7910770 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

晴ればれとBlog

PR

Calendar

Category

カテゴリ未分類

(489)

ニュース話題

(364)

2019年「創立90周年へ 創価勝利の年」

(42)

わが友に贈る 聖教新聞

(3089)

今週のことば 聖教新聞

(531)

大白蓮華 巻頭言

(131)

「新・人間革命」と私

(100)

小説『新・人間革命』に学ぶ

(100)

師弟不二の共戦譜~小説「新・人問革命」と歩む~

(6)

池田先生と共に 新時代を築く 2019

(18)

<池田大作先生> 四季の励まし

(47)

随筆 永遠なれ 創価の大城

(36)

青春勝利の大道 創価新報

(110)

勝利の人間学 創価新報

(101)

池田先生のメッセージ

(189)

池田先生のスピーチ

(97)

友のもとへ 池田先生の激励行

(11)

世界宗教の仏法を学ぶ 池田先生の指導・励ましから

(37)

藍よりも青く「3・16」研さんのために

(6)

池田先生と共に 新時代を進む 2018年

(32)

池田先生と共に 新時代を創る

(32)

教学

(32)

グローバルウオッチ 共生の未来へ

(4)

「創価学会母の日」制定30周年記念

(9)

名誉会長と共に 今日も広布へ

(93)

生老病死を見つめて(完)

(36)

御書と歩む Ⅱ(完)

(166)

御書と歩む 池田先生が贈る指針(完)

(100)

御書とともに II

(74)

御書と青年

(26)

池田SGl会長指導選集

(93)

池田大作の箴言集より

(12)

随筆 民衆凱歌の大行進

(26)

指針・指導メモ

(51)

未来部

(6)

広布史

(123)

民音

(15)

池田先生の揮毫 永遠の一筆

(11)

東日本大震災

(27)

スピーチ&指導 聖教新聞 見出し

(66)

『今日のことば365』 池田大作 著

(639)

随筆 我らの勝利の大道 (完)

(135)

『女性に贈ることば365日』池田大作(著)

(364)

女性に贈る100文字の幸福抄 (完)

(154)

御書とともに(完)

(100)

「潮」池田大作の軌跡

(9)

名誉会長 折々の指導(全20回・完)

(20)

御書と師弟(全31回・完)

(45)

ジャズと人生と仏法を語る(全15回・完)

(39)

若き指導者は勝った(全18回・完)

(19)

覚え書き

(6)

教学部任用試験

(25)

2018年「世界広布新時代 栄光の年」

(58)

2017年「世界広布新時代 青年拡大の年」

(15)

今日の発心 御書

(634)

小説「新・人間革命」「誓願」の章

(139)

小説 『新・人間革命』第30巻

(138)

小説「新・人間革命」

(118)

歌声高く 誕生40周年の学会歌

(27)

勇気の旗高く

(40)

随筆 「人間革命」光あれ

(7)

ワールドリポート

(45)

WORLD TODAY――世界の今

(1)

心に御書を 池田先生が贈る指針

(9)

虹を懸ける

(6)

信仰体験

(189)

ライフウオッチ――人生100年時代の幸福論

(7)

2020年のテーマは「前進・人材の年」

(0)

ライオンハート 師子の誓い

(2)

Archives

Comments

anbo@ Re[1]:池田先生とオーストリアのウィーン(07/03) Keikoさんへ ウイーン!素晴らしい! ベ…
Keiko@ Re:池田先生とオーストリアのウィーン(07/03) 今ウイーンにいます。 SGIUkメンバーで題…
anbo@ Re:感謝です。(10/28) a.y.Kさんへ 「夫(そ)れ木をうえ候には…
a.y.K@ 感謝です。 いつもありがとうございます! 日本に住ん…
omachi@ Re:天皇陛下 即位の礼 
陛下のお言葉(10/23) お腹がくちくなったら、眠り薬にどうぞ。 …

全15件 (15件中 1-10件目)

1 2 >

民音

2019/10/28
XML
カテゴリ:民音

世界に魂を 心に翼を 民音が開いた文化の地平   第19回 

世界バレエ・シリーズの金字塔   <上 > 
​「ここから隆盛が始まった」 ​

ソ連のノボシビルスク・バレエ団の来日公演(1966年)③

 今から半世紀以上前、まだ創立間もない民音の公演が、「夢のような出来事」と列島を沸かせた。
 1966年から足かけ12年。東西の名門バレエ団を次々に招聘し、来日を実現させた「世界バレエ・シリーズ」(全193回公演)である。
 海外の名だたるオーケストラやバレエ団、歌劇場の来日公演で舞台制作を手掛け、数々の民音公演にも尽力してきた広渡勲氏(昭和音楽大学客員教授)は、こう証言する。
 「今では当たり前かもしれませんが、ダンサーや舞台装置をはじめ、団の全てを呼ぶ“引っ越し公演”を軌道に乗せたのは民音です。当時、バレリーナが単独で踊るイメージが強かったバレエを、舞台を含む総合芸術として広く紹介した。“バレエといえばソ連”という時代に、西側の国からも、そうそうたるバレエ団を招いた。戦後、日本のバレエの隆盛は、ここから始まったのです」
                    ◇ ◆ ◇ 
 横浜港の一角。船を待つ数十人の人だかりから歓声が上がった。
 66年9月7日。ソ連のノボシビルスク・バレエ団を乗せた客船「バイカル号」が入港し、団員が港に降り立つ。総勢100人。振り袖に身を包んだ役員が花束を手渡すと、団の総支配人が笑顔で応えた。
 「今回の公演を誇りに思っています。ベストを尽くして皆さんの期待に応えたい。
日本とソ連の交流に役立てるよう頑張ります」
 広大なロシアの中心、西シベリアに位置するノボシビルスクは、モスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐ第3の都市。第2次世界大戦中、同国の文化を保護するため、バレエやオペラが同都市に集められた。終戦直後にノボシビルスク・バレエ団が誕生し、ソ連を代表するバレエ団の一つに数えられていた。
 

来日したのは、T・ジミナー、R・クルペーニナといった人民芸術家ら、超一流の顔ぶれ。衣装や大小の道具も、ソ連随一の規模を誇るノボシビルスク劇場の一切が、そっくり運ばれてきた。同団にとっても、初の大掛かりな海外ツアーである。
 演目は、チャイコフスキーの名曲に彩られた「白鳥の湖」をはじめ、最高峰の技術を駆使した「海賊」、民族舞踊をふんだんに盛り込んだ鉱山の女王の恋物語「石の花」
など。
 舞台装置があまりに大きく、「上演は夢」とまでいわれた演目も再現され、「ソビエトのバレエを完全な形で観ることができる」と、バレエ界はノボシビルスク一色となった。
                    ◇ ◆ ◇  
 なぜ創立直後の民音に、こうした一大プロジェクトが可能だったか。
 世界バレエ・シリーズは、日本バレエの振興に尽力した、ある人物との語らいから生まれた。
 創立者・池田先生は、民音が始動した60年代、各国を歴訪する中で、一流の芸術団体を日本に呼ぶために奮闘していた。地理的な制約などにより、本物の西洋芸術に触れる機会が限られていた時代である。
 先生はバレエ・シリーズが始まる前年の65年10月にイタリアへ。同行した民音の秋谷専任理事(当時)がミラノのスカラ座に赴き、“ぜひ日本で公演を”と交渉した。
パリにも足を運び、現地の音楽団体と将来の交流について意見を交換している。
 “世界一流の芸術を日本へ”との構想に共鳴したのが、同じ頃に東京バレエ団を創立し、バレエ界の発展に心血を注ぐ佐々木忠次氏だった。
 当時、日本のバレエは「バレエ教室の延長上」の域を出ず、「舞台芸術としてのバレエ」とは、ほど遠いものだった。バレエ界の革新には本場の感動と迫力が欠かせない。
 佐々木氏に“世界のバレエ団を日本に呼んでいきたい”と相談を持ち掛けると、氏は各国のバレエ団の名を挙げ、「シベリアにも素晴らしいバレエ団がある」。日本ではまだ知られていないノボシビルスク・バレエ団の招聘を提案し、零下40度にもなる冬のシベリアに飛び、自ら来日交渉に当たった。
 氏は、一般大衆こそがバレエ界の後援者、審判者として発展のカギを握っていると強調。民音を「唯一の光明源」とたたえ、「今こそバレエ界の力を結集」と呼び掛けている。(「月刊みんおん」65年4月号)
 民音の熱意と、佐々木氏の“志”が意気投合し、歴史を画するバレエ・シリーズが産声を上げた。
                    ◇ ◆ ◇ 
 軽やかな跳躍、しなやかな手の動きは、湖水に浮かぶ白鳥そのもの。観客を瞬く間に詩情の世界へ誘う。
 ノボシビルスク・バレエ団の来日公演は、上野の東京文化会館を皮切りに、大阪、福岡、京都など、27ステージで大喝采を浴びた。前売り券は飛ぶように売れ、東京公演に北海道から申し込みがあったほど。どの地でも嵐のような拍手が起こり、何度もカーテンコールが繰り返された。
 本場の舞台を目にした感動は、それぞれの心に焼き付いて離れない。

 福岡在住の澤千恵佳さんは「軍艦島」で知られる長崎・端島(はしま)の出身。
 ある日、母が「2泊3日でバレエを観に行く」と言い出し、澤さんは驚いた。ノボシビルスク・バレエ団の福岡公演である。「バレエって、泊まりがけで行くほど素晴らしいものなんだ」と幼心に思った。
 やがて澤さんも、最寄りの長崎市での民音公演に足を運ぶように。しかし、フィナーレの前に会場を出ないと、島に戻る最終便に間に合わないため、何度も残念な思いをしてきた。後年、民音のバレエ公演を終演まで見届けることができ、「あの感激は忘れられません」と振り返る。

