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晴ればれとBlog

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勇気の旗高く

2020.07.29
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カテゴリ:勇気の旗高く

​​勇気の旗高く=完 池田先生と福井

郷土のルネサンスを
福井文化会館から自然豊かな町並みを望む(1990年10月、池田先生撮影)。先生は90年の福井訪問の折、和歌を詠み贈った。「晴れわたる また 晴れわたる 常勝の 福井の諸天は 踊り舞いたり」

 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は福井県を掲載する。

不死鳥の如く
 池田先生が初めて福井を訪れたのは、1959年(昭和34年)3月24日。
御書の「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外(ほか)の遊楽(ゆうらく)なきなり」(1143ページ)を拝し、県内各地から集った1700人の友に、「この信心をたもった私たちは、世界最高の幸福者である」と力強く訴えた。その背景には、“幾度となく災害に見舞われてきた福井の同志を励ましたい”との思いがあった。
 先生が最初に、「郷土のルネサンスを」と呼び掛けたのも、福井だった。
73年(同48年)6月5日に行われた県幹部会での講演である。多くの同志が誓いを新たにしたこの日は、後に「福井の日」に制定された。
  
 ここ福井県は自然条件の厳しい土地柄であります。だが、歴史を振り返ってみると、古代においてはまことに誇りと気概に満ちた国土でありました。3世紀末から6世紀にかけての古墳時代をみても、福井県下の古墳は約3,000基にのぼると推定されております。
 古墳は、当時の豪族の権力と財力の象徴であり、それはとりもなおさず、本格的な農業生産の大きさを示していた。ということは、古墳3,000基は、そのまま福井地方の大繁栄ぶりを物語っていたといってよいでありましょう。

 
(私は)古代からの誇りと気概と実力は、脈々として現代にも底流をなしていて、条件さえ整えば、立派にそれが開花すると考えている一人であります。
 その証拠に、福井は豪雨、豪雪、地震による大災害多発地帯であるにもかかわらず、そのたびごとに立派に立ち上がり、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を如実に発揮してきたではありませんか。
 現在の立派な福井市を建設し“不死鳥(ふしちょう)・福井”と賛嘆されたことは天下周知の事実であります。
 福井の皆さん方は“福井のルネサンス(文芸復興)を私どもの時代で必ず成し遂げる”また“子孫のために福井のルネサンスの土壌(どじょう)だけは開拓してみせる”ということを合言葉にして進んでいっていただきたいのであります。

我らは勝ちたり
 福井は、第1次宗門事件の嵐が最も激しかった地域の一つ。苦難の中で、友は先生との絆をさらに強め、忍耐強く広布の陣列を広げてきた。
 90年(平成2年)10月22日、池田先生は9年ぶりに福井を訪問。石川、富山の同志も参加した日本海3県合同総会の席上、「皆さまは見事に勝ちました!」とたたえた。先生は、2000年の随筆でこうつづっている。
  
 震災、水害、豪雪……戦後になってからも、幾度となく天災に遭いながら、たくましく復興してきた福井である。
 そのなかで、同志も、また、信頼の根を張り、深雪を踏み分けるように、創価の大道を広げてきたのである。
 しかし、にわかに、冷酷無残(れいこくむざん)な悪侶の狂刃(きょうじん)が、わが学会の純真な仏子に襲いかかり、苦悩(くのう)と悲嘆(ひたん)と混乱(こんらん)に陥(おとしい)れたのだ。
 福井の寺で、激しい学会攻撃が始まったのは、76年(昭和51年)の半ばごろであり、「法師の皮(かわ)を著(き)たる畜生(ちくしょう)」(御書1386ページ)の卑劣(ひれつ)な策動の狼煙であった。
 福井の同志は、来る日も来る日も、暗黒の嵐を耐えに耐え、必死に、創価の正義軍の陣列を守り抜いていた。
  
 私は、福井の友がかわいそうでならなかった。その苦衷を思うと、胸が苦しかった。
 ある日、私は、福井に電話を入れた。79年(昭和54年)の9月──名誉会長になって間もない、私自身も自由に動けぬ時代であった。
 「福井の皆さんも、悔しいだろう。しかし、こんなことが、いつまでも続くわけがない。大聖人が必ず裁いてくださる。それまで、福井の皆さんも、耐え抜いてください」
 「仏法は勝負だ。正義は必ず勝つ! 10年後には、はっきりするよ!」
 そして、福井訪問を約束して電話を切ったのである。
 福井は、遂に、遂に、「師子王の心」で奮い立った。
 この2年後、武生文化会館でお目にかかった皆さま方の、あの雄々しき大英雄の姿は忘れられない。
  
 そして、激戦の10年が過ぎた90年(平成2年)──私は、勝利の太陽に包まれた福井文化会館を訪問したのである。
 福井の同志の、あの晴れやかな顔、顔、顔。一緒に参加した石川、富山の友も、心の底から歓喜していた。
 我らは勝ちたり! 堂々たる福井の凱旋の大会は、日本一、世界一であった。

“新思考”の時代
 池田先生は、この90年の3県合同総会の席上、幸・不幸を決めるのは自身の「心」であると強調。その心を鍛えるのが、日々の信仰の実践であると語った。
  
 若狭湾(わかさわん)など、美しい自然の景観に恵まれたふるさと──。私も、この福井が、そして石川、富山の地が、大好きである。私は東京生まれで、太平洋側は比較的よく知っているが、できれば将来は、この日本海側の地で、時間をかけて、人生と広布への語らいを、皆さまと行いたい。
 また福井では、これまで発展のマイナス要因とされてきた「雪」を、逆にプラス要因として活用できるよう、工夫されているとうかがった。「活雪」、つまり雪を活かすという、逆転の発想である。
 例えば、冬に雪にちなんだ行事を催す。また、村おこしに役立てたり、雪を利用する新しいタイプの公園を整備したり──まことに、素晴らしいアイデアと思う。
  
 ものごとは価値的にとらえたほうが得である。そして、新しい発展のためには、古い“常識”にとらわれない柔軟な発想と知恵が必要となる。いわゆる“新思考”の時代なのである。
 他人と比べたり、見栄を張ったり、そんなことで、いつも心が焦りと不満で揺れている──それでは、どんなに他の人から幸福そうに見えたとしても、何の意味もない。むしろ不幸である。人生は他の人に見せるためにあるのではない。自分自身の人生であり、自分自身が満足できるかどうかが根本である。
  
 勇者は、どんな環境でも平静でいられる。憶病な人は常に心が不安である。知恵ある人は、障害をも自分の味方にしてみせる。知恵なき人は幸運をも、つまずきの原因にする。強者にとっては、運命と戦うことすら喜びであり、弱者にとっては、人生そのものが重荷であろう。全部、自分で決まる。自分の「一念」で一切が百八十度、違う顔を見せてくる。
 幸・不幸を決定する、この「心」に、限りない「強さ」と「知恵」をわき出させていくもの──これが妙法の信仰であり、私どもの日々の実践なのである。
  
 苦難の中、真っすぐに師弟の道を歩んできた福井の友。池田先生は「勇者の福井」の前進に期待を寄せる。
 粘り強い挑戦と持続、そして決してあきらめない負けじ魂──これこそ偉大な歴史をつくる力である。
 いかなる困難な環境さえも、自身の栄光の舞台に変えていけるのが、仏法であり、妙法である。
 今、人間世紀を拓く「勇者の福井」に、希望の太陽は赫々(かっかく)と昇った。
 「常勝関西」の一翼を担い、いよいよ「世界の福井」の本領を発揮する、歓(よろ)びの春が来た!
 私には聞こえる! 朗らかな福井の同志の敢闘(かんとう)に、あの地、この地から、潮のごとく沸き上がる、行進と喝采(かっさい)の響きが!


(2020年7月28日 聖教新聞)
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最終更新日  2020.07.29 13:22:46


2020.03.03
カテゴリ:勇気の旗高く

​勇気の旗高く 池田先生と香川​
微動だにしない信心

香川の四国研修道場から望む海岸と桟橋。穏やかな海に、桜が春の到来を告げる(1985年4月、池田先生撮影)

 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は香川県を掲載する。

世界への航海
 四方を海に囲まれた四国は、「四方に開かれた四国」ともいえる。香川は古来、その海上交通の要衝となった。
 江戸時代末期、日本人の操縦で初めて太平洋を横断した「咸臨丸(かいりんまる)」には、多くの香川出身の人々が乗船していた。池田先生は、香川で行われた「四国栄光総会」(1993年)で、その歴史的な航海を可能にした原動力について語った。

 この「咸臨丸」で、実質的に航海を支えた船乗り50人のうち、じつに35人までが、ここ香川の塩飽諸島(しわくしょとう)の出身者であった。
 長い伝統を誇り、経験、訓練、努力で鍛えられた塩飽(しわく)の人々の秀でた航海術。そして、荒波をものともしない勇気。困難に対しては団結して当たる誠実な人柄──。
 それらの力が、歴史に輝く大航海を見事、成功させたと語り継がれている。

 事実のうえで、歴史を前進させるのはだれか──。
 それは民衆である。名もなき庶民である。
 有名人でもなければ、権力欲の政治家でもない。地位もなく、巨富もなく、名声もなくとも、日々を真剣に生きる民衆の力である。
 民衆ほど偉大なものはない。民衆ほど強く、永遠のものはない。

