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晴ればれとBlog

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広布史

2020.10.07
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カテゴリ:広布史
​10・7〈社説〉きょう「勝利島部の日」

「一人立つ」同志の敢闘に学ぶ


 地球規模での感染症の流行、気候変動による災害の大型化など、激動の中で、きょう「勝利島部の日」を迎えた。
  1978年(昭和53年)の10月7日、全国約120島の代表が学会本部に集って行われた離島本部(当時)の第1回総会が、「部の日」の淵源である。


  この時、池田先生は「我並(われなら)びに我が弟子・諸難(しょなん)ありとも疑(うたが)う心なくば自然(じねん)に仏界にいたるべし」(御書234ページ)との「開目抄」の一節を通し指導。この御文を胸に刻み、“未来永遠に栄えゆく一家一族の福運の根っことなって活躍を”と願った。遠来の同志に「信心の極理」を語り残したのである。
 それから42年。勝利島部の友は、師との原点を胸に「広布のモデル」づくりに励み続ける。
 学会弾圧に耐え抜いて信頼を広げ、広布先進地域を築く鹿児島・奄美の地では、信心根本の知恵と団結力で現代の“諸難”に立ち向かっている。
  奄美光城県は、奄美大島をはじめ、喜界島(きかいじま)、徳之島(とくのしま)、沖永良部島(おきのえらぶじま)、与論島(よろんじま)などを含む奄美群島で5圏の同志が活動に励む。


  コロナ禍を機に、各島のリーダーでオンラインのグループを。その上で、少人数で集う場や個人ともつながり、協議や連絡に活用できるようにした。
  9月上旬、超大型の台風10号に際しては、防災上の注意など、情報を各島で共有。心一つに全島民の無事を祈念した。
 台風は、最悪の予想コースをそれ、勢力も衰えた。適切な備えも奏功して被害は最小限に。全て同志が祈った通りになった。
  島と島の心のつながりは、一段と強まり、9月からは各島をオンラインで結んでの御書学習も開始。「御書根本」の奄美の伝統が、より広がりを見せている。


  一方で、少人数でも地道に信仰を貫く小さな離島がある。
 長崎県平戸の度島(たくしま)には、学会員は多宝会の一婦人のみ。だが“なくてはならない一人”である。
 婦人は長年、地区婦人部長を務め、船で約35分かけて地区拠点のある平戸島まで渡り続ける。そこで会合に参加し、婦人リーダーと共に訪問激励の歩みを運ぶ。


  地元の度島では、食生活改善推進委員、脳トレのサポーターとして島民の健康増進に寄与。さらに生け花講師のボランティアなどで幅広く活躍する。今年3月には創価大学通信教育部を卒業した。
 はつらつと地域貢献に励むのは「周りが笑顔になれば、自分も元気になれるから。学会活動と同じですね」と語る。
 
 池田先生は、島の広布に尽くす友を「『一人立つ』という仏法の真髄に生き抜いた方々」とたたえる。
 難をも前進の糧(かて)にして敢闘する勝利島部の同志に学び、今いる場所で、新時代の地域広布に勝利していきたい。

​​「正義の勝利島」離島部の歌 - YouTube


​​日本の島の一覧

有人島418、無人島6,430(2015年(平成27年)に公表した資料)







最終更新日  2020.10.07 21:04:44


2020.09.09
カテゴリ:広布史
平和の宝城「創価世界女性会館」開館20年の軌跡

9・8「開館」 9・9「池田先生初訪問」

 東京・信濃町に立つ「創価世界女性会館」が8日、開館20周年を迎えた。きょう9日は池田大作先生の初訪問から20周年の佳節である。ここでは、世界に「平和の文化」を発信してきた同会館の20年の軌跡を紹介する(現在、会館の見学は実施していません)。

池田先生が創価世界女性会館を初訪問し、香峯子夫人と共に館内を視察。「ハッピーマザー」を鑑賞した(2000年9月9日)

 9月8日は第2代会長・戸田城聖先生が青年への「遺訓の第一」として「原水爆禁止宣言」を発表した日(1957年)。さらに池田先生の「日中国交正常化提言」(68年)、ソ連初訪問(74年)の日でもある。

 創価世界女性会館は、2000年の同じ9月8日に開館した。この事実に、同会館の使命が表れている。
 池田先生は完成に際し、記念の和歌を詠み贈った。
  
 新世紀
  開かむ女性の
    スクラムで
  幸福主義の
    創価なるかな
  
 清らかな
  女性の世紀の
    城光り
  平和の行進
   ここより進まむ
  
 「21世紀を『女性の世紀』に」との師の熱願に包まれながら、同会館は出発したのである。

建設への思い
 創価世界女性会館の建設構想が発表されたのは、1993年の本紙新年号。1面に「『創価世界婦人会館』を建設」「女性の時代照らす哲学の灯台」との見出しが躍った。<会館名は仮称>

 その後、建物の在り方について幾度も検討が重ねられた。この間、池田先生は、日本各地や海外を訪れた際に出合った印象的な建物の写真を提供するなど、アドバイスを送った。

 99年6月9日の定礎式の折には、油彩画「ハッピーマザー」(ミッシェル作)が飾られることが発表された。“会館が完成したら飾ってはどうか”と、先生ご夫妻から提案された絵画だった。ほほ笑みを浮かべ、子を抱く庶民の母――後に会館を訪れた高名な教育者は、この絵の前に立ち止まり、「ここに教育の原点がある」と感動を口にしたという。

 当時を知る婦人部のリーダーは振り返る。

 「池田先生は会館の完成を心から楽しみにしてくださいました。完成間近の頃、外観をご覧になり、『21世紀に栄えゆく証拠だね』と語られました。
 先生のお心には、21世紀を『戦争の世紀』ではなく『平和の世紀』『母と子の笑顔輝く世紀』に、との強い思いがあることを実感しました」

2000年9月8日の開館式では、名誉館長である香峯子夫人と世界の友らがテープカット

感激の初訪問
 創価世界女性会館の開館式は2000年9月8日午後に行われ、名誉館長である香峯子夫人、日本と世界の女性リーダーの代表がテープカットした。

 池田先生が香峯子夫人と共に、初訪問したのは翌9日午前のことである。
 先生は開口一番、「おめでとう。婦人部・女子部が健康になるように祈ります」と。続いて、会館をくまなく視察した。

 3階「桜花の間」では、「みんなの幸せを祈ろう。勝利になるように祈ろう」と、居合わせた友と勤行・唱題。そして語った。

 「ここは、夢の世界のようだ。ここに来た人は、皆、心が美しくなるだろう」「女性会館ができて、学会全体が明るくなったようだね。いよいよ『女性の世紀』です」「私は、婦人部・女子部の皆さまが、一人も残らず、幸福になられるよう、勝利されるよう、毎日、真剣に祈っています」

婦人部結成60周年を記念して設置された「母」の歌碑。除幕式では、白ゆり合唱団が同歌を披露した(2011年6月)

 11年2月25日には、全国の婦人部リーダーが同会館に集った協議会に、香峯子夫人が出席。池田先生は、和歌と伝言を夫人に託した。
  
 広宣の
  この道歩めや
   わが同志
  勝利の人生
   断じて勝ち抜け
  
 そして「一人ももれなく、幸福になってください。一日一日が有意義で、楽しい人生を生き抜いてください。どんなに苦しいことがあっても、法華経の行者は、すべてを楽しみに変えていく力を持っていなければならない。婦人部、万歳! 永遠に幸福と勝利の人生を歩んでください」――と。

