民衆」の姿で生まれ、どこまでも「民衆とともに」幸福になっていく――それが私どもの使命のドラマなのです。(普及版<上>「五百弟子受記品 授学無学人記品」)
 
【コラム】 富楼那(ふるな)
――話術よりも情熱と確信
 釈尊の十大弟子の一人である富楼那は、聡明で弁舌(べんぜつ)に長じ、説法第一といわれています。
 こう書くと、話術やテクニックにたけた“話がうまい人”をイメージしますが、それだけではありません。
 法華経には「能(よ)く四衆(ししゅ)に於いて示教利喜(おじきょうりき)し」(325ページ)と記されています。池田先生は、「法を説くことによって、衆生を歓喜させる――そこに力点を置いた」と述べ、その弁舌の力の源泉について、「情熱」「確信」「真心」を挙げられています。
 私たちにとって「情熱」は、広宣流布を成し遂げんとの熱願であり、目の前の一人を救いたいとの熱き思いといえるでしょう。また、「確信」が納得を生み出します。さらに、相手の幸福を祈り、どこまでも誠実に励ます「真心」の姿が相手の心を打つのです。
 どこまでも広宣流布を願い、相手の幸せを祈る、情熱と確信と真心の対話を広げていきましょう。 ​​


(2019年12月10日 聖教新聞)







Last updated  2019/12/14 11:53:36 AM
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2019/11/26
カテゴリ:教学

​​​​心大歓喜     紙上講義で学ぼう
平和の誓い継ぐ「人材の中国」


御文 元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり 
        (治病大小権実違目(ちびょうだいしょうごんじついもく)、997ページ7行目~8行目)
 
通解
(生命に本来具わっている)「元品(がんぽん)の法性(ほっしょう)」は、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃくとう)などの諸天善神として顕(あら)れ、(本来具わっている)「元品の無明」は、第六天の魔王として顕れるのである。
 
「人間革命」の連帯広げ 生命尊厳を社会の柱に
中国教学部長 久保泰郎

 11月は、広島にとって、師弟の平和闘争の魂が赤々と燃える月です。
 あの歴史的な「原水爆禁止宣言」から2カ月後の1957年(昭和32年)11月、体調を崩された戸田先生は、命懸けで広島訪問を断行しようとされました。しかし、病状は思わしくなく、断念せざるをえませんでした。
 恩師の思いを胸に、平和への戦いを起こした池田先生は、75年(同50年)11月、広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑に祈りをささげられました。
 この師弟の峻厳(しゅんげん)なる平和闘争を受け継ぎ、さらに世界へと広げるのが、広島で生まれ育った被爆2世である私自身の使命と定め、青年時代から平和運動に邁進(まいしん)してきました。うれしいことに中国方面には、平和の闘争を継ぐ、青年の人材山脈がそびえています。
 
 今回拝する「治病大小権実違目」の御文は、一人一人の生命の変革によって、災難をとどめる道理を示されている箇所です。つまり、平和は一人の「人間革命」から始まるのです。
 仏法では、善も悪も、一人の生命に厳然と具(そな)わっていると教えています。
 その上で、善性(ぜんしょう)である「元品の法性」は諸天善神の働き、悪性(あくしょう)である「元品の無明」は「第六天の魔王」の働きとなって顕れると仰せです。
「元品の無明」とは、生命に具わる根本的無知、迷いのことですが、その根底は、生命の尊厳が信じられないということです。それは、他者だけでなく、自身の生命の軽視(けいし)でもあります。
 この視座から見れば、「第六天の魔王」は、支配欲・権力欲・国家悪等として働き、顕れます。人類を何度も亡ぼすほどの膨大な数の核兵器を頂点とする軍事・軍需(ぐんじゅ)体系は、その権化(ごんげ)です。他者の生命を奪う戦争もそうです。ゆえに、戸田先生が、核兵器をサタン(悪魔)の産物と言われたのです。
 
 核兵器は、人間が生み出したのであるならば、人々の生命を変革し、善の連帯を広げることで、核兵器廃絶も、恒久平和(こうきゅうへいわ)も現実にできるはずです。
 “核兵器なんて私には関係ない”と思う人もいるでしょう。しかし、仏法では、善悪一如(ぜんあくいちにょ)と説きます。自分の中に善も悪も具わっていると洞察(どうさつ)するならば、誰もが当事者なのです。
 
 大学1年の時、アジアからの留学生との交流で、「日本も加害者」と認識されていることにがくぜんとしました。被害者意識だけでは、狭小(きょうしょう)な運動になりかねないことを知ったのです。平和を前進させるには、互いを良く知り、相手の立場を尊重しながら、理解を広げていかねばなりません。
 また、大学2年の時、学会の反戦出版の一つとして、被爆証言集が発刊されました。そこに、母の証言が収録されました。折々に聞いていましたが、まとまった形で読んだ時、母の平和への思いが胸に迫ってきました。
 今も新たに、証言される方々がおられます。それは、家族も含め、偏見や差別との戦いの始まりです。その覚悟に、思いを馳(は)せなければなりません。
 “二度とこの苦しみを、誰にも味わわせたくない”との、切なる願いが、重い心の扉を開いたのです。
 学会は、これまで反戦出版をはじめ、核廃絶を訴える展示や署名を行ってきました。広島では、青年部主催の「平和のための広島学講座」を30年にわたって開催してきました。私も、毎週、内外の人たちに、新聞各紙の切り抜きなどの平和情報を発信し続けています。
 
 日蓮大聖人は、「同居穢土(どうこえど)を・とられじ・うばはんと・あらそう」(御書1224ページ)と仰せです。現実の魔性との闘争の中で、一人一人の人間の善性を呼び覚ます対話を続けていくしかないのです。
 
 池田先生は、創価学会の社会的貢献に関して、主師親(しゅししん)の三徳(さんとく)になぞらえ、次のように教えてくださいました。
 「生命の尊厳を護(まも)る『主の徳』を目指すのは、平和の貢献です。青年を正しく導く『師の徳』を体現するのが、人間教育です。人類の心を耕(たがや)し、結び合う『親の徳』は、文化の交流です」(『御書と師弟』第3巻)
 学会の平和運動は、憎悪や偏見などが渦巻く現代社会にあって、厳然とそびえ立つ平和と希望の柱なのです。
 
 大聖人は「心地(しんじ)を九識(くしき)にもち修行をば六識にせよ」(御書1506ページ)と仰せです。現実社会は、利害や思惑が複雑に絡み合っています。分断の風潮が強まる中で、どこまでも「立正安国」の理念を高く掲げながら、平和を構築していきたい。恒久平和は、決して静的なものではなく、間断なき闘争に勝ち続けてこそ可能になるのです。
 
池田先生の指針から
 核兵器を廃絶せよ! その元凶となる生命軽視の魔性の思想を打ち破れ! 恩師の遺訓のまま我らは弛まず進む。
 それは「元品の無明」を破って「元品の法性」を開き、民衆一人一人の心に平和の砦(とりで)を築く地涌の挑戦である。「生命尊厳」を地球社会の柱に打ち立てゆく精神闘争だ。
 この最極の道である「立正安国」の対話に、今日も挑みゆこう!(本年9月6日付本紙、御書と歩むⅡ――池田先生が贈る指針)
                   ◇
 きょう9月8日は、わが師・戸田城聖先生が、学会の平和運動の永遠の原点である「原水爆禁止宣言」を、青年に託された日であります。
 “核兵器を絶対に使用させてはならない”“世界の民衆の生存の権利を断じて守らなければならない”との恩師の師子吼を、私は不二の弟子の誓いとして命に刻みつけ、行動を貫いてきました。(中略)
 
 長らく不可能と言われ続けてきた核兵器禁止条約が、2年前に国連で採択されたのであります。
 私は、広島と長崎に原爆が投下されてから75年となる明2020年のうちに、何としても核兵器禁止条約の発効を実現させたいと切望しています。
 条約の発効こそが、原水爆禁止宣言で訴えられた、核兵器を容認する思想の「奥に隠(かく)されているところの爪(つめ)」をもぎ取るための不可欠の基盤になると信じてやまないからです。(本年9月10日付本紙、青年不戦サミットへのメッセージ)​​​​​


(2019年11月26日 聖教新聞)