 この「民衆が中心となる時代」──。それこそが「広宣流布の時」であり、真の「人間主義の時代」である。
 その時代を開くために、私は戦っている。民衆の一人として、民衆の友として、奔走している。
 世界に「民衆の友情の大道」を開こうとしている。

根本は「祈り」
 1993年(平成5年)12月、高松市の四国池田文化会館で行われた四国最高会議で、先生は、リーダーの姿勢について語った。

 大聖人は、在家の婦人(富木常忍の夫人)が病気と聞いて、こう励まされた。
 「尼(あま)ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり」(御書978ページ)
 ──尼御前のご病気のことは、わが身一身の上のことと思っておりますので、昼も夜も(夫人の健康を)諸天に祈っております──。
 「一人の人を大切にする」と言っても、根本は、その人のことを祈っていくことである。祈りもなく、真心もなくして、口先だけの指導などで、人を救えるはずがない。誠実しかない。策ではない。
 根底に相手を思う一念があり、祈りがあれば、最後は全部、いちばん良い方向へいく。
 大聖人は、一婦人の病気を、“私自身の一身のことである”と言われて、祈ってくださった。大聖人は、本当の仏様であられた。
 この大慈悲を拝して、万分の一でも、友のため、悩める人のために祈り、行動していく。その人が真の大聖人門下である。学会のリーダーである。

 学会の組織にはむだはない。苦労すべき責任が大きくなればなるほど、大きな功徳を受ける。戸田先生は「自分が幸福になるぐらいは、なんでもない。かんたんなことです。他人まで幸福にしていこうというのが信心の根底です」と言われた。
 大事なのは「信心」である。自分だけでなく、何十人、何百人、何千人もの人を幸福にするのだ、功徳を受けさせるのだ、人材に育てるのだという一念で、題目を唱え、行動することである。

「共戦」の一念で
 第1次宗門事件の渦中の79年(昭和54年)4月、先生は会長を辞任した。翌年1月、四国の友は「さんふらわあ7」号に乗り、香川を出港。神奈川で師との出会いを果たす。そして81年(同56年)11月、先生は香川の地を訪れ、「もう一度、指揮を執らせていただきます!」と師子吼した。その時の模様が随筆につづられている。

 懐かしき研修道場には、愛する同志が多数、生き生きと集まってこられた。
 「宗門や反逆者への反撃は、私がいたします! これ以上、皆様にご心配、ご苦労をかけたくない。私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
 私の呼びかけに、嵐のごとく轟(とどろ)いた共戦の大拍手は、香川の大空に響き渡っていった。皆の心に、魔性との戦い、激しき攻防の戦い、すなわち広宣流布への炎が、赤々と燃え上がっていった。
 この日を、誰人も忘れることはできない。

 「共戦」の二字が金文字で刻まれた、四国・香川の広布の大絵巻は、今も燦然(さんぜん)と輝いている。

 「共戦」とは、師弟一体の広宣流布への真剣な祈りであり、行動である。最も大切な、戦いの呼吸も、「師弟不二」も、ここから深まる。
 「共戦」とは、自分の一念を広布の主戦場に定めることだ。
そこに自己の殻(から)を破(やぶ)り、大我の人生を開く道もある。
 そして「共戦」とは、広布の全責任を勇んで担わんとする精神だ。誰かがやるだろう、自分は関係ないという官僚主義と、徹して戦うことだ。
 「共戦」の心があれば、広宣の大河は無限に広がる。

師弟一体の歌
 先生が“共戦”を呼びかけた4日後の11月14日、学会歌「紅の歌」が生まれた。四国の青年と共に、先生が歌詞を書き上げた“師弟一体の歌”である。当時の思いが、2009年6月に本紙に掲載された「御書と師弟」に記されている。

 正義の反転攻勢の息吹の中で誕生した学会歌が「紅の歌」です。
 真剣な輝く瞳の四国の青年たちと一緒に、私は二十数回の推敲(すいこう)を重ねて完成させました。この歌で、最初から最後まで一貫して残った言葉が「魁光りぬ」の「さきがけ」でした。
 どんなに「邪悪の徒」が立ちはだかろうとも、我ら青年が、師と共に断じて「さきがけ」の戦を起こしゆくのだ。
 この一節に託された青年の心意気が、私は嬉しかった。

 三代の師弟は「さきがけ」の勇気で勝ちました。そして、これからも、「二陣三陣」の後継の闘魂で永遠に勝ち続けていくのです。師弟不二なる創価の師子吼の前には、いかなる誹謗・中傷も、「風の前の塵」にすぎません。
 大聖人の御在世と同じく、今、時代は乱気流の中に入っている。しかし、いかに社会が動揺していても、いな社会が動揺しているからこそ、自分の信心だけは微動だにしてはならない。
 “広布のため”“学会のため”という心の操縦桿を握りしめていけば、必ず打開できる、勝利できる。こう確信して、師子奮迅の力を出し切っていくことです。

 かつて先生は語った。香川は「四国の“異体同心の要”であり、正義の進軍の“電源地”である」と。師との絆も強く、香川の友は、きょうも共戦の歴史をつづる。


(2020年3月3日 聖教新聞)








最終更新日  2020.03.04 01:57:16
2020.02.24
カテゴリ:勇気の旗高く

​​勇気の旗高く 茨城​(いばらき)​
「強い心」の人は幸福
“直通”の信心
 〈茨城の同志の合言葉は「直通(ひたみち)」。愚直(ぐちょく)なまでに師匠を求め抜き、広布にまい進する心意気を表している。1988年(昭和63年)2月27日の茨城県記念総会で、池田先生は、その意義について語った〉
  
 茨城の旧国名は「常陸(ひたち)」と呼ばれた。この「常陸」の由来には諸説があるが、一説には「直通」からきているといわれる(『常陸国風土記』)。すなわち“道が直通に続いている”との意味である。
 現代も茨城県は、交通網の整備も進み、東京中心部との連携を密にしながら“自立都市圏”として発展している。また、科学万博、筑波学園都市をはじめ、国際交流、学術振興の“道”も開いている。
 次元は異なるが、信心の世界にあっても、「常陸」の由来のごとく、茨城の皆さまは、どこまでも御本尊にまっすぐ通じる純粋な信心を貫いていただきたい。
 
 〈今年は水戸支部結成60周年。先生は2002年(平成14年)の随筆で、それまでの茨城訪問を振り返りつつ、初代会長・牧口常三郎先生と茨城との深き縁(えにし)をつづっている〉
  
 それは、晩秋(ばんしゅう)の11月26日のことであった。
 第三代会長に就任して半年余り――1960年(昭和35年)のその日、私は、茨城の水戸へ走った。県営の体育館に約8,000人が集った、水戸支部の結成大会に出席したのである。
 前日の雨はあがり、青空が見えていた。
 新出発の同志に、私は「自分自身との闘争を!」と強く訴えた。全員が偉大な「人間革命」の歴史を綴り残してほしかったのである。
 それから10年目となる1969年(昭和44年)の11月29日、私は、発展する茨城総合本部の指導会をもった。
 その日は快晴だった。沈黙の空を見上げる、青年たちのにぎやかさは壮観であった。会場の水戸会館には、壮年、婦人も共に、400人の代表が集い合い、どの顔も、晴れ晴れとして輝いていた。
 私は戦時中、あの霞ケ浦(かすみがうら)に臨む、土浦の少年航空隊の基地にいた友人を訪ねた。それ以来、幾度となく茨城の大地を踏みしめた。
  
 茨城は、牧口先生も何度も来られている。
 『万葉集』に歌われる関東の名山・筑波山にも、足を運ばれた。1936年(昭和11年)の1月のことである。土浦から筑波鉄道(当時)で麓(ふもと)の町に行き、この端麗(たんれい)な山を仰がれたのであろう。
 牧口先生は、翌日には下妻(しもつま)を訪れ、青年教育者を交えて座談会を開くとともに、茨城県支部を発足された。
 手元の資料を見る限り、これは、牧口先生が自ら出席して結成された「最初の地方支部」であったようである。
 
反転攻勢の勝鬨
〈このほど、2月11日が「茨城青年部の日」に制定された。その淵源は、1982年(昭和57年)、邪宗門の謀略(ぼうりゃく)に苦しんだ友のもとへ池田先生が駆け付け、渾身の激励を重ねた“厳寒の茨城指導”にある。99年(平成11年)の随筆に、その反転攻勢の広布史が記されている〉
 