 東京・江戸川の大江敏夫さんは、板金職人として芸術とは無縁の生活を送ってきた。
 第2次世界大戦の末期、中立条約を破り、一方的に攻め込んできたソ連に良い印象はない。
 「鉄のカーテン」に覆われた“異国の文化”だったが、気付けば手が赤くなるほど拍手を送っていた。
 “池田先生が伝えたかったのは、この感動だったのか!”──長年のわだかまりが解け、以来、地道な文化交流に尽くしてきた。
 このノボシビルスク・バレエ団を筆頭に、先生は世界バレエ・シリーズに毎回のように足を運び、芸術家らに心からの感謝を伝えている。

 74年にはソ連に招待され、ボリショイ劇場でバレエを鑑賞。6回の訪ソの中で、全ソ民族舞踊アンサンブルやモスクワ児童音楽劇場の来日公演を実現するなど、同国を代表する芸術団体を招聘し、交流は今に続く。
 先生は“人類共通の宝である最高の音楽芸術を民衆の手に届くものに──この願いが民音創立の原点である”と後に綴っている。同シリーズの成功へ尽力を惜しまなかった。
                    ◇ ◆ ◇ 
 海外からバレエ団を招聘する一方で、民音は、日本のバレエ団の公演にも力を尽くす。
 64年に発足した東京バレエ団の公演は、やがて年50回を超え、地方会場でも数多く行われた。
 この64年は、東京オリンピックが開かれ、東海道新幹線が開通した年。経済大国へと急速な発展を遂げる中、舞踊家の育成は遅れたままだった。
 海外招聘とともに、日本中にバレエ芸術を届け、本格的なバレエを育む──民音は、国内外の両面からバレエに光を注いだ。
 当時、同団でプリマバレリーナとして活躍していた鈴木光代氏は、民音公演における観衆の熱意が、ひときわ思い出深いという。
 北は小樽(おたる)や室蘭(むろらん)、南は別府(べっぷ)や延岡など、大都市以外の公演も活況だった。会場によっては舞台が狭く、演出の調整を余儀なくされた。
 初めてバレエを観る人も多い。仕事着での来場者も目に付いた。鈴木氏は「ここで拍手をもらえるというタイミングに拍手がなく、気落ちしたこともありました」と懐かしむ。
 翌年、同じ都市で再演した折、拍手のタイミングが見事にそろっていたことに、胸を熱くした。
 実はこの時、氏は母を介護しながら舞台に臨んでいた。介護は14年に及んでいる。
“いつ舞台で倒れても本望だ”──その熱意を受け止めてくれる観客の存在がうれしかった。
 民音主催の東京バレエ団公演は、通算400回以上に及ぶ。
 学校コンサートの第1回では、同団の公演が開催される(北海道士別市)など、次世代にも光を届けた。
                    ◇ ◆ ◇ 
 「それまで日本には観客がいなかった。“三角形の一角”が欠けていたんです」と、広渡氏は総括する。
 「劇場芸術は、出演者、観客、劇場の三つが三角形となって、初めて成立するものです。良い観客がいないと芸術家は育たない。真剣に応援してくれる観客が不可欠です。客層も民音から始まり、一般へと広がっていきました。やがて政府の支援なども始まりましたが、民音の取り組みは時代を画する出来事でした」
 66年のノボシビルスク・バレエ団に次いで、翌67年には“鬼才”モーリス・ベジャール率いるベルギー国立20世紀バレエ団が来日。
 東西最高峰の競演が、日本のバレエ界に新時代の到来を告げる。(月1回の掲載予定)


(2019年10月28日  聖教新聞)







Last updated  2019/10/28 10:52:55 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/10/18
カテゴリ:民音

社説  きょう「民音創立記念日」  

​芸術文化を育む主役は“私”​


 きょう18日は、民主音楽協会(民音)の創立記念日である。


 1961年(昭和36年)2月、創立者の池田大作先生は、アジア歴訪の折、民衆の相互理解を促す芸術・文化交流の推進を目的とした団体の設立を構想。2年半後の63年(同38年)10月18日、民音が創立され、記念演奏会が開かれた。


 なぜ、民音には「民主」という名が付いたのか――。実は、当初の検討段階では、名称を「民衆音楽協会」とする意見も出ていた。その中で、“音楽・芸術を育成していく主役が民衆なのだから”と、「民主」との命名を提案したのは、ほかならぬ創立者であった。


 本紙では今、民音の軌跡をたどる企画「世界に魂を 心に翼を」を連載しており、本年は6回にわたり沖縄芸能を特集した。改めて驚いたのは、“民音なくして今の沖縄芸能はない”との、現地の関係者たちの証言である。


 沖縄には戦後、存続の危機に陥った「琉球芸能」と、各島で伝承されてきた「民俗芸能」があった。今から50年前、民音は「沖縄歌舞団」を結成し、これらの伝統芸能を融合し舞台化。その後、アジア諸国との交易で栄えた琉球時代に光を当てた、沖縄初の本格的なミュージカル「大航海」なども企画した。



 「今の私は、歌舞団の中で育てられたようなものです」と振り返るのは、玉城流二代目家元の玉城秀子氏。重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者である。そもそも当時の芸能家には、プロとして大舞台に立つ機会が少なかった。戦争と抑圧の歴史の中で、沖縄の伝統文化に引け目を感じることもあった。


 「今は次々に沖縄の芸能が発信されて、世界中で注目を集めていますが、原点はここ。本土の人にとって、沖縄がまだよく分からない時代に民音が取り上げてくれた。私たちは誇りが持てたんです」
 何より、当時の出演者たちの記憶に鮮明なのは、民音の観客の“温かさ”である。ステージ上だけでなく、公演後のロビーでも真心の声援を受けた。観客と握手し、心を通わす中で、芸の質が日に日に高まる手応えを感じたという。



 民音公演の脚本・演出を手掛けた、沖縄芸能研究の第一人者・三隅治雄氏は語る。「長い歴史から見て、いかに沖縄の文化を発展させ、人々の幸せを築いていくか。そこまで思いをはせ、公演を支えてくれるのが民音の皆さんです。その源流は、創立者の思想なのでしょう」


 民音創立時のスローガンの一つに、「新しい民衆音楽を創造し、これを育成する」とある。その主役は、支える側の“私たち”――この「民主」の精神を胸に、今後も民音の挑戦を応援したい。


(2019年10月18日 聖教新聞 社説)


一般財団法人 民主音楽協会
​​







Last updated  2019/10/18 12:00:05 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/10/17
カテゴリ:民音

​​あす10・18「民音創立の日」音楽の力で平和構築を

 民主音楽協会(民音)が、あす10月18日に創立記念日を迎える。ここでは、民音のこれまでの歩みとともに、発足5周年となる民音音楽博物館付属研究所(民音研究所)のオリビエ・ウルバン所長の声を紹介する。

 “音楽交流こそ、世界中の人々の心を結び、平和建設の一助となる”――創立者・池田大作先生の理念のもと、民音が世界平和を目指して船出したのは1963年(昭和38年)10月18日のこと。
 民音による初の記念演奏会が東京・文京公会堂で開催され、この日が創立記念日となった。コンサートの開幕を飾ったのは、アメリカのマーチ「錨を上げて」。アンサンブルや合唱曲のほか、「『軽騎兵』序曲」や行進曲「旧友」が会場に響いた。

 当時は、インターネット等で自由に音楽を楽しむことなどできなかった時代。歌謡曲やポップスは親しまれていたものの、クラシックやオペラの鑑賞券は高価で、庶民には縁遠いものであった。
 そんな中、池田先生は「庶民が“下駄履き”で行けるコンサートをつくろうよ!」と提案。民音は、推進委員や賛助会員の支援などによって、比較的安価で、あらゆるジャンルの演奏会を各地で開催してきた。
 これまで開いたコンサートは、じつに8万回を数える。その中には、ミラノ・スカラ座やアルゼンチン・タンゴ界の巨匠の日本公演など数多くの舞台が、音楽史に燦然たる足跡を刻んでいる。
 一方、民音は創立当初から各種コンクールを実施。半世紀以上の歴史を誇る「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」は、世界的な指揮者の登竜門として定評がある。
 2014年には、「民音研究所」を発足。「音楽の力」が平和創出に貢献する可能性について、多角的・学際的に調査・研究を行い、国際学会等で、創立者の理念を広く発信している。

民音研究所・ウルバン所長
創立者の理念を広く世界へ

 民音研究所が発足して5周年を迎えます。
 私たちは、創立者・池田先生の理念のもと、半世紀以上にわたって音楽活動を続けてきた民音の実績や蓄積を基礎として、平和を創出する「音楽の力」の可能性を学術的に探求してきました。
 2016年には、著名な学術出版社テイラー・アンド・フランシスグルーブが発行する『平和教育ジャーナル』が特集の中で民音研究所の研究成果を掲載。池田先生の言葉を引用し、“音楽は平和を構築し得るもの”という新たな音楽の価値の提唱に、多くの反響がありました。

 以来、ベネズエラ発祥の音楽教育「エル・システマ」や「音楽セラピー」「音楽とエコロジー」「人権と音楽」などをテーマに、4人の研究員が平和構築における音楽に関連する事例を研究調査。まとめた論文を、世界3大音楽学会といわれる「国際音楽学会(IMS)」「民族音楽学会(SEM)」「国際伝統音楽学会(ICTM)」などで発表してきました。

 また、その中で知り合った平和学者や音楽学者が私たちの研究に深く共感。クイーンズ大学ベルファストのフィオナ・マゴワン教授、「国境なきミュージシャン」の創設者ローラ・ハスラー氏は、わざわざ来日して民音研究所の年次報告会で基調講演を行っていただきました。
 そうした交流の中で、自らの研究内容に「平和」や「音楽」の観点を取り入れる学者も誕生しています。音楽活動という枠を超えて多彩な分野の人々に、先生の思想を伝える使命を実感しています。
 世界平和を実現しゆく「音楽の力」を証明するため、これからもさらなる研究を重ねてまいります。​​


(2019年10月17日 聖教新聞)

一般財団法人 民主音楽協会







Last updated  2019/10/17 01:39:44 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/08/01
カテゴリ:民音
民音音楽ライブラリーが誕生45周年  

