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友のもとへ 池田先生の激励行

2018/12/17
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​友のもとへ 池田先生の激励行 

「冥の照覧」の輝き
自ら決めた使命の道を

足立青年平和文化祭の翌日、後片付けに汗を流す栄光会のメンバーを激励
               (1987年9月13日、東京・八王子の創価大学で)​


 第3代会長就任が決定した折、池田先生が最初にあいさつに訪れた場所――。
それは、学会本部の管理者室だった。
陰で厳然と広布を支える友こそ、最も尊敬し、大切にしていくべきとの信念ゆえである。
一貫して学会員に希望を送り続けてきた先生。とりわけ光の当たりづらい“陰の立場”で広布に尽くす友に深く感謝し、尊き労苦に敬意をささげてきた。
                     ◆◇◆
 奈良盆地のほぼ中央に位置する田原本町。弥生時代の文化遺産で知られる同地で、長年にわたって広布の会場を提供してきたのが、飯田豊八郎さん(奈良総県、圏主事)・勝子さん(地区副婦人部長)夫妻である。
 個人会場の「桜会館」が完成したのは、1979年(昭和54年)。来年、40周年を迎える。
青果店を営んでいた飯田さんが学会に入会したのは67年(同42年)。重い胃けいれんに苦しんでいたが、男子部の活動に飛び回る中で克服。当時、地域の同志が集まれる会場はなく、飯田さんは自宅の敷地にリンゴ箱を並べ、その上に畳を敷いた。
“いつか広布の会場を”と思い描き、勝子さんと二人三脚で店を守り育ててきた。
 念願かない、桜会館が完成。その2年後の81年(同56年)11月20日、奈良を訪問中の池田先生が同会館を訪れた。
 市場から、仕事着のまま駆け付けた飯田さん。先生は突然の来訪を詫びつつ、近況や悩みに耳を傾けた。
 来訪を聞き付け、地域の友が集まりだすと、先生は入り口に立って握手で迎えた。未入会だった飯田さんの兄には、「いつも大変にお世話になっています」と丁重に御礼を述べている。
 会場は、さながら座談会に。夫を亡くした婦人には「まじめに信心を貫いていくなら、必ず思ってもみなかった幸福の境涯を築けます」と。その場で「父子桜」と揮毫して贈った。
 地元の支部長には、法華経に説かれる「百福」を通し、「広布の会場は大切な宝城だ。会場提供の方に感謝し、近隣に配慮していくんだよ」と、いっそうの感謝と気配りを促した。
 飯田さんは述懐する。
「先生は会場に入る一人一人に声を掛け、笑顔と握手で迎えておられました。この時、“会場を提供する苦労もあるだろうけど、5人なら5人、10人なら10人、100人なら100人分の福運を持って来てくれる。会場に集う同志の功徳は、全て提供者の功徳になります。喜んで使ってもらうんだよ”とおっしゃいました。今、その通りになっていることを実感します。まさに『冥の照覧』です」
 地域を代表する青果店として、実証を示し続ける飯田さん夫妻。桜会館に集う同志と共に、さらなる広布建設を誓う。
                     ◆◇◆
 今月22日は「統監部の日」。本年、結成66周年の節を刻む。
同部の原点として語り継がれるのが82年(同57年)7月11日、信濃町で開催された全国統監部長会である。
 この折、池田先生は恩師・戸田先生の思い出に触れつつ、陰の労苦に光を当てた。
――かつて、草創の幹部の中に、“統監の作業は不必要”と主張する人がいた。だが統監は、単に組織の実態を把握するためだけに行うものではない。一人一人の幸福への歩みを記録する戦いである。広布のために、なかんずく一人を大切にするゆえに、統監は絶対に欠かせないと先生は訴えた。
 統監部の友に心からの感謝を述べ、先生は恩師の言葉を紹介した。「銀行の方々は、金銭の数字を数えている。出版者の方々は、本の部数を常に念頭に置いている。私ども創価学会は、地球上で最も尊厳な生命を守り、どれだけ人に妙法を受持せしめ、幸せにしたかということを数えるのである」
 全国統監部長会の終了後、先生は代表と懇談し、各地域の奮闘を心からねぎらった。直後、「広宣の 朝陽の英知を 照らしける 尊き労苦を 讃え残さむ」と和歌を詠み贈っている。
 この日、東北・宮城から参加した松浦正義さん(総宮城、副県長)。「日々の地道な活動が一家一族を照らす福運の輝きになっている。時がたつほどに、そう思えてなりません」
 79年(同54年)に石巻圏(当時)統監部長に就任して以来、目立たない場所にあっても、より心を尽くそうとする統監部員の姿を目の当たりにしてきた。
 2011年の東日本大震災。東北統監部長を務めていた松浦さんは、避難所や仮設住宅を友と回りつつ、状況を把握。励まし合いながら、不屈の一歩一歩を刻んできた。
「“学会は、幸せにした人を数えるのである”。この指針を抱き締めて、自分にできることを積み重ねてきました」
 戦前、中国・満州で生まれた松浦さん。父は抑留先のハバロフスクで戦病死。妹2人も栄養失調で亡くしている。
 終戦の翌年、7歳で日本に引き揚げ、23歳の年に入会。会計士事務所などに勤めた後、松浦さんは半世紀ぶりに生まれ故郷・中国の地を踏んだ。
 よみがえる戦乱の記憶。悲哀と向き合い、近隣国との草の根の交流を強く誓う。以来、中国を8度、ロシアを5度訪れた。
 父を亡くした地で戦没者の遺骨収集に尽力し、中国では植林事業を推進。県の日中友好協会理事、市の遺族会理事、シルバー人材センター理事をはじめ、地区会、交通安全協会などで要職を担い、広布と地域に尽くす日々だ。
                     ◆◇◆
 空が白み、朝日が差し込む創価大学。構内には、工具を手に黙々と汗を流す男たちがいた。
前日(87年9月12日)の「足立青年平和文化祭」を大成功で終え、泊まりがけで後片付けに取り組む「栄光会(設営グループ)」の友である。
文化祭では、大小の川に囲まれた足立を象徴する、橋をイメージした舞台を制作した。
メンバーは若手ばかり。仕事と学会活動を懸命に両立し、制作現場に駆け付けた。
本番では、精魂を込めた舞台の上で、2200人の同志が躍動。池田先生は米国のキッシンジャー元国務長官らと出席し、青年たちの雄姿をたたえ、喝采を送った。
 翌朝、解体作業に取り組む友の胸には、全てをやり遂げた感無量の思いがあった。
 そこへ役員が早足でやって来た。バナナの差し入れだった。
「池田先生からです!」
まだ早朝である。手を止め、驚いて顔を見合わせた。
朝早くから作業する栄光会の姿を、先生は近くの建物から見守っていたのである。
さらに正午頃。その建物から出てくる人影が見えた。車が待つロータリーではなく、栄光会の方へ近づいてくる。
“池田先生だ!”
整列し、かしこまる友に、先生は深く頭を下げた。
「いつも本当にありがとう! これから学会本部に戻ります」
先生が大学を出た後も、激励は続いた。
「陰の戦いに徹するのが栄光会です。でも池田先生は、そんな私たちに、いつも光を当ててくださいました。生涯、地道な広布の戦いに尽くそうと誓いました」(木村弘美さん〈東京・足立総区、副本部長〉)数日後、皆で感謝を手紙にしたためた。漢字が苦手だった粟野稔さん(同、副本部長)も後継の誓いを懸命につづった。
 中学を卒業後、建築現場で下積みを重ね、40代で起業。従業員の給料が払えない日々もあったが、祈りを根本に全ての仕事を二つ返事で引き受け、完璧に仕上げた。やがて借金を完済し、新しい社屋と念願の個人会館を建設。
 その間、腎臓病や脳梗塞にも襲われたが、不思議と守られ、不死鳥のごとく全快を遂げてきた。
 粟野さんは胸を張る。
「“くぎ一本”をおろそかにしない。全てが広布のお役に立つ。そう信じて進んできた結果です」
                     ◆◇◆
 79年(昭和54年)3月13日、東京・信濃町の聖教新聞本社の一室で、各地の文物を紹介する展示が開かれていた。
 見学していたのは埼玉・川口の婦人部員。本紙の配達に走る「無冠の友」である。
丹念に鑑賞していると、何人かが「あっ」と声を上げた。
「こんにちは!」
扉の方に目を向けると、そこには池田先生が。配達員が見学に来ていると聞き、激務の合間を縫って立ち寄ったのだ。すかさずメンバーが駆け寄る。
「配達員の皆さんですね。いつも、本当にご苦労さま」
 年配の婦人を見つけると、先生は全てを包み込むようにして日頃の苦労をねぎらった。「先生は、その方の健康を案じておられたのだと思います。何回かお題目を唱えられ、“大丈夫、健康になるよ”と語られました。もう、感動で胸がいっぱいで」(上田あつ子さん〈総埼玉、支部副婦人部長〉)


 さらに先生は、一人一人の顔を見つめて言った。
「何があっても、全て信心で受け止めていきなさい。創価学会から絶対に離れてはいけないよ。いつまでも長生きしてくださいね」
 部屋にあったピアノに、先生が歩み寄る。
「何か弾きましょう」
優しく流れる「月の沙漠」や「うれしいひなまつり」の旋律に、友は目にそっとハンカチを当てた。“生涯、先生と苦楽を共にします”と誓った。
 池田先生が第3代会長を辞任したのは、この出会いから約1カ月後のことである。
其山ヒロ子さん(総埼玉、支部副婦人部長)は、「先生の真実を私たちが伝えようと決意しました。毎日、『先生、頑張ります!』と心で叫びながら、新聞を配達しました」。
上田さん、其山さんは、20年以上にわたって配達に尽力。水の流れるような持続の信心は、地域広布の要の存在と輝く。
 雪の朝も寒風の日も、また学会を障魔の烈風が襲った時も、先生の心をわが心とする無冠の友の奮闘によって、広布は盤石なものとなった。
                     ◆◇◆
 人間の「本当の偉大さ」とは何か。
 池田先生は語っている。
「脚光もない。喝采もない。それでも、自分が決めた使命の舞台で、あらんかぎりの、師子奮迅の力を出し切って、勝利の金字塔を、断固、打ち立てていく。その人こそが、最も偉大なのである」陰の人を決して見逃さず、心から感謝し、たたえ合う。
そこに学会の強さと温かさがある。


(2018年12月17日 聖教新聞)







Last updated  2018/12/17 07:51:08 PM
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2018/11/23

友のもとへ 池田先生の激励行

​10  反転攻勢の四国指導
 広布史に 輝くロマンの 詩国あり

 「学会創立の月」である11月は、四国の同志にとって、師との不滅の原点が刻まれた月だ。
 それは、1981年(昭和56年)11月の四国指導。「反転攻勢」と呼ばれる、池田先生の激励行は、師弟の絆を分断しようとする邪宗門(じゃしゅうもん)の謀略(ぼうりゃく)を打ち破り、世界広布へ、学会が飛翔(ひしょう)する一大転機となった。
 井上里子さん(徳島総県、県婦人部主事)は述懐(じゅっかい)する。「第1次宗門事件の勃発後、宗門の悪僧は、口を開けば学会への罵詈雑言(ばりぞうごん)ばかりでした」
 まさに、「衣(ころも)の権威(けんい)」で信徒を隷属(れいぞく)させようとする策謀(さくぼう)であった。そこには、日蓮仏法の精神など微塵(みじん)もなかった。