 水戸の偕楽園(かいらくえん)の梅が満開に咲き香る季節は近づいていたが、まだまだ寒かった。
 1982年(昭和57年)の2月7日、私は、牧口先生と同じ決心で、寒風のなか、茨城の同志のもとへ走った。
 少々、風邪気味の体は熱っぽかったが、一夜明けると、すっかり楽になり、同志の題目を感じてならなかった。
 私は、完成間もない、水戸の茨城文化会館に本陣を置いて、北は日立、東は鹿島、南は土浦へと、広宣流布の大波を起こす決意で、正義の軍艦のごとく動きに動いた。
 その日立も、鹿島も、また、土浦方面の竜ケ崎、谷田部(やたべ)などでも、邪僧が正義面して、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の学会に泥(どろ)をかぶせ、唾(つば)を吐(は)いていた。
 可憐(かれん)な花のごとく、清らかな魂の同志は、こんな悪逆非道はない、これが正しき仏法を守る坊主であるはずがないと、悔(くや)し涙をのんで、耐えに耐えてきたのだ。
 仏法の世界にあるまじき、この悔しさは、当時の同志たちの心からは、永遠に消え去ることは絶対にない。
 いかなる嫉妬(しっと)と中傷(ちゅうしょう)の矢(や)も、太陽を射(い)ることはできない。威風堂々、太平洋に昇りゆく太陽のごとく、正義の旭日が昇れば、邪悪の闇(やみ)は破(やぶ)れる。
 私は、あの地でも、この地でも、雄々しき戦闘を勝ち取っていく、わが広布の同志の頭上に、勝者の月桂冠(げっけいかん)を載せながら、戦い抜いた。
 その間、わが師である戸田先生のご生誕の日(2月11日)も、茨城で迎えた。先生の年齢と同じ、82個の鉢植えの梅が、寿ぐように香っていた。
 この日、21世紀を託しゆく男女青年部、3,500名による、「茨城2000年会」が結成された。
 若き勝鬨(かちどき)の声は、今でもこだまして聞こえるようだ。
 
凱歌の人生を
 〈90年(平成2年)6月、茨城文化会館で行われた本部幹部会。池田先生は、邪悪との闘争を勝ち越えた同志をたたえ、勝利の人生を生き抜く要諦(ようてい)を示した〉
  
 大聖人は「仏法は勝負」と教えてくださっている。人生もまた“勝負”である。
 絶対に強くならねばならない。悪世末法といわれる現代の社会にあって、力がなく、弱ければ負けてしまう。こちらが勇気を出し、力をつけていけば、おごった敵も必ず打ち破っていけるのである。
  
 御本尊を持ち、広布にまい進する皆さまは、全てが尊い仏子である。仏の子を、三世十方の仏・菩薩、諸天善神が守らないはずがない。
  
 妙法の大道を歩む私どもには、何も恐れるものはない。御本尊の無量無辺の功徳に包まれた皆さまほど、強く素晴らしい存在はない。どうか、そのことに深き確信を持って、堂々と勝利の人生を生き抜いていただきたい。
 
 ところで、私たちは、何のために生まれてきたのか。この人生の大問題について、戸田先生は次のように明快に述べられている。
  
 「なぜ人間に生まれてきたか。簡単なようで、しっくりとしない問題でありますが、あなた方はこの世に遊びにきたのです」と――。
 “われわれは、この世に遊びに来た”――。もとより、「遊び」といっても単なる娯楽などとは根本的に異なる。人生を自在に楽しみ、幸福を満喫(まんきつ)しきっていける“境涯”を示されているのである。
  
 人生、生活の一切が楽しく、常に「喜び」と「希望」を見いだして悠々と生き抜いていく。ここに、私どもの信仰の目的がある。また人生の究極の目的、理想がある。
  
 たとえば、職場で上司に叱られることがあっても、その指摘を誠実に受け止めればよいのである。変にしょげかえってしまう必要はない。「ああ、自分を励ましてくれて、ありがたいな」とか、「うちの課長も本当に元気だな」(笑い)と、いい意味でたくましく捉えて、奮起していけばよいのである。
 要するに、“グチ”や“不平”に流されず、常に現状を“いい方へ、いい方へ”、“希望へ、喜びへ”と、捉(とら)えていける「強い心」を持つことである。ここに、人生の勝利をもたらす「知恵」がある。また、それを実現していけるのが信心である。​​​


 〈池田先生は“茨城は日本の縮図、広布の縮図”と、深い使命を強調し、さらなる発展に期待を寄せる。師の心に応え、茨城の友は、一人一人が堂々と凱歌の人生を飾りゆく〉


 (2020年2月24日 聖教新聞)







最終更新日  2020.02.24 17:04:14
2020.02.17
カテゴリ:勇気の旗高く

勇気の旗高く 池田先生と栃木
強さこそ幸福の源泉

宇都宮市にある栃木平和会館から、緑豊かな風景を望む(1986年9月15日、池田先生撮影)
 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は栃木県を掲載する。

初の地方闘争
 栃木広布の原点は、戸田先生が出獄からわずか1年後に行った、栃木指導にある。2003年(平成15年)の随筆には、その様子がつづられている。

 民衆の多くが戦災に疲れ果て、心身共に苦しめられていた1946年(昭和21年)の九月、わが師・戸田先生は、買い出し客で満員の列車に揺られながら、戦後初の地方指導に向かわれた。
 広布史に輝くその第一歩の天地こそ、栃木であった。
 あの時、先生を動かしたのは、女子部員の一途な声であったのだ。
 疎開先(そかいさき)である、父の故郷の村で折伏を始めたが、信心する人は誰もいない。悩み、思いあまって8月に上京し、戸田先生に指導を受けた。
 「わかった、よくわかった。行ってあげよう!」
 健気(けなげ)な女子部員は、勇んで栃木に帰るや、家族と小躍りしながら、折伏の炎を燃やし、師の来訪を待った。
 時代が時代である。彼女たち一家は、先生が来られるのは来年か再来年だと思っていた。ところが、ほどなくして、戸田先生を総大将に総勢7人で訪問するとの手紙が届いて驚いた。
 “こんなに早く!”
 何事にも、時がある。今、何をするか。今、何ができるか。
その時を逃さぬ迅速な行動こそが広布を開く力であることを、師は身をもって教えてくれたのだ。
 また、先生は、世間から嘲笑(ちゅうしょう)され、悪口を言われながら、懸命に折伏に奮闘している、わが弟子たちを、一時も早く、応援し、励ましたかったのだ。
 「まず幹部が、自ら先頭に立つことだ!」「一番、苦労している最前線の同志を励ませ!」──それが、戸田先生のご精神であった。
 はるかに山々に囲まれた那須地方の村で、先生は、まことに地味で、小さな庶民の集いに飛び込んでいった。
 一粒種の一家が村中を奔走(ほんそう)して開いた法華経講演会のあと、そのお宅で、ささやかな座談会となった。顔と顔を向き合った、この真摯(しんし)な対話のなかで、入会希望者が生まれたのである。

 那須(なす)にある栃木研修道場には、この歴史をとどめる「座談会の碑」が立つ。栃木の友は、“座談会の栃木”との誇りも高く、座談会運動を活発に繰り広げている。
 戸田先生の地方指導から5年後、くしくも、池田先生も地方闘争の初陣を、栃木の小山に飾る。1999年(平成11年)の随筆で、当時を振り返っている。

 1951年(昭和26年)の5月、わが師が、第二代会長に就任された3週間後、私も満を持して、初めての地方折伏に飛び出した。
 緑光る山河を思い、胸の躍る感慨のゆえか、私は、出発の前夜には、日記にこう書いている。
 「……吾人の、地方闘争への初陣である。嬉しき哉」
 それが栃木方面であった。私も、恩師と同じく、民衆の大地・栃木から、新しき広宣の火蓋を切ったのである。

広布源流の誉れ
 栃木には“日本最古の学校”と称される足利(あしかが)学校がある。広布の舞台においても、御書を拝し、『新・人間革命』などを教材に信心を磨く「人材大学校」の取り組みを、全国に先駆けて行ったのが、栃木だった。
 1975年(昭和50年)12月、関東総合研修所(現・栃木研修道場)の落成記念勤行会の席上、池田先生が「栃木人材学校」の設置を発表。現在も、「栃木池田大学校」として、新たなリーダー育成の場となっている。
 88年(同63年)の長編詩でも、人材光る栃木をたたえた。

 栃木はまた 学問の風土あり
 かつて 四方より
 かの足利学校に
 向学の士は集いたる
 その学徒三千人──
 戦乱の世にあっても
 読書の声は絶えることなく
 共に研学に打ち励む

 広布の人材学校は
 この地より始まる
 世界の目は栃木を
 瞠目しゆくに違いない
 使命と情熱の豊かなる水脈は
 新たなるうねりとなって
 必ずや 必ずや
 人間と人間の曠野(こうや)を
 創(つく)り 潤(うるお)す
 その誉(ほま)れの名は
 地涌の栃木城

 広布源流の天地・栃木は、先駆が使命である。89年(平成元年)9月、池田先生は栃木研修道場で呼び掛けた。
 広宣流布は言論戦だ。戸田先生は日本中、世界中の人に聖教新聞を読ませたいと言われていた。私も同じです。
 聖教新聞の拡大は、折伏に通じ、大きな功徳がある。
 「聖教先駆の栃木」でいきましょう。リーダー自らやろう。
私もやります!