貴重な楽譜やレコードなど30万点以上を所蔵 
 

全国誰でも利用できる日本最大級の資料館




民音創立者の池田先生が、開館したばかりの民音文化センターを初訪問。芳名録に「祈 世界一の発展」「祈 芸術運動の先駆」「祈 人間文化の夜明け」と記した(1997年9月)



 創立者・池田先生の“音楽文化を民衆の手に”との理念のもと、110カ国・地域の音楽芸術を日本に伝えてきた民主音楽協会(民音)。本年は、東京・信濃町の「民音音楽博物館」(民音文化センター内)の前身である「民音音楽資料館」の誕生から45周年である。ここでは、音楽資料の宝庫として親しまれる民音音楽博物館の「音楽ライブラリー」の歩みとともに、利用してきた3人の識者の声を紹介する。


 民音は1963年(昭和38年)の創立以来、“音楽で世界中の人々の心を結び、平和建設の一助に”との信念で、各国の音楽文化を発信してきた。世界の一流アーティストを招へいしてのコンサートをはじめ、海外派遣公演や学校コンサート、科学的見地からの音楽の力の研究など、その活動は多岐にわたる。


 その中にあって、民音音楽博物館は、古典ピアノや自動演奏楽器の保管とともに、音楽資料を貸し出す「音楽ライブラリー」の運営・資料調達などを担う。


 この音楽ライブラリーが行う音楽資料の貸し出しが始まったのは、74年(同49年)11月18日の「民音音楽資料館」の誕生にさかのぼる。


 クラシック音楽の楽譜やレコードといった音楽資料を貸し出す機関は極めて少なく、音楽大学の図書館などの専門施設がほとんどの時代にあって、民音創立10周年事業の一環として開設された音楽資料館は、誰もが利用できる“民衆に開かれた施設”であった。


 その準備は、手探り状態から始まった。 


 永続的に資料集めができるのか、資料を管理する司書を育て続けられるか、管理スペースは恒久的に確保できるか……。課題は山積していた。


 そうした中、NHK資料センター長やNHK交響楽団常務理事などを務めた音楽情報学の第一人者・小川昻氏を招いて、準備委員会を発足。一つ一つの課題に対し、真剣に討議を重ねた。 
 


 当時、小川氏は語っている。「資料はね、足で稼ぐものですよ」 


 その言葉の通り、大きなリュックサックを背にした準備委員たちは、地図を手に北海道から九州まで古本屋を回り、収集に取り組んだ。


 こうして集められた資料は、音楽書が3500冊、楽譜7000点、レコード等の録音資料が20000枚。当初の収集目標を大幅に上回り、東京・北新宿の民音会館(当時)内にオープンした。


 開設から9日後の74年11月27日には、池田先生が音楽資料館を訪れ、小川氏に感謝。また書庫や閲覧室などを視察し、「新たな音楽・芸術の発信基地たれ」との指針を贈った。


 以来、海外交流の広がりに伴い、古典ピアノや民族楽器など各国の貴重な楽器や著名な音楽家の楽譜なども収蔵するようになっていく。


 その間も、池田先生は折に触れて足を運び、さまざまな角度から指標を示してきた。 


 「楽器なんだから、来た人には必ず音色を聴かせてあげたい」 


 「30年、40年たったら、世界中から芸術家や学者が来るようになります。今のうちにしっかり勉強しておいてください」


 そうした心を受け、音楽資料館は、来館する人々に“音楽の魅力”を伝える施設へと発展してきた。
 2003年(平成15年)には、音楽資料館が東京都の登録博物館の認可を受け、翌年に「民音音楽博物館」と改称。現在、所蔵する資料は30万点を超え、民間では日本最大級の音楽資料を誇る。


パリ・ディドロ大学(パリ第七大学)助教 鈴木聖子氏


●芸術の力伝える情熱に感動


 「近代日本音楽芸能史」や「音楽芸能の文化資源学」を専門に、雅楽の研究をしています。私自身、雅楽の演奏家でしたが、“録音技術もない1200年以上も昔の音楽が、なぜ変わらずに今に伝えられているのか”との疑問をきっかけに、学問の道に入りました。


 研究を進めるに当たり、疑問を解く鍵となる田辺尚雄という人物にたどり着きました。田辺氏は、大正時代から昭和初期にかけて、日本で初めて進化論の視点から日本音楽史を編さんした人です。


 民音音楽博物館の音楽ライブラリーには、その田辺氏にまつわる貴重な資料が収められています。明治末期から第2次世界大戦後まで書き続けた日記や、日本各地から田辺氏に宛てた手紙など、その数は膨大です。


 私は、それらの資料も含めて研究を進め、本年1月に『〈雅楽〉の誕生――田辺尚雄が見た大東亜の響き』を出版することができました。執筆に当たって、民音の学芸員の方々には、資料の閲覧をはじめとしたご協力をいただき、感謝の思いは尽きません。


 私は、過去の貴重な資料は“今を生きる人に新たな発見や情熱を与えてくれるもの”だと思います。それを感じた一つの出来事は、2014年に民音音楽博物館で行われた田辺氏に関する企画展示でした。膨大な資料をもとにまとめた足跡の年表や丁寧に要約・分類された氏への書簡などから、氏の生きた証しを伝えようとする民音の情熱を感じるとともに、氏の魅力に改めて気付かせていただきました。当時の感動は、今も忘れられません。


 民音は、これまでも民族音楽学者・小泉文夫氏をはじめ、世界的に著名な研究者と共同で“音楽の力”を探究してきた重要な機関です。そうした歴史を、貴重な資料とともに、未来に伝え残してもらいたいと、願ってやみません。


チェロ奏者(東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団) 鈴木龍一氏


●“民衆と共に”の理念に共感


 民音音楽資料館を初めて利用したのは、中学1年の時でした。部活動で音楽部に所属しており、年に2回開催する発表会で演奏する楽曲を決める目的で、民音に通っていました。


 当時は限られた部費の中で、どの楽譜を購入するか、それはそれは悩みました。そのため、自分たちの演奏技術に見合う楽曲を、民音に行って実際に楽譜を見て、音源を聴いて探したのです。


 チェロ奏者となった今も、利用させていただいています。


 演奏家にとって、楽譜の存在は極めて大きいものです。特にクラシックの場合、楽譜は作曲家の真意に迫ることができる最大のツールであり、楽譜がなければ何も始まりません。その楽譜が永続的に収集され、大切に保管され続けていることは、音楽を守っていくことに直結すると思います。こうした施設を日本全国の誰もが利用できる点こそ、ほかにはない民音音楽博物館の魅力ではないでしょうか。


 また、民音音楽博物館には、楽譜だけでなく、モーツァルトやベートーベンが活躍していた時代の古典ピアノが所蔵されています。しかも“生の音”を聴くことができるため、当時の作曲家たちを知る新たなきっかけになると思っています。さらに特筆すべきは、小澤征爾氏をはじめとした名だたる音楽家を育てた齋藤秀雄先生のピアノが、寄贈・展示されていることです。その事実が、民音音楽博物館の存在感をいっそう大きくしていると感じてなりません。


 そのほか、民音は「学校コンサート」や「東北希望コンサート」など、演奏家が聴衆のもとへ足を運んで音楽を届ける取り組みを活発に行っています。そこにこそ、“音楽文化を民衆の手に”との理念が脈打っていると思います。


 今後も、そうした活動をさらに広げ、「音楽の可能性」を未来に示していただきたいと、心から願っています。


有限会社レグルス 代表 吉岡永二氏


●演奏史に残る“宝”がここに


 私は、中世・ルネサンス・バロック期の古楽や、20世紀のピアノ作品などのクラシック音楽のCD制作・販売をする会社を営んでいます。20年前に起業するまでは、外資系のレコード会社に勤め、録音や営業などを行っていました。


 今では、レコードで音楽を聴く人はほとんどいないので、長年、携わってきた私としては、少し寂しい思いがあります。しかし、民音音楽博物館に行くと、ほっとするのです。古い蓄音機など、レコード時代の貴重な品々を見ることができ、懐かしい思い出がよみがえってくるからです。


 私は、起業したての頃、民音にお世話になったことがあります。


 大手レコード会社と共同で、1960年代から70年代に録音されたクラシック音楽の人気100タイトルのレコードを、CDとして復刻する仕事をした時のことでした。


 初回盤のレコードのジャケットデザイン、曲の解説も含めて、忠実に再現しようと取り組んでいたのですが、肝心のレコードが制作したヨーロッパの会社にも残っていなかったのです。必死に探す中、見つけたのが民音音楽資料館でした。100タイトル中、約半分が資料館に保管されていたと記憶しています。


 クラシック演奏史に残る“宝”が失われることなく、大切に保存されていることを肌で実感しました。


 名称が変わり、民音音楽博物館となった今でも、レコードのみならず、蓄音機や自動演奏楽器、民族楽器などが保存されています。


 時代の変化とともに、音楽を取り巻く環境は変わります。録音・再生技術は日進月歩ですし、人の好みも多様化しています。その上で民音は、愛されてきた音楽を、当時の趣や思い出と一緒にとどめる役割を担っておられる。まさに、「音楽・芸術の発信基地」であると思っています。


(2019年8月1日 聖教新聞)

​​






Last updated  2019/08/03 09:36:26 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/07/23
カテゴリ:民音

世界に魂を 心に翼を 
民音が開いた文化の地平
第18回 「命どぅ宝」の響き 下 ​


「平和と芸術の世紀」へ

民音創立者の池田先生は、沖縄訪問のたび、人々の中に飛び込み、舞や歌を共にしてきた。沖縄コンベンションセンターでの「世界青年平和大文化総会」では、4,500人の青年とカチャーシーを(2000年2月5日)



