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晴ればれとBlog

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師弟不二の共戦譜~小説「新・人問革命」と歩む~

2019/02/01
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師弟不二の共戦譜 第3回 福岡 ​下​

​​~小説「新・人間革命」と歩む​​~

先駆の使命を果たし、創価の牽引力に  
福岡から広布の潮流を


 1997年5月17日から3日間、伸一は福岡で広布の指揮を執る。その様子は第25卷「共戦」の章で言及される。
 18日には、福岡市博多区に誕生した九州平和会館(後の博多平和会館)で、本部幹部会が開催されることになっていた。伸一は福岡に到着した17日、九州や福岡の幹部と懇談した折、力強く語った。
「いよいよ明日は、この九州平和会館で本部幹部会だ。すごい時代になったね。福岡から、全国、全世界に、広宣流布の潮流を起こしていくんだ。これからは、各県が、一つの創価学会になれるぐらい、総合的に力をつけていかなければならない。今回の本部幹部会は、その前哨戦(ぜんしょうせん)だよ」
 さらに先生は、伸一の言葉に込められた真情をつづっている。
「伸一は、東京という一つの機関車が、全国を牽引(けんいん)する時代は終わったと思っていた。各車両がモーターを備えた新幹線のように、各方面、さらには各県区が自力で走行し、他地域をリードできる力をもってこそ、各地の個性をいかんなく発揮した、広宣流布の新たな大前進が可能になるからだ。地域があらゆる実力を備えてこそ、『地方の時代』の到来がある」

 先生は、まさにその先駆を、九州に託したのだ。
 本部幹部会の翌19日、伸一は10年ぶりに山口指導に臨んだ。22日には北九州へ。再び福岡で激闘を重ねていく。第25卷「薰風」の章 は、この北九州での激励行から書き始められている。
 22日夕刻、北九州文化会館(後の北九州平和会館)の庭で、句碑の除幕式が行われた。
 その句とは、「九州が/ありて二章の/船出かな」というものである。
「これは、創価学会が、『広布第二章』の大空へ新たな飛翔を開始した97(昭和48年) の1月、北九州市で開かれた第1回『九州青年部総会」を記念して、山本伸一が詠んだ句である。
 句には、九州の同志が担うべき、 広宣流布の”先駆”としての使命を断固として果たし抜き、創価の牽引力になってほしいとの、伸一の限りない期待が込められていた」(第25卷「薰風」)
 除幕式を終えると、伸一は館内へ移動し、懇談会を行った。参加者は、男子部を中心とした九州、福岡の幹部らである。伸一はここでも、全精魂を注ぎ込むように、青年を訓育していく。
 伸一は、司会や勤行の副導師を務める際に心掛けるべき点を、具体的に、こまやかにアドバイスする。また、3人の青年歯科医が、 学会活動に全力で励みながら、社会で実証を示していることをたたえ、真の仏法者として創価の大道を歩み抜くことを望みつつ、こう語った。
「歯科医として、しっかり技術を磨くことは当然だが、最も大事なことは、自分の人格を磨き、人間として信頼されていくことです。そして、地域に貢献(こうけん)していってください。さらに、人びとを幸福にするための正道である学会活動の、闘志であり続けてください。そこにしか、本当の人生の幸福も、勝利もないからです」

 翌23日、伸一は北九州創価学会の支部結成17周年を記念する勤行会に出席。24日には、北九州文化会館で行われた福岡県剖価学会の功労者追善法要で導師を務め、日蓮仏法の生命観を述べていった。
 その夜、九州各部代表との懇談会を終えた伸一は、「田部会館 (個人会館)」へ。待っていた同志と共に勤行し、日頃の献身に感謝した。
 当時、女子部メンバーとして活躍していた、個人会館提供者の長 女・金上江梨子(かねがみえりこ)さん(小倉喜多本陣区・区副婦人部長)は、その日のことをはっきりと覚えている。
「池田先生が来てくださった日は、朝から晚まで唱題していました。先生のご来訪と、九州指導の無事故・大成功を祈り、真剣に唱 題を重ねたのです。午後8時になり、皆で『ここまでお題目あげたから、本望だね』と話していたところに、”先生がこれから向かわれる”との電話が入りました」
 個人会館は当時、田んぼに囲まれる場所に立っていた。金上さん は、両親と共に、先生の到着を玄関で待った。すると、あぜ道の方 から歩いてきたのだろうか、先生一行が近づいてきた。
 庭に植えられた菖蒲(しょうぶ)の花を見た先生は、金上さんに、「お嬢さん、 お水をいただけますか?」と声を掛けた。コップを受け取った先生は、菖蒲の花に水をかけていった。 同志の真心に、励ましの滋養(じよう)を与えていくような姿だった。今も、 この時の菖蒲の”子孫”が、毎年、花を咲かせている。
 先生の訪問以降も、同志は愛する地元のために奮闘した。仏法対話に花を咲かせ、正義の言論戦を展開した。やがて、個人会館の周辺は道が広がり、高速道路のインターチェンジが近くにでき、住宅地が広がるようになった。金上さんは地域の発展に目を細める。
 先生は小説で、会館訪問のことを、あれほどまでに、克明(こくめい)に認めてくださいました。ただただ、報恩感謝の思いで、広布に走り抜いてまいります」

個人指導の基本姿勢
「創価学会の世界では、個人指導は、当然のことのように、日常的に行われています。
 それは、苦悩を克服するための励ましのネットワークであり現代社会にあって分断されてきた、人間と人間の絆の再生作業でもあるんです。この私どもの行動のなかに、学会のみならず、社会の重要な無形の財産があると確信しております。
 やがて、その事実に、社会が、世界が、刮目(かつもく)する時が、きっと、来るでしょう」
 伸一が、こう確信を語ったのは、 第27卷「激闘」の章。78年5月17日、九州文化会館(後の福岡中央文化会館)で行われた九州最高会議の席上である。
「激闘」では、伸一が個人指導の基本姿勢についても訴えている。 広布推進において、地道ではあるが、最も大切なのが、個人指導であり、人への励ましである。いかなる戦いにおいても、勝利の原動力は、一人一人が希望を燃やして前進するなかにあるからだ。
 ここで伸一が強調している個人指導のポイントを記しておきたい。

 第1に、決して、感情的になってはならない。
 第2に、どこまでも信心の確信が根本である。
 第3に、相談を受けた内容を他言しては、絶対にならない。
 第4に、粘り強く、包容力豊かに、指導の任に徹していくべきで ある。
 そして第5に、抜苦与楽(ばっくよらく)の精神こそ、個人指導の大目的であることを忘れない——。
 さらに彼は、自分の実感を語る。
「私が多くの幹部を見てきて感じることは、個人指導を徹底してやり抜いてきた方は、退転していないということなんです。
 個人指導は、地味で目立たない永続的な忍耐(にんたい)の労作業であり、そ れを実践していくなかで、本当の信心の深化が図れるからです。さらに、個人指導を重ねていくなかで、自分自身を見つめ、指導することができるようになるんです。 だから退転しないんです。
 もちろん折伏も大事です。ただし、折伏しただけで、入会後の指導をしっかりしていかないと、一時的な戦いに終わってしまう面があります。また、折伏の成果は、すぐに目に見えるかたちで表れるので、周囲の同志から賞賛もされます。それによって慢心(まんしん)になり、 信心が崩(くず)れていってしまった人もいました。したがつて、折伏とともに、個人指導に全力を傾けていくことが、自分の信心を鍛(きた)え、境涯を高めていく必須条件なんです。
   折伏、個人指導は、対話をもって行う精神の開拓作業です。開拓には、困難に挑(いど)む勇気と忍耐(にんたい)が必要です。しかし、その労作業が人びとの生命を耕(たがや)し、幸福という実りをもたらす。どうか皆さんは、誠実に対話を重ね、友の生命開拓の鍬(くわ)を振るい続けていってください。
 個人指導は、組織に温かい人間の血を通わせ、紐織を強化していく道でもあるんです」
 九州最高会議に続き、伸一は福岡市西区(早良区)の九州記念節 (後の福岡平和会館)に立ち寄る。
 そこで行われていた体験談大会の参加者のためにピアノを演奏するなど、彼の激闘はとどまることがなかった。

『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない

信念と確信を強く
 九州の歌「火の国の歌」が誕生する場面は、第28卷「広宣譜」の章で描かれる。伸一は、移動の車中や指導、激励の合間に、精神を研ぎ澄ましながら作詞に当たる。
 第30卷上「雄飛」の章では、会長辞任後、伸一が満を持して激励行を開始。80年の4月30日、5月1日、2日と、福岡で同志を次々と励ましていく。
 5月1日夜に九州平和会館で開催された福岡県本部長会で、伸一は、師子の魂を一人一人に打ち込むように訴えた。
「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」
「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」
「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」
 81年12月14日、伸一は福岡県南部の久留米会館、八女会節、筑後市内の個人会館を相次いで訪れ、 渾身の指導を重ねる(第30卷下 「勝ち鬨」)。特に筑後の懇談会では、リーダーの振る舞いの重要性に触れ、力を込めた。
「リーダーである皆さんは、いかなる大難があろうが、巌(いわお)のごとき信念で、絶対に勝つという強い一念で、悠々と、堂々と、使命の道を突き進んでください。その姿に接して、会員は、皆、安心し、勇気をもつからです。
 リーダーには、次の要件が求められます。
『信念と確信の強い人でなければならない』『誠実で魅力ある人でなければならない』『健康でなければならない。常に生き生きと指揮を執り、リズム正しい生活であるように留意すべきである』 『仕事で、職場で、光った存在でなければならない。社会での実証は、指導力の輝きとなっていくからである』『指導にあたっては、常に平等で、良識的でなくてはならない』
以上を、心に刻んで進んでいただきたい」

 宗門事件に苦しんできた同志のために、反転攻勢に打って出た伸一の叫びは、福岡の、九州の同志の心を強く打った。
 宗門事件の嵐が吹き荒れるなか、 当時、九州男子部長だった田村降 雄さん(九州総主事)は、メンバーと共に考えていた。”学会の真実を、広布の師の姿を、世間に伝えていきたい”と。
 まず、九州平和会館の”別館”で、平和の大切さを訴える展示を始めた。80年5月のことだった。
 翌81年の5月2日、九州記念館を改装した、「九州池田平和記念館」がオープン。学会の「平和・文化・教育」の哲学を発信する展示には、数多くの方が来場した。
「代表メンバーが、御礼をかねて、先生に報告に行きました。先生は大変喜んでくださり、『これからの広宣流布は、折伏と、平和・文化・教育の、一つの車輪で進んでいくんだよ』と、未来の展望を示してくださいました」
 こう振り返る田村さんの原点は、 72年9月。九州の学生部員の代表として、先生と懇談した折、「九州から、日本の、世界の、広宣流布の次の時代のパターンをつくっていきたい」「一緒に手伝ってよ。 九州しかないんだ」と励まされたことだ。
 田村さんは誓っている”
「先生の一念に包まれるように、 九州から、青年から、新たな平和の波動が起きました。最も困難な時にこそ、次代を開く闘争を開始する――先生が姿で示してくださったように、また、小説で書き記してくださったように、私たち九州も、これからも広宣流布の道を先駆していきます」
 当時、このように、池田先生から励ましを受け、立ち上がった九州のリーダーは数多い。
 そして今も、福岡の友は、広布の師の魂を、わが胸に赤々と燃やし、正義の対話拡大へ先駆の戦い展開している。
 ”福岡から、九州から、世界広布の光を創価勝利の突破口を”――その広布誓願の心意気こそが、九州の魂だ。


福岡への指導
​最後まで、常に"先駆”で​


「いよいよ九州の時代が来たよ。
 広宣流布は東京から始まった。そして、関西も立ち上がり、常勝の新風を送り、学会は大きく羽ばたいていった。今度は、九州の出番だ。九州が立つ時が来たよ。これからは、永遠に『九州ありての学会』『九州ありての広布』でなければならない。
 九州の使命である"先駆”ということは、最後まで、常に”先駆”であり続けるということです。最初は、威勢よく、先陣を切って飛び出しても、 途中から疲れて遅れ始め、最後は、”びり”になってしまうというのでは、意味がありません。
 初めの勢いだけで、"先駆”であり続けることはできない。持続が大事です。そのためには、緻密な計画性に基づいた地道な努力が必要なんです。したがって、"先駆”とは、"堅実さ”に裏打ちされていなければならないことを知ってください」(第25卷「薫風」)


福岡への指導​
人生を楽しく、価値あるものに


(「九州の歌」の歌詞に込めた思いを、伸一が語るシーン〕
「九州には、気取りはいらないよ。 そんなものは、一切かなぐり捨てて戦うんです。
 2番の歌詞の4行目を、私は『先駆の九州いざ楽し」とした。これが大事なんです。
 広宣流布の活動には、生命の歓喜がある。題目を唱えれば唱えるほど、信心に励めば励むほど歓喜増佐し、心は弾む。もちろん、苦しいことや悔しい ことはあるが、信心の世界には、それに何倍も勝る喜びがある。楽しくて楽しくて仕方がないというのが学会活動です。決して悲壮感に満ちた世界ではありません。
 また、皆が楽しさを満喫して信心に励んでいくために、善知識である同志の連帯が、創価家族がある。家族ですから、悩みも、弱さも、ありのままの自分をさらけ出していいんです。上下の関係もありません。何でも語り合いながら、真心の温もりをもつて互いに包み合い、励まし合つていく——それが創価家族なんです。
 人を励ませば、自分が強く、元気になる。人を包み込んでいけば、自分の境涯が、広く、大きくなる。仏道修行、 学会活動は、自身を磨き鍛え、人生を楽しく、最高に価値あるものにしていくためにあるんです」
 励ましは、人を蘇生させ、心と心を結び、社会を活性化させていく草の根の力となる。
 伸一は、さらに私詞に視線を注いだ。「3番に、『崩れぬ道』とあるのは、牧ロ先生、戸田先生の大精神を受け継ぎ、広宣流布に生きる、われら創価の師弟の道です。
 九州の皆さんが、学会を誹謗(ひぼう)する僧たちによって、どんなに辛く、いやな思いをしてきたか、私はよく知っています。
 しかし、日蓮大聖人の正法正義を貫き通してきたのは学会です。正義なればこそ、魔は、さまざまな姿を現じて、競(きそ)い起こって来る。したがつて、何があろうが、一歩も退(しりぞ)いてはならない。 ますます意気軒昂(いきけんこう)に、一緒に創価の 『正義の歴史』をつくつていこう!」(第28卷広宣譜」)​

​​


寄稿
福岡から「反転攻勢」の烽火を!
総福岡長 早田浚一(そうだとしかず)さん

 私たちには絶対に降ろしてはならない旗がある――それは、広宣流布の旗、折伏の旗。
 私たちには絶対に消してはならない炎がある――それは、信心の炎。
 池田先生は、39年前、この「師弟の魂魄(こんぱく)」を、世界のどこでもない、 わが福岡で師子吼(ししく)され、反転攻勢(はんてんこうせい)の烽火(のろし)をあげてくださった。
 小説『新・人間革命』第30卷上 「雄飛」の章には、当時の情景が、ありありとつづられている。
 訪中の旅を終えた山本伸一は九州へ。 4月30日に福岡入りし、翌5月1日には九州平和会館(現在の博多平和会館)での福岡県本部長会に出席し、強く訴えた。
「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」
「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」
「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」


 当時は、池田先生の第3代会長辞任から1年。「『先生』と呼ぶな」 「師弟を語るな」「聖教新聞に指導を載せるな」師弟の絆を切り裂こうとする、宗門や反逆者らの卑劣(ひれつ)な 謀略(ぼうりゃく)があった。
 しかし、そんな謀略など、先生は、 "風の前の塵(ちり)のごとく吹き飛ばす勢いで、福岡の地に降り立たれた。
「獅子が来たんだ!もう大丈夫だ」 ――その先生のお声を耳にした同志の喜びは、いかばかりだったことか。
 先生は、駆けつけてくる同志と握手を交わし、次々と記念のカメラに。一人一人の友を抱きかかえるように励ましてくださった。「大切な最前線の同志を誰が守るんだ!」「こうやって会員を守っていくんだ!」 「師弟を分断する魔とは断じて戦い、 打ち破っていくんだ!」と。
 5月2日までの3日間、先生が直接会って励ましてくださった友の数 は実に2万人を超えた。あの日あの時、福岡に、師弟直結の人材城が築かれた!と感謝は尽きない。
 この時の励ましを受けたメンバ―の子や孫が、師弟のバトンを受け継ぎ、今、福岡の天地には、幾万余の "若き池田門下”が乱舞する時代になった。
 私たちは、永遠に先生と共に、広宣流布の旗を、折伏の旗を高々と掲げゆく。世界に先駆する新時代の福岡の大行進は、これからが本番だ!


