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晴ればれとBlog

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生老病死を見つめて(完)

2018/10/20
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​​​生老病死を見つめて 〈完〉


学会員の「心の財」
― 連載を振り返って ―

 これまで「生老病死を見つめて」では、創価学会員が「生老病死」という四苦を乗り越えてつかんだ、信心の確信や仏法の哲理を紹介してきました。連載終了に当たり、同志の取材を通して、記者が感じたことや印象深いエピソードをつづります。

苦難に負けない自分をつくる
“この信心で間違いない”
 4歳の長女を白血病で亡くした東京の婦人は、取材で語っていました。
 「半ば覚悟していたこととはいえ、娘を亡くした悲しみは深く、つらかったです。娘が亡くなってから、同じ年頃の女の子を見れば心が乱れ、病院の近くを通るたびに涙があふれました」と。
 その婦人は悲しみを振り払うように、学会活動に励み、時間を見つけては題目を唱えましたが、「娘を思わない日は一日としてなかった」と語っています。
 娘の死を受け入れようと必死に生きる中で、ある時、娘のことを一度も思い出さずに一日を終えたことに気付きます。それは長女の死から、実に5年の歳月がたっていました。


 その後、自分と同じような境遇で悩む多くの同志に激励を重ねる中で、婦人は、こう訴えています。
 「試練や苦難に直面した時、『信心して、なぜこんな苦しい思いをしなくてはいけないのか』と思うものです。でも、その苦しみや悲しみを抱えながらもなお、真っすぐに御本尊に祈り続けていくと、必ずその意味が分かる時がきます。“ああ、そうだったのか”“この信心で間違いないんだ”と心から納得できた時こそ、信心で乗り越えた時なのです」
 紙面の掲載後、多くの読者から感動の声が寄せられました。ある壮年は、次のような感想をつづっていました。
 「記事を読み、滂沱の涙でした。『死を受け入れる』とは、こういうことを言うのかと厳粛な気持ちです。阪神・淡路大震災で被災して以来、身内の死で70歳になっても前に進めない自分を猛省。連載の紙面をあらためて最初から読み直し、全て信仰体験であることに感銘。必ず信心で乗り越えると誓いました」
 
亡き妻と共に広布にまい進
 一方、配偶者を亡くした悲しみを胸に秘めながら、奮闘する同志もいます。
 福岡の壮年は、63歳の妻を不慮の交通事故で亡くしました。「最高の同志であり、最大の理解者」だった妻を亡くした悲しみは深く、とても前を向ける状況ではなかったと言います。しかし、悲しみに押しつぶされないように、壮年は仕事と活動に没頭し、慣れない家事にも挑戦しました。
 壮年は語っていました。「同志と語り合っている時は、自分も勇気づけられ、心が晴れました。でも、自宅に戻ると妻のいない現実生活に引き戻されるのです。仏壇の前で、どれほど涙を流したか分かりません」と。
 そんな中で自身の支えとなった御聖訓が、「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし」(御書1360ページ)の一節でした。
 「御本尊にお任せして、わが身を広布にささげていくならば、必ず全てを乗り越えていける」――そう確信して御本尊に向かい、同志を励ますなかで自身を奮い立たせてきたと言います。妻の死から10年以上が経過した現在の心情を、壮年は次のように語ってくれました。
 「人の死を受け入れ、乗り越えるのは簡単ではありません。また、無理に乗り越えなくてもいいと思うのです。私自身、悲しみは時間とともに少しずつ癒えてきましたが、乗り越えたとは思っていません。でも、今では亡くなった妻が、常にどこかで見守ってくれているように感じています。『お父さん、頑張っているわね』と語り掛けてくる妻の存在を感じながら、広布の戦いに挑んでいます」
 その言葉に亡き妻の分まで広布に生き抜く、壮年の決意を感じました。
 
苦楽を分かち合う同志の存在
 取材を重ねる中で幾つか感じたことがあります。一つは、「生老病死」という人生の根源的な苦しみや試練に直面しても、決して負けない「学会員の心の強さ」です。
 そこには、御書や教学、池田先生の指導に裏打ちされた「信心の確信」がありました。その確信があったればこそ、自身や家族が病魔や死魔に襲われても、負けることなく戦い抜けるのだと思います。
 また、苦難に挑む人々の周囲には、必ず、苦楽を分かち合い、励ましを送る同志の存在がありました。「池田先生や同志の励ましがなければ、とても一人では乗り越えられなかった」と語る友も大勢いました。そう考えた時、学会と共に、同志と共に広布にまい進することが、いかに大切であるかを実感します。
 さらには、「変毒為薬」や「願兼於業」「宿命転換」といった言葉に代表されるように、学会員には、直面する苦難を捉え直して、自身の成長の糧にしていくという尊い信心の姿勢があります。この「宿命を使命に変える」という学会員の生き方は、多くの人々に希望を与えています。
 末期の大腸がんを患いながら生き抜いた大阪の男子部員は、取材の10カ月後、多くの方に惜しまれながら亡くなりました。しかし、病に負けず、最期まで広布に戦い抜いた彼の姿は、多くの同志の心に刻まれています。
 
日蓮仏法の明確な価値観
 超高齢社会が進む日本では今後、ますます、「いかに生きるか」という人生の哲学が求められていくことでしょう。また、「何のために」という目的観や、一人一人の幸福観がより問われてきます。
 日蓮大聖人の仏法では、明確な「幸福観」「価値観」が示されています。
 すなわち、「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(同1173ページ)とあるように、人生の幸・不幸を決める決定的な要因は、健康や地位、財産、名誉などではなく、「心の財」であると大聖人は強調されています。


 また池田先生は、次のように語られています。
 「外面的に、いかに幸せそうに見えても、本当に幸せかどうかは、分からない。物質的、環境的に、どれほど恵まれたとしても、幸福とは限らない。自分自身が、人間として成長する。境涯を高める。心を磨き、心を鍛える。それが、幸福の根本である。私たちは、『本物の幸福』を最高に味わえる、偉大な仏法を持っている。その誇りと確信を忘れてはいけない」
 試練や苦難をも「信心の糧」としていけるのが、この仏法です。
 何よりも「自他共の幸福」を目指す学会員の力強い生き方こそ、日蓮仏法の偉大さを証明しているのです。

 (2018年10月20日 聖教新聞)
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Last updated  2018/10/20 11:10:41 PM


2018/08/21
​​​〈生老病死を見つめて〉  負けない笑顔


心に刻む御聖訓

 日蓮其の身にあひあたリて大兵を・をこして二十余年なリ、日蓮一度もしりぞく心なし  (辦殿尼御前御書(べんどのあまごぜんごしょ)、御書1224ページ)


 連載「生老病死を見つめて」では、創価学会員が信心根本に生老病死という四苦を乗り越えてつかんだ、信心の確信と仏法の哲理を紹介する。今回は、障がいのある三男と共に人生を歩む婦人の体験を紹介する。

わが一念が変われば世界が変わる

自身の境涯を高める仏法

 御書には、「餓鬼(がき)は恒河(ごうが)を火と見る人は水と見る天人(てんにん)は甘露(かんろ)と見る水は一なれども果報(かほう)に随(したが)って別別(べつべつ)なり」(1025ページ) と仰せである。
 同じ恒河(ガンジス川)の水でも、餓鬼道の者には火と見え、人間には水、天人には甘露と見える。見る者の果報(=過去の業因によってもたらされた 現在の生命境涯)によって、全く見え方が異なってくる。
 池田先生はこの御文を拝して語っている。
 「同じ境遇(きょうぐう)でも、幸福を満喫(まんきつ)する人がいる。また耐(た)えがたい不幸(ふこう)を感じる人もいる。同じ国土(こくど)にいても、すばらしき天地としてわが地域をこよなく愛する人もいれば、現在の住処(じゅうしょ)を嫌(きら)い、他土(たど)ばかりに目を向ける人もいる。仏法は、その自身の境涯世界を高めながら、確かなる幸福と社会の繁栄(はんえい)を築(きず)いていくための”法”である」
 仏法では「一念」の変革の重要性を説く。自身の一念が変われば、自身を取り巻く環境も変わり、世界をも変えていける。
◇ ◆ ◇ 

  福岡大勝県婦人部長の錦戸協子(にしきどきょうこ)さん(52)が、三男・甲人(かぶと)さん (21)=男子部員=身ごもったことに気付いたのは1996年 (平成8年)のことだった。
  錦戸さんは学会2世として福岡県・柏屋町(かすやちょう)で生まれ育つ。未来部・女子部で活動に励み、91年に夫・広宣(ひろのぶ)さん(52)=副先駆長と結婚。ブロック担当員(当時)として充実した日々を送る中、第3子の妊娠が判明した。
 だが、当初から不正出血が続くなど、錦戸さんは”違和感” を感じていたという。
  妊娠8カ目に入った97年3月、錦戸さんは緊急入院に。感染症(かんせんしょう)を患(わずら)い、緊急出産となる。 幸い無事に出産したが、数日後、甲人さんに重度の障がいがあることが分かった。
「甲人は『脳室周囲白質軟化症(のうしつしゅういはくしつなんかしょう)』と診断されました。医師からは、『一生、寝たきりで首も据(す)わる分かりません』と告げられ、あまりのショックで、どうやって自宅に帰ったのか、全く覚えていません」
 当時、長男は4歳、次男は2歳。自宅にたどり着き、同居する母・馬場崎小浪さん(83)=支部副婦人部長=の顔を見た瞬間、錦戸さんは泣き崩(くず)れたという。事の重大さを感じた母親は、その夜、錦戸さん夫妻を連れて学会の幹部に指導を受けた。

