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晴ればれとBlog

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民音

2019.12.29
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カテゴリ:民音

​世界に魂を 心に翼を ​

民音が開いた文化の地平   第21回 世界バレエ・シリーズの金字塔   < 下 > 

絢爛たる芸術の花
民音創立者の池田先生が、アメリカン・バレエ・シアターのチェイズ氏(右から3人目)らと(1968年9月、上野の東京文化会館で)

 「しばらくぶりですね!」
 民音創立者の池田先生が、パリ・オペラ座バレエ団の舞台総監督であるロベール・ジル氏に声を掛けた。
 1972年4月5日。上野の東京文化会館では、民音「世界バレエ・シリーズ」の第5弾として、同バレエ団の公演が披露されていた。
 幕間で、池田先生はジル氏ら同団の首脳と和やかに。かつて先生はパリ・オペラ座を訪れており、これが久方ぶりの再会となった。
 「大変に見事な演技を見せていただき、民音だけでなく、日本を代表して、深く御礼申し上げます」
 創立300年。ルイ14世の時代から受け継がれ、ヨーロッパ最古の伝統を誇るパリ・オペラ座バレエ団。この日、上演した「ノートルダムのせむし男」(ローラン・プティ振付)は、文豪ビクトル・ユゴーの小説をバレエ化した壮大な舞台であり、大盛況となったソ連公演では、観衆の誘導に軍隊が出動したほどである。
 総勢120人の“引っ越し公演”となった来日公演は、高さ10メートルを超える欧風建造物など、本場さながらの装飾が施された。
 先生は司祭や兵隊などに扮したダンサー一人一人の熱演をたたえながら、「ユゴーは私の愛読書です。今、執筆している小説『人間革命』も、ユゴーの『レ・ミゼラブル』を参考にしています」と。文学談議に花を咲かせつつ、力を込めた。
 「この一流の舞台を一人でも多くの人に見てもらいたい。日本全体、世界の文化のために、これからも、芸術の交流に総力を挙げます」
                 ◇ ◆ ◇ 
 名だたるバレエ団の来日を実現した世界バレエ・シリーズ。その軌跡は、今なお不朽の輝きを放つ。
 第1回を飾ったソ連のノボシビルスク・バレエ団(66年)、それに続くベジャールのベルギー国立20世紀バレエ団(67年)は、古典と現代の最高峰ともいうべき舞台となった。
 その後も、アメリカン・バレエ・シアター(68年)、ギニア国立ジョリバ・バレエ団(71年)、パリ・オペラ座バレエ団(72年)、ドイツのシュツットガルト・バレエ団(73年)、英国ロイヤル・バレエ団(75年)と、圧巻の舞台が連なる。
 しかし国際交流が限られていた当時、日本バレエ界はいまだ“ソ連一色”であり、こうしたバレエ団を招聘することは“冒険”でもあった。
 日本を代表する演出家、音楽プロデューサーの広渡勲氏が振り返る。
 「あの時代に海外からバレエ団を呼ぶのは、大変な決断です。日本のバレエ界は“お稽古事”の印象が強く、舞台芸術としての演出は考慮されていませんでした」
 世界的な芸術団体の舞台を支えてきた広渡氏は、68年のアメリカン・バレエ・シアター以降、民音公演にも尽力。「まさに衝撃でした。ジョージ・バランシン、アントニー・チューダー、ジェローム・ロビンスら、20世紀を代表する振付家の現代バレエ、外国人ダンサーのダイナミックな身体表現に圧倒されました」
 世界バレエ・シリーズで来日を果たしたダンサー、振付家らの思い出を述懐しつつ、広渡氏は語った。
 「素晴らしかったのは、フランスをはじめ、世界、いわゆる西側の有名バレエ団を招いたこと。ベジャールやジョン・クランコ、ローラン・プティといった、世紀を代表する振付家を紹介してきた。私が総合芸術としてのバレエに触れた原点は、ここ。民音公演がなければ、今の私はありません」
                 ◇ ◆ ◇ 
 民音創立者の池田先生は、世界バレエ・シリーズの成功を願い、多忙の合間を縫って、出演者や関係者に感謝を伝えている。第2次訪ソの直前となった英国ロイヤル・バレエ団(75年)を除き、各団の公演に足を運び、心からの謝意を述べてきた。
 68年9月21日、アメリカン・バレエ・シアターの「白鳥の湖」では、終演後、舞台上で待つ団員のもとへ。
 熱演で?を上気させるダンサーたちと握手を交わし、「これからも、絢爛たる芸術の花を咲かせてください」と、真心からねぎらった。
 幕が下りた後、舞台で感謝を伝えるのは、バレエ団にとって深い感謝の証しであり、支配人のルシア・チェイズ氏の提案によるものだった。
 来日中、チェイズ氏は先生と3度にわたって会見。大阪での最終公演の折にも、語らいを交わしている。
 またシリーズ第4弾となったギニア国立ジョリバ・バレエ団の東京公演(71年9月9日)では、終演後に池田先生がダンサーらと歓談した。
 同団は、アフリカ全土に眠る民族舞踊を初めてバレエ化し、52年の結成と同時に、パリ国際演劇祭でグランプリを獲得。“アフリカそのものの再現芸術”と話題を集め、鮮やかな民族衣装、耳を突く雄叫び、アクロバティックな跳躍が彩る舞台は、人々のバレエ観を覆した。
 60年の国連訪問以来、“21世紀はアフリカの世紀”と折々に訴え、その豊かな知恵、人間性に学ぼうと語ってきた池田先生は、公演の成功を誰よりも願い、心を尽くしてきた。
 公演を鑑賞した先生は「心が躍ります。最高の芸術です。アフリカにしかないリズム。舞踊の源泉を見る思いです」と、盛んに拍手を。共に記念のカメラに納まり、祖国の未来を開く一人一人を最大にたたえた。
 帰国前、ベレッテ・ダウダ団長は感慨を込めた。「これほど我々の文化を心から理解し、声援をいただいたのは日本が初めてです」
 このジョリバ・バレエ団がアフリカから初の招聘となり、これまで民音は、アフリカ14カ国の音楽団体の来日公演を実現させている。
                 ◇ ◆ ◇ 
 3年に1度、海外トップクラスのバレエダンサー数十人が、東京に会する“バレエの祭典”がある。昨年で15回を数えた「世界バレエフェスティバル」。この立ち上げにも民音の貢献があった。
 第1回が民音と東京バレエ団の主催で開かれたのは、76年春。“世界三大プリマ”のマイヤ・プリセツカヤ、マーゴ・フォンテイン、アリシア・アロンソを筆頭に、ダンサー20人が“夢の共演”を果たした。世界バレエ・シリーズの開始から10年後のことであった。
 欧米でも前例のない壮挙であり、バレエの歴史が浅い日本での開催である。
各種メディアでも、同バレエ団の名声の高まりとともに、「『民音世界バレエ・シリーズ』で培った実力が実を結んだもの」(日本経済新聞)と話題になった。


 この東京バレエ団の草創期の飛躍を支えたのも、ほかならぬ民音である。同団の創立者であり、世界バレエ・シリーズの企画・運営に携わった佐々木忠次氏は証言する。
 「民音のスローガンの一つに“日本の音楽家を育成し、その優秀な作品並びに演奏を広く内外に紹介する”というのがあるが、この具体的な成果の一つとして東京バレエ団を挙げることが出来る」
 事実、64年に発足した同団の初公演を主催し、年50回に及ぶ地方公演を主催したのも民音だった。
 国内のバレエ芸術の発展と、世界バレエ・シリーズの推進──この両輪をもって、民音は戦後日本のバレエ史に大きく寄与した。その後も、松山バレエ団やジョン・ノイマイヤー率いるハンブルク・バレエなど、国内外の名門バレエ団の公演を主催し、池田先生と芸術家らとの親交は今に続く。
 日本の芸術史にその名を刻む世界バレエ・シリーズ。“一流芸術を民衆の手に”との創立者の信念と、その思いに共鳴する人々の心が一つとなって築かれた不滅の金字塔である。​


(2019年12月29日 聖教新聞)







最終更新日  2019.12.29 21:18:43


2019.12.20
カテゴリ:民音

民音タンゴ・シリーズが明年2月に開幕 16都市で公演

マティアス・グランデ氏(中央)率いる五重奏団「キンテート・グランデ」
 民主音楽協会(民音)が、アルゼンチン・タンゴ界の一流アーティストを招へいし、半世紀にわたって多くの観衆を魅了し続けてきた「民音タンゴ・シリーズ」。
 