寄稿
難攻不落の「先駆の人材城」を!
総福岡婦人部長 平真寿美(たいらますみ)さん

 広宣流布の新段階を迎えようとしている今こそ、全同志の心に、万年にわたる信心の堅固な礎(いしずえ)を築かなくてはならない。また、人材を見つけ、育てよう! 全国各地に 難攻不落(なんこうふらく)の人材城をつくろう!」 池田先生は、1977年(昭和52 年)5月17日からの九州指導に臨む真情を、第25卷「共戦」の章につづってくださいました。
 福岡は、日蓮大聖人御在世当時、蒙古襲来(もうこしゅうらい)の激戦の舞台でした。58年6月10日、防塁(ぼうるい)が残る西新(にしじん)(現・早良区)の地に、先駆の本陣である九州本部が誕生。晴れの開館式には、当時、総務だった池田先生が出席してくださいました。先生は「東洋広布の歌」で勇壮な舞を。会合の後も、九州本部の裏の海岸で、青年たちと魚釣りなどをして、思い出をつくってくださったのです。
 83年3月29日、同じ場所に立つ九州池田平和記念館(現・福岡平和会 館)を訪問された先生は、"永遠の勝利のためにと、月桂樹を植樹してくださいました。それは、未来を見据え、青年に期待を託される先生のお心の刻印でもありました。
 “ 94年11月、私が福岡の女子部長だった時、福岡ド―厶(当時)で「アジア青年平和音楽祭」が開催されました。先生と共に、反転攻勢の”先駆の使命”を果たすのだと祈り、戦い、勝利した草創の父母。その魂を受け継いだ青年5万人による'”歓喜の歌”師弟の凱歌が轟(とどろ)きわたり、 ドー厶の屋根がゆっくり開くと、一条の光が差し込んできました。「アジアの民(たみ)に 日(ひかり)をぞ送らん」との戸田先生の和歌を想起させる天空を、池田先生と共に見上げたことは、生涯忘れ得ぬ、黄金の原点です。本年は25周年の佳節を迎えます。
 昨年の7月、インド創価学会の メンバー200人を福岡に迎え、「九州インド青年先駆総会」を開催。
「アイ アム シンイチ ヤマモ卜!」の合言葉が会場中にこだましました。先生の不惜身命の大闘争によって、池田門下の陣列が地球規模に広がっている姿に感動しました。
 「”後継の人”とは、勝利の旗を打ち立てる"先駆の人”でなければならない」(第2卷「先駆」)――この師の心を胸に、創立90周年へ、断じて「完勝の旗」を!今こそ先駆の誓願に燃えて、世界一の青年を先頭に、「人間革命の光」輝く、難攻不落(なんこうふらく)の福岡を、人材・幸福の城を築いてまいります。

(大白蓮華2019年2月号より) ​​








Last updated  2019/02/02 11:32:31 AM


​​​​​​師弟不二の共戦譜 第3回 福岡
~小説「新・人間革命」と歩む (大白蓮華2019年2月号より)


福岡は、九州は、「先駆」を使命とする。
先駆けの道は、決して順風ではない。
烈風に逆巻く波を突き抜け、
未知の大海原へ挑む勇気がなくては、
その使命は果たせない。
九州には、挑戦の心が燃えている。
だからこそ、楽しい!
だからこそ、人間革命できる!
この心意気が、福岡の、
九州の友に燃える魂だ。
福岡の同志は、広布の師と共に、
​いかなる艱難辛苦(かんなんしんく)をも勝ち越える。 ​
さあ、きようも、
勇敢な先駆のー歩みを!


私に続く人こそ、 九州の皆であっていただきたい
東洋広布は我等の手で!
 創価学会には、各地で生まれ、やがて全国に広がっていった愛唱歌がある。
 京都で生まれた「威風堂々の歌」や、「新世紀の歌(東北健児の歌)」、「躍進の歌(中国健児の歌)」等。その背景には、”いい歌だ。これから全国で歌っていくようにしてはどうか”との、池田先生の真心の提案があった。
 九州から広がった「東洋広布の歌」も、その一つ。もともと「九州制覇の歌」という題名だった。 この歌の経緯は、小説『新・人間革命』第3巻「仏法西還」の章に詳しい。
 11954年(昭和29年)、 九州の愛唱歌として誕生。その頃、九州のスローガンが「九州制覇は我等の手で」であったことから、題名も「九州制覇の歌」となっていた。本年は65周年に当たる。
 「『制覇(せいは)』とは、いかにも、ものものしい、戦闘的な表現だが、そこには、全九州に妙法を弘め、人びとの幸福を実現しようとの、燃え立つばかりの意気が託されていた」(第3巻「仏法西還」)
 
   57年4月、戸田先生を迎えて意気軒高に開催された、第1回の九州総会。登壇者は、こぞって「九州制覇」を叫んだ。皆、”戸田先生が、九州の心意気を喜んでくださるのでは”と思っていた。ところが、戸田先生が口にしたのは、 意外な言葉だった。
「さきほどから、『九州制覇は我等の手で』と言っているが、そんな了見の狭いことは言わん方がよいと思う。どうも九州には、自分のことにばかりこだわる傾向があるようだ。
 たとえば、九州では、よく『九州男児』というが、ほかの地域では、あまりそんな言い方はしない。 『北海道男児』や『関東男児』『大阪男児』などというのは、聞いたことがない。
 この『九州制覇』というのも、 自分たちのことしか考えないようで、スケールが小さい。どうせなら『東洋広布は我等の手で』と言ってほしいものだ」(同)
 厳愛の指導である。九州では、 戸田先生の言葉を受け、歌詞と題名の「九州制覇」との部分を「東洋広布」と改めたのであった―――
 池田先生は、九州に対する恩師の思いを記した。
「戸田城聖は、古来、大陸と交流の深かった九州に、東洋広布への大きな期待を託していたのである。
 逝去の半年前、九州総支部の結成大会に出席した戸田は、アジアの実情について触れ、創価学会の使命を語り、こう話を結んだ。
『願わくは、今日の意気と覇気(はき)とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたい』、 それが、彼の、九州での最後の指導となったのである」(同)

活躍の舞台は世界!
 時はたち、61年1月8日。福岡・小倉の三萩野(みはぎの)体育館で、九州の総支部結成大会が開催された。
 山本伸一のアジア訪問を、この月の28日に控えて行われた結成大会では、開会前から「東洋広布の歌」の力強い歌声が響いていた。「会長・山本伸一のアジア指導に相呼応して、東洋に幸と平和の光を注(そそ)がんとの決意を込めての、友の合唱であった」(同)
 指導に立った伸一は、九州の同志に呼び掛けた。
「私は、戸田先生の弟子らしく、皆様方の先駆として、東洋の民衆 の”幸福の橋””平和の橋”を築いてまいる決意です。そして私に続いて、その橋を渡る人こそ、『東洋広布は我等の手で」との自覚をもっておられる九州の皆さんであっていただきたいと、念願するものであります」(同)
 広布の師が築いた幸福と平和の橋を、弟子の陣列の先陣を切って渡る。広布の師が切り開いた東洋広布、世界広布の道を、後継の弟子の道として、どこよりも先駆けて走り抜けていく――それが九州の偉大な使命である。
 先駆の道に、逡巡(しゅんじゅん)は許(ゆる)されない。 恐(おそ)れをなせば、先駆することはできない。
「先駆」とは、師弟不二の魂(たましい)を燃やして、臆病(おくびょう)の心を打ち破り、友のため、地域のため、社会のために、勇気の一歩を踏みだす師子の闘争なのだ。
 さらに伸一は、三総支部結成大会で、「東洋広布」の意義と方途 を力説していった。
「東洋広布とは、表現を変えれば、人間の尊厳を守り抜き、永遠の幸福と平和を創造するヒュ―マニズムの精神の種子を、アジアの人びとの心に、植えゆくことにほかなりません。
 私たちの活躍の舞台は、日本だけでなく、アジア、世界であります。私どもはそうした大きな理想をいだきながら、そして、現実の 大地をしっかりと踏み締めて、信心即生活の勝利者として、一歩一歩、足元を固めて前進してまいりたいと思います。そこに、偉大な る理想の実現につながる道があるからです」(同)
 結成大会終了後、伸一は、九州の幹部と懇談の場をもった。そこで、「九州で誕生した「東洋広布の歌』を、全学会で愛唱し、東洋の平和の建設に邁進していきたい」と提案。皆、喜びと賛同の拍 手を送った。
 こうして、「東洋広布の歌」は、全31へ波動していくことになる。
「先駆の九州」から、全国へ、東洋へ、世界へ、歓喜と勝利の千波、万波を!———広布の師の期待は、今も変わらない。


広布の永遠の道を開いていくのは青年部です


男子部・女子部の総会
 青年が広布に先駆してこそ、次代は開かれる。
 九州は、その模範である。
 第4巻「青葉」の章には、青年に対する伸一の甚深(じんじん)の思いが明かされている。
「いかなる団体でも、青年に勢いがあり、青年がいかんなく力を発揮しているところは、永遠に行き詰まりがない。
 学会の未来を担い、広布の永遠の道を開いていくのは青年部です。 だから私は、全青年を、これまでにも増して、本格的に育成したいと思う」
 そして、各方面で開催されていく男女青年部の総会に、全て出席する予定であることを告げた。
 61年5月7日、九州・福岡の地から、青年部の方面総会の幕が開けた。
 午前には女子部の総会が、午後からは男子部の総会が、福岡スポーツセンターで行われ、伸一は相次いで指導、激励した。
 男子部の総会には、実に全九州の7割以上の男子部員が一堂に会した。池田先生は、この結集の中核となった九州男子部のリーダーが、総会に向けて活動に励むなかで、皆に訴えた言葉を認めている。
「このたびの青年部の方面総会の先駆となるのが、わが九州です。ということは、私たちが、全国の勝敗の鍵を握ることになる。最初に、九州が勝利すれば、ほかの方面も九州に負けるものかと、全力で取り組まざるを得ないからです。
 今回は、九州男児の熱と力を、全国の青年たちに見せてやりたいと思うが、どうだろうか!
 そのためには、徹底的に家庭訪問し、信心指導をしていく以外にありません。私は、全男子部員は山本先生の弟さんであると思っています。したがって、いかに小さな組織であっても、組織の責任者になることは、先生から、最愛の弟さんの面倒をみるように、託されたことであると考えています」
「山本先生から、『弟をよろしく』と頼まれれば、信心はもとより、仕事や食事のことまで心配し、 毎日、足を運んで、励ましていると思う。もし、その弟さんが、勤行もしていないと聞いたら、徹底して話し合っているはずです。
 でも、実際には、各組織を見ていくと、勤行もしていないメンバーが、何人もいます。それを放っておくというのは、無責任であり、無慈悲です。もちろん、個人指導は、決して簡単なものではありません。まだ仏法の偉大さがわからずに、信心に対して否定的な人もいれば、なかには、怒嗚り出す人もいるかもしれません。
 しかし、皆、先生の大切な弟さんなのだという思いで、粘り強く対話して、全九州の男子部員を、一人残らず、一騎当千の人材に育て上げ、この総会に勢ぞろいさせたいのです」(第4巻「青葉」)
 この記述は、弟子の言葉に託した、師の真情ではないだろうか。 「青葉」の章には、こうある。
「彼(伸一)は、部員であったころから、戸田の広宣流布の構想を実現するために、学会の全責任をもとうとしてきた。その自覚は班長の時代も、青年部の室長の時代も、常に変わらなかった。
 もちろん、立場、役職によって、 責任の分野や役割は異なっていた。 しかし、内面の自覚においては、戸田の弟子として、師の心をわが心とし、学会のいっさいを自己の責任として考えてきた。それゆえに、戸田の薫陶も生かされ、大いなる成長もあったのである」
 師の心をわが心とする。”師匠であれば、どうするか”と真剣に祈り、勇んで行動に移す――ここに、勝利を開く生命力と智慧(ちえ)を涌現(ゆげん)させる根本があることを忘れまい。


家族を亡くした友を励ます
「青葉」の章には、九州第1総支部の婦人部長である柴山美代子(しばやまみよこ)の急逝(きゅうせい)を聞いた伸一が、残された家族を直接、励ます場面が描かれている。
 夫には――。
「男性にとつて妻を亡くしたことは、最も辛く悲しいことでしよう。しかし、あなたが気弱になれば、一番悲しむのは、きっと亡くなった奥さんです。奥さんは、あなたのことも、子どもさんたちのことも、じっと、見守っているはずです。どうか、強い心で、この悲しみを乗り越えてください」
 3人の娘たちには――。
「お母さんは、偉大な方でした。
 あなたたちが、終生、誇ることができる立派な母親です。
 今、皆さんが、悲しく、辛い気持ちであることは、よくわかります。
 しかし、お母さんの最大の願いは、子どもたちが、挫(くじ)けたりすることなく、すくすくと育ち、幸せになつていくことだと思います。 また、お母さんと同じ心で、生涯、多くの人びとの幸福のために尽く す人になつてほしいと、願つていたはずです。
 これから先、まだまだ、苦しいことや大変なこともあるかもしれ ませんが、御本尊から離れずに、 信心を貫いていくならば、必ず幸せになれます。だから、何があっても負けずに、信心し抜いていくんですよ」
 小説には、家族や同志を亡くした友を、伸ーが激励するシーンが 度々出てくる。伸一は常に、友の苦しみ、悲しみに寄り添いながら、残された家族が成長し、幸せになることが故人の願いであることを訴え、仏法の三世永遠の生命観のうえから、未来への希望を示している。


