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1

虹を懸ける

2019/10/27
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カテゴリ:虹を懸ける

虹を懸ける 池田先生とブラジリア 
学会活動こそ最高の幸福道




ブラジルの首都ブラジリアを初訪問した池田先生が、地域の公園でメンバーと記念撮影した後、真心の励ましを送る(1984年2月23日)


 南米ブラジルの首都ブラジリア。計画都市のモデルとして区画整理された美しい街並みは、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。本年は、池田先生のブラジリア初訪問から35周年。師匠と共に、幸福の人生を開いてきた友を紹介する。



 陽光に照らされ、木々の緑が輝いていた。1984年2月23日、池田先生ご夫妻が、ブラジリアの代表600人と公園で記念撮影を行った。


 66年以来、18年ぶり3度目となる先生の訪伯。ブラジリアへは、初の訪問である。


 午後2時50分、先生は公園に到着すると、同志の輪の中へ。皆の後ろにいた鼓笛隊と音楽隊を見つけ、「前にいらっしゃい」と優しく手招きした。


 記念撮影の後、軽快なサンバの演奏が披露された。先生は笑顔で呼び掛けた。


 「ありがとう。皆さんの元気なお姿を見て、本当にうれしい。これからも、良き市民として、また良き社会人として成長し、これ以上に幸せな人生はない、という人生を生ききってください」


 その言葉に、メンバーから「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ!」と、感謝と誓いを込めた歓声が沸き起こる。先生は一人一人の目を見つめ、握手を交わした。


 この記念撮影を機に、ブラジリア広布は加速していく。



同志に尽くす


 鼓笛隊の一員として、記念撮影に参加したエウダ・オリベイラ・アウベスさん(分圏婦人部長)。

「初めて池田先生とお会いしました。父親のような温かさを感じ、胸がいっぱいになりました」と述懐する。


 幼少期から引っ込み思案な性格だった。16歳の時、両親が離婚。母と弟の3人で暮らした。同じ頃、人と会うことがつらくなり、人混みの中にいると呼吸が苦しくなったり、めまいを起こしたりすることもあった。「当時は原因が分かりませんでしたが、今思えば、パニック障害だったのだと思います」


 心配し、足しげく家に通ってくれた幼なじみが、ブラジルSGIのメンバーだった。何度も座談会に誘われて断りきれず、“一度だけなら”と会合へ参加した。

「初めて御本尊を拝し、題目を聞いた時、何とも言えない晴れやかな気持ちになったんです」


 帰宅後、その感動を家族に伝えると、母も以前、座談会に行ったことがあり、しかもSGIに好感を抱いているという。2人で勤行・唱題を開始。81年5月、一緒に入会した。


 程なくして、アウベスさんは鼓笛隊に入った。だが状況はすぐに好転したわけではない。健康への不安は消えず、練習にはいつも母が付き添った。


 高校卒業後、定職に就けず、家に閉じこもる日々。“自分を変えたい”と懸命に題目を唱えた。徐々に前向きな気持ちになり、4カ月後、一人で練習に行けるように。念願だった就職も果たした。


 先生との出会いを刻む頃は、社会の第一線で働くようになっていた。メンバーを包み込むように励ます師の姿に、自分も人のために尽くせるようになろうと決めた。


 ブラジリアの女子部長などを務め、婦人部でもリーダーとして活躍。「自分が苦しんだ分、人の痛みが分かるようになりました」


 先生の振る舞いを胸に刻み、同志の幸福のために全力を注ぐ。



師との記念撮影


 池田先生のブラジリア滞在は1984年2月21日から23日までの3日間。この間、先生はフィゲイレド大統領をはじめ、外相や教育・文化相など政府の要人と相次ぎ会談した。


 ブラジリアの同志は、先生の滞在期間中、自主的に集まり、諸行事の大成功を祈り続けていた。

 リツコ・ナカヨシさん(総合方面婦人部総合長)は振り返る。「ブラジリアには会館がなかったため、青年部を中心に個人会場に集まり、真剣に唱題を重ねていました。仕事や学校を終えてから駆け付ける人も多く、題目の声が途絶えることはありませんでした」


 その様子を聞いた先生は、少しでも同志を励ましたいと、当初は予定になかった記念撮影を提案した。


 連絡を受けたメンバーは喜びに沸いた。そして急きょ、行われたのが、23日の記念撮影だった。


 その折、先生は、いつの日かブラジリアに会館が建つことを念願した。


 「先生の希望あふれる言葉に、皆が奮い立ちました」と語るナカヨシさん。鹿児島県出身の彼女は57年、家族と共にブラジル北部のベレンに渡った。一家で米や野菜の栽培を始めたが、思うようにいかなかった。


 心機一転、ブラジリアへ転居。しかし、家が火事に見舞われるなど試練は続いた。


 そんな時、近隣の友人から信心を勧められ、62年8月に実践を始める。


 生活は貧しく、車もない。毎週開かれる座談会には、家族6人で1時間ほど歩いて通ったという。


 その後、農家を諦め、家族で小さな青果店を開いた。ナカヨシさんは夜間大学に通いながら、店を手伝った。


 73年に結婚。4人の子宝に恵まれた。84年の記念撮影には、子どもの手を引いて駆け付けた。


 ナカヨシさんは師の励ましを支えに、仕事も、育児も、学会活動も、一歩も引かず挑戦。現在はスーパーマーケットの経営者となり、経済革命を成し遂げた。長年、ブラジリアの婦人部長を務め、友の激励に走り抜いてきた。


 96年12月、ブラジリアの中心部にほど近い大使館街の隣接地に、念願だったブラジリア文化会館が落成した。


 ナカヨシさんは胸を張る。「美しい白亜の会館は私たちの誇りです。自分自身の名前のように、皆と“仲良く”前進し、地域に希望の連帯を広げます」



後継の人材を


 マリア・ダ・パス・オサムラさん(総合方面婦人部総合長)も、池田先生との記念撮影が“人生最高の誇り”となっている。


 1977年に入会し、81年10月、壮年部員だった陽一さんと日本で結婚。夫婦でブラジル広布に尽くそうと決意を固めた。


 渡伯する前、夫妻は池田先生と出会いを刻む。結婚の報告をすると、先生は喜び、「君たちのことは絶対に忘れないよ。ずっと一緒に戦っていくんだよ」と。陽一さんに「良きブラジル市民になっていきなさい」とエールを送った。