 新聞を開くと、紙面全体に広がる公演写真が飛び込んできた。「音楽で世界結ぶ」と見出しが躍る。


 2003年12月2日。沖縄タイムスに民音創立40周年を記念する大型特集が掲載された。


 見開き4ページに、沖縄芸能の発展に尽くした民音の軌跡をたたえる声や、間近に迫った中国・広東雑技団公演、民音音楽資料館(現・民音音楽博物館)の魅力などが紹介されている。沖縄への海外招聘の年表には、50を超える芸術団体やアーティストがずらりと並び、歴史の重みを伝えていた。


 最終面に掲載されたのは、民音創立者・池田先生の寄稿「平和と芸術――沖縄の心を讃う」である。


 「池田先生から、これほど長文の寄稿文を頂けるとは思っていませんでした。沖縄に対する思いの深さに驚いたのを覚えています」
 そう振り返るのは、特集の担当記者だった外間尹敏氏。東京の民音文化センターで取材した帰路、受け取った原稿に機中で目を走らせた。

「私たち以上に沖縄のことを良く知っておられる。そう強く感じました」


 寄稿では、時に傲慢な権力への批判となり、時に不毛な戦争への嘆きとなって、苦難と戦う民衆を鼓舞してきた島唄や舞踊の魅力を通し、沖縄の芸術に宿る「いかなる試練にも負けない生命の力」「太陽のように朗らかな強さ」に言及。

「日本のどこに、これほどまでに、生活と歌が一体となっている、明るい芸術の都があろうか」と述べ、「沖縄の心」に迫っている。


 沖縄では、家屋の一番大切な場所である「床の間」に、三線を飾る伝統がある。戦時下、人々は先祖の位牌と三線を抱き締め、火の海を逃げ回った。戦後の混乱の中で、空き缶を利用して“カンカラ三線”を作り、歌と舞で明日を切り開いてきた。


 そうした伝統に触れながら、先生は寄稿に記した。


 「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」


 外間氏は民音公演で来日する広東雑技団や韓流ミュージカル「GAMBLER」の現地取材にも同行している。「反日」が騒がれていた折だったが、人と人が触れ合う文化交流の場に、そうした軋轢はなかった。


 「寄稿で特に心に残ったのは、“文化は地味かもしれない。しかし、人間の心の奥深くまで照らし、平和と繁栄の方向へ、歴史変革の確かなる潮流を形づくっていく”という部分です。銃ではなく、三線で平和をつくる。沖縄には、そうした文化の力がある。それを池田先生がおっしゃるわけですから、重みがあります。ウチナーンチュ(沖縄人)として、うれしく思いました」


                    ◇ ◆ ◇ 

 
 寄稿が掲載された朝、桃原正義さん(学会の総沖縄長)は、涙をこらえ、感動をかみ締めていた。
 この「12月2日」は、1964年、池田先生が沖縄の地で、畢生の大著である小説『人間革命』を起稿した日であった。冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」とある。


 寄稿では、同書の執筆を沖縄で開始したことにも触れていた。長年の夢である沖縄訪問を果たしたゴルバチョフ氏(旧ソ連元大統領)との再会を通し、沖縄を見つめての氏との語らいも、「心を変え、心を結ぶことで時代は変えられる」との視座を共有するものであったとつづっている。


 外間氏は「原稿を受け取って初めて、那覇で『人間革命』の筆を起こされたことを知りました。先生は、よほど沖縄を強く意識されていたのでしょうね」と追想する。


 池田先生の沖縄訪問は、本土復帰前だけで6回、計17回に及ぶ。民音の関係者に対しても、沖縄の人々の力、喜びとなる文化交流をと期待を語ってきた。桃原さんは沖縄民音の創立公演(65年)に携わって以来、沖縄芸能を初めて舞台化した「沖縄歌舞団」公演(69年)など、その活動を草創から支えてきた。


 「72年の本土復帰前後、沖縄には大変な葛藤がありましたが、先生は一貫して沖縄の平和の使命を教えてくださいました。『人間革命』も他のどの場所でもなく、ここ沖縄を起稿の地に選ばれ、“あなたたちの悲願が喚起せしめた執筆”とまで言ってくださった。時をへるごとに、沖縄の偉大な使命が胸に迫ります」

 恩納村にある学会の沖縄研修道場は、かつての核ミサイル発射台が、池田先生の提案で「世界平和の碑」へと生まれ変わった場所である。沖縄テレビでは、これまで数度にわたって民音の特集番組が放映されてきたが、その中には民音公演で沖縄を訪れた折、研修道場を訪問するアーティストの姿も映し出されていた。


 沖縄を中心とする8カ国・地域の芸術団が一堂に会した「アジア平和芸能フェスティバル」(99年)の際には、公演後、出演者らが沖縄研修道場へ。ベトナムの民族芸術団団長は、こう感慨をこめた。

「ベトナム戦争の時は、沖縄から米軍が出撃しました。今、沖縄が平和と文化の地となっているのは、池田先生の貢献が大きいと感じられてなりません」


 民音公演で来日するアーティストの中には、創立者の平和思想を学び深めたいと、小説『人間革命』等を読み込んで来日する人も少なくない。


 沖縄テレビの同番組で、大嶺哲雄氏(沖縄大学名誉教授)が小説『人間革命』について語っている。


 「沖縄の平和への願いを、よくあれだけの形にされた。皆、それぞれに戦争の悲惨さを感じていますが、書きたくても書けない。それを見事に、日本のみならず、世界に伝える流れをつくられたことに敬服します」
                    

                   ◇ ◆ ◇ 


 沖縄に強い関心を抱いてきた一人が、ブラジルのアマラウ・ビエイラ氏である。


 同国最高峰の作曲家であり、世界的なピアニストである氏は、池田先生の人間革命の哲学に、「長い間、自分が考え、求めてきた“言葉にならなかった理想”」「生命の価値を最大に高めゆくメッセージ」と、深い共感を寄せてきた。


 小説『人間革命』の最終回が本紙に掲載された93年2月11日。ブラジルを訪問中だった池田先生に、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号が授与された。席上、祝賀演奏を披露したのがビエイラ氏である。


 このブラジル訪問には、沖縄の友も同行していた。ビエイラ氏との懇談の折、その友が、小説『人間革命』が沖縄で起稿されたこと、授与式の演奏が『人間革命』の完結を祝する演奏ともなったことを伝えると、氏は感嘆のため息をついた。「ぜひ沖縄へ行きたい。皆さんの平和を熱望する思いは、私の心でもあります」


 ――95年4月15日、民音のピアノリサイタルで来日したビエイラ氏は、沖縄公演の合間を縫って、念願だった沖縄研修道場を訪れている。


 「世界平和の碑」に生まれ変わった核ミサイル発射台の前に立ち、胸に手を当て、そっと目を閉じる。


 頬をなでる爽やかな海風。静かに時が流れていく。


 5分、10分……。ビエイラ氏は微動だにしない。


 民音の同行者が、ちらりと腕時計を見る。宮古島、石垣島、那覇とステージを重ね、この日は名護の会場に向かう途中だった。時間がない。


 「公演があります。もう行かないといけません」。移動を促すが、氏は動かない。
 「この場所から、池田先生の平和への思いが、ものすごいエネルギーで私を包んでくるのです。まだ離れられません。もう少しだけ、いさせてください」――常に笑顔を絶やさない氏が見せた真剣な表情に、同行のスタッフが息をのんだ。


 氏は池田先生の思想を主題として、これまで数多くの楽曲を手掛けてきた。2007年にフランスのエピナル市から依頼を受けて制作した協奏曲は、「新・人間革命」と名付けている。


 ビエイラ氏が先生に贈った作品は17に上り、その中にはサンパウロ芸術評論家協会の「交響曲大賞」や「最優秀室内楽大賞」を受賞した楽曲もある。


                    ◇ ◆ ◇ 


 池田先生は沖縄タイムスへの寄稿を次の一文で結んだ。それはまた、平和と芸術の都を基点とし、世界のアーティストに受け継がれゆく「命どぅ宝」の精神にほかならない。


 「『戦争と暴力の世紀』から『平和と芸術の世紀』へ――。その挑戦を、『沖縄の心』に学びながら、断固として進めていきたい。それが、私の願いであり、決意である」
 (月1回の掲載予定)


(2019年7月23日  聖教新聞)  







Last updated  2019/07/25 11:10:04 PM
コメント(0) | コメントを書く
カテゴリ:民音
世界に魂を 心に翼を 

民音が開いた文化の地平


第18回 「命どぅ宝」の響き​ 下 


「平和と芸術の世紀」へ

民音創立者の池田先生は、沖縄訪問のたび、人々の中に飛び込み、舞や歌を共にしてきた。沖縄コンベンションセンターでの「世界青年平和大文化総会」では、4,500人の青年とカチャーシーを(2000年2月5日)



 新聞を開くと、紙面全体に広がる公演写真が飛び込んできた。「音楽で世界結ぶ」と見出しが躍る。


 2003年12月2日。沖縄タイムスに民音創立40周年を記念する大型特集が掲載された。


 見開き4ページに、沖縄芸能の発展に尽くした民音の軌跡をたたえる声や、間近に迫った中国・広東雑技団公演、民音音楽資料館(現・民音音楽博物館)の魅力などが紹介されている。沖縄への海外招聘の年表には、50を超える芸術団体やアーティストがずらりと並び、歴史の重みを伝えていた。


 最終面に掲載されたのは、民音創立者・池田先生の寄稿「平和と芸術――沖縄の心を讃う」である。


 「池田先生から、これほど長文の寄稿文を頂けるとは思っていませんでした。沖縄に対する思いの深さに驚いたのを覚えています」
 そう振り返るのは、特集の担当記者だった外間尹敏氏。東京の民音文化センターで取材した帰路、受け取った原稿に機中で目を走らせた。「私たち以上に沖縄のことを良く知っておられる。そう強く感じました」


 寄稿では、時に傲慢な権力への批判となり、時に不毛な戦争への嘆きとなって、苦難と戦う民衆を鼓舞してきた島唄や舞踊の魅力を通し、沖縄の芸術に宿る「いかなる試練にも負けない生命の力」「太陽のように朗らかな強さ」に言及。