学会の偉業は、民衆を蘇生させたことにある


”ドカン”地域
 名もなき庶民が「地涌の菩薩」の使命に奮い立ち、「立正安国」の大願に生き抜く。宿命に悩み苦しむ民衆が蘇生するドラマを通し友に、地域に、社会に、希望の光を送っていく――これが学会員の生き方である。真実の仏法の力は、「宿命を使命にする」同志の姿に 明いている。
 日蓮大聖人は、御自身を「旃陀羅(せんだら)が子〈最下層の家の子)」(御書 8911ページ)、「貧窮下賤(びんぐげせん)の者(貧しく卑しい者)」(同958ページ)、「民が子」(同1332ページ)等と述べられ、社会の底辺の出自(しゅつじ)であられることを誇りとされた。 
 まさに日蓮仏法は「民衆仏法」であり、その御精神を現代によみがえらせたのが、学会なのである。
 かつて、福岡市の博多港に突き出た埋め立て地の角に、ド力ン(土管)々と呼ばれる地域があった。第6巻「加速」の章には、 ”ドカン”地域で織り成された、 ありのままの"民衆蘇生の劇が、生き生きと映し出されている。この「加速」を繙(ひもと)くと、仏法の人間主義の真髄や同志の温かさ、そして、学会の使命が浮き彫りになっていく。​​​​


 ”ドカン”地域には、トタンを打っただけの粗末(そまつ)な掘っ建て小屋のような家が密集していた。道は狭く、太陽の光も差さない。治安も悪く、窃盗やケン力は日常茶飯事。賭博(とばく)や酒の密造も行われ、アルコール依存症などに苦しむ人もよく見られた。現在は博多港の港湾計画推進にともない消滅(しょうめつ)しているが、このような地が、かつて、 確かに存在したのだ。
 ここに学会員が誕生し始めたのは、1954年ごろ。”ドカン”地域の近くに住む女性が、"この人たちに幸せになつてもらいたい”と、顔見知りになった人の家に折伏に通い始め、妙法の種を植えていった。
 皆、人に裏切られるなどの経験から人間不信に陥っていたが、彼女の粘り強い対話で、一人、また一人と、信心するように。信仰に跳むなかで、さまざまな功徳の体験が生まれ、着実にメンバーが増えていった。62年ごろには、400数10世帯にまで達した。 居住していた会員の話では、”ドカン”地域の半数以上が入会したとのことである。会員世帯の増加とともに、児童の就学率が上昇し、 犯罪数も減っていった。

 池田先生は、彼らの姿を通し、記している。
「信仰は、闇(やみ)のなかを生きてきたこれらの人びとの心に、希望の光を注ぎ、生きる勇気をもたらす力となったのである。
 創価学会の最大の偉業は、苦悩する民衆のなかに分け入り、現実 に、そうした人ひとりを蘇生(そせい)させてきたことにある」(第6卷 「加速」)
 メンバーが次々と蘇生していった陰には、同志の献身的な励ましがあった。活動の会場を提供する夫妻は鮮魚店を営んでいて、毎日のように、残った魚のアラを鍋物にして、集う人たちに振る舞った。 「そこには、自分たちも同志に励まされて信心に奮い立ち、商売が 軌道(きどう)に乗ったという体験をもつ鮮魚店の夫妻の、感謝の気持ちが託されていた」(同)
 同志が病気になれば、周囲のメンバーが粥(かゆ)をつくるなど、こまめに面倒をみた。葬儀(そうぎ)があれば、皆で棺桶(かんおけ)をつくることから始めた。
 ここには、さまざまな境遇(きょうぐう)の人がいた。体の不自由な人、日本国籍のない人、犯罪歴のある人∙∙∙しかしメンバーは、外面的なことで差別しなかった。かつては人間不信の吹きだまりのようだった地波が、いつしか、人間の信頼の絆(きずな)が光る天地になっていた。

 池田先生は、このような地域が全国各地にあり、同じように民衆蘇生のドラマが生まれていたことを通し、「加速」の章で述べた。
「創価学会の歩みは、仏法というヒユーマニズムの哲理を人間の心に打ち立て、民衆を蘇らせ、殺伐とした現化社会を、根底から変えようとしていた。
 民衆の新しき時代の到来を告げる序曲が、高らかに嗚り響いていたのである」

 この「加速」の章が連載されると、かつて”ドカン”地域で活動 していた人たちから、驚きと歓喜の声が上がった。「まさか、私たちのことを小説に書いてくださるなんて」「毎日が感動の連続で……夢のようでした」「懐かしい ”ドカン”の光景が目の前に浮かびました」等々――。
 各地に移っていたメンバーは、 再び連絡を取り始めた。皆、誇り を胸に、新たな天地で実証を示していた。一人一人が、自他共の幸 福にまい進していた。メンバーは、小説掲載の喜びで大いに盛り上がった。
「池田先生が『加速』の章を通して、私たち、 ”ドカン”地域の出身者を、再び新たな出発点に立たせてくださったのだと、感謝でいっぱいです」と、中心メンバーの一人である浅野貞雄さん(本陣常楽区.副区長)は感慨を込める。
 99年の九州最高協議会で、先生はあらためて友をたたえた。
「福岡の”ドカン”地域の蘇生のドラマは、わが九州の誉れの歴史である。同じ庶民として、徹して庶民の側に立ち、一人一人の中から、生きぬく勇気を引き出していった。 ゆえに、学会は強い。ゆえに、わが九州の城は揺るがない。
 わが九州、わが福岡は、全員がまことの『英雄』なりと、私は心 から賛嘆申し上げたい」

どんな事態でも  活路を開けるのが信心です


「田川に春を」
 63年11月9日、福岡県大牟田市の三井三池鉱業所で、炭塵爆発事故が起こった。犠牲になった学会員もいた。彼らに励ましの手を差し伸べるため、伸一が福岡を訪れる場面は、第8巻「激流」に登場する。
 同月24日、伸ーは、北九州市の八幡市民会館で行われた、九州女 子部幹部会、九州男子部幹部会に相次いで出席。その後、幹部から、 被災した会員の詳細な報告を聞き、学会としても、事故で亡くなつた 方々の追善の法要を行うことなどを提案した。
 第18卷「飛躍」の章では、1974年1月の九州指導が詳述されている。
 19日、福岡に移動した伸一は、九州大学会総会に出席。翌20日に は、北九州市立総合体育館で開催された、第22回「青年部総会」で、 後継の弟子たちに希望を送った。 この総会は、首都圏以外で初めて行う全国の青年部総会であった。
 総会終了後、伸一は、田川会館に向かう。この前年、田川本部長 の吉井寿実(よしいとしみ)に「次は必ず訪問します」と約束していたことを果たすためだった。
 筑豊炭田(ちくほうたんでん)最大の炭鉱都市として栄えた田川市。しかし時代は、石炭に代わり石油が主なエネルギーが源となり、炭鉱は次々と閉鎖。 田川も閉山し、―職を失った同志は、断腸の思いで各地へ引っ越していった。
 68年、伸一が九州を訪問した際、田川の婦人が彼に質問した。
「田川では炭鉱が閉山になり、 皆、生活苦にあえいでいます。田川の人たちは、どうしたら幸せになれるのでしょうか」第18卷 「飛躍」)
 伸一は確信と真心を込めて答えた。「どんな事態に追い込まれようが、必ず活路を開いていけるのが信心です。負けてはいけない。 そして、題目を唱え抜いて、同志を守ってください。頼みますよ」 (同)
 翌69年3月7日に九電記念体育館で行われた九州幹部会に、伸一は田川のメンバー50人を招き、席も壇上に用意した。さらに伸一は、 健気に戦う彼らを参加者に紹介し、田川の友に「皆さんは、どんなことがあっても、最高の幸せ者になってください」と呼び掛けた。
 メンバーは、感動と決意を胸に前進を開始した。さらに、自分たちの誓いを込めて愛唱歌を制作。 タイトルを「田川に春を」とした。”いつの日かこの歌を、山本先生に聞いていただくのだ”と心に 決め、歌と共に試練の坂道を越えてきたのである。
 田川会館を訪れた伸一に、本部長の吉井は「田川に春を」の歌詞と譜面を差し出した。伸一は、2 日後に予定されていた、九州記念体育館での本部幹部会で、代表に歌ってもらうよう提案した。この本幹は、東京以外の地で行う初試みだった――
「本部幹部会の日は、最初から後まで涙、涙でした」と、吉田実年さん(九州参事)は振り返る。

 本年は、その原点から45周年。吉田さんは、池田先生が田川会館を 訪問した際のことを教えてくれた。
 ――74年1月20日は、冬特有の曇り空で、小雪のちらつく寒い日だった。池田先生の体調も優れず、 側近の幹部が心配していたが、先 生は田川行きを決行。舗装されていない道が続く中、田川会館に向かつた。途中、”先生が来られるかも”と待っていた学会員を見つけた先生は、車の窓を全開にして両手を大きく振り、未来部員にはお菓子を贈った。
 車に揺られること2時間、田川会節に到着。吉田さんは、車から降りた先生が大きなマスクをしているのを目にした。「来たよ! とうとう田川に来たよ」――先生は吉田さんや会館の館理人に声を掛けた。
 会館を一周した後、仏間で唱題を。「田川の同志の健康と幸せを祈ったよ」との先生の言葉に、皆が胸を熱くした。
「先生は、約1時間半、田川会館に滞在され、次々と激励の手を打つてくださいました。田川の永遠の原点です」(吉田さん)
 2011年には、文化放送をキー局に放送されていた『新・人間革命』の朗読ラジオ番組で、「田川に春を」の歌が流れた。あの本部幹部会で歌ったメンバーをはじめとする田川の同志は、喜びを胸に、対話拡大に先駆した。
「炭鉱がどんどん閉鎖されるなか、皆、歯を食いしばって頑張った日々が、先生のおかげで”黄金の原点”になりました。私たちはこれからも、田川に春を告げる地域広布の戦いを、全力で進めていきます」と、吉田さんは力を込めた。(下へつづく)


輝きの舞台
九電記念体育館
 東京以外の地で行う初めての本部幹部会の会場一 それが九電記念体育館であった。
 同体育館は1964年(昭和39年)にオープン。海外アーティス卜のコンサー卜や大相撲九州場所の会場としても使用された。
 65年4月には、池田先生を迎えて、九州第1回本部幹部会が盛大に開催された。さらに、67年1月、68年3月の九州本部幹部会にも先生は相次いで出席。68年6月には、福岡市の男女青年部の班長らとの記念撮影会が行われ、師弟の原点が刻まれた。
 2003年(平成15年)、市営の体育館に。本年3月、後継施設の開館にともない、閉館されることになった。
 地方初の本幹開催となった 1974年1月22日、先生は「東洋広布の歌」の指揮を執り、皆を鼓舞した。その雄姿は、今も同志の眼に焼き付いている。


輝きの舞台
九州平和会館
 1977年5月、博多区に新法城が誕生した。その名は「九州平和会館」 (後の博多平和会館)。池田先生は第 25卷「共戦」の章で、「福岡から、 東洋、そして世界へ、恒久平和の哲理を発信しようとの誓いを託し、この新法城を九州平和会館と名づけた」と、命名への思いをつづった。 この5月18日には、福岡で2回目となる本部幹部会が同会館で開催されている。
 会長辞任から1年後の80年5月1日夜、福岡県本部長会が同会館で行われた。先生の魂の師子吼は、参加者の胸に強く響いた。福岡の、九州の同志にとって、忘れることのできない''反転攻勢の牙城”である。


輝きの舞台
北九州文化会館
 福岡を常にリードする北九州。待望の大型会館だった「北九州文化会館」は、1977年1月にオープンした。98年に新しい北九州文化会館が完成し、現在は名称を「北九州平和会館」としている。
 池田先生の初訪問は開館の年の5月22日。その模様は、第25巻「薫風」の章に記述されている。
 会館の由来が記された碑には、「今 九州広宣流布第二章の新たなる潮流淵源の地として旅立つ」とある。この精神を胸に、北九州の同志は''先駆の中の先駆”との誇りも高く、前進し続けている。


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Last updated  2019/02/02 11:34:17 AM
2019/01/03

​​​​師弟不二の共戦譜 第2回 大阪 - 下
​~小説「新・人間革命」と歩む​(大白蓮華2019年1月号より)​
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​​​​​​​​​​​​​私は、権力の魔性とは徹底抗戦します
広布の師の覚悟
 第10巻「幸風(こうふう)」の章では、伸一が各地の班長、班担当員(当時)との記念撮影の戦いを、まず大阪の地で開始する場面が紹介されていく。
 関西の同志との記念撮影会は65年10月3日、大阪府布施市(現在 の東大阪市内)の体育館で行われた。先生は、この撮影会に参加する関西の友の心意気を、こう記している。
「”真を写す”のが写真やから、折伏もせえへんで記念撮影に参加したら、覇気(はき)のない顔が永遠に残ってしまうことになるで。えらいこっちゃ!」
 親しみの込められた表現であり、 関西の友の心が率直に表れている言葉である。いかなる時も、戦い抜いて師匠のもとに集う——この学会精神が、ユニークな言葉の中にも、キラリと輝いている。
 記念撮影会に臨む伸一もまた、 体調が思わしくなく、発熱に苛(さいな)まれるなか、全力で励まし続けていく。自らがどうなろうとも、弟子の奮闘に真心で応え、弟子の未来に希望の光を送っていく。それが広布の師の覚悟(かくご)であった。
 第14卷「烈風」の章では、69年12月、この年7度目となる関西指導での激闘に触れられている。東大阪市の市立中央体育館で20日に開催された関西幹部会では、伸一が体調不良であるにもかかわらず、全力でスピーチし、さらには「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を力強く執(と)る。
 この関西指導への思いを、先生は、こう強調している。
「彼は、この関西指導に広宣流布の未来をかけていた。
関西がすべてに大勝利し、常に全国をリードする存在になれば、広宣流布の新しい流れが開かれることになる。なぜなら、それは、各方面が中心となって、学会を牽引(けんいん)していく、地方の時代の幕開けを意味するからだ。
 それだけに、この関西訪問は、なんとしても大成功させなければならなかったのである」
 第17卷「希望」の章では、73年、交野市(かたのし)に開校した創価女子中学・高校(現在の関西創価中学・高校)での、伸一と学園生との原点の日々が紹介されている。
 第18卷「前進」の章では、73年 12月に中之島の大阪市中央公会堂で開催された第36回本部総会に言及。これは、東京以外で行う初の本部総会であった。
 第22卷「新世紀」の章では、”経営の神様”といわれた松下幸之助と伸一の交流が記されている。
 伸一は松下の招きを受け、大阪・門真市の松下電器産業本社を見学。 また、松下が創価女子学園を訪れるなど、2人は何度も交流を重ねている。
 第23卷「勇気」の章では、大阪の戦い、そして大阪事件の精神をあらためて記述。出獄から20年目を迎える76年の「7・17」を記念し、「人間革命の歌」を作り、発表していくシーンが描かれる。
 第24卷「母の詩」の章では、76年11月17日に誕生した、豊中市の 関西牧ロ記念館の開館式、翌18日に関西戸田記念講堂で行われた学会創立46周年の記念式典、ならびに牧口先生の33回忌法要に言及。同巻「厳護」の章では、関西戸田記念講堂で開催された「教学部大会」(77年1月15日)での、伸一のスピーチを詳述(しょうじゅつ)している。