 居合わせたリーダーは振り返る。「感激と感謝で、その場で奥さまに、婦人部は永遠に先生と共に歩む決意を伝えました。それを聞かれた先生から“その言葉を忘れません”との温かな励ましの言葉をいただきました」

SGIの女性リーダーが集い、開かれた第3回「世界女性平和会議」。各国の代表が平和運動の取り組みを報告した(2016年11月)

 16年6月25日、再訪した池田先生は、香峯子夫人と共に「桜花の間」で勤行・唱題。婦人部・女子部のさらなる発展を祈念しつつ、全同志の健康・幸福・勝利を心から念願した。
 また、永石婦人部長と懇談。同会館の1階「ビクトリー・ロビー」に設置されているピアノで、「母」と“大楠公”を演奏した。

 先生ご夫妻のこうした限りない励ましに包まれて、創価世界女性会館は、仏法を基調とした生命尊厳の思想を発信してきたのである。

「平和の文化講演会」で語るサーラ・ワイダー博士(2018年6月)

生命尊厳の思想を発信
 創価世界女性会館では、これまで、さまざまな展示を行っている。中でも婦人部の女性平和委員会が開催に尽力してきた展示では、多様なテーマを取り上げてきた。

 2002年6月から始まった「平和の文化と女性展」では、世界各地で平和の連帯を広げる女性たちの姿を通し、女性こそが「平和の文化」の担い手であるとのメッセージを発信。

 06年10月には「平和の文化と子ども展」を開催し、子どもの幸福を守り育む大切さを訴えている。

 また、15年11月の「平和の文化と希望展」は、「子ども」と「高齢者」を取り巻く課題を取り上げ、日本社会において一人一人が希望の人生を送るために、どのような価値観の転換が必要なのか、具体的にできることは何かを、共に考える機会となった。

大きな共感を広げた「平和の文化と女性展」(2011年11月)

 さらに、平和の心を伝える講演会やセミナーなどが同会館で活発に開かれている。
 「平和の文化講演会」には、アメリカ・エマソン協会の元会長のサーラ・ワイダー博士、平和学者のケビン・クレメンツ博士ら世界の識者が登壇。

 01年9月にスタートした「コスモスセミナー」の開催は、60回以上を数える。これまで、「子どもの心を育てる」をテーマの柱に、不登校や発達障害など、育児に悩む親などを対象に、専門家を招き実施。多くの友に希望と励ましを送ってきた。

 セミナーの開催に力を注ぐ主催者は語る。「池田先生は、次代を担う子どもたちの未来に、限りない期待を寄せてくださっています。親として、子どもの未来の力や可能性を信じ、成長を願っていけるようにとの思いで続けてきました」

ノーベル平和賞受賞者のベティ・ウィリアムズ博士は、女性の力に期待を寄せた(2006年11月)

40カ国・地域から識者が来館
 創価世界女性会館には、ノーベル平和賞受賞者のベティ・ウィリアムズ博士をはじめ、40を超える国・地域から、多くの識者が来館している。

 インドのラビンドラ・バラティ大学のバラティ・ムカジー副総長(当時)は、2004年2月に同会館を訪れ、語った。
 「世の女性は、いつもたくさんの苦労をかかえています。しかし、ここに来れば、皆、ほっとして、心を和ませるに違いありません。そして『人類の文明を向上させるのは女性だ。私自身の中に、その力と強さがあるんだ』ということを、ここに来れば、皆、必ず気づくことでしょう」

フィリピン・キャピトル大学創立者 ロサレス氏「仏法の理念広げる創価の女性がいれば世界は必ず善き場所になる」
 フィリピンの名門キャピトル大学の創立者ラウレアナ・ロサレス氏は同年6月、同会館での婦人部との出会いを通して、「仏法の理念を広げる創価の女性が増えれば、世界は必ず善き場所になります」と述べた。

来館した中国大使館の女性館員一行を、婦人部の代表が真心込めて歓迎(2019年10月)

 12年6月には、中国の程永華駐日大使(当時)の夫人・汪婉氏が来館。以来、“池田先生が築かれた友好の「金の橋」を継承していきたい”との氏の提案で、中国大使館・女性館員との交流会が毎年、同会館などで開催されてきた。

ネパール写真家協会一行が来館。「池田先生は写真文学の先駆者」と(2015年12月)

 近隣に住んでいたウクライナのコステンコ駐日大使(当時)は、同会館の印象を次のように語っている。
 「創価世界女性会館に入る女性の方々は、皆、おきれいです!」「でも私は、会館に入る時以上に、出てくる姿は、もっと美しいと思うんです。生命が躍動しています。幸福感に満ちた“輝く女性”を、たくさん見かけます」

「21世紀を女性の幸福輝く世紀に」 師の心を継ぐ誓いの象徴
 創価世界女性会館の来館者は91万人を超える。会館に込められた「21世紀を『女性の世紀』に」との師の思いは、世界の同志の師弟の誓いでもある。

 開館30周年となる2030年は学会創立100周年――。創価の女性たちは、「次の10年」を目指し、この「女性の世紀の城」を電源地として、愛するわが地域、わが家庭に信頼と友情のスクラムを広げゆく。






最終更新日  2020.09.09 10:51:36
2020.09.08
カテゴリ:広布史

9・8 「原水爆禁止宣言の日」


生存の権利への脅威は“魔もの

 ”
9月8日は「原水爆禁止宣言の日」です。1957(昭和32)年のこの日、横浜・三ツ沢の競技場に5万人の青年が集って開催された「東日本体育大会」の席上、第二代会長戸田先生は、歴史的な「原水爆禁止宣言」を発表しました。

 

戸田先生はまず「諸君らに今後、遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします」と述べ「今、世に騒がれている核実験、原水爆実験にたいする私の態度を、本日、はっきりと声明したい」「私の今日の声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、いま世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」「(この)思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信じるものであります」と高らかに宣言しました。



核兵器の存在自体が“絶対悪”


 この宣言を発表した当時、世界は冷戦の真っただ中で、大国が軍備拡大にしのぎを削り、原水爆は人類の未来に暗い影を落としていました。

 戸田先生による「原水爆禁止宣言」は、“核抑止論”に代表されるような、核兵器を正当化しようとする動きや考え方に対して、仏法の絶対平和主義に基づき、民衆の生存の権利を守るという立場から、核兵器の存在自体を「絶対悪」と断じ、その完全否定を宣言したものでした。


 池田先生は宣言がもつ意義について「宣言の核心は、原水爆を使おうとする発想の背後に隠された『爪』、すなわち、人間のなかに巣くう“魔性の生命”に、鋭くメスを入れられたところにある」とつづっています。


 1979(昭和54)年、「原水爆禁止宣言」を発表した横浜の地に、その平和思想をとどめるため、創価学会戸田平和記念館が設立されました。

創価の平和運動の原点


 戸田先生が“遺訓の第一”として青年部に託したのは、仏法者としての根源的な視点からの“平和への叫び”でした。その恩師の叫びを胸に深く刻み、今日にいたるまで平和へのたゆみなき行動を続けてきたのが池田先生です。


