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歌声高く 誕生40周年の学会歌

2018/11/15
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「人間革命の歌」誕生の淵源 

『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より

勇気 50

 午後9時過ぎ、山本伸一が呼んだ、植村真澄美と松山真喜子が本部に到着した。彼女たちが、事務室で待機していると、伸一は、大きなカセットデッキを抱えて姿を現した。
 「よく来てくれたね。ありがとう。
 『人間革命の歌』に、さらに手を加えたんで、感想を聞かせてくれないか」
 伸一は、テープをかけた。
 「どうだい。よくなっただろ」
 彼女たちが、「はい!」と言って頷くと、彼は、満面に笑みを浮かべた。
 「それなら安心だ。これでいくよ!」
 そして、事務室にいた幹部たちにも、テープを聴かせた。さらに、最高幹部や各方面・県などの中心者に、次々と電話を入れた。
 「『人間革命の歌』を作ったよ。みんなに勇気を送ろうと作った歌だよ。私の生命の叫びだ。今から、歌を流すからね」
 そして、電話口をカセットデッキの前に置き、テープをかけるのである。
 歌が終わると、伸一は言った。
 「私たちは地涌の菩薩だ。日蓮大聖人の直弟子だ。この歌を歌いながら、一緒に、この世の使命を果たすために、頑張ろうよ!」
 電話は、随所にかけられた。
 初めは1台の電話で行っていたが、途中から、3台の電話を同時に使って、各地の代表に、歌を聴いてもらった。
 伸一は、植村と松山に語った。
 「この歌の音程を少し下げてもらえないだろうか。皆が歌いやすいようにね。お年寄りにも、子どもたちにも歌ってほしいんだ。
 それから、明日、関西で女子部の結成25周年を記念する総会があるが、そこで、この『人間革命の歌』を演奏してくれないか。
 私の出獄の日を記念し、戸田先生の弟子として、地涌の菩薩の使命を果たし抜く誓いを込めて作った歌だ。だから関西の地に、真っ先に、この歌を轟かせたいんだよ」
 「人間革命の歌」は、低い音程に移調された。翌日午前中には、富士学生合唱団によって録音され、テープが全国に発送された。


勇気 51

 山本伸一が「人間革命の歌」を作った翌日の7月19日夜には、早くも各地の会合で、この歌が、声高らかに歌われた。
 なかでも、大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で、夕刻から行われた第25回女子部総会は、「人間革命の歌」に始まり、「人間革命の歌」に終わったかのような、晴れやかな新出発の集いとなったのである。
 “山本先生が権力の魔性と戦い、魂魄を留めた、常勝の天地・関西に、そして、日本中、世界中に、21世紀に響け!”とばかりに、「創価の華」たる女子部員の、はつらつたる歌声が、こだました。
 参加者は、この日、雨の中を集って来た。やがて、小雨となり、開会前にはあがった。
 総会も終わりに近づいたころ、整理役員が場外に出て、空を見上げた。息をのんだ。
 “虹よ! 虹だわ!”
 美しい、大きな七彩の虹が、暮れなずむ空に懸かっていた。その知らせは、女子部長の田畑幾子から、全参加者に伝えられた。
 「ただ今、空には、美しい虹が懸かっております。『人間革命の歌』にある『君も見よ 我も見る 遙かな虹の 晴れやかな』の通りになりました。山本先生と共に『陽出ずる世紀』へ旅立つ私たちへの、諸天の祝福であると思いますが、いかがでしょうか!」
 大歓声が起こった。皆が頬を紅潮させた。
 「人間革命の歌」は、瞬く間に、全国で、さらに、世界各地の同志にも歌われるようになっていくのである。
 この年の8月から10月にかけて、県・方面の文化祭が盛大に開催される。どの会場でも、歓喜に満ちあふれた「人間革命の歌」の合唱が響いた。
 文化は、人間という生命の大地に開く花である。新しき文化の創造も、未来の建設も、そして、人類の宿命の転換も、一人ひとりの人間革命から始まる。この歌は、創価学会のテーマともいうべき、その人間革命運動の推進力となっていったのである。


勇気 52

 山本伸一は、「人間革命の歌」で、戸田城聖が獄中で悟達した、「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかに、最も心を砕いた。
 戸田は、この獄中の悟達によって、生涯を広宣流布に捧げんと決意し、一人立った。
 大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書1360ページ)と仰せである。
 この悟達にこそ、日蓮大聖人に直結し、広宣流布に生きる、仏意仏勅の団体である創価学会の「確信」の原点がある。
 「地涌の菩薩」の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである。
 それは、人生の最高の価値創造をもたらす源泉となる。また、利己のみにとらわれた「小我」の生命を利他へと転じ、全民衆、全人類をも包み込む、「大我」の生命を確立する原動力である。
 いわば、この「地涌の菩薩」の使命に生き抜くなかに、人間革命の道があるのだ。

 伸一は、若者たちが、人生の意味を見いだせず、閉塞化した精神の状況を呈している時代であるだけに、なんのための人生かを、訴え抜いていきたかった。
 そして、彼は、その思想を、「人間革命の歌」の2番にある、「地よりか涌きたる 我なれば 我なれば この世で果たさん 使命あり」との歌詞で表現したのである。

 この年の暮れには、伸一の49歳の誕生日にあたる、翌1977年(昭和52年)1月2日を記念し、学会本部の前庭に「人間革命の歌」の碑が建立され、その除幕式が行われた。山本門下生として、地涌の使命を果たし抜かんとの、弟子一同の誓願によって建てられたものだ。
 「人間革命の歌」は、師弟の共戦譜である。そして、生命の讃歌である。
 碑の歌詞の最後に、伸一は刻んだ。
 「恩師戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 山本伸一」

 (この章終わり)









Last updated  2018/11/15 12:20:09 AM
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「人間革命の歌」誕生の淵源 

『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より

勇気 45

 山本伸一は、青年時代に『同志の人々』を読んだ時、強く胸を打たれた。志をもった人間の生き方に、鋭い示唆を投げかける作品であると思った。
 彼は、是枝の苦渋の選択に、理想と現実の狭間で、矛盾と向き合い、葛藤を超えねばならぬ、革命に生きる人生の厳しさを感じた。
 また、再挙を理由に、同志の殺害を決めた藩士たちと、死んでいった公家臣下の父子と、人間として、どちらが勝者で、どちらが敗者かを考えざるを得なかった。
 やがて幕府は倒れ、明治維新は訪れる。しかし、いかに自己正当化しようとも、藩士たちが、討幕を誓い合った、父子の殺害を決めたことは、同志への裏切りにほかならない。
 それは、人間の信義を破り、自らの手で理想を汚してしまったことになる。
 同志を裏切ったという事実は、自身の生命に、無残な傷跡を刻み、永遠にうずき、さいなみ続けるにちがいない。
 それに対して、最後まで革命の理想を信じて、その成就を藩士たちに託して、堂々と自ら死んでいった公家臣下の父親こそ、人間として勝者といえるのかもしれない。

 伸一は、思った。
 “広宣流布の使命に生きる学会のなかにも、牧口先生の時代から、目先の利害や、安逸、保身のために、あるいは、迫害を恐れるゆえに、同志を、いや、師匠をも裏切っていった人間がいた。これからも現れるにちがいない。
 しかし、断じて、そんな人間に屈してはならないし、翻弄されてもならない……”
 彼は、「人間革命の歌」の作詞にあたって、『同志の人々』を思い起こした。
 そして、全会員に、“広宣流布という人生最極の理想に生き抜き、三世に輝く永遠の勝利者の道を歩んでほしい”と呼びかける思いで、1番から3番までの歌詞の2行目に、「同志」という言葉を使ったのである。
 しかし、あえて、その2行目を、削る決断をしたのだ。


勇気 46

 新しいものを創造するには、時には、これまで作り上げてきたものへのこだわりを、躊躇なく捨てる勇気が必要な場合もある。
 山本伸一は、きっぱりとした口調で、皆に語った。
 「2行目を削るようにして、曲を考え直すことにしよう。1行目が、それぞれ、『君も立て 我も立つ』『君も征け 我も征く』『君も見よ 我も見る』だから、そこに2行目の『同志』という意味も含まれている。4行詞にして、再び挑戦だ!」
 また、曲の調整が始まった。
 ほどなく、出来上がった。
 曲に合わせて、皆で歌ってみた。
 「では、録音しよう」
 伸一が呼びかけると、学生部の音楽委員会の代表が言った。
 「先生、文化会館の地下の集会室に、今日の本部幹部会の開会前に合唱を披露した、富士学生合唱団のメンバーがおります」
 「それなら、合唱団に歌ってもらおう」
 その青年は、合唱団を呼びに行った。
 伸一は、さらに、歌詞を推敲し始めた。
 メンバーがそろい、ピアノを囲んで、練習が始まった。
 それを聴きながら、伸一は言った。
 「2番の『吹雪も恐れじ』のところだが、『吹雪に胸はり』に直そう。『恐れじ』は古い感じがするし、内心、びくびくしているように聞こえてもいけない。みんな師子なんだもの、胸を張った方がいいだろう」
 「はい!」
 適当なところで妥協し、よしとしていたのでは、最高のものは作れない。妥協なき、熾烈な挑戦の果てに、栄光はある。
 伸一は、合唱団に、力強く呼びかけた。
 「さあ、録音だ。明るく、伸び伸びと歌うんだよ。伴奏はピアノとマリンバがいいね」
 彼は、自ら合唱団のために、マイクの高さを調節した。
 若き師子たちの歌う「人間革命の歌」が、はつらつと場内に響いた。