信心で「病魔」を打ち破る

 錦戸さん振り返る。 「私はずっと泣き続けていて、甲人の病状は夫が説明しました。話を聞いていた幹部の方は、しばらくして、私に優しく語り掛けました。『お母さん、病気は決して怖(こわ)いことじゃないよ。怖いのは病魔(びょうま)に負けることなんだ。信心で、必ず病魔を打ち破ることができるから、大丈夫(だいじょうぶ)だよ』と。その確信の声にハッとし、ようやく現実を受け止めることができました」
 錦戸さんはその日から、時間を見つけては御本尊の前に座り、真剣な唱題に挑戦した。
 甲人の病(やまい)を知った地域の同志が、たくさん激励(げきれい)に駆(か)け付けてくれました。一緒に唱題してくれたり、千羽鶴を折って持ってきてくれたり……。足の悪い多宝会の婦人が、手作りの『よもぎ餅』を持ってきてくれたこともありました。同志の真心に触れて、”自分は一人じゃない”  ”学会員で良かった”と、心の底から思いました」


  甲人さんは1770グラムの低出生体重児だったこともあり、しばらく入院生活を送る。その後、退院したが15種類の薬の服用と、毎週の通院が義務づけられた。
 甲人さんは体温調節がうまくいかず、常に微熱(びねつ)が続いた。また、呼吸器疾患(こきゅうきしっかん)のため、3時間ごとのたんの吸引が錦戸さんの日課となった。さらに肺高血圧症による心臓肥大(しんぞうひだい)から、甲人さんは心不全(しんふぜん)を起こし、新生児集中治療室 (NICU)に運び込まれることが何度もあったという。

 錦戸さんは語る。
「唱題を重ねていても、地獄のような苦しみを感じる時がありました。病に苦しむわが子を見た瞬間、現実に引き戻されるのです。『頑張らなきゃいけない。でも苦しい。つらい……』という感情が交差する毎日でした」
 錦戸さんの唱題が100万遍に達したのは、甲人さんの誕生から2力月が過ぎようとする頃だった。97年5月3日の朝、聖教新聞を手にした錦戸さんの目は、池田先生の和歌にくぎ付けとなった。
「そこには『創価学会母の日』を記念して、『五月晴れ/ 母の笑顔がある限り/天上天下は/楽土と変わらむ』との和歌が掲載されていました。
 この直前に、池田先生に決意の手紙をつづっていたので、和歌は自分自身への返事のように思えました。和歌を何度も読み返し、"私も、何があっても負けない笑顔で、家族を包んでいける母親になろう!”もっと 自分が強くなろう!”と決意しました。それまでは、”なぜ、わが子が病気に”という恨(うら)みや愚痴(ぐち)の題目でした。でも、この日から”自分が変わろう”という決意の祈りになったのです」

「心一つで決まる」と確信
 甲人さんと二人三脚の日々を送る錦戸さんが、心の支えとしていた御文がある。
 それは、「日蓮はその身に当たって、仏の大軍を起こし、大闘争を開始して二十余年になる。その間、一度も退(しりぞ)くはない」(御書1224ページ、通解)との一節だった。
 あらゆる障魔(しょうま)に打ち勝つとの決意で、錦戸さんは学会活動にも全力で取り組んだ。広布の最前線で奮闘(ふんとう)する中、3世帯の弘教も実らせる。やがて唱題が200万遍を超えて、300万遍に達した頃から、錦戸さんは "大事なのは環境ではなく、自分の心一つだ”と思うようになった。


 甲人さんも、2人の兄の姿(すが)に触発(しょくはつ)されるようにたくましく育ち、座位(ざい)を保(たも)てるようになってからは、車いすに乗って外出もできるようになった。
 当初、甲人さんは「5歳の誕生日を迎えられるかどうかも分からない」と言われていた。だが、甲人さんは予想を覆(くつがえ)して元気に成長し、服用(ふくよう)していた薬も徐々に減(へ)っていく。

 5歳になった頃には薬の服用は一切なくなり、体温調節もうまくいくように。通院も年1回でよくなった。
 錦戸さんは、確かな信心の実証を胸に、さらに信心根本に前進した。
 その後も、決して平たんな道筋ばかりではなかったが、朗らかに乗り越えてきた。甲人さんは昨年、晴れて成人式を迎えた。現在は地域の作業所に通いながら、はつらつとした日々を送っている。

 錦戸さんは語る。
「甲人の病で苦しんでいた頃からは想像もできないほど、今は笑いの絶えない日々を送っています。これも池田先生をはじめ、多くの同志が支えてくださったからです。学会と共に、同志と共に進む中で、最高の人生を歩むことができる — この確信を同志に伝え、広布にまい進していさます!」


取材メモ
 錦戸さんはある時期まで、甲人さんの ”病の完治”や”障がいの克服”を祈っていたという。だが、幾多(いくた)の試練(しれん)を乗り越え、目標としていた、甲人さんの5歳の誕生日を迎えた頃から、錦戸さんの祈りに変化が表れた。
「”甲人は甲人らしく、ありのままの姿で成長してほしい”、という気持ちが強くなっていきました。今も全介護であることに、変わりはありません。ただ、甲人と一緒に過ごす中で、”障がいの有無で、人生の幸・不幸は決まらない”、と気付(きづ)いたのです。何より、自分の心次第(こころしだい)で、あらゆる環境を変えていけるという確信を持つことができました」
 私たちは信心を実践していても、苦難や試練に直面することがある。だが、信心根本に自身の人間革命に挑み、困難に立ち向かっていくならば、必ずそこに意味を見いだし、乗り越えていくことができる — 。その確信をつかんだ錦戸さんの言葉はひときわ力強く、”負けない笑顔”、が輝いていた。(秀)

(2018年8月21日 聖教新聞)
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Last updated  2018/08/25 10:46:04 PM
2018/06/16

​​​〈生老病死を見つめて〉 
苦難を恐れず  信心で乗り越えられない宿命はない

 連載「生老病死を見つめて」では、創価学会員が信心根本に、生老病死という「四苦」を乗り越えてつかんだ信仰の確信と仏法の哲理を紹介する。今回は、亡き娘と共に歩んだ、大阪の婦人のドラマを取り上げる。

心に刻む御聖訓
 ​​​​必ず三障四魔(さんしょうしま)と申す障(さわり)いできたれば賢者(けんじゃ)はよろこび愚者(ぐしゃ)は退(しりぞ)く

(兵衛志殿御返事(ひょうえのさんかんどのごへんじ)、御書1091ページ)

「一生、寝たきり」との宣告
 池田先生は、連載中の小説『新・人間革命』「誓願」の章で、つづっている。
 「人生は、宿命との容赦(ようしゃ)なき闘争(とうそう)といえる」「これでもか、これでもかというほど、怒濤(どとう)のごとく、苦難は襲(おそ)いかかってくる。だからこそ、信心なのだ。自らを強くするのだ。信心で乗り越えられぬ宿命など、断じてない」と。
 広布に戦い抜く中で試練に直面した時に、自身の信心が試(ため)される。大阪・泉州総県総合婦人部長の浜中弥生(はまなかやよい)さん(58)に宿命の嵐が吹き荒れたのは、31歳の時だった。
                   ◆ ◇ ◆ 
 学会2世の浜中さんは、信心強盛な両親のもと、大阪・泉州(せんしゅう)の地で生まれ育った。
 浜中さんが18歳の時、泉州文化会館が落成。1978年(昭和53年)11月12日、同会館で行われた「女子部の日」を祝う泉州の女子部総会で、浜中さんは池田先生と初めての出会いを刻む。
 その後、女子部本部長や圏女子部長等を務めた浜中さんは、90年に夫・勝利さん(58)=圏長=と結婚。翌年8月12日に、長女・友子さんが誕生した。
 ところが生後2日目に、友子さんは、けいれん発作を起こす。詳しく調べると、脳に腫瘍(しよう)が見つかり、友子さんは大きな病院へ転院。生後2週間で手術を行ったが、脳には障がいが残った。
 医師からは、「左半身まひの状態で、一生、寝たきりでしょう」と告げられた。
 悲嘆(ひたん)に暮れる浜中さんへ追い打ちをかけるように、同年9月、浜中さんの弟が交通事故に巻き込まれ、亡くなってしまう。
 度重(たびかさ)なる試練(しれん)に直面し、浜中さんは、大きな衝撃(しょうげき)を受けた。
 「突然の出来事に心がついていかず、“私ほど不幸な人間はいない”と激しく落ち込みました。でも、同志の励ましを受けて必死に祈る中で、女子部時代から何度も拝してきた、『必ず三障四魔という障害が現れるので、賢者は喜び、愚者は退くのである』(御書1091ページ、通解)との御聖訓を思い出したのです。
 “絶対に障魔(しょうま)に負(ま)けちゃいけない。これは自身の宿命なんだ”と捉え、必死に前を向こうとしました」

「願兼於業」の法理を胸に
 浜中さんは友子さんのリハビリのため、療育園や母子医療センターに通いながら、1歳違いの次女・陽子さん=東京・小平栄光区、女子部部長=を育てた。さらに、学会の庭では、地区婦人部長として、同志の激励にも奔走する。
 友子さんは頻繁(ひんぱん)に、けいれん発作を起こしたが、寝返りを打てるようになり、元気に成長していく。
 友子さんを育(そだ)てる中で、浜中さんの脳裏(のうり)には「願兼於業(げんけんおごう)(=願、業を兼ぬ)」という言葉が何度も思い浮かんだという。
 願兼於業(げんけんおごう)とは、修行によって偉大な福徳を積んだ菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、わざわざ願って、自(みずか)ら清浄(せいじょう)な業(ごう)の報(むく)いを捨てて、悪世(あくせ)に生まれることである。


 「池田先生は、この『願兼於業』の法理を踏まえた生き方を、『宿命を使命に変える』と語られています。“友子には偉大な使命があるのだ”と確信し、“友子と共に使命の道を歩ませてください!”と祈りました。その中で、同じ病の子どもを持つお母さんたちと親しくなり、2人に御本尊流布することができました」
 一家は友子さんを中心に、笑顔の絶えない生活を送っていた。だが、友子さんの脳腫瘍は徐々に大きくなり、再び体をむしばんでいった。97年77月、友子さんは病院に運ばれる。
 「入院後、友子の意識は次第に薄れていき、3カ月後には寝たきり状態になりました。実は、生後間もなく手術を受けた際に、医師は『長期生存は不可能です』と告げていたそうです。しかし、私も夫も、病と向き合うことに精いっぱいで、覚えていませんでした」
 脳腫瘍の再発によって友子さんは植物状態となり、全く反応を示さなくなった。それでも浜中さん夫妻は希望を捨てず、友子さんの元に毎日通って話し掛けた。
 入院から8カ月が過ぎ、友子さんは病院で小学校入学を迎えた。