 卑劣(ひれつ)な学会攻撃に臆(おく)せず、四国の友は師を求めて大型客船「さんふらわあ7」号で神奈川の地へ(80年1月、5月)。井上さんも夫の保さん(同、圏主事)と共に乗船した。
 さらに81年10月、四国青年部は、先生の平和行動展を開催。聖教新聞にさえ先生がほとんど登場できない中で、自発的に企画・推進した催しであった。
 この友の心意気に応え、11月9日、先生は関西から空路、徳島・香川へ。四国4県の集いにそれぞれ出席し、反転攻勢(はんてんこうせい)の闘争開始を宣言したのである。
 「とうとう来ましたよ! 約束を果たしにまいりました!」
 完成間もない徳島講堂に、先生の力強い声が響く。記念の勤行会に出席した先生は「どんなことがあっても、今日は一目でも一足でも、徳島に入って約束を果たしたかった」と。
 同日の夕刻、先生は徳島文化会館(現・徳島平和会館)を初訪問。徳島のリーダーらと懇談し、一人一人の奮闘に耳を傾けつつ、“皆から愛されるように頑張りなさい”と指導した。


 懇談に同席した井上さんは、「“絶対に先生を裏切らない。実証を示して、必ず学会を守っていこう”と決意しました」。
 産後の肥立(ひだ)ちが悪く、体調を崩(ぐず)した井上さん。わらにもすがる思いで他宗教を転々とし、たどり着いたのが学会だった。
 「入会する時は、夫も家族も皆、反対。でも、御本尊の前で初めて勤行した時、なぜか涙がポロポロ出てね。口で言い表せないほどの感動、喜びが、命から吹き出してきたのを今でも覚えています」
 唱題に励む中で体調を回復した井上さんは、農作業に精を出し、家族にも誠実に尽くした。その姿に、保さんや他宗の檀家総代をしていた義理の父など、家族や親戚も信心を始めた。
 「ただただ池田先生の指導を学んで、学んで、ひたすら実践してきました」と語る井上さん。圏婦人部長を務めていた時には徳島講堂で総会を開催。雪深い地域から10数台の貸し切りバスで大勢の部員、友人が参加した思い出は忘れられない。
 地域では吉野川市の老人会会長などを歴任。現在は近隣の高齢者が参加する体操グループで中心者を務めている。
 保さんは小学校校長などを歴任。長女の千賀子さん(同、婦人部副本部長)も幼稚園の園長として、教育の道で奮闘した。次女・葉子さんは婦人部本部長、三女の里美さんは地区副婦人部長として後継の道を進む。
 まもなく87歳を迎える井上さん。「今、30代の青年と仏法対話しています。先生にご恩返しするには、広布拡大しかないですからね」と、自ら決めた誓いの道を歩み続けている。
                     ◆ ◇ ◆ 
 徳島での指導を終えた池田先生は、瀬戸内海を望みつつ、香川の四国研修道場へ。記念幹部会(11月10日)で呼び掛けた。
 「もう一度、私が指揮を執らせていただきます!」
 「私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
 その宣言に真っ先に呼応したのは、四国の青年部であった。
 11日夜、研修道場に集った青年リーダーたちは「我々の決意を込めた歌をつくろう」と決め、夜通しで作詞を続けた。
 翌日、懇談会直前に歌詞が完成。「歌の中に先生の魂を入れてください!」と懇請(こんせい)すると、先生は「1行目が勝負だよ。太陽が、ぱっと広がるような出だしでなくてはいけない」と。
 冒頭の「ああ黎明の」を「ああ紅の」と書き換え、メロディーを口ずさむ。行事の合間を縫い、先生は青年部と対話を重ねながら歌詞を紡いでいった。
 直しが入った歌詞を、男子部メンバーによる即席の合唱団が歌い、それをカセットテープに録音して先生のもとへ。推敲(すいこう)は20数回に及んでいる。

 合唱団の一人が、男子部部長だった武智利明さん(総愛媛、支部長)。待ちに待った先生の四国訪問を聞き、愛媛・松山から四国研修道場に駆け付けた。
 「言葉が一つ変わるたび、歌全体が劇的に生まれ変わるようでした。同志を思う先生のお心に、身が引き締まりました」
 「紅の歌」の3番冒頭の歌詞について、先生は語っている。
 「今日の創価学会は、君たちのお父さんやお母さんが、世間の非難中傷を受けながら、必死に築いてきた」
 愛媛広布の草創期に入会し、一途な信心を貫いてきた母・タミ子さんに続き、武智さんは中学3年の時に入会した。母子家庭で生活は困窮(こんきゅう)していたが、日大講堂での高等部総会や夏季講習会には、旅費を工面して武智さんを送り出してくれた。
 地元の大学に進学後、20歳を迎えた武智さんを見届けるかのように母が亡くなった。
 武智さんは友の励ましを支えに、苦学を重ねて卒業を勝ち取り、学校事務職員に。“亡き母の分まで一人立とう”と、広布に走った。
 「『紅の歌』を通して、信念に徹する生き方を教えていただきました。感謝は尽きません」
 今月15日に入会50年の節を刻んだ武智さんは、総愛媛の国際部員としても積極的に活動。後継の子や孫と和楽の実証を示し、県のレスリング協会監事としても活躍する。
 「“すごい歌だ!”と、推敲(すいこう)が重ねられるたびに、皆が頬(ほお)を上気させていました」
 そう回想するのは、森本龍己さん(高知総県、本部長)。
 「紅の歌」の推敲作業が続けられていた11月13日、四国研修道場では高知支部結成25周年を記念する勤行会が開催された。森本さんは創価班として場内整理を担当していた。
 先生は勤行会の参加者をはじめ、各部の友や役員を激励し、多くの友とカメラに納まった。その合間を縫って、同道場で歌の作成が進められた。
 会合後、駐車場で誘導に当たっていた森本さんが、全参加者が帰途に就いたのを見届けた時のこと。目の前に車が止まり、池田先生が降りてきた。
 「記念撮影をしよう」
 寒風の中に凜(りん)と立つ労をねぎらい、感謝を語る先生。その写真は、森本さんの自宅の仏前にずっと掲げてある。
 「あの時、寺に行くたびに、“学会では成仏できない”と中傷されました」。葬儀や法事の場で、これ見よがしに学会を批判する宗門僧の仕打ちに、同志は耐え忍んできた。
 「先生の激励に、“広宣流布をしているのは、他の誰でもない。私たち学会なんだ!”との誇りが湧き上がりました」
 高知・いの町で建築業を営む森本さん。昨年は3人、本年は5人に弘教を実らせた。
 「『紅の歌』の『魁光(さきがけひか)りぬ丈夫(ますらお)は』の作詞を通し、先生は『男子部は先駆たれ。一人一人の戦いが“光る”ことが大事だよ』と教えてくださいました。一つ一つの会合に、まず自分が、学会の素晴らしさ、師匠の偉大さを語り抜いて集う。そのリズムで今も戦っています」
 森本さんが中心となって結成した圏壮年部の「土佐龍馬(とさりょうま)合唱団」は今年で10周年。広布を担う多くの人材を輩出している。
                     ◆ ◇ ◆ 
 81年の四国指導で、先生は、後継の若き友とも幾多の出会いを刻んだ。師弟共戦の魂は今、次の世代に脈々と流れる。
 11月13日、岡宏子さん(香川総県、圏副婦人部長)は、長女・英子さん、長男・秀浩さんと共に、四国研修道場で師と記念のカメラに納まった。次男・俊雄さんも、師と握手を交わした。
 「先生は未来部員に温かく声を掛けてくださいました。子どもたちにとっても忘れられない原点となりました」
 岡さんは60年(昭和35年)12月、高校時代に入会。女子部では部隊長も務めた。68年(同43年)6月の四国本部幹部会では、清掃の責任者を。開会前に作業を終え、会場の側で待機していた時、思いがけず師との出会いを結ぶ。
 先生は陰の労苦をねぎらい、岡さんと握手。「いい奥さんになるんだよ」と声を掛けた。その年の末に、茂雄さん(同、副県長)との結婚が決まっていた。「生涯、師弟に生き抜こうと誓った瞬間です」
 だが、結婚直後に茂雄さんの勤め先が倒産。さらに起業した会社が、オイルショックの影響で再び倒産の憂(う)き目を見る。
 岡さん夫妻は“今こそ宿命転換の時”と定め、祈り抜く。茂雄さんは木工製品の製作会社を立ち上げ、懸命に仕事に取り組みながら、学会活動にも一歩も引かずに挑戦。県の副青年部長まで務め、先生の四国訪問の折には役員として何度も任務に当たった。今、会社の業績は、堅調を維持している。
 師と出会いを刻んだ3人の子どもも、後継の大道を。長女の英子さんは香川で支部婦人部長、長男の秀浩さんは地区部長、次男の俊雄さんは副支部長として広布の最前線で奮闘する。
 「子どもたちが広布の志を継いでくれていることが、何よりの喜び」と岡さん夫妻。報恩の心で友情のスクラムを広げる。
                     ◆ ◇ ◆ 
 池田先生は、四国を「志国」とたたえる。
 第1次宗門事件という広布破壊の障魔(しょうま)の嵐が吹き荒れた時、四国の友は、師弟という一点に徹し抜いた。
 さらにまた、先生は四国を「詩国」とたたえる。
 先生が「桂冠詩人」の称号を受章して、初めて作詞した歌は「紅の歌」である。81年の四国指導の数々の激励は今、「励ましの詩」となって一人一人の心に深く刻まれる。
 先生は、“反転攻勢”の天地・四国への万感の思いを詠(よ)んだ。
  
 広布史に
  輝くロマンの
   詩国あり
  師弟で綴らむ
    凱歌を未来へ


 (2018年11月23日 聖教新聞)







Last updated  2018/11/23 07:39:17 PM
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2018/10/29

友のもとへ 池田先生の激励行 ​

​9  誉れの英雄 農漁光部

世界一なる心の長者よ

 池田先生ご夫妻が、香川で花卉栽培を手掛ける辻村清一さん㊥宅へ。温室を見学し、地域貢献に尽くす辻村さん一家の労をねぎらった(9172年6月19日)

 創価学会に農・漁業等に従事する農村部(現・農漁光部)が誕生したのは、1973年(昭和48年)10月。今月で45周年を迎えた。
 人間の生活の営みは、「食」を支える人々の奮闘によって成り立っている。
 ゆえに、第3代会長に就任して以来、池田先生は一貫して祈り続けてきた。
 「豊作であるように」
 「豊漁であるように」
 そして、“農漁村に最大の感謝と最敬礼をささげることこそ、正しき「人間の道」「生命の道」である”と、農漁光部の友に励ましを送り続けてきた。
 「“花のおかげで、池田先生がわが家に来てくださった。だから花を作り続けて、花の中で死んでいきたい”――義理の父母はいつも語り合い、先生との出会いに感謝していました」
 辻村厚子さん(四国副婦人部長)は、そう振り返る。​