Last updated  2019/11/26 10:51:01 PM
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2019/11/12
カテゴリ:教学
御書に学ぶ御供養の精神  

門下の尊い志を最大に讃嘆
 日蓮大聖人は、門下からの真心の御供養に対し、その尊い志を賛嘆し、感謝と確信の励ましの返礼を、数多く認められています。ここでは、それらの御書を拝しつつ、御供養の精神を学びます。


御文
​​ ひとつのかたびらなれども法華経の一切の文字(もんじ)の仏にたてまつるべし。この功徳は父母・祖父母・乃至(ないし)無辺の衆生にも・をよぼしてん
​​(桟敷(さじき)女房御返事、御書1231ページ)



通解
 1枚の帷(かたびら)ではあるが、法華経の一切の文字の仏に供養したことになるのです。この功徳は、あなたの父母、祖父母、さらに実に多くの衆生にも及ぶことは間違いありません。

功徳は無量無辺
 日蓮大聖人のもとに、鎌倉の女性門下から、自ら縫(ぬ)い上げたであろう1枚の帷(かたびら)が届けられました。帷とは、麻(あさ)で編んだ単衣(ひとえ)の着物です。その御礼として認められたのが「さじき女房御返事」です。​


 大聖人は、“法華経のために送ってくださった”と、1枚の帷に込められた弟子の思いをくみ取られ、つづります。


 帷(かたびら)は1枚であっても、法華経の6万9384文字の、一つ一つの仏に供養したようなものです――真心からの御供養は、その多寡(たか)にかかわらず、想像もしない福徳となっていくことを記されています。


 さらに、その功徳は、本人はもとより、父母、祖父母、そして一家眷属(けんぞく)にまで及んでいくことを確信していきなさいと教えられています。


 広宣流布のために供養する真心は、必ず大きな福徳となって、自分自身だけでなく、三世にわたって一家一族をも包み込んでいくことは間違いありません。


 世界広布が進む今、一閻浮提広宣流布を現実のものとする学会への真心の供養は、平和と幸福の光を世界に広げていくことになるのです。



御文
​​​ 此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子(とくしょうどうじ)・無勝童子(むしょうどうじ)とて二人のをさなき人あり、土の餅(もち)を仏に供養し給いて一百年の内に大王と生れたり​​​(上野殿御返事、御書1544ページ)​



通解
 アショーカ大王の過去をたずねると、仏の在世に徳勝童子と無勝童子という二人の幼子がいました。童子が土の餅を仏に供養して、その功徳によって100年のうちに、大王として生まれたのです。

大切なのは真心
 かしら芋(いも)、串柿(くしかき)、焼米(やきごめ)、栗(くり)、筍(たけのこ)、酢筒(すづつ)などを御供養した南条時光に、感謝の思いを伝えるためにつづられたのが「上野殿御返事」です。


 最初は悪王だったが、後に仏教に帰依し、慈悲の精神あふれる善政を敷いたインドのアショーカ大王の出生にまつわる伝承を通して、真心の大切さを記されています。


 幼い二人の童子が、仏に供養した土の餅は、もちろん食べることはできません。だからといって、決して無価値ではありません。


 仏法の眼で見るならば、土の餅であっても、お金や物などで測ることのできない真心がこもった大切な品です。だからこそ、土の餅に込められた志が福徳の因となって、童子は大王となって生まれることができたのです。


 当時、時光は、何か悩みを抱えていたようです。飢饉であり品物を用意するのも大変な中、時光が種々の御供養を届けられた真心をたたえ、“諸天に必ず守られる”と大確信で応えられたのです。さらに、勝利の人生を確信して、たゆまぬ水の信心を貫く大切さを教えられています。


 たとえどういう境遇にあっても、信心の志を忘れず、地道に活動に励んでいけば、必ず勝利の人生を開いていけるのです。

​

御文
 法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり(高橋殿御返事、御書1467ページ)​



通解
 法華経の行者を養うのは、慈悲の中の大慈悲の米である。一切衆生を利益するものだからである。

一切衆生を利益
 日蓮大聖人は、米穀を御供養した門下に対して、法華経の行者に供養する米は、「一切衆生を利益する」ものとなるのだから、「慈悲の中の大慈悲の米穀」であると仰せです。


 法華経の行者とは、万人成仏の法である法華経を弘め、衆生を救済する存在です。その法華経の行者を支えることは、一切衆生を利益することにつながります。


 一方で大聖人は、他の御書で民衆救済の大慈悲から、「まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる」(御書1486ページ)「設(たと)いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず」(同1595ページ)と、謗法への供養を戒(いまし)められています。


 人々を間違った方向に導いてしまう日顕宗などに供養することは、利益するどころか、かえって衆生を悪道に導いてしまうことにほかなりません。



池田先生の指導から

​
福田に善根の種を蒔く​


 学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。そう思うと、伸一自身、一人の学会員として、その機会に巡り合えたことに、無量の福運と喜びを感じるのであった。


 この御書(=衆生身心御書)では、最後に、身延の山中に供養の品々を送った一人の門下の志を讃えられて、次のように述べられている。

 「福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず」(御書1596ページ)

<福田に、すばらしい善根の種を蒔(ま)かれたのか。厚い志に涙もとまらない>
 

広宣流布に尽くすことは、福田に善根の種を蒔くことである――それは、伸一が青春時代から、強く確信してきたことでもあった。
(小説『新・人間革命』第4巻「凱旋」の章)

(2019年11月12日 聖教新聞)






Last updated  2019/11/12 10:46:38 PM
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2019/10/22
カテゴリ:教学

ロータスラウンジ    法華経への旅 
第10回 化城喩品第七  下

​​​仏法を行じ弘める振る舞いそのものがすでに仏の姿


■大要(続き)
 前回までで、仏と在世の弟子たちの「宿世(しゅくせ)の因縁(いんねん)」を説いてきました。それを受けて、「化城宝処(けじょうほうしょ)の譬(たと)え」を通して、一仏乗の法華経こそが仏の真意であることを教えます。
 では、砂漠(さばく)を旅する一行のドラマを見てみましょう。
 
●シーン5
 ――人の行き来も絶えて、通るのも危(あぶ)なく恐ろしい、五百由旬(ごひゃくゆじゅん)という長い長い道がありました。
 この悪路を通った先にある宝処(宝のある処)を目指し、多くの人々が歩んでいます。その一行の中に、険しい道の先まで見通せる、一人の聡明(そうめい)『なリーダーがいました。
 一行はリーダーのもと、険しい道を乗り越えようと、進んでいました。ところが道半ばで、音を上げます。
 「私たちはひどく疲れ、もう進んでいくことができません。まだ、先は遠く、今から引き返そうと思います」
 その言葉を聞いたリーダーは、思いました。“可哀想(かわいそう)なことだ。どうして、すばらしい宝を諦めて、帰りたいと願うのだろうか”
 そこでリーダーは一計を案じ、神通力を使って、三百由旬を過ぎた所に一つの城(都市)を出現させて語り掛けます。
 「皆さん、恐れることはありません。どうか、諦めて帰ることはしないでください。この城に入れば、休息し、安穏になれます。宝処を目指そうと思えば、また進むことができるようになりますから」
 疲れ切った人々は、「悪路をのがれることができて、安穏を得られるのだ」と歓喜し、進んで城に入り、休息を取りました。
 皆の疲れが取れたので、リーダーは化城を消して、人々に語ります。
 「皆さん、さあ、宝処は近くにあります。先ほどの大きい城は、私が作り出したもので、皆さんを休ませるためだけのものです」
 「さあ、共に宝処へ!」――。
 
●シーン6
 釈尊(しゃくそん)は、比丘(びく)(出家した男性信者)に告げます。
 ――仏も、このリーダーと同じようなものです。今、あなたたちのために、大導師となって、生死や煩悩(ぼんのう)に満ちた、険難で長遠な悪路を導いてきたのです。
 もし、衆生が一仏乗だけを聞いたならば、“成道は、はるか遠い”と思い、仏を求める心を起こすこともなかったでしょう。だから仏は、比丘たちの心が弱いことを知って、仏になる道の途中に、休息させるために、あえて二乗を説いたのです。
 それなのに、衆生が声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)の覚りに安住していれば、仏はその人たちのために説くのです。
 「あなたたちは、まだ真実の覚りを得ていない。真実の仏の智慧(ちえ)は、近くにある。仏は、方便の力によって、一仏乗を三乗に分別して説いてきたのです」と――。
 
