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晴ればれとBlog

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虹を懸ける

2020.09.30
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カテゴリ:虹を懸ける

​〈虹を懸ける〉池田先生とイタリア・ミラノ②=完
“勝利の虹”は心と空に――ミラノの友が誇りとする池田先生との絆

 池田先生は、相手が学会員であろうとなかろうと、出会った一人一人を心から大切にしてきた。その励ましの足跡は、ミラノにも厳然と留められている。​



 2度目の訪問となった1981年6月。次の目的地であるフランスにたつ日には、こんな場面があった。



 先生を乗せた車がミラノの空港に到着した直後のこと。車から降りた先生が向かったのは、先導のバイクにまたがっていた2人の警護官のところだった。握手をし、滞在中の護衛に対する御礼を述べたのである。



 任務を終えた2人は送迎デッキへ。先生が搭乗した飛行機を最後まで見送った。



 警護官の1人は語っている。
 

「長年、国内外の著名人を護衛してきましたが、私たちにまで、ねぎらいの言葉を掛けてくれたのは、イタリア国民が敬愛してやまないペルティーニ大統領と、池田SGI会長の2人だけです」

ミラノのセンピオーネ公園内に立つ「平和の門」。人生の勝利の凱旋門を共に――1992年7月、この門の前で池田先生とイタリアの友が記念撮影した
 また、11年ぶり3度目の訪問となった92年には、日本への帰国を前に、イタリアでの諸行事を支えた運営役員を激励。空港に移動する途中、センピオーネ公園で待っていた数百人の輪に飛び入り、記念のカメラに納まった(7月4日)。

 

「どうかお幸せに! 健康で、朗らかで、明るい人生を!」


 「本当にお世話になりました。ありがとう。グラッチェ!」

 そして「また、お会いしましょう!」と再会を約し、公園を後にした。

 “今日という日は、二度と来ない。今日、何人の人を励ませるのか”――これが、変わらぬ先生の心である。
 


戦う丈夫たれ
 記念撮影に参加したユウジ・マツナガさん(州副壮年部長)。



 この前日、池田先生から贈られた「イタリアで 共に戦う 丈夫の 君の未来を 祝し見つめむ」との和歌を人生の指針に掲げる。
 
 静岡県生まれ。学生運動に疲れ果て、留学したローマで仏法に出あう。


 1976年に入会。先生の小説『人間革命』に理想を見いだし、まだ広布草創期だったイタリアで信心の一歩を踏み出した。



 翌年に帰国し、本陣・新宿の男子部として活動。81年の元日、学会本部担当の創価班として先生と共に勤行したことが、師弟の原点となった。



 先生が14年ぶりにイタリアを訪問したこの年、マツナガさんは仕事で行き詰まり、食事にも事欠くほどの経済苦に陥る。



 だが、先輩からの厳しくも温かな激励に奮起。題目根本に苦境を乗り越え、翌年から2年間、翻訳・通訳業務でイタリアに渡ることに。



 師弟の絆を結んだ若き同志と一緒に、広布開拓に駆けた。

ミラノの中心にあるドゥオーモ
 駐在を終え、改めてイタリア広布に生涯をささげる誓いを立てたマツナガさん。


 真剣な唱題の末、92年に労働ビザを取得できる仕事が見つかる。



 同年、移住した現地で先生を迎えることができた。



 その後、ミラノの会館職員の話が。


 “自分らしく真っすぐに進むんだよ”――先生から掛けられた言葉を命に刻み、学会指導の翻訳業務などに携わってきた。



 昨年末に定年退職するまで、会員奉仕の使命に走り抜いた歳月は、宝の歴史と光る。



 「これからも『去って去らず』の精神で、新たな地涌の陣列を広げていきます」。戦う丈夫の情熱は消えない。
 


「根」を育てよ
 1994年6月2日の午後4時。
 学都ボローニャを列車で出発した池田先生が、ミラノ中央駅に到着した。
 92年に続く4度目のミラノ訪問。


 3日後に第12回「世界青年平和文化祭」を控え、メンバーは最終の準備に余念がなかった。

 翌3日、先生はルネサンスの歴史を伝えるミラノのスフォルツァ城を視察。レオナルド・ダビンチの天井画と壁画を見た。



 部屋一面に描かれた桑の大樹。先生が注目したのは、樹木の「根」の部分まで克明に描写されている点だった。

 ルネサンスの巨人の心眼に感銘を受けた先生は、翌日のSGIヨーロッパ・アジア交流会議で述べている。

ミラノ・スカラ座の前の広場に立つ、レオナルド・ダビンチ像
 「『根』は見えない。しかし全体を支えている。


 人間にも『根』がある。組織・団体にも『根』がある。


 社会にも、文明にも、宗教にも『根』がある。
 

『根』が深ければ、『枝』は茂る。天に向かって、大きく伸びていける。
 多くの人々は、目に見える部分にしか注目しない。


 しかし、私どもは、何ごとも、どこに『根』があるかに着目し、よき『根』を養い、育てることに全力を尽くさねばならない」



 見えない「根」や「土台」を大事にする。それが、大きな発展の力となる。



 前回の訪問から2年――。


 イタリアそしてミラノでは、信心の根を張った青年たちが着実に成長していた。
 


翼を広げて
 6月5日。世界青年平和文化祭当日のミラノは青空に包まれ、市内からはアルプスの峰を望むことができた。

 文化祭のテーマは「翼」。
 

「ああ 若き 若き翼よ 君たちの その双肩に不滅の未来が実在する」――かつて池田先生がイタリアの友に贈った長編詩「新たなるルネサンスの鐘」の一節から着想を得たものだ。



 内なる可能性の翼を広げ、希望の明日へ羽ばたこう!

 青年たちの熱き誓願が込められた祭典は「一人の人間革命」のドラマを、映像、ダンス、音楽の融合で表現する圧巻のステージとなった。
 


 各界の来賓らと共に出席した先生は、最後に壇上へ。


 三百数十人の出演者・スタッフの感動は最高潮に達し、総立ちとなった観衆の大歓呼が、会場のリリコ劇場に鳴り響いた。

ミラノで開催された第12回「世界青年平和文化祭」。ステージに上がった池田先生は、自ら楽器をたたき、熱演をたたえた(94年6月)
 「私は先生がスティックを手に取り、軽快にドラムをたたく姿が印象に残っています」


 こう振り返るのは、役員を務めたアレッサンドロ・グラツィアーノさん(地区部長)。



 1988年に入会し、労働コンサルタントになるという夢をかなえた彼にとって、文化祭は師匠に感謝を示すための機会にほかならなかった。

「先生が妙法の種をまいてくださったおかげで、人生を開くことができた――その報恩の思いを胸に、文化祭に臨みました」



 グラツィアーノさんは使命の舞台で実証を打ち立て、現在はミラノの労働コンサルタント協会の会長に。


 約1000人のトップとして、業界の発展に尽くす。その活躍がテレビで紹介されたことも。

 

「私が学会員であることは、皆が知っています。先生の弟子としての誇りがあるからこそ、頑張ることができるのです」



 これまで命に及ぶ大病などの苦難に襲われたが、不屈の祈りで一切を乗り越えてきた。



 信心に反対していた親族も学会に理解を示し、御本尊を受持したいとこは今、グループ長として活動に励む。

アレッサンドロ・グラツィアーノさん㊨、ジョアンナ・マックモッローさん夫妻
 グラツィアーノさんの妻、ジョアンナ・マックモッローさん(地区婦人部長)も、文化祭を原点とする一人だ。



 イギリスの出身。ダンス仲間から折伏を受け、88年に入会した。



 経済的な問題を抱えていたが、奨学金を得ながら、ロンドンにある著名なダンスの専門学校で学べたことが信心の確信になった。



 7カ国の友が出演した文化祭に、イギリスSGIの一員として参加。


 練習中に負った足のけがに耐え、先生の前で元気にダンスを披露することができた。



 文化祭の翌日、先生はミラノからロンドンへ。



 イギリスに帰国した彼女は、再び師匠との出会いを結ぶ。


 「タプロー・コート総合文化センターで再会できた時の喜びは、言葉にできないほどでした」



 後に縁あってグラツィアーノさんと結婚。コロナ禍の中、夫婦二人三脚で地域の友に励ましを送る日々だ。
 


陰の人ありて
 池田先生は94年の滞在中も、陰の人への心配りを忘れなかった。

 マルタ・クリッパさん(婦人部本部長)は、諸行事を運営する白蓮グループの一員として、ミラノ会館の任務に当たっていた。
 
 文化祭当日も会館に残り、大成功と無事故を祈り抜いた。
 

「たとえ直接お会いできなくても、心でつながっている――これまで以上に師弟の絆を感じることができました」



 先生は、会館に着任していた役員の奮闘を聞き、ロンドンへの出発を前に、宿舎でクリッパさんらを激励。



 師匠が注ぐ慈愛のまなざしに胸を熱くした彼女は、広布に生きる決意を一段と深くした。



 建築の分野で働きながら、ミラノ会館の管理等を担当するスタッフに志願。


 仕事を失う試練に直面した時もあったが、一歩も引かずに唱題と活動に挑み、新たに建物管理の職に就くことができた。


 それは、学会で培った経験をフルに生かせる仕事だった。



 5年前から会館職員として勤務。婦人部では、ミラノ近郊の街ベルガモで同志のために奔走する。



 「信心に無駄は一つもありません。何があっても揺るがず、後継の青年の育成に全力を尽くしていきたい」



 その目は、未来を見据えている。

上空から撮影した「ミラノ池田平和文化会館」。国の文化財保護指定建造物を改築・修復した施設があり、事務室や会議室、礼拝室等が備えられている


 忘れ得ぬ94年の訪問から20星霜――。



 2014年1月、和楽の前進を続けてきたミラノに、待望の新宝城が開館した。



 レオナルド・ダビンチが設計した運河に面して立つ「ミラノ池田平和文化会館」である。



 中世の歴史的建造物を修復した建物と、現代建築の大講堂が並ぶ同会館には、ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の代表、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのフェリックス・ウンガー会長ら識者も訪れている。



 今月27日には、イタリアの全国紙「コリエレ・デッラ・セーラ」が、同会館の概要を写真付きで紹介した。

黄金に輝く大講堂。ミラノ池田平和文化会館は欧州SGIの諸行事でも使用されている
 この日は、同国の若き友もオンラインで参加した「世界青年部総会」の当日である。



 青年たちの“永遠の師弟旅”の出発を寿ぐかのように、イタリア時間の夕刻、ミラノの上空には、鮮やかな二重の虹が懸かった。








最終更新日  2020.09.30 11:52:36


2020.09.15
カテゴリ:虹を懸ける

〈虹を懸ける〉池田先生とイタリア・ミラノ ①
81年、先生が16年ぶりにミラノへ。青年たちが目に焼き付けた光景とは

「一つの明確な目標に走りゆく青年の姿は、美しく尊いものだ。苦労を未来の人生の大基盤と思って、日々月々を送ってもらいたい」――池田先生を囲んで行われた信心懇談会(1981年6月、ミラノ市内で)