「日本のどこに、これほどまでに、生活と歌が一体となっている、明るい芸術の都があろうか」と述べ、「沖縄の心」に迫っている。


 沖縄では、家屋の一番大切な場所である「床の間」に、三線を飾る伝統がある。戦時下、人々は先祖の位牌と三線を抱き締め、火の海を逃げ回った。戦後の混乱の中で、空き缶を利用して“カンカラ三線”を作り、歌と舞で明日を切り開いてきた。


 そうした伝統に触れながら、先生は寄稿に記した。


 「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」


 外間氏は民音公演で来日する広東雑技団や韓流ミュージカル「GAMBLER」の現地取材にも同行している。「反日」が騒がれていた折だったが、人と人が触れ合う文化交流の場に、そうした軋轢はなかった。
 

「寄稿で特に心に残ったのは、“文化は地味かもしれない。しかし、人間の心の奥深くまで照らし、平和と繁栄の方向へ、歴史変革の確かなる潮流を形づくっていく”という部分です。銃ではなく、三線で平和をつくる。沖縄には、そうした文化の力がある。それを池田先生がおっしゃるわけですから、重みがあります。ウチナーンチュ(沖縄人)として、うれしく思いました」
 

                  ◇ ◆ ◇

 寄稿が掲載された朝、桃原正義さん(学会の総沖縄長)は、涙をこらえ、感動をかみ締めていた。


 この「12月2日」は、19644年、池田先生が沖縄の地で、畢生の大著である小説『人間革命』を起稿した日であった。冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」とある。


 寄稿では、同書の執筆を沖縄で開始したことにも触れていた。長年の夢である沖縄訪問を果たしたゴルバチョフ氏(旧ソ連元大統領)との再会を通し、沖縄を見つめての氏との語らいも、「心を変え、心を結ぶことで時代は変えられる」との視座を共有するものであったとつづっている。


 外間氏は「原稿を受け取って初めて、那覇で『人間革命』の筆を起こされたことを知りました。先生は、よほど沖縄を強く意識されていたのでしょうね」と追想する。


 池田先生の沖縄訪問は、本土復帰前だけで6回、計17回に及ぶ。民音の関係者に対しても、沖縄の人々の力、喜びとなる文化交流をと期待を語ってきた。桃原さんは沖縄民音の創立公演(65年)に携わって以来、沖縄芸能を初めて舞台化した「沖縄歌舞団」公演(69年)など、その活動を草創から支えてきた。


 「72年の本土復帰前後、沖縄には大変な葛藤がありましたが、先生は一貫して沖縄の平和の使命を教えてくださいました。『人間革命』も他のどの場所でもなく、ここ沖縄を起稿の地に選ばれ、“あなたたちの悲願が喚起せしめた執筆”とまで言ってくださった。時をへるごとに、沖縄の偉大な使命が胸に迫ります」

 恩納村にある学会の沖縄研修道場は、かつての核ミサイル発射台が、池田先生の提案で「世界平和の碑」へと生まれ変わった場所である。沖縄テレビでは、これまで数度にわたって民音の特集番組が放映されてきたが、その中には民音公演で沖縄を訪れた折、研修道場を訪問するアーティストの姿も映し出されていた。


 沖縄を中心とする8カ国・地域の芸術団が一堂に会した「アジア平和芸能フェスティバル」(99年)の際には、公演後、出演者らが沖縄研修道場へ。ベトナムの民族芸術団団長は、こう感慨をこめた。


 「ベトナム戦争の時は、沖縄から米軍が出撃しました。今、沖縄が平和と文化の地となっているのは、池田先生の貢献が大きいと感じられてなりません」


 民音公演で来日するアーティストの中には、創立者の平和思想を学び深めたいと、小説『人間革命』等を読み込んで来日する人も少なくない。


 沖縄テレビの同番組で、大嶺哲雄氏(沖縄大学名誉教授)が小説『人間革命』について語っている。


 「沖縄の平和への願いを、よくあれだけの形にされた。皆、それぞれに戦争の悲惨さを感じていますが、書きたくても書けない。それを見事に、日本のみならず、世界に伝える流れをつくられたことに敬服します」
                    ◇ ◆ ◇

 沖縄に強い関心を抱いてきた一人が、ブラジルのアマラウ・ビエイラ氏である。

 同国最高峰の作曲家であり、世界的なピアニストである氏は、池田先生の人間革命の哲学に、「長い間、自分が考え、求めてきた“言葉にならなかった理想”」「生命の価値を最大に高めゆくメッセージ」と、深い共感を寄せてきた。


 小説『人間革命』の最終回が本紙に掲載された93年2月11日。ブラジルを訪問中だった池田先生に、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号が授与された。席上、祝賀演奏を披露したのがビエイラ氏である。


 このブラジル訪問には、沖縄の友も同行していた。ビエイラ氏との懇談の折、その友が、小説『人間革命』が沖縄で起稿されたこと、授与式の演奏が『人間革命』の完結を祝する演奏ともなったことを伝えると、氏は感嘆のため息をついた。


 「ぜひ沖縄へ行きたい。皆さんの平和を熱望する思いは、私の心でもあります」

 ――95年4月15日、民音のピアノリサイタルで来日したビエイラ氏は、沖縄公演の合間を縫って、念願だった沖縄研修道場を訪れている。


 「世界平和の碑」に生まれ変わった核ミサイル発射台の前に立ち、胸に手を当て、そっと目を閉じる。


 頬をなでる爽やかな海風。静かに時が流れていく。


 5分、10分……。ビエイラ氏は微動だにしない。


 民音の同行者が、ちらりと腕時計を見る。宮古島、石垣島、那覇とステージを重ね、この日は名護の会場に向かう途中だった。時間がない。


 「公演があります。もう行かないといけません」。移動を促すが、氏は動かない。


 「この場所から、池田先生の平和への思いが、ものすごいエネルギーで私を包んでくるのです。まだ離れられません。もう少しだけ、いさせてください」――常に笑顔を絶やさない氏が見せた真剣な表情に、同行のスタッフが息をのんだ。


 氏は池田先生の思想を主題として、これまで数多くの楽曲を手掛けてきた。2007年にフランスのエピナル市から依頼を受けて制作した協奏曲は、「新・人間革命」と名付けている。


 ビエイラ氏が先生に贈った作品は17に上り、その中にはサンパウロ芸術評論家協会の「交響曲大賞」や「最優秀室内楽大賞」を受賞した楽曲もある。
 

                   ◇ ◆ ◇ 


 池田先生は沖縄タイムスへの寄稿を次の一文で結んだ。それはまた、平和と芸術の都を基点とし、世界のアーティストに受け継がれゆく「命どぅ宝」の精神にほかならない。


 「『戦争と暴力の世紀』から『平和と芸術の世紀』へ――。その挑戦を、『沖縄の心』に学びながら、断固として進めていきたい。それが、私の願いであり、決意である」
 (月1回の掲載予定)


(2019年7月23日  聖教新聞)  







Last updated  2019/07/24 12:47:57 AM
コメント(0) | コメントを書く
2019/07/01
カテゴリ:民音

​​世界に魂を 心に翼を 
民音が開いた文化の地平
第17回 「命どぅ宝」の響き中
沖縄から「人類史の転換」を

沖縄の平和の心を受け継ぐ青年たちを励ます民音創立者の池田先生(1999年2月、沖縄研修道場で)

 高さ9メートル、長さ100メートル。
 巨大なコンクリートの壁に、六角形の穴が等間隔で並んでいる。
 青いサンゴ礁に彩られた恩納村。海岸から1キロほど入った所に、創価学会の沖縄研修道場がある。
 2004年12月4日、民音公演で来日していた中国・東方歌舞団の一行が、同地を訪れた。施設のあらましを聞き、団員は目を見張った。
 六角形の穴は、かつて核ミサイル「メースB」の発射口だった。射程距離は2400キロ。ロシア東岸部から東南アジアまでを攻撃範囲とし、中国の全主要都市を標的に収めていた。北京には1時間半で着弾する。
 メースB1発が広島型原爆の約70倍の威力。それが沖縄全体で21発、配備されていた。米ソの全面核戦争が危ぶまれたキューバ危機(1962年)では、メースBが発射寸前、すなわち“第3次世界大戦”の一歩手前だったことが後に判明している。
  当時の沖縄には、メースBを含め1000発以上の核兵器があった。
 一昨年、恩納村の基地に所属していた元米兵が半世紀ぶりにこの地を訪れた。その変貌ぶりに驚きつつ、当時を回想している。「世界を破壊し尽くすだけの核兵器がありました。今は想像もできませんが、沖縄は、世界有数の核の集積地だったのです」(松岡哲平著『沖縄と核』新潮社)


 研修道場の建設に際し、すでに廃墟と化していたミサイル発射台は撤去される予定だった。他の施設への転用も難しい。だが池田先生は、こう提案した。
 「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証しとして。沖縄には、平和を考える原点の場所として、ひめゆりの塔もある。健児の塔もある。それとは別の意味で、日本はもちろん世界の平和を考える原点の場所としよう」
 発射台の上に青年像が設置され、84年、ミサイル基地は「世界平和の碑」に生まれ変わった。
 敷地内には、戦争体験者による「沖縄戦の絵」の展示も。自分の国に向けられていた核ミサイルの面影と戦争の悲惨さが重なったのか、見学していた若い団員が言葉を失う。年配の引率者が、歌舞団に受け継がれる平和の使命を訴えた。
 東方歌舞団は、周恩来総理が命名し、発足当初から育てた中国随一の芸術団体である。海外歴訪の折、周総理は自ら団員を引率し、「外国に行ったら、異国の文化を学ぶとともに、その国の精神も学んでいくことだ」と、平和の魂を伝えてきた。
 歌舞団団長の田軍利氏が決意をにじませる。「池田先生、周総理の恩義を忘れなければ、何があっても乗り越えていけます。両国に何が起きても乗り越えていけると信じます」
                  ◇  ◆  ◇
 なぜ発射台を残したのか──。
 池田先生が、沖縄研修道場で中国メディアの取材に答えたことがある(99年2月19日)。
 「逆風の中で、なぜ日中国交正常化を提言したのか?」
 「舞台裏で、正常化のために奔走した思いは?」
 中国国営中央テレビの記者が、矢継ぎ早に質問を重ねていく。
 先生は、中国大陸に向けた砲口を180度変え、「平和の基地」へと転換した理由に言及。この月、発表したエッセーに、こう思いを寄せた。
 「核も、戦争も、人の心から生まれた。ならば、まず人の一念の『発射の向き』を変えよ! その逆転の作業を! 『碑』は、その象徴である。人類史の悲劇が、この小さな島に集約された。ゆえに、人類史の転換を、この島から起こすのだ」
 インタビューは中国で報道された後、沖縄のメディアでも放映されている。そこでは日中友好の端緒を知る識者のコメントと共に、両国の文化交流を最も進めてきた団体として民音の歴史が語られている。
 沖縄テレビでは、99年から民音の特集番組を多数、制作してきた。当時、事業局長として企画に携わった大城光男氏。ひときわ思い出深いのは、2001年初頭に放映した「敦煌芸術劇院」の特集番組だという。同劇院の沖縄公演を前に、その意義を伝える内容だった。