■本来の願い
 「化城宝処(けじょうほうしょ)の譬(たと)え」は、開三顕一(さんかいけんいち)(三乗を開いて一乗を顕す)を説いています。
 リーダーが作り出した幻の城は、仏が衆生を導くために説いてきた三乗方便の教えを譬えています。
 ところが、二乗の覚(さと)りに満足してしまい、仏の無上の覚りを得ようとする心を起こさないので、「宿世の因縁」を説くことで、本来の願いを思い出させ、導こうとしたのです。
 池田先生は、語っています。
 「この心(=自他ともの幸福を願う心)を生ききるには、『師』が必要なのです。そのことを、長遠の時間にわたる師弟の因縁を通して、化城喩品で教えているのではないだろうか。要は、ここでいう因縁とは『人間と人間の永遠の絆』のことです。決して、人間を離れたものではない。人間を外から縛るものでもない。反対に、弟子の自分が、自分の生命の根本にある『成仏の因』を自覚する。すなわち久遠の『本願』を思い出す。そして、その因を仏果へと育ててくれる師匠という『縁』のありがたさを自覚する――この『最高の絆』への感謝と感動が、化城喩品の心なのです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉) 
 
■化城即宝処
 「御義口伝」には、「化城即宝処(けじょうそくほうしょ)とは即の一字は南無妙法蓮華経なり念念の化城念念(けじょうねんねん)の宝処なり」(御書732ページ)と示されています。
 日蓮大聖人は、法華経の文を深く拝されて、「化城即宝処」と、化城と宝処は別々ではないと仰せです。
 池田先生は「法華経の本意は九界即仏界、方便即真実ですから、化城と宝処は別々のものではない。化城即宝処なのです。その立場に立てば、じつは過程がそのまま目的である。つまり、仏道修行の果てに成仏があるというのではない。仏法を行じ、弘める振る舞いそのものが、すでに仏の姿なのです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉)と語っています。
 たとえいかなる境涯、境遇にあっても、自行化他(じじょうけた)にわたって南無妙法蓮華経を唱えていく時、その一瞬一瞬の生命に仏の生命が現れるのです。九界の衆生の生命に、仏の境涯を顕(あらわ)していくことができるのです。
 
■広宣流布は流れ
 池田先生は「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体である。何か特別な終着点があるものではない。『こうなったら広宣流布』というのは、譬えでは言えるが、決まった形のことではない。大聖人の仏法は『本因妙』の仏法であり、常に未来に広がっていく正法なのである。末法万年尽未来際のための仏法である。永遠に戦い続けることが、広宣流布に生きるということだ」とスピーチされました。
 さらに先生は、「前進するためには、目標という『化城』を設定しなければならない。しかし、その『化城』に向かっての前進、行動は、深く見れば、それ自体、仏の所作(しょさ)なのです。その舞台が、すでに『宝処』なのです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉)と語っています。
 日々前進の人生こそが、“広宣流布に生きる”ことなのです。
 
『法華経の智慧』から 
喜んで広布の苦労を
 すべての活動を楽しんでいくことです。苦しみきった仏の所作(しゃさ)などない。
 「さあ喜んで、広宣流布の苦労をしていこう」「さあ、またこれで福運がつく」「また境涯を広げられる」と喜べる自分になれば、それ自体、仏界が輝いている証拠でしょう。(中略)
 生きているかぎり、何か問題があるのは当然です。それをいちいち一喜一憂(いっきいちゆう)していたのではつまらない。
 目標に向かって、懸命に挑戦する、ひたぶるに戦う。歯をくいしばって道を開いていく――振り返ってみれば、その時は苦しいようでも、じつはいちばん充実した、人生の黄金の時なのです。三世のドラマの名場面なのです。
 大聖人は「今日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る者は化城即宝処なり我等(われら)が居住(こじゅう)の山谷曠野皆皆常寂光(せんごくこうやかいじょう)の宝処(ほうしょ)なり」(御書734ページ)と仰せられています。これはまさに、妙法を持ち、行ずる私たちの境涯を教えられています。いずこにあっても、いかなる境遇(きょうぐう)にあろうとも、私たちの根底は「歓喜の中の大歓喜」(同788ページ)なのです。(普及版〈上〉「化城喩品」)
 

師と共に 
学会と歩む幸福人生
 「御義口伝」に「日蓮等の類(たぐ)い南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)る者は一同に皆共至宝処(かいぐしほうしょ)なり、共(ぐ)の一字は日蓮に共する時は宝処に至(いた)る可(べ)し不共(ふぐ)ならば阿鼻大城(あびだいじょう)に堕(お)つ可し」(御書734ページ)とあります。
 妙法を唱える人は、皆が共に、仏の覚りの境地を開けると教えられています。その上で、「共(ぐ)」の一字が、仏界と地獄界の分かれ目となるのです。
 「日蓮に共(ぐ)する」とは、私たちでいえば、大聖人の御遺命である一閻浮提広宣流布という大願を同じくして進むことです。広くいえば、広布の大願を現実のものとする学会と共に歩むことにほかなりません。
 さらに、「在在諸仏土(ざいざいしょぶつど)常与師俱生(じょうよしぐしょう)」(法華経317ページ)の文からも、私たちの前進は“常に大聖人と共に”あるといえます。そのことを生命で実感することが宝処に至ることです。
 また、「化城即宝処」の教えからも、広宣流布にまい進できること自体が、幸福なのです。​​​


(2019年10月22日 聖教新聞)







Last updated  2019/10/22 10:05:42 PM
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2019/10/08
カテゴリ:教学

紙上セミナー 仏法思想の輝き
難病の治療と研究に従事
多様性から希望を導く
消化器内科医 渡辺憲治

まず「聴く」ことから
 炎症性腸疾患(えんしょうせいちょうしっかん)の診療で、「多様性」はキーワードです。青年期に発症することが多い慢性の疾患(しっかん)なので、患者さんは病気と付き合いながら人生を送ります。同じ病名でも病状はさまざまで、病変の存在する部位や治療の反応性まで多種多様です。だからこそ、私たち専門医の診療は、まず「聴く」ことから始まります。
 病気の経過などの医学的なことから、社会的な状況や生活上の細かな課題まで、十分な時間を使って伺います。患者さんをよく知ろうとする、こうした姿勢によって、患者さんは、医師への信頼を深めてくれます。また、このような問診に基づき、有効な治療法を見いだすことで、患者さんは診療方針に同意し、共に病に立ち向かう仲間になってくれるのです。
 私が関わったクローン病の患者さんに、Tさんという方がいます。最初は別の医師が担当していたのですが、意思疎通(いしそつう)が困難で、医療に懐疑的(かいぎてき)な言動が多く、困り果てた担当医が私にバトンタッチしてきたのです。私の勧めで検査や治療のため入院することになったTさんから、ある日、「先生に話したいことがある。時間を取ってほしい」と言われ、診察を終えた夜にお会いすることに。話を伺うと、子どもの頃に薬の副作用と思われる事故で大けがをしたことから、医療不信になったことを打ち明けてくださいました。私は、話してくださったことに素直に感謝し、病状が快方に向かうよう、専門家としてベストを尽くすことを約束しました。非常に難しい病状でしたが、最終的には治療が奏功(そうこう)してTさんの病状は好転し、安定しました。治療の有効性は継続しており、現在も元気に過ごされています。


 医療現場では、検査や治療に対する説明と、患者さんの同意を得ることが常識となっています。そうした説明はもちろん必要ですが、より大切なのは「共感」だと思っています。
 難病の治療に“100%効く”という治療は存在せず、個々の患者さんの病状に合わせ、成功率や安全性が高い治療を選択するとともに、治療効果が不十分だった場合の次の治療方針もあわせて説明することが多いです。たとえ治療がすぐにうまくいかなくても、「共感」による安心や納得があれば、患者さんは共に病に立ち向かう仲間として、次の治療に挑んでくださり、最終的に病を克服できる可能性が高くなります。