民衆を守り抜く 人間讃歌の都であれ!
常勝の空
 78年7月、伸一が関西の歌を作っていく様子がつづられたのが、第28卷「広宣譜」だ。
 7月初め、伸一の提案を受け、関西青年部が中心になって歌の制作を開始。8日午前、伸一のもとに案が届けられた。
 伸一は、皆の苦労を偲(しの)びつつ、自らが歌詞を作って贈ろうと決意し、その日の午後から早速、取り掛かる。
 作詞は、伸一が、胸中にほとばしり出る思いを口述(こうじゅつ)し、妻の峯子(みねこ)がメモをして進められた。
 歌詞の案は、いったんはまとまったが、その後も伸一は、関西の同志の意見も聞きながら推敲(すいこう)を重(かさ)ねる。曲も、担当するメンバーに自ら曲想を語り、ロずさんでイメージを伝えるなど、重ねて練り直していった。こうして歌は完成したが、歌を発表する幹部会に向かう直前まで、伸一は全生命を絞(しぼ)り尽くして、曲を再確認する。
 伸一は、関西の歌について、語った。
「点数をつければ、98点だね。あとの2点は、関西の同志の魂(たましい)だ。歌に、関西の同志の魂が入った時に、100点満点になる」
この「2点」は、”あとわずか2点!ではなく、関西の同志にとって、とてつもなく意味のある、いわば"絶対に勝ち取らねばならない2点!と言える。
「常勝」が関西の使命である。
「不敗」が関西の誓いである。
 それは、一人一人が「全てやり切った」と胸を張れる"満点”の戦いがあってこそ勝ち取れる。わずかな差で苦汁(くじゅう)をなめることもあるからだ。
 広布の師の真心と信頼に、弟子が全力で応えていく。「師弟勝利」の画竜点晴(がりょうてんせい)は、弟子の執念の姿、 弟子の闘魂であることを関西の歌、すなわち「常勝の空」は訴えているのではないだろうか。
 「広宣譜」の章では、「大阪の日」にあたる7月17日、関西戸田記念講堂で開催された記念幹部会で、関西の歌が発表される。
 そして、いよいよ合唱である。
「皆、心に熱い血潮(ちしお)をたぎらせながら、声を限りに歌った。ある人は、『君と我とは久遠より』の一節を歌いながら、感涙に眼(まなこ)を潤(うる)ませた。ある人は、『愛する関西勇み立て』との言葉に、胸を揺(ゆ)さぶられる思いがした。ある人は、『いざや前進恐れなく』に、無限の勇気を覚(おぼ)えながら熱唱した。
 壇上には、共に戦い、常勝と不敗の歴史の礎(いしずえ)を築いた伸一がいた。 皆、涙に霞(かす)む目で、その姿を見つめつつ、再びの出発を誓うのであった。伸一もまた、関西の不一の同志に熱い視線を注ぎながら、心で叫び続けていた。
 ”愛する、愛する関西の同志よ 未来永劫に関西は、正義の旗が高らかに翻(ひるがえ)る常勝の都でれ!民衆を守り抜く人間讃歌の都であれ!関西がある限り、学会は盤石(ばんじゃく)だ ”(第28卷「広宣譜」)

他者のために生き抜く時、 生命は最も発揮される
大阪の各地へ
 78年11月9日、伸ーがこの年6度目となる関西指導に臨む。その折の行動は、第29卷「常楽」の章に詳しい。
 この頃、学会員に対して、宗門僧による非道な仕打ちが各地で繰り返されていた。健気な同志を守り抜くため、伸一は間隙(かんげき)を縫(ぬ)って 大阪の各地を回り、多くのメンバ一を直接、励ましていく。
 大阪に到着した伸一は、早速、豊中市の関西牧ロ記念館で行われた関西最高会議に出席。「教養」「健康」「真剣」等、指導者の要件を力説していく。
 翌10日、伸ーは堺文化会館(後の堺平和会館)を訪問。堺支部結成25周年の佳節を祝う勤行を行い、参加者を励ます。終了後、泉佐野市(いずみさのし)の泉州(せんしゅう)文化会館へ。伸一が青年室長時代、一緒に食事をしながら懇談したメンバーたちと再会する。さらに、この日と、翌11日に行われた泉州文化会館の開館記念勤行会に出席。渾身(こんしん)の指導を行う。12日には岸和田市の泉州会館を視察。 移動の車中で「泉州の歌」を作詞する。さらに、予定にはなかったが、急遽(きゅうきょ)、南大阪文化会館(後の羽曳野(はびきの)文化会館)を訪問。真剣勝負の激励を重ねている。
 同29卷「カ走」の章では、関西婦人部長の栗山三津子が、がんと診断され、手術を控えていることを聞いた伸一が、真心の手紙を書き送る。なお、同章で大阪を舞台にしたシーンが聖教新聞で連載され始めたのは、奇(き)しくも「関西の日」である4月8日であった。
 さらに伸一は、病や死という問題を、三世永遠の生命観から捉(とら)え、大確信を込めて語る。この伸一の指導は、病魔と闘う友や、大切な人を失つた友に、限りない希望と勇気を送った。
「病に打ち勝つ根本は、大生命力を涌現させていくことです。その力は、他者を守るために生き抜こうとする時に、最も強く発揮されるんです。
 戦時下に生きた人びとの記録や引き揚げ者の証言等を見ても、子供を守ろうと必死であった母たちは、誰よりも強く、たくましく生き抜いています。
 私たちは、広宣流布という万人の幸福と世界の平和の実現をめざしている。その使命を果たしゆくために、自身の病を克服しようと祈るならば、地涌の菩薩の生命が、仏の大生命が涌現し、あふれてきます。それによって病に打ち勝つことができるんです。
 また、信心をしていても、若(わか)くして病で亡くなることもあります。それぞれのもっている罪業というものは、私たち凡夫(ぼんぷ)には計(はか)りがたい。しかし、広宣流布に生き抜いた人には、鮮やかな生の燃焼があり、歓喜がある。その生き方、行動は、人間として尊き輝きを放ち、多くの同志に共感をもたらします。
 病床にあって見舞いに訪れる同志を、懸命に励まし続けた人もいます。薄れゆく意識のなかで、息を引き取る間際まで、題目を唱え続けた人もいます。
 それは、地涌の菩薩として人生を完結した姿です。今世において、 ことごとく罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)したことは間違いありません。さらに、生命は三世永遠であるがゆえに、来世もまた、地涌の使命に燃えて、地涌の仏子の陣列に生まれてくるんです。
 広宣流布の大河と共に生きるならば、病も死も、なんの不安も心配もいりません。私たちには、三世にわたる金色燦然(こんじきさんざん)たる壮大な幸の大海が、腕を広げて待っているんです」
 そして池田先生は、この指導に続き、万感の思いを込めて記した。
「伸一は、不二の関西の同志には、何ものも恐れぬ勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)の人に育(そだ)ってほしかった」


​​​大阪への指導
真剣、一途、誠実であれ
(関西牧口記念館での関西最高会議で、リーダーの姿勢について語る場面)

「学会活動は、現代における最高の仏道修行です。仏道修行というのは、己(おのれ)との対決であり、自分の限界を打ち破つて、心を強く、 大きくし、境涯を開いていくためのものです。したがつて、人の目を意識し、格好(かっこう)だけ取り繕(つくろ)っても、根底にいい加減さがあれば、人間革命はできません。しかし、真剣であり、一途な人、誠実な人は、必ず、大きく成長していきます。
 信心が惰性化(だせいか)していくと、この 根底の真剣さが萎(な)えてしまい、一生懸命やっているように見せかけて終わってしまう。そうなれば、どんな幹部であろうと、信心の歓喜はなくなり、人を触発することもできません。
   22年前の、あの”大阪の戦 い”で大勝利を収めることができたのは、皆が真剣であったからです。だから歓喜があり、功徳があり、確信が湧き、感動のなかに凱歌を響かせることができた。新しい『常勝関西』の建設のために、中心となる幹部の皆さん方は、このことを忘れないでいただきたい」
 こう語る彼の口調には、関西の大飛躍を願う、強い思いがあふれていた。(第29卷「常楽」)


大阪への指導
関西魂の継承
 大阪の庶民のなかに身を投じ、 "この世の悲惨をなくす””誰一人 として幸せにせずにはおくものか!”と誓った 戸田城聖の一念——それは即「平和の心」にほかならなかつた。
 伸一は、この戸田の心を胸に、 その実現のために、全精魂を傾けて奔走(ほんそう)した。
 そして、関西の同志は、伸一と共に戦い、権力の弾圧にも屈せず、 民衆の幸と蘇生の歴史を綴ってきた。まさに、”関西魂””学会精神”の継承(けいしょう)のなかで、「平和の心」 も受け継がれていくのである。 (第30卷下「誓願」)​​​


古の奇しき縁に仕へしを人は変れどわれは変らじ
私たちの師匠
 第30巻上「大山」は、第1次宗門事件について詳述された章である。ここでは、79年4月24日、会長を辞任した日の夜に行われた、関西での緊急の会合で、登壇した幹部が声を大にして叫ぶ様子が描かれている。
「『古(いにしえ)の 奇(く)しき縁(えにし)に 仕(つか)へしを 人は変れどわれは変らじ』———この和歌のごとく、たとえ山本先生が会長を辞めても、関西のたちの師匠は、永遠に山本先生です」
 その叫びに応じて、皆が「そうだ」と拳(こぶし)を突き上げた。  
 この和歌は、かつて戸田先生が理事長を辞任した折、池田先生が戸田先生に贈ったものである。
 関西の叫びは、師弟に生き抜く覚悟(かくご)を決めていた全同志の心そのものであった。
 池田先生の会長辞任後、関西婦人部は「何があっても、私たちの師匠は池田先生」との誓いを皆で固めた。その一人、栗原明子さん (関西婦人部総主事)は女子部時代、「大阪の戦い」を通し、師弟の精神を刻んだ。
 ——56年4月8日、大阪球場で、戸田先生を迎えての総会が開催されることになった。池田先生は大阪の会員に、「師匠をお迎えする時は、勝利の結果をもって臨むのです」と、師恩に報(むく)いる戦いを強調。若き池田先生の一念は大阪の隅々にまで行き渡り、日本一の結果をもって総会の日を迎えることができた。
「師弟の精神を教わった大阪の同志は、ますます拡大の対話に、意気揚々と進みました。そして4月、9000を超える弘教を成就しました」(栗原さん)
 翌5月、折伏とともに、参院選の支援の戦いも加速の度を増した。 そんな時、”暴力宗教創価学会” のデマビラが大阪中にまかれた。 「対話に行くと、根も葉もない中傷を浴びせられました。しかし、 池田先生は泰然自若(たいぜんじじゃく)とされていました。『聖人御難事』の『各各(おのおの)師子王の心を取り出して・いかに人をとすともをづる事なかれ、師子王は百獣(ひゃくじゅう)にをぢず・師子の子・又かくのごとし、彼等(かれら)は野干(やかん)のほうるなり日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり』(御書1190ページ)の一節を引かれ、『勇将(ゆうしょう)の下(もと)に弱卒(じゃくそつ)なし』と、私たちを鼓舞(こぶ)してくださいました。 先生の師子吼は皆の決意になり、5月、1万1111世帯の折伏を成し遂げることができたのです」
 ”不滅の金字塔”は、順風満帆(じゅうんぷうまんぱん)の状況で打ち立てられたのではない。嵐のなかでも全く怯(ひる)むことのなかった、池田先生の一念が根源である——栗原さんはそう力説し、言葉を継いだ。
「大阪は、池田先生に心を合わせれば、どんな苦難も乗り越えられる。どんな悪戦苦闘も必ず勝てる。その”原理”が皆に毛穴から入っています。だから、大阪は、関西は、強いのです。
 小説を学ぶたびに、大阪への、関西への、池田先生の思いが、こんなに深いのかと心が震(ふる)えます。今はまだ、『末法万年尽未来際(まっぽうまんねんじんみらいさい)』の草創期。私たちは、新たな師弟の原点を刻む戦いをしていきます」

「五月三日」
 第30卷上「雄飛」の章では、会長辞任から1年がたった80年5月3日、落成間もない関西文化会館で、伸一が同志を包み込むように励ます姿が活写(かっしゃ)されている。この日は、同年2月、伸一が「5・3」を「創価学会の日」と定めてから初めて迎える祝賀の日であった。
「創価学会の日」を記念する勤行会。伸一は、同志を出迎え、握手(あくしゅ)を交わし、記念のカメラに納まっていった。役員にもねぎらいの言葉を掛け続けた。
 記念勤行会に参加した後、伸一は、関西牧ロ記念館へ。筆を手にした彼は、魂を注ぎ込む思いで、「五月三日」と大書した。
 2日後の5月5日、伸一は、関西文化会館で開催された、「創価学会後継者の日」を記念する勤行会に参加。さらに、大阪の男子部部長会、女子部部長会等に出席し、5月8日まで、死カを尽くすように同志を鼓舞していった。
 第30巻下「勝ち鬨(どき)」の章では、 81年7月10日、関西文化会館で開催された青年部総会に、伸一が祝歌を送る。
 最終章「誓願」は、82年3月22 日、大阪の長居(ながい)陸上競技場で行われた、第1回関西青年平和文化祭の模様から書き始められている。池田先生は、文化祭初となる「六段円塔」に挑む青年たちの姿を、臨場感あふれる筆致で描いた。さらに、そこに秘められた友情のドラマに触れつつ、”関西魂”の淵源(えんげん)を示していく。
「”この大阪から、貧乏(びんぼう)と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”といぅのが、戸田城聖の思いであった。
 この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣(はけん)した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執(と)り、関西の地を走りに走った」
  そして池田先生は、大阪支部で弘教の金字塔を成し遂げた歴史や、「”まさか”が実現」の劇的な大勝利、さらに、「大阪大会」で、"権力の魔性は断じて許さない”と正義の炎を赤々と燃やした同志の誓いをあらためてつづり、こう続けた。
「その時の、背中の子どもたちも、今、凜々(りり)しき青年へと育ち、青年平和文化祭の大舞台に乱舞し、全身で民衆の凱歌を、歓喜と平和を表現したのである。
 青年たちは、仕事や学業のあと、息せき切って、練習会場に駆(か)けつけ、必死に、負けじ魂をたぎらせて練習に汗を流した。草創期を戦った壮年や婦人は、毎日のように応援に訪れ、連れて来た孫(まご)たちに言うのである。
『よう見とき、あの懸命に頑張る姿が関西魂や!学会精神や!』
 草創の同志は、後継の若師子たちが、見事に育ち、魂のバトンが受け継がれていくことに、喜びと誇りを感じたのである。