 池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回は、北イタリアの中心都市・ミラノに輝く師弟のドラマを紹介する。
  


3泊4日の激励行
 ホームで待っていた誰もが、胸を高鳴らせた。
  


 1981年6月2日の午後5時半過ぎ。池田先生を乗せた列車が、ミラノ中央駅に到着したからである。
  


 前月末からイタリアを訪れていた先生は、“花の都”フィレンツェでの諸行事を終えた後、次の目的地である“芸術文化の街”ミラノへ。
  


 滞在は3泊4日。現地では、芸術機関などへの表敬訪問や、メンバーとの懇談が予定されていた。
  


 この日、駅で出迎えたのは、ジェノバ、トリノ、ベルガモの友を含む約60人。先生は真心に感謝し、ワイシャツの袖をまくり汗だくになりながら、一人一人に渾身の励ましを送った。
  


 実に16年ぶり2度目となるミラノ訪問。広布史に不滅の光彩を放つ激励行が始まった。  

池田先生とイタリアの友が感動の出会いを刻んだミラノ中央駅
 翌6月3日、池田先生は、民音の招へいで同年秋に日本公演が予定されていたオペラの至宝「ミラノ・スカラ座」へ。民音創立者として心からの歓迎の意を伝え、バディーニ総裁らと和やかに語り合った。
  
 また、スカラ座の対面にあるミラノ市庁舎では、トニョーリ市長(スカラ座の理事会の理事長)から、先生の名が彫られた市の銀メダルが贈られている。
  


 振り返れば、先生のミラノ初訪問(65年10月)は、スカラ座に日本公演を要請することが、主たる目的の一つだった。
  


 この時、同行した民音関係者がスカラ座を訪ねたのが、交渉の始まりである。
  


 以来、16星霜。先生の多大な尽力と、関係者の粘り強い努力が実を結び、“スカラ座の壁以外、全て持ってきた”といわれる伝説の公演が実現することになったのである。
 

   
20年を目標に
 こうした民間レベルの文化交流を大きく進めながら、池田先生が力を注いだのは、新しい人材の育成だった。
  


 先生がイタリアを初めて訪れた1961年当時、現地で出迎えた会員は、仕事で赴任していた日本人の夫妻だけであった。
  


 それから20年、同国には多くのSGIメンバーが誕生。会員の7割以上は20代の青年が占めていた。
  


 とりわけ拡大の原動力となったのは、ミラノで入会した若者たちである。
  


 到着の翌々日(6月4日)の夕刻、宿舎で開催された信心懇談会には、創価班、白蓮グループを中心とした男女青年部の代表ら約50人の姿があった。
  


 先生は参加者の質問に答えつつ、懸命に励ましを送った。
  


 「広宣流布の活動といっても、その努力は全部、自分に返ってくる。したがって、後になって『信心を貫いてよかった』と思う時が必ず来るから、退転だけは絶対にしてはならない」
  


 「信心の世界のみに閉ざされてはならない。信心している同志の連帯は確かに重要なことであるが、同時に多くの友人、多くの方々に自然の姿で接しゆく心の幅の広い青年であっていただきたい」
 

 
さらに先生は、結婚観について語るなど、懇談会は人間として、信仰者としての在り方を学ぶ、有意義なひとときとなった。  

サヴィーノ・マッツァリエッロさん
 参加したサヴィーノ・マッツァリエッロさん(副壮年部長)は述懐する。
  


 「私が鮮明に覚えているのは“信心はまず20年を目標に”との指導です」
 

 
先生は訴えた。
  


 ――人が社会的にも一人前に育つまでには20年かかる。樹木が大樹になるのも同じである。仏法は道理であるがゆえに、まず20年を目標に持続の信心であっていただきたい。全ての信頼できる信心の先輩たちの偉大さは、20年を経た人の中に見えるものだ――と。
 

 
マッツァリエッロさんは、生粋のミラネーゼ(ミラノっ子)。入会は78年、19歳の時だった。
  


 幼少期、大好きだった父と離別し、母子家庭で育った。
  


 家庭不和や経済苦などの悩みに直面したことで、生まれてきた意味を考えるように。その答えを教えてくれたのが、日蓮仏法だった。
  


「環境を恨むのではなく、宿命を転換する生き方を知り、私の人生は大きく変わっていきました」  

創価の母は希望の太陽! かつて池田先生も訪れたルネサンス期最大の宮殿・スフォルツァ城の前で、婦人部の友が仲良く。未来っ子も共に(昨年10月)


 経済的に自立できる仕事がなかなか見つからずにいたが、先生との出会いを結んだ頃から歯科医療器具の販売業に従事。以来、“社会の信頼の大樹に”との思いで着実に業績を伸ばし、勝利の実証を打ち立ててきた。
  


 二度と会えないと諦めていた父との再会も実現。後に父は病で急逝したが、祈った通りに家族の絆を確認することができた。
  


 信心に反対だった母も、マッツァリエッロさんの変化に触れ、学会に理解を示すように。題目を唱え、座談会に参加するまでになった。
  


 青年部時代は、創価班や男子部本部長として奮闘。同世代の仲間と共に学会活動に励んだ青春が、かけがえのない財産に。
  


 その後もロンバルディア州の壮年部長などを歴任し、10年、20年、30年と、先生に誓った「不退の信心」を貫いてきた。
  


 念願だった一家和楽も築き、信仰の喜びをかみ締める日々だ。
  


 師弟の原点から明年で40年。マッツァリエッロさんは決意する。
  
 

「あの日、家族のことで悩んでいた私を、まるで父親のように優しく包んでくださった先生への報恩を胸に、生涯、創価の哲学を語り広げていきます」
 

 
声の力
 1981年の池田先生の滞在中、青年たちが目に焼き付けた光景がある。
  


 それはホテルスタッフや運転手など、現地で接した全ての人たちに、ねぎらいの言葉を掛け、丁重に御礼を伝える先生の姿だった。
  


 創価班として役員に就いたロマーノ・イェランさん(壮年部副書記長)も、そうした振る舞いに感動した一人だ。
  


 先生と一緒に勤行・唱題し、固く握手を交わしたことも、宝の思い出になっている。
  


 「まだ入会して3年でした。特に印象に残っているのは、先生の『声』です。その力強く、優しい響きを耳にした瞬間、通訳の言葉を待たずして“この方は信じられる!”と直感しました」    

ロマーノ・イェランさん
 この2年後、イェランさんは大きな交通事故に遭う。
 

 
 命は守られたが、後遺症により、事故以前の記憶を一部喪失した。それでも、師匠との原点を忘れることはなかった。
  


 彼が信心と出あったのは、いとこからの折伏がきっかけだった。
  


 「親戚の中で一番暗かったいとこが、入会して別人のように明るくなったのです。とても驚きました(笑い)」
  


 60年から70年代のイタリアは、社会変革のための学生運動が盛んで、イェランさんも熱心な活動家だった。
  


 だが、権力や利害の壁に理想は打ち砕かれ、無力感から麻薬などに走る者も少なくなかった。  

「垂直の森」と呼ばれるミラノのマンション。テラスから緑があふれる
 そうした中、学会の座談会に参加した若者たちは、人間革命の哲学と真実の信仰体験に感動。ミラノをはじめ各地に、歓喜の波動が広がっていった。
  


 イェランさん自身も座談会が契機となり、弟と共に入会。翌年、銀行への就職を勝ち取り、初信の功徳を実感した。
  


 家庭不和などの悩みにも負けず、仕事と学会活動の両立に全力で挑戦。困難を乗り越えるたびに、師弟の絆を強めてきた。
 

 
銀行で順調にキャリアを積んだ後、90年からイタリア創価学会の職員に。その後の先生のミラノ訪問を陰で支えてきたことも、自身の誇りと輝く。
  


 「先生のように、一人を励まし抜く人生でありたい――これが私の日々の祈りです」 

11年ぶり3度目の訪問となったミラノで開催された北イタリア代表幹部会。先生は「きょうは“家族”の集まりです。どうしても聞きたいと思うことを、自由に質問してください」と述べ、参加者を包み込んだ(92年7月、ミラノ会館で)
 池田先生が三たび、ミラノに足を運んだのは、92年7月である。
  


 11年前の青年たちは皆、中核のリーダーと育ち、ミラノのあるロンバルディア州の会員数は1000人を超えていた。
  


 初訪問したミラノ会館での集いで、先生は呼び掛けている。
  
 

「現実を離れて仏法はない。また『幸福』もない。平凡な、身近ななかにこそ、人生の本当の幸福もある。また、そういう現実生活に幸福の花を咲かせていくのが仏法であり、『創価(価値創造)』なのです」
  


 “いつかどこか”ではなく、“今ここ”で幸福を勝ち開く!
  