「原水爆禁止宣言」から11年後(1968年)の9月8日に、中国との国交回復を訴える「日中国交正常化提言」を発表。さらに6年後(1974年)のこの日には“宗教者がなぜ宗教否定の共産主義の国へ行くのか”との非難をものともせず、初のソ連訪問の旅へ出発。ソ連の最高首脳らと率直に語り合い、平和への“人間外交”を繰り広げたのです。

 さらに、池田先生は世界54カ国・地域をめぐる“平和旅”で、各国の首脳や識者、市民らとの地道な対話で“平和への友情”を広げてきました。


 このほか、池田先生の提案を受けて創価学会は「核廃絶一千万署名運動」「核の脅威展の開催」「反戦出版運動」など多彩な平和運動を展開。

 その間、世界情勢は冷戦から緊張緩和、軍縮へと大きな転換を見せます。早くから原水爆の絶対禁止を訴えた戸田先生の先見性と、その思想を世界に広めようと奔走を続けた池田先生の“師弟の絆”が、首脳や国際世論を動かし、世界を変えていったといっても過言ではありません。

「原水爆禁止宣言」は、今日、世界中で幅広く展開されているSGIの平和運動の不滅の原点となっているのです。







最終更新日  2020.09.08 06:00:06
2020.09.07
カテゴリ:広布史

​ 9・7  鹿児島の日

随筆 新・人間革命 179 

『同志の歌』と鹿児島
広宣流布の大願へ 断固と生き抜け!


 ある詩人が言った。

 「鹿児島の天地は、男らしい。その薩摩の風も、波も、桜島の響きも、断固たる正義のために、男らしく立ち上がれ!と叫んでいるように、私には聞こえる」と。

 たしかに、火の国の象徴の天地として、アジアヘ、世界へ、新しき世紀の幕開けの偉大な雄叫びを上げている。

 わが広宣流布の創価学会は、本年の11月18日をもって、創立より、70周年の軌跡を刻む。

 かの詩人が言われた。

「これだけの平和の大民衆の行進は、世界に燦たる歴史として残るだろう。 それは、『必ず!』である」また、その詩人は、「不思議な使命を深く秘めた庶民の中から、湧き上がった革命である。これこそ、真実の文化革命であり、平和革命であり、人間革命である。

 歴史の常として、いわれなき非難の礫(つぶて)を多く浴びせられながらも、平然として賑やかに、堂々と戦い抜いてきた、この無血の革命こそ、尊き生命の模範中の模範である」と語っていた。

 広宣流布の先駆を切り開きゆく火の国・九州の使命は、まことに尊く、そのカは全国に響きわたっている。

                              ◇

 それは、1972年(昭和47年)の9月7日、木曜日のことであった。 私は、大切な鹿児島の同志との記念撮影会に出席するため、鹿児島市内の県体育館に向かった。

 折りからのにわか雨が、南国の厳しい残暑を、幾分か和らげてくれた。

 牧園町に完成した、霧島の九州研修道場(当時は九州総合研修所)の開所式が、前日行われたばかりであり、記念撮影に集った友の顔は、喜びと誇りにまばゆく輝いていた。

 「みなさん、お元気ですか!今日は、お会いできて嬉しい!本当に嬉しい!と、私は真心込めて呼びかけた。

 即座に、明るい声が跳ね返ってきた。

「先生、ようこそ先生、ようこそ!」私は、涙が出るほど嬉しかった。

 ともあれ、県下の代表幹部、約4000人の意気は軒昂であつた。

 15グループに分かれての、楽しい創価家族の記念撮影が始まった。

 遠く種子島や屋久島、奄美大島からの参加者もおられた。

 終了後、私は、周りに躯け寄ってきた、凛々しき礼儀正しい男女青年部と、共に学会歌を歌った。皆の未来をめざしゆく瞳は、あまりにも美しく清らかであった。

 「田原坂」を歌ったあと、私は言った。
「次は『同志の歌』を歌おう,一緒に歌おう!」


 我いま仏の 旨をうけ 

 妙法流布の 大願を 

 高くかかげて 独り立つ

 味方は少なし 敵多し



 私と青年たちの歌声は一つにとけ合い、会場は厳粛な空気に包まれていった。

                 ◇

 古今東西を通じて鑑となる、あらゆる偉業は、そして革命等の勝利は、必ず、青年たちの同志の結合によって勝利した。

 「同志という大目的に生きゆく魂と魂の一体性は、最も尊く、最も強い。その同志を裏切ることは、最も、卑しき卑怯者のやることだ。畜生にも劣る」と、ある哲人は言った。

 日蓮大聖人、日興上人の御在世も、くだって牧口初代会長、戸田第二代会長の当時も、同じく反逆の方程式があった。

 御書には、「出世の恩のみならず世間の恩を蒙((こうむ)りし人」(1051ページ)、つまり、仏法上はいうまでもなく、世間的な次元でも大聖人にお世話になっていた人間までが、違背したと記されている。

 私も、信頼してきた同志に、何人も裏切られた。

 あらゆる点で成功させるように努力し、功成り名を遂ぐように支援した。
 その挙句、彼らが卑劣にも裏切っていったことは、皆様がご存じの通りである。

                   ◇

 「不惜身命」の経文通りに、戸田先生は、広宣流布のために生命を捧げられた。
 しかし、法理が永遠・普遍のものであっても、それを弘める人が続かなければ、仏法の命脈は断ち切られてしまう。



 捨つる命は  惜しまねど 

 旗持つ若人  何処にか   

 富士の高嶺を 知らざるか

 競うて来たれ 速やかに



 ここを歌われる時、いつも、鋭い眼光を私に向けられる戸田先生であった。「これは、君たちの歌だよ」と、よく青年に語られる先生であった。

                                ◇

 この日の夜、私は、記念撮影を陰で支えてくれた男子部の整理役員を研修道場に招いた。

 そして、満天の星のもとで、キャンプファイアーを囲みながら、声高らかに、そして厳粛に「同志の歌」を歌った。

  私は、その場に集った若き同志に、「柿の実党」と愛称をつけてはどうかと提案した。
 「桃栗三年、柿八年」のことわざのごとく、柿は実をつけるまでに八年かかるといわれる。
 私は、青年たちに「諸君も八年間、あらゆる困難にぶつかっても、悠々と生き抜き、断じて勝ち抜いていただきたい!」と語り、次の一句を贈ったのである。


  柿の種

    共に仲間だ

      いつか咲け


 後に、この9月7日は「鹿児島の日」となった。

                                  ◇

 「善を為す自覚に基く固い決心によって、征服出来ない困難は殆んどない」(大類伸訳)とは、19世紀イタリアの独立・統一運動の思想家マッツィー二の言である。

 この大確信のごとく、「柿の実党」の760名の友をはじめ、偉大な鹿児島の同志は、私とともに、険難の山々を厳然と勝ち越えてこられた。

 その広宣流布の拡大は目覚ましい。

 全国模範の町村の筆頭としても、鹿児島・奄美大島の宇倹村、ならびに住用村が、市では名瀬市が顕彰されている。

 御聖訓には、

「日天・朝に東に出で給うに大光明を放ち天眼を開きて南閻浮提を見給うに法華経の行者あれば心に歓喜し行者をにくむ国あれば天眼をいからして其の国をにらみ給い」(御書1380pページ)と説かれる。

 この「南閻浮提広布」のモデルの宝士が、「南」から広がっていることは、本当に嬉しい。

 九州研修道場には、私も、建設前の視察を含めて17回訪間し、黄金の歴史を刻んだ。

 本年4月には、懐かしき、この道場は、「21世紀自然研修道場」として、希望の未来へ、新出発している。

 2001年の5月3日まで、あと240日 - "第二の七つの鐘"を乱打しゆく瞬間も、眼前に迫った。

 21世紀に乱舞する、わが鹿児島の同志よ! 妙法の薩摩隼人たちよ! 誉れある先駆の大闘争を頼む。

 朝なタな、雄大な桜島を仰ぎながら、君の使命の舞台で、正義の砲撃を、歓喜の祝砲を轟(とどろ)かせていくのだ。

 今再び、誇りも高く「同志の歌」を歌いながら!