 72年(同47年)6月19日、池田先生は香川で花卉(かき)業を営む辻村清一さん・喜三枝さん夫妻(ともに故人)宅を訪れた。
 ガラスの温室では、菊やカーネーションが胸元まで伸び、色とりどり。一花一花をめでる先生に、「花を切ってみてください」と清一さんが勧める。
 「切っていいのかい? きれいなお花を切るなんて初めてだよ」。先生は慎重にはさみを入れ、栽培の苦労に耳を傾けた。
 香川で花卉栽培(かきさいばい)を始めた清一さん夫妻は、学会活動にも懸命に励んだ。県で初めてガラスの温室を導入。同業者で組合を立ち上げて出荷先を広げるなど、地域の旗振り役となっていた。
 地道に実証を積み重ねてきた夫妻に、先生は「爛漫と 功徳の花あり 金の家」と揮毫し、贈っている。
 その後も「忘れまじ あの日の出会い 6月19日」と書き記して厚子さんに贈るなど、真心の交流を重ねてきた。
 93年(平成5年)12月、香川を訪問した先生に厚子さんが感謝を伝える機会があった。
 そこでは、厚子さんが学生時代に高村光太郎の詩集『智恵子抄』を愛読していたことが話題に。先生は「広布の中で、自分自身の詩を書いていくんだよ。“厚子抄”でいこう」と。そして、清一さん夫妻への心からの感謝を、厚子さんに託した。
 清一さん夫妻は亡くなる直前まで温室に立ち、地域に友好を広げてきた。
 その父母の心を継ぎ、四国農漁光部女性部長として激励に走る厚子さん。何度も励ましを重ねてきた香川・小豆島の婦人部員は、逆境をはね返して地域再生の灯台として光る存在に。そうした友の奮闘を、池田先生は地元の「四国新聞」への寄稿で紹介した。
 農漁光部に寄せる師の真心を胸に、厚子さんは地域に爛漫と功徳の花を咲き薫らせている。
                    ◆ ◇ ◆
 77年(昭和52年)2月17日、農村部の第1回勤行集会で、池田先生は、農漁光部の指針となるスピーチを残した。
 「何十年、何百年先の展望のうえからも、妙法下種の“当体”であり“灯台”としての使命を果たしていくとき、それは壮大にして根源的な広布の礎となっていくのである。こうした観点から、私は“下種の灯台”“地域の灯台”“学会の灯台”たれ、と申し上げておきたい」
 佐々木登さん(総秋田、副県長)は、この指針を命に刻む。
 日本屈指の大規模営農を誇る秋田県・大潟村(おおがたむら)。琵琶湖に次ぐ大きさだった八郎潟(はちろうがた)を干拓してできた。佐々木さんはこの大地で、16ヘクタールの田畑を用いて、米、麦、大豆を生産している。
 56年(同31年)、貧乏のどん底の中で母が入会。翌年、佐々木さんも続いた。
 徐々に経済革命を果たし、耳が不自由だった兄が聴覚を取り戻した姿に、信仰の確信を深める。創価学園開校の知らせを聞くと、受験を決意。誉れの1期生として合格を勝ち取った。
 高校2年に進級する前のある日、数人の生徒と一緒に校内の一室に呼ばれた。皆、成績が振るわない生徒だった。部屋で待っていたのは、創立者の池田先生だった。
 先生は、佐々木さんの体調を気遣いつつ、力強く語った。
 「21世紀が君の舞台だ。どんなにつらいことがあっても、苦しいことがあっても、絶対にやけになってはいけない。やけになったら自分の負けだ。歯を食いしばって頑張るんだよ」
 温かな慈愛が心に染みた。創価大学へ進学し、卒業後は地元の工務店に就職。85年(同60年)、妻の陽子さん(総秋田、地区副婦人部長)との結婚を機に婿養子となり、大潟村へ。工務店を辞め、農業を始めた。
 これまで、台風が一夜で多くの籾を落としてしまったことや、自身が体調を崩したこともあった。苦難に直面するたびに、学園時代の師の励ましを思い起こし、歯を食いしばった。
 陽子さんや家族と団結し、作物と対話する思いで様子を見回り、愛情を注いで作業に当たる中で、村でトップの収穫高を上げたこともある。
 地域の発展にも尽くそうと、村の取り組みである「子ども海外研修実行委員会」で長年、実行委員長を務め、韓国の中学校との交流を推進。現在も顧問として奮闘する。
 「自然と共に生きる喜びを胸に、“地域の灯台”を目指し、さらに精進していきます」
                   ◆ ◇ ◆
 瀬戸内海に浮かぶ「走島(はしりじま)」。この島で15年連続トップとなる「ちりめん」の水揚げを誇るのが、小林モトコさん(総広島、支部副婦人部長)一家が営む「功保水産」である。
 小林さんが姉の勧めで入会したのは67年(同42年)。祈るほどに体に力がみなぎり、信心への確信を強めた。しかし、地域に学会員は小林さん一人。島民は学会に批判的だった。
 そんなある日、出漁の準備が整ったのに、漁の仲間が姿を見せない。信心を始めた小林さんへの露骨な嫌がらせだった。
 やがて、漁に出ることができなくなった。だが、小林さんは負けない。皆が寝静まった頃、御本尊に向かった。
 畳に穴があくほど時を忘れて祈る中、一家で新たに始めたのが「ちりめん漁」だった。
 ほそぼそと漁を続けていた小林さん一家に、大きな転機が訪れたのは75年(同50年)。原因不明の皮膚病に悩んでいた夫の実二さん(総広島、地区幹事)が入会を決めた。
 「同志」を得て、小林さんの祈りに拍車が掛かった。さらに第3回離島総会(80年11月)で師との生涯の原点を刻む。
 この総会で、池田先生は小林さん夫妻に呼び掛けた。
 「走島の皆さんを照らす灯台のような存在に!」
 「灯台」と聞き、小林さんの祈りが変わった。
 「最初は、悠々と題目を上げたいというのが一番の願いでした。でも先生は、『灯台』と言われた。だから、実証を示して走島を引っ張っていこうと心から誓いました」
 “先生の期待にお応えしていこう”――その夫妻の唱題に呼応するように、漁獲量は増加。船や設備も拡充し、島全体の近代化を先導した。
 小林さん夫妻のちりめんは、最高級のブランドとして知られるようになった。夫妻の信心の実証に、島民の学会理解も深まり、地域世帯の3分の1以上が本紙を購読したこともある。
 ちりめん漁は、次男の清剛さん(同、開拓長〈ブロック長〉)が後を継ぐ。嫁の和美さん(同、支部婦人部長)や孫に囲まれる今、小林さん夫妻の胸には、人々に希望を示す「灯台」にとの誓いがいや増して燃えている。
                   ◆ ◇ ◆
 千葉・木更津市の干潟でノリ養殖、定置網を利用したすだて漁を営む実形博行さん(総千葉、地区部長)。3代目として、40年近く海と共に生きてきたベテランだが、「相手は自然。“こうすれば、こうなる”という努力が通用しない難しさがあります」と語る。
 ノリの胞子を付けた網を海に出すタイミング、網の張り方、水温の微妙な差。さまざまな要因によって、すぐ隣に張った網と結果が違うことも。昨年は台風に漁場を荒らされた。「それでも納得のいく味に育って、“新ノリ”を口にした時の喜びは格別です」
 2007年(平成19年)、漁師仲間数人でNPO法人をつくり、昔ながらのアサクサノリを再現。その模様がNHKで生中継された。
 すると、実家がノリ製造業を営んでいた池田先生から、親しみのこもった伝言が届いた。
 「テレビを見たよ。私はアサクサノリの本家本元なんだよ」
 “地方の一漁師に、ここまで心を砕かれるのか”。妻の和子さん(同、支部婦人部長)と共に、胸を熱くし、師への報恩を貫く生涯を誓った。
 5年前、作業中に右手が機械に巻き込まれる大けがを負ったが、手術は成功。後遺症もなく、仕事に復帰することができた。地域では「木更津金田の浜活性化協議会」で会長を務めるほか、東京の小学校で10年以上、ノリ養殖の体験教室に携わる。
 昨年、地区部長に就き、人材拡大に奔走する。長女のゆりやさんは総県女子部長、次女のあやさんは県女子部長、長男の謙さんは男子部部長と、広布後継の大道を進む。
 実形さんの入会当初、信心に大反対だった母の初惠さんも、温かな創価家族に触れ、本年春に御本尊を受持した。
 「『一人を大切に』との指針を誰よりも実践されているのが池田先生だと思います。地域で、広布の舞台で、さらに実証を示します」
                    ◆ ◇ ◆
 池田先生は農漁光部の友への万感の思いを詠んでいる。
 朗らかに
  いのちの讃歌の
   農漁村
  閻浮一なる
   心の長者よ
 先生の励ましを思う時、農漁光部の友の心には、不屈の前進の魂が湧き立つ。
農漁光部歌「誉れの英雄」を高らかに響かせ、地域の灯台として活躍する一人一人を、師は合掌する思いで祈り、見つめている。



(2018年10月29日 聖教新聞)







Last updated  2018/10/29 09:26:53 PM
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2018/09/19
​友のもとへ 池田先生の激励行 8   

炎の九州縦断指導

師子の如く先駆の道を

 「先駆は常に嵐」
 「先駆は常に激戦」
 「先駆は常に労苦」
 池田先生が九州の友に示した指針である。
 「先駆」──その使命に燃え、九州の友は熾烈(しれつ)な障魔(しょうま)の嵐を勝ち越え、新たな広布の歴史を切り開いてきた。


 池田先生の九州訪問の中でも、1990年(平成2年)9月22日からの激励行は、“嵐の九州縦断指導”として、友の不滅の原点と輝く。
 韓国初訪問の帰途、先生は空路で九州入りした。福岡、佐賀、熊本と南下し、鹿児島へ。この時、台風が接近していた。嵐が迫る中、先生は鹿児島行きを断行した。
 折しも第2次宗門事件が表面化する直前。“嵐”を前に刻まれた11日間の九州縦断指導は、激務の合間を縫って、一人また一人に勇気の炎をともす励ましの連続であった。
                         ◆ ◇ ◆ 
 韓国をたった先生が福岡に到着したのは、90年9月22日の夜。23日には修学旅行中の関西創価中学生と記念撮影を行い、九州最高会議に出席。翌24日、佐賀を訪問した。
 「来たよ!」「13年ぶりだったね」──先生は懐かしそうに語り、草創の同志の出迎えに応えた。
 その一人が中本民夫さん(故人)。長年、県長として佐賀広布に力を尽くし、5人の子を創価の学びやに送り出してきた。
 先生は、家族の様子を報告する中本さんの話にじっくり耳を傾け、「子どもが後継の人材としてしっかり育っていることは、すごい財産だ。生々世々、功徳は大きいよ」とたたえた。
 さらに、「佐賀は『栄えの国』だ」「これからどんどん良くなるよ。日本一、世界一の都になる」と万感の期待を語った。
 炭鉱が盛んだった北波多村(現・唐津市)に生まれた中本さん。両親共に家計を支えるため、幼い頃から働き、十分な教育を受けることができなかった。
 わが子に同じ苦労をさせまいと奮闘する両親のおかげで、中本さんは東京大学に進学。化学繊維会社に就職した後、地元に戻って家業を手伝った。

 77年(昭和52年)5月、佐賀を訪問した先生が中本さんの両親を会館に招き、広布の労をねぎらった。中本さんは一人を大切にする師の姿を心に焼き付け、弘教に駆けてきた。
 長女の登坂妙子さん(九州総合婦人部長)は、そうした“先生一筋”に生きる父の背中を見て育った。
 創価大学に学んだ後、東京で働き始めていた登坂さんにとって、忘れられない師との原点がある。社会人1年目の時、地元・佐賀への転勤の話が来た。その折、女子部の代表として、東京・立川文化会館で池田先生と懇談する機会があった。
 先生は語った。「どこにあっても同じだよ。私と一緒に広宣流布の大道を歩むのだから」
 師の一言に、心がぱっと晴れた。佐賀に戻った登坂さんは、女子部のリーダーとして、友の激励に奔走。“今、ここが池田先生との共戦の舞台”と定め、自分を奮い立たせてきた。
 登坂さんは佐賀県女子部長等を歴任し、結婚して福岡へ。先生の90年9月の佐賀訪問では、父の中本さんと佐賀文化会館に駆け付けている。
 会館のロビーで、「佐賀に来てくださり、ありがとうございます!」と感謝を述べると、先生は、九州の地で元気に活躍する登坂さんとの再会を喜び、心から祝福した。
 その後、登坂さんは九州婦人部長として友の激励に奔走。2人の子も広布後継の道を歩む。
 祖父母、両親、登坂さん、子どもたち──。4代にわたって、師の励ましの光が注がれている。
                         ◆ ◇ ◆ 
 佐賀訪問の翌日(9月25日)、学会創立60周年を記念する九州総会が福岡の九州池田講堂で開催され、全九州から友が喜び集った。
 先生は同講堂で、アルゼンチンのブエノスアイレス大学総長と会談等を行う傍ら、集った友を次々に激励している。
 9月27日、講堂周辺に駆け付けた友の中に、樋口博さん・暢子さん夫妻(ともに故人)と長女の鰐淵典子さん(総福岡、区婦人部主事)の姿があった。
 先生は博さんの姿を見つけると、「やあ」と片手を上げ、敬礼を。博さんも、手を上げて返礼した。
 