 オサムラさんが結婚したのは39歳。卵巣のう腫を患っていたが、どうしても子どもが欲しかった。夫婦で祈る中、妊娠の兆候が。しかし喜びもつかの間、妊娠3カ月で流産――。


 悲しみに沈む中で、師の励ましを思い返した。今こそ夫婦で乗り越えようと、懸命に唱題を重ね、学会活動に奔走した。


 84年の記念撮影。師と再会した時、オサムラさんのおなかには新しい生命が。夫婦で“子どもを広布後継の人材に育てよう”と誓い合った。


 5カ月後、42歳で長男を出産。翌年には、次男も誕生した。


 だが、オサムラさんを試練が襲った。91年1月、夫が脳卒中で倒れ、急逝したのだ。
 

「長男の光一は6歳、次男の健治は5歳でした。女手一つで子どもを育てるのは想像以上に大変でしたが、亡き夫との誓いを果たそうと、ただただ成長を祈り続けました」


 仕事をしながら、宿命転換を懸け、広布拡大に挑んだ。


 96年にはブラジリアの婦人部長に。これまで個人で30世帯を超える弘教を達成。本年4月にも御本尊流布を成し遂げた。


 息子たちは母の背中を見て、師を求める心を学んだ。兄弟ともに、ブラジルの大学を卒業した後、日本の創価大学大学院を修了した。


 現在、兄弟は東京・八王子市に住み、長男の光一さんは区男子部主任部長、次男の健治さんは男子部大学校2期生として活躍。本年、それぞれ弘教を実らせた。


 オサムラさんは声を弾ませる。「池田先生の激励のおかげで、私はこんなに幸せになりました。生涯、先生と共に、広布の道を歩んでいきます」


                      ◇


 35年前の先生の励ましを原点に、ブラジリアの天地に根を張り、人間革命の功徳と実証の花を咲かせてきた同志たち。その「人間革命」即「社会貢献」の師弟の勝利を寿ぐかのように、ブラジリア連邦区から1998年7月、池田先生ご夫妻に「名誉市民証」が贈られている。その就任式で、先生は「この栄誉を、広宣流布への前進を大勝利させた全同志に捧げたい!」と。さらに、こう訴えた。


 「私どもは、果たすべき『使命』が明確になっている。『広宣流布』という、全人類を幸福にする『最高の仕事』がある。この使命の道で苦労しながら、学会活動に励めることは、最高に『幸福』なのである」
 師弟の絆で結ばれたブラジリアの同志の心には、歓喜の花が満開に咲き薫っている。

●ご感想をお寄せください  news-kikaku@seikyo-np.jp


(2019年10月27日 聖教新聞)







Last updated  2019/10/27 06:22:06 PM
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2019/09/29
カテゴリ:虹を懸ける

​虹を懸ける 池田先生とサンパウロ <3>=完
使命と大福運の人生を!

1993年、池田先生が4度目のブラジル訪問を。2月27日には「創価文化サンパウロ・カーニバル」に出席し、熱演の友を何度もたたえた(ブラジルSGI自然文化センターで)

 池田先生の4度目のブラジル訪問は、1993年の2月から3月にかけてである。
この年、先生はアメリカ、コロンビアを訪れ、2月9日にブラジルのリオデジャネイロへ。諸行事を終えた後、アルゼンチン、パラグアイ、チリを歴訪し、再びブラジルへと戻った。
 サンパウロ州郊外のブラジルSGI自然文化センターを初めて訪問したのは2月25日。3月8日まで12日間にわたって滞在し、ブラジルの同志と固い絆を結んでいく。
 2月27日に開催された南米総会では、参加者に力強く訴えた。
 「題目は幸福の種です。種をまいてください。必ず芽が出ます。必ず大樹に育ちます」
 「私も祈ります。毎日、祈っています。皆さまの健康、無事、長寿、大福運の人生を。だから安心して、一緒に、使命の人生を生き抜いてください」

母が残したもの
 翌2月28日、自然文化センターで行われた南半球初となるSGI総会。ブラジルSGIが誇る「イケダヒューマニズム交響楽団」がこの日、正式に結成された。
 交響楽団は、ブラジルの世界的作曲家アマラウ・ビエイラ氏が池田先生に捧げた交響曲「革新の響」を披露。演奏を聞き終えた先生は立ち上がり、真っ先に拍手を送った。「これほどまでに見事な演奏の陰で、どれほどの練習を重ねてこられたか──。
どうか、これまでの努力のうえに、さらに精進を重ね、将来は、世界中を演奏旅行して回れる実力をつけていただきたい」
 この時、チューバを担当したジョルジェ・マシエルさん(副分圏長)。総会の2年前、最愛の母を病で亡くしていた。その後、父はマシエルさんたち3人の子どもを残し、家を出て行ってしまう。
 悲嘆に暮れた。だが、悲しんでいる暇はない。弟、妹のためにマシエルさんは働かなければならなかった。「私には、母が残してくれた信心しかありませんでした」
 必死に唱題を重ねる中、10年間で「起業家として成功する」「結婚し、幸せな家庭を築く」「家を建てる」との目標を掲げる。
 仕事は多忙を極めたが、交響楽団の練習にも懸命に励んだ。地域行事に出演する機会も増え、アルゼンチンやパラグアイでの公演も実現。活動の舞台は大きく広がり、師の期待に応える楽団へと成長していった。
 10年後、マシエルさんは自身が立てた目標を全て達成し、交響楽団の楽団長として来日を果たす。先生が見守る中、交響楽団に「芸術人道創立者賞」が授与された。
マシエルさんは胸に手を当て、先生に深謝した。「師と心を合わせて戦えば、必ず道は開けるとの、揺るぎない確信をつかむことができました」
 2005年2月、転勤によりサンパウロから700キロ離れたカタランへ。師との原点を胸に、地域の一粒種として信頼の根を張っていく。家族や隣人などを相次ぎ入会に導き、14年間で29世帯の弘教を実らせた。
 カタランには09年にブロックができ、翌年に地区へ発展。14年には支部が誕生した。
 マシエルさんは経営学の博士号を取得し、大学の講師に。教育の分野でも、未来を担う青年たちの成長に尽力している。