 日蓮大聖人は、「いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ」(御書1172ページ)と仰せです。心と心を結ぶ納得と共感の語らいが大切であると教えられています。
 病状も患者さんの状況も多様な診療現場にあって、個々の患者さんが有効な治療によって病状の安定を得るまでの道程は、真剣さに基づく知恵によって開けるものと確信します。時には成功率が低いと思える治療でも、病状が許すなら、患者さんの希望に沿って行う場合があります。少し遠回りしてでも、納得によって信頼を得ることの方が、今後の診療にとって大切だからです。
 
画一的な正解がない
 「多様性」は、現代社会の重要なキーワードの一つだと考えています。人々の文化や生き方が多様化する中で、さまざまな情報があふれ、画一的な正解が見いだしがたくなっています。通信手段の飛躍的な発達にもかかわらず、かえって国家も人も、自己の保全を優先する傾向が強まっているように思えます。
 社会が多様化し、ともすれば自己に埋没しがちな時代にあって、「利他」の精神を説く仏法思想の重要性は一段と増していると実感しています。多様性を認めながら、共感する一致点を見いだし、共に希望を持って仲間として協力しながら前進していく――。仏法を根幹とした、そうした姿勢は、医療現場のみならず、あらゆる場面でより良き社会を築く礎となるのではないでしょうか。私自身、多様性の中から勇気と希望を患者さんのために導きながら、困難を幸福へと転換していく仏法の思想を医療現場で体現してまいります。
 
視点 
病気と闘う
 人生100年時代を迎え、「病気」という問題に直面する人は少なくないでしょう。日蓮大聖人は、「病(やまい)によりて道心はをこり候」(御書1480ページ)と仰せになり、病をきっかけとして、より信心を深めていく生き方を教えられています。
 病気だから不幸なのではありません。むしろ、病気だからこそ、それを機縁として求道心が深まり、さらに自身の境涯を高めていけると捉(とら)えるのが、日蓮仏法の思想です。
 そのためには、“病に断じて負けない”と生命力を奮い立たせていく、強き一念が何より大切です。
 題目根本の人は、“苦悩に直面した時こそ宿命転換のチャンス”との前向きな姿勢で、困難に打ち勝ち、人生を豊かに彩っていけるのです。​


(2019年10月8日 聖教新聞)







Last updated  2019/10/08 07:00:09 PM
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2019/09/07
カテゴリ:教学

​​ロータスラウンジ    法華経への旅 
第9回 化城喩品第七 上
 因縁――
  衆生を目覚めさせる
  永遠なる「師弟の絆」


■大要
 前回の「授記品(じゅうきほん)第六」の最後、釈尊が遠い過去からの因縁(いんねん)を説くと宣言したのを受け、弟子たちに語り始めます。
 三千塵点劫(さんぜんじんてんごう)というはるか昔に、釈尊(しゃくそん)は大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)(“大いなる神通と智慧によって最も勝れた仏”との意)の十六番目の王子として生まれ、法華経を説法しました。その時に発心し、結縁(けちえん)した衆生が今、再び過去からの因縁で、法華経を聴くことができたと述べます。
 さらに、「化城宝処(けじょうほうしょ)の譬(たと)え」を通し、二乗の覚(さと)りを修行の終着点としていたのは化城のようなもので、真実の宝処は一仏乗であると語ります。
 内容を追ってみましょう。
 
●シーン1
 「大通智勝仏」が、「好成(こうじょう)」という国土、「大相(だいそう)」という時代に出現しました。
 それは三千塵点劫というはるか昔であるが、私、釈尊は仏の力によって、今の出来事のように知ることができると述べます。
 
●シーン2
 釈尊は比丘(びく)(出家した男性信者)に、「大通智勝仏の寿命は、五百四十万億那由他劫(なゆたこう)である」と告げ、成仏するまでの様子が述べられます。
 ――大通智勝仏は道場に坐(ざ)して、魔軍を破って、まさに覚られようとした。ところが、十小劫もの間、心身共に動じることなく坐しても、法を得られずにいました。
 その間、忉利天(とうりてん)は壮大な師子座(仏が座る処)を供養し、梵天王たちは天華を降らせ、四天王たちは天鼓(てんく)を鳴らし続け、覚りを得られるように応援しました。そして、十小劫を過ぎて成仏できたのです。
 大通智勝仏には、出家する以前に、十六人の王子がいました。子どもたちは、父が覚りを得たことを聞き、父のもとに向かいます。王子たちの祖父である転輪聖王(てんりんじょうおう)も、臣下や人民を連れて向かいます。そして、皆で仏の徳を賛嘆(さんたん)します。
 十六人の王子は、父の大通智勝仏に、「法を説いてください」と、説法を請(こ)います――。
 
●シーン3
 釈尊は比丘に告げます。
 「大通智勝仏が覚りを得た時、世界は震動し、日月が照らせない所まで、明るく照らされました」
 次に、十方の梵天(仏法を護る守護神)が、大通智勝仏の説法を請う様子が、詳細に記されていきます。
 その中には、御書でも引用されている「願わくは此の功徳を以(もって)普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生とは 皆共に仏道を成ぜん」(法華経298ページ)との、梵天王の願いが記されています。
 
●シーン4
 十六人の王子や梵天たちの要請に応え、大通智勝仏が説法します。
 「是れ苦、是れ苦の集(じゅう)、是れ苦の滅、是れ苦の滅の道なり」(同299ページ)、「無明は行に縁たり……生滅すれば則(すなわち)老死憂悲(ろうしうひ)苦悩滅(くのうめっ)す」(同ページ)と、四諦(したい)と十二因縁の法が説かれます。(四諦・十二因縁は「なるほど」を参照)
 教えを聞いた人々は皆、解脱することができました。
 十六人の王子は出家して沙弥(しゃみ)(正式な比丘となる前の見習い僧)となりました。その様子を見ていた転輪聖王(てんりんじょうおう)の臣下(しんか)たちも出家しました。
 それから二万劫の後、大通智勝仏は「妙法蓮華」の教えを八千劫にわたって説いた後、八万四千劫の間、禅定(ぜんじょう)に入りました。仏が禅定している間、十六人の王子は、仏の代わりに、菩薩として「妙法蓮華経」を説き、無数の衆生を教化します。
 教化された衆生は、それぞれの師である菩薩と共に、さまざまな仏の国土に生まれ、師の化導(けどう)をうけます。(これが「在在諸仏土 常与師俱生」〈法華経317ページ〉です)
 十六人の王子は、それぞれ仏となって、無量の菩薩・声聞(しょうもん)を眷属(けんぞく)とし、十方の世界で法を説きます。
 その十六番目の仏が、私、釈尊であり、私に教化された衆生が、今の声聞たちであり、滅後の声聞たちであると明かします。
 「私は十六番目の菩薩として、かつてあなたがたのために法華経を説いた。このゆえに方便を用いてあなたがたを導き、仏の智慧に向かわせてきたのである。この“本因縁”を以て、今、法華経を説いて、あなたがたを仏道に入らせるのである」(法華経318ページ、趣意)
 このように、釈尊と声聞たちの「宿世の因縁」が説かれ、さらに、有名な「化城宝処の譬え」が語られます。(「化城喩品第七」下 に続く)
 


なるほど
 四諦(したい)(苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい))は、仏教の最も基本となる四つの真理のことです。
 迷いのこの世は一切が苦しみであることを「苦諦」。
 苦しみが生じる原因は執着であることを「集諦」。
 執着を滅することで、苦しみを克服し、覚りを得ることを「滅諦」。
 そして、苦しみを克服し、覚りを得るためには、八つの修行の道(八正道)があることを「道諦」と、それぞれ言います。
 十二因縁は、苦悩へと至る過程を、無明、行、識、名色、六処(六入)、触、受、愛、取、有、生、老死(老死憂非苦悩(ろうしうひくのう))の12項目に分けて説いたものです。
 無明から行が起こり……と、順々に過程を経て老死という苦が起こります。逆に、無明が滅すれば行が滅し……と、順々に滅していくことで老死が滅します。このように、苦悩の生成消滅の因果(いんが)を知ることで、苦悩から解放されるという教えです。