勇気 47

 「ありがとう。この『人間革命の歌』は、新しい人間文化創造の原点になる歌だ。
 では、合唱団の皆さんと記念撮影しよう」
 山本伸一は、一緒にカメラに納まった。
 このあと彼は、海外メンバーの代表らと、夕食を共にしながら、打ち合わせを行った。その席で、「人間革命の歌」を録音したテープをかけ、皆に紹介した。
 何度もテープを聴くうちに、歌詞にも、曲にも、また、手直ししたい個所が出てきた。
 打ち合わせが終わると、伸一は、本部に戻って、居合わせた幹部にテープを聴かせた。
 「どうかね。率直な感想を聞きたいんだ。感じたままを言ってもらいたい」
 伸一は、皆の声、意見を大切にした。衆知は、時に仏智の輝きを放つからだ。
 その幹部は、答えた。
 「すばらしいと思いますが、なかほどに平板なリズムが続くので、その辺りを、もう少し変えた方がよいのではないかと思います」
 「私も、そう感じていたところなんだよ。よし、やり直しだ!」
 ――「完全なるものへ、あるが上にも完全へと。これが我らのすべてに対する祈りである」とは、学会創立の父・牧口常三郎の信条であった。
 伸一は、作曲の応援をしてもらった音楽教師の青年らに、もう一度、来てもらうことにした。午後8時過ぎ、音楽教師が駆けつけた。
 「何度も足を運ばせて、申し訳ないね。テープを聴き直してみると、歌詞にも、曲にも、納得できない個所があるんだよ。
 まず、1番の歌詞の『平和と慈悲との 旗高く』だ。ここは、『正義と勇気の 旗高く』にしようと思う。
 平和、慈悲といっても、仏法の正義を断じて貫こうという勇気から始まる。戸田先生は、『慈悲に代わるものは勇気です。勇気をもって、正しいものは正しいと語っていくことが慈悲に通じる』と、よく言われていた。臆病を打ち破り、勇気をもって戦いを起こしてこそ、自身の人間革命がある」


勇気 48

 山本伸一は、2番の3行目の「地より涌きたる」にも筆を入れ、「地よりか涌きたる」とした。さらに、2番の2行目の「遙かな空の 晴れやかな」の「空」を「虹」に直した。
 「ここは、『地よりか』とした方が、力が入るんだよ。それと、『空』より『虹』とした方が、夢があるし、色彩が豊かになる」
 そして、彼は、声を出して、歌詞を読み返し、大きく頷いた。
 「よし。さあ、次は曲だ!」
 伸一は、ピアノの前で腕を組み、しばらく、じっと考えていた。
 “曲のメリハリをきかせるには、どうすればよいか……”
 声を掛けることもためらわれる、真剣そのものといった顔である。

 一つ一つの事柄を、徹して完全無欠なものにしていく――それは、広宣流布の“戦人”ともいうべき彼の哲学であった。
 蒲田支部での2月闘争においても、札幌の夏季指導でも、大阪の戦いでも、山口の開拓指導でも、計画を練りに練り、万全な準備をして臨んだ。
 会合一つとっても、焦点の定まらぬ、歓喜の爆発がない会合など、絶対に開かなかった。それでは、忙しいなか、集って来てくださった方々に、失礼であり、貴重な時間を奪うことにもなると考えたからだ。
 ゆえに、自分が話す内容について熟慮を重ねることはもとより、式次第や他の登壇者の原稿、会場の設営や照明にいたるまで、詳細にチェックし、打ち合わせも綿密に行い、常に最高のものをめざしてきた。妥協は、敗因の温床であるからだ。
 “参加者の心を一新させ、大歓喜と闘魂を燃え上がらせることができるか!”
 彼は、必死であった。1回の会合、1回の打ち合わせ、1軒の家庭指導を、すべて最高のものにしてみせるぞと、全力を尽くした。それがあってこそ、勝利があるからだ。
 おざなりの行動で、その場を取り繕うことはできても、待っているのは敗北である。


勇気 49

 山本伸一は、3行目の「正義と勇気の 旗高く」の個所は、音程を次第に上げていき、そして、「旗高く」は、繰り返して、強調しようと思った。彼は、歌を口ずさんでみた。
 音楽教師の青年が、譜面に手を入れ、歌いながらピアノを弾いた。
 「よし、これに決めよう!」
 伸一は言った。
 遂に、「人間革命の歌」が完成したのだ。1976年(昭和51年)7月18日、午後8時40分であった。
 早速、音楽教師に、ピアノを弾きながら歌ってもらい、それをテープに吹き込んだ。
 「この歌詞と譜面を、明日の聖教新聞に発表しよう。今なら、まだ、間に合うね」
 伸一は、こう言うと、録音された「人間革命の歌」のテープを聴いた。

 一、君も立て 我も立つ
   広布の天地に 一人立て
   正義と勇気の 
   旗高く 旗高く
   創価桜の 道ひらけ


 二、君も征け 我も征く
   吹雪に胸はり いざや征け
   地よりか涌きたる
   我なれば 我なれば
   この世で果たさん 使命あり


 三、君も見よ 我も見る
   遙かな虹の 晴れやかな
   陽出ずる世紀は 
   凛々しくも 凛々しくも
     人間革命 光あれ

 ホイットマンは歌った。
 「情熱、脈搏、活力、すべてにおいて測りしれぬ『いのち』をそなえ、奔放自在な振舞いができるよう神聖な法則どおりに造られた、陽気で『新しい人間』をわたしは歌う」(注)
 伸一は、その「新しい人間」への道を、歌い、示したかったのである。

引用文献
 注 ホイットマン著「『自分自身』をわたしは歌う」(『草の葉』所収)酒本雅之訳、岩波書店







Last updated  2018/11/15 12:10:09 AM
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「人間革命の歌」誕生の淵源 

『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より

勇気 38

 新しい学会歌が必要だ「タイトルは『人間革命の歌』にしよう。
 7月1日、東京上野の美術館で開催されている・第三文明展「に向かう車中、山本伸一は」同乗していた2人の幹部に語った。
 2人は、はあ「と答えたものの、キョトンとした顔をしている。
 彼らは、この時伸一が、なぜ、、人間革命の歌「という新しい学会歌を作ろうと思ったのか」理解しかねていた、ちょうど。6月の19日から、映画、続・人間革命「が上映されていたことから」それにちなんで、歌を作るのかと思ったりもした。
 伸一は新しい歌を作ろうと考えた時、既に、タイトルは、人間革命の歌「にしようと決めていた」それ以外にはないと思った。
 それぞれの幸福境涯の確立も家庭革命も、社会の建設も、世界平和の創造も、すべては人間革命から始まるからだ。
 そしてその人間の変革を推進している、唯一無二の団体が創価学会である、まさに創価学会は。人間革命の宗教「であるからだ。
 しかし2人の幹部は、歌の意義を考えるよりも、“歌は誰が作るのだろう、制作委員会をスタートさせ。準備に当たれということなのか”等と、思案を巡らせていたのである。
 すると伸一が言葉をついた。
 歌詞は『君も立て我も立つ……』から始めようと思う「この2、3日、いろいろ考えて。イメージは、ほぼ出来ているんだ。
 今夜は戸田先生ゆかりの方々と、先生が出獄された『7・3』を記念する集いがあり、明日は、東京の同志の代表と『恩師をしのぶ会』を行う、そして。明後日は、学会本部で、先生の出獄記念勤行会だ。
 私は戸田先生を偲び、心で対話しながら、師弟の共戦譜となる『人間革命の歌』の制作に取り組もうと思っているんだよ。
 今年の後半からは、この歌を皆で声高らかに歌って、誇らかに前進していくんだ、
 広宣流布の歩みは学会歌の調べとともにある、躍動する生命の歌声とともにあるのだ。


勇気 39

 7月16日――この日は、文応元年(1260年)に、日蓮大聖人が「立正安国論」を、時の最高権力者・北条時頼に提出した日である。この「立正安国論」をもって、国主を諫暁されたのである。
 そこから、松葉ケ谷の法難や伊豆流罪、さらには、竜の口の法難・佐渡流罪など、津波のごとく襲いかかる、大聖人の大難の御生涯が始まるのである。
 しかし、大聖人は叫ばれた。「日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224ページ)と――。
 16日、山本伸一は、東京・大田区の座談会に出席するなど、多忙を極めていた。だが、そのなかで、大聖人の大闘争に思いを馳せながら、「人間革命の歌」の歌詞を作り終えたのである。1番が5行からなる、3番までの歌であった。
 翌17日は、権力の魔性と戦い抜いた伸一の、出獄の日である。朝、伸一は、歌詞を推敲し、さらに手を加えた。この日も、学習院大学会の総会に出席するなど、諸行事が詰まっていた。
 そして、夜、自宅で曲想を練り上げていったのである。軽やかで、それでいて力強く、勇気を燃え上がらせ、希望の光が降り注ぐような曲というのが、伸一の思いであった。
 彼の頭のなかで、曲のイメージが出来上がった時には、午後11時を回っていた。
 本部幹部会当日の18日は、朝から作曲に取り組んだ。昼からは、創価文化会館の3階ホールに、作曲経験のある音楽教師の青年を呼び、ピアノを弾いてもらいながら、曲作りに励んだ。しかし、本部幹部会までに、曲は完成しなかったのである。
 彼は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった。
 “努力を重ねてきたのだから、もうこれでいいではないか”との思いが、進歩、向上を止めてしまう。その心を打ち破り、断じて最高のものを作ろうとする真剣勝負の一念から、新しい知恵が、力が、創造が、生まれるのだ。

語句の解説
 ◎松葉ケ谷の法難など
 松葉ケ谷の法難は、文応元年(1260年)8月、鎌倉・松葉ケ谷の大聖人の草庵を、武装した念仏者らが襲った事件。翌弘長元年(1261年)の5月、大聖人は、伊豆流罪となる。
 竜の口の法難は、文永8年(1271年)9月、幕府の権力者らが策謀をめぐらし、鎌倉・竜の口で首を斬ろうとした事件。だが、失敗し、幕府は、大聖人を佐渡流罪にした。