最後に勝つ
 「自然文化センターでの池田先生の激励によって、数多くの同志が広宣流布の使命に目覚めました」と、ミゲル・シラトリさん(理事長)は笑顔で語る。
 シラトリさんは2歳の時、父親が病気で他界。母親の再婚を機に、新しい父の紹介により一家で入会した。
 だが、信心を教えてくれたその父も病で倒れてしまう。シラトリさんは大学を卒業し、司法試験に合格。弁護士資格を持っていたが、父の代わりに畑でくわを握った。
 先生と初の出会いを刻んだのは、1984年2月のブラジル大文化祭。必死に家族を支えていた最中だった。
 組み体操の5段円塔の責任者を務めたシラトリさんは、青年に万感の期待を寄せる師の姿に触れ、報恩の人生を固く誓う。
 男子部本部長として訪問・激励と折伏に奔走し、2年間で120人の新たな活動者を輩出。86年に日本で先生と再会を果たす。「ここからの10年間が本当の戦いでした」
 国自体が不安定な経済状況となり、生活は段々と苦しくなっていった。そのため、家族は日本に出稼ぎへ。残されたシラトリさんはイチゴ、ニンジン、キャベツなどを作り、愚痴一つ言わず一家を守り抜いた。「あの時は出口の見えない暗闇にいるようでした。つらくなるたび、先生との出会いを思い返し、歯を食いしばりました」
 その後、経済苦を乗り越え、95年2月、ブラジルSGIの職員となった。
 青年部長だった2001年7月、一冊の書籍が届く。先生の青年時代の激闘がつづられた『若き日の日記』の英語版だった。本の扉には、先生の直筆で、こう記されていた。

 共に 広布の
  青春時代を
   栄光でつつまむ

 「私の苦労を全て知ってくださっていた先生への感謝が込み上げ、一生涯、同志に尽くし抜こうと決意しました」
 同年9月19日、アメリカで同時多発テロが起こった。折しも、シラトリさんは青年研修会で来日していた。
 テロの影響で、ブラジルなど10カ国の同志が帰国できずにいた。
 それを知った先生は翌12日、モンゴル駐日大使との会見後、東京の聖教新聞本社前でシラトリさんたちと記念撮影を。真心の励ましを送った。
 「全員が必ず幸福になっていただきたい。若い時から恵まれ過ぎているのは、かえって不幸です。最後に勝つのが、真の勝利者です。これが仏法です。偉大なる広宣流布の指導者に成長していただきたい」 
 シラトリさんは一昨年8月、ブラジルSGIの理事長に就任。今、後継の育成に全力を注いでいる。

心で師と対話
 第4次訪伯の際、池田先生はサンパウロ州の最高褒章「バンデイランテス勲章」やパラナ連邦大学の「名誉博士号」などを相次ぎ授与されている。その一方、諸行事の合間も休むことなく、同志を励まし続けた。
 マリア・ジョゼ・デ・メロ・オリベイラさん(婦人部参事)は、自然文化センターで役員に就いた時、先生からねぎらいの言葉を掛けられた。
 彼女は前年の12月、最愛の夫を亡くしていた。誠実な人柄で多くの同志に慕われていた夫だった。先生は「負けちゃいけないよ。ご主人のために、記念の植樹をする
からね」と。後日、夫の功労をたたえ、同センターに桜の木が植樹された。
 師の慈愛と真心に、彼女は奮い立った。広大な天地を使命の舞台と定め、ブラジル総合婦人部長となり、2004年7月、研修会で訪日する。
 懇談会の折、先生はオリベイラさんを見つけると、優しく手を取って語った。「あなたのことは全部、知っているよ。これからも頑張ってね」 ​


 以来、リーダー率先でさらなる弘教拡大を決意。10年間で100世帯を超える御本尊流布を達成した。
 ブラジルSGIが「支部50世帯の弘教」という目標を掲げた15年にも、対話の先頭を走った。
 友人、知人はもちろん、かかりつけの医師や、病院の待合室で知り合った人、公園のベンチで隣に座った人など、ありとあらゆる人に信心の素晴らしさ、師匠と巡り合えた喜びを語っていった。その結果、1年間で52世帯の折伏を実らせた。
 「師弟といっても、師の言葉を自分への指導と捉え、実際に行動に移せるかに懸かっています。これからも心の中で先生と対話しながら、広布と人材の拡大に挑んでいきます」
                    ◇ 
 池田先生は、これまでブラジルの最高勲章「南十字国家勲章コメンダドール章」を受勲しているほか、サンパウロ市など150以上の州・市から名誉州民・市民証を贈られている。また「牧口常三郎通り」「戸田城聖公園」「池田大作博士環境公園」をはじめ、創価の三代会長の名を冠した公園・橋・通りなどは国内で30を超える。
 先生は後年、良き市民の模範と光るブラジルの友に呼び掛けた。
 「すべて、わが敬愛する同志の皆さまの勝利である。私は熱い感涙をもって、『ブラジルは勝った! ビバ、ブラジル!』と叫びたい。ブラジルと日本は、地理的な距離は遠い。だが、同志と私の心は最も近い」
                             (<2>は21日付に掲載)

●ご感想をお寄せください  news-kikaku@seikyo-np.jp


(2019年9月29日 聖教新聞)







Last updated  2019/09/29 01:45:26 PM
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2019/09/21
カテゴリ:虹を懸ける

​虹を懸ける 池田先生とサンパウロ <2>  

どこまでも師弟共戦の心で

 1984年2月25日、池田先生がブラジル大文化祭の公開リハーサルへ。場内を回った後、あいさつに立ち、求道の友をたたえた(サンパウロのイビラプエラ体育館で)

 エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ。エ・オラ、エ・オラ……。
 サンパウロ州立総合スポーツセンターのイビラプエラ体育館に、2万3000人の大歓声が轟いた。
 1984年(昭和59年)2月25日の午後6時。ブラジル大文化祭の公開リハーサルに、池田先生が突如、姿を現したのである。
 先生は手を振って、場内を1周。歓呼は瞬く間に会場全体へと広がった。しばらくすると、ブラジルSGIの愛唱歌「サウダソン・ア・センセイ(ようこそ、先生)」の大合唱が始まった。