「病魔に勝利した」と確信
 浜中さんは言う。
 「寝たきりになった友子を見ながら、当時、よく想像していたことがあります。それは、友子が広い草原でコロコロ寝返りを打っている姿です。体は不自由だけれども、友子の境涯(きょうがい)は果てしなく広がっているに違いないと思っていました」
 病状は一進一退を繰り返し、小康状態(しょうこうじょうたい)が続いていた。だが、病院からの外泊許可が下りなくなり、浜中さんは病(やまい)の重篤(じゅうとく)さを、あらためて実感した。
 そして、友子さんの病が、これ以上は良くならないことを自覚した時、浜中さんの祈りにも変化が表れてきたという。
 「それまでは、“友子の病を治したい”と祈っていたのが、毎日の無事安穏を祈るように変わっていきました。今、友子が呼吸していることは、決して当たり前ではないと思い、“一日一日を充実したものにしよう”“友子と一緒に勝利しよう”と祈るようになったのです」


 99年2月22日、友子さんは、安らかに霊山へと旅立っていった。享年7歳だった。
 浜中さん夫妻の悲しみは言語に絶した。現実を受け止めることがつらく、苦しかった。
 そんな浜中さんを支えたのは、同志の存在だった。
 友子さんの葬儀には、多くの学会員が駆け付けてくれた。
 浜中さんはその時に、婦人部の先輩が語ってくれた言葉が忘れられないという。「友子ちゃんは1年を、10年分に生きたのよ。7歳半で亡くなったけど、75歳まで生きたのと同じよ」「友子ちゃんは病魔に勝ったのよ」――と。​


 浜中さんは語る。
 「“友子は、病(やまい)という宿命を使命に変えて生き抜き、勝利したんだ!”と心から確信できました。友子は自身の姿を通して、私たち家族に信心の偉大さを教えてくれたのだと思います。池田先生をはじめ、同志の励ましがなければ、友子の病や死を受け止め、乗り越えることはできませんでした。
 本年、発表から40周年となる関西の歌『常勝の空』の歌詞には、『いざや前進 恐れなく』とあります。苦難(くなん)を恐(おそ)れない勇気の信心で、さらに広布に生き抜いてまいります!」

取材メモ
 友子さんが亡くなってから、浜中さんは「一番苦しんでいる人、悩んでいる人の元へ行かせてください」と日々、祈り、学会活動に奔走した。だが、会合の時は明るく振る舞っても、ふとした瞬間に悲しみが込み上げ、涙が止まらなくなることが何度もあったという。
 それでも浜中さんは、自身の体験を同志に語り、励ましを送り続けることが自身の使命であり、同志への報恩(ほうおん)の道だと捉(とら)えて、この19年間を走り抜いてきた。
 この間、苦難に負けない浜中さんの姿をずっと見守ってきた幼なじみが、2015年に入会したという。
 取材を終えてしばらくしたある日、本紙に掲載された池田先生の指導が目に留まった。その指導を読んだ瞬間、浜中さんの体験と重なり、胸が熱くなった。
 「苦難に負けず、労苦(ろうく)を重(かさ)ねた分だけ、心は鍛(きた)えられ、強く、深くなり、どんな試練をも乗り越えていける力が培(やしな)われていく。さらに、人の苦しみ、悲しみがわかり、悩める人と共感、同苦し、心から励ましていくことができる、大きな境涯(きょうがい)の自分になれる。(中略)広宣流布に生き抜く時、宿命は、そのまま自身の尊き使命となり、苦悩は心の財宝(ざいほう)となるのだ」(秀)

(2018年6月16日 聖教新聞)






Last updated  2018/06/16 06:00:06 PM
2018/05/15

生老病死を見つめて 「抜苦与楽」の実践 ​

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生きる力を引き出す医師に

  今回の「生老病死を見つめて」では、医師として、長年にわたりハンセン病医療に携(たずさ)わってきた壮年の体験を通して、「抜苦与楽(ばっくよらく)」の実践について考えたい。

​心に刻む御聖訓
 ​​​​​​一切衆生(いっさいしゅじょう)の異(い)の苦(く)を受(う)くるは悉(ことどと)く是(こ)れ日蓮一人の苦なるべし​​​​​​(御義口伝、御書758ページ)

「絶対に治らない病」との偏見(へんけん)
 仏法では「抜苦与楽(ばっくよらく)」の実践が説かれている。抜苦与楽とは、“苦を取り除き、楽を与えること”であり、仏の崇高(すうこう)な慈悲の行為を指す。
 御書に、「一切衆生のさまざまな苦悩は、ことごとく日蓮一人の苦である」(758ページ、通解)と仰せのように、日蓮大聖人は苦しみにあえぐ全民衆を救うために一人立たれ、妙法を弘通された。あらゆる人々の苦悩に同苦し、力強い励ましを送るところに、日蓮仏法の魂(たましい)はある。
 池田先生は抜苦与楽について語っている。
 「“同苦”とは、単なる“同情”ではありません。苦しみを乗り越えるには、その人自身が生命の底力を湧き起こして、自ら強く立ち上がる以外ない」「大聖人は、門下が仏の力を奮い起こして、断じて幸福を勝ち取るよう、厳愛をもって励まされたのです」
 この指導のままに、40年以上にわたりハンセン病医療と啓発活動に取り組んできたのが長尾榮治(ながおえいじ)さん(74)=香川池田正義県総合長、四国副ドクター部長=である。
                           ◇  ◆  ◇ 
 ハンセン病は、らい菌が体内に侵入して発病する慢性の感染症で、末梢神経(まっしょうしんけい)や皮膚(ひふ)などが侵されていく。らい菌の感染力は弱いが、かつては遺伝するかのように誤解(ごかい)されてきた。さらに、有効な治療薬がなかったために、絶対に治らない病気と恐れられた。
 「多くの患者さんが差別され、忌(い)み嫌(きら)われて、不当な苦しみを味わわされてきたハンセン病の歴史があるのです」と、長尾さんは語る。
 長尾さんの入会は1962年(昭和37年)、18歳の時。先に入会していた両親は、高松市内で班長・班担当員(当時)として広布に奔走(ほんそう)していた。班にはハンセン病の国立療養所である「大島青松園(おおしませいしょうえん)」に暮らす人々がいて、両親は激励のため、頻繁(ひんぱん)に同園に足を運んでいたという。
 長尾さんも入会後、両親と共に青松園の座談会に参加。次第に、ハンセン病に関心を持つようになる。
 大学の医学部を卒業後、高知や愛媛での病院勤務を経て、75年、大島青松園に赴任した。
 長尾さんは当時を振り返る。
 「青松園に赴任した当時は、すでに『プロミン』などの有効な治療薬が使用されていて、世界的にハンセン病は治癒可能な病となっていました。日本では、『らい予防法』が施行され、福祉の増進にも力を注ぐことが定められました。しかし、依然として患者さんたちは隔離(かくり)をされた状態が続けられていました。ハンセン病への偏見(へんけん)が根深く浸透(しんとう)していたのです」

自分に何ができるかを問う
 青松園に赴任して入所者と向き合っていく中で、長尾さんはあることに気付いた。
 それは、多くの人が、病状の治まった“元患者”であるということだ。
 しかし、後遺症等によって視力が低下したり、手足が不自由になったりするなど、身体に障がいが残っていて、社会での自立が困難になっている人が多かった。
 「入所者の多くは、“ハンセン病は感染力が強く、治らない”“血筋が悪い”とされていた頃に発症しています。治療より隔離に重点が置かれていた時代に人生の大半を過ごし、結果的に治療薬の恩恵を受けた時期も遅く、後遺症や合併症に対する十分な治療も行われなかったのです」
 加えて社会には、隔離政策によって、かえって強い恐怖感が広く植え付けられることになり、治癒した後でも、不信と排除は続いていた。
 そうした現実とどのように向き合うべきか、長尾さんは悩み続けたという。
 長尾さんは語る。
 「入所者の多くは、家族や親族との関係を断たれたままで、療養所の中で人生を終えていくしかないという絶望感や諦めの心に覆われていました。当初、そうした方に対して私が言えたのは、『皆さんの死に水を取らせてください』ということだけでした。
 医師として『同苦』はできても、どうすることが『与楽』になるのか分からずに悩みました。ハンセン病医療に取り組むことは、『自分に何ができるか』を、問い続ける戦いでもあったのです」

「精神的な束縛」を解き放つ
 長尾さんは次第に、治療に必要なことは“病自体の治癒(ちゆ)を図(はか)る”だけではないとの思いを強くしていった。
 本当に大切なのは、“患者が精神的な束縛(そくばく)から解き放たれ、心身共に社会の中で生き抜く力を取り戻すこと”であり、これこそが“抜苦与楽による病の克服なのだ”と考えるようになっていったのだ。
 また、そのためには社会的な接点とつながりを模索(もさく)し、ハンセン病への正しい知識を普及させるとともに、元患者自身が生きがいある人生を確立していくことが重要だとも思うようになったという。
 「実際、全国の療養所の学会員の元に、壮年部や婦人部の同志が足しげく激励に通っていました。座談会も活発に行われ、その励ましに奮い立って、親族との交流に何十年ぶりかに挑戦する人も出てきました」
 長尾さんは、沖縄の療養所をはじめ、タイやミャンマーなどにも赴任。特に沖縄では、地域医療にも参加し、入所者の外部病院への受診を可能にしたり、療養所を一般医療に開放したりするなど、入所者と一緒に地域との交流を促進しながら、啓発活動や入所者の社会復帰に取り組んできた。

 この間、日本では96年に「らい予防法」等が廃止され、隔離政策などがようやく改められた。その後、98年7月には、元患者らが「国のハンセン病政策は、基本的人権を侵害するもの」として、国家賠償(ばいしょう)を求めて、熊本地裁に提訴。2001年5月、地裁は国に対して賠償を命じ、原告側の勝訴となった。さらに政府が控訴を断念し、翌月からハンセン病の療養所入所者等への補償法が公布された。