 その51回目の公演が、明年2月からスタートする。
若き実力派バイオリニストのマティアス・グランデが来日
 来日する楽団は、若き実力派バイオリニストのマティアス・グランデ氏率いる五重奏団「キンテート・グランデ」である。
 グランデ氏は、1973年と77年に同シリーズにも出演した巨匠エンリケ・マリオ・フランチーニ氏の後継者とあって、来日に大きな注目が集まっている。
 また、その脇を固める4人も世界で活躍する気鋭の人材ばかり。伝統に根差しつつも、現代的なアレンジを加えた演奏スタイルは、往年のタンゴファンを楽しませるにとどまらず、新たなファン層を広げる一翼を担う。
 
 まさに、次なる50年の歴史を開くにふさわしい楽団である。
 同シリーズが始まったのは70年のこと。当時、アルゼンチン・タンゴは、新しい音楽の台頭によって人気に陰りが出てきたところに、国内の政情不安や財政悪化が重なり、“冬の時代”を迎えていた。
 
 そうした時に民音は“音楽交流こそ、世界中の人々の心を結び、平和建設の一助となる”との創立者・池田大作先生の理念のもと、本場のタンゴを日本に招き、毎年、公演を開催したのである。
 その中で、アルゼンチン社会からの信頼は年を追うごとに高まり、昨年10月には、芸術・文化の普及などへの貢献をたたえ、公共メディア・コンテンツ庁から池田先生に「芸術と平和の青の賞」が贈られた。

 そうした歴史に新たな一ページを加える今回のステージ。楽団の実力もさることながら、圧倒的な歌唱力で定評のある女性歌手バネッサ・キロス氏と、ガスパル・ゴドイ氏を筆頭に、カルラ&ガスパル、サブリーナ&エベル、ルシアーナ&フェデリコの3組のトップダンサーが出演。
 タンゴファンならずとも、誰もが心を奪われる必見のステージとなろう。
 
 2月から3月まで16都市で開催。問い合わせは各地の民音センターまで。
 本公演の公式ホームページは​こちら。

(2019年12月20日   聖教新聞)







最終更新日  2019.12.20 19:57:53
2019.12.13
カテゴリ:民音

音楽で心結ぶ――民音が海外派遣公演


 “音楽交流こそ、世界中の人々の心を結び、平和建設の一助となる”――創立者・池田大作先生の理念のもと、世界中に友情の絆を結ぶ民主音楽協会(民音)。 
 その民音による海外派遣公演が、台湾と韓国で開催され、大きな反響を呼んでいる。
 
台湾 「情熱フラメンコ」に喝采
台湾で行われた「情熱フラメンコ」のコンサート。軽快なリズムを刻む華麗なダンスが観衆を魅了した(台北市内で)

 台湾での派遣公演は11月23日から12月5日まで、台湾SGI(創価学会インタナショナル)の文化団体である創価文教基金会の主催で行われた。
 
 出演したのは、創立50周年を迎えた「小松原庸子スペイン舞踊団」。「情熱フラメンコ」のタイトルで、本場・スペインで活躍する舞踊手など、6人のアーティストと共演し、誰もが耳なじみのある歌劇「カルメン」より「闘牛士の歌」をはじめ、フラメンコの伝統楽曲など十数曲を披露した。
 ステージを所狭しと、時にしなやかに、時に力強く舞う情熱のパフォーマンスに、観衆からは「オーレ!」との称賛の掛け声と、喝采が送られた。
 12月4日に、台北市で行われた公演には、中国科技大学の唐彦博学長はじめ、多数の来賓が出席。唐学長は、「エネルギーあふれる最高の芸術でした。池田博士が強調される『文明の対話』を体現する出演者たちと、心の交流をした思いです」と感想を語った。
 同コンサートは、台湾4カ所で全8公演を行い、延べ1万2000人が鑑賞した。
 
韓国 日韓の伝統楽器が共演
韓国での民音派遣公演。日韓両国の演奏家の友情のハーモニーに盛大な拍手が送られた(ソウルの在大韓民国日本国大使館公報文化院で)​


 韓国の派遣公演は、12月3日にソウルの在大韓民国日本国大使館公報文化院で、4日に江南区民会館で開催された。
 
 箏の演奏家・伊藤江里菜氏や、韓国古来の弦楽器「カヤグム」の一流奏者であるJU BORA氏をはじめとする気鋭の女性演奏家5人が共演。コンサートでは、日韓両国の名曲をそれぞれの伝統楽器で演奏した。
 文化の共通性を表現し、心と心をつなぐ音楽の魅力を伝える工夫を凝らしたステージ。プログラムが進むにつれ会場は一体となり、フィナーレで、両国のアーティストが一緒に、日本の唱歌「さくらさくら」と、朝鮮半島を代表する民謡「アリラン」を奏でると、観客から惜しみない拍手が送られた。
 観客からは、「想像を超えるハーモニーの美しさに心が震えました」「両国の演奏家の調和のステージに明るい未来を見た思いがしました」等の声が寄せられた。



(2019年12月13日 聖教新聞)







最終更新日  2019.12.13 12:00:08
2019.11.26
カテゴリ:民音

​〈世界に魂を 心に翼を 民音が開いた文化の地平〉

第20回 世界バレエ・シリーズの金字塔 <中>
時代の“圧倒的先端”

ベルギー国立20世紀バレエ団による「春の祭典」。「世界バレエ・シリーズ」のアンコール公演となった(1978年5月、名古屋市民会館で)