 先生!
 あなたをブラジルに
 迎えることができ
 私たちの夢は
 叶いました
 …………
 ありがとう 先生!
 真心の花を捧げます

 師匠と弟子の生命が結ばれた瞬間だった。合唱が終わると、先生はマイクを握った。
 「広宣流布に進みゆく皆さん方を、日蓮大聖人は必ずや御賞讃され、御加護くださることは、絶対に間違いありません。私もまた、生命の続く限り、皆さん方を守りに守り抜いていくことを断言いたします」
 66年以来、3度目となる先生のブラジル訪問。その実現に至る18年の間には、幾多のドラマがあった。

勝利の因に
 さかのぼること10年前の74年3月、池田先生は世界平和文化祭などの諸行事に参加するため、サンパウロを訪問する予定だった。
 しかし、当時のブラジルは軍事政権下にあり、学会への誤解も渦巻いていたことから、入国のビザが下りず、直前で訪問は中止に。先生は電話で現地のリーダーを励ました。
 「辛いだろう。悲しいだろう。悔しいだろう……。しかし、これも、すべて御仏意だ。きっと、何か大きな意味があるはずだよ」
 さらに言葉を継いだ。「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」
 ブラジルの同志は、学会の正義を示し、必ずや社会から称賛されるような時代をつくろうと誓い合った。
 クラウジオ・ホーマン・マルトゥッシさん(参議会参議)も、その一人である。74年の文化祭では、ダンスに出演した。
 「先生が座るはずだったイスを見つめながら、精いっぱい踊りました。この悔しさを絶対に勝利の因にしようと決意しました」
 どんなに仕事で多忙を極めても、学会活動には一歩も引かなかった。一人また一人と対話し、次々と折伏を実らせた。
 その後、総合方面の男子部長に就任。84年2月の大文化祭では、演出責任者を務めた。
 「リハーサルで先生のお姿を見た時、“私は勝ちました!”と、心の中で叫びました。
この原点が、私の力になっています」
 8年前、脳梗塞を発症。多血症も見つかり、医師からは「最悪の場合、あと2年の命」と告げられた。だが、マルトゥッシさんは負けなかった。真剣に唱題に励む中で治療も奏功し、快方に向かう。
 2014年には、総本部の広宣流布大誓堂での誓願勤行会に参加することができた。
 「師を求め抜く時、不可能を可能にすることができると確信しました。師弟の誓いを貫き、前進の日々を歩んでいきます」

絶対に負けない
 「私たちは今、最高に幸せです。喜びにあふれています。この喜びをサンバ、歌、ダンスに託します」
 司会の弾む声で、ブラジル大文化祭の幕が開けた。1984年2月26日。会場のイビラプエラ体育館に、青年たちの熱と力がほとばしった。メイリ・ヒラノさん(婦人部長)も鼓笛隊の一員として、池田先生の前でフルートを奏でた。
 44歳の時に母と共に入会。8歳から鼓笛隊に入り、信心の土台を築いた。
 74年の文化祭には、鼓笛隊のポンポン隊として出演した。
 「先生をブラジルにお迎えできず、悔し涙を流しました。この時、本物の味方をつくろうと誓ったんです」
 小説『人間革命』を学びながら、会う人会う人に仏法を語った。その中で初めて友人を入会に導いた。
 10年後、師との出会いを刻み、広布一筋の青春を走り抜いた。
 2004年7月、ブラジル婦人部の代表として訪日。懇談会の折、先生は「オブリガード!(ありがとう!)」と言って、ヒラノさんたちのもとへ。手を差し出し、握手を交わしながら、婦人部の友に語った。
 「私と一緒に前進しよう!」
 ヒラノさんは、満面に笑みを浮かべる。
 「婦人部のモットーは『どこまでも師弟不二で生き抜くこと』です。どんなに今、大変で苦しい状況にあっても、『師弟』でつながっている限り、私たちは絶対に負けません。たとえ先生にお会いできなくても、同じ心で戦えば、それは直接、先生につながっていることになるんです」
 17年4月、ヒラノさんはブラジルの婦人部長に就いた。この2年の間で、5世帯の弘教を実らせている。

「私も壮年部だ」
 1983年7月、池田先生が滞在する鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)に、ブラジルの代表38人が駆け付けた。「私たちは先生にブラジル訪問をお願いするために、日本にやって来ました」と、ナオト・ヨシカワさん(最高指導会議副議長)は述懐する。
 先生は一行を真心で迎え、共に記念撮影。求道の友を「ブラジル霧島会」として、互いに励まし合いながら進むように提案した。
 懇談会の際、男子部長だったジュリオ・コウサカさん(同会議議長)が叫んだ。
 「先生! ブラジルに来てください!」
 すると先生は優しくうなずき、「近い将来、必ず行かせていただきます!」と。さらに38人全員を、自らの部屋に招き入れた。
 「どんなに遠く離れていても、皆さんは愛する家族であり、兄弟です。最も信頼し、尊敬する同志です」
 そして「わざわざ霧島まで来てくださったんだから」とピアノに向かった。
 奏でたのは「厚田村」「熱原の三烈士」「荒城の月」の3曲。“なんと力強い調べなのか”──初めて聴く師匠のピアノ演奏に、ヨシカワさんの目から涙があふれ出した。
 演奏が終わると、先生は「手が腫れているから、強く握らないでね」と言いながらも、全員と握手。小説『人間革命』を執筆し、メンバーと握手を交わし続けた先生の手は、真っ赤になっていた。
 ヨシカワさんは振り返る。「そんな状況でも、先生はわざわざピアノを弾いてくださった。どこまでも弟子の勝利を願う師の慈愛に心が震えました」

 帰国したヨシカワさんたちは、先生との出会いの喜びをメンバーに語った。“先生が来てくださる”との確信が皆の胸中にみなぎり、唱題の渦が大きく広がっていく。その一念のうねりは、状況を動かしていった。
 84年2月、フィゲイレド大統領(当時)の招聘(しょうへい)によって、先生の18年ぶりのブラジル訪問が実現したのだ。
 ヨシカワさんには、もう一つ忘れられない思い出がある。
 2005年1月、ブラジルの壮年部長として日本へ。協議会の折、先生が真っ先に向かったのは、婦人部のテーブルだった。
 先生は「今の学会があるのは婦人部のおかげです。その次に青年部がいます。最後に、見えないところに壮年部がいます」と、ユーモアを交えて感謝を述べた。
 その後、先生はヨシカワさんたちのテーブルへ。ヨシカワさんは意を決して「ブラジル壮年部は、たとえ見えないところにいても、ブラジル広宣流布の柱となっていきます」と抱負を語った。
 すると、先生はにっこりとほほ笑み、ヨシカワさんの胸をトンとたたいて言った。
 「私も壮年部だ。一緒に戦う!」
 ヨシカワさんは晴れやかな顔で語る。「先生は私に“戦う壮年部”の魂を打ち込んでくださいました。偉大な師匠をもった私たちは、最高の幸せ者です」
 ブラジルに脈打つ“師弟共戦の心”は今、後継の若人に厳然と受け継がれている。