          (2000年9月6日付  聖教新聞) 


    霧島研修道場から桜島を望む







最終更新日  2020.09.07 22:17:49
2020.05.19
カテゴリ:広布史

​きょう「学会常住御本尊記念日」 広布の大誓願を胸に前へ  


 きょう5月19日は、「創価学会常住御本尊記念日」である。
​

 初代会長・牧口常三郎先生の殉教(じゅんきょう)から7年――1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖先生が第2代会長に就任した。


 “妙法流布の組織である以上、組織の中心軸は、言うまでもなく純粋無垢(じゅんすいむく)な信心しかない”
 この思いに立って戸田先生は、会長就任式の席上、広布前進の「金剛不壊(こんごうふえ)の大車軸」として常住御本尊を発願したのである。


 同月19日にあらわされた常住御本尊には、向かって右に「大法弘通慈折広宣流布大願成就」、左に「創価学会常住」と認められ、日蓮大聖人の御遺命である世界広布を実現しゆく学会の永遠の使命が厳然と刻印されている。この御本尊を「法華弘通(ほっけぐつう)のはたじるし」(御書1243ページ)として、学会は広布拡大にまい進してきた。


 6年後の57年(同32年)には、戸田先生の願業だった75万世帯の弘教を成就。そして第3代会長・池田大作先生の指揮のもと、仏法史上未聞の壮挙と輝く192カ国・地域への妙法流布を果たした。


 創価学会常住御本尊は現在、東京・信濃町の総本部に立つ広宣流布大誓堂に御安置されている。


5月3日の旭日と、東京・信濃町の広宣流布大誓堂。今、人間主義の「太陽の仏法」は全世界を照らす 



 池田先生は、大誓堂の落慶記念勤行会に、こうメッセージを寄せた。“我ら創価の家族は、この広宣流布大誓堂とともに、「ちかいし願」(同232ページ)をいよいよ燃え上がらせて、いかなる試練も断固と乗り越え、金剛不壊(こんごうふえ)にして所願満足(しょがんまんぞく)の大勝利の人生を、仲良く朗らかに飾りゆこう”――と。



 新型コロナウイルスの世界的大流行(パンデミック)という未曽有の危機に見舞われる今、生命尊厳、人間主義の仏法哲理は、いやまして光り輝く。


「題目を唱(とな)え奉(たてまつ)る音(こえ)は十方世界にとずかずと云(い)う所(ところ)なし」(同808ページ)と仰せのままに、全世界の平和安穏、自他共の幸福を開きゆく誓願の祈りを、一層深めていきたい。そして、心と心の絆を強める“励ましと和合のスクラム”を十重二十重(とえはたえ)に広げていこう。



(2020年5月19日 聖教新聞)







最終更新日  2020.05.19 12:02:57
2020.04.25
カテゴリ:広布史

​​先駆の闘魂は九州ありて 反転攻勢40周年

​ 今月、池田先生の63回目の九州訪問(1980年4月29日〜5月2日)から40周年の佳節を刻む。長崎、佐賀、福岡での激励行。創価の「反転攻勢の助走」となった広布史を、先生の随筆や指針などで紹介する。​

前へ進もう

 1980年(昭和55年)4月29日。池田先生は、第5次訪中を終え、空路、長崎空港に降り立った。
 1年3力月ぶりの九州だったが、 私を取り巻く状況の変化は激しかった。
​​​​​ 前年の4月、私は会長職を辞任した。反逆者(はんぎゃくしゃ)と悪坊主らが結託(けったく)し、私と学会員の絆(きずな)を断ち切ろうとする、どす黒い謀略(ぼうりゃく)が渦巻(うずま)いていた。​​​​​
​​ 九州の友も陰険(いんけん)な坊主をらに散々いじめられ、辛酸(しんさん)をなめ尽くした。その同志のもとへ自由に行けない———身を切られるような日々であった。​​
 しかし、わが同志は、私を待っていてくれた。
                ♢
​「さあ、新出発だよ。広宣流布の長征(ちょうせい)の開始だ。未来の扉を開こう!」​
​ 前進ある限り、希望の明日は来る。闊魂燃(とうこんも)える限り、未来は太陽の輝きに満ちている。​

信心し抜く

 先生は、長崎空港から長崎文化会館(当時)へ。そこで開催された記念幹部会に出席し、スピーチを行った。

 人生を勝ち越え、幸福になっていくには、どうすればよいか—。
​​​ 仏の生命も、地獄の生命も、わが心のなかにあります。その仏の生命を涌現(ゆげん)させることによって、崩(くず)れざる幸せを築いていくことができる。 それには、自身の一念を広宣流布に定(さだ)め、自他共の幸福の実現を誓って唱題し、信心し抜いていくことです。​​​

​​​ 日蓮大聖人は、「我もいたし人をも教化候(きょうへそうろう)へ」「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)と仰せです。広宣流布に走り、折伏・弘教に生きるならば、わが身に仏の大生命が诵現し、あらゆる人生の苦をば、大歓喜に変えていくことができる。ゆえに大聖人は、流罪の地である佐渡にあっても、「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり」(同1343ページ) と述べられているんです。​​​
                ♢
 世界広布は、まだまだ緒についたばかりじやないですか。いよいよこれからです。21世紀が本当の戦いです。
 皆さんは、うんと長生きしてください。そして、共に広宣流布に生き抜きましよう!

戦いは執念

 翌30日、先生は特急列車に乗って、長崎から福岡へと向かった。

 長崎から福岡に列車で移動する途中、佐賀駅のホームにも、わが同志が待っていてくれた。
​「佐賀よ、負けるな!佐賀よ、頑張れ!」と、窓越しに手を振り、目と目は涙と笑みに光った、あの瞬間は、今も鮮烈(せんれつ)に心に焼きついている。​
                ♢               
 戦いは「執念」である。あきらめないことである。

​​​ 砂を嚙(か)んでも、岩に爪(つめ)を立てても、断固として、目標に向かって前進する。この死に物狂いの執念(しゅうねん)があるところが、最後は勝つ! 断じて勝つ!​​​

正義の旗を

 30日夕刻、先生は、福岡市博多区の九州文化会館(現:福岡中央文化会館)に到着。車を降りて最初に向かったのは、会館に集って来た同志の元だった。

 5月1日、私は九州平和会館(当時)を訪問し、わが福岡の弟子に訴えた。

「広宣流布の胸中の旗を断じて降ろしてはならない!」

「折伏の修行の法旗を決して降ろしてはならない!」

「一生涯の成仏の、信心の炎の光を消しては絶対にならない!」

 私は一回、もう一回と、この言葉を強く繰り返した。
                ♢
 この日も、また関西に移動しゆく翌2日も、わが同志は、勇んで会館に駆けてこられた。
 私は、会館の広間で、ロビーで、庭で、愛する同志の輪の中に飛び込んでは激励した。さらに、5回、10回、20回と記念の写真に納まった。

 君も戦え!私も戦う!