 池田先生は「四諦・十二因縁の法は、仏の悟りの一面を示した方便の教えです。いろいろ言うべきことはあるが、要するに、これらの教えの基本は“苦しみの原因である煩悩を滅することによって、安穏な境地を得る”という点にある。しかし、煩悩を滅するというのは方便であり、仏の本意は、自分が得た無上の悟りを万人に得させることにあります」と語っています。
 苦悩を滅することで安楽を得るのではなく、苦悩を歓喜、幸福へと転じていくのが、日蓮大聖人の太陽の仏法です。
 
『法華経の智慧』から 
慈悲と智慧の清流
 魔軍を破るとは、根本的には煩悩(ぼんのう)に打ち勝つことを意味していると思われる。しかし、煩悩に勝つことだけが悟りではない。それは悟りの一面です。衆生を救う慈悲と智慧が現れてこそ、本当の悟りなのです。(中略)
 慈悲・智慧と言い、煩悩と言っても、「空(くう)」であり、実体論的にとらえてはならないことは言うまでもない。そのうえで、分かりやすく言うならば、仏の悟りは、煩悩を「断ずる」のではなく、慈悲と智慧が、煩悩や業を「包み返す」のです。「煩悩・業・苦の流転」を押し返して、「慈悲と智慧の清流」になる。生命の「悪の波」を「善のうねり」へと変える。
 煩悩に煩(わずら)わされないという意味では、静寂で澄みきった境地だけれども、同時に真の躍動があるのです。それは大海のごとき境涯です。いかなるときも、深みでは絶対の静寂(せいじゃく)と安定がある。
 そしてつねに「善のうねり」が生命に躍っている。妙法の働きが「如如(にょにょ)として来る」ので、如来です。これが、妙法と完全に一体化した仏の悟りの姿です。 (普及版〈上〉「化城喩品」)
 
三千塵点劫 
計り知れない時間を表す
 大通智勝仏の滅後から釈尊在世に至(いた)るまでの時が長遠(とうえん)であることを表すのに「三千塵点劫」という語が出てきます。
 三千塵点劫(さんぜんじんてんごう)とは、どのくらいの時間なのでしょうか。
 時間を表す単位の「劫(ごう)」とは、それ自体も計りがたい長遠な時間を表します。
 まず、三千大千世界(古代インドの世界観で全宇宙)の国土を粉々にすりつぶして塵(ちり)とします。
 その塵をもって東方に進み、千の世界を過ぎるごとに塵を一つずつ落としていきます。そして、全ての塵を下ろし尽くした後に、通り過ぎた全ての世界を集めて、粉々にすりつぶします。
 こうしてできた全ての塵を、一粒を一劫として数えた時間が、三千塵点劫になります。
 このように、数えようにも数えられないような時間を、単なる数字で表すよりもイメージを使うことで、“計り知れない”ことを実感させようとしているのです。​​


(2019年9月 7日 聖教新聞)







Last updated  2019/09/07 08:13:13 PM
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2019/08/27
カテゴリ:教学
​​​​​心大歓喜 紙上講義で学ぼう 師弟誓願の北陸


光り輝く北陸の天地。富山市中心部と立山連峰。池田先生は「我らは『誓願の題目』を勇気凜々と轟(とどろ)かせ、どんな冬も勝ち越えて、大切な郷土と大切な地球に、『常楽』と『遊楽』の希望の春を爛漫(らんまん)と広げていきたい」と
 今回の「心大歓喜――紙上講義で学ぼう」には、手取屋(てどりや)北陸教学部長が登場。


御文


 願くは我が弟子等・大願ををこせ……法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以(もっ)て普(あまね)く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云
 (上野殿御返事、1561ページ1行目~5行目)

​

通解


 願わくは我が弟子たちよ、大願を起こせ……法華経の第三の巻には「願わくは此の功徳を以て、普く一切に及ぼし、我等と衆生とは、皆共に仏道を成ぜん」と説かれている。



池田先生の指針から


 わが偉大なる「誓願の同志」たちよ!
 

「誓」とは、歴史をつくる「力」である。


「誓」とは、暗闇を照らす「光」である。
 

「誓」とは、邪悪を破する「剣」である。(中略)


 石川の友よ!


 富山の友よ!


 誇り高き北陸の同志よ!


 妙法は、永遠に勝利だ。


 師弟は、永遠に一体だ。

 (随筆「人間世紀の光」〈創価の使命の花咲く天地〉)
 

                      ◇
 

 北陸の勝利は 即
 

 恩師の勝利である。
 

 北陸の栄光は 即
 

 創価の師弟の栄光である。
 (長編詩「太陽は昇る! 栄光の北陸に!!」)
 

                      ◇
 

 人間なにごとかを成し遂げようとするならば、気合いよく体当たりしていく態度というものが、非常に必要なのではないかと思うのであります。


 その意味で、学会活動にせよ、文化活動にせよ、はたまたあらゆる職業の展開にせよ、潔い信心を根幹として、ほんとうに腹の底から好きになっていくことが大切であろうと思うのであります。
 (1974年4月28日、北陸広布20周年記念総会)


                      ◇


 人間を決するものは、格好や服装ではない。形式でもない。なにごとも心意気である。


 これをわれらの立場でいえば、信心の一念から発する情熱であり、行動である。


 (1982年9月9日、北陸広布開拓25周年記念勤行会)



北陸教学部長 手取屋七直(てどりやしちなお)


​「誓」「師弟不二」の魂で喜び勇んで使命の道を
​

 35年前(1984年〈昭和59年〉)の8月24日、池田先生は10度目の北陸指導のさなか、若き友の成長を喜ばれ、急きょ、懇談の機会をもってくださいました。


 その日は、先生の入信記念日。未来を託すように「一切は青年で決まる。逃避も諦めも悲観も乗り越えて、地道に懸命に伸び伸びと生き抜くことだ」と語ってくださいました。


 2日後の26日には、「第1回北陸平和文化祭」に出席。「新世紀 胸に抱きて 乱舞せる 北陸健児の 栄光開けり」と、健闘をたたえられました。


 巡り来る「8・24」は「北陸青年部の日」、「8・26」は「北陸の日」として、師匠の渾身の期待を受け継ぐ日となっています。



 日蓮大聖人も、後継の青年を大切にされました。今回拝する「上野殿御返事(竜門御書)」は、若き南条時光に送られたお手紙です。本抄は弘安2年(1279年)11月、「熱原の法難」の渦中、身延の地で認められました。命にも及ぶ迫害に遭っていた門下に、大願を貫く人生を教えられています。
 この御文を拝するたび、1982年(昭和57年)9月の北陸指導が思い起こされます。先生は、魂をとどめるように次々と揮毫してくださいました。


 石川での「誓」――まさに「我が弟子等・大願ををこせ」と、誓願の人生を示してくださいました。


 誓いは、一度誓ったら終わりではありません。常に誓いを新たにしていく連続闘争の日々にこそ、喜びにあふれる誓願の人生があります。


 また、先生は一貫して、北陸人の気質を打ち破るかのように「潔い信心」「勇猛精進」という積極性を教えられてきました。誓いも、お仕着せや借り物では意味がありません。どこまでも自身の信心の発露として起こすものだからです。


 富山でのご揮毫「師弟不二」――広宣流布の大願を、師匠と弟子が同じくすることの大切さを教えてくださいました。
 私たちの大願は、どこまでいっても広宣流布です。それは、本抄に仰せの「皆共に仏道を成ぜん」との願いにほかなりません。一人一人が「山本伸一」となって、自身の人間革命、広宣流布に挑戦していくことが大切です。


 姉の病をきっかけに入会した私は、姉の体調が良くなる姿を見て、信心の確信を深めていましたが、「御本尊」とは何なのだろうという漠然とした疑問がありました。


 忘れもしない74年(昭和49年)4月28日の「北陸広布20周年記念総会」。その日は「立宗宣言の日」で、先生は「本尊」とは何かについて、「大聖人の仏法は『一切の根源は“生命”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“人間生命”そのものである』という哲理であり、思想なのであります」と、明確に語られました。自身の生命が本来、尊極無上の仏であり、南無妙法蓮華経の当体であるということを知り、私は目が覚める思いでした。


 今、教育にあっては、自己肯定感の大切さに注目が集まっています。子どもだけでなく、大人にとっても、重要な問題です。自分の存在を大切に思えることが幸福への第一歩であり、その人は他人も大切にできるからです。