(<1>は15日付に掲載)​虹を懸ける 池田先生とサンパウロ <1>
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(2019年9月21日 聖教新聞)









Last updated  2019/09/21 10:13:28 PM
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2019/09/15
カテゴリ:虹を懸ける

​虹を懸ける 池田先生とサンパウロ <1>  
今の刻苦は未来の栄光なり


 ブラジルを初訪問し、サンパウロ市内を視察する池田先生(1960年10月)

​

 明年は、ブラジル広布60周年の佳節。池田先生は、これまで4度にわたってブラジルを訪れ、メンバーを励まし続けてきた。同国の中心都市・サンパウロに刻まれた師弟のドラマを紹介する。 


 1960年(昭和35年)10月19日、池田先生を乗せたプロペラ機が、サンパウロのコンゴニアス空港に到着した。国際便のトラブルにより、35人乗りの小型機に乗り換えての初訪問となった。


 米ニューヨークをたってから約13時間。予定より2時間も遅れ、時計の針は午前1時半を回っていた。だが、空港ロビーでは30人ほどの同志が学会歌「威風堂々の歌」を歌って出迎えてくれた。


 先生は、かぶっていた帽子を胸に当て、最敬礼しながら、合唱を終えた友に感謝を伝えた。「ありがとう。遅くなってすみません。待ったでしょう」


 日本の約23倍という広大な国土をもつブラジル。当時の会員は100世帯ほどで、入会間もないメンバーばかりだった。


 3日間の滞在中、先生は寝る間も惜しんで、一人一人に励ましを送り続けた。20日には市内の座談会に出席し、海外初となる支部を結成している。


 実は訪伯前、先生はアメリカで体調を崩していた。この年の10月2日から始まった初の海外指導は、北南米の3カ国9都市を24日間で回る強行軍。同行者からはブラジル行きを止められたが、決意は固かった。


 「私は戸田先生の弟子です。行く、絶対に行く。もし、倒れるなら、倒れてもよいではないか!」


 池田先生のブラジル訪問は、燃え上がる“師弟の誓い”から始まった。


移民船に乗って


 池田先生が再びサンパウロの地を踏んだのは、66年3月12日のことだった。

 5年半の間でブラジルは会員約8,000世帯に発展。だが、2年前に軍事政権が実権を握って以来、国内では言論・思想統制の嵐が吹き荒れていた。学会にも誤解(ごかい)と偏見(へんけん)の目が向けられ、会合は警察の監視下で開かれた。


 3月13日、先生はサンパウロ市立劇場で行われた南米文化祭に出席。その後、近くにあるパカエンブー体育館での集いに向かった。


 タカコ・ミナミさん(婦人部参事)は振り返る。「体育館の至る所に警察官が立ち、物々しさを感じました。でも、先生が入場すると大歓声に包まれ、会場の雰囲気は一変しました」



 ミナミさんは和歌山県出身。59年に家族で移民船に乗り、1カ月半かけてブラジルへ渡った。しかし待っていたのは、土ぼこりが舞う荒れ地だった。


 養蚕業を営むが、収入はわずか。生活は厳しく、逃げるようにサンパウロへ。その時、知人から勧められ、64年12月に入会した。


 内気な性格で、人と話すことが大の苦手。それでも幸せになれるのならと、片言のポルトガル語で折伏に何度も挑んだ。「初めてブラジル人の友人に弘教が実った時の喜びは、今も忘れられません」


 地道に信心に励み、女子部、婦人部のリーダーを歴任。仕事では、綿糸会社で社長秘書を任されるなど、信頼を集めた。「今があるのは、全て先生の激励のおかげです。先生はブラジルの同志が来日した際にも多忙な合間を縫って、幾度も出会いをつくってくださいました。今度は、私が一人でも多くの人を励ましていきます」


大変な時こそ 


 パカエンブー体育館に集ったメンバーに、池田先生は訴えた。


 「幸福を築き上げていくには、どうすればよいのか。それには、忍耐強い信心の持続です。ともかく題目をあげきることです」


 ヒデオ・モリシタさん(参議会参議)は「先生の確信の声に奮起し、今日まで不退転の信心を貫いてくることができました」と感謝する。


 サンパウロ出身の日系人。父親はコーヒー栽培をしていたが、干ばつに見舞われ、転職を余儀なくされた。9人の子どもを養うため、飲食店を開業。モリシタさんも店を手伝ったが、暮らしは貧しかった。


 「貧乏も病気と同じ宿業の一つ。乗り越えるには、信心で福運を積むことだ」との友人の言葉を信じ、65年7月に入会。「でも、なかなか宿業を乗り越えることはできませんでした」


 88年、ペット用品の専門店をオープン。98年ごろから業績が落ち込み、倒産の危機に。多額の負債を抱えた。心労のためか、髪は真っ白になっていた。


 当時、分圏長だったモリシタさん。先輩から「大変な時こそ、家庭訪問に徹することだ」との激励を受け、同志のもとへ足しげく通った。時には、一人に会うために片道250キロの道のりを車で走った。


 その中で、自分と同じように悩みを抱える友がいることを知った。気付けば、訪問軒数は2年間で320を超えた。


 2000年10月、SGI研修会のために来日し、師匠との出会いを刻む。


 先生はモリシタさんを見るなり、「年齢はいくつだい?」と尋ねた。「51歳です」と答えると、「そうか。あなたのことは全部、知っているよ。いい髪の毛をしているね。博士みたいだ」と。そして「頑張りなさい」と言葉を続けた。