 以来、栃木は「聖教先駆」を合言葉に前進。この指導から30周年となる昨年は、関東、全国をけん引する聖教拡大を成し遂げた。

諸天を動かす
 “栃木は日本一人柄が良い”──池田先生は折に触れて、語ってきた。
 89年9月の指導の際、「人柄の良さの上に、あらゆる意味で『強さ』を備えていくことが、今後の大いなる発展につながる」と強調。栃木の同志が生命に刻む指針となった。

 幸福には「強さ」が必要である。勝利には「強さ」が不可欠である。個人も家庭も、団体や国家も、強くまた強くあってこそ、堂々と胸を張って、幸福と繁栄の道を進める。弱ければみじめである。
 強い人のみが、人々を守ることができる。自分も楽しい。
皆も安心である。弱さは後退と敗北に通じる。頼りないリーダーには人もつかない。仏子を守りゆく使命も果たせない。
 「道理」の上に立っての透徹(とうてつ)した「強さ」。そこに信心の現れもある。真実の信仰者の姿がある。学会も経文と御書の仰せのままに、何ものも恐れず、「強く」「賢明に」戦ったからこそ“奇跡”ともいわれる発展を実現できたのである。

 99年(同11年)2月の本部幹部会は、栃木県総会の意義も込められた。冒頭、池田先生は、悔(く)いのない人生をどう生きるかについて語った。
 御聖訓に「一生空しく過して万歳悔(ばんさいく)ゆること勿(なか)れ」(御書970ページ)と。
 不滅の御言葉である。

 人生の目的にまっすぐに向かい、本源的幸福の追求を完璧になしゆく人間、すなわち「広宣流布に邁進する勇者」には、悔いはない。
 悔いのない人生──それを教えてくださったのが日蓮大聖人である。その「最高の人生」を教えているのが創価学会である。
 この「喜び」と「確信」と「勇気」をもって進みましょう!
 仏法には、一つもむだがない。仕事も、生活も、全部の歩みが仏法である。信心根本ならば、すべて功徳となる。
 お集まりの皆さまのなかにも、多忙な方や、さまざまな状況をかかえた方もおられるにちがいない。
 しかし、こうして仏法の集いに来られたのだから、功徳は大きい。「最高の法」の軌道に乗っている。
 広宣流布の労苦は、むだのように見えても、大変であっても、苦労した分だけ、すべてを生かしながら、「善」の方向へ、自分が向かっていく。それが信心の力である。

 私どもは、「大聖人に直結」して生きる。自分自身に生ききってゆく。
 人がどうとか、世間がどうとか、評判がどうとか、小さなことである。
 人が同情してくれない、理解してくれない──あまりにも、ちっぽけなことである。
 正々堂々と、汝自身に生きぬき、決然たる祈りと行動で、この人生を飾っていただきたい!
 諸天善神を堂々と揺り動かしていく自分自身になっていただきたい!​


(2020年2月17日 聖教新聞)







最終更新日  2020.02.17 17:44:30
2020.02.03
カテゴリ:勇気の旗高く

勇気の旗高く わが胸の信念を語れ
池田先生が徳島の友に贈る指針
反転攻勢の烽火
兵庫・淡路島から徳島を望む(1994年12月、池田先生撮影)。先生はかつて詠んだ。「広宣の 鳴門大橋 築かむと 徳島豊土の 栄祈らむ」
 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は徳島県を掲載する。

 <本年は、池田先生の徳島初訪問から60周年。1960年(昭和35年)12月6日、先生は大阪から船で小松島の港に入り、徳島支部の結成大会に出席した。以来、60星霜――。徳島の同志は、苦難を乗り越えるたびに、師弟の絆を強めてきた。第1次宗門事件の余燼(よじん)がくすぶる81年(同56年)11月には、先生は悪侶に苦しめられてきた徳島を訪れ、反転攻勢の烽火(もろし)を上げた>
  ​


 この信仰だけは、勇気をもってやり抜いてください。信心の根本は、御本尊と自分との関係につきます。枝葉のことに紛動(ふんどう)されることなく、決して負けないで、勇気ある信心をしてください。勇気のなかに一切が含まれてきます。福運も慈愛も無事故・安全も含まれてきます。
 人生には行き詰まりがある。その行き詰まりを全部打開するのが題目なんです。御本尊に祈ることです。生老病死の問題も、子どもの将来も、考えればきりがないでしょう。その中で、題目だけは生涯、永遠に行き詰まりがない。だから信心しかないのです。
 徳島ここにあり、というものを日本中に示したいですね。徳島に行ってみたいな、徳島は生き生きしているな、徳島の人に会ってみたいな、と言われること自体が、依正不二(えしょうふに)で、皆さんの勝利なのです。大福運を積んでいる証拠なのです。その意味で、私は、徳島を応援したいのです。



開拓は一人から


 <73年(同48年)に行われた徳島県幹部総会。池田先生は、新たな開拓が常に「一人」から始まることを強調した>
 しょせん、新しきものの建設や開拓というものは、小さくとも大きくとも、全面的に個人の力に負うものであります。あくまでも、個人が原点である。集団というものは、それを応用し実用化していくことしかできません。


 昔から、新しい真理や法則というものの発見は、全て、ただ一人の個人に負っています。当然それは、数多くの人々の努力の結晶とか、伝統とか、構築というものの歴史的背景はあると思いますが、背景は背景としましても、例えば、万有引力の法則は、ニュートン一人の発見であった。相対性原理は、かのアインシュタイン一人の発見であります。皆が寄ってたかって、つくりあげたものではない。
 このように、新しいなんらかの創造というものは、常に個人の手によっている。皆さん方も「これだけ大勢いるからだれかがなんとかやる」というのでは、自分自身の“本有無作の当体の生命の輝き”にはならない。自分というものをどうするかが問題です。組織は手段といってよい。あくまでも自分が原点である。そこに仏道修行の、また人間の最高の生きがいの核心というものがあるのです。



開かれた心


 <徳島は、日本で初めてベートーベンの「第九」(歓喜の歌)が演奏されたといわれる地。第1次世界大戦で捕虜(ほりょ)となったドイツ兵が、徳島の収容所で演奏した。先生はその背景に、徳島の人々の「開かれた心」があったと洞察(どうさつ)する>
  


 なぜ、この徳島で日本最初の「第九」の演奏が行われたのか?


 その理由として、第九を演奏した「板東俘虜(ふりょ)収容所」の松江豊寿所長が立派な人格者であったこと、また人々のドイツ文化を愛する心が深く強かったことなど、さまざまな理由が挙げられている。


 そのうえで、ただ一点、歴史上、私が強調しておきたいのは、その背景に徳島の人々の「開かれた心」があったということである。


 徳島の清らかな心の庶民は、異国の捕虜に対しても傲慢(ごうまん)に見下すことはなかった。反対に、臆病(おくびょう)に敬遠(けんえん)することもなかった。そして、捕虜の人々の進んだ生活技術や教養を、謙虚(けんきょ)に素直(すなお)に学ぼうとしたという。よい意味の好奇心、探求心をもっていた。


 エンジンなどの機械の技術、ジャガイモ、トマトなどの野菜の栽培、サッカーなどのスポーツ等々、徳島の純朴(そぼく)な村人たちはドイツの捕虜から生き生きと学んだ。


 捕虜たちは、どこに行っても、村の子どもたちから、ドイツ語で「グーテン・モルゲン(おはよう)!」と声をかけられたと回想している。すごいことである。
 こうした麗(うるわ)しい触れ合いのなかから、あの「第九」の演奏会も、自然な盛り上がりのなかで実現していったと考えられる。
 ドイツの捕虜の一人は、この徳島の民衆との交流の喜びを、ゲーテの大作『ファウスト』の一節に託して書き残している。


 「はやくも村人のどよめきが聞こえてくる、


 ここは民衆のほんとの天国だ。


 大人も子供も大満足で、歓声がしきり、


 ここでこそ私も人間、私は人間でいられるぞ!」(山下肇訳『ゲーテ全集』3所収、潮出版社)


 これが徳島の人々である。まさに人格に「徳」が輝いておられる。徳島が、また四国が、どれほど素晴らしき理想の天地であることか――。



歓喜の連鎖を


 <池田先生は随筆の中で、「歓喜の歌」を高らかに歌いつつ前進する徳島の友に、万感の期待を寄せた>
  


 本来、「第九」は、天界の喜びの花々に包まれて誕生したわけでは、決してない。


 当時の社会を見れば、ナポレオン戦争が終わったあとの、反動的な権力政治が自由を圧迫した暗黒時代であった。自由を愛する共和主義者として知られたベートーベンには、常時、警察の監視(かんし)がついていたし、一度などは、実際に留置されたこともあったようだ。


 彼自身も、病苦やスランプや親族の悩みに悶(もだ)えていた。


 「喜びは、苦悩の大木にみのる果実」(アンドレ・モロワ著、辻昶・横山正二訳『ヴィクトール・ユゴーの生涯』新潮社)とは、文豪ユゴーの名言である。


 ベートーベンは、懊悩(おうのう)の溶鉱炉から、永遠なる歓喜の宝光を輝かせていく。


 今こそ、重き苦悩の雲を吹き払え! 鉄の鎖(くさり)を断ち切れ!
 断固として、夜明けの光を、新しき希望の歌声を!


 彼は叫んだ。


 ――もっと快い、もっと歓びに満ちたものを歌い出そうではないか!


 苦悩を突き抜けて歓喜へ!
 「わが心は本来、仏なり!」「我ら広布の大使命に生まれたり!」と自覚することこそ、無上最高の喜びである。


 それを、大聖人は、「歓喜の中の大歓喜」(御書788ページ)と仰せである。


 「煩悩即菩提(ぼうのうそくぼだい)」である。試練に負けず、勇気をもって苦難に打ち勝つ、その時、自分らしい「歓喜の歌」が、わが生命の青空に轟(とどろ)き渡るのだ。
 ベートーベンは、「心より来る! 願わくは更に心へと赴(おもむ)かんことを!」(原田義人訳『ベートーヴェンの言葉』創元社)と祈った。


 「歓喜」もまた、心の奥からあふれ出し、心から心へ、友から友へ、飛び火していく。


 歓喜は、勇気の火花であり、雄々しき戦いの閃光(せんこう)である。


 わが胸の信念を語れ! 正義と真実を叫び抜け! 自由の炎で邪悪な壁を焼き尽くせ!