 これが学会の強さだ!

 これが師弟の強さだ!
                ♢
​ 我らの天地から、大反擎の痛烈な先駆(さきが)けの地響きを起こしゆけ!​
​​ 戦いの魂(たましい)を、戦いの牙(きば)を、戦いの炎を失えば、わが同志を守れない。 正義を倒さんとする邪悪を滅亡させることもできない。​​

​​ この不撓不屈(ふとうふくつ)の闘魂(とうこん)を発揮し、勝利また勝利の歴史を綴ってくれているのが、福岡そして大九州の不二の同志なのだ。​​​


(2020年4月24日 聖教新聞地方版 九州支社)







最終更新日  2020.04.25 11:16:42
2020.04.11
カテゴリ:広布史

第3代会長就任60周年記念 
広布史アルバム <1> 「七つの鐘」構想の発表

弟子の戦いと栄光を信ずる

1958年(昭和33年)5月3日、池田先生が「七つの鐘」の未来構想を発表した春季総会(東京スタジアムで)

「広布史アルバム」では、写真と共に学会の広布史や各都道府県の友との師弟の絆などを紹介していく。​


 1958年(昭和33年)5月3日、東京スタジアム(後の日大講堂)で創価学会の春季総会が開催された。
 この日は、約1カ月前に第2代会長・戸田城聖先生が逝去してから、初めて迎える「5・3」だった。
 戸田先生の遺影が掲げられた会場で、当時、青年部の室長だった池田先生は「七つの鐘」の未来構想を発表。悲しみに沈んでいた数万の同志は皆、希望の前進の目標に奮い立った。
 先生は当時を振り返り、こうつづっている。

 新生の5月3日を目前に控え、私は一人誓った。
 「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。
 一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
 青年が、恩師の叫びを師子吼するしかない。弟子が学会精神の炎となり、師子奮迅の戦いをするしかないのだ。
 5月3日、私は、“7年を区切りに広布の鐘を打て”と語られた師の心をいだいて、広宣流布の希望の前進の目標となる「七つの鐘」の構想を発表した。
 6月30日には、学会でただ一人の「総務」となった。広布のため、全同志のために、決然と一人立ったのだ。
 「組織の力で、広宣流布が進展するのではない。それは、強盛な信心の『一人』の力による。ゆえに、一人の真正の師子がいればよいのだ」とは、戸田先生の結論である。
 ともあれ、一切の誹謗中傷を打ち破り、日本中が驚嘆する大発展をもって、2年後(昭和35年)の5月3日、私は第3代会長に就任した。
 地球上、いずこの地であっても、いつの瞬間であっても、不二の弟子が一人立つならば、そこに、創価の烽火は上がる。
 「いつか」ではない。
 「今、この時」だ。
 蓮祖は厳命されている。
 「いよいよ強盛の御志あるべし」(御書1221ページ)
 「いよいよ強盛に大信力をいだし給へ」(同1192ページ)
 いよいよ、新しき人間革命の本舞台の幕は上がった! 師弟不二の大いなる闘魂に燃えた、誠実一路の弟子を、私は待つ。
 その弟子の戦いと栄光を、私は信ずる。

 師子と立て
  師子と進めや
   師子と勝て

 春季総会(1958年〈昭和33年〉5月3日)で「七つの鐘」の構想に言及した池田先生は、同年5月12日の日記に次のように記した。
 5月3日の大総会を終え、学会は第二段階に入る。
 「“広布実現を目指して”と題する講演は、明確なる学会の指針を示せり」と、幹部より感謝さる。
 私の闘争は始まる。先生、ご照覧を。祈る、加護を。正義のわれを。


(2020年4月11日 聖教新聞)







最終更新日  2020.04.11 22:29:30
2020.02.11
カテゴリ:広布史

​​​​​戸田城聖先生 生誕120周年 記念特集
元初の誓い貫いた妙法の巌窟王

 戸田先生が生まれたのは、1900年(明治33年)2月11日。二つの世界大戦に象徴される激動の20世紀を生きた恩師は、「この地球上から悲惨(ひさん)の二字をなくしたい」と願い、妙法流布に一人立ち上がった。ここでは、池田先生がかつて、戸田先生の生涯について言及した三つのテーマをもとに、恩師の足跡(そくせき)を紹介する。

広布の大願に一人立つ
 今から120年前の1900年(明治33年)2月11日、戸田先生は石川県・塩屋(しおや)村(現・加賀市塩屋町)で生まれた。
 その後、北海道・厚田(あつた)村(現・石狩市厚田区)へ移り、20年(大正9年)に上京するまで北海道で暮らした。

 厚田の尋常高等小学校で学んでいた時のこと。成績優秀で、よく読書にも励んでいた戸田先生には、意外な“あだ名”があった。
 「ナポレオン」である。
 世界史の授業の折、教師がフランスの英雄・ナポレオンについて説明したが、その中に間違いがあった。戸田先生が誤りを指摘し、教師に代わって講義したことから付けられた。

 戸田先生の胸には、ナポレオンのごとく、必ず何かを成し遂げるとの情熱が赤々と燃えていた。16歳の時に詠んだ歌には、当時の大きな志が表れている。

 「太平洋 我漕(われこ)ぎ出でん 小舟にて 決心かたし 岩石よりも」

 戸田先生は、尋常高等小学校を首席で卒業した。だが、家計を助けるため、進学を断念。札幌にある雑貨問屋に年季奉公に出た。朝から夜遅くまで働きながら、寸暇(すんか)を惜(お)しんで勉学に打ち込んだ。

若き日の戸田先生。働きながら、勉学に励んだ
 17年(同6年)に尋常小学校准教員の検定試験に合格。真谷地(現・夕張市内)の尋常小学校に奉職(ほうしょく)した。
 19歳の時に上京した戸田先生は、生涯の師となる牧口常三郎先生と出会う。戸田先生の母は、旅立つわが子に、「どんな苦しいことがあっても、これを着て働けば、何でもできるよ」と、夜を徹して縫(ぬ)い上げたアツシのはんてんを贈った。母の慈愛がこもった織物は、先生の生涯の宝となったのである。

1.師弟
「報恩の誠」を尽くし抜く
 池田先生は、戸田先生の生誕110周年の折、恩師の生涯について、三つの視点で言及した。
 1点目は「師弟」である。

 創価学会の創立記念日は11月18日。1930年(昭和5年)11月18日、『創価教育学体系』の発刊が淵源である。
 牧口先生の教育学説を集約した『創価教育学体系』出版のために、戸田先生は原稿の整理や資金の提供を申し出た。完成した『創価教育学体系』の表紙の題字と牧口先生の著者名は、金文字で飾られた。そこには、師の学説を宣揚しようとする、戸田先生の弟子としての赤誠が込められていた。