 先生が示した“勝利の指針”は、友の心に厳然と刻まれている。







最終更新日  2020.09.15 13:39:53
2020.06.26
カテゴリ:虹を懸ける

〈虹を懸ける〉池田先生とポルトガル ② =完
逆境は英雄をつくる――ポルトガル広布の発展に尽くした友の歩み
異体同心の団結が光るポルトガルSGIの友が、首都リスボン南西部にあるアジュダ宮殿の前で。同国を代表する博物館で、池田先生が創立した東京富士美術館とも縁が深い(昨年10月)
 ポルトガル広布史に黄金の一ページを刻んだ、2006年6月の本部幹部会。第1回ポルトガル研修会の参加者は皆、喜びで胸がいっぱいだった。



 1965年、池田先生の初訪問当時、学会員が皆無だったポルトガルは、メンバーの6割が「青年」という、勢いあふれる組織に発展していた。
 
広布こそ使命
 「ポルトガルは勝ちました!」――本部幹部会でスピーチした池田先生の呼び掛けに、最高の笑顔で応える友また友。ヒロコ・アゼベドさん(総合婦人部長)は、婦人部長として、夫のジョゼ・アゼベドさん(総合壮年部長)と共に、師匠と感激の再会を果たした。

第1回ポルトガル研修会の参加者が出席した本部幹部会でスピーチする池田先生(2006年6月、八王子市の東京牧口記念会館で)
 入会は75年9月。人生の壁にぶつかり、心機一転を期して渡航したフランスで、知り合った語学学校の友人が学会員だった。



 この年の5月、先生がフランスへ。未入会だったヒロコさんは、会合に参加するメンバーから送迎を頼まれ、会場の外で、一人、待機していた。



 すると、そこに先生を乗せた車が。降りた先生は、ヒロコさんの方に近づき、じっと視線を注いだ。

 そのあまりにも深いまなざしに、強く心を揺り動かされたヒロコさん。“池田先生とはどんな方なのだろう”と、片っ端から著作をひもといた。



 読めば読むほどに感動と尊敬の念が湧き上がる。“私も先生の弟子になりたい”と御本尊を受持し、使命の職場で働きながら、女子部の一員として信心の基礎を磨いていった。



 81年、同国を再訪した先生と懇談する機会が。6年前の出会いを覚えていた先生は再会を喜び、「みんなから愛される人になるんだよ」と、包み込むように激励。以来、先生が訪れた際は、役員として諸行事の運営を陰で支えてきた。

 良縁に恵まれ、ポルトガル人のジョゼさんと結婚。婦人部となり、子育てに活動にと、慌ただしい日々を送っていた。

ジョゼ・アゼベドさん、ヒロコさん夫妻
 そんな彼女を試練が襲う。子どもたちが大きくなるにつれ、生活が困窮。3人目の出産を機に仕事を辞めていたが、働かざるを得なくなったのだ。



 就職活動に臨むが、届くのは不採用通知ばかり。毎日、泣きながら御本尊に向かった。



 何とか見つけた販売業は、自分には苦手な職種に思えた。それでも、懸命に働き続けて5年がたったある日、仕事で親しくなった知人を介し、世界的なブランドメーカーから面接の話が舞い込む。



 婦人部の先輩に相談すると、「今こそ題目よ」と力強く。真剣な祈りを重ねた結果、転職を勝ち取ることができた。



 込み上げる感謝の思い。それはやがて広布に生き抜く誓願に変わる。時を同じくして、ジョゼさんにポルトガルで就職の話が。新しい職場で実証を示し始めていたヒロコさんだったが、98年、一家で同国北部の町・ポルトに移住した。



 それから半年後、期せずして初代のポルトガル婦人部長の任命を受けることに。ポルトにも地区が結成され、ジョゼさんが地区部長に就いた。



 当時のポルトガルSGIは、信心して数年という友が大半を占める“草創期”。ヒロコさんはポルトガル語ができなかったものの、“皆から愛される人に”との指針を胸に、一人一人を温かく励まし、新しい人材の登場をひたぶるに祈り、待った。



 その中で日本から仕事で赴任したエツコ・モトキさん(書記長)が青年部のリーダーに。各部の体制が整い、2000年9月、新出発の集いを開催。それ以降も、ヒロコさんは同志と共に、支部から本部への編成(05年)、法人認可(09年)、ポルトガル文化会館の開館(11年)と、一貫して同国広布の発展に尽くしてきた。



 3人の子は創価大学に学んだ長男・長女をはじめ、全員が後継の道を真っすぐに進む。



 師匠と出会い、入会して今年で45年。



 青年を育み、後輩を支えながら、夫婦二人三脚で、世界広布という壮大なロマンに生涯をささげる決意だ。
 
自らが太陽に!
 クレア・ホニグスバウムさんは2015年5月、ヒロコさんの後を受け、ポルトガル婦人部長に就任した。

 池田先生の友人で、20世紀最高峰のバイオリニスト、ユーディー・メニューイン氏が創設した財団で講師を務めるなど、社会での活躍が光るリーダーだ。

クレア・ホニグスバウムさん
 ポルトガルに住んで30年。1992年1月の支部結成式に集ったパイオニアの一人でもある。



 イギリス・ロンドンの出身。正しい生き方を模索していた大学時代、日本人の友人から仏法の話を聞いた。



 題目を唱えると、心の奥底から生命力がみなぎるのを感じた。SGIの会合に参加し、創価家族の温かさに感動。世界平和の建設という理念にも深く共感し、入会を決めた。



 信心に出あう前は将来を悲観し、学業にも身が入らなかったが、大学院まで進学。音楽と芸術教育の分野で社会に貢献するという人生の目的が定まった。



 89年5月、池田先生が14年ぶりにイギリスへ。滞在中、ホニグスバウムさんは運営役員を担った。タプロー・コート総合文化センターで共にラジオ体操を行うなど、先生と過ごした思い出は、今も色あせない。

リスボンの石畳の道路を走る市電(昨年10月)
 翌年、さらなる飛躍を目指し、ポルトガルに移住。学会の中で培った、何ものにも負けない楽観主義で、音楽家としての経験を積んでいった。



 師の初訪問30周年となる95年10月には、日本で開かれたSGIの諸行事に出席。世界中から駆け付けた友に、先生は語った。

 

「私どもは『無限の希望』の源泉である題目を楽しく唱えきって、堂々と、行き詰まりなき、この人生をともに生きぬいてまいりたい」



 女子部時代、CDの発売や有名音楽家との共演など、立てた目標を全て実現させてきたホニグスバウムさん。



 現在は2人の子を持つ母親に。仕事と家事がどんなに多忙でも、唱題を欠かさず、婦人部の第一線で同志の激励と友人との対話に率先してきた。

 

「自らが太陽となって輝こう」をモットーに掲げるポルトガル婦人部。「ポルトガル広布の主役は女性です。婦人部・女子部のスクラムを一段と強くし、『無限の希望』である信心の光で、ポルトガル中を明るく照らしていきます!」

狭い路地、曲がりくねった階段が特徴的なリスボンの街並み(昨年10月)
 「ここに地果て、海始まる」――リスボン近郊、ユーラシア大陸最西端のロカ岬には、ポルトガルの大詩人カモンイスの詩を刻んだ記念碑が立っている。

​

 かつて池田先生は、この一節に触れ、陸から海へ目を転じ、大航海時代の主役となった同国の歴史を通して訴えた。



 「困難な状況に屈するのでなく、あえて未知の世界に飛び込んでいった」「ポルトガルのことわざに『逆境は英雄をつくる』とある通りで、逆境に挑戦してこそ、大きな事業を成し遂げることができる」と。



 先生の初訪問から55年。開拓魂みなぎるポルトガルの友は、いかなる嵐にもひるまず、師と共に“希望の新航路”を勝ち開く。

 

(①は18日付に掲載)
 <取材に協力してくださった方々>エツコ・モトキさん、アントニオ・サライバさん


(2020年6月26日 聖教新聞)







最終更新日  2020.06.26 12:16:19
2020.06.18
カテゴリ:虹を懸ける

〈虹を懸ける〉池田先生とポルトガル ①
池田先生の初訪問から55年。一人の女性から始まったポルトガル広布は今
リスボンの中心地の一つ、バイシャ地区。1755年の地震の後に再開発された(昨年10月)


 いかなる試練が立ちはだかろうとも、我らには「信心」という無限の希望がある。「師弟」という不滅の原点がある。池田先生と世界の同志の絆を描く連載「虹を懸ける」。今回は、先生の初訪問55周年となるポルトガルに刻まれた共戦のドラマを紹介する。


祈り励まし、一人を大切に
 池田先生を乗せた飛行機が、東京国際空港の滑走路を走りだす。1965年10月19日。時計の針は午後10時半を指していた。
 

 
平和旅の目的地はフランス、西ドイツ(当時)、イタリア、ポルトガルの欧州4カ国。中でもポルトガルは、これが初訪問である。
 

 
10月27日、先生はスペインのバルセロナ経由でポルトガルの首都リスボンへ。到着するや、市内の視察へと向かった。
  


 この時の様子は、小説『新・人間革命』第10巻「新航路」の章に詳しい。
 

 
先生は、街中で出会った少年たちと記念のカメラに。リスボンの一大パノラマが広がるサン・ジョルジェ城跡や、大航海時代の突破口を開いたエンリケ航海王子をたたえる記念碑(発見のモニュメント)などを見学した。

現地で出会った少年たちとカメラに納まる池田先生(1965年10月、ポルトガルの首都リスボンで)
 当時、現地に学会員は一人もいなかった。だが先生は、地涌の菩薩の出現を確信し、行く先々で大地に染み込ませるように題目を唱えた。そして、新しき海の道を開拓したエンリケ王子の事績などを通し、同行のメンバーに語っている。
  


 「ポルトガルの歴史は、臆病(おくびょう)では、前進も勝利もないことを教えている。


 大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶(かな)うべからず』(御書1282ページ)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。


 広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の“臆病の岬(みさき)”を越(こ)えることだ」
  


 この言葉は、同国SGIの永遠の指針となり、現在のポルトガル文化会館内の壁に大きく掲げられている。
源流は女性
 ポルトガルに本格的な妙法流布のうねりが起こったのは、80年代に入ってからである。


 源流は、一人の日本人女性だった。夫の転勤でポルトガルに渡った今西澄子さん(北海道・函館総県婦人部主事)である。
  


 それまでメキシコ、アメリカ、ニカラグア、パナマに滞在し、各地で広布の礎(いしずえ)を築いてきた今西さん。5カ国目となるポルトガルに移った翌87年、パリで池田先生との出会いが。先生は、開拓の労をねぎらいながら、渾身(こんしん)の励ましを送った。


 「題目をあげて、一人一人を大切に育てていけば、必ずいつの日か、多くの同志が生まれてきますよ」
 そして、まだ見ぬ未来の宝友のためにと、20ほどの念珠を彼女に託したのである。
  


 ポルトガルは、国民の9割がカトリック。仏法になじみはなかった。それでも、真剣な唱題と地道な実践が実を結び、やがてポルトガル人や外国人移住者が、一人また一人と信心に目覚めていく。


 自分が変われば、環境が変わり、世界が変わる――創価の「人間革命」の哲学に共感が広がっていった。


 5年余りの歳月が過ぎ、今西さんは日本に帰国。この直後の92年1月、待望の「ポルトガル支部」が発足したのである。

ポルトガル支部の結成式に集った友。かつて池田先生も訪れた、大航海時代の偉人たちをたたえる「発見のモニュメント」の前で(92年1月)
 支部結成式に集ったメンバーは、喜びと決意を込めた詩に署名。そこには、こううたわれていた。
  
 「あの500年前 荒れ狂う波を見つめながら 我らの祖先は あの水平線の果ての 海の巨人に勝利せんと深く心に期し そして実現した」
 「我らはその子孫として 恥じるところなく 今よりは 大苦難の荒波にも挑み 希望の大地を人々にもたらさん その時が来たのだ」
 

 
新航路発見から500年――。新たな“平和と友情の大航海”が始まったのである。


広宣流布の信心
 支部結成式に参加した一人に、ジョゼ・テイシェイラさん(支部参与)がいる。
 大西洋に浮かぶマデイラ諸島の出身。80年代後半、当時住んでいたイタリアで、学会員の友人から大病を克服した信仰体験を聞き、仏法に関心を抱いた。