 文豪ロマン・ロランは「フランス大革命は『歓喜』から発した」(「第九交響曲」蛯原徳夫・北沢方邦訳『ロマン・ロラン全集』25所収、みすず書房)と洞察した。


 我らの妙法の広宣流布は、生命の「歓喜の中の大歓喜」に発して、全人類待望の「人間革命の世紀」「人間勝利の世紀」の無上の扉を開いていく行動である。


 自分が存在するその場所で、断固として、正義の旗、栄光の旗を打ち立てながら!
 徳島、万歳!


(2020年2月3日 聖教新聞)







最終更新日  2020.02.03 20:46:36
2020.01.20
カテゴリ:勇気の旗高く

​〈勇気の旗高く〉 池田先生と島根
全ては「心の変革」から

池田先生は1972年9月17日、2カ月前の豪雨で甚大な被害を受けた島根を訪問。
約4200人との記念撮影に臨んだ。撮影の合間には、青年たちと宍道湖畔で語らいのひとときも。この訪問が9・17「島根県の日」の淵源になった(松江市内で)

 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。
今回は島根県を掲載する。

光り輝く天地
 中国地方の西側、日本海に面する島根県。池田先生が初めてこの地を訪れたのは、1961年(昭和36年)4月23日、松江支部の結成大会に出席するためである。大会後、先生は初代支部長に「声佛事」と揮毫して贈った。
 その後も同県をたびたび訪問。ひときわ深く同志の心に刻まれているのは、84年(同59年)5月の来県である。先生は、鳥取での諸行事を終えて帰京する予定だった。しかし、あえて日程を変更し、島根へ。3日間にわたった訪問の初日、旧・島根文化会館で開かれた県各部代表者会議でのスピーチは、後に“山光提言”と呼ばれ、友の希望の指針となっている。

 本来、仏法は、最も苦難の地域、最も苦労している人に光を当て、その人々のために貢献していくことが第一義の問題であると思う。
 山陰地方というが、私は、昔からこの言葉には大変抵抗があった。
 かつて山陰地方を訪れ「山陰」という言葉を聞いたとき、「それよりも『山光』地方と呼んだほうがよい」と言ったこともあるし、そのように考えたものだ。
 山陰地方は、東京より、初夏の日没は約30分遅い。また冬は寒く、雪も降るが、山の頂上からふもとまで雪で終日銀色に輝いている。さらに山の幸、海の幸も、都会より新鮮に味わうことができる。こうした意味からも、光り輝く地、つまり「山光」と申し上げたいのである。

地道な信心こそ
 後に池田先生は随筆で、この84年の訪問を振り返り、次のように述べた。
 11年ぶりの島根は、希望の前進の渦であった。苦闘を突き抜けた歓喜の笑みの波であった。
 滞在3日間。連日、島根文化会館では、代表者会議や広布25周年の記念幹部会などが有意義に開催された。
 「山陰」に代えて、「山光」という愛称を、声高く提唱したのは、この時である。
 私は、「日蓮仏法は冥益が根本である」等と、強く語った。
 地味で単調と思える、日々の生活、一日一日の活動こそが、人間革命と広宣流布の主戦場だ。
 そこで、地道に信心を貫き、朝晩の勤行、座談会、折伏、対話と、仏道修行をたゆみなく繰り返す。
 そのなかでのみ、わが生命の功徳の年輪は重なり、嵐に揺るがぬ、仏の境涯と等しき大樹の汝自身となる。
 組織も個人も、慢心になってしまえば、もはや伸びない。慢心は毒薬である。
 大切なことは、何があっても、広宣流布を目標に戦い抜くことだ! それは、崇高な仏意と仏勅のままに戦う創価学会とともに、生き抜くことだ!

 池田先生は91年(平成3年)9月9日、安来会館を初訪問。恩師・戸田先生との思い出を交え、喜びを語った。
 生まれて初めての訪問である。皆さまとお会いできて、本当にうれしい。
 ここへ来る途中、落日に映える雲が素晴らしかった。感動した。雲わき、雲流れる「出雲の国」。その名の通り、天を彩る雲の連なりが、悠久の輝きを放っていた。まさに“世界一”の雲だった。

 島根、鳥取──この山陰地方を“山光”と呼んではどうかと提案したのは7年前である。
 今回の訪問は、天も地も希望の光に満ちあふれた、素晴らしい一日一日であった。朝も昼も輝いている。夕暮れも美しい。気温もさわやかである。きょうは大山も“こんにちは!”と言わんばかりに、秀麗な姿を現していた。
 皆さまの真心と、信心のけなげさを、そのまま映しだしたような美しさであった。ここへの車中、歌を詠んだ。

 山光と
  たれがつけたか
    この光彩
  日日の輝き
    山陰消えたり

 数々の苦労を乗り越え、広宣流布の行動に徹しておられる“山光”の皆さまに、最大の尊敬と感謝を込めて贈らせていただく。
 安来といえば、戸田先生も、年末になると、よく皆の前で「安来節」を踊っておられた。私も、一緒にやれと言われて、やったものである。
 気さくで人間味あふれる、独特の節まわし。そのあたたかい響きとともに、うれしそうに踊られていた恩師の姿が、忘れられない。
 戸田先生は「安来に、いっぺん行ってみたいな」ともおっしゃっていた。その思いが、きょうかなったようで、感激でいっぱいである。​


幸福の道を開く
 先生は“山光提言”の中で、「人生の精髄」について言及し、仏法にこそ、生きがいに満ちた人生と、人間の真の幸福を開く力があると強調した。
 人生には、それぞれの人によって、さまざまな道がある。芸術の道、学問の道、さらに剣の道、書の道、華道等々である。それらを通し、それなりに人生の精髄を追究しようとしているに違いない。しかし、それらの“道”では、それぞれの分野での奥義を極めていけるかもしれないが、汝自身の人生の精髄を極めることはできない。いわんや現在では、その道の奥義を極めようとするよりも、経済の打算に走ってしまう場合が多い。
 これに対して仏道は、だれ人もまず根本的に仏界を開き、自身の人生の精髄を会得できる法理なのである。その信心のうえから、現実の社会的立場へ、仕事へ、家庭へ、生活へと開花させ、価値ある人間としての生きがいの花を思いきり咲かせていけるのである。

 人生の精髄は、自分の与えられた立場、境遇で、どれだけ人生の意義をかみしめ、自身の使命を感じ取るかにある。
 他の場所に幸せを求めようとする心には、いずこにいっても幸せはない。それぞれの職場、家庭、生活を大切にし、その中から幸福の道を開いていけるのが、妙法であり、信心の力用なのである。その力を持った人こそ、いかなる名声の高き人よりも、財産を蓄積した人よりも、人間的に幸福な人なのである。
その強い喜びを感じ取っていけるのが、信心である。

 「山光」の友の前進・勝利を祈り、期待を寄せてきた池田先生。島根の友への随筆に、こうつづっている。
 「山陰」から「山光」へ──。
 名前が変わっただけと思う人もいるかもしれない。
 しかし、決して、そうではない。皆の意識が変わり、自信がわき、元気になることこそ、根本の目的である。
 この「意識の変革」「心の変革」から、人生も、家庭も、地域も、変わっていく。
 また、「名は必ず体にいたる徳あり」(御書1274ページ)である。
 住む人の心によって、必ずや、その名にふさわしい、平和と幸福の郷土へと発展していくに違いない。
 島根の友は、希望の歌を響かせて立ち上がった。遠くまで聞こゆる、大きな笛を吹きながら、讃美を惜しまぬ同志が集まる、その姿は頼もしい。

 勝利の行進をしてきた、わが島根の同志、万歳!
 わが鳥取の同志、万歳!
 不幸という痛みを残さぬ、唯一最高の信仰者の勝利の集まりの「山光」、万歳!