 取材で敦煌莫高窟を訪れた時のこと。正面の入り口に、敦煌文化の発展に貢献した人物として、民音創立者である池田先生の肖像が掲げられていた。敦煌研究院の樊錦詩院長が一行を出迎え、「先生との友誼は、永遠に忘れられません。先生への感謝を、いつも心に銘じています」。
 莫高窟の保護と宣揚に尽力する同院の重要性を、先生は深く理解し、その意義を世界に発信してきた。“敦煌の守護神”と称される常書鴻氏(故人)と対談集を発刊し、日本各地での「中国敦煌展」にも力を尽くした。 常氏の妻である李承仙夫人は、開口一番、かつて夫妻で沖縄研修道場を訪問した思い出を述懐。この折、常氏は「この平和運動が本物であることを再認識した」と語っている。
 “敦煌一つをとっても、ここまで中国との関係は深いのか”──感慨を深める取材陣。
「行く先々で、中国の方が池田先生の話をされていました。どこへ行っても、です。驚きました」(大城氏)。“先生が創立された民音のためなら”と、中国側の誰もが協力を惜しまなかった。
 ◇ ◆ ◇ 
 池田先生は折々に語っている。
 “沖縄の人々には、人間としての強さがある。一人一人が平和の尊さを妥協なく叫び、その歌舞音曲には生命尊厳の響きが脈打つ”と。
 沖縄芸能の夜明けを開いた「沖縄歌舞団」(1969年)、南の海の主役である沖縄を描いた「マリンロード音楽の旅」(84年)、新時代の沖縄を発信したミュージカル「大航海」(91年)など、民音の全国公演が催されるたび、池田先生は成功を願い、エールを送り続けてきた。
 97年に結成された沖縄の舞踊集団「花やから」は、数ある民音のステージの中でも最多の公演数を誇る。華麗な琉球舞踊と天真爛漫な舞台が話題を呼び、これまで600回を超える公演を重ねてきた。普段は巡演できない町々の会場にも赴き、福祉施設などでの慰問公演も数多い。
 「どの場所でも、市や町、村を挙げて応援してくださいました。特に印象深いのが奥尻島です」。そう振り返るのは、北海道で公演等の責任者を務めていた小松清史さん。北海道南西沖地震(93年)から10年がたった2003年8月、公益事業として「奥尻町民コンサート」が開かれた。
 「どうせ堅苦しい踊りだろう」。そう高をくくっていた壮年が、開幕してすぐに涙をぬぐっていた。満場の大声援が飛び交い、公演翌日には感動冷めやらぬ島民が港に見送りに。島を離れる船に手を振り続けた。
 道内44カ所で好評を博した「花やから」公演。再演を望む声も多い。「北の大地に沖縄の太陽を運んでくれました。何度も“生きる希望をもらった”と耳にしました。
沖縄の方々から託されたメッセージも紹介され、まさに“平和大使”を派遣していただいた思いです」(小松さん)
                  ◇  ◆  ◇ 
 「花やから」の奥尻島公演は、沖縄テレビでも放映され、多くの反響が寄せられた。
番組を手掛けた大城光男氏が、誇らしげに語った。
 「沖縄の芸能を日本中、世界中に広げ、世界の音楽芸術を沖縄にもたらしてくれたのが民音です。そして民音公演に携わってきた世代が、今の沖縄芸能を支えています」
 氏は、報道畑を皮切りに、一貫して制作現場を歩み、沖縄芸能を紹介する人気番組“郷土劇場”などを担当。同企画は、半世紀をへた今も後継番組が続く。「“芸能の灯は絶対に消さない”という決意でやってきました」と、思いを巡らせる。
 事業局長として多くのイベントを催してきた。だからこそ一回一回の民音公演の重みが胸に迫るという。「ある来場者が、“鑑賞したいけど交通手段が……”と言う知人と、車で乗り合わせて公演を楽しんでいました。それを見て、日本人が忘れていた“原風景”に触れたような気がしました。私も友人に声を掛けて、一緒に公演へ足を運びました」
 番組の編集作業中、池田先生と同じ空間にいるだけで、涙を流している人たちの存在に気付いた。
 「なぜ、この人たちは泣いているんだ?」──話を聞く中で、「どこよりも戦争で苦しんだ沖縄こそ、どこよりも幸福になる権利がある」との先生の言葉を知り、納得がいった。
 「先生にお会いしたことはありませんが、大変な思想家であることは分かります。
偏見を持つ人もいますが、良いものは良いとしか言いようがない。“何がおかしいの?”って聞くと、誰も何も言えないですよ。私自身、民音に、そして先生という人間にほれ込んでしまいました」
 池田先生は述べている。
 「平和ほど、尊きものはありません。平和ほど、幸福なものはありません。『命どぅ宝』──この沖縄の心が地球を包み、世界中の母と子の笑顔が輝きわたる未来の光彩を、私はいつも思い描いています」
 人々の平和への願いを乗せ、“沖縄の心”を伝えゆく民音の歩みに、深い共鳴が広がっている。 (月1回の掲載予定) ​​


(2019年7月1日  聖教新聞)







Last updated  2019/07/01 03:00:05 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/05/13
カテゴリ:民音

​​世界に魂を 心に翼を 第16回 「命どぅ宝」の響き  <上>
​民音が開いた文化の地平​
沖縄の“大恩”を忘れるな

   民音創立者の池田先生が首里城を視察。アジア諸国との交易で栄えた琉球の歴史に思いをはせた(94年2月)