 モリシタさんは胸が熱くなった。


 「先生は、私の苦しみや戦いを全部、分かってくださっている。そう思ったら、肩の荷が、すーっと下りていくようでした」


 帰国後、毎日2時間の唱題を実践。創意工夫を重ねる中、業績は右肩上がりに。7年後に負債を完済し、一昨年には100人を収容できる個人会館も建てることができた。


 昨年は、2世帯の御本尊流布を達成。本年3月からは、副地区部長として広布の最前線を駆ける。



御本尊中心


 カツエ・ハセさん(婦人部参事)も、ブラジル広布の開拓者の一人である。


 島根県で生まれ、1956年に一家でブラジルへ。コーヒー農園で働き始めた。


 容赦(ようしゃ)なく照り付ける太陽の下で、両親は毎日、鍬(くわ)を振るった。慣れない土地での過酷な労働に耐えきれず、サンパウロ近郊に転居。野菜を売って、ほそぼそと生活していた。


 当時14歳のハセさんも、覚えたてのポルトガル語を使いながら、アルバイトなどで家計を支えた。


 ハセさんは経済苦を乗り越えたいと、66年2月に入会。真剣に祈る中、貿易会社に就職することができ、初信の功徳を実感した。



 80年11・12月、ブラジル婦人部を代表して研修会で日本へ。東京・千駄ケ谷の国際センター(当時)にいると、池田先生を乗せた車が到着した。


 先生はハセさんらに声を掛け、「懇談しよう」と提案。外の芝生の上にパイプイスが並べられ、先生を囲んでの“青空座談会”が始まった。


 一人一人の近況を聞いた後、先生は言った。「海外での生活は大変だ。知恵を振り絞って経済革命してね。何があっても御本尊中心だよ」


 懇談が終わると、共に記念撮影。「後で写真を送るからね」とほほ笑んだ。


 翌年5月、ハセさんは相次ぎ試練に襲われた。母親が脳梗塞に倒れ、半身不随に。車いす生活を余儀なくされた。


 その後、父親も糖尿病の合併症によって左足を切断。ハセさんは両親を介護しながら、仕事と学会活動に奔走した。


 師の励ましを支えに42年勤めた職場を定年退職。今は、ブラジル佐賀県文化福祉協会の事務局長として活躍する。

「介護の経験も、友を励ます肥(こ)やしになっています。激励し続けてくださった先生に感謝は尽きません」


 ハセさんは、師との記念写真を目にするたび、ブラジル広布の誓いを新たにしている。


                     ◇ 


 後年、先生は長編詩「世界の王者たれ! ブラジル」を詠(よ)んだ。それは苦闘に負けず、信心を貫いてきた同志への賛歌であった。


 一番


 苦しんでいる人の


 味方になって戦う


 勇敢(ゆうかん)なる


 人間主義者であれ!


 行動だ!


 「今」という


 現在に


 生ききることだ。


 現在の


 この瞬間にこそ


 永遠が脈動して


 いるからだ。


 足跡を残すことだ!


 自分自身の


 常勝の歴史を


 刻(きざ)みゆくことだ!


 今の刻苦(こっく)は


 即 未来の栄光なり。


 君が歩んだ分だけ


 新世紀の道が


 拓(ひら)かれるのだ。

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(2019年9月15日  聖教新聞)








Last updated  2019/09/15 01:36:06 PM
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2019/05/17
カテゴリ:虹を懸ける

​虹を懸ける 池田先生とインド-2
 振る舞いで光る“人格の王者”に


 文化祭を鑑賞し、同志の熱演を心からたたえる池田先生ご夫妻。先生は歴史的なステージを祝して、「美しき 衣装につつまれ 仏子らの 元初の舞か 福徳三世に」との和歌を詠み贈った(1992年2月8日、ニューデリーで)


 インド・ニューデリーの町は小雨が乾いた大地を潤し、爽やかな空気に包まれていた。


 午後2時20分過ぎ。インディラ・ガンジー国際空港の滑走路に、池田先生を乗せた飛行機が滑り込む。1992年2月6日。13年ぶりの訪印である。


 空港では、招へい元であるインド文化関係評議会(ICCR)やガンジー記念館、インド文化国際アカデミー、国際文化開発協会(ICDO)の代表らが先生一行を歓迎した。


 振り返れば、前回の訪問時(79年)、各地から集ったメンバーは約40人だった。それから13年BSG(インド創価学会)は法人登録され、初の会館もオープンした。地涌の陣列は、約1,500人となっていた。


 当時を知るBSGのオオウチ名誉副議長は言う。


 「活動では、教学研さんや小説『人間革命』などの著作の読了に力を注いできました。92年の訪問では、多くのメンバーが先生との出会いを果たし、それまで学んできた師弟の精神や学会指導が、一人一人の血肉となっていきました。あの時を境に、インド広布の勢いはさらに加速していきました」



平和の夜明け


 中でも、最も多くの同志が先生との絆を結んだ行事が、2月8日に行われた第2回文化祭である。当日は、出演者や役員に加え、友人、家族など約3,000人が集い、歴史的な祭典となった。 


 「悠久の大地に平和の夜明け」とのテーマを掲げた文化祭では、各地方の伝統舞踊や打楽器の演奏、日本語と英語によるコーラス、モダンダンス、伝統的な武術舞踊を基調にした組み体操など、多様性に富んだ躍動の舞台が繰り広げられた。


 来賓席で鑑賞した池田先生は、演目が終わるたびに喝采を送る。最後にマイクを握り、メンバーをたたえた。


 「13年ぶりに、ついに訪れることのできたインドで、このような絢爛たる文化祭を拝見させていただき、私の人生にとって、これほどの感動はない。美しい詩があり、深き哲学があった。悠遠な調べがあり、希望のハーモニーがあった。そして、お一人お一人の瞳が、限りなく輝いていた。満点の文化祭であった」


 プラディープ・カンドゥーリーさん(壮年部長)は、デリーの壮年・男子部の一員として、力強いドラムのリズムに合わせて踊る「バングラ・ダンス」を披露した。


 「先生は客席で体を揺らし、私たちと一緒に踊ってくださいました」


 カンドゥーリーさんは88年、大学の友人に誘われ、BSGの座談会へ。仏法の哲理に魅了され、人生の目的を求めて入会した。 


 「先生と出会って、“信心の実証を示していこう”と固く決意しました。生活の中で、学会指導を実践していくうちに、先生への尊敬の念が日に日に強くなっていきました」


 エンジニアとして働いていた電子部品を扱う会社では、“信頼第一”を心掛けた。会社の発展を祈り、誠実に仕事に励む中、若くして昇進を勝ち取り、重要な業務も任されるように。私生活では念願の結婚も果たし、娘はアメリカ創価大学を卒業。家族そろって広布にまい進する。