 博さんは戦時中、軍医として中国・満州へ。9年にわたって従軍した。
 戦後は、戦争で命を失った友らの分まで社会に貢献したいと、内科・小児科の病院を開業し、地域に尽くした。貧しい家庭から診療代を取らなかったことも、1度や2度ではない。
 3市2町からなる筑紫医師会の会長を務め、「筑紫の赤ひげ先生」と呼ばれた。
 信心を始めたのは55歳の時。医院の開業から20年の節目だった。その後、結成された創価学会ドクター部では、医師のいない地域で住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」の派遣が始まった。博さんもその一員として奔走した。
 87年(昭和62年)10月、先生は九州文化会館(現・福岡中央文化会館)で、博さんの広布功労をたたえつつ、周囲の友に語った。「この方は、ずっと陰で学会を守ってくれたんだ。こういう方を大事にしていくのが学会なんだ」
 陰で奮闘する同志と共に、その家族にも温かな励ましを送り、見守り続ける。それが先生であることを、長女の典子さんは心から実感する。
 夫の敏文さん(同、副本部長)が、仕事先の奄美で倒れたことがあった。頭部を硬い床に打ち付け、両耳の鼓膜を損傷。首の骨を折る重傷だった。
 奄美の病院に駆け付けた典子さん。敏文さんの回復に望みがないかのような発言を繰り返す医師に、「夫は頑張ります」と返すのが精いっぱいだった。
 その直後、池田先生から温かな激励が。どこまでも一人を思う師の真心に、感謝の涙があふれた。“絶対に夫を救ってみせる”。夫のそばで無我夢中で祈った。1週間で敏文さんは奇跡的に回復。再び、仕事に復帰することができた。
 その典子さん夫妻に、池田先生は「ふたりして 父はは つつみて 広布旅」との句を贈っている。
 後年、典子さんはがんを患った。2回の手術は無事に成功。その後も、“私には信心がある。師匠がいる。同志がいる”と懸命に祈り、病と闘い続け、寛解(かんかい)を勝ち取った。
 3人の娘も使命の道を進む。典子さん夫妻は、師の励ましを胸に、友のもとへと充実の日々を送る。
                         ◆ ◇ ◆
 コスモス満開の熊本池田平和会館を初訪問した先生は9月28日、熊本・大分合同の記念の会合へ。月刊誌のインタビュー等にも応じた。
 また、大分、長崎の友への伝言を託し、29日には鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)に向かった。
 熊本から研修道場までは約150キロ。台風の影響で、猛烈な風雨が吹き荒れていた。それでも先生は、“青年たちが待っている”と鹿児島へと向かった。
 道場に到着した頃、風雨はピークに達していた。無事到着を祈り待っていた友に、先生は「嵐の霧島もいいものだね」。香峯子夫人も「歴史になりますね」と。さらに、先生は同志の無事安穏を祈念した。
 夕方には雨が上がり、空はあかね色に染まっていた。
 「あんなにきれいに、オレンジ色に輝く空を見たのは初めてでした」──役員を務めた水尻則久さん(宮崎総県、副県長)が回想する。

 先生の研修道場滞在は4日間。世界広布30周年を記念する勤行会などの行事が続く中、多くの友が先生との原点を築いている。
 この時、水尻さんら宮崎の同志は、友に喜んでもらいたいと、即席の“喫茶店”を準備した。
 店名は「キルギス」。同年7月、先生はソ連(当時)を訪問し、キルギス共和国の作家・アイトマートフ氏と語らいを。翌月には、日本で再会し、本部幹部会のスピーチ等でキルギスについて触れていた。
 店内には、キルギスに関する写真などが飾られていた。先生はたびたび同店へ。民族衣装をまとったスタッフと談笑した。
 スタッフを務める壮年は全員が自営業。先生は一人一人の状況を尋ね、力強く励ました。
 設計会社勤務を経て、自身の事務所を構えていた水尻さん。なかなか生活は安定しなかったが、妻の美千子さん(同、県副婦人部長)と活動に励む中で経済革命を成し遂げた。文化班(当時)の一員として県内を走り、宮崎の全国模範の弘教拡大にも貢献した。
 10年前、再び経済苦が襲った。水尻さんは再起を期し、派遣社員に。大阪、福岡、熊本に単身赴任した。
 “九州の男が負けてなるものか”と、諦めず、腐らず、唱題を続けた。約4年後、思ってもみない好条件で建設会社への再就職が決まり、師に勝利の報告を届けることができた。
 2010年から付け始めた唱題表は、8年連続で150万遍を突破した。その祈りの根幹は、師への報恩である。
                         ◆ ◇ ◆ 
 1990年9月30日、台風一過の九州研修道場で行われた全国男子青年部幹部会で、先生は厳愛の指導を送った。
 「弟子を思う師の心は、弟子が考えるよりはるかに深いものである。その心がわからないということは、弟子にとってこれ以上の不幸はない」
 九州縦断指導のさなか、先生は友に詠み贈った。

 偉大なる
  連続勝利の
   九州は
  先駆の道をば
   師子の如くに

 心に師を抱き、師と対話し、師への誓いを果たさんと懸命に行動する。
 その実践によってのみ、広布の連続勝利の金字塔が打ち立てられることを、九州の友は深く知っている。


(2018年9月19日 聖教新聞)







Last updated  2018/09/19 12:31:45 PM
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2018/08/05

友のもとへ 池田先生の激励行

7 従藍而青の未来部 君たちが新たな黎明をつくれ

 
 藍染(あいぞ)めの原料になる植物の藍(あい)は、8月いっぱいが収穫の時期という。
 藍から抽出した青い染料で、布を何度も染めると、もとの藍よりも濃く鮮やかな青色になる。
 御書には「従藍而青(藍よりして而も青し)」の例えが、「後継者の成長」の意味として用いられている。
 池田先生は「従藍而青(じゅうらんにしょう)」の言葉を引きつつ、人材育成において「関わる側が信じ抜く」大切さを強調する。その通りに、先生は後継の友を信じ、励ましを送り続けてきた。

 1969年(昭和44年)2月11日、愛知県体育館で開催された中部幹部会で、少年少女部や高等部のメンバーが合唱を披露した。壇上の男女高等部員の姿を、すぐそばにいた先生は、じっと見守った。
 合掌を終えた後、先生は2人のメンバーを手招きして呼ぶと、握手を交わし、励ました。
その一人が、加藤敏彦さん(東京・八王子総区、副本部長)。加藤さんは革靴、もう一人は古い運動靴を履いていた。
 「私の革靴は、あまりいい靴ではありませんでした。先生は履いている靴を見て、私たち2人を激励してくださったのです」
 先生は、こんなにも温かく、こまやかな配慮をしてくださるのか――加藤さんの胸中に、師への感謝があふれた。
 加藤さんは国公立大学への進学を目指していた。だが、志望校には合格できなかった。その報告を聞いた先生は、「長い人生の中では、浪人も貴重な経験になります」と励ましを寄せた。
 その後、加藤さんは、開学間近の創価大学に志望を変え、合格を勝ち取った。
 「もともとは自分中心な性格でした。浪人生活を経たことで、人生には思うようにならないことがあり、信心と努力が、どちらも必要であることを知りました。そして、相手の立場に立つ大切さを学ぶことができたのです」
 高等部の担当者は、卒業後も、何かあるたびに寄り添ってくれた。“こういう人になりたい”と思える先輩が数多くいた。
 73年(同48年)7月、創大の第2回滝山祭で、加藤さんは先生に直接、お礼を伝えることができた。先生は家族の状況などを尋ね、励ましを送った。
 加藤さんは卒業後、大手設備工事会社に就職。事務畑で実績を重ね、定年を過ぎた今も、会社から請われて後進の育成に当たる。
 「師を心の中心に置いて歩む人生の大切さ、励ますべき時を逃さない先生のお心を、自身の行動で伝えていきたい」と語る加藤さん。本部の未来本部長として若き友の成長に尽くす。
                         ◇
 「よく来たね。待っていたよ」
 バスから降りてくる未来部のメンバー1人1人を、池田先生は真心で迎えた。
 70年(同45年)6月27日、神奈川・箱根の研修所に、60人の未来部員が集い、東京未来会第1期が結成された。
 懇談会で先生は「みんな、いい顔しているね」と語ると、「成績は大丈夫?」と。皆が「1番です」と元気よく順番に答える中で、小林多喜子さん(滋賀総県、総県婦人部副総合長)はううつむきながら、ただ一人「2番です」と返答した。
 先生は「青年の本当の力は、“1番になってみせる”という気概の中で出てくるんだよ」と語り、「前へおいで」と小林さんを招いた。
 「名前は?」
 「多喜子です」
 「どういう字を書くの」
 「『多く』『喜ぶ』『子ども』と書きます」
 「いい名前だ。信心を貫いていけば、必ず喜び多き人生になっていくよ」
 さらに、先生は「生きるって、どういうことか分かる?」と尋ねた。「分かりません」と小林さん。先生は力を込めた。
 「どんなにつらいことがあっても、悲しいことがあっても、生きて生きて生き抜くことを、生きるっていうんだよ」
 小学校の卒業式の日、母が大動脈弁閉鎖不全症で倒れた。中学に進学後は、小林さんが家事を担った。父は定年を迎えていた。
 経済的に苦しく、高校進学も諦めていた。だからこそ、師の一言が心に染みた。小林さんの目から涙があふれ出た。
 先生は「泣いてはいけない。未来っ子は未来に生きる人じゃないか。前を向いて生き抜いていくんだ」と重ねて励ましを。そして、「私も今、生き抜いているんだ」と語り、あえて強く皆に訴えた。
 「羊千匹はいらない。獅子一匹でいいんだ」
 懇談会が終わると、先生はメンバーと一緒に花火を。その折、小林さんに「創価大学で待っているよ」と語った。
 高校卒業後、小林さんは学費をためるために、アルバイト生活をすることに決めた。“娘を創価大学に行かせてやりたい”と、父もアルバイトを掛け持ちした。翌年、小林さんは、創価大学への入学を果たした。
 大学を卒業して数年後に結婚。87年(同62年)、夫・元さんのすい臓に腫瘍(しよう)が見つかった。
 その2年後、滋賀を訪れた先生は、小林さん夫妻に「生きて生きて、滋賀広布に尽くしていきなさい」と渾身(こんしん)の励ましを送った。
 元さんは生命の危機を何度も乗り越え、更賜寿命(きょうしじゅみょう)の実証を示し、一昨年、霊山へ旅立った。
 今、”夫の分まで”と自身の使命の舞台で全力を注ぐ小林さん。その笑顔には、”師に応える人生ほど、喜び多き人生はない”との確信があふれている。
                       ◇
 72年(同47年)9月15日、先生は広島を訪問。6,000人の友との記念撮影会に臨んだ。
 その2ケ月前、九州や東北など、各地に被害をもたらした「昭和47年7月豪雨」で、中国地方も甚大な被害を受けていた。
 島根では豪雨によって、宍道湖(しんじこ)の水があふれ、松江市内が浸水した。広島の撮影会の2日後、先生は島根の記念撮影会に出席した。
 この時、先生の来県を知った男女中等部員10人が松江会館(当時)に駆け付けていた。先生は松江市内での撮影会を終えると、同会館に向かい、居合わせた友と一緒に勤行。10人の姿を見つけると、激務の合間を縫って、懇談のひとときを持った。
 先生はおにぎりを振る舞い、一人一人に声を掛け、語った。
 「君たちは、体力の面でも、立派に成長していってほしい。その時を、私は待っているんだよ」
 10人の中に、体格のいい男子中等部員がいた。梅谷裕理さん(島根総県、副支部長)である。
 先生は「何かクラブ活動はしているの」。「柔道をしています」と梅谷さん。すると、先生は「よし、柔道をやろう」。
 梅谷さんは先生と組んだものの、投げるわけにはいかない。”どうしよう”と思っていると、先生は自ら倒れるようにして、背中を畳みにつけた。
 周囲に広がる歓声と笑い。梅谷さんは後ろから先生を抱えて起こした。
 最後に、先生は「来年も島根に来るから、また会おう」と約束した。