勇気 40

 「……陽出ずる世紀は
 凛々しくも
 人間革命 光あれ」
 本部幹部会で山本伸一が「人間革命の歌」の歌詞を発表すると、怒濤のような歓声と拍手が起こり、いつまでも鳴りやまなかった。
 この幹部会で、伸一は、広宣流布の指導者として銘記すべき、6つの心得を示した。


 「個人指導を大切に」
 「小会合を大切に」
 「言葉遣いを大切に」
 「ふだんの交流を大切に」
 「その家庭を大切に」
 「その人の立場を大切に」


 なぜ、個人指導が大切なのか――一人ひとりの置かれた立場や環境も異なれば、悩みや課題も、千差万別である。皆が、その悩み、課題に挑み、乗り越え、希望と歓喜に燃えてこそ、広宣流布の確かな前進がある。ゆえに、どこまでも個人に照準を合わせた個人指導が、最も重要になるのである。
 次に、小会合を大切にするのは、納得できるまでよく語り合い、綿密な打ち合わせを行うことによって、運動の大きな広がりが生まれるからだ。
 大会合が動脈や静脈だとすれば、小会合は毛細血管に譬えることもできよう。毛細血管が円滑に機能してこそ、血液は体中に通うのである。
 小会合の充実がなければ、組織の隅々にまで、信心の息吹が流れ通うことはない。小会合をおろそかにすれば、その組織は、やがて壊死していくことになりかねない。
 さらに、リーダーにとっては、ことのほか言葉遣いが大切になる。
 「声仏事を為す」(御書708ページ)である。私たちは、語ることによって、仏の聖業を担うことができる。その言葉遣いが悪ければ、法を下げることにさえなる。
 言葉は、人格、人間性の発露である。
 日蓮大聖人は、「わざわい(禍)は口より出でて身をやぶる」(同1492ページ)と戒めておられる。


勇気 41

 山本伸一が、4番目に、日ごろからの交流の大切さを訴えたのは、学会の活動においても、また、交友においても、大事なのは人間関係であるからだ。そして、その人間関係は、日々の交流の積み重ねのなかで築かれていくものだからである。
 足繁く通って対話する。あるいは、電話や手紙なども含め、意思の疎通を図り、励ましを送る。その不断の努力のなかに、信頼が育まれ、強い人間の絆がつくられていくのだ。

 5番目に彼が、「その家庭を大切に」と語ったのは、リーダーが、メンバーの各家庭の状況を理解し、配慮をめぐらしていってこそ、皆が無理なく活動に励んでいくことができるからである。
 皆、それぞれに家庭の事情がある。食事や就寝時間など、生活の時間帯も、家庭によって異なる。さらに、病気の家族がいるお宅もあれば、受験生がいるお宅もある。また、家族が未入会の場合もある。訪問する際には、事前に連絡をして伺うなどのマナーも、当然、心掛けなければならないし、玄関先で会話をすませるなどの配慮も大切である。
 また、自宅を座談会場などとして提供してくださっている家庭に対しては、特に、こまやかな心遣いが必要であろう。

 最後に、伸一が、「その人の立場を大切に」と訴えたのは、すべての人を尊敬、尊重していくことは、仏法者としての、生き方の根本姿勢であるからだ。それを、自分の感情で人を叱ったり、後輩に対して威張り散らすようなことがあっては、絶対にならない。
 大聖人は「忘れても法華経を持(たも)つ者をば互(たがい)に毀(そし)るべからざるか、其故(そのゆえ)は法華経を持つ者は必ず皆仏(みなほとけ)なり仏を毀りては罪(つみ)を得(え)るなり」(御書1382ページ)と言われている。
 広宣流布に生きる同志は、皆、等しく尊厳無比なる存在である。互いに尊敬し合う心の連帯が、創価学会なのだ。
 伸一は、リーダーの留意点として、この6項目の指針を発表し、皆の健闘を讃えると、本部幹部会の会場を後にしたのである。


勇気 42

 山本伸一は、創価文化会館の3階ホールに戻ると、再び「人間革命の歌」の作曲に取りかかった。曲は、一応、かたちにはなっていたが、まだ納得がいかないのだ。
 彼は、本部幹部会の終了までに完成させることができれば、ぜひ、参加者に披露したいと思っていた。
 伸一は、この本部幹部会で、彼が入場する前に、ピアノとマリンバを演奏した、2人の女子部員にも来てもらい、意見を聞いた。音楽大学を出て、民主音楽協会に勤務している植村真澄美と松山真喜子である。彼女たちにも手伝ってもらいながら、作曲を続けた。
 午後3時半、伸一は、彼女たちと一緒に、本部幹部会の会場となった五階の大広間に上がった。既に会合は終了していた。
 伸一は、大広間のピアノを使って、引き続き、作曲に挑戦した。なんとしても、この日のうちには歌を完成させようと、固く心に決めていたのである。
 伸一は、2人の女子部員に言った。
 「決して、遠慮しないで、気がついたことがあったら、どんどん意見を言ってください。みんなの力を借りて、後世永遠に残る、名曲を作りたいんだ」
 伸一は、常に、皆の意見を聞くように努めていた。何事も、そこに発展があるからだ。
 「多くの人の声を尊重してこそ、智者となることができる」(注)とは、中国・三国時代の蜀漢(しょくかん)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮孔明(しよかつこうめい)の名言である。
 会場には、本部幹部会に参加した、学生部の音楽委員会の代表もいた。彼らにも、曲を聴いてもらった。
 皆に意見を求めながら、伸一は、曲作りを進めていった。しかし、納得のいく曲はできないまま、時が過ぎていった。
 伸一は、もう一度、歌詞を推敲した。
 歌詞は、5行詞である。どうやら、これが、作曲を難しくしているようだ。
 「5行ある歌詞を、思い切って4行にしては、どうだろうか……」
 彼は、こう言って、皆に視線を注いだ。


勇気 43

 集っていた音楽関係者の一人が答えた。
 「5行詞を4行詞にすれば、確かに、作曲は、しやすくなると思います」
 しかし、“歌詞のどの部分を削るのか”となると、山本伸一は、困惑せざるを得なかった。熟慮に熟慮を重ねてきた歌詞である。一言一言に、深い思いが込められていた。
 どこを削除するか、歌詞を読み返した。
 削るとすれば、2行目だと思った。1番の歌詞の2行目は「同志の人びと 共に立て」、2番は「同志の歌を 胸はりて」、3番は「同志の人びと 共に見よ」である。
 「残念だが、2行目を削ろう。この『同志の人びと』というところには、深い意義があるんだね……。でも、仕方ないな」

 伸一が、この言葉を使った背景には、若き日に読んだ、山本有三の戯曲『同志の人々』への共感があった。
 ――この作品は、幕末の文久2年(1862年)、寺田屋騒動で捕らえられた8人の薩摩藩士が、薩摩に護送されていく船の中が舞台である。寺田屋騒動は、討幕を計画した薩摩藩士らが、京都・伏見の船宿・寺田屋で、藩によって鎮圧された事件だ。
 荒波に翻弄される船で、藩士たちは“これから、どうなるのか”“途中で処刑されるのではないか”“これまでやってきたことは無意味だったのか”と、不安にさいなまれる。
 そこに、“目つけ”から、船底に幽閉されている、公家の臣下である父と子を殺害すれば、2、3カ月の謹慎という軽い刑にすると告げられる。この父子は、藩士らとともに、討幕を誓った同志であった。
 薩摩藩としては、幕府の機嫌を損ねたくないため、この父子を、薩摩にかくまうことは避けたかった。しかし、表立って処刑すれば、公家に義理が立たない。そこで、船の中で、仲間割れが起こって殺されたことにしたいというのだ。8人の藩士は動揺した。
 最悪な事態、最大の窮地に立たされた時、何を考え、どう行動するか――そこに、人間の奥底の一念、本質が現れるといえよう。


勇気 44

 護送されている薩摩藩士が、公家の臣下である父子を手にかけずとも、父子は、役人によって殺害されるにちがいない。そして、罪は、藩士に押しつけられ、重罪に処せられることになろう。
 どちらにせよ、助からないのなら、討幕の再挙をはかるために、殺害することもやむを得ない――という意見が出される。
 同志を殺して、自分たちの罪が軽くなることを選ぼうとする皆の心を、是枝万介という藩士は見抜き、真っ向から異を唱える。
 「生死を誓った同志ではないか。生きる時はいっしょに生き、死ぬ時は、潔くいっしょに死ぬのが道ではないか」
 だが、藩士たちは、「再挙のため」を理由に、父子の殺害を決める。
 では、誰が、その役を担うのか――。
 名乗り出たのは、是枝であった。彼は、自害を勧めようと考えた。それが、武士の情けであると思ったからだ。また、自分も、共に死のうと、心を決めたのである。
 是枝は、父と子に、維新を成就させるため、同志の犠牲となって切腹するよう、説得にあたる。だが、息子は、聞き入れない。
 「不正なものを倒して、正しい世の中にしたいと思えばこそ、今のいのちが惜しまれるのだ」
 やむなく是枝は息子を斬り、深手を負わせる。その息子を介錯したのは父親であった。
 詫びる是枝に、父親は、自分は切腹することを伝え、介錯を頼む。そして、自分たちの死を、犬死にに終わらせることなく、維新の成就を訴える。
 ――「ほんとうの悲壮なことに出あわれるのは、むしろこれからですぞ」「これからは貴殿たちの時代です。どうか、しっかりやってください」
 苦難のなかで呻吟し抜く覚悟なくしては、大義を貫くことなどできない。
 死せる父親が、従容として語った遺言は、「ただ同志の方々に、よろしくとお伝えください」であった。
 *参考文献 山本有三著『同志の人々』岩波書店