                    ◇ 


 スダ・クマールさん(圏婦人部長)も、あの日の文化祭を原点にしている一人。古典舞踊「カタック」の副責任者として奮闘した。


 入会は88年。夫が事業の失敗を繰り返し、家族に手を上げることもあった。ただただ幸せになりたい一心で、信心を始めた。


 前年の91年、文化祭に向けて準備を進めていた時だった。友達と遊んでいた息子が、誤って家の屋根から転落し、生死をさまよう大けがを負う。クマールさんは婦人部の先輩たちから激励を受け、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(御書1124ページ)との一節を抱き締め、一心不乱に回復を祈った。


 その後、一命を取り留めた息子は、後遺症もなく退院。文化祭では出演者としてステージに立った。


 さらには夫も、観客として会場に。家族3人が先生のもとに集えたことは、クマールさんにとって“勝利の瞬間”でもあった。「立ち上がって拍手を送ってくださる先生のお姿を見た時、“苦労を全部分かってくださっていたのだ”との感動が込み上げました」


 92年の滞在中、先生はホテルのロビーでクマールさんたちに、朗らかに進んでくださいと、励ましの声を掛けている。そして「お体を大切に。ご家族にもよろしく」と。


 それまで、“苦しい生活は全て夫が原因”と決め付けていたクマールさん。だが、師との出会いを機に、自らが一人立ち、一家和楽の実現とインド広布に尽くすことを決意。現在まで、経済苦や家庭不和、子どもの病も全て乗り越え、“幸福勝利の人生”を晴れ晴れと歩んでいる。


 ――先生は文化祭のスピーチで、御書の「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)の一節を拝し、メンバーに呼び掛けた。 


 「どうか、インドの皆さまは、さらに仏法の『人間主義』『文化主義』『平和主義』の旗を高く掲げ、お一人お一人が偉大なる“人格の王者”となっていただきたい」


 師の指針は、良き市民として社会に貢献しゆく同志の心に深く強く刻まれた。


永遠の幸福の道


 文化祭の翌日(2月9日)、インド広布31周年を記念するBSGの総会が開かれた。 
 席上、青年文化祭の開催や学生部・高等部・未来部の発足など、新たな展望が次々と示され、メンバーの瞳は決意と喜びに輝いた。 


 この日、民族衣装を身にまとった池田先生は、同志の奮闘を最大に称賛。スピーチの冒頭では、「妙法で結ばれた親子の縁は、生死を超えて永遠の希望につつまれる」と述べ、日蓮大聖人が子どもを亡くした門下に送った激励の一文を紹介し、こう言葉を継いだ。 


 「亡くなった息子さんの成仏は、絶対に間違いありません。そして、いつも、あなたと一緒ですよ。一緒に、『永遠の幸福の道』を歩んでいるのですよ。――大聖人の御慈愛が、染み入るように伝わってくる。


 ともに幸福へ、ともに成仏へ――妙法の世界は何があっても、永遠に希望、永遠に繁栄の世界なのである」


 会場にいたP・R・サティーシュさん(副壮年部長)は、先生の指導に胸を熱くさせながら聞き入っていた。


 「総会では、表彰が行われ、一人の婦人に賞が贈られました。彼女に向かい、先生は立ち上がって胸に手を当てられ、深々と一礼されたのです。その方は、先生の訪問直前に、男子部のリーダーだった息子さんを事故で亡くされていました。私が最もお世話になった男子部の先輩でもあったのです」


 サティーシュさんは大学1年だった86年に入会。信心に励み始めた頃、学会の師弟について、御本尊への確信について、一つ一つ丁寧に教えてくれたのが、その先輩だった。後輩たちから兄のように慕われ、誰よりも、先生のインド再訪を待ちわびていた人だった。


 先輩はインド南部の町からニューデリーに向かう途中、交通事故に巻き込まれた。事故直後には、けがを負った運転手や同乗者を気遣い、病院に着くまで励まし続けた。その後、容体が急変し、息を引き取った。


 先生は、広布の途上で逝いたこの男子部リーダーをたたえ、植樹を提案する。後日植えられたその木は「インド広宣流布青年英雄の木」として、インド文化会館の敷地に青々とした葉を広げている。


 この92年の出会いを原点とし、亡き先輩の分も広布の最前線を走り続けるサティーシュさん。


 仕事に失敗し、新規事業に挑戦した時も、男子部や壮年部のリーダーとして各地を駆け巡る時も、常に先生の指導に学びながら、自らの実践と照らし合わせてきた。


 現在は副壮年部長、南インドの方面長として“先生の心”を語り広げる日々だ。


 (1は12日付に掲載) 
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(2019年5月17日 聖教新聞)
 







Last updated  2019/09/15 01:50:32 PM
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2019/05/12
カテゴリ:虹を懸ける

虹を懸ける 池田先生とインド-1
​大河の流れも一滴から​


首都ニューデリーにあるローディー庭園を訪問し、居合わせた現地の子どもたちと交流(1979年2月6日)



 旭日の勢いで世界広布をけん引するインド。ここでは、池田先生の1979年と92年の訪印を中心に、“精神の大国”を舞台につづられた、師弟のドラマを紹介する。


 日蓮大聖人は「顕仏未来記」で仰せである。 


 「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(御書508ページ)


 正法・像法の時代には、仏法が月氏の国・インドから東へ伝わり、末法の時代には、日本からインドそして全世界へ広がっていくとの大宣言である。 


 そのインドを池田先生が初訪問したのは、会長就任から9カ月後の1961年1月下旬から2月上旬にかけてである。


 それは、大聖人が示された「仏法西還」の道を開き、恩師・戸田先生が熱願した「東洋広布」の先陣を切る平和旅であった。


鳳雛よ羽ばたけ


 61年の訪問の折、現地でインド人の会員に会うことはなかった。


 2月4日に釈尊成道の地・ブッダガヤを訪れた池田先生は、「東洋広布」の文字を刻んだ石碑や御書の「三大秘法抄」などを埋納。いつの日か、幾万、幾十万の地涌の友が、この地に陸続と出現することを深く強く祈念した。