 翌73年9月16日、先生は松江会館を再訪。翌日に鳥取・米子市で開催される総会に10人を招待し、約束通り、再会を果たした。
 師の励ましを原点に、梅谷さんは”社会で実証を示そう”と奮闘を重ねた。しかし、30代半ばで立ち上げた土木会社は、バブル崩壊のあおりを受け、廃業に追い込まれた。
 祈りに祈り、再就職した土木会社ではそれまでの技術と経験を生かして信用を積み重ねた。2年前、周囲から請われ、新たな会社の役員に就いた。
 梅谷さんは「先生への感謝を忘れず、生涯、学会と共に広布の人生を歩んでいきます」と誓う。
 10人の一人、西野武司さん(同、副圏長)は、金融機関に就職し、53歳から支店長に。学会活動も一歩も引かずに挑戦してきた。
 父の姿を見て育った長女・淳子さん(総広島、白ゆり長)、次女・幸子さん(島根総県、女子部本部長)も、信心根本の生き方を受け継いでいる。
                         ◇
 65年(同40年)1月1日、本紙で小説『人間革命』の連載が「黎明」の章から開始された。この年の8月、先生は未来部員と懇談した。
 「小説『人間革命』の結末はどうなるのですか」
 率直に質問するメンバーに、先生は答えた。
 「黎明に始まり、黎明で終わるんだ」
 先生は小説の構想の一端を明かすと、未来部に広布の一切を託すかのように、万感の思いを語った。
 「私の後は、君たちが新しい黎明をつくっていきなさい」


(2018年8月4日 聖教新聞)







Last updated  2018/08/05 08:57:54 AM
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2018/07/24

​友のもとへ 池田先生の激励行​

​6 「平和の宝島」沖縄 ここは「人間革命の人材の都」

 第2代会長・戸田城聖先生の生誕93周年となる1993年(平成5年)2月11日、小説『人間革命』全12巻の連載が完結した。
 この日、池田先生はブラジルで、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号授与式に臨んだ。
 同年1月24日から、57日間に及ぶ北南米指導が始まっていた。この平和旅に、沖縄総長を務めた三盛洲洋さん(故人)も同行した。
 ”なぜ、先生は私を呼んでくださったのか”と、その意味を三盛さんは考えていた。すると、先生は「ここに君を連れてきたかったんだよ」と。
 73年(昭和48年)5月26日、本紙1面に「生命の世紀への船出」との記事が掲載された。そこには64年(同39年)12月2日から、小説『人間革命』が書き始められたことが記されていた。
 三盛さんは、はっとした。その日は、沖縄学生部の部員会で、師との出会いを刻んだ日だった。
 三盛さんは”執筆場所は沖縄ではないか”と本紙の記者に問い合わせた。記者から質問を受けた先生は、「誰が聞いてきたんだい」と尋ね、「私は執筆開始からずっと黙っていた。一体、誰が気が付くか、それを待っていたんだよ」と。
 20年の時を経て、小説『人間革命』の連載完結の時に、師と共にブラジルの天地にいることに、三盛さんの感謝の思いは尽きなかった。
                      ◆◇◆
 60年(同35年)7月16日、先生は沖縄に第一歩をしるした。この日は、日蓮大聖人が時の権力者に「立正安国論」を提出し、国主諌暁をした日から満700年の時に当たっていた。
 酷暑の季節。”もっと涼しい時期に”と沖縄訪問に反対する意見もあった。だが、先生は「同志の労苦は、最も大変な時に現地へ行かなくては分からない」と沖縄行きを決行した。
 翌17日、沖縄支部が結成。訪問最終日の18日には、沖縄戦の激戦地であった南部戦跡を視察した。
 その折のことを、後に先生は長編詩「永遠たれ”平和の要塞”」に詠んでいる。
 「世界不戦への誓いを固めつつ思った/いつの日か書かねばならぬ/小説『人間革命』の筆を/もっとも戦争の辛酸をなめた/この沖縄の地で起こそうと」

 南部戦跡の訪問は、小説『人間革命』の執筆を沖縄から始める契機の一つとなったのである。
 先生は「ひめゆりの塔」の前に立ち、題目を三唱。その後、「鉄血勤皇隊」と呼ばれた学徒隊の慰霊碑「健児之塔」に足を運んだ。
 そこでも題目を三唱すると、先生は力を込めた。
 「戦争は悲惨だ。こんな悲劇を二度と繰り返しては断じてならない」
 17回にわたる沖縄訪問において、こうした不戦への誓いを、先生は幾度も語ってきた。
 99年(平成11年)2月12日、沖縄平和記念墓地公園を初訪問した折には、「永遠平和の日」に向かって、題目を三唱。そして、強い口調で語った。
 「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」

 その場にいた湖城睦子さん(県総合婦人部長)は、師の叫びに胸が震えた。
 母・登美さん(県婦人部主事)は沖縄戦で、米軍の砲弾射撃の中を逃げ、糸満の自然壕にたどり着いた。
 そこで、登美さんは信じがたい光景を目にする。
 壕の中には、泣き叫ぶ赤ちゃん、食料を求めて泣く幼児がいた。日本兵は米軍に見つかることを恐れ、子どもを泥水の中に投げ捨てた。さらに、子どもの命を奪われ、発狂する母親を、日本兵は壕の外に放り出した。こうした悲劇が沖縄の至る所で繰り返された。
 戦後、登美さんは日本との貿易業など、さまざまな仕事を手掛けた。だが、知人の連帯保証人となり、多額の負債を抱えてしまう。絶望のどん底で、65年(昭和40年)に信心を始めた。
 入会後、名護城跡でコテージを営み、家計は上向き始めた。仏法対話に走り、学会の平和運動にも取り組んだ。睦子さんも母の後に続いた。
 20年ほど前、睦子さんは母と一緒に、糸満市摩文仁の平和記念公園にある記念碑「平和の礎」を訪れた。
 記念碑の先には海が広がっている。ところが、登美さんは海のほうへ、まったく近づこうとしなかった。そこは、沖縄戦で追い詰められた多くの人が身を投げた場所だった。
 一歩も動かない母の姿に、睦子さんは”癒えない戦争の傷が、まだ母にはある”と感じた。
 人には言えない苦しみを心の奥底に抱えながら、縁する人と共々に幸福の道を進もうと、登美さんは数多くの弘教を実らせた。睦子さんも、名護広布に駆けてきた。

 91年(平成3年)2月6日、名護平和会館を初訪問した先生は、国頭圏(当時)の記念勤行会に出席。湖城さん母娘をはじめ、草創の友の名前を挙げ、広布への功労をたたえつつ、呼び掛けた。
 「どうか皆さま方は、自然に恵まれたこの地を舞台に、使命の道を悠々と進み、永遠に崩れざる幸の楽土を築いていっていただきたい」
 以来、27星霜。師の言葉のまま、睦子さんは地域に根を張り、平和と幸福の連帯を広げ続けている。
                      ◆◇◆
 琉球王国の時代から、沖縄はアジアを結ぶ文化交流の懸け橋であった。沖縄には世界に開かれた心が脈打っている。
 池田先生は「沖縄を『世界広布のモデルの宝土に』」と訴え、次代を担う友の心に励ましの種をまいてきた。
 91年2月3日、沖縄未来部の代表との記念撮影会が行われた。先生は「みんなは21世紀の広布の後継者だよ」と語り、カメラに納まった。
 久山賢一さん(支部長)は当時、高校3年生。撮影会での師の期待に、教師という「夢」が「誓い」へと変わった。
 教員採用試験は不合格が続いた。それでも”教育は師匠に誓った道”と諦めず、高校の地理歴史科で合格を勝ち取った。
 授業では、史観を養う大切さや、歴史を通して人間としての生き方を伝えるなど、工夫を重ねている。
 そんな久山さんには、もう一つ忘れられない師との原点がある。
 2005年(同17年)3月、沖縄青年部の企画・制作で、「人間革命」展が開催された。当時、沖縄青年部の平和委員会委員長を務めていた久山さんも、同展の準備に当たった。
 展示に携わるメンバーで『人間革命』を研さんした。その中で、執筆を開始した「12月2日」は、フランスの文豪・ユゴーが、独裁者のルイ・ナポレオンに対して、正義の言論闘争を宣言した日であることが分かった。沖縄青年部は、その歴史を資料にまとめて、池田先生に届けた。
 すると、先生はその内容を「随筆人間世紀の光」で取り上げ、「私は、本当に嬉しかった。若き諸君の努力に『栄光あれ』『勝利あれ』と、私も真剣に祈り、励ましを送った」と、たたえたのである。
 青年に期待し、どこまでも信じる。真心には、それ以上の真心で応える。
 その師の心を心として、久山さんは「平和の楽土」の建設へ、力強く進む。
                      ◆◇◆
 高安かおりさん(支部婦人部長)も、記念撮影会に参加した一人だ。
 小学生の時から鼓笛隊で薫陶を受け、女子部時代には2人の友人を入会に導いた。95年(同7年)3月26日、沖縄県州道場で行われた第1回「沖縄記念総会」で、群星合唱団の一員として、師の前で歌声を披露したことは、黄金の思い出だ。
 婦人部に進出後も、対話に駆けてきた。未入会だった夫・修さん(壮年部員)は3年前に信心を始めた。今年、教学部任用試験(仏法入門)にも合格した。
 夫の親族も、高安さんの紹介で次々と入会。師の沖縄初訪問の日である今月16日には、同郷の友人に弘教を実らせた。
 「一家和楽の道を歩むことができたのも、池田先生の励ましがあったからこそです。生涯、報恩の道を進みます」
 ――世界広布の歴史を繙くと、草創期の南米ペルー、ボリビア、チリのリーダーを務めたのは沖縄出身の友だった。アメリカやヨーロッパ、アフリカなど、世界各地へ、沖縄の友は雄飛していった。
 「我らが開いてきた沖縄の楽土郷は、『人間革命の人材の都』であります」
 池田先生は沖縄への万感の思いを、そうつづった。
 沖縄の同志に、全人類の宿命転換の先駆けとなる使命を示し、手作りで世界広布を担い立つ人材をはぐくんできた先生。
 その師への感謝と、”愛する島を世界で最初の広宣流布の地帯に”との師への誓願が、「平和の宝島」に光り輝いている。​


(2018年7月24日 聖教新聞)







Last updated  2018/07/24 10:08:45 PM
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2018/06/18
​​​友のもとへ 池田先生の激励行 