ジョゼ・テイシェイラさん
 会友として、題目を唱えるようになって1年がたったころ、商船の船長だったテイシェイラさんは、航海中に死をも覚悟するほどの嵐に見舞われる。
  


 何もかもが海に投げ出される中、わらにもすがる思いで唱題。嵐が過ぎ去るまでの約20時間、必死に祈り続けた結果、奇跡的に生還(せいかん)することができた。


 この九死に一生を得た体験が確信となり、航海から帰国した93年に御本尊を受持。すぐに自宅を広布の会場として提供し、数少ない同志と共に仏法対話に励んだ。


 2年後には、池田先生が足を運んだ「発見のモニュメント」の近くに新たな家を購入。「いつの日かポルトガルに会館ができることを信じて、地涌の連帯を拡大しよう。それまでは、わが家を使ってもらおう――これが私の決意でした」

リスボンの街を歩くと、カラフルな壁画に出あえる(昨年10月)
 99年6月、テイシェイラさんは忘れ得ぬ原点を刻む。広布拡大に駆ける中、SGI研修会で訪日。先生との初めての出会いが実現したのだ。
 

 
信心懇談会の席上、先生は「年は・わかうなり」(御書1135ページ)の御文を拝し、参加者に呼び掛けた。
 

「皆さまは全員が若々しく、全世界で『広宣流布の信心』を貫き、永遠の大功徳を積みきっていく人生であっていただきたい」
  


 帰国後、たび重なる病苦にも負けず、信心根本に多くの福徳を積んできたテイシェイラさん。“生きている限り仏法を語り抜く”との師への誓願を胸に、これまで20人以上に弘教を実らせてきた。


 ポルトガル文化会館が開館するまでの十数年間、テイシェイラさん宅で信行学を磨いた人材たちは今、同国をはじめ海外各地で使命の道を歩んでいる。


仏法に無駄なし
 ポルトガル支部が誕生した92年、一人の青年が日本から海を渡った。現在、同国SGIの理事長を務めるスエジ・ナオハラさんだ。
  


 鹿児島・奄美大島で生まれ、信心強盛な母に女手一つで育てられた。
スエジ・ナオハラさん、トモミさん夫妻
 発心したのは社会人になってから。就職で訪れた鹿児島市の同志に触発を受け、学会活動に参加するように。男子部時代に折伏や創価班の任務を通し、信心の土台を築いた。
  


 その中で“世界広布の人材に”との思いが強まり、34歳の時にポルトガルへ。広布の建設と事業の開拓へ情熱を燃やしていた。


 しかし現実は厳しかった。4年たってもポルトガル語は満足に話せず、仕事は全く軌道に乗らない。資金も底をついた。
 

 
諦めて日本に戻ろうかと考えながら、一時帰国した際、思いがけず“ポルトガルの青年部長に”との話が。「本当の意味で腹が決まった瞬間でした。“池田先生の弟子として、この国の土になる”と、固く心に誓ったのです」
  


 仕事の姿勢も変わった。新たに始めた旅行業が成功を収め、生活の基盤が安定。学会活動にも一段と熱がこもり、組織も着実に拡大していった。
 私生活では、縁あってポルトガルで入会したトモミさん(支部婦人部長)と結婚。3人の子宝にも恵まれた。
 

 
池田先生の初訪問から40周年となる2005年10月、ポルトガル支部は、1本部4支部の体制に。支部長だったナオハラさんは本部長に就いた。


 翌2006年6月、日本で第1回のポルトガル研修会が開催される。代表16人が参加し、本部幹部会で池田先生と感動の出会いを結んだ。
  


 席上、先生は北海道から駆け付けた今西さんの世界広布への貢献を称賛し、以前に贈った句「君ありて ポルトガルにも 春 来る」を紹介。また、ナオハラさんらリーダーの名を読み上げ、青年を先頭に模範の発展を遂げた同国の歩みに触れ、次のように語った。
  


 「まさしく、希望の春が到来した。本当に素晴らしいことである。かつて、ポルトガルにこれほど多くの学会員が生まれ、広宣流布の旗が翻(ひるがえ)ると思っていた人は、一人もいなかった。しかし私は、深く深く祈り、確固たる手を打った」


 「広宣流布のために苦労した『陰徳(いんとく)』は、必ず『陽報(ようほう)』となって現れる。絶対に仏法には無駄(むだ)がない」

 ――豊かな実りの陰には、大地を耕し、種を蒔いた人の苦闘がある。
 

 
一昨年11月の総会では、長年の目標であった1000人の結集を達成。ポルトガルの友は、師の深き祈りと先駆者たちの汗と労苦によって開かれた同国広布の“永遠の春”を目指し、後継の人材育成に力を注ぐ。


 
ナオハラさんは決意する。
 

「何があっても、私たちポルトガルは負けません。これまで以上に一人一人を大切にしながら、リーダー率先の励ましで、“青年の国”の伝統を未来へつないでいきます!」


(2020年6月18日 聖教新聞)







最終更新日  2020.06.18 08:50:59
2020.01.18
カテゴリ:虹を懸ける

​​〈虹を懸ける〉 池田先生と東欧​ - 2 =完​
励ましの太陽は赫々と!

   無血の民主化をリードしたポーランドのワレサ大統領 右.が来日し、池田先生と会見(1994年12月、都内で)。この後、「ポーランドの至宝」展が日本各地で開催されるなど、両者の友情が両国の文化交流につながった   
 1989年の東欧革命で、各国に先駆けて民主化を果たしたポーランド。隣国による侵略や国土分割、“アウシュビッツ”に代表される大虐殺など、東欧の中でも悲劇の過去を持つ同国に、SGIの支部が結成されたのは92年1月である。

開拓者の誇り
 「ポーランドの人々を幸せにしたい。そんな気持ちでいっぱいでした」と語るのは、結成式に参加したマリア・マルキェビッチさん(総合婦人部長)。
 共産主義政権時代のポーランドで生まれ育った。
 友人を介して、仏法に縁したのは、大学卒業後、夫の赴任先のアメリカ・ニューヨークに滞在していた時のこと。マルキェビッチさんは当時、長女の心臓病、次女の眼の病気など、度重なる宿命の嵐を前に、人生の意味を考えていた。
 “一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げる”との哲学に感動し、87年に入会。その後、自身の人間革命と母国の宿命転換を決意し、ポーランドに帰国した。
 首都ワルシャワのアパートの一室で行われた支部結成式。
 先生はメッセージを寄せ、新出発を祝福した。「皆さまは、パイオニア(開拓者)であり、仏子であり、ポーランドに、より良い未来をもたらす希望であります」
 結成式後の92年6月には、ドイツ・フランクフルトでの合同会議で、先生と初の出会いが実現。マルキェビッチさんは初代婦人部長として、縁する全ての人に仏法を語っていった。
 やがて娘たちは病を克服。母の背中を見て育った二人は広布のリーダーへと成長した。
 2010年3月、ポーランドSGIは本部に発展。マルキェビッチさんは日本で先生と再会を果たす。「多くの困難の峰(みね)を乗り越えてきたね。でも、まさにその時に福運を積んできたんだよ」。広布の労をねぎらう師の真心に感動があふれた。
 支部結成から28年。パイオニア精神を燃やし、マルキェビッチさんは、きょうも愛する母国の広布に駆ける。

友情でつながる
 1990年代、池田先生は東欧革命の立役者となったチェコのハベル大統領(92年4月)、ポーランドのワレサ大統領(94年12月)と会見。未来を見据えた人間外交で、東欧に信頼と友情のネットワークを広げていった。
 迎えた21世紀──。2001年3月、ウィーンのオーストリア文化センターには、東欧各国からSGIの代表が集っていた。
 その数、実に12カ国110人。先生は、この第1回「東欧代表者総会」に万感のメッセージを贈った。
 「本日のこの集いこそ、この新世紀を『人間共和』の美しき人華の園、遊楽(ゆうらく)の園へと蘇生(そせい)させゆく、SGIの人間主義を象徴するものであると、私は宣言したいのであります」
 参加者の中に、先生の平和行動に共鳴し、ポーランドに来たツルコ・ハガ=サエツカさん(婦人部長)の姿があった。
 ハガさんの原点は、関西創価高校3年時に実行委員を務めた「健康祭」(体育祭)。直後に関西キャンパスを訪れた先生は、世界に羽ばたいた卒業生の連帯をたたえつつ、こう語った。
 「学園出身の、皆さんの先輩たちも、全世界に、活躍の舞台を広げている。
私も、海外の行く先々で、たくさんの創価の学友たちとお会いする。皆、後輩のために懸命に道を切りひらいている。そして、それぞれの場所で、また国を超えて、友情でつながっている」
 “私もその一人に”と誓ったハガさんは創価大学在学中、先生とワレサ大統領との会見の報に触れ、ポーランドへの渡航を決意。数年間の留学を経て当地での就職活動に励み、2000年に日本企業の現地法人から採用を勝ち取った。
 翌年、新世紀の開幕と同時に、同国の女子部長に就任。仕事と学会活動に走り抜いた。
 結婚後は2人の娘を育てながら、婦人部で奮闘。現在は、南部の都市クラクフを広布の舞台に、日本から移住してきた家族と共に、友情のスクラム拡大に奔走する日々だ。


誓いを果たす
 チェコのヨシコ・キタノさん(婦人部書記長)も、東欧代表者総会に参加した創価教育同窓生の一人である。
 池田先生との初めての出会いは、創価大学の入学式。だが、父親の反対を押し切って創大に進学したキタノさんの心は晴れなかった。
 それでも先生や先輩・友人からの励ましを受け、創大に来て良かったと思える人生を歩もうと決意。在学中は大学建設に奔走し、就職活動では、創大の女子学生として初となる大手都市銀行の本店営業部から内定を得た。やがて父は、良き理解者に変わっていった。
 卒業後、キタノさんは働きながら、創大時代に心に抱いた平和貢献(こうけん)の道を模索(もさく)し続けていた。その中で、チェコ行きを決断する。
 きっかけは、1995年1月に故郷を襲った阪神・淡路大震災だった。チェコの一老婦人から寄せられた見舞いの言葉に感動したキタノさんは、感謝の思いのままに、翌96年に惜しまれながら円満退職し、チェコへと渡った。
 圧政に苦しんだ歴史を持つチェコ。キタノさんは、創大生として日本から遠く離れたこの国にも、幸福の連帯を広げるとの誓いを立てた。
 胸に刻む先生の指針には、こうある。「いったん約束したことは必ず実行する──これが私の、また恩師・戸田先生の精神である。また国際社会における信義の根幹でもある」「『誓いを果たす』人が、いちばん苦しそうに見えて、いちばん幸福な人である」
 欧州有数の企業で信頼の実証を示し、後輩の道を拓いていったキタノさん。
東欧各国では今、多くの創価の友が、社会の第一線で活躍する時代が到来している。
                    ◇ 
 代表者総会以降、東欧ではチェコ、ポーランド以外の国でも支部が結成されていった。
 SGI発足30周年の2005年、先生は東欧など旧共産圏の同志に向けた随筆を発表。「一人」を大切にし、一人一人の「人間革命」によって発展を遂げた姿をたたえつつ、こうつづっている。
 「あまりにも厳しい社会情勢のなかにあって、わがSGIの同志は、常に明るく、常に前進していった。その姿こそ、『苦難に負けるな!』と、祖国を励ます希望の太陽となっていったことは間違いないのだ」
 現在は毎年、青年部研修会やリーダー研修会が開かれ、折伏と人材育成のリズムが確立されている。
 SGI発足45周年の「前進・人材の年」。東欧広布は、一段と勢いを増していく。
                              (1.は9日付に掲載)
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(2020年1月18日 聖教新聞)