 「驚くべき早さです。だって1960年代ですよ。民音が、圧倒的に時代の先端をいっていた」
 評論家の三浦雅士氏が、民音「世界バレエ・シリーズ」の軌跡をたどりつつ、言葉を継いだ。
 雑誌「ユリイカ」や「現代思想」で編集長を務め、文芸評論家として著名な三浦氏は、バレエへの造詣も深く、月刊「ダンスマガジン」を創刊するなど、舞踊評論の第一人者としても知られる。
 「当時、バレエといえば、やはりソ連ですから。最初にノボシビルスク・バレエ団を招いた。注目すべきは、その後の展開。もう水際立って鮮やか。あっという間に、ヨーロッパの中心に接近していった」
 民音がノボシビルスク・バレエ団(66年)に続いて招聘したのは、モーリス・ベジャール氏率いる「ベルギー国立20世紀バレエ団」。前者がバレエの本場・ソ連の“伝統”を象徴する一方で、後者はモダンバレエの“革新”の担い手であった。
 その後も民音は、アメリカン・バレエ・シアター、パリ・オペラ座バレエ団、ドイツのシュツットガルト・バレエ団、英国ロイヤル・バレエ団といった名門バレエ団の来日公演を、次々と実現させていく。
 「60年代後半、日本のバレエは、まだまだ“習いごと”の延長線上。海外のバレエ界について、今のような知識もないし、情報も簡単に入らない。欧州でも、ベジャールやクランコ(シュツットガルト・バレエ団)の実力を皆が知っていたわけではない。とにかく現地を歩き、耳学問でベジャールやクランコを呼ぼうと決めた。だからこそ世界バレエ・シリーズは、日本という島国にあって、20世紀後半の“バレエ史全体”を見渡せるプログラムになった」
                     ◇ ◆ ◇ 
 文豪ビクトル・ユゴーが“世界一美しい広場”と賛嘆した、ブリュッセルのグラン・プラス。そのほど近くに王立モネ劇場がたたずむ。
 66年4月、民音の秋谷専任理事と東京バレエ団の佐々木忠次氏が、同劇場を拠点とするベルギー国立20世紀バレエ団の公演に足を運んだ。そこには既成概念を根底から覆す、バレエの新たな地平が広がっていた。
 ベジャール氏は、豪華な舞台装置や衣装に重きを置くバレエ界に異を唱え、“人間の肉体に還れ”と訴えた。可能な限り装飾をなくし、“人類は皆、同じ”との信念のもと、普遍の人間性を舞台に追い求めた。
 同団の創立は60年。ベジャール氏の理想を求め、各国から有望な若手が集まり、短日月のうちに世界最高峰の実力を誇るようになった。
 ダンサーの約半数がベルギー以外の生まれで、東洋人の姿もあった。ソリストの出身国も、ブラジル、イラン、モロッコ、日本と多彩である。
 10年足らずで50以上のバレエを振り付けし、名声を定着させつつあったベジャール氏だが、当初、評価は二分し、観客がゼロの舞台さえあった。「私の好きなバレエはいつでも、次に創る作品である」「人は、自らの人生との闘いから退いた軍人であってはならない」(『モーリス・ベジャール自伝』前田允訳、劇書房)と、わが道を突き進んだ。
 モネ劇場での公演後、同団に民音の来日公演を持ち掛けたが、結果は門前払い。無理もない。彼らにとって、日本は“遠い島国”。民音も、いまだ創立3年に満たず、海外交流の実績は皆無に等しい。
 だが、ここで交渉を諦めるわけにはいかない。後日、佐々木氏が再び交渉を申し出た。その胸には「民音公演を通してつくられる肥やしが、日本バレエの土壌を育ててほしい」との思いが脈打っていた。
 だが再度の交渉も実を結ぶことはなく、帰国便の時間が迫ってきた。やむなく空港へ向かうと、そこには20世紀バレエ団の責任者が。手には来日公演の契約書が握られていた。
 いちずな情熱が扉を開く。のちに世界的なインプレサリオ(総合プロデューサー)として名を高める佐々木氏だが、三浦氏は、その原点が、この交渉にあったと指摘する。「何度も足を運び、“これで断ったら申し訳ない”と相手に思わせるまで人間関係を深める──佐々木さんが、こうしたスタンスを身に付けたのは、この時。民音が、その情熱に火を付け、佐々木さんを佐々木さんたらし
めた」
                     ◇ ◆ ◇ 
 「えっ、ここでバレエを?」
 会場を目にした来場者から、口々に驚きの声が。
 67年6月、千駄ケ谷の東京体育館には、見渡す限りの円形の舞台が設置されていた。幅24メートル。固定された“額縁”の舞台ではなく、張り出しの特設ステージである。縁に沿うように客席が置かれ、6日間で3万6000人が詰め掛けた。
 シェークスピアの悲恋物語である「ロメオとジュリエット」を、ベジャール氏は、人間の尊厳、愛と平和の勝利を歌い上げる、劇的な舞台へと一変させた。
前年(66年)に初演されたばかりの同作品では、モダンバレエの大地に、卓越したクラシックバレエの技術が溶け合っていた。
 東京、神戸、京都、大阪、愛知の5都市で、17日間の公演。どの会場もカーテンコールが鳴りやまない。大阪・中之島公演の最終日では、プログラムにない新演目も追加し、ベジャール氏自らも出演。充実のツアー成果に喜びを隠さなかった。
 同団が日本で披露したのは「春の祭典」「ボレロ」「ロメオとジュリエット」など。それが、なぜ、ここまで観衆の心を打ったのか──。
 三浦氏は、人間の“本質”を表現した舞台であったからだと語る。
 「踊るのは人間だけ。古来、狩りや漁、戦争など、人間が自身の生死を懸ける時、自らの生存を強く意識する時、人間は踊った。“鼓舞”という言葉も、“太鼓をたたいて舞う”と書く。生死こそが、人間の本質であり、舞踊の原点なのです。
 『白鳥の湖』は、人の生死を見つめる物語。『ジゼル』も『眠れる森の美女』もそう。能や歌舞伎といった邦舞も、良い作品はあの世とこの世との結び付きを映し出している。織田信長が舞った『敦盛』、ラグビーで注目されたハカなどの“ウォークライ”も、心を打つのは、人間の生死の哲学を表現した舞台。それは、いつの時代も変わらない。世界バレエ・シリーズは、各国を代表するバレエ団を一律に招いたのではなく、舞踊の本質に迫るものだけを呼んできてくれたのです」
 三浦氏は、こうも述べている。
 「はっきり言って、60年代の日本で、世界の最先端がどれほど理解されたかは分からない。でも民音は、“一番”を持ってきてくれた。何でも一番から知らなければ、正しい評価はできない。中途半端なものから観せてはだめなんです」
                     ◇ ◆ ◇  
 当時、ヨーロッパでは、クラシックバレエの人気に陰りが見え始めていたという。その理由を、ベジャール氏は、こう見ていた。
 “考えの奥にあるもの、思想の奥にあるものの価値が問われています”
 東洋も西洋も超えたバレエを目指し、彼は常々、バレエは単なる「舞踊」ではなく、「リット(儀式、祭典)」であると言った。皆が手を組み、人類を結んでいく──ここに、彼の夢見た芸術の理想像があった。
 自身が振り付けた「春の祭典」について、こう語っている。
 “春とは何か──。冬のマントの下に長い間眠っていたものが輝き出す「力」ではないだろうか。植物、動物、そして人間に至る万物が、大宇宙の中で生命を得た喜びを謳歌している。この春のような、永遠の生と死の賛歌の舞踊である”と。 
 来日の折、ベジャール氏は、創価学会の「文化祭」の映像を見る機会があった。青年たちが織り成す団結美、壮大な人文字に、思わず拍手を送る。降りしきる雨の中での「関西文化祭」(66年9月)の場面では、感嘆のため息を漏らした。
 優れた思想・哲学は、必ずや偉大な芸術を生む──民音創立者・池田先生の理念と、ベジャール氏の信念は深く共鳴していた。
 67年6月6日、東京体育館で20世紀バレエ団の公演を鑑賞した池田先生はベジャール氏と会見。その絶えざる自己錬磨をたたえた。
 来日公演のさなか、池田先生はダンサーの宇田川栄作さん、「ロメオとジュリエット」でジョルジュ・ドン氏と組んだ浅川仁美さんら、同団で活躍する日本人にも謝意を伝えている。「バレエの舞台はもちろん、人生の舞台の上でも生ききって、大きく躍動してほしい」。後年、ベルギーを訪れた際には、異国で奮闘する宇田川さんと再会を喜び合った。


 先生は、“文化の大使”である芸術家たちのさらなる飛躍を願いつつ、交流の充実へ心を砕いた。ある時、芸術交流への思いを、こう記している。
 「『一流』に触れさせたい。一流を見ていれば、二流・三流はすぐわかる。二流・三流を追っていては、どこまでいっても一流はわからない。一流の人物と接する。一流の音楽を聴く。一流の書物に親しむ。一流の美を鑑賞する。そこに、一流の人格も磨かれる」
 国内外の一流芸術を庶民の手に。世界バレエ・シリーズは、その民音の精神を象徴するものとなった。
 この67年6月には、今に続く指揮者コンクールも開幕。
 文化交流の旗手・民音の躍進が始まる。

(月1回の掲載予定)
(2019年11月26日 聖教新聞)








最終更新日  2019.11.26 17:30:06
2019.10.28
カテゴリ:民音

世界に魂を 心に翼を 民音が開いた文化の地平   第19回 

世界バレエ・シリーズの金字塔   <上 > 
​「ここから隆盛が始まった」 ​

ソ連のノボシビルスク・バレエ団の来日公演(1966年)③

 今から半世紀以上前、まだ創立間もない民音の公演が、「夢のような出来事」と列島を沸かせた。
 1966年から足かけ12年。東西の名門バレエ団を次々に招聘し、来日を実現させた「世界バレエ・シリーズ」(全193回公演)である。
 海外の名だたるオーケストラやバレエ団、歌劇場の来日公演で舞台制作を手掛け、数々の民音公演にも尽力してきた広渡勲氏(昭和音楽大学客員教授)は、こう証言する。
 「今では当たり前かもしれませんが、ダンサーや舞台装置をはじめ、団の全てを呼ぶ“引っ越し公演”を軌道に乗せたのは民音です。当時、バレリーナが単独で踊るイメージが強かったバレエを、舞台を含む総合芸術として広く紹介した。“バレエといえばソ連”という時代に、西側の国からも、そうそうたるバレエ団を招いた。戦後、日本のバレエの隆盛は、ここから始まったのです」
                    ◇ ◆ ◇ 
 横浜港の一角。船を待つ数十人の人だかりから歓声が上がった。
 66年9月7日。ソ連のノボシビルスク・バレエ団を乗せた客船「バイカル号」が入港し、団員が港に降り立つ。総勢100人。振り袖に身を包んだ役員が花束を手渡すと、団の総支配人が笑顔で応えた。
 「今回の公演を誇りに思っています。ベストを尽くして皆さんの期待に応えたい。
日本とソ連の交流に役立てるよう頑張ります」
 広大なロシアの中心、西シベリアに位置するノボシビルスクは、モスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐ第3の都市。第2次世界大戦中、同国の文化を保護するため、バレエやオペラが同都市に集められた。終戦直後にノボシビルスク・バレエ団が誕生し、ソ連を代表するバレエ団の一つに数えられていた。
 