 16日間の北海道訪問
 草の根を分けてでも讃えたい 
 
 一人を励ます。
 青年を育てる。
 未来をつくる。
 池田先生の行動は一貫して変わらない。

 40年前の6月もそうだった。1978年(昭和53年)6月8日、先生は北海道を訪れた。44回目の訪問は、16日間で道内を東西に往復する強行スケジュールだった。
 小説『新・人間革命』第27巻「求道」の章に、当時の模様が詳しく描かれている。先生はつづっている。
 「この訪問では、これまでに足を運んだことのない地域も訪れ、陰で学会を支えてきた功労の同志を、草の根を分けるようにして探(さが)し、讃(たた)え励(はげ)まそうと、心に決めていた」
 激励で始まり、激励で終わる。51回を数える北海道訪問の中で、最長となった激励行は、寸暇(すんか)を惜(お)しんでの励ましの連続だった。
◇◆◇

 8日午後、北海道入りした先生は幹部会に出席。9日、10日は札幌、厚田での諸行事に臨み、11日には、厚田で行われた第6回北海道青年部総会で励ましを送った。
 その日の夜、先生は飯田俊雄さん(圏副本部長)・チエさん(婦人部副本部長)夫妻が営む喫茶店「厚田川」に足を運んだ。
 飯田さん夫妻は、62年(同37年)に入会。「恩師の故郷」との誇りを胸に、対話に駆けた。本紙の輸送体制が整っていなかった時期ひは、運搬役を買って出るなど、厚田広布を支えてきた。
 77年(同52年)10月22日、厚田を訪れていた先生は、夫妻の功労を讃えようと、喫茶店へ。和やかに語らい、色紙に「厚田川 香りも高き 師の都」としたため、夫妻に贈った。


 2度目の「厚田川」訪問となったこの日、先生は一般紙の記者と懇談した。
 一段落すると、先生はチエさんに、喫茶店の経営状況を尋(たず)ねた。チエさんが「順調です。すべて信心のおかげです」と答えると、「すごいね」と喜んだ。
 この時、先生は一般紙の記者に率直な心情を語っている。
 「本当はもっと、こういう方々の家を一軒一軒と回って励まし、苦労を讃えたいのです」
 師との原点を胸に、夫妻はさらに広布にまい進した。俊雄さんが70歳まで経営していた「厚田川」は今、広布の会場に。地域の同志が喜々として集う。
 3年前、俊雄さんに大腸がんが見つかった。だが、病魔に揺らぐことはなかった。朗々と題目を唱え、手術も無事に成功。経過観察を続けながら、86歳の今も対話に歩く。
 「『厚田の魂』を、『厚田の誇り』を、若い人たちに伝えていく。それが私の使命です」と俊雄さん。夫の隣で、チエさんがうれしそうに、ほほ笑んだ。
                     ◆◇◆
 北海道訪問6日目となる78年6月13日夕刻、先生は飛行機で釧路(くしろ)へ。11年ぶりの道東指導である。別海町の北海道研修道場へ向かう道中、先生は石川清助さん(故人)宅を訪れた。
 66年(同41年)9月、石川さんは脳出血で倒れた。右半身が麻痺(まひ)し、ろれつも回らなくなった。
 だが、北釧路支部(当時)の支部長だっら石川さんは、広布の戦列に戻ろうとリハビリに励み、歩けるまでに回復。
翌67年(同42年)8月、先生が出席して釧路会館(当時)で開催された幹部会に、妻・保子さん(故人)と駆け付けた。
 先生は「必ず治ります。次に私が釧路へ来る時には、元気な姿を見せてください。断固、長生きしてください」と渾身の励ましを送った。
 それから11年。師との約束を果たし、宿命を乗り越えた石川さん夫妻の姿に、先生は「幸せな皆さん方の姿を拝見して、私もまた一つの思い出ができました」と。さらに、石川さん一家と記念のカメラに納まった。
 この時、先生は、石川さんの次男・宏さん(副区長)が立ち上げた贈答品の店にも寄り、従業員に温かく声を掛けている。
 「父のことだけでなく、店のことまで気を配ってくださって……。何としても、先生の真心に応えていこうと固く誓いました」と宏さん。
 仕事を通して、北海道を元気にしたいと、メロンやカニなど、北海道物産を中心に取り扱ってきた。
 また、優良な中小企業から手広く商品を仕入れ、詰め合わせの種類が多彩なギフトをスーパーなどに卸すことで、北海道の良い品の流通を促進してきた。
 こうした北海道の産業発展への貢献(こうけん)が評価(ひょうか)され、2008年(平成20年)、宏さんは「北海道産業貢献賞」を受賞した。
 妻の和子さん(区副婦人部長)が59歳の時、乳がんを患った。その2ケ月後には、宏さんも脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)を発症。しかし、夫婦共に信心で病を克服した。
 宏さんは、毎朝午前4時に起床する。午前6時まで広布の拡大、会社の発展を祈り、一日を出発。その生活を21年間続けている。

 ◆◇◆
 翌14日、研修道場で役員を務めていた菅原一司(すがはらいちじ)さん(故人)が先生にあいさつすると、”君のことはよく知っているよ! 別海広布の開拓者だもの”と。
 思いがけない一言に、驚きを隠せない菅原さん。当時、別海町(べっかいちょう)で男子部本部長として奮闘していた。
 菅原さんが信心を始めた時、別海町には男子部員が4人しかいなかった。
 町の面積は東京23区の2倍に及び、冬は氷点下30度を記録することもある。
 酪農を営む菅原さんは、牛舎清掃や餌(えさ)やり、搾乳(さくにゅう)などを手際(てぎわ)よく終えると、学会活動へ。部員宅は点在し、片道100キロの家もあり、吹雪で帰れないこともあった。帰宅がどんなに遅くても、午前4時には起きて牛の世話に当たった。
 そうした菅原さんの懸命の励ましで奮起した多くの友がいる。その一人が激励に通い続けたメンバーが1970年(昭和45年)12月の男子部総会で活動報告に立った。
 活動報告した友を”陰の陰”から励ました人がいるに違いない――先生が尋ねると、菅原さんの存在が浮かび上がった。その敢闘(かんとう)を讃え、先生は激励の一文を菅原さんに贈っていた。
 74年(同49年)、菅原さんの活躍が本紙の体験欄に掲載された。そのことも先生は覚えていたのである。
 菅原さんの奮闘をねぎらった先生は、そばで支える妻の邦子さん(県婦人部主事)にも、和歌を贈り、陰の献身を讃えた。

 菅原さんは初代道東圏長、邦子さんは婦人部本部長として別海広布の礎(いしずえ)を築(きず)いた。長男の宏昌さん(前進勝利長)・真寿美さん(白ゆり長)夫妻が家業を継ぎ、発展させている。
 14日の夕方に研修道場で行われた開設5周年記念勤行会を終えると、先生は標津町(しべつちょう)へ向かった。学会員が経営する食堂を訪れ、懇談会を開いた。
 当時、小学生だった阿部志津子さん(支部婦人部長)の両親が懇談の場に参加した。
 父・善美さん(故人)は水産加工の工場を営み、鮭トバや魚の干物等を販売していた。だが前年(77年)、アメリカとソ連が、自国の漁業専管水域を200カイリとしたことに影響を受け、やむなく工場を閉鎖。山菜などを採り、塩漬けにしたものを売って、生計を立てた。
 子どもは6人。善美さん夫妻は生活費をやりくりして、上の2人の子どもを創価大学に送り出していた。
 先生は、善美さんの近況を聞きつつ、「この1年間、題目をあげにあげなさい」と強調。さらに、「仕事を甘く考えず、信心を根本に経済革命するんです」と語った。
 そして「必ず立ち直ってください」と約束を交わし、「創価大学に通う息子さんにも、お題目を送ってあげてください。遠く離れていても、祈りは全て通じます」と励ました。
 翌15日、研修道場での集いに参加した阿部さん。一人一人の同志を、全身全霊(ぜんしんぜんれい)で励ます師の気迫が、幼心に焼き付けられた。
 「先生は、ある男性の肩を何度も強く抱きながら、”絶対に負けるな”と命を注ぎ込むかのようでした。ここまで人を励まされるかと驚きました」と述懐(じゅっかい)する。
 師との出会いの後も、善美さんの苦境は続いた。だが、”先生との約束を果たすんだ”と祈り続け、経済革命を成し遂げた。
 子どもたちは皆、広布の後継者に。阿部さんも、師の心を胸に励ましに駆ける日々だ。
 16日まで道東に滞在した先生は、飛行機に間に合うぎりぎりの時刻まで、友との語らいを続けた。
 その後、札幌、厚田で諸行事に出席し、わずかな時間を見つけては訪問・激励を重ねた。20日からは函館へ。
 その折にも激務の合間を縫(ぬ)って、会員宅へ足を運び、励ましを送っている。
◆◇◆
 78年の北海道訪問で、先生は約5000人の友と記念撮影。延べ2万人の会員と会い、多くの和歌・句を贈った。
 時を逃さずに、直ちに行動を起こす。
 もっとこまやかに、もっと温かくと、心を尽(つ)くし抜(ぬ)く。
 その師の激闘と、常に連なる友の誓願の行動で築かれたのが、難攻不落(なんこうふらく)の三代城・北海道である。
(2018年6月18日 聖教新聞)
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Last updated  2018/06/18 10:21:27 PM
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2018/05/19

友のもとへ ​

​池田先生の激励行 4 音楽隊  ​

平和と文化の大英雄たれ

 〽誓いの青年よ 出発は今 広布の大願 いざや果たさん……
 日本中、世界中で歌われている学会歌「誓いの青年よ」。発表されたのは、2014年(平成26年)4月、「5・3」を祝賀する本部幹部会の席上である。
 作曲は音楽隊有志。音楽隊に作曲を提案したのは、「山本伸一」のペンネームで作詞した池田先生である。
 音楽隊の友にとって、「誓いの青年よ」の作曲に携わったことは、永遠に忘れ得ぬ黄金の歴史となった。
                    ◆◇◆ 
 音楽隊が結成されたのは、1954年(昭和29年)5月6日。池田先生の発案である。
 出発は11人。「音楽隊の日」の淵源(えんげん)となった同年5月9日の初出動では、戦時中に出征兵士を送るのに使われた中古品の楽器を借りた。先生は自ら資金を工面して、楽器を贈った。
 当時、先生は音楽隊に一つの提案をした。タイケ作曲の行進曲「旧友」の演奏である。だが、結成時の人数では、演奏の編成を組むことができなかった。
 音楽隊が初めて「旧友」を演奏したのは、56年(同31年)3月27日、東京都内で行われた練習会。じっと聞いていた先生は語った。
 「うまくなった。もっともっと音楽隊を大きくしよう!」
 57年(同32年)、北海道音楽隊、関西音楽隊が誕生。翌年には、九州音楽隊が結成された。