 創立以来、民音は世界110カ国・地域と交流を結び、海外の一流の音楽芸術を日本に届けてきた。累計公演数は約8万回にも及ぶ。
 海外初招聘(しょうへい)となったのは、1965年12月に招いたイスラエルのピアニスト。
その後、各国との文化交流は徐々に広がっていき、沖縄の地でも、72年5月15日の本土復帰を機に海外招聘の期待が高まる。
 だが招聘は一筋縄ではいかなかった。本州から離れた沖縄では、アーティストの交通費や機材の輸送費など経費がかさむ。その分、入場料を高くせざるを得ないが、値上げすれば気軽に足を運んでもらえない。当時、沖縄は失業率が高く、県民所得は全国最下位だった。沖縄への海外招聘はできないとの声も上がった。
 沖縄民音の上江洲勝雄(うえずかつお)さん(故人)は、助成を受けるために自治体や関係者のもとへ何度も足を運び、文化交流の意義を切々と訴えた。
 やがて、その熱意が伝わり、自治体や企業の協力を得て、沖縄への海外招聘が次々に実っていく。フランスの名バイオリニストであるミッシェル・ベネデット氏ら(76年)をはじめ、これまで30を超える国・地域のアーティストを招いてきた。著名な音楽家の公演を聞き付け、台湾などから飛行機で来日する観客もいた。
 上江洲さんの原点──それは91年2月7日、沖縄を訪れていた民音創立者の池田先生が、那覇市の親泊康晴(おやどまりやすはる)市長と懇談した時のことである。
 開口一番、先生は「民音が、大変にお世話になっています」。そして「私は沖縄を大切にします。それは日本のために一番の犠牲になった国土だからです」と。
 断固とした口調に、上江洲さんは衝撃を受けた。
 先生は、沖縄が持つ平和の使命、さらに芸術を通して心を結ぶ“民間外交”の重要性を強調している。
 創立者自ら交流の道を開く姿を目の当たりにし、上江洲さんの行動は一段と熱を帯びていった。
 世界各地の音楽文化、芸術交流の大切さを語る中で、当初は民音の存在を快く思っていなかった地域の実力者までもが、沖縄での公演を応援してくれるまでに。思想や信条を超えて一丸となって連携する姿は、関係者が不思議に思うほどだった。
                  ◇ ◆ ◇
 高台にある深紅の首里城に、爽やかな海風がそよぐ。
 94年2月17日、沖縄訪問中の池田先生が首里城を視察。戦争で焼け落ちた城は、本土復帰20周年を機に、国営公園として復元されていた。
 同行していた桃原正義(とうばるまさよし)さん(学会の総沖縄長)。「先生は“復元されたら、一緒に行こう”との約束を覚えていてくださいました。滞在できる時間は数十分。学芸員の方には最小限の解説でとお願いしていたのですが、先生は首里城や沖縄の歴史について矢継ぎ早に質問されました」
 先生は、沖縄には中国と長い交流の歴史があることに触れ、“沖縄は世界に通じているね”。
 桃原さんは語る。「琉球王国は中国や東南アジアと盛んに交流し、多種多様な文化をチャンプルー(混ぜる)して独自の文化を生み出してきました。先生は、文化立国としての沖縄に着目されたのだと思います」
 首里城の正殿には「万国津梁(ばんこくしんりょう)(世界の懸け橋)の鐘」が掛けられていた。気宇壮大な志で海を渡り、大々的な交易で繁栄した琉球王国だが、1609年に薩摩藩から侵攻を受けて以来、文化的にも抑圧が続いた。太平洋戦争末期の沖縄戦では、方言を使用したために殺された人もいた。日本語でない言葉は、全て“暗号”とされたからだ。
 明治から戦後にかけ、学校の黒板には「標準語励行」と書かれていた。方言を使えば「方言札」という札を首に掛けられ、罰せられた。桃原さんは1968年に就職し、パスポートを握り締めて上京したが、「自分は正しい日本語を話せているのか、いつも不安でした」と述懐する。
 「私たちの上の世代は、方言を使うと、札を掛けられて廊下に立たされました。
私も方言を使い、掃除当番をさせられたのを覚えています。自由に話せず、自信が持てない。いつも自分を卑下していました」
 沖縄初訪問の折(60年)、池田先生は首里城ゆかりの万国津梁の鐘を通し、“沖縄には平和の魂がある。その平和の魂で世界の懸け橋を築くんだ”と望んだ。以来、一貫して、世界を結ぶ沖縄の使命、さらに沖縄の文化の偉大さを訴えてきた。
 民音が主体となって沖縄の民俗芸能を舞台化し、世界各地で脚光を浴びた「沖縄歌舞団」(69年)の公演から、今年で50年がたつ。その間、民音は、沖縄の心を伝える公演を次々と実現させてきた。
 桃原さんは振り返る。「沖縄の誇りと使命に目覚めよ。池田先生は常に、そう励ましてくださいました」
                  ◇ ◆ ◇
 「沖縄芸能のリーダーを育てる場となってきた民音。世界の人々がともに平和を愛する同じ人間であることを、世界で交流を広げている民音が知らせてくれた」
(「沖縄タイムス」2003年12月2日付)
 そう民音の歩みを評するのは、沖縄芸能研究家の宜保栄治郎(ぎぼえいじろう)氏。
 沖縄の芸能に批判的だった人々でさえ、民音の公演には「沖縄の心、魂が表現されている」と反響を呼んできたと語る一方で、ブロードウェーや雑技団といった多彩な芸術の招聘が大きな刺激となり、沖縄の新たなジャンル、演目の創造につながっていくと述べている(同)。
 中でも本土復帰から20周年となる92年に全国公演を行ったミュージカル「大航海」は、沖縄の舞踊・音楽関係者が総力を挙げ、沖縄の新時代を広く伝えるものとなった。出演者は各分野の第一線で活躍している。
 舞台は500年前の琉球王国。島を飛び出した若者たちがアジア諸国を巡り、さまざまな人や文化と出合い、手を取り合って進む──まさに“万国津梁”の再現である。
 主役の一人を務めた当銘由亮(とうめよしあき)氏。「『大航海』が僕らの世代に与えた影響は大きかった。芸能家の基本が全て詰まった舞台でした。そういった経験は、後にも先にもありません」
 92年の全国ツアーは、11、12月の巡演。青森での公演は降雪に見舞われた。
若手舞踊家の中には、初めて雪を目にした人も。「経験したことのない寒さでした。でも民音の舞台は寒さを吹き飛ばす熱気にあふれていました」と感慨を深める。
 氏は「ウチナーグチ(沖縄方言)」を生かした舞台を貫いた。幼少時代、学校で「今日の目標」に「方言を使わない」と掲げられていたこともあった。「大航海」の公演を重ねる中で、方言の豊かな魅力をかみ締めた。
 「ウチナーグチには、日本語だけでは伝えきれない心がこもっています」と話す当銘氏。沖縄芝居、歌三線、琉球舞踊などの伝統芸能を“現代エンターテインメント”として表現するなど、多彩な活躍を見せる傍ら、沖縄方言の継承にも力を尽くす。
                  ◇ ◆ ◇ 
 「大航海」の舞台を脚本・音楽監督として支えたのが、沖縄音楽界の中心的存在であった中村透氏である。
 沖縄を舞台とする創作オペラや合唱曲、オーケストラ作品などを手掛け、多くの後進を育んだ。
 本年2月7日、氏は72歳で世を去った。葬儀には1,000人以上が参列。氏の思い出話に花を咲かせ、いつまでも家路に就くことはなかった。
 北海道出身の中村氏は75年に沖縄へ。沖縄戦の歴史に触れ、“人間として、作曲家として、戦争とどう向き合うか”呻吟した。代表作となった「交響絵図 摩文仁野(まぶにの)第2番」では、戦下の混乱と悲しみを打楽器の連打と不協和音で表現。終盤の「祈り」の場面を沖縄の音階で紡いだ。
 中村氏の妻であり、オペラ歌手の玻名城律子(はなしろりつこ)氏が語った。
 「“沖縄の若き人材を世に出したい。どう光を当てたらいいか”──中村は、その一心で駆け回っていました。『大航海』の音楽を任された時、最初は戸惑っていたのを思い出します。原作には、壮大な沖縄の世界観がありました。歴史を学び直しつつ、たくさんの音楽家に声を掛け、楽しそうに取り組んでいました」
 玻名城氏は沖縄出身だが、東京の大学でクラシック音楽を学び、沖縄の音楽文化への関心は薄かったという。「大航海」では歌唱指導を担当したが、台本を見て驚いた。島を出て、異国で新たな文化と知識を得て故郷に持ち帰る──自身の体験と、どこか重なるところがあった。
 「私の世代くらいまではコンプレックスがあります。『大航海』で自分たちの歴史を知り、日本中で喝采を受ける中で、“私たちはこれでいいんだ”と思えるようになった。中村も、そのことを知っていた。だからこそ、民音の舞台にここまで力を注いだのだと思います」
                  ◇ ◆ ◇ 
 91年2月、那覇市長と会見した直後に池田先生は語っている。
 「日本の“本土”のために、命を捨てて戦い、筆舌に尽くせぬ悲惨な戦禍に苦しんだ。沖縄の犠牲があったからこそ、戦後の日本の繁栄があり、平和がある。日本全体が、沖縄に“大恩”がある。その根本の事実を忘れて、繁栄に傲り、『報恩』しないばかりか、見下すようなことは絶対に許すことはできない」
 「一番苦しんだところが一番幸せになる権利がある。これが仏法の慈悲の精神である。ゆえに、沖縄にこそ、最高の『平和の楽土』を、『幸の都』を築かねばならない。築きたい。そして沖縄の人々こそが、誰よりも幸せになっていただきたい。
そのためには何でもして差し上げたい」
 まもなく、令和初となる47回目の本土復帰の日が巡り来る。
 時代は変われど、文化交流に臨む民音の精神は一貫して変わらない。
 心を震わせる感動の音楽を。
 人の誇りを呼び覚ます芸術を。
 その人間と人間の魂の共鳴から、新たな時代は開かれる。​​


 (月1回の掲載予定)
(2019年5月13日 聖教新聞)







Last updated  2019/05/13 08:40:57 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/04/29
カテゴリ:民音

​世界に魂を 心に翼を 
第15回 ​沖縄芸能の光彩 <下>  百年先も変わらぬ思い​
 
本土復帰20周年を記念するアジア平和音楽祭。民音創立者の池田先生が太鼓を手に(1992年2月、沖縄で)

「平成」の音楽シーンは、沖縄のアーティストを抜きには語れない。
 とりわけ、本土復帰から20周年を迎えた平成4年(1992年)は、安室奈美恵がデビューし、THE BOOMの「島唄」がヒットするなど、沖縄の音楽文化が脚光を浴び始めた転機の年だった。
 当時、沖縄タイムス社の芸能担当記者だった上間正敦氏(現・読者局長)。