最終更新日  2020.01.18 14:00:06
2020.01.09
カテゴリ:虹を懸ける

​​〈虹を懸ける〉 池田先生と東欧-1
一人一人が“勝利の大樹”に

   ドイツ・フランクフルトで、中欧・東欧などから集った友の一人一人と握手を交わす池田先生(1992年6月)。会議の席上、先生は「東欧の 友と相見る 不思議さは 大聖人の たしかな子等かと」との和歌を詠み贈った

 今月は、SGI発足45周年の佳節。池田先生との絆を誇りとし、広布に走る同志のスクラムは世界中に広がっている。ここでは、東欧のチェコ、ポーランドに輝く師弟のドラマを紹介する。

 2020年の幕が開けた。夏には東京で56年ぶり2回目となるオリンピック・パラリンピックが開催される。
 1964年10月10日に行われた前回の東京五輪の開会式。その模様を東欧チェコ(当時、チェコスロバキア)で見守る一人の日本人がいた。池田先生である。
 この日、初めて足を踏み入れた共産圏。首都プラハの街に華やぎはなく、人々の表情にも暗い影があった。
 しかし社会体制が異なっても、心を開いて語り合えば、必ず共感が生まれてくる──。この信念を胸に、先生は行く先々で市民と触れ合い、交流のひとときを持った。
 翌11日には、ハンガリーの首都ブダペストへ。わずか2泊3日であったが、東欧に歴史的な第一歩がしるされたのである。
 当時、現地に学会員は一人もいなかった。だが先生がまいた妙法の種は、東欧の大地に根を張り、着実に芽を出していった。
 89年11月には、ベルリンの壁が崩壊(ほうかい)し、東欧革命が一気に加速。民主化によって、信教の自由が保障されるようになったのである。

夢の支部結成
 民主化後、SGIの活動も本格化し、92年1月、チェコとポーランドに東欧初の支部が結成された。
 このうち、チェコの支部結成式の参加者は7人。その一人が、ベドジフ・ドレジャルさん(支部長)である。
 ドレジャルさんは共産党員の両親のもと、プラハで生まれた。街では、秘密警察が常に監視(かんし)の目を光らせていた。海外渡航は自由にできず、電話は盗聴(とうちょう)され、手紙は全て見られることが前提だった。
 「共産主義政権が、どれほど人間を抑圧していたか。その苦しみは経験した人にしか分かりません」とドレジャルさん。
 そうした中、当局の許可で実現した日本旅行の道中、一人の女性と出会う。
 兵庫生まれの学会員で、後に妻となるユウコ・イヅツさん(支部婦人部長)だ。
 帰国後も二人の交流は続き、ドレジャルさんは、ユウコさんが手紙につづる人間主義の仏法哲学に強く引かれていく。そしてユウコさんをチェコに呼び寄せ、81年、結婚と同時に信心を始めた。
 だが、時代は共産主義政権の真っただ中。「しばらくは二人で勤行・唱題することしかできませんでした。支部結成は夢のまた夢の出来事だったのです」
 「鉄のカーテン」が取り払われ、支部が結成されると、夫妻は生命の尊厳が脅かされてきた国土に仏法を広げようと、毎月の座談会と、日本から届く聖教新聞を糧に、広布の前進を開始した。
 経済苦にあえいだが、社会の繁栄と自他共の幸福を祈り抜き、信心即生活の実践を貫いた。
 「三世にわたる自身の揺るぎない幸福を築くため、悠々と楽しく『自らのルネサンス』の闘いを開始してください」──支えとなったのは、支部結成式に寄せられた池田先生のメッセージだった。
 現在は、工場設備の資材販売・営業を手掛ける会社の社長として活躍するまでに。ユウコさんと共に、悠々と楽しく学会活動ができる境涯を開いている。

創価家族の模範
 セシル・ヤブルコヴァーさん(地区婦人部参与)も、チェコの支部結成式に集った。
 「そこには、理想の“家族”の姿がありました。人生の新たな出発となった日です」
 第2次世界大戦後間もなく、フランス西部で生まれ、70年代にプラハへと移り住んだ。
 彼女には長年、ある悩みがあった。母親や異父きょうだいとの人間関係である。
 特に母との折り合いが悪く、十分な愛情を感じることができなかった。一方で自身も結婚し、子宝に恵まれたが、やがて夫婦関係が破綻(はじょう)してしまう。
 この間、折々に友人・知人から仏法の話を聞かされてきたヤブルコヴァーさん。相次ぐ家族との問題に“自身を変えたい”と、87年の離婚をきっかけに、御本尊を受持した。
 信心の歩みとともに母との関係は改善。対話を重ねるうちに、実は母も親族から愛情を注がれずに育ったことを知る。宿命転換の祈りは一段と強くなり、後に母はSGIの良き理解者となった。
 2007年11月には、関西の地で池田先生と初の出会いが実現する。
 参加した本部幹部会で焼き付けた先生の雄姿。「仏法という永遠の次元で見るならば、目先のことで、一喜一憂する必要はまったくない。最後は信心している者が勝つ」──弟子の可能性を信じ抜く師匠の慈愛に、固く勝利を誓った。
 仕事では、教員として奮闘。10年前には病魔に襲われたものの、信心で乗り越え、はつらつと学会活動に励む日々だ。老若男女を問わず、周囲から信頼を集める姿は、創価家族の模範と光っている。

祈りとは“誓願”
 支部結成以降、多くの日本人会員がチェコへとやって来た。
 信心強盛な両親のもと、東京・渋谷区で育ったヒロウミ・タムラさん(地区部長)が移住したきっかけは、あるチェコ人との出会いだった。友好を深めるうち、調理師としてプラハで和食レストランを開く夢を持つようになったのだ。
 男子部の最前線で奮闘する傍ら、開業に向けて準備を進めていた1992年8月、長野県で池田先生との出会いが。チェコで開業し、世界広布に駆ける決意を述べると、温かな言葉を掛けられた。
 師への誓いを胸に、海を渡ったタムラさんは、94年に念願のすしバー「プラハ田村」を開店。さらに複数の店舗をオープンさせた。
 直後に自宅も購入したが、徐々に経営は右肩下がりに。どんなに祈っても状況は変わらず、学会活動の時間も限られていった。
 そんなある日、先輩が、小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」の章を通して励ましてくれた。
 そこには、野菜づくりに失敗して借金が膨(ふく)らんでしまったブラジルの農業移住者の壮年に対し、山本伸一が激励する場面が描かれていた。「日蓮仏法の祈りは、本来、“誓願”の唱題なんです。その“誓願”の根本は広宣流布です」
 チェコに来た原点を思い起こしたタムラさん。“広布のために”との一念で真剣に祈り、自身と向き合った。
 その後、全店舗を閉めるに至ったが、ほどなく日本料理店への就職を勝ち取る。そこは、調理師としての経験を最大限に発揮できる最高の環境だった。
 今、タムラさんの心には、広布の誓願がいや増して赤々と燃えている。
                   ◇ 
 東欧広布の忘れ得ぬ原点は92年6月。池田先生が出席し、ドイツ・フランクフルトで開催され、中欧・東欧などの同志が集った合同会議である。
 ドレジャルさんやポーランド支部結成式の参加者の一人であるマリア・マルキェビッチさん(総合婦人部長)らと固い握手を交わした先生は、東欧の民衆に深い思いをはせていた恩師・戸田先生の真情に言及。各国に誕生した地涌の同志を心からたたえつつ、重要な指針を示した。
 「どんな悪条件下に置かれても、そこを自分の使命の天地と定めて根を張っていく。その人が勝利者である」
 「一本の“勝利の大樹”がそびえれば、その周りに、種をまき、仲間を増やしていけるのが道理である。一本の大樹が大切なのである。皆さまはその大樹となっていただきたい」
 大地に根を張り、大空へ枝を伸ばす“勝利の大樹”。それは、21世紀に向かって、東欧各国で大きく成長していくことになる。​​


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(2020年1月9日 聖教新聞)







最終更新日  2020.01.09 17:00:10
2019.12.21
カテゴリ:虹を懸ける

​​​〈虹を懸ける〉池田先生とパラグアイ <3>=完​

諸天は勇気ある人を守る

パラグアイ文化会館に到着した池田先生は真っ先に子どもたちのもとへ。手品を披露しながら、励ましを送った(1993年2月21日)

激務の4日間
 池田先生がパラグアイに滞在した1993年2月20日から23日までの4日間、数多くの行事が行われた。
 アンドレス・ロドリゲス大統領との会見や、「国家功労大十字勲章」の授章式、国立アスンシオン大学の名誉博士号授与式、アスンシオン市の名誉市民称号授与式……。
 当時のパラグアイSGI理事長、カオル・クリタさん(名誉理事長)は振り返る。
 「これだけの過密な行程の真っただ中にもかかわらず、先生は会う友、会う友を包み込むように激励されました。そのお姿は、今も脳裏から離れません」
 また、郵政局では、先生の滞在期間中、全ての郵便物に「SGI」の消印を押すことを決定していた。
 その決議文には「SGIは、世界平和の実現、民衆の相互理解の深化、文化の尊重を根本的な目的として活動し、国連のNGOでもあり、価値を創造するための団体である」と。さらに「SGI会長の訪問は、国家諸機関及び関係団体が敬意と共鳴を表すべきもの」と謳われている。
 これらは、まさに、パラグアイSGIの長年にわたる地道な社会貢献活動の“結晶”であった。