Last updated  2018/11/15 12:00:20 AM
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2018/11/14
「人間革命の歌」誕生の淵源 
『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より

勇気 33

 参議院大阪地方区の補欠選挙で東京から乗り込んできた会員が引き起こした選挙違反事件は、支援の最高責任者である山本伸一とは、なんの関係もなかった、検察当局も。捜査が進むにつれて、その事実を認めざるを得なかったようだ。
 伸一の起訴にあたっては、この事件は公訴事実からは外されていた。
 しかし検察は、公職選挙法がよくわがらぬ関西の会員が、熱心さのあまり、戸別訪問をし、逮捕されていたことに着目した、そして。それを、伸一の指示によるものとして、彼を起訴したのである。
 それは新しい社会変革の力となった創価学会に、なんとしても一撃を与え、その前進を阻もうとする“権力の意図”を、浮き彫りにするものであったといってよい。

 伸一がこの、大阪事件の法廷闘争に勝利し、無罪の判決が出たのは、釈放から4年半後の、1962年、(昭和37年)1月25日である。
 もともと無実の罪である無罪は当然といえば。当然のことといってよい。
 検察の控訴が懸念されたが有罪に持ち込むことは、不可能であると判断したのであろう、控訴はなく。一審で伸一の無罪が確定したのである。
 長い戦いであった当初。伸一が、第3代会長の就任を辞退した理由の一つも、もしも、有罪になれば、学会に多大な迷惑をかけてしまうことを憂慮したことにあった。
 ともあれ立正安国の道は、権力の魔性との壮絶な闘争であり、疾風怒濤の道である。
 迫害に次ぐ迫害の、日蓮大聖人の御生涯を見よ! 立正安国を実現せんとする創価学会にもこれから先、暴虐な弾圧や巧妙な迫害が、侍ち受けているにちがいない。
 日蓮大聖人は「大難来りなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦(よろこ)びをなすべし」(御書1448ページ)と仰せであるその大難と戦い。勝ち越えていくなかに、自身の一生成仏があり、人間革命があるのだ。


勇気 34

 山本伸一が出獄し、関西の同志と共に創価の正義の勝利を誓い合った「7・17」は、権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立ちの日である。
 ゆえに、伸一は、以来20年目を迎える、この1976年(昭和51年)の「7・17」を記念して、全同志の広宣流布への誓いを託した「人間革命の歌」の制作に取り組んできたのである。そして、7月18日の本部幹部会までには、歌詞も曲も完成させ、その席上、発表しようと思っていたのだ。
 しかし、開会までには、作曲が間に合わなかった。
 午後2時前、本部幹部会の会場である創価文化会館の大広間に姿を現した伸一は、皆と勤行したあと、すぐに、マイクに向かった。
 「私は、『7・17』を記念して、『人間革命の歌』を作ろうと、先ほどまで音楽関係者の力もお借りして、作曲に取り組んでおりました。ところが、まだ、出来上がりません。
 なんとしても、今日中には完成させたいと思っておりますので、本日は、先にあいさつをさせていただき、それからまた、作曲を続けたいと思います。
 歌詞の方は、一応、出来ております。まだ、手を加えるかもしれませんが、まず先に、その歌詞だけでも発表させていただきます」
 どよめきと大拍手が広がった。
 「君も立て 我も立つ
 同志の人びと 共に立て
 広布の天地に 一人立て……」
 歌詞を読み上げる、凛とした伸一の声が響いていった。
 それは、一人立つ正義の雄叫びであり、師弟共戦を呼びかける、伸一の魂の叫びであった。参加者は、思わず襟を正した。
 “すごい歌ができるぞ!”
 歌詞を聴いているだけで、勇気がわいてくるのを覚えた。皆が胸を躍らせた。
 「奇しき歌の力の支配する限り、あらゆる苦悩の襞は消え去るべし」(注)とは、ドイツの詩人シラーの叫びだ。

引用文献
 注 シラー著「歌の力」(『正義の書』所収)


勇気 35

 山本伸一が、「人間革命の歌」を作ろうと決意したのは、6月の末のことであった。
 彼は、以前から、創価学会の精神と思想を表現した、創価学会の歌ともいうべきものが必要であると考えていた。
 学会には、草創期に歌われてきた、「学会の歌」と呼ばれ、愛唱されていた「花が一夜に」という歌があった。

 一、花が一夜に 散るごとく
   俺も散りたや 旗風に
   どうせ一度は 捨てる身の
   名こそ惜しめや 男なら

 この歌は、もともと、太平洋戦争の直前にレコード発売された「熱血の男」という歌であった。その歌詞が、広宣流布に生きる不惜身命の心意気に通じるところから、牧口常三郎初代会長の時代から、学会でも歌われるようになっていった。原曲の3番を省き、4番を3番として歌っていたのである。
 1943年(昭和18年)7月、軍部政府による大弾圧の嵐が学会を襲う。牧口も、戸田も、逮捕され、翌年11月18日、牧口は獄死する。
 取り調べの場で、牧口の死を聞かされた戸田は、悲嘆の底に沈む。しかし、彼は、決然と頭を上げた。恩師・牧口の遺志を受け継ぎ、広宣流布という平和と正義の大闘争に、わが生涯を捧げることを誓ったのである。そして、獄中で、その誓願を託した詩「独房吟」を作っている。
 戸田は、この詩を「学会の歌」の4、5、6、7番として、一人、心で歌い、自らを鼓舞してきたのだ。戦う魂の歌は、勇気を、力を、希望を、歓喜をわかせる。
 その4番には、こうある。

 4、恩師は逝きて 薬王の
   供養ささげて あるものを
   俺は残りて なにものを
   供上まつらん 御仏に

引用文献
 *小説『新・人間革命』文中の「学会の歌」(原題「熱血の男」作詞=奥野椰子夫)の一番の歌詞は、JASRAC 出1004528-001


勇気 36

 戸田城聖が「独房吟」として詠んだ、「学会の歌」の4番から7番の歌詞は、まさに、学会の骨格をなす、戸田の精神そのものであり、厳粛な内容であった。
 戸田は、この部分を歌うことを禁じた時期もあった。歌の本当の心がわからずして、軽々に歌うことを許さなかったのである。
 さらに、彼は、牢獄の中で、後に「同志の歌」(1番から3番)として歌われることになる詩も詠んでいる。
 1、我いま仏の 旨をうけ
    妙法流布の 大願を
    高くかかげて 独り立つ
    味方は少なし 敵多し

 そこには、獄中にあって、「われ地涌の菩薩なり」との悟達を得た戸田の、広布大願に生きんとする覚悟が刻印されている。
 この「同志の歌」の曲は、旧制高等学校の寮歌が原曲であり、この歌も、「学会の歌」も、曲が古いという印象はぬぐえなかった。
 そこで、山本伸一は、学会の精神と思想を端的に表現し、未来に歌い継がれていく、歌いやすい、新しい感覚の歌を作ろうと思っていたのである。
 さらに、伸一が、新しい歌を作り、同志を勇気づけようと考えたのは、学会をめぐる不穏な動きを、ひしひしと感じ取っていたからでもある。この前年から、一部のマスコミなどによる、学会への攻撃が激しくなりつつあったのである。
 伸一は、近年、世界の平和のために、中国やソ連など、社会主義国を相次ぎ訪問し、国内にあっても、日本共産党の委員長らと対話してきた。そうした彼の行動は、世界の注目を浴びるとともに、学会は、共産主義に接近していくのではないかという、警戒感を呼び起こしていったようだ。
 いわば、この学会攻撃の背景には、伸一の平和行動に対する誤解と偏見に基づく反発があった。それが、後に明らかになるのである。


勇気 37

 山本伸一は、世界の平和を築くために、イデオロギーの壁を超え、友誼と信頼の道を開こうと必死であった。しかし、偏狭な心の眼では、その真実を見ることができなかったのであろう。そして、彼は、攻撃のターゲットになったのだ。
 また、宗門の僧たちが、学会員に対して、師弟を離間させるような、いわれなき非難・中傷を浴びせ始めたのである。それは、僧俗和合を破壊する、卑劣な画策であった。
 伸一は、そうした現象に、広宣流布を阻まんとする「魔」が、いよいよ牙をむいて襲いかかってくる予兆を感じていた。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「魔競(まきそ)はずは正法と知るべからず」(御書1087ページ)、「大難なくば法華経の行者にはあらじ」(同1448ページ)、「如説修行(にょせつしゅぎょう)の法華経の行者には三類の強敵打ち定(さだ)んで有る可し」(同504ページ)
 大聖人の仰せ通りに仏法を行じて広宣流布を推進し、事実上、日本第一の教団として、民衆の幸福の道を開いてきた創価学会である。
 さらに、伸一は、立正安国の理念のもと、断じて恒久平和を実現せねばならぬと、全世界を奔走し、各界の指導者、識者らと、懸命に対話を重ねてきた。また、同志も、社会の建設に懸命に取り組んできた。
 それゆえに、御聖訓に照らして、世界広布の大海原に船出した創価学会丸に、諸難の嵐が競わぬわけがないというのが、伸一の覚悟であり、確信でもあったのだ。
 その吹きすさぶ嵐に向かい、広宣流布のために戦うことによって、わが胸中に、地涌の菩薩の生命が脈動し、人間革命がなされるのだ。ゆえに、伸一は、愛する同志が、何ものにも負けぬ闘魂を燃え上がらせる、勇気の歌を作らねばならないと思った。
 ともあれ、文化の興隆、民族の台頭には、民衆を鼓舞する希望の歌があった。今、伸一は、新しき人間文化の創造と人間主義の時代を築き上げるために、同志の心を奮い立たせる生命の讃歌を作りたかったのである。