不屈の魂を分かち合う 大阪から新しい扉を開こう!
 共に出発しよう!
 2010年(平成30年9月8日の連載完結まで、残り4回となった9月5日、先生は再び、小説の舞台を大阪に移した。そして、2000年12月10日の関西代表者会議、14日の本部幹部会関西戸田記念講堂での指導を認めていく。
 この大阪訪問に際し、伸一は決意していた。
 8日、山本伸は帰国の途に就いた。香港から向かったのは、常勝の都・関西であった。彼が会長に就任して、真っ先に訪れたのが大阪である。20世紀の地方指導の最後も大阪で締めくくり、一緒に21世紀への新しい扉を開きたかったのだ。皆、伸一と苦楽を共にし、不屈の魂を分かち合う同志である。  第30卷下「誓願」
 ——掲載前日の9月4日、台風21号が関西を直撃。大きな被害をもたらした。最大風速44m以上の非常に強い台風が日本に上陸したのは25年ぶりのこと。暴風による被害は甚大(じんだい)で、一時は大阪府内の約100万軒が停電した。
 それだけに、関西訪問のシーンが登場したことは、災害に直面する同志にとって、何よりの励ましになった。”苦難に負けてなるものか”と、不屈(ふくつ)の魂を燃やした――。
 さらに先生は、小説の最後を、01年1月2日に開催された本部幹部会で結んでいく。この本幹は、新世紀第1回の関西総会の意義が込められていた。
 ”さあ、共に出発しよう!命ある限り戦おう!第二の「七つの鐘」を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ”(同巻「誓願」) ――この伸一の胸中の叫びを、大阪の友は、関西の同志は、わが胸の誓願の叫びとして、今再びの前進を始めている。


​​寄稿
新たな誓願のドラマを!
総大阪婦人部長 徳渕美智代(とくぶちみちよ)さん
 池田先生は、小説『新・人間革命』の最終章「誓願」を、1982年(昭和57年)3月の第1回関西青年平和文化祭から、書き起こしてくださいました。
「新しき時代の扉は青年によって開かれる。若き逸材(いつざい)が陸続と育ち、いかんなく力を発揮してこそ、国も、社会も、団体も、永続的な発展がある(第30卷下「誓願」)
 その文化祭は、新入会員1万人による入場行進で開幕しました。当時、入会して2年の私も出場。前から3列目で、力いっぱいに行進しました。
 家庭不和や経済をに悩みつつも、 師を求め、折伏に挑戦して集ったあの日。最後に先生がマィクを握られた時、地鳴りのような大歓声の中、 私も「先生!先生!」と叫んでいました。
 先生は記されています。「青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈(ふとうふくつ)の"関西魂”が、ここに継承されていったのである」(同)
 草創から、大阪には師弟の強き絆が輝いています56年(同31年)、 「”まさか”が実現」といわれた「大阪の戦い」。そして、翌57年、豪雨と雷鳴の「大阪大会」。
「同志の心に正義の炎(ほのお)は、赤々と燃え上がった。その胸中深く、"常勝”の誓いが刻(きざ)まれ、目覚めた民衆" の大行進が始まったのだ」「関西の同志は、伸一と共に戦い、権力の弾圧にも屈(くっ)せず、民衆の幸と蘇生の歴史を綴(つづ)ってきた』(同) 
 私は女子部、婦人部と、「大阪大会」の舞台となった中之島の大阪市中央公会堂を擁(よう)する北大阪総県で、広布に駆(か)けてきました。多くの先輩から、師弟一筋の信心を学んだことが、最高の財産です。
「戦いは、絶対に負けたらあかん!」――そう口にするたび、闘志(とうし)が湧(わ)き上がります。この誓いこそ、総大阪婦人部の魂です。
 小説『新・人間革命〗が完結し、 弟子が新たな誓願のドラマをつづりゆく時が来ました。総大阪婦人部は、後継の青年や新しい力を育みながら、全ての勝利を開いてまいります。
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                               (大白蓮華2019年1月号より)

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Last updated  2019/01/03 11:13:37 PM

​​師弟不二の共戦譜​ 第2回   大阪 -上​

​​〜小説「新・人間革命」と歩む​(大白蓮華2019年1月号より)​

大阪には、”創価の心”のー切が凝縮されている。
師弟の精神が。学会魂が。
常勝の原点が。不敗の誓いが。
庶民のドラマが。地涌の闘争が。
大阪を学べば、学会の偉大さが分かる。
さあ、「創価勝利」の歴史の扉を、大阪から開きゆこう。

庶民の英雄を励ますため、 真っ先に大阪の地を踏んだ
地方指導の初陣
 小説『新・人間革命』は、会長・山本伸一が世界広布の第一歩をしるしていく場面(1960年 <昭和35年>10月2日~)から始まる。第1巻は、この初の海外歴訪が描かれ、帰国の途に就くシーンで終わる。
 第2巻に入ると、伸一の国内での激闘(げきとう)が展開されていく。記述される場面は第1巻から、ややさかのぼり、伸一が第3代会長に就任 (60年5月3日)以降、全国各地を回っていく激励行が記される。
 一人でも多くの会員と会い、愛する同志と共に新たな出発をするため、また、新支部誕生を祝福し、活動の流れを軌道(きどう)に乗せていくため、伸一は全精魂を込めて励ましを送っていく。
その”初陣”が大阪だった。
 すなわち、池田先生が小説「新・人問革命』において、最初に言及した国内の天地が、大阪なのである。

関西総支部幹部会へ
 会長就任の日からわずか5日後の5月8日、伸一は大阪府立体育会館で開催された関西総支部幹部に出席する。
 池田先生は、第2巻「先駆」の章で、この幹部会の様子をつづるにあたり、まず、関西の不滅の原点について認(したた)めている。
 56年の「大阪の戦い」で、5月に1万1111世帯という折伏(しゃくぶく)の金字塔を打ち立てた歴史。同年7月の参議院議員選挙での「"まさかが”実現」の壮挙。翌57年の「大阪事件」。
 この大阪事件について、先生は書き記した。
「そこには、学会の前進を阻(はば)もうとする権力の、悪質な意図(いと)が働いていた。その時、彼の逮捕を最も悲しみ、怒り、邪悪な権力との闘争に立ち上がったのが関西の同志であった」 
 そして、当時の真情を明かしている。
「彼は、庶民の英雄ともいうべき関西の同志を真っ先に励まし、ともに船出しようと、勇んで大阪の地を踏んだのである」

人間と人間の絆
 池田先生はさらに、関西の強さの理由について言及していく。
「関西の友にとって、伸一は、どこまでも『ワテらのセンセ(先生)』であった。
 一人ひとりの同志と、伸一との間に介在(かいざい)するものなど何もなかった。立場や役職といった関係を超えて、ともに広宣流布の使命に生きようとする、人間と人間の絆(きずな)に結ばれていたといってよい。それが関西の強さであり、また、学会の強さでもある」
 学会には、”自分と先生”という、無数の師弟の絆(きずな)がある。「大阪の戦い」は、その師弟の絆を強く結んだ、生涯忘れ得ぬ原点として輝いている。
「大阪の戦い」の当時は、信心歴が浅いメンバーがほとんどであり、幹部も少なかった。しかし皆、池田先生の指導通りに戦い、学会活動の喜びを知った。”先生のおかげで、信心の醍醐味(だいごみ)を味わえた””先生の励ましで、地涌の菩薩の使命を自覚できた”と、皆が自分と先生の原点を持っている。
 創価の強さの土台は、「師弟」という人間同士の絆である。これは永遠に不変である。


皆さんが新しき広布の うねりを巻き起こしてほしい
座談会の充実を
 関西総支部幹部会で伸一は、300万世帯達成の道が座談会の充実にあることを訴える。
「全幹部が勇(いさ)んで座談会に参加し、信心の確信あふれる、和気あいあいとした座談会を開催していくならば、弘教の輪(わ)は必ず広がっていきます。座談会は、学会の縮図(しゅくず)です。職業も、立場も異なる老若男女が、幸福への方途を語り合い、励まし合う姿は、現代社会のオアシスといえます。
 牧口先生も、戸田先生も、座談会で不幸に泣く人びとと同苦し、 広宣流布の戦いを起こされた。この草の根の運動が、今日まで学会を支えてきたんです。
 どうか、座談会の充実に力を注ぎ、関西の皆さんが先駆けとなって、新しき広宣流布のうねりを巻き起こしていただきたいのであります」
 さらに、関西への、なかんずく青年への期待が記されている。
「闇(やみ)の彼方(かなた)に暁(あかつき)の光が走り、朝の到来を告げるように、広宣流布の運動にも、先駆(かきが)けの光がなくてはならない。
 伸一は、全国各地のなかで、関西の同志に、学会の先駆けとしての見事な活動を期待していた。そして、各部のなかにあっては、彼はそれを、青年部に託(たく)そうとしていたのである」

幹部の在り方
 第2巻「民衆の旗」の章では、1960年12月5日、大阪市の港体育館で行われた関西三総支部結成大会(関西総支部幹部会)での 伸一の指導を通し、先生は、関西への思いを、こう述べている。
「山本伸一は、関西の新出発にあたり、幹部の在(あ)り方について語っていった。
 そして、学会の組織や同志を、自分の私利私欲(しりしよく)のために利用し、名聞名利(みょうもんみょうり)や栄誉栄達(えいよえいいたつ)を考える幹部は、学会を蝕(むしば)み、信心を腐敗(ふはい)させていく要因(よういん)であると、厳(きび)しく断じたのである。
 彼が、ここでこの話をしたのは、関西は、永遠に民衆の味方として、 不幸に悩む人たちを救いゆく、日本の模範(もはん)の組織であってほしいとの思いからであった」​



民衆の味方として人々を救う模範の組織であれ
大阪事件の本質
 第4巻「春嵐(しゅんらん)」「立正安国」、第5巻「勝利」「獅子」では、大阪事件を巡(めぐ)る裁判等の模様がつづられている。
 小説『新・人間革命』で池田先生は、56年の「大阪の戦い」、そして57年の「大阪事件」という、常勝・不敗の原点を、重ねて認めている(第11卷「常勝」、第17卷「民衆城」、第22卷「新世紀」、第23卷「勇気」、第25卷「福光」等)。そこに不滅の学会精神があり、師弟共戦のドラマがあるからだ。
 特に先生は、「大阪事件」が競(きそ)い起こった当時の背景を踏まえ、事件の本質に迫(せま)り、生命に刻(きざ)むベき精神を描き出している。
 ——「大阪事件」は、57年4月に行われた参議院議員の大阪地方区の補欠選挙で、東京から来た一部の会員が引き起こした買収事件と、何人かの同志が戸別訪問し、逮捕されたことから始まった。選挙違反とは無関係の池田先生が、この選挙の最高責任者であったことから嫌疑(けんぎ)がかけられ、7月3日に逮捕。15日間にわたって勾留(こうりゅう)されたのである。
 小説では、この「大阪事件」が、会員の選挙違反を契機にして、新しき民衆勢力である創価学会の台頭を打ち砕(くだ)こうとする権力の意図(いと)が潜んでいたと分析している。
 また、学会によって民衆が目覚め、現実の政治を動かす力になりつつあったことが、国家権力にとって大きな脅威(きょうい)であったにちがい ないとも洞察(どうさつ)している。
 第5卷「勝利」の章では、61年12月16日、「大阪事件」の裁判に出廷した伸一が意見陳述し、権力をカサに着た弱い者いじめのような取り調べは断じて許(ゆる)しがたいものであると、検察の横暴(おうぼう)を銳(するど)く突いていく。これは、全84回を数えた公判のうち、83回目にあたる。 当時、傍聴(ぼうちょう)していた林智栄子さん(関西婦人部総主事)は、「本当にすさまじい気迫でした」と振り返る。
「『勝利』の章の、この場面が掲載されたのは、96年7月17日。毎年、7月17日が来ると、私のみならず、関西の同志は、『”私の”原点の日や』と心を新たにします」
 林さん自身も、57年4月、参院選大阪地方区の補欠選挙投票日から3日後、守ロ警察署の刑事に連行され、何日も取り調べを受けた。
 林さんは当時、20歳で女子部班長。机をたたいて恫喝(どうかつ)され続けたが、何も悪いことはしていない。刑事の追及を否定し続けた。警察の取り調べが済んだと思った矢先、今度は検察に呼ばれた。取り調べは厳しさを増した。池田先生の写真を見せられ、「この人、知ってるやろ」「君が白状したら、他のみんなも外に出せるんや」と自白を強要された。不思議と怖(こわ)くはなかった。ただ、悔(くや)しかった。権力の横暴さが許(ゆる)せなかった。10日ほどで解放された。
 その2力月後、林さんは池田先生の逮捕の報を耳にした。「もう終わったことだと思っていたので、驚きました。”何で先生が逮捕されなあかんねん!”と怒(いか)りがこみ上げ、ただひたすら、先生のご無事を祈りました」(林さん)
 57年7月17日、大阪大会。堂島川の土手の木の下で、林さんはスピーカーに耳をそばだてながら、 川の向かいに立つ大阪地検をにらみつけた。”先生を苦しめた権力が憎い。絶対この仇(あだ)を討つ!” ――この日の誓いは、今も林さんの、そして関西の同志の胸に赤々と燃えている。
 なぜ、関西は師弟の誓いを忘れないのか。
「自分たちの池田先生だからです。先生がいらっしゃらなければ関西はありませんし、自分たちもいません。忘れるわけがありません」 ――林さんの確信の声に、「報恩」に生きる関西の強さを見た。

弾圧にも恐れず
 同巻「獅子」の章では、62年1月25日、伸ーが無罪判決を受けた場面が描かれる。その後、関西本部に移動し、伸一が、一緒に判決を受けたメンバーに語るシーンが続く。
「この大阪の事件の本質はなんであったか。
 学会は民衆を組織し、立正安国の精神のうえから、民衆のための政治を実現しよう、政界にも同志を送り出してきました。その学会が飛躍的な発展を遂げているのを見て、権力は、このままでは、学会が自分たちの存在を脅(おど)かす一大民衆勢力になるであろうと、恐(おそ)れをいだいた。そして、今のうちに学会を叩(たた)きつぶそうとしたのが、今回の事件です。
 そのために、戸別訪問という、いわば微罪(ちょうばつ)で逮捕された皆さんを脅(おど)し、いじめ抜いて、違反行為は私の指示であり、学会の組織的犯行であるとする調書をでっち上げていった。学会を危険な犯罪集団に、仕立て上げようとしたんです。
 本来、権力というものは民衆を守るべきものであって、善良な民衆を苦しめるためのものでは断じてない。社会の主役、国家の主役は民衆です。その民衆を虐(しいた)げ、苦しめ、人権を踏(ふ)みにじる魔性の権力とは、断固(だんこ)戦わなければならな い。それが学会の使命であると、私は宣言しておきます」
 さらに伸一は、未来を見据(みす)え、力強く訴えていく。
「そして、学会が民衆の旗を揭げて戦う限り、権力や、それに迎合する勢力の弾圧は続くでしよう。
 この事件は迫害の終わりではない。むしろ、始まりです。
 ある場合には、法解釈をねじ曲げ、学会を違法な団体に仕立て、断罪しようとするかもしれない。また、ある場合には、かつての治安維持法のような悪法をつくり、弾圧(だんあつ)に乗り出すこともあるかもしれない。
 さらには、学会とは関係のない犯罪や事件を、学会の仕業(しわざ)であると喧伝(けんでん)したり、ありとあらゆるスキヤンダルを捏造(ねつぞう)し、流したりす ることもあるでしよぅ。また、何者かを使って、学会に批判的な たちに嫌(いや)がらせをし、それがあたかも学会の仕業(しわざ)であると思わせ、陥(おとし)れようとする謀略(ぼうらく)もあるかもしれない。
 ともかく、魔性の権力と、学会を憎むあらゆる勢力が手を組み、 手段を選ばず、民衆と学会を、また、私と同志を離間させて、学会を壊滅(かいめつ)に追い込もうとすること間違いない」
「そうした弾圧というものは、競い起こる時には、一斉に、集中砲火のように起こるものです。
 しかし、私は何ものも恐れません。大聖人は大迫害のなか、『世間の失一分(とがいちぶん)もなし」(御書958ページ)と断言なされたが、私も悪いことなど、何もしていないからです。だから、権力は、謀略をめぐらし、無実の罪を着せようとする。 私は、権力の魔性とは徹底抗戦(てっていこうせん)します。『いまだこりず候』(御書 1056ページ)です。民衆の、人間の勝利のための人権闘争(じんけんとうそう)です」
 また、先生は、迫害をも恐れぬ学会の伝統精神を示していく。
「創価学会の歩みは、常に権力の魔性との闘争であり、それが初代会長の牧ロ常三郎以来、学会を貫く大精神である。日本の宗教の多くが、こぞって権力を恐れ、権力の前に膝(ひざ)を屈(くっ)してきたのに対して、学会は民衆の幸福、人間の勝利のために、敢然と正義の旗を掲(かか)げた。
 それゆえに、初代会長は獄中で、尊(とうと)き殉教(じゅんきょう)の生涯を終えた。人権の基(もとい)をなす信教の自由を貫(つらぬ)いたがゆえである。
 また、それゆえに、学会には、常に弾圧(だんあつ)の嵐が吹き荒れた。しかし、そこにこそ、人間のための真実の宗教の、創価学会の進むべき誉(ほま)れの大道がある」