 さあ、また、宿命打破のために戦え!
 広宣流布のために、莞爾と進め!
 一家の和楽と、同志のスクラムで、大きな門を開きながら、陽光を燦々と浴びながら、素晴らしき前進を──と、私は祈り続けていきたい。


(2020年1月20日 聖教新聞)







最終更新日  2020.01.20 11:35:38
2020.01.06
カテゴリ:勇気の旗高く

勇気の旗高く 池田先生と滋賀
 語れ我が友 熱き心

 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は滋賀県を掲載する。
   琵琶湖の南西上空に広がったちぎれ雲。夕日に照らされ、美しく輝いていた(1995年10月、池田先生撮影)。


 先生は滋賀の天地を思い浮かべながら、こう詠んだ。
「滋賀の友/今日はいかにと/祈るらむ/人間博士と/愉快に 生きぬけ」と金の思い出
 <日本最大の湖・琵琶湖を有する滋賀県。古くから近江と呼ばれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下人らが、県内に堅固な城を築いた。紫式部(むらさきしきぶ)をはじめ、多くの文人・歌人が訪れた詩情豊かな天地を、先生はこよなく愛し、友に励ましを送ってきた>
  
 私は、大津(おおつ)、彦根(ひこね)、米原(まいばら)、長浜(ながはま)、東近江(ひがしおうみ)、高島(たかしま)、草津(くさつ)など、近江の路を踏みしめてきました。かつての甲西町(こうせいちょう)(現・湖南市)に足を運んだことも懐かしい。
 春夏秋冬、装(よそお)いを変えゆく琵琶湖畔(びわここはん)を一緒に散策したり、湖上に架かる大橋を渡ったり、名城・彦根城(ひこねじょう)で思索の一時を送ったり、湖水を照らす満月を仰いだり、金の思い出は尽きません。
 とりわけ、愛する郷土の繁栄を真剣に願う友と、いかに地域に貢献するか、友情と信頼を広げていくか、語らいを重ねてきました。
 湖国(ここく)の友どちの清冽な志には、常に胸を打たれたものです。
  
 <滋賀の同志が誇る長年の地域貢献。その原点は1971年(昭和46年)9月5日、滋賀研修道場の誕生を記念して行われた「びわこ祭」である。この時の思い出を、先生は振り返っている>
  
 琵琶湖の美景は、人々の心を感化して、文化の創造の力となり、青年の成長の糧となってきました。この点に注目されていたのが、創価教育の創始者である牧口常三郎先生であり、その弟子の戸田城聖先生です。
 先達の心を知る滋賀の友人たちは、長年、米原市の琵琶湖畔で文化の集いを重ね、それを通して、地域貢献と青年育成を進めてきました。
 この地に、私も何度となく伺い、若人と楽しい語らいの機会を持ってきました。
 凜々しき女性たちに、「今日一日を 汝自身に勝つ それが十年先の 勝利の人生であるからだ」と綴り、贈ったこともあります。
 「琵琶湖周航の歌」を、地元の高校生の皆さんや、婦人の皆さんが生き生きと歌い上げてくれたハーモニーも蘇ります。
 「黄金の波に いざ漕(こ)がん 語れ我が友 熱き心」
 今もよく聴く、大好きな歌です。
 郷土のために奔走する滋賀の友と対話する思いで──。

大願を起こせ
 <瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」は、数々の戦乱の舞台となったことで知られる。その歴史に触れ、先生は滋賀の勝利の前進をたたえた>
  
 わが滋賀県は、東西日本を繋ぐ要路にあたり、広布の大切な要(かなめ)の地でもある。
 あの“瀬田の唐橋(からはし)を制するものは、天下を制する”という有名な言葉が残っている。
 古代最大の戦乱と言われる672年の「壬申(じんしん)の乱」以来、幾たびも、この唐橋こそが決戦の勝敗の分かれ目になったことは、有名な史実である。
 御金言に曰(いわ)く。
 「此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多(せた)を渡せし所よ・名を揚(あぐ)るか名をくだすかなり」(御書1451ページ)
 「瀬田の橋」に堂々と翻(ひるがえ)る滋賀広布の勝利の旗が、そのまま全関西の、いな、全日本の広宣流布の大旗なのだ。
 この滋賀の天地で、私も折伏の戦いの歴史を、滋賀の同志と共に創りに創ってきた思い出は深い。
 かつて彦根(ひこね)の友に語った。それは、「強き祈り」「勇気」「忍耐」が人生勝利のカギだ。そして戦いの大原則であると。その指導を胸に刻んで、愛する滋賀の友は、今日まで悠然と戦ってこられた。そして勝利の歴史を高々と残してくださった。


「びわこ祭」の模擬店に立ち寄る池田先生(1971年9月5日、滋賀研修道場で)。
 この日を原点とする滋賀の友の地域貢献の精神は、現在の文化運動「ルネサンスプラザ」などに受け継がれている  
 <1976年(昭和51年)2月、池田先生は草津で新会館の起工式に出席した後、大津の会館へ。滋賀広布20周年を記念する勤行会で、決然たる信心で立ち上がることを呼び掛けた>
  
 寒い二月であった。雨も降っていた。当時の会館はあまりにも狭く、照明も暗かった。
 非難中傷の雨に打たれながらの、まだまだ小さな、わびしき滋賀の創価学会であった。
 私は断固として訴えた。
 「滋賀よ、日本一の朗らかな大滋賀を建設せよ!」と。
 そして、すべての人が大きく境涯を開き、「常勝の人生」「常勝の滋賀」を築いてほしいと祈った。
 仏法は勝負である。信心に中途半端はない。
 日蓮大聖人は、弟子たちに、何度も「大願を起こせ」「思い切れ」と激励されている。
 環境がどうあれ、朗らかな、決然たる心さえあれば、そこに偉大な活力の太陽、敗北することなき太陽が昇るのだ!

 滋賀研修道場に集った友と記念撮影に臨む池田先生(1989年4月16日)。この日、イギリスのチャーチル元首相の信念を通し、こう呼び掛けた。「未来への希望があれば、必ずや、最後の凱歌への道が開けていくものだ」
「幸福の種」を

 1995年(平成7年)10月、池田先生は滋賀文化会館を初訪問。本年は25周年の佳節である。
 この訪問の折、先生は「夢の国/琵琶湖を照らし/満月が/滋賀は 仏土と / 煌々 昇らむ」との和歌を詠み、勇気の対話を訴えた
  
 正義の大闘争こそが広宣流布である。
 時代の混迷を目のあたりにしながら、何もせず、ただ傍観(ぼうかん)している──それほど無責任な、卑怯(ひきょう)なことはない。
 今、創価学会が立ち上がり、全力で、誠実に行動している。これこそ大聖人のお心にかなっていると確信する。
 「仏法は勝負」である。ひとたび戦いを開始したからには、断じて負けるわけにはいかない。師子として仏敵を打ち破り、勝ちぬいていく以外ない。すべては、ただ民衆の安穏のためである。
  
 皆さまが勇気をもって、仏法を語れば語るほど、人々の心の奥に、最高の「幸福の種」をまくことができる。たとえ、今は相手が反対したとしても、必ず花開く時が来る。
 なかんずく、婦人部の確信の弁舌は、観念論ではない。言葉だけの空まわりでもない。強き一念、深き体験より発する、わが婦人部の一言一言には、人々の心を打つ響きがあり、心を動かしていく力がある。
 皆さまが祈り、しゃべった分、仏縁を結び、広宣流布のすそ野は広がっていく。
  
 妙法の音声に、どれほどの力が秘められていることか。
 それは、全宇宙のあらゆる衆生が具えている尊極の仏性を呼び覚ましていく。
 ゆえにすべてを仏天の加護に変え、味方へと転じられるのである。
 功徳の「功」とは、「悪を滅する」こと。功徳の「徳」とは、「善を生ずる」ことである。
 学会の正義が、このように堂々と証明されゆくのも、学会員なかんずく婦人部の皆さまの懸命な祈りと戦いの功徳なのである。
 皆さま方の大闘争に呼応して、今、諸天善神もグングン勢いを増し、働いている。
 さらに朗々と、妙法を世界へ宇宙へ響かせながら、人々の心に「希望の種」をまく一日一日でありたい。
  
 「滋」には「そだつ」「やしなう」、「賀」には「よろこび」の意味がある。
 滋賀の友は、人材の育成と対話拡大に喜び勇んで進み、盤石な「夢の国」の建設に挑んでいく>

 昨年10月に行われた10・7「県の日」を記念する滋賀総県総会(滋賀文化会館で)


(2020年1月6日 聖教新聞)







最終更新日  2020.01.06 21:39:03
2019.11.04
カテゴリ:勇気の旗高く

勇気の旗高く 池田先生と山口
“草の根”の戦いが一番尊い

日本最大のカルスト台地・秋吉台。緑の稜線に黄金色のススキが映える(1984年10月、池田先生撮影)
 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は山口県を掲載する。

臆病に打ち勝て
 広布史に輝く「山口開拓指導」は、1956年(昭和31年)10月から翌年1月まで行われた。池田先生の訪問は3回、合計22日間である。
 この闘争の意義について、先生は繰り返し言及し、世界中の同志がその精神を学んできた。2005年(平成17年)の随筆では、自身の臆病の心に打ち勝つ大切さがつづられている。

 あの明治維新の火ぶたを切った山口県。
 歴代の日本の総理が多く出た山口県。
 ゆえに今後も、日本の重要な地位を占めていくであろう山口県──。その山口から、地涌の菩薩たる広宣流布の闘士が陸続と躍り出ないはずは絶対にない!
 つぶさに現状を把握(はあく)されると、戸田先生は断を下された。
 「中国が一番遅れている。大作、お前が行って、指導・折伏の旋風を起こせ!」
 「はい。やらせていただきます!」
 一瞬の呼吸であった。