「まさにターニングポイントでした。それまで抱いていた言葉や文化へのコンプレックスから抜け出し、明るく大きく沖縄文化を捉え、誇りを持とうとした時代です。その代表作が『大航海』。そう紙面でも取り上げてきました。初めて民音の存在を意識した公演でもあります」
 民音が企画・制作した「大航海」は、500年前の琉球を舞台としたミュージカル。91年に沖縄で初演され、翌92年に全国で公演された。
 沖縄の民俗芸能を初めて舞台化した「沖縄歌舞団」の公演(69年)以来、民音は一貫して沖縄芸能の魅力を伝える公演を主催してきた。
 そうした歴史を俯瞰しつつ、上間氏は語った。「芸能に携わった者として感服します。沖縄だけでは、これほど大がかりな企画はできない。『大航海』に関わった人たちが、今、第一線で活躍しています」
                   ◇ ◆ ◇
 ミュージカルの舞台は、琉球王国がアジア諸国と活発な交流を重ねていた「大交易時代」。
 島を飛び出した5人の若者が、中国、タイ、マレーシア、インドネシアの各地で、さまざまな人や文化、芸能と巡り合い、沖縄文化のルーツを知る――という物語である。
 原作は伝統芸能研究の第一人者である三隅治雄(みすみ はるお)氏、脚本・音楽監督を作曲家の中村透(なかむらとおる)氏が担当。照喜名朝一(てるきな ちょういち)氏や照屋林賢(てるや りんけん)氏、普久原恒勇(ふくはらつねお)氏らが音楽、幸喜良秀(こうきりょうしゅう)氏が演出、佐藤太圭子(さとうたかこ)氏が振り付けを手掛けるなど、沖縄を代表する顔ぶれがそろった。
 主役の5人は、オーディションで選ばれた若手舞踊家たち。沖縄歌舞団などで活躍した熟練の踊り手が演技指導を担い、そこに、アジア各国から招いた芸術家が加わった。
 沖縄芸能を継承しゆく各世代の芸術家と、アジアを結ぶ民音のネットワーク。その総力を結集した舞台が「大航海」であった。
 「さまざまな事情やしがらみを背負った若者が、沖縄人らしい明るさやしたたかさで、外の文化を吸収する。一人また一人と仲間に加わり、共に大きな目標へと達していく――ストーリーに“夢”がありました」
 そう「大航海」を振り返るのは、主役を務めた一人、玉城盛義(たまぐすくせいぎ)氏(玉城流三代目家元)。伝統芸能を中心に、現代演劇や映画など、ジャンルを超えて幅広く活躍する。先月、天皇陛下御在位30年を記念し、東京・国立劇場で伝統の組踊を上演した。
 「大航海」に出演した当時、玉城氏は大学生。幼少から古典舞踊に親しんできたが、演劇も海外の舞踊家との共演も初めての経験だった。
 「とにかく“飛び込もう”と思いました。沖縄歌舞団以来となる大きな公演です。歌舞団の公演は、その後、沖縄から発信する芸能のベースとなっていきました。出演した先生方が、歌舞団の公演を誇らしく語っていたことを覚えています」
 アジア各国の舞踊家と「大航海」のステージを共にする中で、玉城氏は文化の力を実感した。「芸能を通して、どんな国の人とも一つになれる。そう確信した原点です」
 後に、日韓関係が冷え込んだ折、玉城氏が韓国・済州島で行われた文化行事に参加したことがある。
 済州島は、沖縄と同様に差別に苦しんだ歴史を持つ。島の人々と語らう中で、「過去は過去。今を生きる私たちは前を向こう」と、対立を超える人間の絆を約し合った。
 玉城氏は語る。「見聞を広めるほどに、『大航海』のテーマは普遍的であったと感じます。“沖縄ブーム”が起こる直前、沖縄に生きる素晴らしさを、改めて認識した公演でした。国家間などの次元を超えて、人は手を取り合える――今、より求められているテーマではないでしょうか」
                   ◇ ◆ ◇
 91年11月、「大航海」は那覇市民会館を皮切りに、沖縄の7会場を巡回。行く先々で喝采を浴びた。
 沖縄の浜辺から始まり、アジア各国を旅する全9景。豊かな演技とともに観客の心を打ったのが、テーマソング「イチャリバチョーデー(行き逢えば兄弟)」である。歌い上げられる“沖縄の心”に、イントロが流れるだけで涙する人もいた。
 民音創立者の池田先生は、各会場の模様を耳にするたび、公演の成功を祝福し、伝言を寄せている。
 先生の沖縄への思いは深い。何度も足を運んで対話を重ね、沖縄返還の具体的道筋が見えなかった67年、本土復帰を求める提言を発表。畢生の書である小説『人間革命』も沖縄の地で起稿した。ミサイル基地跡を核廃絶を訴える拠点へと蘇らせ、各国の指導者・学識者を招いてきた。
 ミュージカル「大航海」が話題を呼んだ91年と92年、先生は相次いで沖縄を訪れている。92年2月には、本土復帰20周年を記念するアジア平和音楽祭(沖縄研修道場)に出席。“栄えゆく沖縄の姿が、何よりもうれしい。10年前、20年前に、今日の沖縄の発展を誰が予想できただろうか”“第一級の国際人である沖縄の人々の心に学び、人間交流の大航海時代へ出航を”と語り、交歓会では太鼓を持って舞に加わった。
 この年の秋、東京から始まった「大航海」の全国公演は、23都市を巡演。各地で大きな感動を呼び起こし、沖縄の新たな時代を感じさせた。
                   ◇ ◆ ◇
 今、沖縄で“奇跡の舞台”と評されるステージがある。
 伝統の「組踊」をベースに、ダイナミックな舞、大迫力の音楽などを取り入れた「現代版組踊」である。
 その主役は子どもたち。伝統芸能を喜び舞う中高生の姿は、全国ネットなどでもたびたび取り上げられ、青少年の人材育成や地域おこしの場としても大きな関心が集まる。
 この“沖縄版ミュージカル”の生みの親は、「大航海」にも出演した平田大一氏。現代版組踊の推進協議会会長を務め、甲子園の応援歌などで人気の「ダイナミック琉球」を作詞したことでも知られる。
 「『大航海』がなければ『現代版組踊』もなかった」と氏は言う。
 「沖縄を見つめ直すきっかけになりました。足元にある古典芸能や琉球舞踊の重みに気付き、もう一度、沖縄から出発したいと思えた。僕の芸術性の方針を決めてくれたんです」
 人口500人の小浜島で育ち、東京の大学へ。自作の詩を朗読する舞台に取り組んでいた時、「大航海」の主役に抜てきされた。
 「大航海」で描かれた、アジアの国々との麗しい文化の絆。ある日、その系譜を自らの目で確かめようとインドネシアへ飛んだ。バリ島で見た笛の作り方が、小浜島と瓜二つなのを目の当たりにし、心が躍った。
 92年の「大航海」をへて、数々の舞台で脚本や演出を手掛けてきた平田氏。那覇市芸術監督や県の文化観光スポーツ部の部長等も歴任し、沖縄のさらなる発展に尽くす。
 「子どもたちに“感動”してもらえるかどうか――それが全ての始まりです。若い人が生き生きと躍動する姿が、この街の未来に直結する。『大航海』という舞台に育ててもらった僕が、今度は子どもたちに沖縄の素晴らしさを伝えていきたい」
                   ◇ ◆ ◇ 
 これまで30カ国以上で琉球舞踊を披露してきた玉城敦子(たましろあつこ)さん(玉城敦子琉舞道場主宰)。「特段、意識はしませんが、『大航海』は常に私の中にあります。稽古をつける時も、いつの間にか公演の話をしていますから」と歯切れ良く語る。
 玉城さんにとっても、初めてのミュージカル。かつて、これほどの時間をかけて一つの作品に向き合った経験はなかったという。
 演出家の指導を受けながら役柄を掘り下げる。厳しい指摘に納得がいかず、他の主役メンバーと夜通し意見をぶつけ合った。「あの時、こういうことを言いたかったのかと、今になって理解できることもたくさんあります。沖縄のみならず、アジアの一流の芸術家の力が結集した舞台でした。まさに民音のなせる技です」
 主役の一人一人に思いをはせながら、玉城さんは言葉を継いだ。
 「一時的な取り組みではなく、民音は、それこそ半世紀にわたって、沖縄に限らず、日本の芸能を後押ししてきた。ずっと同じ思いで応援してくれた。その思いは、次の世代にグラデーションのように継がれているんです。百年先も変わらない熱さで応援してくれると思う。だから私も民音を語り継いでいきたい。支えてくださる方がいるから、自分がこれだけ輝けるのだと」
                   ◇ ◆ ◇ 
 民音が沖縄歌舞団の公演を行ってから、ちょうど50年。埋もれかけていた沖縄芸能の魅力を“再発見”し、新たな“創造”の場を紡いだ半世紀は、世代を超えて芸能の魂をつなぎ、次代の担い手を育みゆく挑戦でもあった。
 その原点は、池田先生の沖縄を思う心にほかならない。
 「芸術は、生きる歓びの歌である。芸術は、人間を結びあう力である」「この芸術の真髄の魂が、いずこにもまして躍動する天地こそ『万国の津梁(懸け橋)』沖縄である」
 不変の原点を胸に、民音は文化の未来を照らし続ける。これまでも、これからも。


 (​<中>は4月5日付に掲載​)

 (2019年4月29日 聖教新聞)







Last updated  2019/04/29 01:49:01 PM
コメント(0) | コメントを書く
2019/04/21
カテゴリ:民音

音楽で心結ぶ 民音が台湾で派遣公演
 創価文教基金会(台湾SGIの文化団体)の文化交流事業30周年

  民音の台湾派遣公演30周年を記念した「舞太鼓あすか組」の圧巻のステージ。大太鼓の怒濤の乱打に、聴衆は喝采を送った(17日、台北市の国父記念館で)

 “音楽の力で人々の心を結び、世界平和の実現を”――創立者・池田大作先生の理念のもと、世界中に友情の絆を広げる民主音楽協会(民音)。
 その民音による台湾派遣公演(主催=創価文教基金会)が10日から行われ、大きな反響を呼んでいる。
 創価文教基金会は、台湾SGI(創価学会インタナショナル)の文化団体。1989年から、民音を通して、これまで20カ国のアーティストを招へいし、300回以上の公演を実施してきた。
 日本の伝統芸能、アルゼンチン・タンゴ界の巨匠やロシア民族歌舞団によるステージ、ブラジルのアマラウ・ビエイラ氏のピアノリサイタルなど、多岐にわたるジャンルのコンサートは大好評を博している。

 こうした文化交流事業30周年の意義を込めた今公演には、和太鼓グループ「舞太鼓あすか組」が出演。17日の台北市の国父記念館での公演には、台湾行政院の元文化部長で財団法人文化台湾基金会の洪孟啓名誉理事長、中国文化大学の徐興慶学長ら多くの来賓をはじめ、約2,500人が鑑賞した。
 開幕を告げたのは和太鼓を中心とした楽曲「波動」。会場の空気が震えるほどの太鼓の響きに、聴衆からはどよめきが。続いて、力強い掛け声、しの笛や尺八の音色とともに、次第に勢いを増す太鼓の乱打。躍動のパフォーマンスに大きな拍手が起こった。
 公演では、聴衆をステージに招き、音楽に合わせて一緒にダンスをする一幕もあり、プログラムが進むにつれ、場内は一体になっていった。

 来賓の洪名誉理事長は、「“音楽文化交流を通して平和な世界を築く”との池田先生の思想をもとに、民音と創価文教基金会が共に築いてきた30年にわたる公演の歴史の意義を、かみしめるものでした。こうした活動をこれからもぜひ続けていただきたい」と力を込めた。また、徐学長は「日本の芸術文化の力強さ、美しさに心が震えました。池田先生の平和思想に深く共感するとともに、世界各国と文化交流を進めてきた先生の多大なる貢献に心から敬意を表します」と述べた。​


 同公演は、15日には新北市の台湾芸術大学で「学校コンサート」の意義を込めて行われ、950人を超える同市の小・中学校の児童・生徒、同大学の学生らが鑑賞した。
 今月24日まで全9公演が行われる予定となっている。


(2019年4月21日 聖教新聞)


動画  民音 台湾派遣公演  







Last updated  2019/04/23 12:08:36 AM
コメント(0) | コメントを書く

全15件 (15件中 1-10件目)

1 2 >


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.