美しい創価家族
 パラグアイの多くの同志が“原点”として心に刻むのは、パラグアイ文化会館で開催された第1回パラグアイSGI総会である。
 池田先生が会場に入るや、「バエイシャパ」(グアラニー語で、ごきげんいかがですか)と呼び掛けると、皆の喜びは爆発した。さらに、先生は「わが愛するパラグアイの家族にお会いするために、私は初めて貴国を訪れました。お会いできて本当にうれしい」と。
 歓声は、しばらく鳴りやまなかった。
 席上、先生はパラグアイSGIに指針を贈っている。
 「皆さま方は、この美しき地にあって、偉大なる地涌の菩薩として、妙法流布の尊き汗を流してこられた。その健闘を私は心からたたえたい。パラグアイの皆さまは、本当に人柄の良い方々である」「どうか、この世界で最も美しい創価家族のスクラムを大切に守りぬいていただきたい」

 ヒロシ・カタオカさん(理事長)は当時、男子部の部長だった。1980年、大学在学中に入会。東京・練馬の地で信心の基本を学んだ。「本当の家族のように、温かな地区でした。今でも理想としている組織です」
 その後、仕事で渡ったパラグアイでも学会活動に奔走した。ただ心のどこかで“いずれは日本に戻るだろう”という思いがあった。
 「パラグアイに先生をお迎えしてからは、この地を使命の場所と決め、広布に生きる覚悟を決めました」
 同国の男子部長、書記長などを歴任し、2013年、理事長に就任。以来、貿易関連会社の管理職を務めながら、パラグアイ広布の伸展のために、日夜、尽力している。
 「先生から託された“世界で最も美しいパラグアイ創価家族”の建設が目標です。
どこまでも仲良く、皆が主役のスクラムを築いていきます」

一人立つ信心
 また、池田先生は総会の席上、「諸天は、勇気ある人を守る!」と訴え、一人立つ信心の大切さを語った。
 「人数ではありません。一人、真剣に立ち上がれば、自分に縁するすべての人びとを、また、環境も栄えさせていくことができる。そのために、真剣に祈り、行動している事実が大事なんです」
 マナミ・ナガサワさん(婦人部長)も、この時、初めて先生との出会いを刻んだ。
 「当時は、若手の婦人部員でしたので、先輩方に付いて回って、無我夢中で、諸行事の準備に当たりました」
 池田先生は、この総会の模様を、小説『新・人間革命』第30巻〈下〉「誓願」の章で詳細につづった。
 ナガサワさんは、この章を学ぶ中で、自身の原点を再確認した。
 この間、度重なる困難に直面してきた。
 家族で営むスーパーマーケットの経営危機、借金の肩代わり、最愛の父の病……。
 それでも学会活動から一歩も引かず、“この信心で必ず打開する”と決めて、祈ってきた。
 毎年のように、弘教を実らせ、個人折伏は15世帯に。その中で、これらの課題を全て解決してきた。
 ナガサワさんは「諸天は、勇気ある人を守る!」との指針のままに、人生を勝ち開いてきたのである。
 「信心で乗り越えられないことはない。この確信を、後継の世代に伝えていきます」

原点を忘れない
 パラグアイ文化会館に到着した池田先生が真っ先に向かったのは子どもたちのもとだった。先生が手品を披露すると、皆、大喜び。
 当時、7歳だったチエコ・ウチヤマダさん(支部副婦人部長)は感慨を込めて語る。「先生は、幼い私たちにとって、生涯、忘れない“原点”になるよう、手品まで披露してくださったのだと思います」
 ウチヤマダさんは、2009年から13年まで同国の女子部長として、友の励ましに徹してきた。現在は、子育てをしながら、家族で老舗ホテルを切り盛りしている。多忙な日々の中で、ヤング婦人部のリーダーとしても挑戦を重ねる日々だ。
 さらに先生は、子どもたちに呼び掛けた。
 「みんなに会えてうれしいよ。大きくなったら日本へもいらっしゃい。待っています」
 この時、出会いを刻んだメンバーの多くが先生との“約束”を果たし、日本での研修会に参加。そして今、同国の青年部長、男子部長、女子部長をはじめ広布のリーダーとして指揮を執っている。
 「パラグアイでの出会いを生命に刻んでいます。先生のお心を伝えていくことが私たちの使命だと思います。先生のご期待に応えるために、広布の舞台でも、社会でも実証を示していく決意です」と語るのは、サムエル・メディナさん(青年部長)。獣医師として働きながら、友の激励に奔走する。
 ラリサ・カルドソさん(副青年部長)は言う。「多感な時期に両親の離婚などが重なって、悩みの連続でしたが、“日本で待っているよ”との先生の言葉を抱締(だきし)めて、懸命に生きてきました」
 カルドソさんは15年9月、同国の女子部長としてSGI青年研修会に参加。その際、東京・信濃町の総本部で池田先生との出会いを刻んだ。「先生に新たな誓いを立てました。自らが主体者として、生涯、パラグアイ広布の発展のために生き抜くことです」
 現在、パラグアイSGIの職員として、人材育成に全力を注ぐ。
 マヌエル・セスペデスさん(男子部長)は決意する。「先生はパラグアイの要人、識者と縦横に語り合い、広布の礎(いしずえ)を築いてくださいました。私たちも先生の行動に続き、社会に打って出て、信頼の輪を広げていきます」
 セスペデスさんは、通関業界で活躍しながら、社会人枠で大学にも通い、幅広い外交力を磨いている。
 アキコ・ヤマモトさん(女子部長)は、この3年間で6世帯の個人折伏を成
就。仕事では、日本・パラグアイの外交関係樹立100周年(本年)記念イベントの日本文化普及部門を担っている。
 「日本までの距離は遠いですが、先生を求める心は負けません。女子部らしく、伸び伸びと、創価の温かさを語っていきます」
 ユウイチ・ハナノさん(副男子部長)は、国立大学病院で泌尿器科の医師を務める。
 「あの日の出会いから“将来は先生のもとへ”と祈り続けてきました。先生のおかげで今の自分があります」
 06年7月、10年3月の研修会で訪日した際には、先生との再びの出会いが。
「先生は全て分かってくださっている。そう思うと、力が湧き上がります。先生のご指導を学び抜き、広布の人生を歩んでいきます」 ​​


 一人を励ます。
 青年を育てる。
 未来をつくる。
 先生の行動は一貫して変わらない。
 先生は、パラグアイの友に和歌を贈った。

 天も地も 
  川の流れも
    仏土かと
   地涌の菩薩の
     君たち忘れじ

 雄大なパラグアイ川のように、池田先生が築いた広布の流れは、未来へと続いていく。

                            ( <2>は20日付に掲載)


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(2019年12月21日   聖教新聞)







最終更新日  2019.12.21 21:07:42
2019.12.20
カテゴリ:虹を懸ける

〈虹を懸ける〉 池田先生とパラグアイ 2
2019年12月20日
地域に信頼の根を張れ

1993年2月20日、パラグアイの国際空港で池田先生を歓迎したアスンシオン市
のカルロス・フィリソラ市長(右から2人目)ら。この日、先生に「市の紋章」の盾
が贈られた

42年間の祈り


 パラグアイSGIでは42年間、毎週、継続してきたことがある。


 パラグアイ文化会館での勤行会だ。首都アスンシオン在住のメンバーを中心に、毎週木曜日に集まり、現在も多くの同志が参加している。 


 「池田先生をパラグアイにお迎えしたい。皆で、祈りを合わせていこう」――1977年夏、この集いは、マツタロウ・ナガサワさんをはじめ当時のリーダーの提案で、わずか数人から始まった。


 トミオ・ハナノさん(パラグアイSGI副本部長)、マサコさん(同副総合婦人部長)夫妻は2回目の勤行会から、今日まで参加し続けている。

「気が付けば、42年にもなるんですね」と感慨深く口をそろえた。


 トミオさんが和歌山県から移住したのは55年。7歳の時だった。


 ガンで余命を告げられながらも父は家族のため、懸命に養蜂(ようほう)に取り組んだ。しかし、11歳の時に父は逝去。トミオさんは、自分が家族を支えようと、苦学の末、国立アスンシオン大学の農学部に進学した。その在学中に出会い、仏法の話をしてくれたのが、マサコさんだった。


 マサコさんの父は草創のリーダーだったナガサワさん。61年に家族で入会以来、真面目に信心に励んできた。同国の女子部長としても活躍。76年6月にトミオさんを入会に導いた。ハナノさん夫妻はこの勤行会を軸に、人生を開いてきた。
「頑張りなさい」


 84年2月、池田先生は18年ぶりにブラジルを訪問。この時、隣国のアルゼンチン、ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、チリの南米5カ国200人の友もブラジル文化祭に参加するために訪伯した。


 先生は、記念のカメラに納まり、各国広布の前途を祝した。 


 ブラジル滞在中、パラグアイの友にとって忘れ得ぬ場面がある。先生の前で「パラグアイ本部歌」を合唱する機会が巡ってきた。 
 

 


 梢(こずえ)をわたる 風の音 コロラドの森 越えゆけば 流れる汗か 同志の顔コロニア(入植地)の道 果てしなし 
  

 聴き終わった先生は語った。 


 「今度は、パラグアイにも行くからね」 
 さらに、先生はパラグアイの同志と固い握手を交わした。 


 「“学会員で良かった”と心の底から感じました。『先生、ありがとうございます』と感謝の気持ちをお伝えしました」(マサコ・ハナノさん) 


 「先生は、私に『頑張りなさい』と声を掛けてくださいました。生涯の原点です」(トミオ・ハナノさん)


 トミオさんは、この激励を胸に、幾多の苦境を乗り越え、国立アスンシオン大学の農学部教授、さらに政府と協力して営農の改善を進める農業コンサルタントとしても活躍してきた。


 ハナノさん夫妻の3人の子どもたちも父母の背中を見て育ち、広布の道を歩んでいる。


 70歳を超えた今、トミオさんは「自由自在に活動できる境涯になれたことが、何よりの功徳です。今の目標は学会創立100周年を妻と共に、“現役”で迎えることです」とかみ締める。
宿命転換の法理


 ブラジルで池田先生との出会いを刻んだメンバーは、その感動と決意を、パラグアイ中に語り広げていった。


 当時、理事長だったカオル・クリタさん(同名誉理事長)は言う。「どうすれば、先生をパラグアイにお迎えできるか――そのためには、“広布の拡大以外にない”と皆で約し合いました」 


 同国では、日本からの移住者を中心に、皆が努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせていた。 


 「その証しとして、この頃から、現地メンバーの入会が相次ぐようになりました」(カオル・クリタさん)