 長尾さんは、こうしたハンセン病患者の戦いにも関わってきた。その中で、仏法の「生命尊厳」「万人尊敬」の精神に照らして、あらためて感じたことがある。
 それは、どんな状況にあっても、「人間として生きる希望を失ってはいけない」ということであり、「よりよく生きるためには、人生の苦難と戦わなければいけない」という点である。
 日蓮仏法では、人間にはあらゆる苦難を乗り越える力が本来、具(そな)わっていると説く。だからこそ長尾さんは、「一番苦しんだ人が、必ず幸せになる」との信念で、医師として患者の生きる力を引き出すための励ましを送り続けてきた。
 長尾さんは語る。
 「かつて池田先生はドクター部に対して、医療の技術だけをもつ『病気の医師』でなく、人間の生命を最も輝かせる生き方を示す『人間の医師』であってほしいと語られました。『人間の医師』とは、相手に同苦するとともに、希望を送り、生きる力を引き出す医師だと思います。この『人間の医師』こそ『抜苦与楽』の実践者だと肝に銘じ、さらに成長していきます!」

取材メモ
 長尾さんが、心に刻(きざ)んできた御聖訓がある。
 「若(も)し爾(しか)らずんば五体を地に投げ徧身(へんしん)に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝(ちんぽう)を以(もっ)て仏前に積め若し爾らずんば奴婢(ぬび)と為(な)って持者(じしゃ)に奉(つか)えよ」(御書537ページ)
 ――信心は観念ではなく、五体を大地にたたきつけるような思いで仏道修行に取り組み、汗を流しての実践に生きる中に、その真髄(しんずい)がある――。長尾さんはこの御文を身読しようと、33歳で庵治(現・高松市内)の総ブロック長(当時)に就任して以来、一貫して仕事と活動の両立に挑戦。一人の悩みに寄り添うことに徹し、真心の励ましを送り続けてきた。
 この間、家族の病気や経済的な悩み、そして医療訴訟といった試練にも直面したが、妻・早苗さん(73)=県婦人部主事=の支えもあり、信心根本に全てを乗り越えてくることができた。​​


 尽きせぬ感謝を胸に、長尾さんは11年前から精神科医師として高松市内の病院に勤務し、心の病に苦しむ人々の治療に取り組んでいる。
 「心の病を持つ患者さんの中には、ハンセン病同様に、偏見と差別に苦しんでいる人もいます。その人たちのために少しでも力になりたいと思い、自身の専門とは全く畑違いの分野ですが、63歳から挑戦中です」
 そう笑顔で語る長尾さんの姿からは、医師として、また、信仰者としての「慈悲」と「同苦」の心を強く感じた。(秀)

(2018年5月15日 聖教新聞)






Last updated  2018/05/15 12:10:09 PM
2018/03/18
​〈生老病死を見つめて〉介護と向き合う

夫婦で一緒に―― 
「自身」が変われば「世界」が変わる

 「介護と向き合う」の第4回は、夫を介護し、みとった婦人の体験を紹介する。介護に取り組む中で、あらためて心に刻んだ「信心の確信」とは――。

心に刻む御聖訓
 浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり(一生成仏抄、御書384ページ)

仏法は「現実変革の宗教」
 日蓮大聖人は御書で、「浄土(仏の住む清浄な国土)といい、穢土(汚れた国土)といっても、土に二つの隔てがあるわけではない。ただ、われらの心の善悪によると説かれているのである」(384ページ、通解)と仰せである。
 大聖人は、私たち自身の一念によって、苦しみに満ちた「娑婆世界(現実世界)」を理想的な「寂光土(浄土)」に変えていけることを教えられている。
 大聖人の仏法とは、「現実変革の宗教」である。どこまでも自分自身が変わることで、環境を変えていくことができる――。この確信のままに、日々、励ましの輪を広げている久保田志津子さん(73)=神奈川・相模太陽区、婦人部副本部長=の原点は、およそ9年間にわたる夫の介護生活だった。
                                            ◆ ◇ ◆ 
 久保田さんは13歳の時に、故郷の青森で家族と一緒に入会。26歳で夫・定志さんと結婚するまで、女子部として広布に走り抜いた。
 結婚を機に上京し、やがて神奈川県相模原市で生活を始める。1男1女に恵まれ、婦人部として学会活動に励む中、結婚19年目には定志さんが入会。夫は、真面目に勤行・唱題を実践していった。
 定志さんが脳梗塞で倒れたのは、久保田さんが支部婦人部長を務めていた2005年(平成17年)10月のことだった。
 定志さんは仕事を定年退職していたが、自宅を改築したばかりの時だった。
 「5カ月の入院生活の後、夫の強い希望もあって在宅介護となりました。正直なところ、何から手を付けていけばよいのか分からず、不安と苦しさでいっぱいでした」
 定志さんは、手足がまひして動かすことができなかったが、意識ははっきりしていた。在宅介護が始まった当初、定志さんは思うに任せぬいら立ちから、久保田さんに強く当たることもあったという。久保田さんは振り返る。
 「『こんなことなら殺せ、殺せ』と当たり散らす夫に、私も売り言葉に買い言葉で、『じゃあ死ねばいいじゃない!』と言い放ったこともあります。でも後になって、“なぜ、あんなきつい言葉を言ってしまったんだろう”と反省し、落ち込みました」

“将来の不安に負けない!”
 在宅介護による、日々の負担は大きかった。夫の入浴や、ベッドから車いすへの移動などは特に重労働で、子どもたちの協力も欠かせなかった。
 久保田さん自身、子どもたちの前では明るく振る舞うように努めていたが、夜、風呂の中で一人きりになると、人知れず何度も涙を流したという。
 「苦しくて、苦しくて、真っ暗な道をあてどなく歩いているような感じでした。どうしたらいいのだろうかと、真剣に唱題し、池田先生の指導をむさぼるように読みました」
 その中で久保田さんは、あることを思い出したという。それは、女子部時代に夏季講習会に参加した折、池田先生と一緒に「人生の並木路」を歌い、“生涯、師匠と広布に生き抜こう”と誓ったことだった。
 「女子部時代から折伏や学会活動に挑戦する中で、この信心でしか宿命転換はできないと実感してきました。在宅介護が始まって5カ月が過ぎた時、あらためて一家の宿命転換を懸けて、折伏に挑戦しました。友人との対話には夫にも同席してもらい、結果的に2人に弘教を実らせることができたのです。この挑戦を通して、“将来の不安に負けない自分になれる!”という確信を、持つことができました」
 久保田さんの気持ちの変化とともに、定志さんも落ち着きを取り戻していった。
 9年近くの在宅介護の中、定志さんは7回の入退院を繰り返したが、久保田さんは、そうした変化にも落ち込まなくなっていったという。
 毎回、自宅で行われる座談会に、定志さんは車いすで参加。本部幹部会の中継行事にも欠かさず参加し、可能な限り、夫婦で一緒に勤行を実践した。

9年間で4人の友人に弘教
 介護を続ける中、久保田さんは、家族の介護に携わる友人の声を聞く機会も増えていった。
 だが、その多くは「私は介護の犠牲になった」「夫の介護で人生はめちゃくちゃよ」「もう介護はやりたくない!」といった、“マイナスの声”ばかりだったという。
 「そうした声を聞いていたからこそ、私自身、“介護で犠牲になったという生き方はしないぞ!”と、強く思うようになりました。特に意識したのは、『介護を終えた後の生活』でした。介護が何年続くかは分かりませんでしたが、介護後も自分の人生は続きます。そう考えた時に、地域の中で自分の経験を生かす場所が必要だと思うようになり、町内会の活動などにも積極的に参加するようになったのです」

 久保田さんは、夫の介護に献身的に取り組む一方、自身の使命に生き抜くことも決して忘れなかった。介護で悩む同志や、地域の友人などの相談に乗り、心から励ましを送り続けた。
 2013年に入ると、定志さんは口から食事を取ることが難しくなり、経管での栄養摂取に。久保田さんは、それまで以上に付きっきりの介護となった。
 そんな中、14年4月末、久保田さん夫妻が長年、信心を勧めてきた友人が入会を決意。久保田さんがそのことを定志さんに報告すると、心から喜んでくれたという。そして、全て見届けて安心したかのように、定志さんは、その日の夜、安らかに霊山へと旅立っていった。享年71歳だった。
 「9年近くに及ぶ介護の中で、夫と一緒に4人の友を入会に導くことができました。介護を通して実感するのは、自分次第で、いかなる環境も前向きに変えていけるということです。信心根本に進んでいくならば、どんな苦しみや困難も、自分自身を成長させる糧に変わります。現実の苦難を乗り越えていけるのが、この信心なのです!」

取材メモ
 以前に本紙で、「わが家流でいい! ほがらか介護」を連載していたカウンセラー・エッセイストの羽成幸子さんは、介護を楽しむためのポイントとして「介護を人生の目的にしない」ことを挙げていた。
 久保田さん自身、夫の介護中に羽成さんのコラムを読み、何度も励まされたという。また、介護に取り組む中で“自身の使命”を見詰め直し、「介護後の人生」までも意識するようになったという。
 夫の介護を終えた久保田さんは今、これまで以上に学会活動と地域貢献に奔走している。友の相談に乗ることも多く、その際は、相手の悩みを最後まで聞いて寄り添った上で、「『絶対に大丈夫』という安心感を与えること」を心掛けているという。それは信心根本に乗り越えてきた久保田さん自身の実感であり、確信でもある。
 池田先生は語っている。
 「『自身』が変われば『世界』が変わる。『わが一念の変革』が、すべての変革の鍵なのです。これが『人間革命』です。そして、誰にでも、その変革の力が具わっている。この生命の真実に気づけば、いつでも、どこでも、どのような状況にあっても、その力を現実に開き顕していくことができます」(秀)
(2018年3月17日付 聖教新聞)