来日したのは、T・ジミナー、R・クルペーニナといった人民芸術家ら、超一流の顔ぶれ。衣装や大小の道具も、ソ連随一の規模を誇るノボシビルスク劇場の一切が、そっくり運ばれてきた。同団にとっても、初の大掛かりな海外ツアーである。
 演目は、チャイコフスキーの名曲に彩られた「白鳥の湖」をはじめ、最高峰の技術を駆使した「海賊」、民族舞踊をふんだんに盛り込んだ鉱山の女王の恋物語「石の花」
など。
 舞台装置があまりに大きく、「上演は夢」とまでいわれた演目も再現され、「ソビエトのバレエを完全な形で観ることができる」と、バレエ界はノボシビルスク一色となった。
                    ◇ ◆ ◇  
 なぜ創立直後の民音に、こうした一大プロジェクトが可能だったか。
 世界バレエ・シリーズは、日本バレエの振興に尽力した、ある人物との語らいから生まれた。
 創立者・池田先生は、民音が始動した60年代、各国を歴訪する中で、一流の芸術団体を日本に呼ぶために奮闘していた。地理的な制約などにより、本物の西洋芸術に触れる機会が限られていた時代である。
 先生はバレエ・シリーズが始まる前年の65年10月にイタリアへ。同行した民音の秋谷専任理事(当時)がミラノのスカラ座に赴き、“ぜひ日本で公演を”と交渉した。
パリにも足を運び、現地の音楽団体と将来の交流について意見を交換している。
 “世界一流の芸術を日本へ”との構想に共鳴したのが、同じ頃に東京バレエ団を創立し、バレエ界の発展に心血を注ぐ佐々木忠次氏だった。
 当時、日本のバレエは「バレエ教室の延長上」の域を出ず、「舞台芸術としてのバレエ」とは、ほど遠いものだった。バレエ界の革新には本場の感動と迫力が欠かせない。
 佐々木氏に“世界のバレエ団を日本に呼んでいきたい”と相談を持ち掛けると、氏は各国のバレエ団の名を挙げ、「シベリアにも素晴らしいバレエ団がある」。日本ではまだ知られていないノボシビルスク・バレエ団の招聘を提案し、零下40度にもなる冬のシベリアに飛び、自ら来日交渉に当たった。
 氏は、一般大衆こそがバレエ界の後援者、審判者として発展のカギを握っていると強調。民音を「唯一の光明源」とたたえ、「今こそバレエ界の力を結集」と呼び掛けている。(「月刊みんおん」65年4月号)
 民音の熱意と、佐々木氏の“志”が意気投合し、歴史を画するバレエ・シリーズが産声を上げた。
                    ◇ ◆ ◇ 
 軽やかな跳躍、しなやかな手の動きは、湖水に浮かぶ白鳥そのもの。観客を瞬く間に詩情の世界へ誘う。
 ノボシビルスク・バレエ団の来日公演は、上野の東京文化会館を皮切りに、大阪、福岡、京都など、27ステージで大喝采を浴びた。前売り券は飛ぶように売れ、東京公演に北海道から申し込みがあったほど。どの地でも嵐のような拍手が起こり、何度もカーテンコールが繰り返された。
 本場の舞台を目にした感動は、それぞれの心に焼き付いて離れない。

 福岡在住の澤千恵佳さんは「軍艦島」で知られる長崎・端島(はしま)の出身。
 ある日、母が「2泊3日でバレエを観に行く」と言い出し、澤さんは驚いた。ノボシビルスク・バレエ団の福岡公演である。「バレエって、泊まりがけで行くほど素晴らしいものなんだ」と幼心に思った。
 やがて澤さんも、最寄りの長崎市での民音公演に足を運ぶように。しかし、フィナーレの前に会場を出ないと、島に戻る最終便に間に合わないため、何度も残念な思いをしてきた。後年、民音のバレエ公演を終演まで見届けることができ、「あの感激は忘れられません」と振り返る。

 東京・江戸川の大江敏夫さんは、板金職人として芸術とは無縁の生活を送ってきた。
 第2次世界大戦の末期、中立条約を破り、一方的に攻め込んできたソ連に良い印象はない。
 「鉄のカーテン」に覆われた“異国の文化”だったが、気付けば手が赤くなるほど拍手を送っていた。
 “池田先生が伝えたかったのは、この感動だったのか!”──長年のわだかまりが解け、以来、地道な文化交流に尽くしてきた。
 このノボシビルスク・バレエ団を筆頭に、先生は世界バレエ・シリーズに毎回のように足を運び、芸術家らに心からの感謝を伝えている。

 74年にはソ連に招待され、ボリショイ劇場でバレエを鑑賞。6回の訪ソの中で、全ソ民族舞踊アンサンブルやモスクワ児童音楽劇場の来日公演を実現するなど、同国を代表する芸術団体を招聘し、交流は今に続く。
 先生は“人類共通の宝である最高の音楽芸術を民衆の手に届くものに──この願いが民音創立の原点である”と後に綴っている。同シリーズの成功へ尽力を惜しまなかった。
                    ◇ ◆ ◇ 
 海外からバレエ団を招聘する一方で、民音は、日本のバレエ団の公演にも力を尽くす。
 64年に発足した東京バレエ団の公演は、やがて年50回を超え、地方会場でも数多く行われた。
 この64年は、東京オリンピックが開かれ、東海道新幹線が開通した年。経済大国へと急速な発展を遂げる中、舞踊家の育成は遅れたままだった。
 海外招聘とともに、日本中にバレエ芸術を届け、本格的なバレエを育む──民音は、国内外の両面からバレエに光を注いだ。
 当時、同団でプリマバレリーナとして活躍していた鈴木光代氏は、民音公演における観衆の熱意が、ひときわ思い出深いという。
 北は小樽(おたる)や室蘭(むろらん)、南は別府(べっぷ)や延岡など、大都市以外の公演も活況だった。会場によっては舞台が狭く、演出の調整を余儀なくされた。
 初めてバレエを観る人も多い。仕事着での来場者も目に付いた。鈴木氏は「ここで拍手をもらえるというタイミングに拍手がなく、気落ちしたこともありました」と懐かしむ。
 翌年、同じ都市で再演した折、拍手のタイミングが見事にそろっていたことに、胸を熱くした。
 実はこの時、氏は母を介護しながら舞台に臨んでいた。介護は14年に及んでいる。
“いつ舞台で倒れても本望だ”──その熱意を受け止めてくれる観客の存在がうれしかった。
 民音主催の東京バレエ団公演は、通算400回以上に及ぶ。
 学校コンサートの第1回では、同団の公演が開催される(北海道士別市)など、次世代にも光を届けた。
                    ◇ ◆ ◇ 
 「それまで日本には観客がいなかった。“三角形の一角”が欠けていたんです」と、広渡氏は総括する。
 「劇場芸術は、出演者、観客、劇場の三つが三角形となって、初めて成立するものです。良い観客がいないと芸術家は育たない。真剣に応援してくれる観客が不可欠です。客層も民音から始まり、一般へと広がっていきました。やがて政府の支援なども始まりましたが、民音の取り組みは時代を画する出来事でした」
 66年のノボシビルスク・バレエ団に次いで、翌67年には“鬼才”モーリス・ベジャール率いるベルギー国立20世紀バレエ団が来日。
 東西最高峰の競演が、日本のバレエ界に新時代の到来を告げる。(月1回の掲載予定)


(2019年10月28日  聖教新聞)







最終更新日  2019.10.28 22:52:55
2019.10.18
カテゴリ:民音

社説  きょう「民音創立記念日」  

​芸術文化を育む主役は“私”​


 きょう18日は、民主音楽協会(民音)の創立記念日である。


 1961年(昭和36年)2月、創立者の池田大作先生は、アジア歴訪の折、民衆の相互理解を促す芸術・文化交流の推進を目的とした団体の設立を構想。2年半後の63年(同38年)10月18日、民音が創立され、記念演奏会が開かれた。