 壮年部のペドロ・セスペデスさんも、その一人である。ケンジ・ヤマモトさん(同副理事長)の紹介で、84年に入会した。


 もともと宗教に関心はなかったが、経済苦や家庭の悩みは尽きなかった。「ヤマモトさんは、日西の辞書を持って、週に3回ほど、私の家に来ました。毎回、夜遅くまで、片言のスペイン語で仏法の話をしてくれました」


 セスペデスさんが感銘を受けたのは「宿命転換」の法理。周囲や環境のせいにしていた自分自身の生き方を見つめ直した。何より、ヤマモトさんの熱意に心が動いた。入会後は、真剣に唱題を重ね、目の前の課題を乗り越えていった。


 その後、同国の男子部長などを歴任し、今では、経営する会社が通関業界で最大手の企業に成長している。
民主化への道


 パラグアイでは54年から35年間、独裁政権が続いていた。89年、その歴史に終止符を打ったのが、当時のアンドレス・ロドリゲス大統領である。自身も軍人だったが、新憲法成立など「民主化」への橋渡しをした。


 その中で、国家の安定と繁栄のために、地道に活動するパラグアイSGIへの社会的評価も高まっていった。


 90年3月、アスンシオンで「世界の少年少女絵画展」(SGI、パラグアイ文部省共催)が開催された折にはロドリゲス大統領が出席。また同年11月、訪日した大統領は学会の首脳とも会見した。


 91年11月には、パラグアイの外務省から池田先生のパラグアイ訪問を招請する「公式招聘状」が届けられた。


 さらに92年11月、池田先生は、聖教新聞本社でフェルナンド・コスタンティニ同国駐日大使らと会談した。


 席上、大使は「SGI会長のご訪問を国をあげて歓迎いたします。皆、心待ちにしております」と改めて要請。また、先生の著作を読み、その平和行動を見つめてきた所感を述べた。

 会談後、先生は次のように語っている。 


 「私は、美しきパラグアイに栄えあれ、光あれと祈りたい。そして近い将来、必ずや訪問し、永遠に残る友好の歴史を刻みたい」 


 会談には、クリタ理事長(当時)をはじめ同国のリーダーたちも同席していた。


 その模様は、瞬く間にパラグアイ中に伝わり、同志の祈りは、一段と強くなった。
師を持つ喜び


 93年1月24日、池田先生は、北・南米指導に出発した。


 アメリカ、コロンビア、ブラジル、アルゼンチンでの諸行事を終え、2月20日、49カ国・地域目の平和旅となるパラグアイの国際空港に降り立った。


 パラグアイSGIのリーダーと共に、空港で出迎えた、婦人部のマルタ・ダバロスさん(方面副婦人部長)は振り返る。


 「池田先生は、空港に到着されるや、深々と一礼されました。“目の前に先生がいらっしゃる”。夢にまで見た瞬間でした」


 ダバロスさんは86年に入会。“どうすれば幸せになれるのか”を模索し、さまざまな宗教を試したという。


 その中でSGIに出合い、“幸せは、どこか遠くにあるのではなく、今いる場所でつかみ取るもの”という思想と実践に共感した。


 ダバロスさんは、先生の著作等を学びながら、師を持つ喜びをかみ締めてきた。


 「あの時、生涯、先生を求め、パラグアイ広布に生き抜くこと、そして3人の息子を後継の人材に育てることを誓いました」


 今、ダバロスさんの息子たちは全員、広布の最前線で活躍。次男のサムエルさんは、同国の青年部長を担う。
良き市民として


 空港では、アスンシオン市のカルロス・フィリソラ市長ら同国の要人も、先生の訪問を歓迎した。そして直ちに空港内で、式典が開催されたのである。


 フィリソラ市長は「アスンシオン市の名において、SGI会長の、ご訪問への私たちの喜びの象徴として」と述べ、歓迎の「市の紋章」の盾を先生に手渡した。


 先生は「社会も国家も、一市民から構成されています。『一市民』こそ、最も大切な根本です。その『市民』の代表者に歓迎していただくことは計り知れない光栄です」と謝意を述べた。


 “良き市民”を目指し、社会のために行動し続けてきた友の喜びもひとしおだった。


 こうしてパラグアイ広布史に輝く歴史的な4日間が幕を開けた。(​ <1>は13日付に掲載​)



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(2019年12月20日   聖教新聞)







最終更新日  2019.12.20 19:25:45
2019.12.13
カテゴリ:虹を懸ける

​​虹を懸ける 池田先生とパラグアイ   <1>

信仰とは「立ち上がる力」

チャベスやフラム移住地のメンバーが活動するエンカルナシオン地区の座談会。パラグアイ広布の源流の地である(本年8月)

 本年は日本と南米パラグアイの外交関係樹立100周年である。戦後の日本人移住者が切り拓(ひら)いたパラグアイ広布の歴史と、師弟のドラマを紹介する。

覚悟を決める
 パラグアイ広布の歩みは、戦後の日本人移住者と共にある。
 1950年代半ば、日本からチャベスやアマンバイ、フラム(現在のラ・パス)、60年代には、ピラポやイグアスなどへの入植が始まった。しかし、日本政府の不十分な計画によって、現地での受け入れや分譲地準備などが進んでいなかった。
 日本人移住者たちは自ら原生林を切り拓きながら、自給自足の生活を余儀(よぎ)なくされた。
 55年4月、9歳のカオル・クリタさん(パラグアイSGI名誉理事長)は、一家7人でチャベスへ移住した。
 神戸を船でたち、大波に揺られながら、約80日間。移住地に着いたのは夜だった。電気や水道どころか、家も道もなかった。天幕を張(は)って雑魚寝(ざこね)した。
 「“ザーザー”と音がしたので、雨かと思って起きたら、地面をアリの大群が移動する音でした。何もないジャングルでの生活が始まったのです」
 ここまできて後戻りはできない。クリタさんは、子どもながらも、この地に骨を埋める覚悟(かくご)を決めた。その後、苦学の末に夜学を卒業し、アスンシオンで雑貨店を始めた。しかし、人にだまされ、多額の借金を背負うことに。どん底だった68年、クリタさんは学会に入会する。22歳の時だった。
 以来、信心一筋に人生を開いた。37歳で理事長に就任し、2013年までの約30年間、指揮を執った。
 現在も、後任のヒロシ・カタオカ理事長を支え、後継の人材育成に尽力している。

第1回地区総会
 移住者の中には、日本で入会し、海を渡った学会員がいた。彼らはそれぞれの移住地で活動を開始していた。
 1961年8月、パラグアイ地区が結成。第1回地区総会(同年10月)が行われたのは、ピラポ移住地のケンジ・ヤマモトさん(同副理事長)の自宅だった。
 当時、小学生だったヤマモトさんにとっても、忘れられない一日となる。
 「30人ほどが、わが家に集まりました。これだけの同志が、ここにいると思うと、うれしかったです」
 ヤマモトさんの父・クニオさん、母・ハルコさん夫妻は、山梨で八端織(はったんお)りの染色工場を営んでいたが、化学繊維に押され、工場をたたむことに。その頃、仕事仲間から折伏を受け、60年2月、一家で入会している。「当時、ラジオで『虹の国パラグアイ』などと移住の宣伝をしていました。でも、現実は『虹の国』とは、ほど遠い状況でした」(ケンジ・ヤマモトさん)
 それでも、クニオさん夫妻は、揺(ゆ)るがなかった。“今いる場所が使命の舞台”と決め、この地にパラグアイ広布の礎(いしずえ)を築(きず)いてきた。
 ヤマモトさんはそんな父母の背中を見て育ち、同国の男子部長、青年部長等を歴任。副理事長として同志の激励に走りながら、この8年間で10世帯の個人折伏を実らせている。

移住から60年
 フラム移住地のテツオ・アタギさんも、第1回地区総会に参加した。愛媛(えひめ)で育ち、炭焼きで生計を立てていた。57年、家庭の悩みで入会。聖教新聞で信心を学んできた。59年、戦後の経済苦の中で、移住を決断した。
 段ボールに聖教新聞を詰め込み、妻と2人の子を連れてパラグアイに渡った。
 アタギさんは毎日、入植者の家を片っ端から訪ね、仏法を語った。学会員と巡り合うと、抱き合い、固い握手(あくしゅ)を交わした。
 ある時、空に懸(か)かった美しい虹に目を奪われた。「手を伸ばせば届きそうな、大きな虹でした。あの虹のように晴れ晴れと生きていく。そう決めました」 移住から60年。88歳の今、「こんなに、いい場所はないですよ」と感慨を込める。
 息子のタカシさんは支部長、孫娘のジェシカさんは女子部部長として広布の道を歩む。

故郷を思う
 マツタロウ・ナガサワさんは、アタギさんから折伏を受け、パラグアイで入会した。
 ナガサワさんは59年10月、妻と5人の子どもと共に、盛岡からフラムに移住した。
 長女のユウコ・クリタさん(同総合婦人部長)は語る。「当時、私は13歳でした。家はない。友達もいない。空を見上げ、“故郷”を思うと、泣けて仕方ありませんでした」
 2年後の61年、ナガサワさんは“幸せになれるならば”と一家で入会。愚直(ぐちょく)に、学会活動に励んできた。「両親と一緒にランプを首に下げて、学会歌を歌いながら座談会や折伏に向かったことは、金の思い出です」(ユウコ・クリタさん) こうした日本人移住者の献身的な努力によって、広布の水かさは着実に増していった。63年8月にはパラグアイ支部が結成された。

冬は必ず春に
 一方で、その後のパラグアイ広布を見据(みす)えると、大きな課題があった。隣国アルゼンチン広布が、首都ブエノスアイレス近郊に移住した日系人から始まったのに対して、パラグアイは、移住地に入植した日系人によって仏法が弘められた。
 そのため、首都アスンシオンには、まだ広布の組織がなかった。
 アスンシオン広布の開拓を担ったのがナガサワさん一家だった。「わが家には、壮年部・婦人部・男子部・女子部の各部がそろっていたんです。父は土地を売り、一家でアスンシオン行きを決めました。当然、仕事のあてはありません。でも、『冬は必ず春となる』との御聖訓を胸に、皆で一つ一つ課題を乗り越えてきました」(ユウコ・クリタさん)
 こうして移住地から350キロほど離れたアスンシオンの地にも、広布の灯がともされていったのである。