Last updated  2018/03/19 07:39:37 PM
2018/02/03

​​〈生老病死を見つめて〉 介護と向き合う


3   親が認知症に―― 
老いの苦しみと同苦する中に勝利が

 高齢者の認知症は年々、増加傾向にあり、2025年には65歳以上の高齢者の5人に1人(約700万人)が認知症になると見込まれている(平成28年版「高齢社会白書」)。私たちは認知症と、どのように向き合い、受け止めていくべきか――。「介護と向き合う」の第3回では、認知症の親と向き合った、2人の婦人の体験を紹介する。

心に刻む御聖訓
 蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり(崇峻天皇御書、御書1173ページ)

大聖人の富木尼への励まし
 日蓮大聖人は病と闘う富木尼に宛てたお手紙で、「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(御書986ページ)とつづられるなど、繰り返し「生命の尊さ」を教えられている。
 そして、「(あなたは)法華経にめぐりあわれたのですから、一日でも生きておられれば、(その分)功徳が積もります。ああ、何と大切な命でしょうか。大切な命でしょうか」(同ページ、通解)と富木尼に渾身の励ましを送られている。

 かつて池田先生は、この御文を拝して語られた。
 「命ある限り、自分は“宇宙の全財宝よりも素晴らしい財産をもっているんだ”と自覚していただきたい。そして、その財宝を限りなく輝かせていくのが妙法の信心の力なのです」と。
 南無妙法蓮華経の唱題行によって「万人成仏」の方途が示された日蓮仏法では、誰もが「仏の生命」を持った尊い存在と説く。
 その生命の尊さを自分にだけでなく、他者の中にも見いだしていくところに、仏法の偉大さはある。​

◆ ◇ ◆ 

 北海道・道東池田県で支部婦人部長を務める堀内恭子さん(64)は、14年前に母親を亡くした。その後、間もなく、同居していた父・偉世さん(86)に認知症による幻覚症状が表れるようになる。
 記憶障がいは少なかったものの、幻覚と妄想は年々強まり、父親は「自衛隊が演習をしている」と騒ぐこともしばしば。譲らない“頑固さ”が増し、一瞬で顔つきが変わるほど、キレることも多くなった。
 父親との衝突が絶えなくなり、堀内さんは悩む日々が続いた。真剣に唱題する中で堀内さんの心を変えたのは、「介護は親がする最後の子育て」という言葉に出合ったことだった。
 「それまでは、“なぜ自分がこんな目に……”という思いもありました。しかし、父は自身の姿を通して、何かを教えてくれているんだと考え直し、“ありのままの父を受け入れられる自分になっていこう”と腹が決まりました。私の気持ちが変わると、次第に父は穏やかさを取り戻し始めたのです」

父の枕元での「読み聞かせ」
 その後、偉世さんは体力が落ちて寝たきりになり、療養型の病院に入院。意思表示も少なくなってきた。
 そんな父親に対して堀内さんは、“自分にできることはないか?”と考え、本の読み聞かせを始めた。
 「父の枕元で本を読むと、その内容に時々、言葉を出して反応を示します。また、読み終わると『ありがとう』と、お礼を言ってくれます。そのやりとりが、自分自身の心の安らぎにもなっています」


 堀内さんは2016年(平成28年)6月に、くも膜下出血となり、8時間半に及ぶ大手術を受けた。幸い一命を取り留め、40日後には退院。現在は後遺症もなく、父親の介護を続けながら、日々、学会活動に奔走している。
 「今、こうして元気に介護ができるのも、全ては信心のおかげです。父は未入会ですが、人生の総仕上げの時期を迎え、自身の姿を通して『命』の尊さを教え、私に信心を深めさせる機会をくれたのだと感じています。父を見送る“その日”まで、自分にできる親孝行を続けていきます」

◆ ◇ ◆ 
 茨城旭日県婦人部主事の岩本保子さん(72)は、2013年(平成25年)10月に母・中柄あい子さんをみとった。
 母親は、1953年(昭和28年)5月に入会。その前年に夫を亡くし、女手一つで岩本さんら2人の娘を育てあげた“苦労人”だった。また、学会の草創期から地域広布に走り抜いてきた。
 岩本さんは72年に夫・貞雄さん(74)=副圏長=と結婚し、1男1女をもうける。78年に自宅を建ててからは、母親と同居生活に。岩本さんが学会活動で家を空ける時は、常に母親が子どもたちの面倒を見るなど、献身的に支えてくれたという。
 母親に認知症の症状が表れ始めたのは80歳を過ぎた頃からだった。
 最初はお金のしまい忘れ程度だったのが、次第に、日付や曜日が分からなくなり、昼と夜を間違えるようにもなる。
 母親は認知症による幻覚で、「今、部屋に人が来ているからお茶を持って来て」「のっぺらぼうの人が来ている」などの発言も増えていった。
 岩本さんは当時を振り返る。
 「認知症になるなんて思ってもいなかったので、正直なところ、『母親の信心の姿勢は間違っていたのかな』と思い、深く落ち込みました」

“マイナスの言葉”に心痛め
 「私が特につらかったのは、母の暴言と“マイナスの言葉”でした。母は信心根本に、苦労して私たちを育ててくれました。だから『晩年は幸せだった』と言ってくれることを期待していました。でも、実際には『こんなつまらない人生はない』『こんな親不孝な娘はいない』などと言われ、何度も心を痛めました」
 そんな岩本さんを、ある時、ケアマネジャーが励ましてくれた。
 「お母さんは娘さんと一緒に暮らせて幸せよ。認知症が言わせるのだから気にしないで」――その言葉で心も軽くなった。

 岩本さんは真剣に唱題に励んだ。その中であらためて心に刻んだ御文がある。
 「蔵に蓄える財宝よりも、身の財がすぐれ、身の財よりも、心に積んだ財が第一である」(同1173ページ、通解)
 母親が命を懸けて取り組んできた信心の実践とは、三世永遠に崩れない福徳を築くことである。認知症であっても母の積んだ「心の財」は絶対になくなることはない――。そう確信して唱題に励み、母親に接していくと、母親の症状は落ち着き、「ありがとう」と言ってくれるようになったという。

 その後、母親は90歳で亡くなったが、今、岩本さんの心には確かな思いがある。
 「母は、すぐに忘れてしまうことへの不安やいら立ちを、最も心を許していた私に訴えていたのだと思います。“もっと母に寄り添い、全て肯定してあげればよかったのに”と思うこともありましたが、穏やかな顔で霊山に旅立った母の顔を見て、母の信心はやはり正しかったのだと確信しました。自身の姿を通して、最後の最後まで信心を教えてくれた母に、心から感謝しています」

取材メモ
 以前に本紙「介護のページ」に登場した「生活とリハビリ研究所」代表の三好春樹さんは、“介護では「認知症は病気」と思わない方が良い”と語っている。
 なぜなら、介護者が「認知症は病気」と思うほど、薬や医療にだけ頼ってしまい、“寄り添う介護”から遠くなりがちになるからだ。そこで三好さんは、認知症を「老化に伴う人間的な変化」であると捉えていこうと訴えている。
 実際に認知症介護の現場では、1日に何度も同じ質問をされたり、徘徊などの対応に追われたりする。そうした中で「寄り添う介護」を実践するのは、並大抵のことではない。
 それでも多くの学会員は、苦労の中で「意味」を見いだして奮闘している。それ自体、尊い菩薩の行動にほかならない。
 かつて池田先生は、『「第三の人生」を語る』の中で、認知症の母親を介護してきた女性に対して励ましを送った。
 「お母さんは、80歳を超えて生きてこられたのだから、どこかに欠陥が生じないほうが不思議なんです」「高齢者と接して、老いの苦しみと同苦していくなかで、1ミリでも自分の人生が深くなったといえれば、それが勝利なのです。境涯が広がったということです」(秀)
(2018年2月3日付 聖教新聞)
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Last updated  2018/03/19 07:32:35 PM
2017/11/18
​​〈生老病死を見つめて〉
介護と向き合う  2    


 父と息子 「親の老い」を受け入れる

  「介護と向き合う」の第2回では、父親の介護に携わった壮年の体験を紹介する。信心強盛だった父親が病を患い、在宅介護となった時、息子の胸中に去来したものとは……。

心に刻む御聖訓
 何(いか)なる世の乱(みだ)れにも各各(おのおの)をば法華経・十羅刹(じゅうらせつ)・助け給へと湿(しめ)れる木より火を出(いだ)し乾(かわ)ける土より水を儲(もう)けんが如(ごと)く強盛(ごうじょう)に申(もう)すなり(呵責謗法滅罪抄(かしゃくほうぼうめつざいしょう)、御書1132ページ)

幸福の宮殿は生命の中に
 御書には「南無妙法蓮華経と唱(と)え奉(たてまつ)るは自身の宮殿に入るなり」(787ページ)と仰せである。池田先生は、この御文を拝して語られている。
 「どのような人の生命にも、仏界という金剛不壊(こんごうふえ)の生命の境涯(きょうがい)がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の“財宝(ざいほう)”で飾(かざ)られた、永遠不滅の幸福の『宮殿』である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の宮殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然(さんぜん)と輝(かがや)かせていくことができる」と。
 世間には、財産や名声や地位など、人それぞれの「宮殿」がある。しかし、それらは永遠性のあるものではない。一方、自身の生命に築いた「宮殿」は、年を重ね、体が思うように動かなくなったとしても決して消えることはない。
◇ ◆ ◇ 