1930年11月18日に発刊された『創価教育学体系』第1巻

 28年(同3年)、牧口先生と戸田先生は、日蓮仏法に帰依(きえ)している。当初、2人の師弟は教育改革をもって、人々の幸福、社会の繁栄と平和の実現を目指していた。しかし、「教育革命」の根底には、真実の仏法がなければならないことを自覚して、「宗教革命」への道を進んだ。

 だが、やがて軍部政府が思想統制を強めていく。迫害を恐れた日蓮正宗の宗門は43年(同18年)6月27日、牧口先生、戸田先生らを呼びつけ、「神札を受けてはどうか」と迫った。牧口先生は言下に拒否し、同年7月6日、牧口先生と戸田先生は、治安維持法違反(ちあんいじほういはん)と不敬罪(ふけいざい)の容疑で逮捕された。
 過酷(かこく)な獄中闘争の中、戸田先生は一日1万遍の唱題を重ね、法華経の精読を始めた。そして、44年(同19年)春、「仏とは生命なり」と覚知(かくち)する。さらに、獄中での唱題が200万遍に達しようとしていた同年の11月中旬、「われ地涌の菩薩なり」との悟達(ごくたつ)を得る。

戸田先生が獄中で使用した、牛乳びんのふたで作った数珠と、石盤に記された唱題の数

 この恩師の「獄中の悟達」について、池田先生は小説『新・人間革命』第22巻「新世紀」の章に、こうつづった。
 「創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の『獄中の悟達』にある」

 「『われ地涌の菩薩なり』との悟達こそが、学会の魂である。その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする『創価学会仏』たり得るのである」

 戸田先生は、法悦(ほうえつ)に身を震わせながら、「これでおれの一生は決まった。今日の日を忘れまい。この尊い大法を流布して、おれは生涯を終わるのだ!」と、「地涌の菩薩」の使命に生涯を捧げることを決めた。元初の誓願に一人立ったのである。

 この年の11月18日、牧口先生は獄中で生涯を閉じた。45年(同20年)1月8日、その事実を知らされた戸田先生は、心に誓った。
 “よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王(がんくつおう)の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう”

 同年7月3日、生きて獄門を出た戸田先生は、広布の大願に一人立った。師への報恩の誠を尽くす誓いの炎は生涯、燃え続けた。

 牧口先生の三回忌法要の席上、戸田先生は語った。
 「あなたの慈悲の広大無辺(こうだいむへん)は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」
 ここに、学会の師弟の真髄(しんずい)がある。師弟とは、弟子の自発的な意志があってこそ成立する「魂の結合」なのである。

 同年7月3日、生きて獄門を出た戸田先生は、広布の大願に一人立った。師への報恩の誠を尽くす誓いの炎は生涯、燃え続けた。

 
2.民衆
苦労した人の味方となれ
 2点目は「民衆」である。

 戸田先生は常に、民衆の中に飛び込んでは、一人一人が抱える悩みに耳を傾けた。会合や御書講義の折には質問会を持ち、信心への確信を呼び覚ました。

 第2代会長に就任した後、東京・市ケ谷にあった学会本部の分室には、恩師の指導を求め、多くの会員が訪れるようになった。

 ある日、農業を営む壮年が「幸せになれそうもありません」と打ち明けた。対話に歩いても歩いても、誰一人として聞いてくれないという。戸田先生は語った。

 「折伏ということは、難事中の難事だと大聖人もおっしゃっている。生命力を強くして、焦(あせ)らず、弛(たゆ)まず、やらなければならない仏道修行なんです。2、3カ月で落胆(らくたん)するようでは、生涯にわたる信仰者の態度とはいえない。しかし、あなたは、もう既に折伏を実践しているではないか。それだけでも大したことなんです」
 だが壮年は、うなだれたままだった。長年、出自による、いわれなき差別を受けていたのである。壮年が苦悩を明かすと、戸田先生は抱きかかえるように励ました。
 「世間が、どんなにあなたを迫害しようが、創価学会には、そんな差別は絶対にありません。戸田は、あなたの最大の味方です。また困ったことがあったら、いつでも私のところに来なさい」

質問会の席上、戸田先生が幼子に慈愛のまなざしを注ぎ、励ましを送る(1957年10月、静岡で)

 病苦や経済苦、子どもの非行など、悩みは千差万別であった。時には、学会のリーダーの姿もあった。戸田先生は、どんな人であれ悩みがあって当然だと、大きく包容した。
 戸田先生自身、幾多の辛酸(しんさん)をなめてきた。24歳の時には、生後7カ月の長女を亡くした。

 そのつらさを知る先生は、子どもを亡くした東北の同志に手紙を送り、「可愛さのため死んだ子を夫婦で抱いて寝た時の悲しみと苦しみは、今なお胸の中に生きている。さぞ君も悲しかろう。殊に奥様の心を思えば、なんとなぐさめて上げてよいか解らない」と、深く寄り添っている。

 学会本部の分室の個人指導は、本来は午後2時から午後4時まで。だが、午後5時を回るのが常だった。
 連日のように、戸田先生は3時間を超す真剣勝負の個人指導を続けた。それは、激しい疲労を伴った。まさに自らの生命を削って、一人一人に“希望の光”を届けたのである。

戸田先生が「山を抜く 力はみちたり 若き身に 励み闘へ 妙法の途(みち)に」としたため、池田先生に贈った御書

 恩師が個人指導に力を注いだことを通し、池田先生は小説『新・人間革命』第26巻「勇将」の章に、こう記している。
 「幹部の皆さんの、会合での指導と、個人指導の比率は、八対二ぐらいではないかと思う。しかし、二対八を目標にしていけば、もっと人材が育ちます。学会も強くなっていきます」
 苦しむ人の味方となり、立ち上がるまでエールを送り続ける──この「励ましの世界」こそが創価学会であることを、戸田先生は示したのである。

3.青年
偉大な弟子を育てた
 3点目は「青年」である。

 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」

 この「青年訓」を戸田先生が発表したのは、男女青年部が結成された2カ月後の1951年(昭和26年)9月である。

 当時、男子部の班長だった池田先生は、恩師の言々句々を心に刻みつけた。同年11月、学会の第6回総会の席上、池田先生は「青年の確信」と題して発表した。

 「じつにじつに宗教革命の道のいかに苦難であるかは、覚悟のうえです」
 その宣言は、「青年訓」に対する弟子としての“報恩の決意”にほかならなかった。

 翌52年(同27年)、蒲田支部の支部幹事の任命を受けた池田先生は、2月に一支部で「201世帯」という日本一の弘教を達成。戸田先生の生涯の願業である「75万世帯の弘教」の突破口を開いた。

 この月、戸田先生は青年部の教学研さんの成果を競う第1回「研究発表会」に出席し、全人類が一つの地球民族であるという「地球民族主義」の理念を提唱した。

 また、57年(同32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で開催された「若人の祭典」では、青年への「遺訓の第一」として、「原水爆禁止宣言」を発表した。
 「地球民族主義」も、「原水爆禁止宣言」も、戸田先生が発表の場に選んだのは、青年部の集いであった。その恩師の思想を、池田先生は世界に宣揚し続けてきた。