 九州音楽隊の第2代隊長を務めた種田篤郎(たねだあつお)さん(総福岡・門司共戦区、副区長)。60年(同35年)に入会し、男子部部隊長としても奮闘(ふんとう)した。
 今から48年前、思わぬ苦境に直面する。
 妻が多額の借金をつくり、家を出て行った。幼子2人を抱え、早朝からゴミ収集のトラックを走らせ、夜はトランペッターとして生計を立てた。そんな生活に限界を感じ、“人生を終わりにしよう”と思い詰めたのも一度や二度ではない。
 転機となったのが、73年(同48年)3月21日、北九州市内で行われた第1回九州青年部総会。種田さんの苦境の報告を聞いていた池田先生は、登壇前に種田さんを控室に招いた。
 「よく来たね」。先生は2人掛けのソファに種田さんと座り、左手で肩を抱きながら近況を尋ねた。
 「世間の人はいろいろ言うかもしれない。しかし、君と私との間には関係ない。男がいったん踏み込んだ広布の道だ。老い枯れるまで頑張っていこう」
 そして、「最後の学会歌の指揮は、君が執(と)るんだろう?」。
 指揮は既に九州音楽隊の後任に譲(ゆず)っていた。だが、その瞬間、種田さんは腹を決めた。「はい! 執らせていただきます!」
 先生は深々とうなずき、「じゃあ、最後の学会歌は2人でやろう」と。
 総会の会場に戻った種田さん。その表情を見た後任の指揮者は、タクトを種田さんに手渡した。
 扇子(せんす)を手に、舞うように指揮する池田先生。種田さんは一心不乱(いっしんふらん)にタクトを振った。“生涯、先生と共に広布に生きる”との誓いがあふれた。

 ある時、先生は種田さんにつづり贈っている。
 「僕も辛(つら)いことが多い。君も辛いことがあるだろう。しかし、仏法は勝負だ。しかし、仏法は師子王(ししおう)だ。 故に、学会という広布の旅路を共に再び進もうよ。
 ――あの日、あの時の君の指揮を僕は決して忘れまい。君も僕の舞いを忘れないでくれたまえ」

 毎年、この3月21日を目指し、種田さんは苦闘に挑んだ。原点の日を迎えるたび、この日に着た背広に袖を通し、決意を深めた。
 7年をかけて全ての借金を返済し、新たな家庭を築くことができた。
 種田さんは音楽の喜びを伝えたいと、民音主催の市民コンサートに約450回出演。北九州市から5度、感謝状が贈られた。その後もジャズバンドを結成し、定期的にライブ活動を続けている。
 2013年(平成25年)、ステージ4の膀胱(ぼうこう)がんで余命4カ月の宣告を受けた。しかし、治療が功を奏し、病は影を潜めた。その中で心筋梗塞(しんきんこうそく)、脳梗塞(のうこうそく)も早期発見でき、適切な治療を受けることができた。
 83歳の今も現役トランペッターとして舞台に立つ。いくつもの荒波を勝ち越えた“師子の響き”が、勇気の共鳴を広げている。
                     ◆◇◆ 
 1974年(昭和49年)11月17日、中部音楽隊・鼓笛隊の友は、名古屋市内でパレードを行う予定だった。だが、雨がやまず、中止になった。
 待機場所の中学校体育館で悔(くや)しさを募らせるメンバー。この日、愛知県体育館で本部総会が開催されることになっていた。総会前の時間を割いて、その場に先生が激励に駆け付けた。
 先生は、「きょうの雨ということも意味がある。偉大な力を発揮して仕事をする人は、段階を経ていく必要がある」と強調。
 続けて、「この日を楽しみにしていた大勢の市民を代表して、私が皆さんの演奏を聞きたいと思います」と。さらに、本部総会への参加も提案。場内は大歓声に包まれた。
 学会歌「新世紀の歌」の演奏が始まると、先生は音楽隊・鼓笛隊の隊列の中へ。メンバーと握手し、励ましを送った。
 米澤富男(よねざわとみお)さん(岐阜総県・中道圏、副圏長)は、この時の出会いが原点だ。
 幼少の頃、父が事業に失敗し、福岡から岐阜(ぎふ)に引っ越した。周囲から蔑(さげす)まされ、劣等感(れっとうかん)に苛(さいな)まれた。その中で励ましてくれた男子部の先輩が、音楽隊員だった。
 寸暇(すんか)を惜(お)しんで励ましを送る師の姿に、米澤さんは“社会で実証を示す人材に”と決意。その誓いのままの人生を歩んできた。
 中学卒業後からプラスチック加工の工場で働き始めた。30代の時に独立。経営は順調だったが、バブル経済の崩壊とともに、仕事が激減した。
 妻・たつ子さん(同、圏婦人部総合長)と共に祈る中、長男が勤務していた焼き肉店から話があり、チェーン店をオープン。5年で負債(ふさい)を返済した。
 その後、“次の道へ進もう”と海鮮の飲食店を始めた。連日、多くの客が訪れる繁盛ぶりだ。
 岐阜音楽隊の副隊長として岐阜中を駆け回ってきた。音楽隊での薫陶(くんとう)が、人間としての基礎を築いてくれた――報恩を胸に、米澤さんは、さらなる勝利の実証を誓う。
                     ◆◇◆ 
 1997年(平成9年)5月19日、関西戸田記念講堂で開催された本部幹部会。席上、関西吹奏楽団がアメリカのマーチ「錨(いかり)を上げて」、関西の歌「常勝の空」を演奏した。
 スピーチを終えた池田先生は、指揮棒を振る仕草をしながら、「きょう、指揮を執ってくれたのは?」と同楽団に問い掛けた。
 指揮者は、伊勢敏之(いせとしゆき)さん(総大阪・大東池田圏、壮年部員)。前日のリハーサルでは演奏の呼吸が合わず、周囲から「そんな指揮では、『常勝の空』に魂が入らない」と檄が飛んだ。
 もともとトロンボーン奏者。指揮者に就任後、この時が初めての指揮だった。不安な気持ちを先輩にぶつけると、「誠心誠意の演奏は、必ず人の心に届く。思い切りやろう」と。その言葉に勇気を奮い起こし、幹部会に臨んだ。
 先生は、伊勢さんと前川洋一楽団長(当時)を壇上に招き、「文化褒章第1号、おめでとう」と、学会で制定されたばかりの同章を2人に授与した。
 さらに、「もっと世界に舞台をたくさんつくってあげたいんだ。その時は必ずよろしく。くれぐれも頼んだよ」と語り、「日本一、いや世界一だ」と同楽団をたたえた。

 翌年5月に同講堂で行われた本部幹部会では、同楽団の演奏で、先生が学会歌「威風堂々の歌」の指揮を。伊勢さんはタクトを振りながら、師と心を合わせることの大切さを命に刻んだ。
 大学卒業後、トロンボーン奏者として活動していたが、97年の本部幹部会後からは、吹奏楽指導者、指揮者としての仕事の依頼が増えた。
 今、関西大学応援団吹奏楽部の音楽監督、大阪音楽大学の特任准教授を務める。多忙な中、後輩から請われて、関西吹奏楽団で指揮を執り続けている。
 同楽団は80年(昭和55年)、第1次宗門事件の嵐の中、音楽隊として初となる全国大会の金賞を受賞。これまで17回、金賞に輝いている。
 創価の正義を宣揚する指揮者に――伊勢さんの心には、師への誓願が赤々と燃えている。
                     ◆◇◆ 
 音楽隊は今、世界の30カ国以上に誕生している。妙音の調べが、地球を包む時代を迎えた。
 先生は音楽隊へ万感の期待を込め、呼び掛ける。
 「誓いの青年よ! 最も信頼する創価の楽雄たちよ!」
 「透徹(とうてつ)した信心と広布への大情熱で、世界をリードし、世紀をリードし続ける、平和と文化の大英雄であれ!」
 世界広布の力強い前進は、創価文化の旗手・音楽隊が奏でる師弟の凱歌と共に続いていく。 ​



(2018年5月19日 聖教新聞)







Last updated  2018/05/19 10:49:37 PM
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2018/04/06

友のもとへ 池田先生の激励行


3 草創の激闘の地 東京・文京 下 ​

​我らの歴史 誓いあり​


 拡大の要諦
  ①信心の団結
  ②主体者の自覚
  ③人材育成
 
「私は、どこの支部も、どこの同志も、幸福であって貰いたいのだ。
潑剌と、団結して、学会を、日本の、世界の、学会にすることを夢みているのだ」
 65年前の1953年(昭和28年)1月、池田先生が日記につづった一節。この時すでに、世界広布を胸に抱いていたのである。
 日記を記した3ケ月後、先生は文京支部長代理に就任した。同志の幸福と広布の前進を願い、最前線を駆け巡った。
先生が第3代会長に就任した60年(同35年)5月3日、大きく発展を遂げた文京支部は、三つの支部に分割。

 文京の拡大の要諦を、先生は3点にわたって述べている。
1点目は、「『祈り』を根本とする団結」である。
 一方的に話し続けるくせのあるメンバーに、先生は語った。「相手が『実は……』と言い出したら本物です。それを言い出さないうちは、信用されていない証拠です」
 仏法対話や訪問・激励において、じっくり相手の話を聞き、心を通わせていくことを訴えた。

2点目は、「一人一人が、主体者の自覚で立ち上がること」。
「開目抄」「如説修行抄」「諸法実相抄」など、先生は数々の御書を繙き、友の勇気を鼓舞した。
ある時の班長会では、「日蓮一生の間に祈請(きしょう)並(なら)びに所願(しょがん)忽(たちま)ちに成就(じょうじゅ)せしむるか、将又(はたまた)五五百歳の仏記(ぶっき)宛(あた)かも符契(ふけい)の如し」(御書1284ページ)の一節を拝し、力説した。
「広宣流布は必ずできるという確信を持とう。皆さんの願いが叶わないわけはない。幸せになれる。自分もそれを信じ、他人にも教えてあげてください。それが折伏です」
御書根本の励ましによって、多くの友が地涌の菩薩としての使命を自覚し、広布の陣列に加わった。

3点目は、「人材育成」である。
 ある日、一人の男子部員が支部の打ち合わせ場所に、資料を届けにきた。
 先生は、男子部員の名前を聞くと、「歩いてきたの? ご苦労さま、気をつけて帰ってね」と声を掛け、深々と頭を下げた。
 先生は心から青年を大切にした。「青年部をわが子と思いなさい」――壮年・婦人に事あるごとに、そう繰り返し た。

◆◇◆

 会長就任後も、先生は折々に、文京の友に励ましを送り続けた。
なかでも、72年(同47年)11月12日、学会本部での記念撮影は、多くの同志の心に刻まれる。「文京の日」の淵源である。
 撮影の合間、先生は年配の友に声を掛けたり、壮年と車座になって懇談したりした。さらに、参加者と勤行・唱題を行い、”将来、海外の同志の激励に行けるような境涯に”と呼び掛け、悠々と本格的な信心を貫いていくよう望んだ。

 佐原勝助さん(副区長、地区部長兼任)は、撮影に集った一人。
勤行を終えた後、先生は「御本尊に皆さまの健康、一家のご繁栄を心から祈念しました」と。この言葉に、佐原さんは、師の「会員第一」の真心を感じ、感動で胸が熱くなった。
「撮影に参加して、”学会、先生と共に前進する限り、自身の人生は盤石である”と確信することができまshぎた」
 中学卒業後、秋田県から上京し、宝飾品の修理・加工店で働き始めた。職人として腕を磨き、87年(同62年)に独立。文京区内に店を構えた。
 経営は順調だった。ところが、99年(平成11年)ごろから不景気の影響を受け、仕事は激減。店をたたむかどうかの瀬戸際まで追い込まれた。
 必死に祈り続ける日々。転機が訪れたのは、2001年(同13年)。「カメオ」と呼ばれる装飾品のフレーム作りの依頼が来た。
 初めての挑戦だったが、依頼主が佐原さんの作ったフレームを高く評価。受注を勝ち取り、業績はV字回復を遂げた。
 学会活動にも全力を注ぎ、今年2月には弘教を実らせた。
自身の人生は盤石――その確信のまま、佐原さんは生涯、師と共に広布の人生を歩むことを誓う。