語句の解説
 ◎三類の強敵
 末法において、法華経を受持し、弘める人(法華経の行者)を迫害する三種類の敵人のこと。
(1)俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)=仏法を知らない者が悪口罵詈等の迫害を加える。(2)道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)=慢心で邪智な僧が誹謗・迫害する。(3)僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)=あたかも聖人のように世の尊敬を受けている高僧が、権力者を動かして迫害する。







Last updated  2018/11/14 09:29:51 AM
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「人間革命の歌」誕生の淵源 
『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より

勇気 29

 戸田城聖の会長就任5周年となる、1956年(昭和31年)の5月には、遂に関西は、大阪支部1111世帯、堺支部1515世帯という弘教を成し遂げた。
 「戸田先生は折伏の師匠である。なれば、弟子として弘教をもって、会長就任五周年をお祝いしよう」との山本伸一の思いを、関西の同志は皆が、共有していたのだ。
 関西2支部の弘教は、全国の44パーセントを占めていた。まさに、未聞の快挙であり、不滅の金字塔が打ち立てられたのだ。関西に、美事なる広宣流布の大城が築かれたのだ。
 この年の7月には、第4回参議院議員選挙が行われた。創価学会は、前年4月の統一地方選挙に、初めて候補者を推薦したのに続いて、参院選挙にも、地方区の東京と大阪に1人ずつ、また、全国区に4人の候補者を推薦したのである。

 日蓮仏法は、「立正安国」の宗教である。
 「立正」(正を立てる)とは、正法すなわち、慈悲と生命尊厳の仏法哲理を、社会建設の主体者である、一人ひとりの人間の胸中に打ち立てることである。「安国」(国を安んずる)とは、その「立正」の帰結として、社会の平和と繁栄を築いていくことである。
 いわば、「立正」という、仏法者の宗教的使命の遂行は、「安国」という、仏法者の社会的使命の成就によって、完結するといえよう。
 社会の平和、繁栄なくしては個人の幸福もない。ゆえに、日蓮大聖人は仰せである。
 「一身の安堵(あんど)を思わば先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祷らん者か」(御書31ページ)
 「四表の静謐(せいひつ)」とは、社会の太平であり、広くは、世界の平和、繁栄である。
 宗教は、決して宗教のための宗教にとどまってはならない。「安国」という、社会の平和と繁栄を実現してこそ、民衆の救済という宗教本来の使命を全うすることができ、人間のための宗教たり得るのだ。この立正安国の使命を果たすために、創価学会は社会の建設に立ち上がったのだ。


勇気 30

 山本伸一は、7月に行われる参議院議員選挙でも、大阪地方区の支援の最高責任者として指揮を執った。支援する会員の世帯数から見ても、東京地方区での当選は、ほぼ間違いないが、大阪地方区での当選は不可能であるというのが、大方の予測であった。
 しかし、結果は、人びとの予想を覆して、なんと東京が落選し、大阪が当選を果たしたのである。大阪の勝利は、朝日新聞が「“まさか”が実現」との見出しを掲げるほどの、壮挙であったのである。
 伸一をはじめ、大阪の同志の、“断じて立正安国を実現していこう”という、信心から発する情熱がもたらした勝利であった。
 「人間社会の完成をめざす重要な歩みの中で、強い宗教的信仰に根柢をもたなかったものを、私は一つだって知らない」(注)とは、19世紀のイタリアの革命家マッツィーニの言葉である。

 翌1957年(昭和32年)4月、参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた。山本伸一は、再び戸田城聖から、この選挙支援の最高責任者に任命された。
 補欠選挙とあって、一議席をめぐっての戦いとなる。学会が推薦した候補者が当選することなど、あり得ない選挙戦といえた。しかし、戸田は、あえて、その選挙戦の指揮を、伸一に執らせた。“伸一なら、勝利できるかもしれない”との、一条の希望を託しての、戸田の布陣であったのであろう。
 しかし、その一方で、不可能の壁をことごとく打ち破り、いつも勝利を収めてきた常勝将軍の伸一を妬み、わざと無謀ともいえる戦いの指揮を執らせ、その責任を負わせようという、古参の幹部らの思惑もあった。
 ともあれ、獅子が、わが子を谷底に突き落とすといわれるように、戸田は、伸一を、勝算のない、熾烈な戦線に投げ入れたのだ。
 “地に打ちのめされても、そこから立ち上がれ! そして、必ずや、民衆勝利の旗を打ち立てるのだ!”
 それが、戸田の思いであった。

引用文献
 注 ボルトン・キング著『マッツィーニの生涯』力富阡蔵訳、黎明書房


勇気 31

 山本伸一の師子奮迅の指揮によって、大阪の同志は、一騎当千の師子となって立った。暗夜のような状況に、希望の光が差し、時々刻々と明るさを増していった。
 しかし、選挙戦の終盤、候補者の名前を書いたタバコを配るなどの、選挙違反事件が大々的に報じられた。学会の推している候補者の陣営によるものとの噂が流れた。
 公明選挙を訴え続けてきた伸一には、寝耳に水の出来事であった。悪質な選挙妨害ではないかとさえ思った。しかし、なんと、それは、東京から英雄気取りで乗り込んで来た、心ない会員が引き起こした事件であることが、やがて明らかになるのだ。
 この違反事件が、勝利を決するうえでの大きな障害となった。結果は敗北に終わった。

 補欠選挙から2カ月余が過ぎた7月3日、伸一は、この選挙違反について事情聴取を求められ、自ら大阪府警察本部に出頭した。そして、違反は彼の指示であるとの事実無根の容疑がかけられ、逮捕されたのである。
 勾留は15日間に及んだ。過酷な取り調べが続いた。容疑を認めない伸一に対し、検察は、罪を認めなければ、「会長の戸田城聖を逮捕する」などと言いだしたのだ。
 1957年(昭和32年)の7月といえば、恩師が逝去する9カ月前のことである。戸田の衰弱は、既に激しかった。逮捕は、死にもつながりかねない。
 独房での苦悶の末に、伸一は、容疑を認め、裁判の場で真実を明らかにすることを決意したのである。
 庶民が目覚め、聡明になり、力をもち、改革に立ち上がることを、権力は恐れ、嫌悪する。そこには、権力を持つ者の、庶民を蔑視し、排斥しようとする驕りがある。それこそが、権力の魔性である。
 権力を握る人間の目には、会員75万世帯の達成をめざし、大躍進を続ける創価学会を放置しておけば、近い将来、自分たちの存在さえも脅かす、大きな力となるにちがいないと、映っていたのであろう。


勇気 32

 ひとたびは一身に罪を被り、法廷で正義を証明しようと決意した山本伸一が、大阪拘置所を出たのが、1957年(昭和32年)の7月17日であった。若師子は、民衆の大地に、再び放たれたのだ。
 この日の夕刻、中之島の大阪市中央公会堂で、大阪大会が行われた。大阪をはじめ、各地から駆けつけた同志で、場内はもとより、場外も、人、人、人であふれた。それは、伸一の不当逮捕への憤怒と、権力の魔性を打ち砕き、断じて創価の正義を証明せんとする、関西の決起の日となったのである。
 午後6時、開会が宣言された。やがて、にわかに空が暗くなり、雨が落ち始めた。
 そして、瞬く間に激しい豪雨となり、横なぐりの風が吹き荒れた。稲妻が黒雲を引き裂き、雷鳴が轟いた。
 多くの同志が、今日まで獄舎に囚われていた伸一の姿を思い、“学会への非道な仕打ちに、諸天も激怒しているのだ”と感じた。
 場外で、激しい豪雨にさらされながらも、帰ろうとする人は、一人もいなかった。
 雨に打たれながら、特設されたスピーカーから流れる、登壇者の声を聴き取ろうと、皆、必死に耳を澄ましていた。
 豪雨のなかに、スピーカーから、雷鳴をしのぐ、大歓声と大拍手が響いた。
 山本伸一の登壇である。師子吼が轟いた。
 「最後は、信心しきった者が、大御本尊様を受持しきった者が、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか」
 その叫びが、皆の心に突き刺さった。場外の人びとは、どの顔も、雨と涙でぐしゃぐしゃであった。
 “この山本室長が、無実の罪で牢屋につながれ、手錠をかけられ、辛い、惨めな目にあわされてきたんや。権力なんかに、負けられへん。負けたらあかん! 戦いは、絶対に勝たなあかん!”
 伸一と共に、創価の勝利を涙で誓った、この日が、「常勝関西」の“不敗の原点”となったのである。







Last updated  2018/11/14 09:29:05 AM
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「人間革命の歌」誕生の淵源 
『新・人間革命』第23巻「勇気」の章より

勇気 25

 創価文化会館の3階ホールに、ピアノの音が、途切れ途切れに響いていた。
 「ちょっと、違うな。そこは、もう少し、低い方がいい」
 こう言って、ピアノの傍らに立つ山本伸一が、メロディーを口ずさむ。
 「こんな音の感じにしたいんだよ」
 ピアノを弾いていた、音楽教師の青年が、そのメロディーに合わせて鍵盤を叩く。
 「そうそう、それでいいと思う。問題は次だ。ぼくが、ちょっと弾いてみるよ」
 伸一がピアノに向かい、弾き始める。何度か鍵盤を叩くうちに、音のかたちができる。
 「細かいところは、調整してもらいたいんだが、この部分は、こういうイメージだ」