​​​​大阪への指導
邪悪な権力との戦い
〔「大阪事件」の判決前日に開催された関西男子部の幹部会で、 逮捕自体が不当であると断言したうえでの指導)
「私は、いかなる迫害(はくがい)も受けて立ちます。もし、有罪となり、 再び投獄(とうごく)されたとしても、大聖人の大難を思えば小さなことです。また、牧口先生、戸田先生の遺志を継ぐ私には、自分の命を惜(お)しむ心などありません。
 だが、善良なる市民を、真面目に人びとのために尽くしている民衆を苦しめるような権力とは、生涯、断固として戦い抜く 決意であります。これは、私の宣言です。
 仏法は勝負である。残酷(ざんこく)な取り調べをした検事たちと、また、 そうさせた権力と、私たちと、どちらが正しいか、永遠に見続けてまいりたいと思います」
 伸一の言葉には、烈々たる気迫が込められていた。彼は、男子部には、自分と同じ心で、邪悪な権力とは敢然(かんぜん)と戦い、民衆を守り抜く、獅子として立ってほしかった。
 関西の若き同志は、伸一の言葉に、悪に抗(こう)する巌窟王(がんくつおう)のごと、不撓不屈(ふとうふくつ)の金剛(こんごう)の信念を感じ取った。そして、それをわが心とし、広宣流布の長征の旅路を行くことを決意した。
 伸一は、さらに、力を込めて呼びかけていった。
「日蓮大聖人の仏法は、いかなる哲学も及ばない、全人羝を 幸福にしゆく不滅の原理を説く大生命哲学であります。その仏法を弘めて、人びとを幸福にしていくのが地涌の菩薩であり、大聖人の弟子である私どもの使命です。
 したがって、その自覚と信念のもとに、不幸な人の味方となり、どこまでも民衆の幸福を第一に、さらに、堂々と前進を開始しようではありませんか」 関西男子部の幹部会は、民衆とともに生きゆく、誓いの集いとなった。(第5卷「獅子」)


大阪への指導
「日々新生」の決意で
 伸一が、「関西の歌」の歌詞を口述し、妻の峯子がメモをしていくシ―ン〕
「今再びの 陣列に…」
 冒頭は、この言葉しかないと思った。
"私と共に、無名の庶民がスクラムを組み、前人未到(ぜんじんみとう)の歴史を開き、広布の金字塔を打ち立てた関西である。自分と同じ心で、魔性の権力の横暴(おうぼう)に憤怒(ふんど)し、血涙(けつるい)を拭(ぬぐ)って挑(いど)み立ち、常勝の大城を築いた関西である。 関西には黄金燦(さん)たる誇(ほこ)り高き原点がある。 なれば、常にその原点に立ち返り、いよいよ「日々新生」の決意で立ち上がるのだ。 また、関西の同志との絆(きずな)は、決して偶然(ぐうぜん)でもなければ、今世限りのものではない。広宣流布を誓願して躍り出た地涌の菩薩として、久遠の使命に結ばれたものだ”
 伸一は、心の底から、こう感じた刹那(せつな)、
「君と我とは 久遠より 誓い友と春の曲」との歌詞がロをついて出ていた。
  峯子が、瞳を輝かせて言った。
「『春の曲』。いい言葉ですね。そこには、 幸せも、歓喜も、躍動も、勝利も、すべてが凝縮(ぎょうしゅく)されていますもの」(第28卷「広宣譜」)​​​



​​​​​輝きの舞台 中之島の大阪市中央公会堂
 商都、大阪の経済の中心として 発展してきた中之島。そのシンボルともいえる建物が、大阪市中央公会堂だ。昨年、完成100周年を迎えた、国の重要文化財でもある。
 ロシア歌劇団「アイーダ」の公演や、ヘレン・ケラー、ガガーリンなどの著名人が講演してきた同公会堂は、関西広布史においても重要な場所。戸田先生の一給論義が行われた会場であり、何より、1957年7月17日の「大阪大会」の舞台である。
「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」――池田先生の魂の叫びは、今も同志の闘魂となって燃え盛っている。

​​

輝きの舞台 ​関西本部
「大阪の戦い」等の舞台である、旧関西本部。 1955年(昭和30年)12月13日、戸田先生が 出席して落成入仏式が行われた。
 音楽学校の校舎を改装した3階建ての古い建物。 大勢の人が集まると揺れるほどだった。「だから私は、関西には世界一の法城をと願ってきたのである」(2007年〈平成19年〉11月、関西池田 記念会館で行われた本部幹部会でのスピーチ)
 その言葉通り、「大阪の戦い」50周年の2006年11月、旧関西本部があった地の近くに、威風堂々たる関西池田記念会館が誕生した。

輝きの舞台 関西戸田記念講堂
 大阪・豊中市に立つ関西戸田記念講堂は、1976年4月に落成。「人間革命の歌」が発表された、第25回女子部総会が行われた会場である。78年7月17日には、「関西の歌」(常勝の空)が披露されている。
 会長辞任後の81年11月22日 に開催された第3回関西総会では、池田先生が ''もう一度、私と一緒に戦おう!"と師子吼。さらに 「嗚呼黎明は近づけり」の指揮を執り、同志は師弟共戦を誓った。
 87年4月16日には、新装された同講堂を先生が訪問。20世紀最後の本部幹部会が、関西代表幹部会、関西女性総会の意義を込めて行われたのも、同講堂である。​


寄稿
「常勝の本陣」から完勝へ前進
総大阪長 岡本利明さん

 5月晴れの常勝の空が、美しく広がっていた。今再びの前進が始まろうとしていた」(第30卷上 「雄飛」)
 会長辞任から1年。1980年 (昭和55年)の5月3日を、池田先生は大阪の地で迎えられた。この日、完成したばかりの関西文化会館で、「創価学会の日」記念勤行会が開催された。
 私は当時、創価大学を卒業したばかりの社会人1年目。居ても立ってもいられず関西文化会館に駆け付け、ゲー卜役員に就かせていただくことになった。
 先生が到着されると、大歓声が上がった。師匠を求める同志の眼差(まなざ)しと熱気は、今でも鮮明(せんめい)に覚(おぼ)えている。
 先生は、ゲ―卜付近の階段で、何度も記念撮影をされていた。手が真っ赤になるほど、一人一人と握手(あくしゅ)を交わされていた。私たち役員とも力メラに納まってくださった。
 この時の心境を、先生は小説の場面に託し、つづられている。
「伸一の胸中には、"すべての同士を励まさずにはおくものか!”という、炎のような気迫が満ちあふれていた。その一念こそが"創価の魂(たましい)である」(同)
 そして、記念勤行会の席上、先生が語られたのが、次の指導だ。
「大関西は、日本、全世界の横範(もはん)となり、永遠に広宣流布の先駆(せんく)となうてください。私も関西の皆さんと共に、新しい常勝の歴史を、新しい人生の歴史を、生涯、綴(つづ)っていく決意であります」(同)
 その夜、池田先生は関西牧ロ記念館で、正義の反転攻勢(はんてんこうせい)を期し、「五月三日」と大書(たいしょ)された。大阪の地で新しき民衆の時代を開く闘争(とうそう)を開始された深い意義と、私たちの使命を痛感(つうかん)せずにはいられない。
 1週間にわたるこの関西指導で、先生は、7万人を超える会員と会い、激励してくださった。ムスその激闘を思う時、私自身も大阪の同志を励まし抜き、支え合いながら、新たな広布の金字塔を築いてみせるとの闘魂(とうこん)が燃え上がる。
 大阪は”常勝の本陣”である。立正安国の旗を高々と掲げ、本年「創価勝利の年」の完勝へ、突き進んでいく。
「いざや前進 恐れなく」と。

                                    (下につづく)








Last updated  2019/01/03 11:11:25 PM
2018/12/10
​​​​​​​​大白蓮華  12月号 企画  師弟不二の共戦譜 ​

~小説「新・人問革命」と歩む~

第1回 沖縄 (下)



 創価学会の”精神の正史”である、 小説『新・人問革命』―本年9月8日、 全30卷の連載が完結、11月22日に第30巻下が発刊された。

 今月号から、「師弟不二の共戦譜 ~小説『新・人問革命』と歩む~」と題し、 小説に登場した舞台を都道府県ごとに取り上げていく。

 第1回は、永遠なる「平和の楽土」 の建設をめざす沖縄。不屈の魂が燃える天地への、広布の師の思いに迫る。


人間の交流こそ 平和建設の重要な基盤となる

マーシー地区
 第10卷「桂冠」の章では、東京で行われた教学部の教授、教授補の試験に駆けつけた伸一が、沖縄から受験に来た、目の不自由な壮年を激励する感動的なシーンがある。
 第13卷「楽土」の章では、1969年2月の沖縄訪問の模様がつづられている。
 2月15日に行われた、班長、班担当員など6,000人との記念撮影会の場面では、”山本会長に一目会いたい”と集っていた、参加対象ではなかったアメリカ人メンバーなどを励ます様子が記されている。ここで池田先生は、「マーシー地区」のメンバーの奮闘を通し、仏法の人間主義の思想を示している。
 マーシー地区は、主に基地関係のアメリカ人で構成される。 メンバーは皆、戦争という忌まわしい重荷を背負っていた。ゆえに、誰よりも平和を熱願していた。 「真実の平和とは何か」「人間は、いかに生きるべきか」といった問題を真剣に考え、その解答を求めて、信心をする人も少なくなかった。
 マーシー地区は、仏法の人間主義の哲学を掲げ、住民と米軍兵士の間にも、友情の橋を懸けていくのである。
 その様子が、こう記されている。
「米軍の兵士だからといって、 憎悪(ぞうお)するようなことはなかった。 学会員は、会合などで米軍のメンバーと交流する機会が多かったからである。そのなかで、彼らの人柄も知ることができた。また、彼らが、出撃命令に苦しみながら、平和を願い、健気に信心に励んでいることも、よくわかっていた。
 兵士であるメンバーが”戦場に行かなくてすむように””行っても、無事に帰
って来るように”と、 題目を送る人もいた。
 兵士といっても、一人ひとりは気のいいジョニーであり、剽軽(ひょうきん)なトムであり、親思いのマィクであるというのが、学会員の実感であつた。メンバーの兵士と接触していた学会員の住民たちの目には、拙象化された”米軍”ではなく、『個』としての人間の実像が映っていたのだ。
 一方、米軍の兵士のメンバーも、 住民である学会員との触れ合いのなかで、日本人への理解を深め、 信頼を育んでいったのである。
 まさに、住民と米軍という対立を超えて、学会員は、互いに友情 の絆に結ばれていたのだ。分断は、不信と反目を深めていく。なんでもないことのようだが、こうした人間と人間の交流こそが、平和建設の重要な基盤にほかならない」 (第13卷「楽土」)
 さらに「楽土」の章では、芸術祭や大学会の結成式、高等部への渾身の指導が認められている。また、名護総支部の岸山夫妻の壮絶な体験を通し、「宿命」とは「使命」であるという、日蓮仏法の希望の哲学を訴えていく。続いて、名護やコザ市(現在の沖縄市)での激励行、沖縄本部にやって来た国頭の同志への励ましの場面がつづられる。師を求める弟子の純粋な心が、全てのシーンにあふれている。


輝きの舞台 名護港
 第13巻「楽土」の章には、 69年2月17日、恩納村の「伊武部(いんぶ)ビーチ」で山本伸一たちが観光船に乗った後、舵の故障で引返すことができなくなり、急遽、名護港に到着する様子が書かれている。
 予定にはなかったが、伸一の名護訪問を祈り、「山本先生は必ず来てくださる」と信じて疑わなかった同志は、“断幕を準備し、皆で待っていた。伸一が名護に向かっている知らせを受けると、喜び勇んで波止場に。そして、伸一との感動の出会いが生まれたのである。
 その後、名護湾は、72年に埋め立てが始まり、漁港や公園等の整備が行われた。かつての師弟の出会いの場は、現在、名護市の主要地域として発展している。


反戦出版に先駆
 第14卷「智勇」では、69年8月、男子学生部の夏期講習会に参加していた沖縄学生部を、伸一が激励する。第10卷「人魂」では、72年1月、コザ市や那期市での記念撮影会、沖縄文化祭、名護訪問等が紹介された。
 第19卷「虹の舞」では、本土復帰後、初となる沖縄訪問(74年2 月)の模様が展開されていく。この訪問は、沖縄広布20周年の佳節。 宮古八重山を初訪問し、地域に信頼を広げる伸一の振る舞いが描かれている。
 石垣島、宮古島では、記念撮影会等とあわせて、地域に開かれた市民の祭りや集い、全国初の図書贈呈、先祖代々追善法要などが行われ、地域貢献の道が開かれていった。地元の名士や友人たちは、 伸一の言葉や振る舞いを通し、学会の真実の姿を見たのであった。

 同巻「宝塔」の章では、伸一の言葉を受け、沖縄青年部が反戦出版に先駆する奮關が取り上げられている。
 沖縄青年部は、沖縄戦の体験記の発刊を目指し、「戦争を知らない子供達へ」と題した連載を、聖教新間沖縄版へ掲載することを決め、取材を進めた。しかし、つらい記憶を思い返し、皆、涙ぐみ、 口をつぐんでしまう。青年たちは、 誠実に、粘り強く、平和への思いを語り、何とか戦争体験を聞き出していく。そうして集められた証言は、どれも戦争の暗部をえぐり出していた。
 この連載は一冊の本としてまとめられた。タィトルは『打ち砕かれしうるま島』(第三文明社)。沖縄戦の終結から29年後の74年6月23日に、「創価学会青年部反戦出版委員会」による「戦争を知らない世代へ」の第1弾として発刊された。