 究極の自己肯定こそ、私たちにとっては、我が生命に仏界があることを信じて祈ることにほかなりません。地涌の菩薩の自覚こそ、宿命を使命に変える自己肯定の極意です。それは師弟不二で誓願に生きる人生ともいえます。


 「絶対に乗り越えられる」と確信をもって語る友。「祈れること自体が幸せ」と笑顔で語る友……。多くの同志が、地涌の使命に生きる喜びを体現してくださっています。


 私は、仏法の素晴らしさを伝えようと、2010年(平成22年)から「会館御書セミナー」と題し、友人などにも分かりやすい連続講義を、北陸の各会館で200回ほど開催してきました。セミナーを通して、入会された方もいます。


 学会の中で、「誓」「師弟不二」に生き抜くことが、どれほど偉大なことなのか。多くの同志の姿を通して、仏法の偉大さを痛感しています。


 先日始まった北陸の「誓願拡大月間」を、同志と共に、人間生命の賛歌を響かせながら前進してまいります。


(2019年8月27日  聖教新聞)

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Last updated  2019/08/27 10:56:58 PM
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2019/08/20
カテゴリ:教学

ロータスラウンジ   法華経への旅
第8回 薬草喩品第五・授記品第六​

授記の本意は
 仏と同じ生命の軌道を
  歩ませることにある


大要(薬草喩品)
 「信解品第四」で、迦葉(かしょう)・須菩提(しゅぼだい)・迦旃延(かせんねん)・目犍連(もっけんれん)(目連)の四大声聞が、「長者窮子(ぐうじ)の譬え」を通して、釈尊の説法を領解(りょうげ)したことを示しました。それを受けて、「薬草喩品第五」では、釈尊が「三草二木の譬え」を通し、仏の慈悲が平等であることを説き、妙法を信解した功徳を述べます。それでは、内容を追ってみましょう。
 
●シーン1
 釈尊が、迦葉たち弟子に告げます。
 「すばらしい、すばらしい。迦葉よ、善く仏の真実の功徳を説いた。全くその通りである」
 釈尊は、弟子が領解した内容を認めます。
 その上で、「仏は諸法の王であり、説く法は、皆を仏の智慧の境地に導くのである」と述べ、その意味を分かりやすく伝えるために、「三草二木の譬え」を語ります。
 
●シーン2
 ――三千大千世界(全宇宙)にある山や川、渓谷や大地に、多くの樹木や薬草が生えているとします。それらは、さまざまな種類があり、それぞれの名前や形も異なっています。
 そのような所へ、厚い雲が空いっぱいに広がり、あまねく世界を覆(おお)い、雨が降り注ぎます。
 その雨は、上・中・下(大・中・小)の薬草と、大小の樹木をあまねく潤(うるお)します。
 雨は一つの雲から平等に降り注ぎますが、草木は、それぞれの性質にしたがって生長し、異なった花を咲かせ、異なった実がなります。
 同じ大地に生育し、同じ雨に潤されても、多くの草木にはそれぞれ差別があるのです――。
 
●シーン3
 仏の説法も、この譬(たと)えと同じです。
 仏がこの世に出現するのは、大雲が湧き起こるようなものです。
 また、大音声をもって天界・人界・修羅界に至るまで、偏(かたよ)ることなく等しく法を説くのは、雲が空を覆(おお)い、平等に雨を降らせるようなものです。
 大衆の中で、釈尊は次の言葉を唱えます。
 「いまだ救われていない者は救っていこう。いまだ理解していない者には理解させよう。いまだ安穏でない者は安穏にしていこう。いまだ涅槃を得ていない者には涅槃を得させていこう」
 さらに、「私は、一切知者(一切を知る者)・一切見者(一切を見通す者)・知道者(道を知る者)・開道者(道を開く者)・説道者(道を説く者)である」と述べます。
 続いて釈尊は、大衆を前に「皆、法を聞くために集まりなさい」と、呼び掛けます。
 
●シーン4
 仏は、機根や、修行に取り組む姿勢などを分別して、衆生に応じて法を説くのです。
 その法を聞き終わった衆生は、「現世安穏、後生善処」の功徳を得ます。
 つまり衆生は、それぞれの能力に応じて、仏の説く法を理解し、成仏の軌道(きどう)に入ることができます。
 それは、大きな雲が現れて雨を降らし、さまざまな草木を潤(うるお)し、それぞれが特性に応じて成長するようなものです。
 仏の説く教えは、一相一味(いかなる衆生も成仏させる功徳があること。一仏乗を表す)ですが、相手に応じて法を説き、最後には一切種智(仏の境地)に至らせます。
 衆生は、法を聞き、受持し、読誦し、説の如く修行して得た功徳を、自ら知ることはできません。それは、さまざまな草木が、自らの形や性質を知らないようなものです。
 同じように、仏が衆生の機根(きこん)などに応じて法を説くことは、理解しがたいことですが、迦葉たちがそれを信じ、受持できたことは、まことに希有なことです。
 最後に、「汝等(なんだち)が行ずる所は是(こ)れ菩薩の道なり漸漸(ぜんぜん)に修学して悉(ことごと)く当(まさ)に成仏すべし」と、理解することではなく、自他共の幸福を実現する菩薩の道によって、仏に成ることができると記されています。
 
大要(授記品)
 四大声聞に、授記(未来に仏になれるとの記別を授ける)する様子が描かれています。
 ●シーン1
 釈尊が大衆に告げます。
 「我が弟子の迦葉は、未来世において、三百万億の諸仏に仕え、最後は仏になることができる」
 そして、「仏としての名は『光明如来』。出現する国は『光徳』。時代は『大荘厳(だいしょうごん)』である……」と、光明如来が住する国土や衆生の様子が描かれていきます。
 そして、その国では、「魔や魔民がいても、皆、仏法を護るのである」と記されます。
 
●シーン2
 迦葉への授記を見ていた目犍連(もっけんれん)・須菩提(しゅぼだい)・迦旃延(かせんねん)たちは、一心に合掌して、眼を離すことなく、釈尊を仰ぎ見ながら語ります。
 「私たちを哀れだと思って、記別を授けてください」
 そして、目犍連たちは、譬えによって、自分たちが覚りを求める思いを伝えます。
 ――授記を望む心は、飢えた国からやって来て、最高級の食事である「大王の膳」が目の前にあっても、疑って食べられないようなものです。王の許しがあれば安心して食べられるように、「声聞も成仏できる」という一仏乗の教えを聞いて納得したけれども、仏から明確な授記をしてもらえなければ、真の安心は得られません――と。
 
●シーン3
 釈尊は、弟子たちの求道心を認め、授記を行います。
 須菩提は、「有宝(うほう)」という時代に「宝生(ほうしょう)」という国で「名相如来(みょうそうにょらい)」という仏になる。迦旃延は、「閻浮那提金光如来(えんぶなだいこんこうにょらい)」という仏になる。目犍連は、「喜満(きまん)」という時代に「意楽(いらく)」という国で「多摩羅跋栴檀香如来(たまらばっせんだんこう)」という仏になる――。
 偈文(げもん)の末尾で「我及び汝等が 宿世の因縁 吾(われ)は今当に説くべし 汝等よ善く聴け」と、仏である私との過去世からの因縁を説くから、善く聴きなさいと述べます。
 
『法華経の智慧』から 
絶えず仏界を強めていく
 状況も違う、個性も違う、機根も違う具体的な一人一人を、どうすれば成仏させることができるか。個々の人間という「現実」から一歩も離れずに、成仏への道筋を明かすのが法華経です。
 “一人を大切に”こそ、法華経の「人間主義」であり、「ヒューマニズム」なのです。それが「仏の心」です。“一切衆生の成仏”という法華経の根本目的も、“一人を大切に”から出発し、そこを徹底させる以外にないのです。
                      ◇ 
 端的に言えば、成仏とは、一つの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。
 法華経の迹門では、まだ歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)の成仏観から出ていません。それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。仏が歩んだ「生命の軌道」「絶対的幸福へのレール」に確かに乗ったよ、と保証するのが授記です。
 「色相荘厳の仏に成る」という爾前迹門(にぜんしゃくもん)の成仏ではない。仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。(普及版〈上〉「薬草喩品」「授記品」)
 