 なぜ、民音には「民主」という名が付いたのか――。実は、当初の検討段階では、名称を「民衆音楽協会」とする意見も出ていた。その中で、“音楽・芸術を育成していく主役が民衆なのだから”と、「民主」との命名を提案したのは、ほかならぬ創立者であった。


 本紙では今、民音の軌跡をたどる企画「世界に魂を 心に翼を」を連載しており、本年は6回にわたり沖縄芸能を特集した。改めて驚いたのは、“民音なくして今の沖縄芸能はない”との、現地の関係者たちの証言である。


 沖縄には戦後、存続の危機に陥った「琉球芸能」と、各島で伝承されてきた「民俗芸能」があった。今から50年前、民音は「沖縄歌舞団」を結成し、これらの伝統芸能を融合し舞台化。その後、アジア諸国との交易で栄えた琉球時代に光を当てた、沖縄初の本格的なミュージカル「大航海」なども企画した。



 「今の私は、歌舞団の中で育てられたようなものです」と振り返るのは、玉城流二代目家元の玉城秀子氏。重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者である。そもそも当時の芸能家には、プロとして大舞台に立つ機会が少なかった。戦争と抑圧の歴史の中で、沖縄の伝統文化に引け目を感じることもあった。


 「今は次々に沖縄の芸能が発信されて、世界中で注目を集めていますが、原点はここ。本土の人にとって、沖縄がまだよく分からない時代に民音が取り上げてくれた。私たちは誇りが持てたんです」
 何より、当時の出演者たちの記憶に鮮明なのは、民音の観客の“温かさ”である。ステージ上だけでなく、公演後のロビーでも真心の声援を受けた。観客と握手し、心を通わす中で、芸の質が日に日に高まる手応えを感じたという。



 民音公演の脚本・演出を手掛けた、沖縄芸能研究の第一人者・三隅治雄氏は語る。「長い歴史から見て、いかに沖縄の文化を発展させ、人々の幸せを築いていくか。そこまで思いをはせ、公演を支えてくれるのが民音の皆さんです。その源流は、創立者の思想なのでしょう」


 民音創立時のスローガンの一つに、「新しい民衆音楽を創造し、これを育成する」とある。その主役は、支える側の“私たち”――この「民主」の精神を胸に、今後も民音の挑戦を応援したい。


(2019年10月18日 聖教新聞 社説)


一般財団法人 民主音楽協会
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最終更新日  2019.10.18 12:00:05
2019.10.17
カテゴリ:民音

​​あす10・18「民音創立の日」音楽の力で平和構築を

 民主音楽協会(民音)が、あす10月18日に創立記念日を迎える。ここでは、民音のこれまでの歩みとともに、発足5周年となる民音音楽博物館付属研究所(民音研究所)のオリビエ・ウルバン所長の声を紹介する。

 “音楽交流こそ、世界中の人々の心を結び、平和建設の一助となる”――創立者・池田大作先生の理念のもと、民音が世界平和を目指して船出したのは1963年(昭和38年)10月18日のこと。
 民音による初の記念演奏会が東京・文京公会堂で開催され、この日が創立記念日となった。コンサートの開幕を飾ったのは、アメリカのマーチ「錨を上げて」。アンサンブルや合唱曲のほか、「『軽騎兵』序曲」や行進曲「旧友」が会場に響いた。

 当時は、インターネット等で自由に音楽を楽しむことなどできなかった時代。歌謡曲やポップスは親しまれていたものの、クラシックやオペラの鑑賞券は高価で、庶民には縁遠いものであった。
 そんな中、池田先生は「庶民が“下駄履き”で行けるコンサートをつくろうよ!」と提案。民音は、推進委員や賛助会員の支援などによって、比較的安価で、あらゆるジャンルの演奏会を各地で開催してきた。
 これまで開いたコンサートは、じつに8万回を数える。その中には、ミラノ・スカラ座やアルゼンチン・タンゴ界の巨匠の日本公演など数多くの舞台が、音楽史に燦然たる足跡を刻んでいる。
 一方、民音は創立当初から各種コンクールを実施。半世紀以上の歴史を誇る「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」は、世界的な指揮者の登竜門として定評がある。
 2014年には、「民音研究所」を発足。「音楽の力」が平和創出に貢献する可能性について、多角的・学際的に調査・研究を行い、国際学会等で、創立者の理念を広く発信している。

民音研究所・ウルバン所長
創立者の理念を広く世界へ

 民音研究所が発足して5周年を迎えます。
 私たちは、創立者・池田先生の理念のもと、半世紀以上にわたって音楽活動を続けてきた民音の実績や蓄積を基礎として、平和を創出する「音楽の力」の可能性を学術的に探求してきました。
 2016年には、著名な学術出版社テイラー・アンド・フランシスグルーブが発行する『平和教育ジャーナル』が特集の中で民音研究所の研究成果を掲載。池田先生の言葉を引用し、“音楽は平和を構築し得るもの”という新たな音楽の価値の提唱に、多くの反響がありました。

 以来、ベネズエラ発祥の音楽教育「エル・システマ」や「音楽セラピー」「音楽とエコロジー」「人権と音楽」などをテーマに、4人の研究員が平和構築における音楽に関連する事例を研究調査。まとめた論文を、世界3大音楽学会といわれる「国際音楽学会(IMS)」「民族音楽学会(SEM)」「国際伝統音楽学会(ICTM)」などで発表してきました。

 また、その中で知り合った平和学者や音楽学者が私たちの研究に深く共感。クイーンズ大学ベルファストのフィオナ・マゴワン教授、「国境なきミュージシャン」の創設者ローラ・ハスラー氏は、わざわざ来日して民音研究所の年次報告会で基調講演を行っていただきました。
 そうした交流の中で、自らの研究内容に「平和」や「音楽」の観点を取り入れる学者も誕生しています。音楽活動という枠を超えて多彩な分野の人々に、先生の思想を伝える使命を実感しています。
 世界平和を実現しゆく「音楽の力」を証明するため、これからもさらなる研究を重ねてまいります。​​


(2019年10月17日 聖教新聞)

一般財団法人 民主音楽協会







最終更新日  2019.10.17 13:39:44
2019.08.01
カテゴリ:民音
民音音楽ライブラリーが誕生45周年  

貴重な楽譜やレコードなど30万点以上を所蔵 
 

全国誰でも利用できる日本最大級の資料館




民音創立者の池田先生が、開館したばかりの民音文化センターを初訪問。芳名録に「祈 世界一の発展」「祈 芸術運動の先駆」「祈 人間文化の夜明け」と記した(1997年9月)



 創立者・池田先生の“音楽文化を民衆の手に”との理念のもと、110カ国・地域の音楽芸術を日本に伝えてきた民主音楽協会(民音)。本年は、東京・信濃町の「民音音楽博物館」(民音文化センター内)の前身である「民音音楽資料館」の誕生から45周年である。ここでは、音楽資料の宝庫として親しまれる民音音楽博物館の「音楽ライブラリー」の歩みとともに、利用してきた3人の識者の声を紹介する。


 民音は1963年(昭和38年)の創立以来、“音楽で世界中の人々の心を結び、平和建設の一助に”との信念で、各国の音楽文化を発信してきた。世界の一流アーティストを招へいしてのコンサートをはじめ、海外派遣公演や学校コンサート、科学的見地からの音楽の力の研究など、その活動は多岐にわたる。


 その中にあって、民音音楽博物館は、古典ピアノや自動演奏楽器の保管とともに、音楽資料を貸し出す「音楽ライブラリー」の運営・資料調達などを担う。


 この音楽ライブラリーが行う音楽資料の貸し出しが始まったのは、74年(同49年)11月18日の「民音音楽資料館」の誕生にさかのぼる。


 クラシック音楽の楽譜やレコードといった音楽資料を貸し出す機関は極めて少なく、音楽大学の図書館などの専門施設がほとんどの時代にあって、民音創立10周年事業の一環として開設された音楽資料館は、誰もが利用できる“民衆に開かれた施設”であった。