横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」に臨む戸田先生と池田先生。この閉会式で、戸田先生は「原水爆禁止宣言」を発表した(1957年9月8日)

 戸田先生が青年に強く望んだのは、広布に「一人立つ」ことである。54年(同29年)に発表した「国士訓」で、「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう」と訴えた。

 この一人立ち上がった青年こそ、池田先生である。恩師が心血を注(そそ)いで薫陶(くんとう)した不二の弟子は、文京、札幌、大阪、山口など、各地で勝利の金字塔を打ち立てた。

 58年(同33年)3月16日、6000人の青年が集い、広宣流布の記念式典が挙行された。戸田先生は「未来は、君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!」と、池田先生をはじめとする青年たちに、後事の一切を託した。

 同年4月2日、元初の誓いを貫(つらぬ)いた恩師の崇高な生涯は、58年で幕を閉じた。この日、池田先生は日記に「われは立つ」と書きとどめている。「妙法の巌窟王」の精神を継いだ、池田先生の不惜身命(ふしゃくしんみょう)の闘争によって、創価の人間主義の連帯は今、世界192カ国・地域へと広がった。

「私は、ただの一日たりとも、牧口先生、戸田先生のことを忘れない」──牧口先生、戸田先生の胸像を見つめる池田先生(1992年1月、神奈川・横浜平和講堂で)

 小説『新・人間革命』第2巻「先駆」の章につづられている。
 「“後継”と“後続”とは異なる。後方の安全地帯に身を置き、開拓の労苦も知らず、ただ後に続く“後続の人”に、“後継”の責任を果たすことなどできようはずがない。“後継の人”とは、勝利の旗を打ち立てる“先駆の人”でなければならない」

 広宣流布は「一人立つ」青年から始まる──いかに時代が変わろうとも、この方程式は不変である。

2001年、ブラジル・イタペビ市に誕生した「戸田城聖先生橋」。
この年、同市から池田先生ご夫妻に名誉市民の称号が授与されている​​​​​


(2020年2月11日)







最終更新日  2020.02.11 12:00:06
2020.02.01
カテゴリ:広布史
​​牙城会は師子と立つ! きょう2月1日は結成記念日

 牙城会はきょう2月1日、結成記念日を迎えた。
 厳護の魂を貫く友の連帯は今、世界各国に広がる。結成の淵源や、陣列の拡大に先駆する模範の地域を紹介する。

東京・八王子市の牧口記念庭園に立つ「牙城会の碑」。碑文には発表から40周年となる永遠の指針「信念の人」「努力の人」「忍耐の人」の文字が刻まれている

 1971年(昭和46年)1月――不況の嵐が社会を覆う中、懸命に仕事で実証を示そうと奮闘しながら、地域の会館を守るため、献身的に自主警備に当たる友らがいた。
 
 当時、「会館警備」「当番」などの名称で呼ばれていたグループである。それが全国組織となることが決まった。
 名称をどうするか。池田先生は提案した。「広宣流布の牙城を守る人材育成の組織だから、『牙城会』は、どうか」。そして同年2月1日から新体制での任務が始まり、事実上の結成となったのである。
 
 先生は小説『新・人間革命』第24巻「厳護」の章で、牙城会への思いをつづっている。
 「『牙城会』には、本部、会館を、学会員を厳然と守る使命がある。それは、私と同じ使命だよ」
 
 結成から49星霜。師から託された厳護の使命を胸に、地域や職場で勝利の実証を打ち立て、師弟共戦で広布の道を切り開いてきたのが牙城会である。
 明年は結成50周年。全国の牙城会の友は、人材と弘教の圧倒的な拡大を誓い、走る。

牙城会旗。
池田先生が第3代会長を辞任した翌年の1980年に完成した。当時、この旗を見た先生は語った。「獅子は負けないんだ。負ける者には旗は、いらないんだ」と

永遠の指針発表40周年 「信念」「努力」「忍耐」の人
 全牙城会員が生命に刻む指針がある。「信念の人」「努力の人」「忍耐の人」である。
 
 40年前の1980年(昭和55年)1月、池田先生は関西の地で行われた「第1回全国牙城会大会」にメッセージを寄せ、この“永遠の3指針”を示した。
 
 第1次宗門事件の嵐が吹き荒れ、池田先生が第3代会長を辞任した翌年である。創価の師弟の
を引き裂こうとした悪僧らの謀略によって、先生が会合に出席することさえ、ままならない時代であった。
 全国牙城会大会に駆け付けた友の胸には、誓いの炎が燃えていた。「今こそ弟子が立ち上がる時!」と。
 その心意気に応えるように、先生はメッセージで訴えたのである。
 「『信念』『努力』『忍耐』とは、指導者としての素質の基本であるとともに我が愛する牙城会への永久の指針であります」「私は心から尊敬し、諸君の偉大なる成長を見守っていく決心であります」
 
 後年、先生は、スピーチでこう振り返っている。「牙城会があったから、学会は護られた」「皆さまの労苦を、私は、よく知っているつもりだ」
 次の十年を開くその先駆もまた、牙城会にほかならない。

陣列拡大の模範の地域
<新潟>
弘教・人材の拡大に先駆する総新潟牙城会の師弟厳護総会(昨年12月、三条燕文化会館で)

 新潟・新発田圏の牙城会は、新発田文化会館、五泉文化会館、水原平和会館の三つの宝城の警備を担う。
 同圏では1年前から“師と同じ心で会館を厳護する友を一人でも多く糾合しよう”との思いで、任務に就くことが困難なメンバーへの訪問・激励を積極的に推進。池田先生の指導や牙城会員の活躍が紹介された資料を持参し、短時間でも共に確認する機会を設ける工夫を取り入れた。
 
 何度も友のもとへ足を運ぶ中で、仕事のことなど自身の悩みを語るメンバーが現れ始めた。
 ある友は、一家に宿命の嵐が吹き荒れる中で、任務から遠ざかっていたが、牙城会員の誠実な姿に、再び活動に挑戦することを決意。晴れて会館での任務に復帰した。
 こまやかな励ましによって、同圏では全国をけん引する「任務者増」を果たしている。
 折伏の勢いも加速。昨年、大病を勝ち越えた石原知幸さんが人生初の弘教を成就し、歓喜の輪が広がる。
 鈴木哲也委員長は「皆が“境涯革命の折伏”に挑み、勝利の実証を示します」と決意に燃える。

<愛知>
“勝利の一番星”と輝く中部牙城会の友が決意に燃えて(昨年1月、中部池田記念会館で)

 愛知・名古屋常勝総県の中心会館である名古屋南文化会館と、かつて「中部本部」が置かれた名古屋南平和会館。
 
 “中部広布の電源地”の誇りを胸に、両会館の任務に就くのが南池田区の牙城会である。
 
 8班体制で任務に当たる同牙城会では、班長が、班員の訪問・激励を徹底し、真剣に耳を傾けている。何度も足を運ぶなかで約10年ぶりに任務に就くことができた友もいる。
 また、毎月行う定例会や班長会などの集いでは、牙城会のテーマや実践5項の暗唱と共に、小説『新・人間革命』を学ぶ。
 そうした地道な人材育成の取り組みにより、現在は6人の新時代1期生が奮闘する。
 さらに弘教・拡大の勢いも加速する。昨年11月に区委員長に任命された堀田幸雄さんが、5年前から仏法対話を続けてきた友人に弘教を実らせた。
 堀田委員長は力を込める。「堅塁・中部の誇りに燃え、団結固く前進し、さらなる弘教・人材拡大に挑みます」