◆◇◆

 生命豊かに 幸の日々
  我らの歴史 誓いあり


 文京区歌「誉の故郷」が生まれたのは、1984年(昭和59年)1月18日。文京の青年部が作成した歌詞に、先生が筆を入れ、完成した歌である。
 翌19日の本紙で、区歌の誕生が報道され、文化祭の開催も発表された。
 同年9月16日に行われた第2回「文京大文化祭」は、約3,000人の友が出演。冒頭を飾ったのは、壮年・婦人・女子部のメンバーによる「誉の故郷」の合唱だった。
 その後、未来部のリズムダンスや女子部の創作バレエ、男子部の組み体操などが披露された。グランドフィナーレでは、全出演者が新たな前進の誓いを込め、「誉の故郷」を高らかに歌い上げた。
文化祭に出席した先生は、青年時代に鍛錬を重ね、自身を磨き抜いていくことが、社会に貢献し、幸福な人生を築く基本の力になると語った。

 佐古陽子さん(婦人部副本部長)は、運営役員を務めた。文化祭の最中は運営本部で、その成功を胸中で祈り続けた。
 文化祭終了後、先生は控室へ。その途中、佐古さんら役員の姿を見掛けると、「ご苦労さま」と温かく声を掛け、その場にいた一人一人をねぎらった。
「”陰の人”を大切にされる師の心を知った瞬間でした」
 2009年(平成21年)、佐古さんに子宮頸がんが見つかった。ステージ4の末期だった。
抗がん剤の一滴一滴が、がん細胞を消滅させるように、と題目を唱えた。時には不安に駆られたが、闘病を開始した直後の本部幹部会での先生のスピーチに、心の底から勇気が湧いた。
「病気には深い意味がある。信心を試されているのである。ゆえに、諸天善神が護らないわけがない」
佐古さんの力強い祈りに呼応するように、抗がん剤治療が功を奏し、症状は劇的に改善。1年後、再発したものの、再び乗り越え、完解を勝ち取った。
 報恩感謝を胸に、地域活動にも率先。希望の連帯を広げている。

 ◆◇◆

 12月21日は「文京青年部の日」である。1991年(平成3年)のこの日、豊島・文京・台東区の文化音楽祭が開催された。
 前月、学会は邪宗門と決別し、”魂の独立”を果たした。学会が新たな飛翔を開始した直後に、同音楽祭は行われたのである。
 先生は「大悪をこれば大善きたる」「迦葉尊者(かしょうそんじゃ)にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗(しゃりほつ)にあらねども・立ってをどりぬべし」(御書1300ページ)を拝読。「大悪」をも「大善」に転じてきた学会の信心の力を訴え、世界広布の大舞台に勇んで舞い、躍り出てほしいと望んだ。


少年少女部の文京王子合唱団(当時)に所属していた森内義昭さん(区男子部書記長)は、音楽祭に出演。「一寸法師」「桃太郎」を元気いっぱいに歌った。
「この時、先生との出会いを結んだことは、生涯の思い出です」
 中学卒業後、創価高校へ。入学式から8日後、記念撮影会が行われた。創立者の池田先生は、「21世紀は語学と哲学の時代」と強調。この指針を胸に、森内さんは創価大学進学後も、英語の習得に力を注いだ。
 現在、大手物流企業に勤務。本社が香港にあるため、日常の業務で英語を使うことが多い。仕事をしながら、さらに語学に磨きをかけ、TOEIC(英語能力試験)のスコアでは、965点(990点満点)を取った。
 多忙の合間を縫って、総本部創価班として、対話拡大にも率先する。
 長女・秀美さんは今、文京王子王女合唱団の一員。次女・清美さんも入団の予定だ。父が歩んだ道を、2人の娘も進んでいる。

◆◇◆

 文京文化会館には、区歌「誉の故郷」の歌碑がある。池田先生は由来文に、こうつづっている。
「おお わが文京に脈打つ『前進の勇気』『異体同心の団結』そして『師弟不二の負けじ魂』は未来永遠に不滅なり」
 師の足跡が幾重にも刻まれる「誉の故郷」。その魂は、世代を超えて、友の胸に輝き続けていく。

(2018年4月5日付 聖教新聞)






Last updated  2018/04/06 03:00:10 PM
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2018/03/22
​友のもとへ 池田先生の激励行 

 草創の激闘の地 東京・文京 — 上
支部長代理就任65周年      
 “必ずこうする”と意地を出せ

 「僕の懐刀(ふところかたな)を出そう」
 65年前の1953年(昭和28年)4月初旬、戸田先生は文京支部の支部長を務めていた田中都伎子さん(故人)に語った。
  文京支部は伸び悩んでいた。前月の折伏成果は、トップの蒲田支部と大きな開きがあった。
 同年4月20日、戸田先生の命を受け、25歳の池田先生が文京支部長代理に就任。5日後、支部の班長会が開催された。
 「一緒に題目を唱えましょう」――池田先生の提案で、題目を三唱したが、皆の声が揃(そろ)わない。もう一度、やり直したが、まだ合わない。10回ほど繰り返し、ようやく声が揃った。
 池田先生は語った。
 「信心は呼吸を合わせることが大事です。皆の個の力は小さいが、力を合わせれば、一人の力が5にも10にもなる」
 戦いの開始に当たって、祈りを根幹(こんかん)とした団結の重要性を強調したのである。
 さらに、「文京は人柄(ひとがら)がいい。しかし、それだけではいけない」と語り、「必ずこうなるのだ、こうするのだという意地を出そう」と訴えた。
 いざ戦いとなれば、勝利への執念を燃やし、力強く前進する――その魂(たましい)を、25歳の若き広布の闘将(とうしょう)は、文京の友に打ち込んだ。
                       ◆◇◆ 
 前年の「二月闘争」で、池田先生は一人と会い、語り、励ますことに徹した。文京の戦いでも、率先して友の輪の中に飛び込んだ。
 支部に所属する神奈川県の相模原(さがみはら)や横須賀(よこすか)、保土ケ谷(ほどがや)、静岡県の沼津(ぬまず)、さらには長野県の松本にも足を運んだ。
 先生は時を惜(お)しむように、列車の中、駅のホーム、会合の帰り道など、あらゆる機会を捉(とら)え、友の心に勇気の炎を灯(とも)し続けた。
 事業が行き詰まっていた経営者に対しては、「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報(かほう)つきぬれば所従(しょじゅう)もしたがはず」(御書1192ページ)の一節を拝しつつ、人生には福運が大切であることを語り、「どこまでも信心根本に、前進しましょう」と激励した。
 ある時は、青年に対して、列車を例えに、「一等車、二等車、三等車、どの列車に乗っても必ず目的地に着く。目的地に着けばよいのだ」と語り、環境や境遇に負けず、青年らしく、朗らかに人生を歩むことを望んだ。
 こうした一対一の語らいと同時に、先生は座談会に全力を注いだ。折々に、文京の友に座談会の要諦を語っている。
 1.参加者が来てよかったと思う座談会 2.時代感覚を捉(とら)えた斬新(ざんしん」)な企画 3.中心者の話が一方通行にならないこと、などである。
 先生は座談会に出席すると、“どうすれば幸福になれるか”“学会員はなぜ喜々として活動するのか”などを理路整然と語った。率直な語らいを通し、慈愛(じあい)を込めて信心を勧める姿に、多くの人が入会を決めた。

 53年8月21日、樋田敏子さん(故人)の自宅で行われた座談会に、先生が駆け付けた。
 長男の修廣さん(副本部長)は当時、中学1年生。終了後、見送りに立った。将来の決意を伝えると、先生は“ゆっくりでもいいから、地道に進んでいくんだよ”。シャツの胸ポケットにあったペンを手渡した。
 「母がケガをした時も、先生はすぐお見舞いに駆け付けてくれました。こまやかな心遣いに感動しました」

 その後、修廣さんは、3・16「広宣流布の記念式典」にも参加。社会や地域で実証を示してきた。
 敏子さんの次男・隆史さん(副本部長)の妻である千佳子さん(総区婦人部総主事)は、女子部の部隊長に就いた折、文京の先輩から、部員のもとに足を運び、“皆で呼吸を合わせる”大切さを教わった。
 84年(同59年)、文京区の区婦人部長に就任。直後、先生は「会員に尽くしていくんだよ」と励ましを送った。その原点を胸に、一人一人と誠実な語らいを重ねてきた。
 広布に尽くした祖母と母の思いを継ぎ、4人の子も後継の道を歩む。
 樋田宅は、現在も広布の会場として、文京の前進を支えている。
                      ◆◇◆ 
 池田先生が支部長代理として指揮を執り始めてから、3カ月後の7月。文京は140世帯の拡大を達成。8月には188世帯、9月には175世帯と、「壁」を破り始めた。
 それでも、時には思うように弘教が進まないこともあった。焦る支部のリーダーに池田先生は語った。
 「皆、よくやっているじゃないか。毎日、真剣に動いているじゃないか。いい支部なんだ、みんな戦っているんだ、という視点から、支部全体を見直してみてごらん」
 リーダーは、はっとした。あの地区はもう一歩、この地区もまだまだ――そう思っていた。だが、違った。先生の激励を受け、行き詰まっていたのは、自身の一念であることに気付いた。こうした「一念の変革」のドラマが、支部の隅々(すみずみ)で展開された。

 53年11月1日、戸田先生が出席して、文京支部の第2回総会が開催された。その模様を本紙は、「破竹の勢い文京支部総会――前進、前進の合言葉で」との見出しで報道している。
 短期間で、見違えるように元気になった文京の友。戸田先生は、池田先生に語った。
 「大作、すごいじゃないか。文京は大発展した。すごい力になった」
 その後も、破竹(はちく)の前進は続いた。54年(同29年)7月、文京の集いに60人ほどの新来者が集まった。
 急きょ、予定していた内容を変更。池田先生が担当し、新来者に仏法の偉大さを語った。40人以上の人が入会を決めた。
 ある班では1カ月に42世帯の弘教を実らせた。意気揚々(いきようよう)と会合に集う班のリーダー。だが、先生はたたえるどころか、声も掛けてくれない。彼は不満を抱えつつ帰った。
 数日後、池田先生が彼のことを「よく頑張ってくれている」とほめていたことを、支部幹部から聞かされた。その時、リーダーは、慢心(まんしん)に陥っていた自分自身に気付いた。猛省(もうせい)し、決意新たに戦いを開始した。
                     ◆◇◆ 
 池田先生が支部長代理に就いた時、文京支部は約700世帯。7年後、先生が第3代会長に就任する頃には、約7万世帯と100倍の発展を遂げた。
 会長就任直前の60年(同35年)4月、文京は「日本一」の拡大を成し遂げた。広布の実証で、師の会長就任を祝賀したのである。
 この月、先生は田中支部長宅へ。当時、小学生だった長女の高木博子さん(区婦人部議長)も、その場にいた。
 「“池田先生が会長になられる”と、集まった方々の喜びでいっぱいだったことを覚えています」

 父・正一さん(故人)、母・都伎子さんの信心を受け継いだ。現在、地元町会で防火防災部長、会計として尽力。水泳のサークル活動を通して、友好の輪を広げる。2人の娘も、広布の人材に成長している。
 母が晩年に語った言葉を、高木さんは心に刻(きざ)む。
 「先生が支部長代理になるまでは、“数”に追われる日々だった。先生が広布に生き抜く喜び、師弟の偉大さを教えてくださった」
 「支部には頑固(がんこ)な人、個性の強い人もいたけれど、先生が皆のいいところを引き出してくださったのよ」
 都伎子さんは亡くなる数年前、文京の青年部に、池田先生が語った言葉を伝えている。
 「私と口をきいたこともないし、会ったこともない。そういう人の中に、本当に学会を守って、頑張ってくれている人がいるんだ。そういう人の信心が、私は本物だと思っている」
(2018年3月22日付 聖教新聞)






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