 その準備は、手探り状態から始まった。 


 永続的に資料集めができるのか、資料を管理する司書を育て続けられるか、管理スペースは恒久的に確保できるか……。課題は山積していた。


 そうした中、NHK資料センター長やNHK交響楽団常務理事などを務めた音楽情報学の第一人者・小川昻氏を招いて、準備委員会を発足。一つ一つの課題に対し、真剣に討議を重ねた。 
 


 当時、小川氏は語っている。「資料はね、足で稼ぐものですよ」 


 その言葉の通り、大きなリュックサックを背にした準備委員たちは、地図を手に北海道から九州まで古本屋を回り、収集に取り組んだ。


 こうして集められた資料は、音楽書が3500冊、楽譜7000点、レコード等の録音資料が20000枚。当初の収集目標を大幅に上回り、東京・北新宿の民音会館(当時)内にオープンした。


 開設から9日後の74年11月27日には、池田先生が音楽資料館を訪れ、小川氏に感謝。また書庫や閲覧室などを視察し、「新たな音楽・芸術の発信基地たれ」との指針を贈った。


 以来、海外交流の広がりに伴い、古典ピアノや民族楽器など各国の貴重な楽器や著名な音楽家の楽譜なども収蔵するようになっていく。


 その間も、池田先生は折に触れて足を運び、さまざまな角度から指標を示してきた。 


 「楽器なんだから、来た人には必ず音色を聴かせてあげたい」 


 「30年、40年たったら、世界中から芸術家や学者が来るようになります。今のうちにしっかり勉強しておいてください」


 そうした心を受け、音楽資料館は、来館する人々に“音楽の魅力”を伝える施設へと発展してきた。
 2003年(平成15年)には、音楽資料館が東京都の登録博物館の認可を受け、翌年に「民音音楽博物館」と改称。現在、所蔵する資料は30万点を超え、民間では日本最大級の音楽資料を誇る。


パリ・ディドロ大学(パリ第七大学)助教 鈴木聖子氏


●芸術の力伝える情熱に感動


 「近代日本音楽芸能史」や「音楽芸能の文化資源学」を専門に、雅楽の研究をしています。私自身、雅楽の演奏家でしたが、“録音技術もない1200年以上も昔の音楽が、なぜ変わらずに今に伝えられているのか”との疑問をきっかけに、学問の道に入りました。


 研究を進めるに当たり、疑問を解く鍵となる田辺尚雄という人物にたどり着きました。田辺氏は、大正時代から昭和初期にかけて、日本で初めて進化論の視点から日本音楽史を編さんした人です。


 民音音楽博物館の音楽ライブラリーには、その田辺氏にまつわる貴重な資料が収められています。明治末期から第2次世界大戦後まで書き続けた日記や、日本各地から田辺氏に宛てた手紙など、その数は膨大です。


 私は、それらの資料も含めて研究を進め、本年1月に『〈雅楽〉の誕生――田辺尚雄が見た大東亜の響き』を出版することができました。執筆に当たって、民音の学芸員の方々には、資料の閲覧をはじめとしたご協力をいただき、感謝の思いは尽きません。


 私は、過去の貴重な資料は“今を生きる人に新たな発見や情熱を与えてくれるもの”だと思います。それを感じた一つの出来事は、2014年に民音音楽博物館で行われた田辺氏に関する企画展示でした。膨大な資料をもとにまとめた足跡の年表や丁寧に要約・分類された氏への書簡などから、氏の生きた証しを伝えようとする民音の情熱を感じるとともに、氏の魅力に改めて気付かせていただきました。当時の感動は、今も忘れられません。


 民音は、これまでも民族音楽学者・小泉文夫氏をはじめ、世界的に著名な研究者と共同で“音楽の力”を探究してきた重要な機関です。そうした歴史を、貴重な資料とともに、未来に伝え残してもらいたいと、願ってやみません。


チェロ奏者(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団) 鈴木龍一氏


●“民衆と共に”の理念に共感


 民音音楽資料館を初めて利用したのは、中学1年の時でした。部活動で音楽部に所属しており、年に2回開催する発表会で演奏する楽曲を決める目的で、民音に通っていました。


 当時は限られた部費の中で、どの楽譜を購入するか、それはそれは悩みました。そのため、自分たちの演奏技術に見合う楽曲を、民音に行って実際に楽譜を見て、音源を聴いて探したのです。


 チェロ奏者となった今も、利用させていただいています。


 演奏家にとって、楽譜の存在は極めて大きいものです。特にクラシックの場合、楽譜は作曲家の真意に迫ることができる最大のツールであり、楽譜がなければ何も始まりません。その楽譜が永続的に収集され、大切に保管され続けていることは、音楽を守っていくことに直結すると思います。こうした施設を日本全国の誰もが利用できる点こそ、ほかにはない民音音楽博物館の魅力ではないでしょうか。


 また、民音音楽博物館には、楽譜だけでなく、モーツァルトやベートーベンが活躍していた時代の古典ピアノが所蔵されています。しかも“生の音”を聴くことができるため、当時の作曲家たちを知る新たなきっかけになると思っています。さらに特筆すべきは、小澤征爾氏をはじめとした名だたる音楽家を育てた齋藤秀雄先生のピアノが、寄贈・展示されていることです。その事実が、民音音楽博物館の存在感をいっそう大きくしていると感じてなりません。


 そのほか、民音は「学校コンサート」や「東北希望コンサート」など、演奏家が聴衆のもとへ足を運んで音楽を届ける取り組みを活発に行っています。そこにこそ、“音楽文化を民衆の手に”との理念が脈打っていると思います。


 今後も、そうした活動をさらに広げ、「音楽の可能性」を未来に示していただきたいと、心から願っています。


有限会社レグルス 代表 吉岡永二氏


●演奏史に残る“宝”がここに


 私は、中世・ルネサンス・バロック期の古楽や、20世紀のピアノ作品などのクラシック音楽のCD制作・販売をする会社を営んでいます。20年前に起業するまでは、外資系のレコード会社に勤め、録音や営業などを行っていました。


 今では、レコードで音楽を聴く人はほとんどいないので、長年、携わってきた私としては、少し寂しい思いがあります。しかし、民音音楽博物館に行くと、ほっとするのです。古い蓄音機など、レコード時代の貴重な品々を見ることができ、懐かしい思い出がよみがえってくるからです。


 私は、起業したての頃、民音にお世話になったことがあります。


 大手レコード会社と共同で、1960年代から70年代に録音されたクラシック音楽の人気100タイトルのレコードを、CDとして復刻する仕事をした時のことでした。


 初回盤のレコードのジャケットデザイン、曲の解説も含めて、忠実に再現しようと取り組んでいたのですが、肝心のレコードが制作したヨーロッパの会社にも残っていなかったのです。必死に探す中、見つけたのが民音音楽資料館でした。100タイトル中、約半分が資料館に保管されていたと記憶しています。


 クラシック演奏史に残る“宝”が失われることなく、大切に保存されていることを肌で実感しました。


 名称が変わり、民音音楽博物館となった今でも、レコードのみならず、蓄音機や自動演奏楽器、民族楽器などが保存されています。


 時代の変化とともに、音楽を取り巻く環境は変わります。録音・再生技術は日進月歩ですし、人の好みも多様化しています。その上で民音は、愛されてきた音楽を、当時の趣や思い出と一緒にとどめる役割を担っておられる。まさに、「音楽・芸術の発信基地」であると思っています。


(2019年8月1日 聖教新聞)

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最終更新日  2019.08.03 21:36:26
2019.07.23
カテゴリ:民音

世界に魂を 心に翼を 
民音が開いた文化の地平
第18回 「命どぅ宝」の響き 下 ​


「平和と芸術の世紀」へ

民音創立者の池田先生は、沖縄訪問のたび、人々の中に飛び込み、舞や歌を共にしてきた。沖縄コンベンションセンターでの「世界青年平和大文化総会」では、4,500人の青年とカチャーシーを(2000年2月5日)



 新聞を開くと、紙面全体に広がる公演写真が飛び込んできた。「音楽で世界結ぶ」と見出しが躍る。


 2003年12月2日。沖縄タイムスに民音創立40周年を記念する大型特集が掲載された。


 見開き4ページに、沖縄芸能の発展に尽くした民音の軌跡をたたえる声や、間近に迫った中国・広東雑技団公演、民音音楽資料館(現・民音音楽博物館)の魅力などが紹介されている。沖縄への海外招聘の年表には、50を超える芸術団体やアーティストがずらりと並び、歴史の重みを伝えていた。