 先生の祈りに呼び起こされるように、やがて一人また一人とメンバーが誕生。70年に最初の地区が結成され、その5年後には第1回のインド総会が開催される。


 現在、インド創価学会(BSG)の名誉副議長を務めるアカーシ・オオウチさんが日本から海を渡ったのも、この頃である。75年9月、インド政府の奨学金を得て、現地の大学院の修士課程へ。後に博士号を取得した。


 オオウチさんは、4歳で母と共に東京で入会。高等部時代、「大白蓮華」に掲載された先生の巻頭言「鳳雛よ未来に羽ばたけ」に感動し、暗記するほど読み込んだ。


 「今こそ、世界平和、すなわち世界広布のため、全力を傾注して、前進せねばならぬ時代なのである。私は、今日まで、全魂を尽くして、諸君のために、道を切り拓いてきた。また、これからも、拓いていく決心である」 


 オオウチさんは、師の限りない期待にどう応えるか、高等部の仲間と熱く語り合った。そして、幼少期から魅力を感じていたインドの広布を、生涯の使命と定める。 


 「インドでは、日本から毎月1冊送られてくる英語版機関誌『セイキョウ・タイムズ』を皆で読み、信心を学んでいました。大事な指導をノートに書き写しては、各地のメンバー宅を訪ね、仏法の哲理や師弟の精神を伝えていきました」


 こうして広布の胎動が始まったインドで、忘れ得ぬ師弟のドラマがつづられたのは、79年2月。先生とメンバーの絆が強く結ばれた訪問である。


 現地で先生を迎えたオオウチさんは、インドに永住する決意を報告する。


 その後、渡印から10年目の85年にインド国籍を取得。今日まで変わらぬ“鳳雛の誓い”を胸に、師弟の道に連なる人材育成に全力を注いでいる。


仲良く成長を


 79年の訪印は、インド文化関係評議会(ICCR)の招へいで、2月6日からの11日間であった。


 オオウチさんは振り返る。「滞在中、池田先生は『メンバーが安心して信心できるように、今回は“上空飛行”だよ』と言われました。インド社会に大きく信頼を広げてくださったのです」


 その言葉通り、先生は、首相や外相などの政府要人をはじめ、デリー大学副総長ら教育者、“インドの良心”と敬愛されるJ・P・ナラヤン氏といった識者と相次ぎ会見。さらにネルー記念館、ナーランダ仏教遺跡などを視察した。


 多忙な合間を縫い、2月7日の夜にはメンバーとの懇談会が開かれた。全土から駆け付けたのは約40人。中には片道4日かかる地域から来た人もいた。その多くが、師匠との初めての出会いだった。


 先生は、一人一人を抱きかかえるように激励し、最後にこう呼び掛けた。


 「皆さん方は、宿縁深い“兄弟”であり“姉妹”であるとの自覚で、インドの人々のために、どまでも仲良く成長していってほしい」「ガンジス川の悠久の流れも一滴から始まります。と同じく、今はメンバーは少なくとも、自身がその一滴であるとの自覚で、洋々たる未来を信じて前進していきましょう」


 当時、入会3年目だったアショーク・アローラさん(圏長)は、先生の振る舞いに驚いた。


 「自ら私たちの中に入り、声を掛けられる姿に“これほど偉大な指導者がいたのか”と感動したのを覚えています。正直、信心のことはよく分かりませんでしたが、先生の人間性に触れ、“広布の大河の一滴に”と誓った私の原点です」


 先生は、アローラさんの手を握ると「あなたのことは、よく知っていますよ」と語り掛けた。


 「その先生の心が理解できるようになったのは、後になってからでした。懸命に学会活動に励み、著作やスピーチを読む中で、先生がどれほど世界中の人々のために心を砕き、一人一人に思いを寄せてくださっているかを知ったのです」


 あの日集った友は、兄弟・姉妹のように仲良く、地域で社会で信仰勝利の実証を示してきた。アローラさん自身も、教育の分野で活躍。胸中の師と対話しながら、広布の最前線を奔走する。


明るく朗らかに


 翌2月8日、池田先生はガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートに献花し、ガンジー博物館を見学した。 
 役員として随行したハルディヤル・シャルマさん(名誉副議長)は述懐する。


 「数多くの展示品がある中で、ガンジーが最期の日に身に着けていた“血痕の付いた布地”を、先生がじっとご覧になっていた様子が、とても印象に残っています」


 かつてイギリスの植民地だったインド。47年8月には、ヒンズー教徒が多く暮らすインドと、ムスリムが大半を占めるパキスタンの「分離独立」に至る。


 国民の融和を唱えていたガンジーは、その後も宗教の差異を超えた調和の道を模索していたが、翌48年1月、狂信的なヒンズー主義者の凶弾に倒れた。 


 多様な宗教や民族が混在する同国で、広宣流布を進めることは容易ではない。ゆえに先生は、折々に将来への指針を示していった。


 ある時はBSGの発展の様子を聞き、“焦らなくていいんだ。もっとゆっくりやろう”と伝言を。メンバーは教学の研さん、少人数の座談会など、仏法への正しい理解を促す地道な取り組みを重ね、インド広布の確かな基盤を築いていった。


 79年にシャルマさんが先生から贈られたモットーは「いかなる時でも 明るく朗らかな 指導者たれ」である。 
 

「当時の私は、仕事に追われ、精神的に不安定な日々が続いていました。お酒やギャンブルに走り、妻や家族に迷惑ばかりかけていました。先生は別れ際に『ぜひ、奥さまと一緒に日本へいらしてください』との言葉を掛けてくださいました」


 人生の指針を得たシャルマさんは、この翌年、夫婦で訪日し、先生と再会を果たす。その後、信心で一歩ずつ人間革命し、一家和楽の家庭を実現した。


 後年、ニューデリー近郊に「創価菩提樹園」が開園した際には、初代園長として奮闘。明るく朗らかな振る舞いで同志に尽くす日々だ。


                      ◇

  
 “ガンジス川の一滴のごとく”――。79年の訪問を転機に、メンバーは広布の主体者の自覚を強めていった。


 雄大な大河の流れを未来に描きながら、インド広布は着実に水かさを増していく。


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(2019年5月12日 聖教新聞)







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