 1976年(昭和51年)7月18日の昼過ぎのことである。
 伸一は、前日の夜から作曲に没頭していた。新しい学会歌となる「人間革命の歌」を作ろうとしていたのだ。この18日の午後2時から創価文化会館5階の大広間で、本部幹部会が開催されることになっていた。彼は、それまでに歌を完成させ、発表したいと思っていたのである。
 歌詞は、まだ推敲を重ねるつもりだが、一応、出来上がっていた。問題は曲であった。
 伸一は、専門的な音楽教育を受けたわけではなく、作曲を一人で行うことは難しい。そこで、作曲の心得のある、音楽教師の青年に協力を頼んでいたのだ。 時計を見ると、午後1時45分である。
 伸一は、側の幹部に言った。
 「もう、本部幹部会に行かなくてはならない。今日は、私は最初に話をさせてもらい、それから、ここに戻って、また曲を作ろう。なんとしても、『7・17』を記念し、今日中に完成させたいんだよ。いかなる大難にも負けない、魂の歌を作りたいんだ。希望をわかせ、勇気を鼓舞する、人間讃歌を作りたいんだ」 ――「民族にせよ、団体にせよ、興隆あるところには、必ず歌がある」とは、戸田城聖が、よく青年たちに語った言葉である。


勇気 26

 「7・17」――それは、1957年(昭和32年)の7月3日に、事実無根の公職選挙法違反の容疑をかけられ、大阪府警に不当逮捕された山本伸一が、出獄した日である。
 伸一は、この前年にあたる56年(同31年)、戸田城聖から、関西を東京と並ぶ、いや、それ以上の、広宣流布の盤石な城にすることを託され、担当幹部として、年頭から大阪に派遣されたのである。
 盤石な組織をつくり上げるには、同志一人ひとりが、一騎当千の闘士となり、新たな開拓と拡大を敢行する以外にない。
 戦いとは、人間を見つけ、育てることだ。人を触発することだ。その生命を燃え上がらせることだ。
 伸一は、この年、早くも1月4日には、大阪に向かった。以来、何度となく、関西指導を重ねていくことになる。
 交通費をはじめ、活動にかかるすべての費用も、自分で賄わなければならない。それを捻出するのも大変であった。また、大東商工の営業部長としての仕事のほか、青年部の室長、文京支部長代理など、幾つもの役職を兼務しているなかでの関西指導である。
 

   不滅の大関西城を築き上げることは、何があろうが、絶対に、成し遂げねばならない最重要課題であった。もし、実現できなければ、師匠・戸田城聖の、広宣流布の構想を破綻させることになるからだ。
 自分の双肩にかかる、あまりにも重い責任を考えると、激しい緊張で胸が締めつけられる思いがし、食事も喉を通らなかった。新年早々、発熱さえした。正月だといって浮かれる幹部たちが、この上なく、のんきに感じられてならなかった。
 関西の歴史を開く大闘争が始まった。
 彼には、勝利を収めるために、自らに課していた鉄則があった。
 それは、“人を頼み、人にやらせようなどと、絶対に考えてはならない。すべて、自らが率先し、自らが動くことによって、波動を起こしていくのだ”ということであった。


勇気 27

 山本伸一は、関西本部で、ただ一人、祈りを開始した。すべては祈りから始まる。
 関西に広宣流布の錦州城を築かんと、懸命に、真剣に、唱題に励む伸一の姿を見て、支部長ら2、3の幹部も加わるようになった。そして、次第に参加者が増え、最後は、仏間がいっぱいになった。
 また、伸一は、朝の勤行のあとには、御書の講義を行った。それが、皆の勇気を燃え上がらせた。自分たちは、地涌の菩薩として、この関西中の人びとに幸福の道を教えるのだという使命感と歓喜が、同志の胸中に脈打っていったのである。

 彼は、まず、大阪中をくまなく回り、同志の激励に奔走した。会員から自転車を借りて、動くことも多かった。時には、その自転車がパンクしてしまい、夜道を引いて帰らねばならぬこともあった。
 小さな小さな家々が軒を連ね、狭い路地で魚を焼く煙が立ち込める地域も回り、同志を激励した。果てしなく田畑が続く地域にも足を延ばした。
 学会員の多くは“こんなところまで、よく来てくださいました!”と感激して迎えてくれたが、なかには、けんもほろろな応対をする人もいた。しかし、どんな人をも、笑顔で包み、対話し、励ましていったのである。
 さらに、座談会場から座談会場を転戦し、折伏の最前線に躍り出ていった。東大阪方面の座談会では、伸一の誠実と確信の対話によって、参加していた18人の友人のうち、17人が入会の決意を固めたこともあった。
 勝利への力は、魂の触発にある。自身の燃え盛る生命が、同志の生命を燃え上がらせるのだ。伸一の敢闘を目の当たりにして、関西の幹部たちは深く思った。
 “これが、ほんまのリーダーなんや。生命を削って戦うから境涯革命があるんや。やったろやないか!”
 山本伸一の率先垂範の行動が、全同志を触発し、共に戦う何人もの“山本伸一”をつくり出していったのである。


勇気 28

 共感することによって、行動するのが人間である。ゆえに、リーダーが臆し、ずる賢くなって、率先して行動せずに、皆を動かそうとしても、動いてくれるわけがない。
 すると、リーダーは焦りを感じて、その言動は、ともすれば、威圧的、命令的になっていく。そして、組織は、重く、暗くなり、人心は、ますます離れてしまうことになる。
 それに対して、率先垂範のリーダーは、自らの行動を通して人に触発を与え、人びとの“やる気"を引き出し、皆の自主性、自発性を呼び覚ましていく。ゆえに、その組織は、明るく、歓喜にあふれ、上昇気流に乗るように、膀利への流れがつくられていくのだ。

 また、山本伸一は、戸田城聖こそ、広宜流布に、ただ一人立ち上がった、われらの師であり、この大阪、関西からいや、日本、世界から、不幸に泣く人をなくしたいというのが、戸田の誓いであることを語り抜いた。
 そして、こう訴えたのである。
 その戸田先生の心を「わが心として、先生に代わって戦おうではないですか!
 そうすることによって、私たちは、広宜流布の闘将である先生に直結していくことができる。そこに力がわくんです。
 先生を思えば、勇気がわきます。自分が鼓舞されますどうか、常に戸田先生を心に思い描いて、“先生は、じっと見ていてくださる。"“先生ならどうされるがと、日々、己心の師匠と対話しながら、戦っていこうではありませんか!、
 広宜流布の戦いを進めるうえで、仏法の師と心を合わせていくことこそが、団結の根本である。そこに勝利への前進がある。
 自転車も、車軸にスポークがしっかりと繋がってこそ、車輪の回転がある。この車軸の存在が師匠にあたるといってよい。
 伸一の指揮のもと、関西は、怒濤の大前進を問始した。3月には、大阪支部が5500世帯、堺支部が759世帯の弘教を達成さらに4月、大阪支部は9002世帯、堺支部は1111世帯の成果を収めた。







Last updated  2018/11/14 09:28:21 AM
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2018/11/03

​「人間革命の歌」特集​

 小説『新・人間革命』が完結した今、全国・全世界の友が、自身の新たな人間革命に挑んでいる。その創価の友の勇気を鼓舞してきたのが、「人間革命の歌」である。ここでは、同歌誕生の淵源がつづられている『新・人間革命』第23巻「勇気」の章をもとに、歌に込められた精神を確認する。(本文中の太字は、「勇気」の章からの引用)
 
人間革命の歌 作詞・作曲 山本伸一


一、君も立て 我も立つ
  広布の天地に 一人立て
  正義と勇気の
  旗高く 旗高く
  創価桜の 道ひらけ
 
二、君も征け 我も征く
  吹雪に胸はり いざや征け
  地よりか涌きたる
  我なれば 我なれば
  この世で果たさん 使命あり
 
三、君も見よ 我も見る
  遙かな虹の 晴れやかな
  陽出ずる世紀は
  凜々しくも 凜々しくも
  ※人間革命 光あれ
     (※くり返し)
 
「地涌の使命」を果たし抜け
 創価学会の「確信」の原点は、「われ地涌の菩薩なり」との第2代会長・戸田城聖先生の「獄中の悟達」にある。
 第2次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月6日、戸田先生は初代会長・牧口常三郎先生と共に、不敬罪と治安維持法違反の容疑で、当時の軍部政府に逮捕・投獄される。
 翌44年(同19年)11月18日、牧口先生は獄死。戸田先生は、2年間の獄中生活で法華経を読み切り、「われ地涌の菩薩なり」と悟達したのである。
 池田先生が「人間革命の歌」の制作に当たって、最も心を砕いたのは、この恩師の「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかであった。
 小説『新・人間革命』第23巻「勇気」の章には、こう記されている。
 「『地涌の菩薩』の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである」
 「『地涌の菩薩』の使命に生き抜くなかに、人間革命の大道がある」
 この思想を、先生は「人間革命の歌」の2番にある「地よりか涌きたる 我なれば 我なれば この世で果たさん 使命あり」との歌詞で表現した。
 
後世へ永遠に
 池田先生が「人間革命の歌」の制作を決めたのは、1976年(昭和51年)6月末のこと。
 当時、学会に対する誤解と偏見から、一部のマスコミによる非難・中傷が激しくなりつつあった。また、宗門の悪侶たちが、いわれなき悪口を学会員に浴びせ始めていた。
 こうした嵐の予兆の中で、池田先生は「愛する同志が、何ものにも負けぬ闘魂を燃え上がらせる、勇気の歌を作らねばならない」と歌の制作を開始した。それは、戸田先生を偲び、心で対話しながらの師弟の共戦譜でもあった。
 歌の制作には、「7・17」の意義も込められていた。7月17日は、57年(同32年)のその日、事実無根の公職選挙法違反の容疑で、大阪府警に不当逮捕された池田先生が、出獄した日である。
 小説には「7・17」について、「権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立ちの日」とつづられている。
 池田先生が歌詞を作り終えたのは、76年7月16日。日蓮大聖人が1260年、「立正安国論」をもって、実質的な最高権力者・北条時頼を諫暁した日である。