 日蓮仏法は「下種仏法(げしゅぶっぽう)」であり、学会は「折伏」の尊き団体である。
 勇敢にして、誠実に語り抜いた分だけ、自他の生命に満足と幸福の花が咲き薫っていくのだ。
 いかに悪口を浴びようが、中傷されようが、折伏を実践する人が最も偉いのだ。これは、大聖人が断言されている。
 「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗(ぼう)ぜん者は毒鼓(どっこ)の縁(えん)となって仏になるべきなり」(御書552ページ)
 強いて、仏法の正義を訴えていくのである。相手の反応がどうあれ、妙法に縁させることが大事なのだ。
 そして、「強いて」語るためには、何よりもまず、自分の臆病()な心、弱い心を打ち破らねばならない。そうであってこそ、勇気をもって、悠然と楽しく対話ができる。
 その結実は、真心と執念で決まる。
 折伏が実らず旅館に戻った同志を励まし、私は言った。
 「もう一度、その人の所へ、明るい顔をして、師子の心をもって、行ってきなさい!」
 またも肩を落として戻った同志に、再び私は言った。
 「では、もう一度、行ってき給え! これが、本当の仏道修行だ」
 決定の一念で、再び対話に臨んだ同志の顔は、あまりにも尊く、喜び勇んでいた。
  三度目に、頑強に反対していた相手が、「信心します」と叫んだのである。
 試されているのは、常に自分の心だ。相手を絶対に救うのだという、広い慈愛、忍耐強き勇気という、本気の決意があれば、いかなる人でも心を動かしていけるのだ。

「会う」ことから
 山口開拓指導では、あまたの人材が躍り出た。その「人材育成の要諦」について、先生は随筆で「会う」ことを強調した。

 私は決断していた。断じて山口県を蘇生させてみせる!
 歴史に残る、広宣流布の人脈を作ってみせる! と。
 会って、語る。
 会って、悩みを聞く。
 会って、励ます。
 会って、指導する。
 会って、共に祈り、御書を拝する。
 直接会えなくとも、手紙等で、会ったと同じだけの誠実を尽くし切っていく。
 私は、喜び勇んで、体当たりで毎日毎日を走りながら、飛びながら、勝利のために、建設のために、乱舞していった。
 そして、「縁した方々を、皆、偉大な広宣流布の大闘士に育成していくのだ!」と、歓喜踊躍して、苦しみを楽しみに変えながらの人生を、自分の身で創っていった。

 1994年(平成6年)11月26日、山口文化会館で行われた総会では、山口開拓指導が、“草の根の民衆運動”であったことを力説した。

 「草の根の戦い」は、現実に根を張っているゆえに地味である。たいへんである。
つらいことや、ときには、つまらなく思うこともあるかもしれない。
 しかし、「草の根」の戦いがいちばん強く、いちばん尊いのである。これをやりぬいているから、学会は強い。学会は負けない。
 「民衆に根ざす」「民衆を大事にする」──ここにしか永遠の勝利はないことを、きょうは強く語っておきたい。
 あの昭和31年(1956年)の山口開拓指導の勝利も、まさにその点にあった。
 当時、私は28歳。この会場にも28歳の方がおられると思う。
 すぐさま第一線の友の中に飛び込んでいった。まだ学会員もわずかであり、家族の反対の中で信心されている方も少なくなかった。
 私は皆さまと一緒に勤行した。一緒に御書を学び、一緒に弘教に励み、一緒に歴史を刻んでいった。
 皆、仏子である。上下などない。あってはならない。
 社会でも、立場が上になると、人間まで偉くなったように錯覚し、人を見くだす人がいる。とくに日本に、そうした封建的な傾向が強いようだ。
 しかし学会は、そうではない。人間と人間、同志と同志の、美しき共和の世界なのである。


師弟不二の闘争
 1999年(平成11年)10月24日、東京牧口記念会館で開催された第7回「山口総県記念幹部会」。席上、先生は山口の同志に「人間革命」の闘争を呼び掛けた。

 自分の小さな「エゴ」を中心とするのでなく、宇宙の根本の「法則」にのっとって、命を燃やし、人々のため、社会のために行動していくとき、わが「生命の鏡」は磨かれ、光っていきます。
 妙法という「鏡」には、大宇宙の森羅万象の不思議さが映り、それぞれの本然の実相が、ありのままに映っていく。また過去も、現在も、未来も、瞬間瞬間、如々としてきたり、律動しゆく「因果(いんが)の理法」も、ありありと映る。
 さらに、万物が語る言葉が、その声なき声までが絶妙に映し出されていく──仏法の真髄は、そう説いております。ゆえに、妙法を根本に、みずからの「生命の明鏡」を、心を、日々、おこたらず磨きあげていく「人間革命」こそが不可欠になってくるのであります。

 私は、28歳の若き日に、愛する山口県の大地で同志とともに「開拓闘争」の歴史をつづりました。なぜ、あれほどの歴史を残せたのか?
 それも、「この瞬間は二度とない」という決心で戦ったからであります。
 山口の基盤は、私が「師弟不二の闘争」でつくったのであります。
 私は勝った。だれの追随も許さない歴史をつくりました。いずこにおいても。
 皆さんも、何でもいい、「さすがだ!」と言われる歴史をつくっていただきたい。
 勝てば爽快である。楽しい。胸を張れる。負ければ悲しい。ばかにされる。
 「勝つ」ための信心であり、人生であります。

 先生はかつて、山口の友に「あまりにも 縁もふかき 山口の 三世に残る 栄冠 待つらむ」と詠み贈った。師が青春時代を駆けた思い出の天地・山口。先生は、万感の期待を寄せている。

 激戦、また激戦の日々であった。中傷批判の嵐の真っ只中を、私は一段と決意深く、前進の指揮を執った。
 先生に喜んでもらいたい。勝利を報告したい。これのみが、弟子の道であるからだ。
 ああ、懐かしき山口闘争!
 私は勝った。この舞台にあっても、師弟は不二として勝った。
 わが弟子よ! 君も、断じて何ものにも負けるな!
 「正義の拡大」のために、勝って、勝って、勝ちまくってくれ給え!



(2019年11月4日 聖教新聞)







最終更新日  2019.11.05 12:16:32
2019.10.21
カテゴリ:勇気の旗高く

​勇気の旗高く 池田先生と山梨
山の如く揺るがぬ心で

 池田先生が各地の友に寄せたスピーチや指針などを紹介する「勇気の旗高く」。今回は山梨県を掲載する。

師弟の人材城
 山々に抱かれた山梨県。1955年(昭和30年)、県内で行われた水滸会の野外研修の折、戸田先生は語った。「この山紫水明の天地に、広宣流布の人材の城を築きたいな」。池田先生はこの恩師の言葉を胸に、幾度となく足を運んできた。2007年(平成19年)、山梨最高協議会に出席した池田先生は、師弟の精神について語った。
  
 戸田先生は、天下の要所である山梨をこよなく愛し、大切にされた。この地で、青年を薫陶してくださった。
 山梨には、創価の師弟の深い縁がある。重大な使命の天地なのである。
 山梨創価学会の前進は、まことに立派である。偉大なる広宣流布の歴史を現実に大きく切り開いてくださっている。
 私はいつも、戸田先生のお心を思い、そして、広宣流布の新時代を展望して、山梨を訪問させていただいている。
  
 私は、ただ師匠のために戦った。
 師匠に直結しない戦いは、いかなる戦いも意味がない。そう、私は決めていた。
 全部、戸田先生の言われる通りに戦ってきた。
 これが師弟である。
  
 山梨の皆さまには、本物の師弟直結の人材城を築いてもらいたい。
 皆さまはどうか、私とともに、真実の師弟の道を歩み抜いていただきたい。そして、勝ち抜いていただきたい。
 師弟の精神が盤石であれば、それが土台となり、因となって、「大山梨」を築くことができる。
 そうした見事なる「大山梨」ができれば、日本中、いな、世界中に、勝利の波動は広がっていくのである。

行学の二道を
 山梨は、日蓮大聖人が晩年、末法万年の未来のために諸御抄の御述作と弟子の育成・教化に当たられた地である。1997年(平成9年)、その山梨に教学研修センター(笛吹市)がオープン。池田先生は開館間もない6月10日、同センターを訪れ、御書講義を。その中で「『教学第一』の山梨たれ! 『行動第一』の山梨たれ!」と呼び掛けた。
  
 「心こそ大切なれ」(御書1192ページ)――これが、大聖人の根本の教えである。この「心」を、どうつくるか。
 すなわち、一念に三千を具する、わが「心」を、どう鍛え、どう磨き、どう人間革命へと回転させていくか。そのために信心があり、学会活動がある。
  
 大聖人は、この山梨の地から、四条金吾に、「陰徳あれば陽報あり」(同1178ページ)――人の目に見えないところで積んだ徳は、必ず目に見える報いを受けることができる――と励ましておられる。
 金吾は、それまで、妬みの讒言によって、主君から遠ざけられていた。その難を、金吾は、けなげな信心と、真心の行動で見事に乗り越え、信頼を勝ち取っていった。
 門下の勝利の姿を、大聖人はこよなく喜ばれながら、重ねて、こう仰せになられた。
 「此は物のはしなり大果報は又来るべしとおぼしめせ」(同ページ)――これは、まだ始まりです。さらに大果報が来ると確信しなさい――。
 法のための労苦は、すべて功徳となって、わが身を飾る。見えない陰の献身の行動が、目に見える結果となって、福徳は汲めども尽きない泉のごとくに、ぐんぐんと満ちてくる。
 その確かな幸福の軌道に、皆さまは間違いなく入っておられる。この軌道から、絶対に外れてはならない。そのためにも、教学を学びゆくことが大切なのである。
  