一人を大切に 
分け隔てない仏の慈悲
 「薬草喩品(やくそうゆほん)」に出てくる有名な「三草二木の譬え」は、衆生の多様性と同時に、仏の慈悲の平等性が強調されています。
 仏は、一切衆生を仏子として、自身と同じ仏の境涯に高めようとしています。
 同品には、「我は一切を観ること 普(あまね)く皆平等にして 彼此(ひし) 愛憎(あいぞう)の心有ること無し 我に貪著(とんじゃく)無く 亦(また)限礙(げんげ)無し 恒(つね)に一切の為に 平等に法を説く 一人(いちにん)の為にするが如 衆多も亦(また)然(しか)なり」(法華経250ページ)と記されています。
 いかなる人に対しても差別する心なく平等に、多くの人がいても、目の前の“一人”のために法を説くのです。
 ここで大事なことは、“衆生に差異がない”のではありません。“仏が衆生を差別しない”のです。仏法は多様性を尊重しているのです。
 違いを最大に生かし、どこまでも一人一人の個性を伸ばしていくのが仏の慈悲なのです。​


(2019年8月20日   聖教新聞)







Last updated  2019/08/20 09:00:06 PM
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2019/08/04
カテゴリ:教学

〈紙上セミナー 生活に生きる仏教〉
​今いる場所を最高の環境に 
​

土地改良を重ねて作物の生産性高める 地元農協などでも入賞 
畑作農家 長瀬直道(ながせなおみち)


 地平線のかなたまで、見渡す限りの広大な畑や牧草地――北海道の真ん中よりやや南あたり、十勝平野に広がる士幌町(しほろちょう)は、農業や酪農がとても盛んな地域です。大雪山系の雄大な山々を望み、町の中央部を音更川(おとふけがわ)が流れています。


 1906年(明治39年)、曽祖父母と祖父母が岐阜県からこの地に開拓農家として入植して以来、わが家は代々、農業を営んできました。現在は、後継者のおいが継いだ「株式会社ナガセ」で会長を務め、小麦やジャガイモ、ビート(テンサイ)、豆類、スイートコーンなどを栽培しています。


 畑作は「輪作」といって、同じ耕地に、いくつかの種類の作物を一定の順序で、栽培の間隔を空けながら作付けしていきます。作物によって4~5年の間隔を空けるものもあれば、小豆のように8年以上、空けるようにしているものもあります。そうすることで、作物に病気が出るなどの連作障害を回避しています。


 農場の広さは借地も含めて66ヘクタール、東京ドーム約14個分もあります。そのため、収穫の時期はパートさんたちにも手伝ってもらいます。ボランティアで手伝ってくれるご近所の方もいらっしゃいます。7月末から8月上旬にかけて小麦を収穫し、8月下旬からはスイートコーンとジャガイモの収穫が始まります。夏から秋にかけて、いよいよこれからが繁忙期です。


“土づくり”に汗を流して


 農業で最も大切なことは、何と言っても“土づくり”です。地道に土地改良を重ね、土に栄養を与え、10年、20年の歳月をかけて、肥沃な耕地にしていきます。


 いい土壌が出来上がっても、畑の地力を維持するためには、土の手入れが欠かせません。毎年、畜産農家から堆肥となる牛ふんを購入し、畑に散布しています。小麦の収穫後は、エンバクをすぐにまき、緑肥としてすき込んでいます。


 土が元気であればこそ、良質な作物が育ちます。


 私が営農する地域は音更川の流域に近いため、表土が薄く、畑を掘り返すと、すぐにあちこちから石が出てきます。そのため、除礫(じょれき)作業は欠かせません。


 行政による土地改良の補助事業もあって、除礫は相当進みました。それでも、表土の薄さは変わらないため、干ばつに見舞われると、表土の薄いところに栽培した作物が、しおれてしまうということがありました。


 そこで私は、よそから黒土(肥沃な土)を搬入する「客土」を、自費で何十年も続けています。これまで農場に入れた土の総量は、10トンダンプカーで1700台分は超すでしょうか。おかげで表土は深くなり、つらい石拾いの除礫作業からも、ずいぶん解放されました。


 数年前には、入手しにくい黒土に代わって、火山灰を農場に入れました。


 黒土に比べて地力はないので、その分、多めに堆肥を入れています。そのおかげか、作物の育ちがよくなり、品質のいいものを農協に出せるようになりました。


 日蓮大聖人は、「浄土(じょうど)と云ひ穢土(えど)と云うも土に二の隔(へだたり)なし只我等が心の善悪によると見えたり」(御書384ページ)と仰せです。浄土や穢土といっても、本来は別々のものではなく、そこに住む人間の心いかんで、最高の環境に変えていくことができると教えられています。
 私は、“この土地を、必ず理想の環境に変えてみせる”との思いで、土壌改良に汗してきました。今も耕作地の開拓は続けており、毎年、少しずつですが新しい畑が広がっています。


試行錯誤した栽培方法


 もちろん、高品質の農作物を食卓へ届けるための努力も惜しみません。


 特にじゃがいもは“畑のりんご”といわれるほど、デリケートで傷みやすい作物です。そのため、収穫する際には芋が傷つかないよう、細心の注意を払ってハーベスター(収穫機)を動かします。


 掘り起こされた芋を選別するのは、家族と社員、パートさんの仕事です。規格に合わない芋を手作業で入念に選別しています。


 そうした努力が実り、私の農場で採れた芋は、地元農協の共励会でたびたび表彰されており、食用と加工の総合部門で最高賞に輝いたことも何度かあります。


 また、おいと話し合って、砂糖の原料になるビートは、11年ほど前から、種を直接、畑にまくことで育苗の手間を省く「直播栽培」に切り替えました。手間とコストを削減できた半面、当初は生育にばらつきがあり、収穫量が減るなどの事態に直面しました。


 しかしその後、試行錯誤を繰り返す中、ビートを加工する際に出る副産物のライムケーキを畑の表面に散布して、ビートを播種すれば、畑のpH(水素イオン濃度)が安定して発芽も順調に進むことが分かりました。


 今では収量も増え、低コストで安定した生産ができるようになりました。2013年(平成25年)には、北海道てん菜協会から最優秀賞をいただくこともできました。


 こちらが一生懸命に手を掛けた分だけ、畑も作物も、しっかり応えてくれると実感します。


開拓者魂を胸に郷土貢献の道を


 私は農業に励む傍ら、創価大学の通信教育部で学び、足かけ10年で卒業できました。今も別の学部で学びの挑戦を続けています。かつては、なかなか子宝に恵まれずに悩んだこともありましたが、結婚13年目にして長女を授かることができ、その4年後には次女も生まれました。


 さまざまな困難を乗り越える原動力になったのは、人間の無限の可能性を説く日蓮仏法の信仰です。


 食生活の変化や気候変動、激しさを増す価格競争に後継者不足の問題など、農業を取り巻く状況は、依然、厳しいものがあります。それでも私は、この信仰を根本に、知恵を尽くし、開拓者魂を燃やして、難しい現実に挑む中で、農業一筋に進んでくることができました。


 大聖人は、生命というものが限りなく尊いことを述べられた白米一俵御書の中で、「食なければ・いのちたへぬ」(同1596ページ)と仰せになり、その生命を支える「食」が、どれだけ貴重なものであるかを強調されています。


 人々の食生活に直結する農漁光部の使命は、計り知れません。だからこそ、自分自身だけでなく、地域の皆さんが希望と張り合いを持って農業に従事できるよう、これからも郷土の繁栄を祈り、行動を重ねていく決意です。


【プロフィル】
ながせ・なおみち
 父の跡を継いで農業の道へ。これまで、士幌町農業協同組合の理事などを歴任してきた。68歳。1962年(昭和37年)入会。十勝県副県長。北海道副農漁光部長。


〈コラム〉

 社会に尽くす使命 
 日蓮大聖人の仏法は、人生や生活から、かけ離れたものではありません。


 御書には、「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」(1466ページ)とあります。
 

 仏法の智慧と慈悲の力で社会に貢献し、社会を正しく導いていく人こそが、真の“智者”であると教えられています。


 私たちの実践で言えば、家庭や職場、地域など、常に「今いる場所」で信心根本に努力し、良識ある振る舞いで信頼を広げていくことが、仏法者としての使命にほかなりません。


 特に農村や漁村など、地域で同業の仕事を営む人々が多い場所を舞台に、多くの農漁光部員が、郷土の繁栄を願い、信心根本に努力を重ねながら奮闘しています。そうした姿勢は、周囲に触発を与え、よりよき地域を築く礎となるでしょう。自身の幸福と地域社会の繁栄――その実現こそ創価学会の信仰の目的です。