 最終面に掲載されたのは、民音創立者・池田先生の寄稿「平和と芸術――沖縄の心を讃う」である。


 「池田先生から、これほど長文の寄稿文を頂けるとは思っていませんでした。沖縄に対する思いの深さに驚いたのを覚えています」
 そう振り返るのは、特集の担当記者だった外間尹敏氏。東京の民音文化センターで取材した帰路、受け取った原稿に機中で目を走らせた。

「私たち以上に沖縄のことを良く知っておられる。そう強く感じました」


 寄稿では、時に傲慢な権力への批判となり、時に不毛な戦争への嘆きとなって、苦難と戦う民衆を鼓舞してきた島唄や舞踊の魅力を通し、沖縄の芸術に宿る「いかなる試練にも負けない生命の力」「太陽のように朗らかな強さ」に言及。

「日本のどこに、これほどまでに、生活と歌が一体となっている、明るい芸術の都があろうか」と述べ、「沖縄の心」に迫っている。


 沖縄では、家屋の一番大切な場所である「床の間」に、三線を飾る伝統がある。戦時下、人々は先祖の位牌と三線を抱き締め、火の海を逃げ回った。戦後の混乱の中で、空き缶を利用して“カンカラ三線”を作り、歌と舞で明日を切り開いてきた。


 そうした伝統に触れながら、先生は寄稿に記した。


 「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」


 外間氏は民音公演で来日する広東雑技団や韓流ミュージカル「GAMBLER」の現地取材にも同行している。「反日」が騒がれていた折だったが、人と人が触れ合う文化交流の場に、そうした軋轢はなかった。


 「寄稿で特に心に残ったのは、“文化は地味かもしれない。しかし、人間の心の奥深くまで照らし、平和と繁栄の方向へ、歴史変革の確かなる潮流を形づくっていく”という部分です。銃ではなく、三線で平和をつくる。沖縄には、そうした文化の力がある。それを池田先生がおっしゃるわけですから、重みがあります。ウチナーンチュ(沖縄人)として、うれしく思いました」


                    ◇ ◆ ◇ 

 
 寄稿が掲載された朝、桃原正義さん(学会の総沖縄長)は、涙をこらえ、感動をかみ締めていた。
 この「12月2日」は、1964年、池田先生が沖縄の地で、畢生の大著である小説『人間革命』を起稿した日であった。冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」とある。


 寄稿では、同書の執筆を沖縄で開始したことにも触れていた。長年の夢である沖縄訪問を果たしたゴルバチョフ氏(旧ソ連元大統領)との再会を通し、沖縄を見つめての氏との語らいも、「心を変え、心を結ぶことで時代は変えられる」との視座を共有するものであったとつづっている。


 外間氏は「原稿を受け取って初めて、那覇で『人間革命』の筆を起こされたことを知りました。先生は、よほど沖縄を強く意識されていたのでしょうね」と追想する。


 池田先生の沖縄訪問は、本土復帰前だけで6回、計17回に及ぶ。民音の関係者に対しても、沖縄の人々の力、喜びとなる文化交流をと期待を語ってきた。桃原さんは沖縄民音の創立公演(65年)に携わって以来、沖縄芸能を初めて舞台化した「沖縄歌舞団」公演(69年)など、その活動を草創から支えてきた。


 「72年の本土復帰前後、沖縄には大変な葛藤がありましたが、先生は一貫して沖縄の平和の使命を教えてくださいました。『人間革命』も他のどの場所でもなく、ここ沖縄を起稿の地に選ばれ、“あなたたちの悲願が喚起せしめた執筆”とまで言ってくださった。時をへるごとに、沖縄の偉大な使命が胸に迫ります」

 恩納村にある学会の沖縄研修道場は、かつての核ミサイル発射台が、池田先生の提案で「世界平和の碑」へと生まれ変わった場所である。沖縄テレビでは、これまで数度にわたって民音の特集番組が放映されてきたが、その中には民音公演で沖縄を訪れた折、研修道場を訪問するアーティストの姿も映し出されていた。


 沖縄を中心とする8カ国・地域の芸術団が一堂に会した「アジア平和芸能フェスティバル」(99年)の際には、公演後、出演者らが沖縄研修道場へ。ベトナムの民族芸術団団長は、こう感慨をこめた。

「ベトナム戦争の時は、沖縄から米軍が出撃しました。今、沖縄が平和と文化の地となっているのは、池田先生の貢献が大きいと感じられてなりません」


 民音公演で来日するアーティストの中には、創立者の平和思想を学び深めたいと、小説『人間革命』等を読み込んで来日する人も少なくない。


 沖縄テレビの同番組で、大嶺哲雄氏(沖縄大学名誉教授)が小説『人間革命』について語っている。


 「沖縄の平和への願いを、よくあれだけの形にされた。皆、それぞれに戦争の悲惨さを感じていますが、書きたくても書けない。それを見事に、日本のみならず、世界に伝える流れをつくられたことに敬服します」
                    

                   ◇ ◆ ◇ 


 沖縄に強い関心を抱いてきた一人が、ブラジルのアマラウ・ビエイラ氏である。


 同国最高峰の作曲家であり、世界的なピアニストである氏は、池田先生の人間革命の哲学に、「長い間、自分が考え、求めてきた“言葉にならなかった理想”」「生命の価値を最大に高めゆくメッセージ」と、深い共感を寄せてきた。


 小説『人間革命』の最終回が本紙に掲載された93年2月11日。ブラジルを訪問中だった池田先生に、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号が授与された。席上、祝賀演奏を披露したのがビエイラ氏である。


 このブラジル訪問には、沖縄の友も同行していた。ビエイラ氏との懇談の折、その友が、小説『人間革命』が沖縄で起稿されたこと、授与式の演奏が『人間革命』の完結を祝する演奏ともなったことを伝えると、氏は感嘆のため息をついた。「ぜひ沖縄へ行きたい。皆さんの平和を熱望する思いは、私の心でもあります」


 ――95年4月15日、民音のピアノリサイタルで来日したビエイラ氏は、沖縄公演の合間を縫って、念願だった沖縄研修道場を訪れている。


 「世界平和の碑」に生まれ変わった核ミサイル発射台の前に立ち、胸に手を当て、そっと目を閉じる。


 頬をなでる爽やかな海風。静かに時が流れていく。


 5分、10分……。ビエイラ氏は微動だにしない。


 民音の同行者が、ちらりと腕時計を見る。宮古島、石垣島、那覇とステージを重ね、この日は名護の会場に向かう途中だった。時間がない。


 「公演があります。もう行かないといけません」。移動を促すが、氏は動かない。
 「この場所から、池田先生の平和への思いが、ものすごいエネルギーで私を包んでくるのです。まだ離れられません。もう少しだけ、いさせてください」――常に笑顔を絶やさない氏が見せた真剣な表情に、同行のスタッフが息をのんだ。


 氏は池田先生の思想を主題として、これまで数多くの楽曲を手掛けてきた。2007年にフランスのエピナル市から依頼を受けて制作した協奏曲は、「新・人間革命」と名付けている。


 ビエイラ氏が先生に贈った作品は17に上り、その中にはサンパウロ芸術評論家協会の「交響曲大賞」や「最優秀室内楽大賞」を受賞した楽曲もある。


                    ◇ ◆ ◇ 


 池田先生は沖縄タイムスへの寄稿を次の一文で結んだ。それはまた、平和と芸術の都を基点とし、世界のアーティストに受け継がれゆく「命どぅ宝」の精神にほかならない。


 「『戦争と暴力の世紀』から『平和と芸術の世紀』へ――。その挑戦を、『沖縄の心』に学びながら、断固として進めていきたい。それが、私の願いであり、決意である」
 (月1回の掲載予定)


(2019年7月23日  聖教新聞)  







最終更新日  2019.07.25 23:10:04
カテゴリ:民音
世界に魂を 心に翼を 

民音が開いた文化の地平


第18回 「命どぅ宝」の響き​ 下 


「平和と芸術の世紀」へ

民音創立者の池田先生は、沖縄訪問のたび、人々の中に飛び込み、舞や歌を共にしてきた。沖縄コンベンションセンターでの「世界青年平和大文化総会」では、4,500人の青年とカチャーシーを(2000年2月5日)