 「諸法実相抄」の有名な御文にいわく、「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(同1361ページ)――行学の二道に励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はない。自分自身も行い、人にも教えていきなさい。行学は信心より起こるのである。力があるならば一文一句でも語っていきなさい――と。
 どうか、わが山梨の皆さまは、日々、少しずつでも、御書を拝していただきたい。
 そして、あの山々のごとく、揺るがぬ確信を築くことである。また、雄々しき行動へと勇みゆく、模範の「実践の教学」であっていただきたい。

何かで日本一に
 かつて、上杉謙信と覇を競い、徳川家康・織田信長の連合軍を破った、武田信玄の軍団を輩出した山梨。2007年、池田先生は「首都圏を、さらには日本と世界を、堂々とリードしていっていただきたい」と、山梨の前進に期待を寄せている。
  
 山梨は、最強の武田信玄の軍団を生み出した天地である。
 同じ生きるなら、誇り高く生きるのだ。
 仲良く前進!
 朗らかに勝利!
 そして日本一の充実した山梨を築いていただきたい。
 何かで「日本一」を目指すのだ。
 折伏日本一! 人材日本一! それも、すごい。
 「団結日本一!」「朗らか日本一!」。これもまた素晴らしい。​


 ――あの山梨の団結を見よ! 山梨は、どこか違う。あの姿の中に、真実の創価学会の魂がある!――
 こういわれる模範の県を、築いていただきたいのだ。
 それには、お金はいらない(笑い)。心で決まる。難しい話も、必要ない。心一つで決まるのだ。
 ほかのどこよりも麗しい、異体同心の前進をお願いしたい。
  
 立ち上がるのだ。
 行動するのだ。
 波を起こすのだ。
 外へ、外へと打って出るのだ。折伏精神を胸に!
 小さな世界にいるだけでは、新しい発展はない。停滞してしまって、傲りの心、退転の心に侵されてはならない。
 列車も、飛行機も、どこかへ向かっていく。進まなければ、目的地には着けない。これが道理である。
 人もまた、生き生きと、新天地に向かって飛び出すのだ。心を外へ開くのだ。自分の殻を破るのだ。そこに希望の拡大がある。幸福の光が広がる。
 勇んで、外へ打って出る――これが、勝利し、発展し続けていくための原則なのである。
  
 明年は、「ニュー山梨」との指針が示されて35周年の佳節。春には、待望の新「山梨文化会館」の完成が予定されている。山梨の同志は今、建設のつち音とともに、幸福の光を広げている。


(2019年10月21日 聖教新聞)







最終更新日  2019.10.21 12:12:10
2019.09.30
カテゴリ:勇気の旗高く

勇気の旗高く 池田先生と三重
信仰は「永遠の希望」


師弟一体の闘争
 本年は、三重にとって幾重にも広布の佳節を刻む意義深き年である。1059年(昭和34年)10月5日、池田先生は伊勢湾台風の甚大な被害に見舞われた四日市方面を訪れ、同志の激励に奔走。この「三重初訪問」から60周年を迎える。その10年後の69年(同44年)12月には、高熱を押して松阪・伊勢を訪問(本年で50年)。当時の様子が、随筆につづられている。
  
 『万葉集』にも薫り高く歌われた美しき三重――。
 しかし、戦後にあっては、あの伊勢湾台風の被災や四日市の公害など、三重の方々は厳しい試練も受けた。
 そのなかで「立正安国」の法旗を掲げた同志も、悪口(あっこう)、中傷、村八分等の圧迫に耐え抜き、必死に広宣流布の道を切り開いてきたのである。
 “友よ、負けるな、断じて負けるな!”
 1969年(昭和44年)の暮れ、私はそう念じながら、三重の皆様のもとへ駆けた。
 3日前に大阪入りした時は40度の高熱であり、まだ発熱は続き、体調は最悪であった。だが、私は、奈良に続いて、三重の松阪、伊勢へと苦しい体を走らせた。
 弟子が懸命に戦い、待っているのだ。どうして行かずにいられようか。

 あの日、私と三重の同志は「開目抄」を拝した。
 「我並(われなら)びに我が弟子・諸難(しょなん)ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし……」(御書234ページ)
 いかなる苦難があろうが、疑いを起こして、「広宣流布に戦う心」を失っては絶対にならない! 「我並びに我が弟子」と仰せのごとく、師弟一体で戦い抜くのだ!
 ここ三重の地に、わが魂魄(こんぱく)を留(とど)めんと、時々刻々、命の限り戦った歴史は、絶対に忘れることはできない。
  
 10・6「三重の日」が制定されたのは74年(同49年)。本年で45周年を迎える。制定から2年後、中部第一総合研修所(現・三重研修道場)で行われた記念勤行会では、池田先生を囲んで「人間革命の歌」を高らかに歌った。席上、先生は恩師・戸田先生の言葉「御本尊に対して、つねに感謝の気持ちがある人は、ますます福運が開かれていくものだ」を通して指導した。
  
 ここでいう“感謝の心”とは御本尊を受持し、その功徳の源泉に縁することへの感謝であり、大勢の同志に守られ、指導、激励を受け、御書を学び得たことに対する感謝という意味です。
 この強い感謝の一念は、自分自身の境涯を大きく開き、功徳の薫風を生命の宮殿に吹き込ませる福運開花の本因につながるのであります。
 日々の仏道修行に心から感謝している人は、やはり諸法実相の道理で、なんともいえない福々しさがある。皆さん方も、そういう人生を築き、悠々自適(ゆうゆうじてき)の生涯を送られんことを心から願望してやみません。
 
「信念の人」は若い
 池田先生は92年(平成4年)12月15日、三重・津市にある中部池田記念墓地公園を訪問。6日間の激励行は、今も多くの同志の胸に刻まれている。同19日には、第9回中部総会が開かれ、先生は「創価」とは「無限の希望」であるとスピーチした。
  
 「ホープ」――人生の「希望」は無限である。
 私は、いつもいつも御本尊に祈り、念じてきた。何があろうとも、わが創価学会員に「無限の希望」を与えたまえ、と。
 その通り、学会には、年ごとに、いよいよ壮大なる希望の道が広がっている。
 「信心」は「無限の希望」である。そして、「創価」とは「無限の希望」である。
 向上の人生、努力の人生、信念の人生には、希望が湧く。 
 何があっても、永遠に「希望を生み」「夢を実現」しながら生き抜いていく。それが仏法者の人生である。
  
 アメリカの詩人、サムエル・ウルマンについては前にも紹介したが、彼の詩をふまえているとされる、次のような言葉がある。
  
 人は信念と共に若く
  疑惑と共に老ゆる。
 人は自信と共に若く
  恐怖と共に老ゆる。
 希望ある限り若く
 失望と共に老い朽(く)ちる。
  
 素晴らしい、有名な言葉である。
 人を「若く」するもの。それは「信念」である。
 確固として「信ずる」「念ずる」――その一念が生命の力を強める。
 正しきものを信じ、正しき方向へと念ずるゆえに、正しき、幸福への信念となる。「正法」を実践する私どもこそ、最高の「信念の人」なのである。ゆえに若い。ゆえに、はつらつとしている。
  
 「人は自信と共に若く」――と。
 どんな課題、どんな試練であれ、「さあ、来い!」という「自信」である。「わが地域は、必ず大勝利してみせる」という気概である。そこから前へ、前へと進む不屈の力が湧き出ずる。
 実力が伴わない自信もあるが(爆笑)、要は、何でも率先してやろうという一念が大きく人生の道を開いていく。
  
 ともあれ、「信念」に燃え、「自信」と「希望」がある限り、人は若々しく、生き生きとしている。その人こそ、真に生きた人、勝利を得た人、生命の勲章を得た人である。
 ここに、人生の究極もある。信心の究極もある。仏法の究極もある。
 私どもの正しき信仰は、希望と確信の人生を生きる「根源の力」である。この「力」を知るゆえに、わが創価学会は、何ものも恐れない。「永遠の希望」に生きることができる。
 
勇壮なる飛翔を
 10月が来ると、三重の同志の心はいや増して燃える。青年部は現在、10・7「三重青年部 師弟誓願の日」へ、記念月間を躍進。あす1日からは、各部一体で10・6「三重の日」を祝賀する記念月間がスタートする(10月31日まで)。先生は、愛する三重の友に呼び掛けた。
  
 三重県の形は、「翼(つばさ)を広げた鷲(わし)」の姿に似ているといわれる。
 四日市・桑名(くわな)方面が一つの翼、熊野・尾鷲(おわせ)方面がもう一つの翼であり、伊勢・鳥羽(とば)方面が頭部にあたる。そして、津・松阪などの中央部が胴体であろうか。
 それぞれの地域が一体となって、栄光・大勝の空へ羽ばたく三重の皆様の英姿と重なって見える。
 戦おう、三重の同志よ!
 空飛ぶ者の王・鷲のごとく、大空に向かって勇壮(ゆうそう)なる飛翔(ひしょう)を共々にしてゆこうではないか!
 最も大切な庶民の真っ只中に飛び込み、偉大にして崇高な「人間革命」の波動を起こしゆこうではないか!
 民衆が民衆のための勝利の凱旋曲を、我らの万葉の天地に心ゆくまで響かせてゆこうではないか!


(2019年09月30日 聖教新聞)







最終更新日  2019.09.30 12:00:07

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