 出来上がった歌詞は、1番が5行からなる、3番までの歌詞だった。
 翌日、先生は朝から歌詞を推敲し、手を加えた。さらに、曲のイメージを練り上げていった。
 本部幹部会が開催される18日は、作曲に力を注いだ。昼からは作曲経験のあるメンバーと共に、曲作りに取り組んだ。
 当初は本部幹部会の席上で発表する予定だった。だが、曲は仕上がらなかった。
 「彼(山本伸一)は、後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった」
 本部幹部会では、いったん、歌詞のみが発表された。その後、先生は音楽大学出身の2人の女子部員にも協力を依頼し、再び作曲に取り掛かった。
 皆に意見を求めながら、曲作りを進める中、五行詞の歌詞が作曲を難しくしていることが分かった。
 熟慮に熟慮を重ねた歌詞である。一言一言に深い思いが込められている。
 だが、先生は「新しいものを創造するには、時には、これまで作り上げてきたものへのこだわりを、躊躇なく捨てる勇気が必要な場合もある」と、それぞれ2行目の歌詞を削り、四行詞に作り直した。
 
“戦人”の哲学
 四行詞として新たにできた「人間革命の歌」は、学生部の富士学生合唱団の歌声で録音された。
 その後、海外のメンバーの代表との打ち合わせに臨んだ池田先生は、そこで録音したテープをかけ、「人間革命の歌」を紹介した。
 だが、まだ完成ではない。先生は再び、歌詞の推敲を始めた。曲についても、検討が重ねられた。
 「一つ一つの事柄を、徹して完全無欠なものにしていく――それは、広宣流布の“戦人”ともいうべき彼(山本伸一)の哲学であった」
 そうして、18日午後8時40分、遂に「人間革命の歌」が完成した。
 先生は、各方面・県などのリーダーに、次々と電話を入れた。電話口がカセットデッキの前に置かれ、新たに録音し直した「人間革命の歌」がかけられた。
 歌詞と譜面は、翌19日付の聖教新聞に掲載された。
 歓喜の波動が、列島を包んだ。その日、「人間革命の歌」の歌声が、全国で高らかに響いたのである。
 「人間革命の歌」が誕生した1976年は、8月から10月にかけて、各地で文化祭が開催された。それぞれの会場で、「人間革命の歌」が歌われた。


 また76年は、学会精神を継承していくために、「男子部の日」(11月5日)、「女子部の日」(11月12日)、未来部各部の結成の日など、数多くの記念日が制定された年でもあった。
 「8・24」が「壮年部の日」と決定したのも、この年である。
 同年88月24日には、「部の日」を記念する壮年部の集いが、各地で盛大に開催された。創価大学で行われた集いでは、参加者全員での「人間革命の歌」の合唱が行われた。
 今、「人間革命の歌」は、日本のみならず、世界でも歌われている。
 「新しき文化の創造も、未来の建設も、そして、人類の宿命の転換も、一人ひとりの人間革命から始まる。この歌は、創価学会のテーマともいうべき、その人間革命運動の推進力となっていったのである」
 「『人間革命の歌』は、師弟の共戦譜である。そして、生命の讃歌である」
 
「一対一」の絆
 「君も立て 我も立つ」
 「君も征け 我も征く」
 「君も見よ 我も見る」
 「人間革命の歌」の1番、2番、3番の冒頭には、いずれも「君」と「我」との歌詞がある。
 創価の師弟の絆とは、いついかなる時も、この「君」と「我」という「一対一」の関係である。
 ほかの誰かではない。
 わが胸中に、師への誓願は燃えているか。
 師の激闘に連なる自らの実践はあるのか。
 師と共に立ち上がる「一人」から、広宣流布の拡大は始まる。
 『新・人間革命』第23巻「勇気」の章の連載が終了したのは、2010年(平成22年)6月2日である。
 その翌日に開催された本部幹部会。池田先生は、万感の思いをメッセージに託した。
 「君たちに万事を託していく総仕上げの『時』を迎えている」
 「師匠の薫陶に応えて、弟子が今一重の深い自覚をもって立ち上がる時に、未来を開く新しい前進と勝利の息吹が生まれるのであります」


 いよいよ広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」を迎える。
 大誓堂の敷地内には、「人間革命の歌」の碑がある。この碑が建立されたのは、1976年の暮れ。小説には「地涌の使命を果たし抜かんとの、弟子一同の誓願によって建てられた」とつづられている。
 「地涌の使命」に奮い立ち、誓いを果たし抜くのが弟子である。
 さあ、「創価勝利」へ、弟子としての自覚を今一重深くし、広布の旅路を勇んで進み征こう。
誓願の歌声を高らかに響かせながら!

SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)で「人間革命の歌」のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。

  (2018年11月3日 聖教新聞)







Last updated  2018/11/04 01:19:19 AM
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2018/09/21

歌声高く 誕生40周年の学会歌 


20  完 「 母の曲 」

 わが家と地域を“幸の城”に
 歌詞と旋律に、無数の人々の思い出が結び付いている。歌うたび、聴くたびに遠い記憶が鮮やかによみがえる。そんな歌が、学会には数多くある。
 本年4月、東京牧口記念会館で行われた本部幹部会の席上、婦人部・白ゆり合唱団が響かせた「母の曲」の歌声に、全国から感動の声が続々と本紙の「声」の欄に寄せられた。
 ある婦人は、若き日の池田先生が指揮を執った「大阪の戦い」の前年、1955年(昭和30年)に大阪で入会した母親の、在りし日の様子をつづった。「『母の曲』が発表された時は涙を流し、『ほんま、池田先生は全部分かってくれてはる。そやから何があっても負けられへん』と、全力で活動に励みました」

 婦人部の歌「母の曲」の歌詞が発表されたのは、40年前の78年(同53年)10月21日、東京・板橋文化会館で開かれた本部幹部会の席上だった。
 スピーチに臨んだ池田先生は、この年、激務の合間を縫って数々の学会歌を制作してきたことを振り返りながら、語り始めた。
 「各方面や県、また各部から強い要望があり、歌を作ってまいりました。同志の皆さんは、来る日も来る日も、苦労に苦労を重ねて学会活動に励んでくださっている。そうした方々に、心からいたわりの言葉をかけ、御礼、感謝申し上げたいというのが、私の思いでありました」
 歌を贈ることで、皆の喜びとなり、同志へのせめてもの励ましとなり、希望になるのであれば――これが先生の真情であった。
 そして茨城の歌「凱歌の人生」と共に、新婦人部歌として発表されたのが「母の曲」だったのである。
 1番から4番までの歌詞が紹介されていく。終わるやいなや、婦人部の友から歓声と拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかった。
 拍手が収まるのを待ってから、先生は言った。
 「婦人部の皆さん方の日夜のご活躍に、心から敬意を表して作らせていただきました」
 先生が「母の曲」の作詞に取り掛かったのは、本部幹部会の前日(10月20日)のこと。
 その日、先生は、東京・信濃町の創価婦人会館(後の信濃文化会館)で婦人部の方面幹部らと懇談し、友の話に耳を傾けた。
 功徳の体験が広がり、喜びに満ちる組織のこと。宗門の僧による理不尽な学会批判の中で、友の激励に走る同志のこと――報告は尽きることがない。その中で新しい婦人部歌を発表したいという要望があった。
 婦人部の代表が作成した歌詞の原案は、この年の6月に完成した創価婦人会館を、「母の城」と詠っていた。
 しかし先生は、一人一人の家庭をこそ「母の城」と捉えるべきではないかと訴えた。「自分の今いる場所で、崩れることのない幸せを築き、わが家を寂光土へと転じていくんです。婦人部の皆さんには、それぞれのご家庭を『幸の城』『母の城』にしていく使命があるんです」と。
 友の熱意を受け止めた先生は、この日、帰宅してから、作詞に取り掛かることにした。時計の針は午後10時半をさしている。
 「さあ、婦人部の歌を作るよ。言うから書き留めてくれないか」と先生が言うと、香峯子夫人が、急いでメモ帳を手にして来た。
 先生の口から、言葉が奔流のようにあふれ出す。
 幼子抱きて 汗流し……
 
 尊い使命に目覚めた一人の婦人が、あらゆる悲哀を乗り越えて、太陽のように家族を友を照らしつつ、幸の曲を奏でていく――そんな人生の広布旅を、先生は歌詞を通して描きだそうとした。
 時折、香峯子夫人に意見を求めながら言葉を練り直す。「婦人部には、ご主人を亡くされ、働きながら懸命にお子さんを育てている方や、結婚なさらずに頑張っている方もおります」との夫人の意見を受け、先生は「城の人々 笑顔あり」との一節を紡いだ。
 婦人部は皆、創価家族の“母”である。家庭の城、地域の城の人々に笑顔を広げゆく“太陽”である。
 池田先生ご夫妻の共同作業によって、新婦人部歌の歌詞は生まれた。
 翌日の本部幹部会終了後には曲も完成。“婦人部は一人も残らず幸せになってもらいたい”との、師の祈りにも似た思いを乗せて、「母の曲」の歌声は全国に広がっていった。
                            
 かつて池田先生は、婦人部の友に詠み贈った。

 母の曲
   涙と勇気の
     励ましに
 母の曲
​

   皆が歌えば


     勝利かな



 「母の曲」発表40周年の本年、各地の集いでこの歌の合唱が披露されている。 学会活動に走りながら、いつも口ずさんでいるという友は語る。「私にとって『母の曲』は応援歌。曲を心に響かせると、不思議と温かい気持ちで人に会うことができ、喜びに満たされます。どなたとでも、対話が弾むんです」と。 幸福へ、勝利へ――創価の女性の行進の足音は高まる。朗らかに、歌声も高らかに。