 青年たちの反戦平和への熱き血潮と、戦争体験による涙の証言の結晶である、この本の反響は大きく、地元紙でも大きく取り上げられた。この一冊が、各県の青年部による反戦出版の突破口を開いていく 。
 また、沖縄では、この反戦出版以降も、平和運動に全力を注ぎ、沖縄研修道場をはじめ、各地で 「沖縄戦の絵」展を開催。内外の多くの人々が訪れることになる。
 さらに「宝塔」の章では、伸一が、高見福安(たかみふくやす)と盛山光洋(もりやまみつひろ)に、宿命転換、地涌の菩薩について語る。


私は、沖縄が自ら行動を起こしたことが嬉しい
学会本部での支部長会


 第28巻「勝利島」では、78年10月7日、第1回となる離島本部(後の勝利島部)の総会に先立ち、学会本部の師弟会館で開催された第1回「沖縄支部長会」に言及している。
 この沖縄支部長会を本部で開催するに至った、沖縄首脳幹部の話し合いでの、高見福安の言葉を紹介する。
 それまで7回、伸一が沖縄を訪問していたが、ここ4年以上、沖縄指導は実現していなかった。 ”8度目の訪問をお願いすべきは?”との幹部の意見を受け、高見が語っていくシーンである。
「私は、考えた。”先生にお出でいただきたいと言って、ただ、お待ちしているという姿勢でいいのだろうか”と。”違う!”と思った。先生が、7度も来島されたということは、どこよりも、沖縄を大切にしてくださったからだ。しかし、私たちは、いつの間にか、 それを、当然のことのように思い、 先生に甘えてしまっていたのではないだろうか。
 世界には、先生が一度も訪問されていない国がたくさんある。どの国のメンバーも、先生にお出でいただきたい気持ちは、やまやまだろうが、それを口にする前に、先生を求め、仏法を求めて、自ら日本に来る。アフリカや中南米の同志は、何年間も、生活費を切り詰めに切り詰めて、お金を貯め、10日、20日と休みをとってやって来ると聞いている。
 その求道の心こそが、信心ではないだろうか弟子の道ではないだろうか!」
 そして、学会本部に勇み集ってきた沖縄の同志を、伸一がたたえていく。
「私は、沖縄の皆さんが、自ら行動を起こし、学会本部に来られたということが、最高に嬉しいんです。誰かが、何かしてくれるのを待つという受け身の姿勢からは、 幸福を創造していくことはできない。そうした生き方では、誰も何もしてくれなければ、結果的に悲哀を募らせ、人を憎み、恨むことになつてしまう。実は、そこに不幸の要因があるんです。
 仏法は、人を頼むのではなく、 ”自らが立ち上がって、新しい道を開いていくぞ”という自立の哲学なんです。自分が変わることによって、周囲を、社会を変えられると教えているのが、仏法ではないですか!
 いよいよ皆さんが、その自覚に立たれて、行動を開始した。本格的な沖縄の広布第2章が始まったということです。私は、沖縄の前途を、未来の栄光を、心から祝福したいんです。おめでとう!」


沖縄を幸福島にそのために私は戦おう
​永遠の平和へ立ち上がれ

 第30巻の最終章「誓願」では、 92年(平成4年)2月25日からの 3日間、恩納村の沖縄研修道場で、アジア各国.地域の代表が参加して行われた第1回アジア総会に光が当てられている。
 池田先生はここで、あらためて沖縄への思いを書き残した。
「伸一は、沖縄に思いを馳せるたびに、国土の宿命転換と立正安国の実現の必要性を痛感してきた。
 彼が第3代会長就任から2カ月半後の、1960年(昭和35年)7月16日に沖縄を初訪問したのも、この日は、日蓮大聖人が 『立正安国論』を提出された日であったからだ。沖縄の同志が、立正安国の先駆けとなる永遠の平和繁栄の楽土建設へ、立ち上がってほしかったのである。
 初の沖縄訪問の折、伸一は、南部戦跡も見て回った。同志たちから、悲惨な戦争体験も聞いた。胸が張り裂ける思いであった。そして、”この沖縄を幸福島に!広宣流布の勝利島に!そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
 仏法の法理に照らせば、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利がある。
 64年(同39年)12月2日、彼が『戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない…』との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった」
 今、沖縄の同志は、この広布の師の期待を全身で受け止め、師の心をわが心とし、愛する「うるま島」のため、地域を駆け巡っている。
 それが、師と約束した、沖縄健児の生き方であるからだ。
 それが、師に誓った、真正の弟子の道であるからだ。



輝きの舞台 沖縄研修道場

 沖縄本島の中央部に位置する恩納村。青くきらめく東シナ海を望む地に、沖縄研修道場がある。
「『花』がある。『海』が広がる。 『光』があふれる。沖縄研修道場 は、『春爛漫』である」(第30卷 下「誓願」)山本伸一の言葉が表しているように、美し い自然が来場者を笑顔にしてくれる。
 かつては米軍のメースBミサイルの発射基地だった。 開設にあたり撤去する予定であったが、池田先生が残すことを提案。恒久平和を誓う「世界平和の癍」に生まれ変わった。
 敷地内には、沖縄池田平和記念館付属展示室や香峯子蘭園が併設されている。77年の誕生以来、 訪れる人々に、平和の心を送り続けている。




​沖縄への指導​
弟子が勝利の実証を


「今回、沖縄には各島などの中心者も誕生し、幹部室員の制度もでき、全国に先駆けて高校会も発足しました。また、さまざまな催しを通し、地域の人びとの学会への理解の輪も大きく広がりました。
いわば、沖縄が、広宣流布の大空に、本职的に飛翔する条件は、 すべて整った。その操縦桿を握るのは皆さんです。したがって、人を頼るのではなく、皆さんが会長の私と同じ決意、同じ自覚に立ち、 全責任をもつて活動を推進していかなければならない。
 つまり、新しき時代とは『弟子が立つ時』であり、弟子が勝利の実証を示す時代なんです」
「沖縄は、本土に復帰したとはいえ、その前途は決して平坦ではないでしょう。基地の問題もあります。経済的にも多くの課題を抱えています。
 しかし、どんなに闇が深かろうが、嵐が吹き荒れようが、心に虹をいだいて、晴れやかに、威風堂々と前進していっていただきたい。
 虹とは、『希望』であり、『理想』であり、『大志』です。その源泉が『信心』なんです。
 最も戦争の辛酸をなめた沖縄には、世界の平和の発信地となり、 恒久平和を実現していく使命がある。そのために、ここにいる皆さんが、宿命を使命に転じて、一人立つんです。一切は、自身の一念の転換、人間革命から始まります」(第19卷「虹の舞」)


​沖縄への指導​​
真心で励ますのが幹部

​​
「私が、本日、強調しておきたいことの一つは、幹部になったからといつて、権威主義になり、後輩に威張(いば)りちらすようなことがあっては、絶対にならないということであります。
 どこまでも誠実に、真心をもって励ましていくのが幹部です。 仏子である会員に仕え、奉仕していくのが幹部です。また、皆に、安心を与えていけるかどうかです。
 会員を自分の手下のように思って見下したり、あるいは怒鳴(どな)ったりして、人に緊張を与えるのは、権力主義者です。
 あの人の前に行くと、心から安心できる、元気になれる、希望を感じる、勇気が湧いてくる ――と言われてこそ、本当の学会の幹部といえます。
 また、皆が仲よく、互いに尊敬し合って、団結していくことが、広宣流布を前進させていく力になる。
 反対に同志を恨(うら)んだり、憎(にく)んだり、軽(かろ)んじたり、嫉妬(しっと)するようなことは、絶対にあってはならない。それは大謗法(だいほうぼう)になる。
 自分も罰を受けるし、組織を歪んだものにし、広宣流布を破壊(はかい)していくことになります。
 では、どうすれば、同志の団結が図(はま)れるのか。
 根本は祈りです。題目を唱え抜いていくことです。いやだな、 苦手だなと思う人がいたら、その人のことを、真剣に祈っていくんです。
 いがみ合ったり、争い合うということは、互いの境涯が低いからです。相手の幸福を祈っていくことが、自分の境涯を大きく開いていくことになる。
 また、誤解(ごかい)から、感情の行き違いを生むことも多いから、心を開いて、よく話し合うことです。勇気をもって、対話することです。
 互いの根本の目的が、本当に、 広宣流布のためであるならば、 信心をしている人同士が、共鳴できないはずはありません」
一人ひとりは、どんなに力があっても、仲が悪ければ、全体として力を発揮することはできない。
 逆に仲のよい組織というのは、 それぞれが、もてる力の、2倍、3倍の力を発揮(はっき)しているものである。
 伸一は、沖縄は、幸福の春風をアジアへと送る、東洋広布の”要石”であると考えていた。 それゆえに、この沖縄の天地に、 堅固(けんこ)なる信仰の、団結の要塞を築き上げたかったのである。 (第9卷「衆望」)​​​​​​​



寄稿
沖縄を「世界平和の発信地」に

沖縄総県長 安田進さん

 沖縄は、最も戦争の辛酸をなめてきた地である。
 池田先生は小説『新・人間革命』のなかで、何度もそのことに触れてくださっている。その上で、 "沖縄には、真の楽土を建設しゆく深い使命がある、と教えてくださっている。
 そして、立正安国の実現は”人の宿命転換から始まる、一人の人間革命から始まる”と、重ねて指導されている。
 私は、先生の筆致に触れ、学ぶたび、思う。広布の師は、沖縄の私たちに、創価学会の哲学の柱ともいうべき「”宿命→使命”  論」、さらには「真の恒久平和論」を教え、未来にわたる深い使命を指し示してくださっているのではないか、と。そして沖縄こそ世界平和の発信地たれ,と、弟子に呼び掛けてくださっているのだ、と。
 印象的な場面が描かれている。 第30卷下「誓願」の章で、かつて米軍のメースB基地だった沖縄研修道場の開設に当たり、撤去予定だったミサイルの発射台を残すことを、山本伸一が提案するシーンである。
「人類が愚かな戦争に明け暮れていた歴史の証拠として残してはどうだろうか。そして、この研修道場を世界の平和の象徴にしていこう!」
 そして、研修道場は整備され、 発射台の上に6体の青年像が設置されていく。これは、ヨーロッパの歴史建造物等を参考に設置されたのだが、台風被害の多い沖縄にとって、建物の上に像を置くとの発想は、いわば"奇抜”であった。 かつて戦争で苦しんだ沖縄から、 世界へ向けて平和の心を「発信」 していく――その象徴に思えてならない。

「誓願」の章では、同研修道場で開催されたアジア総会の様子がつづられている。15ヵ国、地域の同志が集っての総会。当時、私は県の男子部書記長として、全体の演出を行った。先生の振る舞いや指導を通し、アジア広布、そして世界広布の到来を感じた総会であった。
 この総会を通し、先生は認めてくださった。「沖縄には、『命どう宝』(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、『いちゃりば兄弟』〔一度出会えば、兄弟)という、 開かれた友情の気風がみなぎっている」(第30卷下「誓願」)
 沖縄には、世界の人々と「仲良く」なれる素養がある。異体同心の要になれる心がある。そう信じてくださったがゆえに、沖縄でのアジア総会の開催だったのだと、今さらながらに胸を熱くする。
 沖縄の心は、学会精神に通じる。 私たちは自覚と誇りと使命感をいだき、沖縄から世界平和に通じる戦いを展開する地涌の菩薩として、 これからも対話を重ねていく。



​寄稿
主体者だからこそ歓喜がわく

沖縄総県婦人部長 照屋清子(てるやすがこ)さん

 球子は戦った。沖縄中を動きに動いた。
 尊い広宣流布の使命を果たすために、足が鉄板になるほど動こうというのが、彼女の決意であり、 信念であった」(第16卷「入魂」) 沖縄広布の草創の婦人部リーダーの姿と心意気を、池田先生はこうつづってくださいました。
 人の友を励ますために歩き回り、真心を込めて語っていく―― この沖縄の伝統を受け継ぎ、後継の人材を育て、未来を開いていくのが、私たちの戦いです。
 先生はこれまで17回、沖縄を訪問してくださっています。その1回1回、1日1日が、"何10回分""何10年分。という真剣勝負で臨んでくださった歴史です。草創の先輩方との師弟の斯、健気な同志への真心の励まし小説を通し、 沖縄の原点を学ぶたびに、広布の師の思いに胸が熱くなります。
 先生は、沖縄の同志が、はつらつと活動している理由を、第2卷 「先駆」の章で述べてくださっています。
「沖縄のメンバーは、沖縄を幸福にするのは、自分たちしかいないと自覚して頑張ってきた。人に言われてやっているのではなく、 それぞれが広宣流布の主体者の使命と責任を感じている。だから、 歓喜がわき、功徳も受け、発展もするんだよ」
 また先生は、沖縄で私たちに、 「人が大切だよ。誰かがやるんじゃなくて、自分がやれば、みんながついてくるんだよ」と指導されました。 

 先生は沖縄に、「自覚」 「責任」「一人立つ精神」の大切さを、重ねて教えてくださっています。その理由を考えてみた時、私は、ある日の先生との懇談を思い返しました。
 ――沖縄には「なんくるないさ (何とかなるさごという楽観的な言葉があります。本来は「まくとぅそーけーなんくるないさ(くじけずに正しい道を歩むべく努力すれば、いつかいい日が来るごとの意味ですが、一方で、"何もしないでも何とかなる、という場当たり的な響きがあるのも否めません。先生はそのことを踏まえた上で、「幸福の目標を決めて戦うん だよ。初めから”どうにかなるさ”という戦いは中途半端だよ」 と指導してくださったのです。
 状況に流されず、「幸福の目標」 に向かって前進し抜く。ただ周囲に合わせるのではなく、自身が一人立って突破口を開く。そうすることで、最後には必ず幸福になる ――先生は、「なんくるないさ」 の本来の精神を教えてくださっているのだと感じています。
 私たち沖縄は、先生が示してくださった「世界最初の広宣流布の地帯」という最高の幸福の目標へ、 何があってもくじけずに、師弟の道を歩み抜いてまいります。

​​​

(大白蓮華  2018年12月号より)







Last updated  2018/12/10 07:16:15 PM

​​​​​​​​​大白蓮華  12月号 企画  師弟不二の共戦譜 ​
~小説「新・人問革命」と歩む~
第1回 沖縄​   (上)


 創価学会の”精神の正史”である、 小説『新・人問革命』―本年9月8日、 全30卷の連載が完結、11月22日に第30巻下が発刊された。
 今月号から、「師弟不二の共戦譜 ~小説『新・人問革命』と歩む~」と題し、 小説に登場した舞台を都道府県ごとに取り上げていく。
 第1回は、永遠なる「平和の楽土」 の建設をめざす沖縄。不屈の魂が燃える天地への、広布の師の思いに迫る。