 新聞を開くと、紙面全体に広がる公演写真が飛び込んできた。「音楽で世界結ぶ」と見出しが躍る。


 2003年12月2日。沖縄タイムスに民音創立40周年を記念する大型特集が掲載された。


 見開き4ページに、沖縄芸能の発展に尽くした民音の軌跡をたたえる声や、間近に迫った中国・広東雑技団公演、民音音楽資料館(現・民音音楽博物館)の魅力などが紹介されている。沖縄への海外招聘の年表には、50を超える芸術団体やアーティストがずらりと並び、歴史の重みを伝えていた。


 最終面に掲載されたのは、民音創立者・池田先生の寄稿「平和と芸術――沖縄の心を讃う」である。


 「池田先生から、これほど長文の寄稿文を頂けるとは思っていませんでした。沖縄に対する思いの深さに驚いたのを覚えています」
 そう振り返るのは、特集の担当記者だった外間尹敏氏。東京の民音文化センターで取材した帰路、受け取った原稿に機中で目を走らせた。「私たち以上に沖縄のことを良く知っておられる。そう強く感じました」


 寄稿では、時に傲慢な権力への批判となり、時に不毛な戦争への嘆きとなって、苦難と戦う民衆を鼓舞してきた島唄や舞踊の魅力を通し、沖縄の芸術に宿る「いかなる試練にも負けない生命の力」「太陽のように朗らかな強さ」に言及。

「日本のどこに、これほどまでに、生活と歌が一体となっている、明るい芸術の都があろうか」と述べ、「沖縄の心」に迫っている。


 沖縄では、家屋の一番大切な場所である「床の間」に、三線を飾る伝統がある。戦時下、人々は先祖の位牌と三線を抱き締め、火の海を逃げ回った。戦後の混乱の中で、空き缶を利用して“カンカラ三線”を作り、歌と舞で明日を切り開いてきた。


 そうした伝統に触れながら、先生は寄稿に記した。


 「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」


 外間氏は民音公演で来日する広東雑技団や韓流ミュージカル「GAMBLER」の現地取材にも同行している。「反日」が騒がれていた折だったが、人と人が触れ合う文化交流の場に、そうした軋轢はなかった。
 

「寄稿で特に心に残ったのは、“文化は地味かもしれない。しかし、人間の心の奥深くまで照らし、平和と繁栄の方向へ、歴史変革の確かなる潮流を形づくっていく”という部分です。銃ではなく、三線で平和をつくる。沖縄には、そうした文化の力がある。それを池田先生がおっしゃるわけですから、重みがあります。ウチナーンチュ(沖縄人)として、うれしく思いました」
 

                  ◇ ◆ ◇

 寄稿が掲載された朝、桃原正義さん(学会の総沖縄長)は、涙をこらえ、感動をかみ締めていた。


 この「12月2日」は、19644年、池田先生が沖縄の地で、畢生の大著である小説『人間革命』を起稿した日であった。冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」とある。


 寄稿では、同書の執筆を沖縄で開始したことにも触れていた。長年の夢である沖縄訪問を果たしたゴルバチョフ氏(旧ソ連元大統領)との再会を通し、沖縄を見つめての氏との語らいも、「心を変え、心を結ぶことで時代は変えられる」との視座を共有するものであったとつづっている。


 外間氏は「原稿を受け取って初めて、那覇で『人間革命』の筆を起こされたことを知りました。先生は、よほど沖縄を強く意識されていたのでしょうね」と追想する。


 池田先生の沖縄訪問は、本土復帰前だけで6回、計17回に及ぶ。民音の関係者に対しても、沖縄の人々の力、喜びとなる文化交流をと期待を語ってきた。桃原さんは沖縄民音の創立公演(65年)に携わって以来、沖縄芸能を初めて舞台化した「沖縄歌舞団」公演(69年)など、その活動を草創から支えてきた。


 「72年の本土復帰前後、沖縄には大変な葛藤がありましたが、先生は一貫して沖縄の平和の使命を教えてくださいました。『人間革命』も他のどの場所でもなく、ここ沖縄を起稿の地に選ばれ、“あなたたちの悲願が喚起せしめた執筆”とまで言ってくださった。時をへるごとに、沖縄の偉大な使命が胸に迫ります」

 恩納村にある学会の沖縄研修道場は、かつての核ミサイル発射台が、池田先生の提案で「世界平和の碑」へと生まれ変わった場所である。沖縄テレビでは、これまで数度にわたって民音の特集番組が放映されてきたが、その中には民音公演で沖縄を訪れた折、研修道場を訪問するアーティストの姿も映し出されていた。


 沖縄を中心とする8カ国・地域の芸術団が一堂に会した「アジア平和芸能フェスティバル」(99年)の際には、公演後、出演者らが沖縄研修道場へ。ベトナムの民族芸術団団長は、こう感慨をこめた。


 「ベトナム戦争の時は、沖縄から米軍が出撃しました。今、沖縄が平和と文化の地となっているのは、池田先生の貢献が大きいと感じられてなりません」


 民音公演で来日するアーティストの中には、創立者の平和思想を学び深めたいと、小説『人間革命』等を読み込んで来日する人も少なくない。


 沖縄テレビの同番組で、大嶺哲雄氏(沖縄大学名誉教授)が小説『人間革命』について語っている。


 「沖縄の平和への願いを、よくあれだけの形にされた。皆、それぞれに戦争の悲惨さを感じていますが、書きたくても書けない。それを見事に、日本のみならず、世界に伝える流れをつくられたことに敬服します」
                    ◇ ◆ ◇

 沖縄に強い関心を抱いてきた一人が、ブラジルのアマラウ・ビエイラ氏である。

 同国最高峰の作曲家であり、世界的なピアニストである氏は、池田先生の人間革命の哲学に、「長い間、自分が考え、求めてきた“言葉にならなかった理想”」「生命の価値を最大に高めゆくメッセージ」と、深い共感を寄せてきた。


 小説『人間革命』の最終回が本紙に掲載された93年2月11日。ブラジルを訪問中だった池田先生に、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号が授与された。席上、祝賀演奏を披露したのがビエイラ氏である。


 このブラジル訪問には、沖縄の友も同行していた。ビエイラ氏との懇談の折、その友が、小説『人間革命』が沖縄で起稿されたこと、授与式の演奏が『人間革命』の完結を祝する演奏ともなったことを伝えると、氏は感嘆のため息をついた。


 「ぜひ沖縄へ行きたい。皆さんの平和を熱望する思いは、私の心でもあります」

 ――95年4月15日、民音のピアノリサイタルで来日したビエイラ氏は、沖縄公演の合間を縫って、念願だった沖縄研修道場を訪れている。


 「世界平和の碑」に生まれ変わった核ミサイル発射台の前に立ち、胸に手を当て、そっと目を閉じる。


 頬をなでる爽やかな海風。静かに時が流れていく。


 5分、10分……。ビエイラ氏は微動だにしない。


 民音の同行者が、ちらりと腕時計を見る。宮古島、石垣島、那覇とステージを重ね、この日は名護の会場に向かう途中だった。時間がない。


 「公演があります。もう行かないといけません」。移動を促すが、氏は動かない。


 「この場所から、池田先生の平和への思いが、ものすごいエネルギーで私を包んでくるのです。まだ離れられません。もう少しだけ、いさせてください」――常に笑顔を絶やさない氏が見せた真剣な表情に、同行のスタッフが息をのんだ。


 氏は池田先生の思想を主題として、これまで数多くの楽曲を手掛けてきた。2007年にフランスのエピナル市から依頼を受けて制作した協奏曲は、「新・人間革命」と名付けている。


 ビエイラ氏が先生に贈った作品は17に上り、その中にはサンパウロ芸術評論家協会の「交響曲大賞」や「最優秀室内楽大賞」を受賞した楽曲もある。
 

                   ◇ ◆ ◇ 


 池田先生は沖縄タイムスへの寄稿を次の一文で結んだ。それはまた、平和と芸術の都を基点とし、世界のアーティストに受け継がれゆく「命どぅ宝」の精神にほかならない。


 「『戦争と暴力の世紀』から『平和と芸術の世紀』へ――。その挑戦を、『沖縄の心』に学びながら、断固として進めていきたい。それが、私の願いであり、決意である」
 (月1回の掲載予定)


(2019年7月23日  聖教新聞)  







最終更新日  2019.07.24 00:47:57

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