「母の曲」


MEMO
 婦人部歌「母の曲」の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章に描かれている。また本年の5・3「創価学会母の日」制定30周年を記念して発刊された池田先生の指導集『幸福の花束Ⅱ』には、「母の曲」のほか「母」「今日も元気で」「永遠の青春」の歌詞・楽譜を収録。QRコードを読み込むと、それぞれの曲を聴くことができる(通信料は必要)。

連載を終えて
 40年前の本紙にくまなく目を通すと、連日のように合唱の写真が掲載されていることに気付く。 胸を張って口を縦に大きく開き、瞳を輝かせて歌う友の姿の、何と誇らしげなことか。にぎやかな歌声まで聞こえてきそうだ。 当時、学会が第1次宗門事件の渦中にあったからこそ、負けずに、明るく乗り越えていこうとする同志の決意が胸に迫ってくる。​

 1978年4月、池田先生は友にこう呼び掛けた。

 「歌声運動を通しておおいに心を開き、おおいに心を弾ませていこう。そこに信心の功徳と歓喜が増幅することを確信して晴れがましく前進してください」 歌声運動に爆発的な勢いをもたらしたものこそ、先生が同年に手掛けた学会歌にほかならない。その数、実に30曲。多くが、夏から秋にかけた数カ月の間に誕生している。

 ゆっくりと机に向かって作る余裕など、ほとんどなかったといってよい。先生は、北海道から九州まで列島を同志の激励に駆けた。9月には第4次訪中へ。激務の合間を縫うように、時に移動の車中で詩想を巡らし、時に深夜まで推敲し、翌日も何度も手直ししながら、次々と“魂の歌”を生み出していったのだ。

 「一つの歌を作るにも生命を通わせなくてはいけない」「何事によらず“労作業”でなければ、人々の心を打つものはできないものだ」と――。 

本連載に、読者から多くの声が寄せられた。先生が作った歌が40年の時を経てもなお、同志の心に深く刻まれ、世代から世代へと歌い継がれていることをあらためて実感した。 いかに学会歌を歌うべきか――。先生は訴える。

 「学会歌は、力強い歌声で、力強い生命で歌っていくことだ。それが学会歌の精神である。こういう基本から、もう一度、男子部も、女子部も、新たな『革命』を起こしていただきたい。

 新入会のメンバーも増えている。歌を歌うことで、皆の心を一つにし、前進の歩調を合わせていくこともできる」

 広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」が近づいてきた。学会の永遠性を確立する時は、“今”である。皆で学会歌を心一つに歌いながら、前進しよう。



 1978年(昭和53年)に池田先生が手掛けた学会歌


 女子部歌「青春桜」

 学生部歌「広布に走れ」
 男子部歌「友よ起て」
 白蓮グループ歌「星は光りて」
 壮年部歌「人生の旅」
 東京・練馬区の北町地域の支部歌「北町広布」
 関西の歌「常勝の空」
 千葉の歌「旭日遙かに」
 中国方面の歌「地涌の讃歌」
 九州の歌「火の国の歌」
 四国の歌「我等の天地」
 中部の歌「この道の歌」
 未来部歌「正義の走者」
 東京の歌「ああ感激の同志あり」
 東北の歌「青葉の誓い」
 神奈川の歌「ああ陽は昇る」
 北陸の歌「ああ誓願の歌」
 北海道の歌「ああ共戦の歌」(現在の「三代城の歌」)
 長野の歌「信濃の歌」
 婦人部歌「母の曲」
 茨城の歌「凱歌の人生」
 埼玉の歌「広布の旗」
 東京・世田谷の歌「地涌の旗」
 新潟の歌「雪山の道」
 栃木の歌「誓いの友」
 指導部の歌「永遠の青春」
 山梨の歌「文化と薫れ」
 大阪・泉州の歌「歓喜の城光れ」
 群馬の歌「広布の鐘」
 静岡の歌「静岡健児の歌」



(2018年9月21日 聖教新聞)







Last updated  2018/10/11 11:31:05 PM
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2018/09/16

歌声高く 誕生40周年の学会歌


19 「青春桜」   

 桜は特別な花である。
 年々歳々、厳寒を越えて春に咲く美しさ、潔さに、人は、わが人生を映し見るものである。
 日蓮大聖人は門下への手紙に、こう認められた。
「さくら(桜)はをもしろき物・木の中よりさきいづ」(御書1492ページ)
 固く、ごつごつとした桜の木からも、やがて美しい花が咲き出る。その原理と同様に、凡夫の心からも必ず、最極の仏の生命を涌現できると教えられた。
  第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、池田先生は、厳しい冬を耐え、満開の花を咲かせる桜に、創価の同志の人生を重ね、訴えた。「嵐に負けるな!」「桜花爛漫の人生を開きゆけ!」と。当時の女子部の友が、師を求め、”父娘の誓い”を託しながら、何度も何度も歌った歌――それが「青春桜」である。
 1977年(昭和52年)末、全国の女子部の友に大きな喜びが広がった。東京・信濃町に旧・創価女子会館が誕生したのである。
 池田先生は「遂に建つ 創価の桜の 女子会館」と詠んで贈り、さらに桜を植樹。「青春桜」と命名した。
 この1本の桜から、女子部の友は新・女子部歌の曲名を着想。代表が作成した歌詞の原案を受け取った先生は、全生命を注ぐ思いで筆を加えた。「新時代を開く”魂の歌”にしよう」と。
 その結果、原案のうち「青春桜」という曲名、冒頭の「ああ」という言葉、最後の「薫れ生命の 青春桜」という言葉しか残らないほど、全面的に推敲された。
 曲についても、先生は「もっと皆の心が開けていくようなものにしよう」等と具体的に提案。録音したテープを繰り返し聴いた。
 こうして、師弟共戦の女子部歌「青春桜」が完成。78年(同53年)3月16日、東京・立川文化会館で開かれた「3・16」20周年記念の青年部総会の席上、発表された。
 歌詞の3番には、こうつづられている。「あなたと語りし あの誓い」「いかに忘れじ この道を」「手に手をとりたる 青春桜」
 私たちは決して一人ではない。創価の姉妹がいる。学会家族がいる。そして、師匠がいる!――女子部の友は、大好きな「青春桜」を口ずさみながら、荒れ狂う宗門事件の嵐を、敢然と乗り越えてきたのである。
 時は巡り、2006年5月3日、現在の創価女子会館が開館し、その後、同会館に「青春桜」の歌碑が設置された。
 池田先生ご夫妻の言葉が、この碑文に刻まれた。「時は満ち本門の華陽の連帯は/全世界に『師弟桜』『友情桜』/『幸福桜』『平和桜』を広げゆく/広布勝利の花の道を語り歩む」華陽の乙女は誓い進む。
 自分らしく「人間革命の青春」の花を咲き薫らせるため、そして、「幸福」と「平和」の創価桜の道を開きゆくために!


(2018年9月16日 聖教新聞)

​「青春桜」​​​







Last updated  2018/10/11 11:07:24 PM
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2018/09/03

​歌声高く 誕生40周年の学会歌

18 凱歌の人生/誓いの友/広布の鐘 

 
  夏の暑さが盛りを過ぎ、秋の気配が近づくと、北関東の同志の心は、むしろ、一段と熱を帯びてくる。
 池田先生が茨城、群馬、栃木の3県に、相次いで県歌を贈った記念の日を迎えるからだ。1978年(昭和53年)のことである。
 茨城県歌「凱歌の人生」の歌詞が発表されたのは、10月21日、東京で行われた本部幹部会の席上だった。その歌詞には、池田先生の「”すべてに勝利の茨城であれ!”との、強い、強い、期待が込められていた」(小説『新・人間革命』「常楽」の章)。

 第1次宗門事件の渦中である。けなげな学会の同志を守るため、間断なき激闘のさなかにあった先生は、ペンを執り続けた。
 11月2日、「栃木の日」記念総会を翌日に控えていた県の幹部のもとに、「県歌ができたよ」との先生の伝言が届く。
 総会当日、会場に県歌「誓いの友」の歌声が響きわたった。池田先生が恩師・戸田城聖先生の戦後初の地方指導に思いをはせて命名した「戸田合唱団」の友も躍動した。

 同月21日には、群馬センター(当時)で協議会を行っていた県幹部に、群馬県歌「広布の鐘」の完成が伝えられた。さらに、「歌は時代を変えていく。群馬の同志が、この歌を声高らかに歌いながら、大きく成長して、新しい時代を築かれることを楽しみにしています」との先生の万感こもる伝言も――。

 11月23日、東京・信濃町の創価文化会館(当時)で第1回「関東支部長会」が行われた。開会に先立ち、各県のメンバーが県歌を合唱する姿は、さながら”広布の歌合戦”のよう。「皆が、21世紀の峰をめざす決意を託しての合唱であった」(小説『新・人間革命』「力走」の章)

 そして今、「直通(ひたみち)の茨城」「人材の王国・群馬」「広布源流の栃木」には、堂々たる人材

の城が築かれた。
 各県の同志は本年6月、県歌誕生40周年を記念する関東総会(本部幹部会)を見事な弘教拡大で勝ち飾り、広宣流布大誓堂完成5周年の秋へとひた走る。師と共に、歌声も高らかに!​



(2018年9月3日 聖教新聞)

​​県歌「凱歌の人生」誕生30周年 | 茨城創価学会
茨城県歌「凱歌の人生」

群馬県歌​「広布の鐘」
栃木県歌「誓いの友」







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