 兵庫県姫路市(ひょうごけんひめじし)在住の植木重年(うえきしげとし)さん(64)=姫路大光県総合長=は、2014年1月、8年間の在宅介護の末、父・豪(つよし)さんをみとった。
 ――植木さんは両親と共に3歳で入会。豪さんと母・水江(みずえ)さん(87)=婦人部副本部長=は、草創の地区部長・地区担当員(当時)として、地域広布に走り抜いてきた。
 植木さんは26歳で妻・龍子(たつこ)さん(65)=支部副婦人部長=と結婚後、両親と同居生活を送る。豪さんは儀典部(ぎてんぶ)として友人葬の導師(どうし)を務めるなど、地域の同志からの信頼も厚かった。そんな豪さんに腫瘍(しよう)が見つかったのは、05年9月のこと。医師は「上顎(じょうがく)がん」と診断した。植木さんは語る。
 「当時、父は78歳と高齢だったこともあり、手術をしないという選択肢もありました。医者からも『手術すれば、あごを大きく切除して顔の形が変わる』と言われ、手術をすべきか悩みました。最終的には父の意思を尊重(そんちょう)し、11時間に及ぶ大手術に臨(のぞ)みました」
 手術は無事に成功し、豪さんは放射線治療を受ける。だが、次第に飲み込む力が弱くなり、やがて経鼻経管栄養(けいびけいかんえいよう)に。その後、胃ろうとなり、介護(かいご)が不可欠(ふかけつ)となった。
 手術から半年後には在宅介護となり、植木さんは母親や妻とともに、豪さんの面倒(めんどう)をみることになった。

父親の「下の世話」を経験
 「手術を受けると決断した父は、本当に“強い人”だなあと思いました」と、植木さんは振り返る。しかし、在宅介護が始まると、その様子は一変した。
 「愚直(ぐちょく)で、まじめ、温厚(おんこう)な性格だった父が、手術後は『部屋が寒い』『暑い』とか、ささいなことで家族に当たり散(ち)らすようになりました。時には母親に手を上げることもあり、正直なところショックでした」
 豪さん自身の決断だったとはいえ、植木さんは“手術を受けたことが本当に良かったのだろうか?”と思い悩んだ。植木さんは、豪さんの通院の送り迎えや入浴の介助などを担い、夜はトイレに付き添うこともあった。
 当時、学会では圏長や県長を務め、仕事と活動の両立は多忙を極めた。活動を終えて夜遅く帰宅すると、両親の言い争いの声が聞こえてきたことも一度や二度ではない。そのたびに暗たんとした気持ちになり、心の休まるいとまはなかった。
 植木さんにとって特につらかったのは、父親の「下の世話」だったという。
 「年を取ったのだから当然のことですが、父親の『老い』という現実を見せつけられるので、気持ちがついていきませんでした。また、いつまで、こんな状態が続くのかと悩みました」
 同志の励ましを支えに、植木さんは真剣な祈りを重ねた。その中で常に心に刻(きざ)んでいたのは、「いかなる世の乱れにも、あなた方を法華経や十羅刹女よ助け給え、と湿った木から火を出し、乾いた土から水を出すように強盛に祈っている」(御書1132ページ、通解)との「呵責謗法滅罪抄」の一節だった。

自身の境涯を広げる戦い
 「介護は、自身の境涯を広げる戦いでした」と植木さんは語る。
 「根本は唱題で心を磨(みが)き、満々たる生命力を蓄(たく)えることです。自分の境涯が広がった分だけ、心豊かに父と接することができ、相手を思いやる余裕(よゆう)ができました。反対に心に余裕がない時は、厳しい言葉を父にぶつけて自己嫌悪(じこけんお)に陥(おちい)ることもありました」
 植木さんは祈りを重ねる中で、「一番苦しんでいるのは、父だ」と思うようになったという。
 「父は胃ろうによって口から食べる楽しみを奪われ、思うように体も動かせず、つらかったと思います。でも、父はもがきながらも精いっぱい、毎日を生き抜こうとしていることに気付いたのです」

 介護中には、母・水江さんが病(やまい)に伏(ふ)せるなど、支える家族にも試練が襲(おそ)った。植木さんは介護中、かつてない祈りに挑戦した。
 また、普段から豪さんと家族が触れ合う機会を増やし、楽しい時間を過ごせるよう心掛けた。

 8年に及ぶ介護の末、豪さんは霊山へと旅立ったが、介護によって親子の絆、家族の絆(きずな)は、より強くなったと植木さんは語る。
 「介護で大事なのは、現実をありのままに受け入れて、自分の素直な感情に向き合うことではないでしょうか。ただし、何でも我慢(がまん)だけでは、精神的に耐え切れなくなりかねません。私たち家族も、時には気持ちをぶつけ合うことで、互いの思いを共有しました。なぜなら、介護は支える側が無理をしないことが最も大切だからです。そんな中、御本尊への強い祈りが、父への感謝を湧(わ)かせ、思いやりのある行動になったのです」

取材メモ
 かつて本紙「幸齢社会」に登場した哲学者の岸見一郎さんは、実父の介護経験を通して、「子は親の老いを受け入れるとともに、『親が生きていることが喜びで、いかに家族に貢献(こうえん)しているか』という点を伝えることが大切」と語っている。
 植木さんは介護が始まった当初、「父を病院に連れていくのが恥(は)ずかしかった」と語っていた。手術で顔が変形し、病院内で奇声を発する父を見られることに抵抗があったという。しかし、唱題根本に介護を続ける中で、「父の生きざまを尊敬し、一日でも長く生きてほしいとの気持ちが強くなりました」。
 植木さんにとって、信心根本に生きてきた“強い父親”が老いていく姿は、息子として受け入れがたいものだったにちがいない。だが、介護中も欠かさず勤行を実践する豪さんの姿に触(ふ)れ、肉体的な衰(おとろ)えは進んでも、豪さんの内面にある「信心の炎」は、いささかも消えていないことに気付いたという。

 取材を終えて記者は、冒頭に引用した池田先生の指導の続きを、あらためて心に刻んだ。
 「信心によって、自分自身の生命の宮殿を三世永遠に輝かせていく。その人こそ最高の幸福者である。皆さま方は、広布の活動によって、日々、自らの生命の中に幸福の『宮殿』を築き、開いておられる。ゆえに、一生成仏は間違いないし、必ずや宇宙大の生命の宮殿に住む“幸福の王者”となっていけるにちがいない。どうか、その強い確信と誇りをもって、明るく、堂々と信心の大道を進んでいただきたい」(秀)

(2017年11月18日付 聖教新聞)

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Last updated  2017/11/19 03:01:40 PM
2017/11/05

〈生老病死を見つめて〉
介護と向き合う 1 ――  嫁と  しゅうとめ 

自分が変われば、相手も変わる

   連載「生老病死を見つめて」では、今回から「介護と向き合う」と題して、学会員の介護(かいご)にまつわる体験を取り上げていきたい。第1回は、信心に反対していたしゅうとめを18年にわたって介護し、みとった婦人の体験を紹介する。
​心に刻む御聖訓
 妙法蓮華経と唱へ持(たも)つと云(い)うとも若(も)し己心(こしん)の外(ほか)に法ありと思(おも)はば全く妙法にあらず麤法(そほう)なり(一生成仏抄、383ページ)

「人を敬う」実践が根本
 御書には、「鏡に向って礼拝(れいはい)を成(な)す時浮べる影(かげ)又我(われ)を礼拝するなり」(769ページ)とある。
 「法華経」に説かれる不軽菩薩が、万人に仏性(=仏の性分)が内在すると確信し、あらゆる人を礼拝し続けたように、いかなる状況にあっても相手を敬(うやま)っていくのが仏法者の根本姿勢である。
 だが、介護の現場、とりわけ家族の場合、近しい人であるがゆえに悩み、葛藤(かっとう)することも多い。そうした中で「人を敬う」実践を貫くのは、決して簡単ではない。
                  ◇ ◆ ◇
 三重宝城県婦人部主事の柳澤貴美子(やながさわきみこ)さん(71)は、22歳の時に夫・博光(ひろみつ)さんを折伏して結婚。2人の娘に恵まれ、充実した日々を送ってきた。
 1981年、愛知に住んでいた義父が亡くなったのを機に、夫の意向もあり、当時62歳で病に伏していた義母・フキ子さんを引き取ることに。その日から柳澤さんの生活は一変した。
 「当時、私は支部婦人部長として家を空けてばかりでした。しゅうとめとの同居が決まった時、活動に消極的だった夫に言われました。『おまえは普段、学会の会合で立派なことを言っているんだから、今度は“家の信心”を見せてもらうで』と」

 結婚から13年――。突然、始まった義母の介護は、柳澤さんにとって戸惑(とまど)いと葛藤(かっとう)の連続だった。
 「しゅうとめは、以前から料理や家事など、何をやっても完璧で、頭も良く、とても賢い人でした。一方で、学会は大嫌いで、信心にも大反対。私は“とにかく負けたくない”と思って、いつも気を張っていましたが、気が付いたら円形脱毛症になっていました」
 義母の体調は季節ごとに目まぐるしく変わり、寒い時期はずっと寝たきり状態だった。その結果、柳澤さんが介護する時間も長くなり、精神的にも肉体的にも負担は増大した。

私の味方は誰もいない
 「お互いに負けず嫌いだったので、最初の3年間は精神的にきつかったですね。しゅうとめと、夫を取り合っているような感じでした」と、柳澤さんは振り返る。
 「信心の正しさを、私の姿を通して認めさせようと躍起になっていた部分もありました。相手の立場や気持ちに寄り添うよりも、自分の思いや意見が先走ってしまうのです」
 ある時、夫にしゅうとめへの不満をぶつけたことがあった。しかし、夫は「そんな話は聞きたくない」と言って、そっぽを向いてしまった。「私の味方は誰もいない」――柳澤さんは激しく落ち込んだ。

 悶々(もんもん)とした日々を送る中、婦人部の先輩が励ましてくれた。
 「御書に『妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし自身の心の外に法があると思うならば、それは全く妙法ではなく麤法(そほう)(劣った粗雑な法)である』(3833ページ、通解)とあるでしょ。結局、自分の一念が変わらない限り、相手も変わらないのよ。逆に一念が定まれば、どんな逆境(ぎゃっきょう)も変えられるのよ」

 先輩の言葉は胸に突き刺さったが、それを実践するのは容易(ようい)ではなかった。
 「唱題して、『もっと優(やさ)しくしよう』と思っても、しゅうとめと向かい合った瞬間(しゅんかん)に、さまざまな感情が湧(わ)いてくるんです。娘からも『お母さんは何で、おばあちゃんの目を見て話さないの?』と言われました」
 介護を続けながら、柳澤さんは婦人部本部長、圏婦人部長として、懸命に広布に走り抜いた。
 義母との衝突(しょうとつ)は、その後も続いたが、そのたびに祈りは深まっていった。