幸せになれる
 66年3月、日本からの派遣幹部が2グループに分かれて、アスンシオンと、チャベス移住地などを訪問した。
 当時、同国では100世帯ほどのメンバーが信心に励んでいた。
 移住者の生活は、安定とはほど遠かった。
 それでも、学会員は信心根本に現実の荒波に立ち向かっていた。その様子は、小説『新・人間革命』第11巻「開墾」の章につづられている。「そうしたなかで生きる学会員にとって、信仰は『立ち上がる力』であり、困難に屈せぬ『勇気の源泉』であった。だから皆、必死になって、信心に励んだ。同志のなかからは、さまざまな体験が生まれた」
 悪戦苦闘は、同志の信心を強くした。派遣幹部は、彼らの求道心を垣間見て、“まさに世界広布の時は来ているのだ”と感嘆(かんたん)した。
 68年、ナガサワさんをはじめ当時のリーダーは、日本での夏季講習会に参加し、池田先生との出会いを刻んだ。「父は、いつも『池田先生についていけば絶対に間違いない。必ず幸せになれる』と言っていました。“先生をお迎えしたい”──その思いは私たちの目標になりました」(ユウコ・クリタさん)
イグアスの滝
 74年、池田先生は、ブラジルを訪問する予定であった。
 この時、パラグアイ音楽隊は、先生の前で演奏し、パラグアイの同志の心意気を示したいと、ブラジルを目指した。
 しかし、当時は軍事政権下で、学会に対する誤解もあり、ビザが発給されず、先生のブラジル行きはなくなった。パラグアイ音楽隊も、入国を許可されなかった。それでも、ブラジル国境のイグアスの滝までは、バスで入ることができた。
 「よし、ここで演奏しよう! 自分たちの心は、池田先生に届くはずだ」
 音楽隊は、イグアスの滝の轟音(ごうおん)と競(きそ)うかのように、演奏した。
 そして皆、誓った。
 「必ずや池田先生をパラグアイにお迎えしよう!」​​



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(2019年12月13日 聖教新聞)







最終更新日  2019.12.13 12:10:07
2019.10.27
カテゴリ:虹を懸ける

虹を懸ける 池田先生とブラジリア 
学会活動こそ最高の幸福道




ブラジルの首都ブラジリアを初訪問した池田先生が、地域の公園でメンバーと記念撮影した後、真心の励ましを送る(1984年2月23日)


 南米ブラジルの首都ブラジリア。計画都市のモデルとして区画整理された美しい街並みは、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。本年は、池田先生のブラジリア初訪問から35周年。師匠と共に、幸福の人生を開いてきた友を紹介する。



 陽光に照らされ、木々の緑が輝いていた。1984年2月23日、池田先生ご夫妻が、ブラジリアの代表600人と公園で記念撮影を行った。


 66年以来、18年ぶり3度目となる先生の訪伯。ブラジリアへは、初の訪問である。


 午後2時50分、先生は公園に到着すると、同志の輪の中へ。皆の後ろにいた鼓笛隊と音楽隊を見つけ、「前にいらっしゃい」と優しく手招きした。


 記念撮影の後、軽快なサンバの演奏が披露された。先生は笑顔で呼び掛けた。


 「ありがとう。皆さんの元気なお姿を見て、本当にうれしい。これからも、良き市民として、また良き社会人として成長し、これ以上に幸せな人生はない、という人生を生ききってください」


 その言葉に、メンバーから「エ・ピケ、エ・ピケ、エ・ピケ、ピケ、ピケ!」と、感謝と誓いを込めた歓声が沸き起こる。先生は一人一人の目を見つめ、握手を交わした。


 この記念撮影を機に、ブラジリア広布は加速していく。



同志に尽くす


 鼓笛隊の一員として、記念撮影に参加したエウダ・オリベイラ・アウベスさん(分圏婦人部長)。

「初めて池田先生とお会いしました。父親のような温かさを感じ、胸がいっぱいになりました」と述懐する。


 幼少期から引っ込み思案な性格だった。16歳の時、両親が離婚。母と弟の3人で暮らした。同じ頃、人と会うことがつらくなり、人混みの中にいると呼吸が苦しくなったり、めまいを起こしたりすることもあった。「当時は原因が分かりませんでしたが、今思えば、パニック障害だったのだと思います」


 心配し、足しげく家に通ってくれた幼なじみが、ブラジルSGIのメンバーだった。何度も座談会に誘われて断りきれず、“一度だけなら”と会合へ参加した。

「初めて御本尊を拝し、題目を聞いた時、何とも言えない晴れやかな気持ちになったんです」


 帰宅後、その感動を家族に伝えると、母も以前、座談会に行ったことがあり、しかもSGIに好感を抱いているという。2人で勤行・唱題を開始。81年5月、一緒に入会した。


 程なくして、アウベスさんは鼓笛隊に入った。だが状況はすぐに好転したわけではない。健康への不安は消えず、練習にはいつも母が付き添った。


 高校卒業後、定職に就けず、家に閉じこもる日々。“自分を変えたい”と懸命に題目を唱えた。徐々に前向きな気持ちになり、4カ月後、一人で練習に行けるように。念願だった就職も果たした。


 先生との出会いを刻む頃は、社会の第一線で働くようになっていた。メンバーを包み込むように励ます師の姿に、自分も人のために尽くせるようになろうと決めた。


 ブラジリアの女子部長などを務め、婦人部でもリーダーとして活躍。「自分が苦しんだ分、人の痛みが分かるようになりました」


 先生の振る舞いを胸に刻み、同志の幸福のために全力を注ぐ。



師との記念撮影


 池田先生のブラジリア滞在は1984年2月21日から23日までの3日間。この間、先生はフィゲイレド大統領をはじめ、外相や教育・文化相など政府の要人と相次ぎ会談した。


 ブラジリアの同志は、先生の滞在期間中、自主的に集まり、諸行事の大成功を祈り続けていた。

 リツコ・ナカヨシさん(総合方面婦人部総合長)は振り返る。「ブラジリアには会館がなかったため、青年部を中心に個人会場に集まり、真剣に唱題を重ねていました。仕事や学校を終えてから駆け付ける人も多く、題目の声が途絶えることはありませんでした」


 その様子を聞いた先生は、少しでも同志を励ましたいと、当初は予定になかった記念撮影を提案した。


 連絡を受けたメンバーは喜びに沸いた。そして急きょ、行われたのが、23日の記念撮影だった。


 その折、先生は、いつの日かブラジリアに会館が建つことを念願した。


 「先生の希望あふれる言葉に、皆が奮い立ちました」と語るナカヨシさん。鹿児島県出身の彼女は57年、家族と共にブラジル北部のベレンに渡った。一家で米や野菜の栽培を始めたが、思うようにいかなかった。


 心機一転、ブラジリアへ転居。しかし、家が火事に見舞われるなど試練は続いた。


 そんな時、近隣の友人から信心を勧められ、62年8月に実践を始める。


 生活は貧しく、車もない。毎週開かれる座談会には、家族6人で1時間ほど歩いて通ったという。


 その後、農家を諦め、家族で小さな青果店を開いた。ナカヨシさんは夜間大学に通いながら、店を手伝った。


 73年に結婚。4人の子宝に恵まれた。84年の記念撮影には、子どもの手を引いて駆け付けた。


 ナカヨシさんは師の励ましを支えに、仕事も、育児も、学会活動も、一歩も引かず挑戦。現在はスーパーマーケットの経営者となり、経済革命を成し遂げた。長年、ブラジリアの婦人部長を務め、友の激励に走り抜いてきた。


 96年12月、ブラジリアの中心部にほど近い大使館街の隣接地に、念願だったブラジリア文化会館が落成した。


 ナカヨシさんは胸を張る。「美しい白亜の会館は私たちの誇りです。自分自身の名前のように、皆と“仲良く”前進し、地域に希望の連帯を広げます」



後継の人材を


 マリア・ダ・パス・オサムラさん(総合方面婦人部総合長)も、池田先生との記念撮影が“人生最高の誇り”となっている。


 1977年に入会し、81年10月、壮年部員だった陽一さんと日本で結婚。夫婦でブラジル広布に尽くそうと決意を固めた。


 渡伯する前、夫妻は池田先生と出会いを刻む。結婚の報告をすると、先生は喜び、「君たちのことは絶対に忘れないよ。ずっと一緒に戦っていくんだよ」と。陽一さんに「良きブラジル市民になっていきなさい」とエールを送った。


 オサムラさんが結婚したのは39歳。卵巣のう腫を患っていたが、どうしても子どもが欲しかった。夫婦で祈る中、妊娠の兆候が。しかし喜びもつかの間、妊娠3カ月で流産――。


 悲しみに沈む中で、師の励ましを思い返した。今こそ夫婦で乗り越えようと、懸命に唱題を重ね、学会活動に奔走した。


 84年の記念撮影。師と再会した時、オサムラさんのおなかには新しい生命が。夫婦で“子どもを広布後継の人材に育てよう”と誓い合った。


 5カ月後、42歳で長男を出産。翌年には、次男も誕生した。


 だが、オサムラさんを試練が襲った。91年1月、夫が脳卒中で倒れ、急逝したのだ。
 

「長男の光一は6歳、次男の健治は5歳でした。女手一つで子どもを育てるのは想像以上に大変でしたが、亡き夫との誓いを果たそうと、ただただ成長を祈り続けました」


 仕事をしながら、宿命転換を懸け、広布拡大に挑んだ。


 96年にはブラジリアの婦人部長に。これまで個人で30世帯を超える弘教を達成。本年4月にも御本尊流布を成し遂げた。


 息子たちは母の背中を見て、師を求める心を学んだ。兄弟ともに、ブラジルの大学を卒業した後、日本の創価大学大学院を修了した。


 現在、兄弟は東京・八王子市に住み、長男の光一さんは区男子部主任部長、次男の健治さんは男子部大学校2期生として活躍。本年、それぞれ弘教を実らせた。


 オサムラさんは声を弾ませる。「池田先生の激励のおかげで、私はこんなに幸せになりました。生涯、先生と共に、広布の道を歩んでいきます」


                      ◇


 35年前の先生の励ましを原点に、ブラジリアの天地に根を張り、人間革命の功徳と実証の花を咲かせてきた同志たち。その「人間革命」即「社会貢献」の師弟の勝利を寿ぐかのように、ブラジリア連邦区から1998年7月、池田先生ご夫妻に「名誉市民証」が贈られている。その就任式で、先生は「この栄誉を、広宣流布への前進を大勝利させた全同志に捧げたい!」と。さらに、こう訴えた。


 「私どもは、果たすべき『使命』が明確になっている。『広宣流布』という、全人類を幸福にする『最高の仕事』がある。この使命の道で苦労しながら、学会活動に励めることは、最高に『幸福』なのである」
 師弟の絆で結ばれたブラジリアの同志の心には、歓喜の花が満開に咲き薫っている。

●ご感想をお寄せください  news-kikaku@seikyo-np.jp


(2019年10月27日 聖教新聞)







最終更新日  2019.10.27 18:22:06

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