各国に広がる“GAJOKAI”――厳護の魂は世界まで

 60年前、池田先生が世界広布の第一歩をしるしたアメリカ・ハワイの牙城会の友。
 実践5項の一つ「誠実な応対」で来館者を迎える(ハワイ文化会館で)

 日本から見て地球の反対側に位置するアルゼンチンでも、学会厳護の使命に生き抜く友が活躍(アルゼンチン平和講堂で)

 昨年12月、日本の牙城会と韓国の宝城会の代表が、済州島の済州韓日友好研修センター
で研修会を実施。 共に語り、歌い、共戦の誓いを結んだ

チリ牙城会のメンバー。
 法華経の「当起遠迎、当如敬仏」の精神を身に体し、遠来の同志を真心で迎える(チリ文化会館で)

(2020年2月1日 聖教新聞)
​​






最終更新日  2020.02.01 10:00:51
2019.12.05
カテゴリ:広布史

きょう12月5日 中国・周恩来総理と池田先生の会見から45周年

学会青年部の代表が駐日中国大使館を訪れ交流会

 きょう12月5日は、池田大作先生が中国の周恩来総理と会見した日。1974年(昭和49年)12月5日、病身を押して会見に臨んだ周総理は、中国と日本の友好を、若き池田先生に託した。一期一会の出会いから45周年。総理の遺志を胸に先生が築いた「金の橋」を渡って、多くの後継の若人が友誼の絆を育む。今月3日には「12・5」を記念し、学会青年部の代表が駐日中国大使館に勤務する若手外交官の代表と交流会を開催。また、この佳節に当たり、周総理のめいに当たる周ヘイ徳(しゅうへいとく)氏から書簡が寄せられたほか、北京大鸞翔宇(だいらんしょうう)慈善基金会の沈清(ちんせい)理事長が学会への期待を語った(両氏の声と特集はここから)。

周恩来総理と池田先生の一期一会の会見。日中両国の未来を見据えての語らいは、当初の予定の時間を大幅に超えた(1974年12月、北京で)


 池田先生と周総理の出会いは、医師団の制止を振り切って、総理のたっての願いで実現したものだった。
 1968年に「日中国交正常化提言」を発表した先生と創価学会に注目し、期待を寄せていた総理は、「今後我々は、世々代々にわたる友好を築かねばなりません。20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」と語り、両国友好の未来を30歳も若い先生に託した。
 先生はその後、学会はもとより、創価大学や東京富士美術館、民音など、さまざまな分野で中国との民間交流を推進。折に触れて周総理との語らいを青年たちに紹介しながら、日中友好の後継の人材を育んできた。

 周公使参事官(前列左から4人目)をはじめ駐日中国大使館の代表と青年部が記念のカメラに(東京の駐日中国大使館で)
 東京・港区の駐日中国大使館で3日に行われた青年部と若手大使館職員との交流会は、両国の青年が相互理解を深め、一段と交流の輪を広げるべく開かれたもの。昨年12月に学会の総本部で実施した交流会に続く開催となった。
 
 初めにあいさつした周海泓(しゅうかいこう)公使参事官は、2度目となる交流会の開催を祝福。平和・文化・教育を柱に創価学会が中国各界と広げてきた民間交流は、中日両国の関係において重要な貢献を果たしてきたと言及した。
 その原点の一つが周総理と池田先生の会見であり、創価大学からも、両国の未来を担う若い人材が陸続と育っていると強調。両国関係が新たな時代を迎えた今、より質の高い交流を目指していかねばならないと述べ、青年交流を引き続き重ねていきたいと語った。
 
 志賀青年部長は、日中友好は青年部の使命であると力説。青年の往来の厚みを増しながら、友好の「金の橋」を一段と強固にしていきたいと力を込めた。
 また交流会では、中国の文化や教育分野の現状を学んだほか、今後の青年交流の在り方をテーマに、グループディスカッションも活発に実施。大串女子部長、付博(ふはく)二等書記官(青年読書会会長)があいさつした。


(2019年12月5日 聖教新聞)

〈社説〉2019・12・5 きょう、周総理との会見45周年

“友誼のバトン”を次代へ
 「池田先生とは、どうしてもお会いしたいと思っていました」──1974年(昭和49年)12月5日、中国・北京の305病院で、周恩来総理と池田先生の会見が行われた。きょうで45周年を迎えた。
 当時、がんを患っていた総理の体は極度に衰弱(すいじゃく)していた。会見をすれば、命の保証はできないと医師団は猛反対。しかし、“どんなことがあっても会わねばならない”と、総理は頑として譲(ゆず)らない。
 残り少ない命の時間を縮めてでも、総理が池田先生との出会いにこだわったのはなぜだったのか。総理は語っている。
 「池田会長は、中日両国人民の友好関係の発展はどんなことをしても必要であるということを何度も提唱されている。そのことが、私にはとてもうれしい」
 68年(同43年)、池田先生は日中国交正常化提言を発表。当時、文化大革命が先鋭化する時期にあった中国は、国際的に孤立していた。中国との関係改善を語れば、命を狙われかねない状況である。その中で行われた“「民衆対民衆」の視点に立って現状を打開せよ”との提言を、総理は高く評価した。日中友好を願うだけでなく、その実現へ心血を注ぎ、「行動」する先生の姿に、総理は“友誼のバトン”を託したかったに違いない。

 以来、いかなる風雪にも微動だにせず、先生は誠実な行動を貫いた。国交正常化後初となる国費留学生を創価大学に迎えるとともに、“顔の見える”交流こそ万代の友好の礎(いしずえ)との信念で、これまで幾度となく訪中団を派遣した。本年も日中友好青年交流団(8月)と女性訪中団(10月)が中国を訪れ、現地で交流の花を咲かせた。青年交流団のある参加者は「現地の方々の明るい素直な人柄に触れ、“隣人”から“大切な人”へと印象が変わった」と感想を述べている。


 先月末に、創価大学で開かれた中国語弁論大会。席上、美しいメロディーに乗せて、全参加者による歌声が会場に響き渡った。その曲は「桜花縁(おおかのえにし)」。池田先生と周総理夫妻の友誼(ゆうぎ)をうたったものだ。
 時は去り時は巡り
  現し世に移ろいあれど
  縁の桜は輝き増して
  友好の万代なるを語り継げり……
 “桜の咲く頃に、再び日本へ”──周総理の思いを胸に、池田先生は会見の翌75年(同50年)に「周桜」の植樹を提案。天高く伸びゆく“両国を結ぶシンボル”を見ようと、今でも来客が後を絶たない。
 桜を見上げる顔ぶれには、45年前の会見当時を知らない人も増えている。だが、道なき道を開いた池田先生や先人たちの思いを、私たちは忘れてはならない。“友誼のバトン”を継ぎ、次代に託すことが私たちの使命である。​


(2019年12月5日 聖教新聞 社説)







最終更新日  2019.12.05 19:00:52

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