 ある年の年末、柳澤さんはささいなことで義母と言い争いになった。義母は「もう死んでやる!」と言って部屋に閉じこもり、年が明けても部屋から出てこない。柳澤さんは割り切れぬ思いを抱えながら、御本尊に向かい唱題した。
 「最初は『そんなに死にたいのならば、死ねばいいのに』と、怒りの祈りでした。でも5時間、6時間と唱題するうちに『もう少し思いやることができたのでは』と自分の姿勢を見つめ、反省する祈りになっていったのです。自分の心が変わった時、しゅうとめは部屋から出てきました」

灰色の大切さに気付く
 柳澤さんは介護を通して、さまざまな人に感謝できる自分に変わっていったという。それは義母に対してだけでなく、家族を陰(かげ)で支え、いつも学会活動に快(こころよ)く送り出してくれる夫に対してもそうだった。
 「後で聞いた話では、しゅうとめは私の悪口を夫に言っていたようです。でも、夫がその内容を私に伝えたことは一度もありませんでした。夫なりに気を使い、私を守ってくれたのだと思います」

 年を経るごとに、義母の入退院は増えていったが、柳澤さんは献身的に介護を続けた。同居から16年が過ぎた時、義母は自らこう切り出した。
 「あなたは何もしないけど、何もしないけど、何もしないけど、子どもたちが素直に育ったから、私も信心するわ」――独特な言い回しではあったが、柳澤さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 「後年、しゅうとめは『私が信心すると言ったら、あの鬼嫁(おによめ)が泣いたのよ』と、周囲に言いふらしていました」と柳澤さんは笑う。
 フキ子さんが亡くなったのは入会から2年後のこと。享年80歳だった。柳澤さんは、安らかな臨終の相に成仏を確信するとともに、あらためて義母と過ごした18年間の生活に感謝したという。

 「私はもともと白黒をはっきりさせたい性格です。でも、しゅうとめを介護する中で、白と黒の中間であるグレー(灰色)は、大事な色だと気付きました。例えるなら、相手の立場にたって考え、尊重するのがグレーです。すぐに答えが出せなくても、相手の思いを受け止め、答えが出るまで忍耐強く待つ。自分から歩み寄ることで、いつしか相手も変わる時が来ます。特に高齢者の介護では、相手の人生や生き方を尊重し、尊敬する姿勢が大事です。人間的に未熟(みじゅく)だった私に、しゅうとめは、その重要性を気付かせてくれたのだと思います」

取材メモ
 「長い間、『信心を強くしたい!』と祈っていました」と、柳澤さんは語っていた。
 柳澤さんの語る「強い信心」とは何か?――取材をしながら脳裏(のうり)に浮かんだのは、「現実から逃げない」ということだった。
 介護は常に悩みや葛藤(かっとう)の連続だったと話しつつも、柳澤さんは決して逃げることなく、現実と向き合ってきた。納得できないことも多かったが、悩むたびに御本尊に祈り、自分自身を見つめて、学会活動に励んできたという。


 義母が亡くなってから5年後、柳澤さんの夫・博光さんは急性白血病で霊山(りょうぜん)へ旅立っている。享年60歳。病気の判明から1年半後のことだった。
 「突然の悲しみや苦難にも負けず、乗り越えることができたのも、しゅうとめの介護を通して信心を磨くことができたからです」と柳澤さんは語る。「自分が変わる」ための出発点こそ、「現実と向き合う」ことにほかならない。


 取材を終えて、池田先生の言葉を思い出した。
 「大事なことは、悩みから逃げないことです。悩みを背負(せお)い続ける勇気です。たとえ、すぐに答えが出なくても、悩みと格闘(かくとう)し続ける――そうすれば、いつかあなたは『答え』のなかにいる自分に気が付くはずです」(秀)



(2017年11月4日付 聖教新聞)







Last updated  2017/11/07 12:30:31 PM
2017/08/19

〈生老病死を見つめて〉 悔いなき日々を

妙法とは最極の希望の力

 連載「生老病死を見つめて」では、創価学会員が信心根本に、生老病死という「四苦」を乗り越えてつかんだ信仰の確信と仏法の哲理を紹介する。今回は、突然の病に倒れた夫を支え、共に歩んだ婦人の体験を通して考察したい。

心に刻む御聖訓
 (みょう)とは蘇生(そせい)の義(ぎ)なり蘇生と申すはよみがへる義なり

(法華経題目抄、947ページ)


助かっても植物状態

 日蓮大聖人は、病気の幼子(おさなご)を持つ門下へのお手紙で、「わざはひも転(てん)じて幸(さいわい)となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念(きねん)せしめ給へ、何事(なにごと)か成就(じょうじゅ)せざるべき」(御書1124ページ)と仰せになり、御本尊を信じ唱題し抜いた人は、必ず願いを成就できると教えられている。
 苦難や試練に直面した時にこそ、自身の信心が試(ため)される。第1宮城総県副婦人部長の石橋ナヨ子さん(64)=太白総区婦人部総合長兼任=も突然の試練(しれん)と向き合い、長年、戦い抜いてきた1人である。そこには人知(ひとし)れぬ葛藤(かっとう)があった。
◇ ◆ ◇ 
 北海道出身の石橋さんは21歳で夫・信次さんと結婚。その後、夫を折伏し、夫婦で広布の第一線を歩んできた。
 1986年(昭和61年)に夫の仕事の転勤で仙台市に移り住む。2人の息子も成長し、石橋さんも総区婦人部長として思う存分、広布に走り抜いていた2005年(平成17年)の春、大きな試練(しれん)に襲(おお)われた。東京に単身赴任中だった信次さんが倒(たお)れたのだ。
 「3月21日の朝、東京の病院から、『くも膜下出血で倒れて運ばれた』との連絡が入りました。非常に危険な状態だと言われ、着の身着のままで新幹線に飛び乗りました」
 病院に駆(か)け付けた石橋さんに、医師は「助かっても植物状態です。このまま見守ってはどうですか」と告げた。それは、夫の死を待つという選択に等しかった。石橋さんは振り返る。
 「『1%でも回復の望みがあるなら、できることは全てしてください』とお願いしました。最初の2週間がヤマだとは言われましたが、幸いにも夫は一命を取り留(とど)めることができました。しかし、その後も意識が戻ることはありませんでした」
先の見えない不安
 石橋さんは当初、幾分(いくぶん)かの希望を持っていたという。しかし、医師から何度も「回復の見込みはない」と言われ、厳しい現実を認識する。悲嘆(ひたん)に暮(く)れ、人目もはばからず何度も涙を流した。
 東京の病院で2カ月半を過ごした後、信次さんは宮城県内の病院に転院する。しかし、転院先でも診断は変わらなかった。当時の状況は、両下肢(かし)・上肢(じょうし)まひ、高次脳機能障害で、“植物状態”と変わらなかった。
 「病院からは介護施設への入所を勧められました。私は、入院中にできる限りのことをしようと思い、まひして動かなくなった夫の手や足のマッサージを毎日続けました。その結果、少しずつ状況が変わっていったのです」
 当初、寝たきりだった信次さんは、石橋さんの言葉に反応を示すようになる。その後、車いすに座れるようになり、食事も口から取れるまでに回復する。信次さんには幼い頃の記憶はあるようだったが、他のことは分からない状況だった。
 1年後には、在宅介護で夫の面倒を見ることを決意し、石橋さんは信次さんを自宅に引き取った。
 「正直なところ、夫が倒れてから最初の3年は、先の見えない不安と苦しさでいっぱいでした。夫の意識は戻りましたが、記憶は戻らず、社会復帰ができる状況でもありません。『この先どうなるのだろう?』という絶望感に襲(あそ)われました」
 石橋さんを支えたのは、「妙とは蘇生の意味である。蘇生とはよみがえるということである」(同947ページ、通解)の御聖訓だった。かつて、池田先生はこの御文を通して、つづっている。
 「信心を根本に生きる人は、どんな状況、どんな場所にあっても、『ここ』から『新たな出発』を切っていける。『いま』から無限の『希望の未来』を開いていける。わが心、わが地域を蘇生させ、必ず自他(じた)ともに幸福の人生を飾っていくことができる。そのための仏法である」と。
 石橋さんは懸命(けんめい)に祈り、献身的(けんしんてき)な介護を続けた。そうした中で、石橋さんの心にも変化が現れる。
 「夫が倒れた直後の最悪の状況を考えれば、一命を取り留め、一緒に暮らせることが、どれほどすごいことかと実感し、御本尊への感謝、夫への感謝が湧(わ)いてきました。幸いにも、夫の勤め先から手厚い保障を受けることができ、経済的にも守られました」
夫婦で一緒に前進
 信次さんの在宅介護中、石橋さんはデイサービスやショートステイなどを活用しながら、時間をこじ開けて学会活動に走り、同志の激励に歩いた。
 「もし介護だけの生活だったら、私自身が倒れていたかもしれません。でも、日々の学会活動で人を励ますことによって、逆に自分自身が励まされ、勇気をもらいました。また、人に尽くす喜びを感じていたからこそ、夫に尽くそうという思いは強くなり、“夫婦で一緒に頑張っていこう!”という決意に変わっていきました」
 信次さんは、石橋さんの献身的な介護もあり、医師の予想を覆(くつがえ)す回復をみせた。その姿を目の当たりにした石橋さんは、「妙とは蘇生の義」を強く実感。“妙法とは、最極の希望の力である”との確信を深めていった。
 2014年8月、大腸がんが見つかった信次さんは摘出手術を受けた。治療を終えて再び自宅に戻ろうとしていた時、誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)を発症(はっしょう)する。
 亡くなった9月9日は、夫妻が初めて出会った日であり、結婚40周年という節目でもあった。享年63歳。突然の別れに戸惑(とまど)いながらも、石橋さんは今、夫と歩んだ日々の意味をかみしめている。
 「実は亡くなる1年半前から、夫の体には原因不明の発疹(はっしん)ができていました。病で倒れてから、さまざまな薬を投与(とうよ)してきて、体が悲鳴(ひめい)を上げていたのでしょう。最後は、夫の『もういいよ』という、私への気遣いであったかもしれません。足掛け10年にわたる夫の闘病生活で、私自身、『宿命を使命に変えていくのだ』と決意し、本気で信心と向き合うことができました。夫が亡くなり、寂しさを感じることはありますが、夫の分まで広布に生き抜き、報恩の人生を歩んでいく決意です」
 夫の分まで広布に――その一言に、信次さんの生命が生きていた。
取材メモ
 石橋さんは両親を早くに亡くし、自身も子宮外妊娠(しきゅうがいにんしん)や胆石(たんせき)の手術、足の大けが、東日本大震災での被災など、幾多(いくた)の試練(しれん)に直面してきた。
 石橋さんは、「そうした経験の全てが自身の糧(かて)になりました。でも、自分一人だけでは、決して試練を乗り越えられなかったと思います。池田先生をはじめ同志の励ましに支えられて、今の私があります」と語っている。
 私たちには、正しい人生を教えてくれる師匠のもとで、共に広宣流布の使命に生き抜き、ともどもに切磋琢磨(せっさたくま)して信心に励む学会の同志がいる。それが、どれほどありがたいことかは、苦難に直面した時にこそ実感する。
 学会と共に、同志と共に前進するからこそ、あらゆる苦悩にも負けず、一人一人が使命の道を歩んでいくことができる。
 変毒為薬(へんどくいやく)、宿命転換(しゅくめいてんかん)を可能にする仏法を実践する私たちに、断じて乗り越えられない苦難はない――。そう強く確信して進んでいきたい。(秀)
(2017年8月19日付 聖教新聞)