沖縄の人が
救われることは、
全民衆が幸福になる証明となる

初訪問での決意

 小説『新・人間革命』第2卷 「先駆」の章には、会長・山本伸一が沖縄を初訪問する模様がつづられている。
 池田先生は、この場面をつづるに当たり、沖縄をこう表している。 「悲しき歴史に挑(いど)み立つ、雄渾(ゆうこん)の人びとのいる沖縄の天地」 そして、戦時中、また戦後の、沖縄の悲劇の歴史に触れ、真情を記した。「伸一は、この”うるま島”の宿命を転じ、永遠の楽土を建設するために、支部を結成することを、深く、強く決意していた」――
 シーンは1960年(昭和35年)7月16日。伸ーの第3代会長就任からわずか2力月半後である。
 奇しくもこの日、日蓮大聖人が 「立正安国論」をもって、国主諫暁された文応元年7月16日から、ちようど700年に当たっていた。 また、アメリカが人類初の原爆実験に成功した日も、1945年7月16日であった。
 当時、核ミサイルが、沖縄に次々と配備されようとしていた。
そうしたなかでの、伸一の初訪問である。彼は思った。
 "戦争に苦しみ、不幸の歴史を刻んできた、この沖縄の人びとが、真正の仏法によって救われることは、日本国中の民衆が幸福になっていく証明となろう。(第2卷 「先駆」)

 いかなる宿命にも、苦難の嵐にも、決して屈せずに立ち向かい、幸福の実証を示す。そして、世界に希望の光を放ち続けていく―― それは、広布の師の沖縄に対する期待であり、沖縄の深き使命でもある。
「3日間で3年分働くよ」
 当時はまだ、沖縄はアメリカの施政権下。渡航するのにもパスポートが必要な”外国”であった。
 伸一を乗せた飛行機が、那覇(なは)国際空港に到着した。「先駆」の章で、この第一歩のシーンが「聖教新聞」に掲載されたのは、奇しくも94年の7月16日。特に沖縄の草創の友は、34年前の池田先生の初訪問を思い浮かべ、感慨深く読んでいったことだろう。
 伸一が夕ラップに姿を見せると、 空港の夕ーミナルに集っていた200人ほどの同志が歓声を上げた。


この美しき天地を、永遠の平和の要塞にしよう

 伸一がロビーに到着すると、沖縄地区部長の高見福安(たかみふくやす)が待っていた。
 沖縄の一粒種(ひとつぶたね)である高見は、信心の確信を得ると、愛する天地の宿命転換のため、弘教にまい進した。先祖を神と崇(あが)める祖先信仰が根深く、本土への不信感も強い。 「ヤマトンチュゥ(日本本土の人) の神様など拝めるものか」と何度も言われた。しかし、彼は粘り強く対話を重ね、同志は人、また人と増えていった。
 伸一が会長に就任すると、高見たちは伸一の沖縄訪問を真剣に祈り始めた。沖縄中に決起を呼び掛け、上半期の弘教で沖縄地区が全国トツプの成果を収めた。
そうしたうねりのなかで、伸一を迎えたのである。
「高見にとって伸一が沖縄の地を踏んだ喜びは、筆舌に尽くせぬものがあった。
「先生、ようこそ……』と言ったきり声が詰まり、あとは、もう言葉にはならなかった。
「働くよ。1日間で1年分は働くからね」
 伸一は、こう言って高見の肩をボンと叩いた」(第2巻「先駆」) このやりとりには、師弟の精神が凝縮している。
 一人立つ精神を燃やし、わが使命の舞台を寂光土とすべく駆け巡り、勝利の姿で広布の師を迎える弟子たち。
 弟子の奮闘と真心に、何倍もの激闘と誠実で応えゆく師。
 伸一と高見が交わした言葉は少なかった。しかし、そこには不滅の師弟の絆があった。弟子の感謝と決意があり師の信頼と励ましがあった。
 こうして始まった沖縄訪問から、 新たな世界広布の潮流が生まれていったのである。


恩師の伝記小説の執筆を

 この初訪問の際、伸一は沖縄支部の結成を提案。支部長には高見が、支部婦人部長には、上間球子(うえまたまこ)が就くことになり、翌17日、沖縄支部の結成大会が開催された。
 18日、伸一たちは、地元の同志の代表と共に、沖縄戦の悲劇を刻む南部戦跡を視察していく。
 池田先生は、その様子をつづっていく中で、沖縄戦の悲惨さを詳細に書き残している。本土の捨て石とされ、多大な犠牲を強いられた沖縄。”ありったけの地獄を集めた”とも表現されるほど、凄惨(せいさん)を極(きわ)めた。その事実を、沖縄だけではなく、多くの人が知り、平和への闘争を決意するそこに執筆の意義があるのではないだろうか。
「先駆」の章では、沖縄戦の悲劇を通し、伸一が恩師の闘争に思いを馳(は)せていく場面が記されている。

楽しく、愉快に、沖縄を楽土に転じていこう

「彼は、生前、戸田城聖が、『もう、二度と戦争を起こしてはならん。そう誓って、私は敗戦の焼け野原に一人立ったのだ』と、しばしば語っていたことを思い起こしていた。
 まさに、戸田の生涯は、その残酷極(ざんこくきや)まりない戦争を遂行(すいこう)しようとする権力の魔性(ましょう)との、壮絶な闘争(とうそう)であった」
「彼(戸田城聖)の起こした戦いは、人間の生命の魔性(ましょう)の爪(つめ)をもぎとり、一人ひとりの胸中に平和の砦(とりで)を打ち立てる戦いであった。 その波は、波が万波を生むように、戸田の晩年には、彼の念願であった75万世帯の民衆の平和のうねりとなって、日本全国、 津々浦々にまで広がったのである」
「今、戸田城聖の起こした平和の大潮流は、慟哭(どうこく)の島・沖縄にも広がり、友の歓喜は金波となり、 希望は銀波となったのである。

 山本伸一は、その師の偉業を永遠に伝え残すために、かねてから構想していた、戸田の伝記ともいうべき小説を、早く手がけねばならないと思った」
「伸一は、戸田の7回忌を大勝利で飾り、やがて、その原稿の筆を起こすのは、この沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと、ふと思った」
 そして伸一は、沖縄の使命を訴えていった。
「かつて、尚泰久王(しょうたいきゅうおう)は、琉球(りゅうきゅう)を世界の架け橋とし、『万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘(かね)』を作り、首里城(しゅりじょう)の正殿に掛けた。沖縄には平和の魂(たましい)がある。その平和の魂をもって、世界の懸け橋を築く先駆けとなっていくのが、 みんなの使命だよ」
「沖縄は広宣流布の”要石”(かなめいし)だ。 この美しき天地を、永遠の平和の要塞(ようさい)にしていこう。
 仏法には三変土田(さんぺんどでん)という原理がある。そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ。やろうよ、力を合わせて」

沖縄本部が落成

 第3巻「仏法西還(せいかん)」の章では、「沖縄健児の歌」が誕生し、同志を鼓舞(こぶ)してきた様子が紹介されて いる。
 第4卷「青葉」の章では、伸一が10ヵ月ぶりに訪問し、沖縄総支部の結成大会が開かれる模様が描かれている。
 第6卷「若鷲(わかわし)」の章では、62年 7月17日から3日間に及ぶ沖縄指導が認められている。3度目となるこの訪問では、沖縄本部の落成式と幹部の任命式(18日)が行われた。
 任命式が終わると、伸一は沖縄本部の屋上に上がった。そして、設置されていた演台に上がり、場外に集っていたメンバーに手を振り、語り掛けた。
「沖縄は、あの太平洋戦争で、 本土防衛(ほんどぼうえい)の捨て石にされ、多くの方々が犠牲(ぎせい)になられた。しかし、創価学会の広宣流布の戦いには、誰人たりとも、また、一人も犠牲はありません。すべての人が、最後は必ず幸福になれるのが、日蓮大聖人の仏法です。楽しく、 愉快(ゆかい)に、幸せを満喫しながら、この沖縄を楽土に転じていこぅではありませんか」
 さらに伸一の指揮で「沖縄健児の歌」を合唱。友の喜びの歌声が、 沖縄の空に広がっていったのである。



輝きの舞台 沖縄本部
 1962年(昭和37年)7月に落成した沖縄本部。池田先生が小説『人間革命』の執筆を開始したのが、この本部である。
 小説『新・人間革命』では、沖縄本部で織り成された師弟のドラマが重ねてつづられている。
 落成式で屋上に上がった山本伸一が、大鷲のように勇壮な指揮を執り、皆で「沖縄健児の歌」を熱唱した原点。小説『人間革命』を執筆した64年12月2日には、新しき時代のリーダーたる学生部員を励ました。高等部員たちと共に勤行し、期待の言葉を贈ったことや、屋上での会員との記念撮影、集ってきた同志を包み达むように激励する様子も描かれている。
 現在、この地には、沖縄国際平和会館が立ち、平和の波動を起こしている。​​​​​




執筆開始の朝
 第9卷「衆望」の章では、ついに伸一が、小説『人間革命』の執筆を開始する。
 64年12月1日、伸一は沖縄本部の広間での地区部長会に臨み、激励を送った。
 翌2日の朝、伸一は、沖縄本部2階の和室で机に向かっていた。 目の前には、400字詰めの原稿用紙が置かれている。
 ここで伸一は、恩師の伝記を執筆するに至った来し方を振り返る。
 ―「思えば、伸一が、戸田の生涯を書き残そうとの発想をもったのは、19歳の時であり、入会して1カ月が過ぎたころであった。軍部政府の弾圧と戦い、投獄されても、なお信念を貫き、人民の救済に立ち上がつた戸田城聖という、傑出(けっしゅつ)した指導者を知った時の感動は、あまりにも大きかった。
 伸一は、"わが生涯の師と定めた戸田先生のことを、広く社会に、 後世に、伝え抜いていかなくてはならない”と、深く深く決意していた。
 その時の、炎のごとき思いは、 生命の限りを尽くして、師弟の尊き共戦の歴史を織り成していくなかで、不動の誓いとなっていくのである。

 1951年(昭和26年)の春であった。
 彼は戸田が妙悟空のぺンネームで、聖教新間に連載することになった、小説「人間革命』の原稿を見せられた時、”いつの日か、この続編ともいうべき戸田先生の伝記を、私が書かねばならない” と直感したのであった。
 さらに、3年余りが過ぎた1954年(昭和29年)の夏、戸田と一緒に、師の故郷の北海道、厚田村(あつたむら)を訪ねた折のことである。
 伸一は、厚田港の防波堤に立って、断崖が屛風のごとく迫る、厚田の浜辺を見ながら、戸田の人生の旅立ちをうたった『厚田村』 と題する詩をつくった。その時、 自分が、”戸田先生の伝記を、必ず書き残すのだ”と、改めて心に誓ったのである。
 それから2年後の8月、伸一は、 戸田とともに、軽井沢で思い出のひとときを過ごした。
 師の逝去の8力月前のことである。そこで、単行本として発刊されて間もない、戸田の小説『人間革命』が話題になった。
 戸田は、照れたように笑いを浮かべて言った。
『牧口先生のことは書けても、 自分のことをから十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先にたってできないということだよ』
その師の言葉は、深く、強く、伸一の胸に突き刺さった。
 戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき主人公の”巌さんが、獄中にあって、広宣流布のために生涯を捧げようと決意するところで終わっている。
 それからあとの実践については、戸田は、何も書こうとはしなかった。
 伸一は、この軽井沢での語らいのなかで、広宣流布に一人立った、その後の戸田の歩みを、続『人間革命』として書きつづることこそ、師の期待であると確信したのである。
 そして、1964年(昭和19年)4月の、戸田の7回忌法要の席で、いよいよ小説『人間革命』の執筆を開始することを、深い決意をもって発表したのである」


永遠にわたる絶対なる平和への誓いを込めて

最も辛酸をなめた天地で
 さらに、伸一がなぜ、最初の原稿を沖縄で書き始めることを決めたのか、その理由が述べられていく。
「―『人間革命』は、戸田を中心とした、創価学会の広宣流布の歩みをつづる小説となるが、それは、最も根源的な、人類の幸福と平和を建設しゆく物語である。
 そして、そのテーマは、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて国の宿命の転換をも成し 遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にすることである。」
 ならば、最も戦争の辛酸をなめ、人びとが苦悩してきた天地で、その『人間革命』の最初の原稿を書こうと決め、伸一は、沖縄の地を選んだのである」
 第2次大戦中、悲惨な地上戦が行われた悲劇の島。戦後もアメリ力の施政権下に置かれ、基地の島となってきた。中距離弾道ミサイルのメースB基地も設けられ、原子力潜水艦の補給基地としても重要視されていた。
 苦しみが続いていた、この沖縄の地から、伸一は幸福と平和の波を広げようと決めたのだ。

 池田先生は、「随筆 新・人間革命」にも、沖縄で小説を書き始めた思いをつづっている。
「沖縄は、卑劣(ひれつ)にして愚昧(ぐまい)な指導者たちの策略(さつりゃく)の犠牲となった。
 沖縄ほど、平和また平和を悲願してきながら、その正反対の血涙(けつるい)を流し続けてきた、悲劇の歴史の歩みを刻んだ地はないだろう。
 ゆえに私は、永遠にわたる絶対なる平和への誓いを込めて、心から愛する沖縄の天地で、小説『人間革命』の執筆を開始した」

 第9巻「衆望」では引き続き、 伸一が冒頭の一節を紡(つむ)ぎ出していく様子が書かれている。彼は、沖縄初訪問の際に、「ひめゆりの塔」 や「健児之塔」など、南部戦跡を視察したことを思い起こし、思索をさらに深めていく。
 そして、ペンを走らせた。
「戦争ほど、残酷なものはない。 戦争ほど、悲惨なものはない。 だが、その戦争はまだ、つづいていた…」
 この冒頭の一節に衝撃を受けた読者は多い。沖縄のある友は、当時の置かれた状況と重ね合わせ、 ”まるで沖縄のことではないか”と感じた。

 小説『人間革命』は、冒頭から、 過去の史実をもとに、同時代性をも帯びた筆致で認められていく。 それは小説『新・人間革命』もまた同様である。
 池田先生は、恩師の伝記、また、 自身の世界広布への闘争を、「小説」の形をもって残していく。それにより、取り上げる出来事が過去のものでありながら連載時にも通じ、また未来にも伝えていく精神を訴えることができる。山本伸一の指導が、まるで自身に言われているように感じた読者は数知れないだろう。伸一の關争が、現在の自身の”模範”となり、勝利を開くことができた同志も、それこそ無数であろう。
 小説『新・人間革命』第9巻「衆望」の章では、沖縄本部長の高見に、小説の執筆を開始したことを告げた伸一が、真情を述べていく。
「沖縄の皆さんは宿命に泣き、苦労に苦労を重ねてこられた。私は、その沖縄の宿命を転換したい。 必ず、勝ってほしいんだ」
沖縄に対する広布の師の思いは、 どこまでも深い。​


沖縄への指導
楽土建設のために一人立て

 真の繁栄と平和を勝ち取ることができるかどうかは、最終的には、そこに住む人びとの、一 念にこそかかっている。人間が、絶望や諦めの心をいだき、無気力になったり、現実逃避(げんじつとうひ)に走れば、社会は退廃(たいはい)する。
 楽土の建設は、主体である人間自身の建設にこそかかっているのだ。楽土を築こうとするならば、他の力を頼むのではなく、 平和のため、人びとの幸福のために、自分が一人立つことだ。 何があっても、絶対に屈することのない、強き信念と希望の哲学をもつことだ。複雑な現実の迷路を切り開く、聡明な知恵を慟かせることだ。そして、その源泉こそが、日蓮大聖人の仏法なのである。『第13卷「楽土」)

(下へつづく)
(大白蓮華  2018年12月号より)



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Last updated  2018/12/10 07:08:02 PM

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