(2019年8月3日 聖教新聞)







Last updated  2019/08/04 08:57:07 PM
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2019/07/30
カテゴリ:教学

​​ロータスラウンジ   法華経への旅
第7回 信解品第四   ​下
「信」の力で妙法の軌道に!
無限に向上していくのが「信解」の本義​


信解とは
 今回は、品(章)のタイトルにもなっている「信解(しんげ)」について学びます。ここでは、日蓮大聖人の「御義口伝」を拝しつつ、内容に迫ります。
 
(ぎょう)は解におよばず
 「信解」は、サンスクリット(梵語)で「アディムクティ」のことです。言葉の意味は本来、「…に対して心が向いていること」を表します。「志」を指すと言ってもいいでしょう。
 この「アディムクティ」を、鳩摩羅什(くまらじゅう)は「妙法蓮華経」で「信解品」と漢訳しました。
 竺法護(じくほうご)は「正法華経」で「信楽品(しんぎょうほん)」と翻訳しています。
 「信解」と「信楽」では、どういう違いがあるのでしょうか。
 大聖人は「御義口伝」で妙楽大師の『法華文句記』を引き、次のように仰せです。
 「正法華(しょうほっけ)には信楽品と名(なづ)く其(そ)の義通(ぎつう)ずと雖(いえど)も楽(ぎょう)は解(げ)に及ばず今は領解(りょうげ)を明かす何を以てか楽と云わんや」(御書725ページ)
 「楽は解におよばない」と明言され、「解」に「領解」の意義が込められていると教えられています。
 「解」には、単に「理解」「解る」といった表面的な意味だけではなく、仏の覚った智慧を体得することを表しているのです。
 法華経の真意をより深く解釈したのが「信解」であると言えます。
 
アディムクティ
 初めに「信」について考えてみましょう。
 「信解品第四」には、法華経28品の中にあって唯一、品(章)の題名に「信」の一字が入っています。
 サンスクリットで「信」に当たる言葉は、「アディムクティ」の他に「シュラッダー」「プラサーダ」などがあります。
 それぞれ、「信解(アディムクティ)」「信を起こす、もしくは信を置く(シュラッダー)」「浄信(プラサーダ)」という意味です。
 また、迷いがなくなり、心が清らかに澄み渡った状態が「プラサーダ」です。
 このように、法華経に記される「信」にも、さまざまな意味があるのです。
 法華経にとって「信」の一字は、覚りを得るための重要なカギを握っています。
 これまで「方便品第二」「譬喩品第三」で学んだように、智慧第一とうたわれる舎利弗(しゃりほつ)でさえも、仏の境涯を得るためには「信」が必要不可欠であると記されています。
 法華経の説法は、「信」を前提に進められているのです。
 池田先生はつづっています。
 「生命の宇宙を自在に遊戯する妙法という秘術は、凡夫の思議を超えている。だからこそ強い『信』の力によって、妙法の軌道に乗る以外にないのです。その『信』は盲目的なものではなく、文証・理証・現証に基づくものです」(『法華経の智慧』普及版〈上〉「信解品」)


生命を開くカギ
 大聖人は「御義口伝」で「信」について教えられています。
 「一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり」(御書725ページ)
 一念三千の法理が成仏の法門となるのも、三世の諸仏が成仏するのも、「信の一字」を起こしたからであると仰せです。
 さらに「此の信の字元品(がんぽん)の無明を切る利剣(りけん)なり其の故は信は無疑曰信(むぎわっしん)とて疑惑ぎわく)を断破(だんぱ)する利剣なり」(同ページ)と教えられています。
 成仏を閉ざす「元品の無明(生命の根本的な無知)」を断ち切ることができるのが「信」という剣なのです。
 無明を信で断破することで、「元品の法性」、つまり仏性を涌現(ゆげん)させることができるのです。
 さらに「三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり」「信は智慧の因にして名字即なり」(同ページ)とも仰せです。
 「信」は智慧の因であり、価値創造の源泉です。
 池田先生は「どこまでも可能性を開き、向上しようとする特性が、生命にはある。その特性を、最大に発揮させていくのが妙法であり、真の宗教です。そして生命を開き、智慧を開くカギが『信』の一字にある」(『法華経の智慧』普及版〈上〉「信解品」)と語っています。

極限まで理性的
 つづいて「解」です。
 「御義口伝」には、「解とは智慧の異名なり」(御書725ページ)と仰せです。
 池田先生は「信解の『解』とは、『智慧』のことです。理性そのものではないが、理性と合致し、理性がその一部であるような『智慧』です。極限まで理性的でありながら、同時に全人格的である『智慧』――それを『信』によって得るのが『信解』です」(『法華経の智慧』普及版〈上〉「信解品」)と語っています。
 簡潔に言えば「解」=「智慧」であり、その智慧は「信」によって得ることができるのです。
 
信と解は一体
 大聖人は、「御義口伝」で、さらに「信解」を深く拝しています。
 「信の外(ほか)に解無く解の外に信無し」(御書725ページ)
 信なくして解はない。同じように、解として現れない信もないのです。
 さらに大聖人は「信は不変真如(ふへんしんにょ)の理なり」「解は随縁真如(ずいえんしんにょ)なり自受用智(じじゅゆうち)を云うなり」(同ページ)と、信を「不変真如の理」に、解を「随縁真如の智」に配されています。
 妙法を信じることによって、仏の融通無碍(ゆうずうむげ)なる智慧(ちえ)を発揮していくことができるのです。
 池田先生はつづっています。
 「信と解は対立するものでないことはもちろん、信が解を支えるというだけの静止的なものでもない。本来、一体のものであるが、あえて分ければ、『信から解へ』、そして解によってさらに信を強める『解から信へ』――この双方向のダイナミックな繰り返しによって、無限に向上していくのが『信解』の本義と言えるでしょう」(『法華経の智慧』普及版〈上〉「信解品」)
 
『法華経の智慧』から 
本当の自分の確立
 仏は一切衆生の幸せを祈る。一切衆生の幸福を開くために闘う。一切衆生の親なのです。その仏の心を「信じれば」、自分自身の「智慧」が開けてくるのです。それが法華経における「信解」です。
                       ◇
 仏法の信は、本当の自分の確立です。そして、宇宙大の無限の地平が自分自身の生命に開かれていることに気づくことです。宇宙に対して生命を開き、宇宙につつまれている自分が、宇宙をつつみ返すのです。大宇宙と交流し、交響するのです。
                       ◇
 法華経が「信」を強調する理由を、生命の次元で言えば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち「元品の無明」を断ち、「元品の法性」すなわち“本来の自己自身を知る智慧”に目覚めることにある。この法性を“仏性”“仏界”と言ってもよいでしょう。
 ところが、これは生命の最も深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて“仏性”“仏界”は、自身の生命に顕現してくるのです。(普及版〈上〉「信解品」)
 
​​「無疑曰信」 
紛動されない確信を!
 「無疑曰信(むぎわっしん)」は、『法華文句』にある言葉で、「疑(うたが)い無きを信と曰(い)う」と読み下します。なにがあっても紛動されることなく、妙法を信じて疑わない信心のことです。
 疑わないと言うと、考える力を奪い、盲目的に信じることを強いるようなイメージを持つ人もいるでしょう。
 しかし、日蓮仏法は、そうではありません。
 大聖人は、「開目抄」で“なぜ難に遭うのか”との疑難(ぎなん)に対し、「此の疑は此の書の肝心(かんじん)・一期(いちご)の大事なれば処処(しょしょ)にこれをかく上(うえ)疑を強くして答(こたえ)をかまうべし」(御書203ページ)と仰せです。
 疑問を真正面から受け止め、文証・理証・現証の上から、末法の御本仏であるとの結論を示されました。
 疑いをむしろ、確信を深める契機(けいき)とされたのです。
 あらゆる疑念を破ることによって、信は更に深まり、疑い無き信となっていくのです。


(2019年7月30日   聖教新聞)​







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