Last updated  2017/08/20 03:59:02 PM
2017/06/18
〈生老病死を見つめて〉 悔いなき日々を

心に刻む 御聖訓

 百二十まで持(も)ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なリとも名をあげん事こそ大切なれ  崇峻天天皇御書(すしゅんてんのうごしよ) 1173ページ)

 連載「生老病死を見つめて」では、創価学会員が信心根本に、生老病死という「四苦」を乗り越えてつかんだ信仰の確信と仏法の哲理を紹介する。今回は24歳の娘を亡くした壮年の体験を通して考察したい。


「臨終只今」の心で、きょうも広布へ

突然の「末期がん」の宣告

 御書には「所詮臨終只今(しょせんりんじゅうただいま)にありと解(さと)りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是人命終為仏授手(ぜにんみょうじゅせんぶつじゅしゅ)・令不恐怖不悪趣(りょうふくふふだあくしゅ)』と説かれて候」(1337ページ) とある。かつて池田先生は、この御文を通して次のように語った。
「『所詮臨終只今』ということは、只今に全生命をかけていくということにほかならない。日々を懸命に生きていく、広宣流布に、 一生成仏に、我が生命を燃焼させながら、戦い抜いていくということであります」と。

 今、この時を、力の限り悔(く)いなく生き抜く。
 岡山総県総合長の長江章行(のりゆき)さん(61)は、この決意で学会活動に奔走(ほんそう)している。脳裏(のうり)には、今は亡き長女、章子(あきこ)さんの面影(おもかげ)が鮮(あざ)やかに残っている。
 ◇ ◆ ◇ 

  岡山県総市(そうじゃ)で生まれ育った長江さんは2歳で家族と共に入会。幼い頃から学会の庭で育ち、男子部とし て薫陶(くんとう)を受けてきた。1980年(昭和55)には妻・信江さん(61)圏副婦人部長=を折伏して結婚し、その後、1男1女に恵まれる。青年部時代、また壮年部に移行も広布の第一線で戦ってきた長江さんだったが、2006年(平成18年)4月、突然試練(とつぜんしれん)に襲(おそ)われた。長女・章子さんが、末期の肝臓がんとの宣告を受けたのである。章子さんは当時24歳だった。

 長江さんは語る。
「腰が痛い』と言っていた娘が病院で診断を受けたところ、肝臓にピンポン球のようながんがニつあることが分かりました。がんは末期で、大腸と肺にも転移しており、手術は不可能とのこと。医者からは『もって2力月』と言われました」
 病の宣告を受けた長江さん夫妻は、その晩、意を決して章子さんに病状を伝えた。妻・信江さんが振り返る。
「章子は大きなショックを受けていましたが、すぐに病魔と闘(たたか)う決意を固めたようでした。仲の良い友達に、がんが見つかったことを伝え、『絶対に病気に負けないから!』と力強く語っていました。その姿に触れて、私たち夫婦も”必ず宿命転換しよう!”と決意しました」


わが使命を果たしたい!

 章子さんは地元・岡山の高校から、創価女子短期大学に16期生として入学。鍛えの日々を送り、卒業後は地元・岡山の信用金庫に同短期大卒業生として初めて採用された。
 入行以来、章子さんの営業成績は常にトップで、「後輩のために道を開きたい」と奮闘(ふんとう)してきた。職場での面倒見もよく、将来を嘱望(しょくぼう)されていたという。 学会の庭では女子部本部長、白蓮グループの県委員長として仕事と活動の両立に挑戦。未来部員の励ましにも足しげく通っていた。
 病が判明してから、章子さんはすぐに入院し、抗がん剤治療を受けた。だが、治療の効果は現れず、同年 7月下旬には、医者から 「できる限りのことはしましたが状況が厳しくなりました。もっても、残り1週間ほどだと思います」と告げられる。
「医者も一度はさじを投げました。しかし、章子は ”自分の使命を果たしたい”と、電話で友人と対話し、聖教新聞の購読も推進しました。ある時、『どうしても折伏したい人がいる』と言って、勤め先の同僚を病室に呼んで仏法対話をしました。その同僚は入会を決意し、御本尊を受持することができました」 (長江さん)

 この間、奇跡的(きせきてき)にがん細胞の数値が下がり、章子さんは別の病院で、再び抗がん剤治療を受け始めた。9 月になると、がん細胞が徐々に死滅(しめつ)し、治療の効果が現れ始める。だが、抗がん剤の影響で章子さんの体の抵抗力は落ち、体力的にもギリギリの状態になってい た。

 06年10月13日の夜、病室で章子さんと一緒に勤行をした信江さんは、「さあ、 寝ようか。頑張って使命を果たそうよ!」と声を掛けた。章子さんは、笑顔で、「はい!」と返事をすると、そのまま意識を失って倒れた。
 2日後の10月15日、家族に見守られながら、章子さんは眠るように静かに息を引き取った。病気の判明からわずか6力月半。享年24歳だった。
「病気が分かった時、医者から『激しい痛みに苦しむことになる』と言われましたが、章子は最期まで苦しむこともなく亡くなりました。その姿や臨終(りんじゅう)の相に接して、成仏を確信できました」(信江さん)

友に励ましを送り続ける

 長江さん夫妻にとって、章子さんを失った衝擊(しょげき)は大きかった。
「あまりにも早い別れと、壮絶な闘病生活に、しばらく現実を受け入れられませんでした。ただ、本当に多くの同志が闘病中をはじめ、娘が亡くなった後も励ましてくれ、心から感謝しています」(長江さん)

 長江さん夫妻は、章子さんがなってから、あらためて知ったことがある。 それは、章子さんが多くの人を励まし続けていたと う事実である。
 弔問(ちょうもん)に来た学会の同志や会社の同僚(どうりょう)から、「章子さんの励ましに支えられた」 「勇気づけられた」という話を何度も聞いた。また、「章子さんの笑顔が忘れられない」という声も多数あった。
「臨終只今」— 師から学んだこの生き方を、章子さんは、病を得る前から、そして、闘病の中にあっては、なおさら強く貫いて生きた。その生命は、両親の胸中に生き続けている。

 信江さんは言う。
「娘を失った悲しみは筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くしがたいものでした。でも、章子が白蓮グループとして、常に笑顔で会館に着任していたことを思い出し、私も会館に行く時は笑顔になろうと決意し、涙をぬぐってきました」
 長江さんも、章子さんの在りし日の思い出を聞かされるたびに、「娘に負けな い人生を生きよう!」と自身を奮い立たせたという。 そして、「百ニ十歳まで長生きしても悪い評判を残して一生を終わるよりは、生きて一日でも名をあげることこそ大切である」(御書 1173ページ)との「崇峻天皇御書(すしゅんてんのうごしょ)」の一節を何度も拝(はい)して御本尊に祈り、地域広布に走り抜いてきた。

 長江さんは語る。
「最期まで戦い抜いた章子の姿から、私たち夫婦が学んだことは、一日一日を大切に生き抜くということです。病魔との闘いで、章子も怯(ひる)んだり、負けそうになったりしたことがあったと思います。それでも、決して諦めずに戦い続けた娘を誇りに思います。私た 夫婦も娘に負けないように、さらに多くの人に励ましを送り、自他共の幸福のために生き抜いていきます」

取材メモ
 長女・章子さんが亡くなって 4力月後の2007年(平成19年)2月、池田先生から長江さん夫妻に一首の和歌が届けられた。 その脇書きには、「ご夫妻共に 。断じて負けないで/最愛の娘は必ず環ってくる/仏法の方程式を信じて/娘に叱られないように/大勝利の人生を/」と、 したためられていた。
「葬儀などでも決して泣きませんでしたが、この時ばかりは 池田先生の真心に号泣(ごうきゅう)しまし た。同時に、三世の生命観の上から『章子は必ず生まれ変わってくる』と心から確信することができ、”娘の分まで広布に生き抜こう”という腹が決まりました」
 その後、長江さんは県長、総県長を8年にわたり務めたが、 この間、折に触れて章子さんの闘病の様子を語り、同志に「負けない信心」の大切さを訴えてきた。
 長江さん自身、娘を失った悲しみは今もある。だが、それ以上に、病魔と闘い、使命に生き抜いた娘を誇りに思う。だからこそ、「章子に負けないように!」との決意で、きょうも広布に走り抜いている。(秀)

(2017年6月17日付 聖教新聞)






Last updated  2017/06/18 05:00:04 PM

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