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晴ればれとBlog

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ライフウオッチ――人生100年時代の幸福論

2020.04.17
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​ライフウオッチ ―― 人生100年時代の幸福論
「定年後」は「第二の人生」 楠木新・神戸松蔭女子学院大学教授に聞く


 人生100年時代を豊かに生きる知恵を探る「ライフウオッチ」。今回は、「定年後」をテーマに取材や執筆を行う楠木新さんに、定年後の生き方について話を聞いた。(聞き手=志村清志)


 〈自営業などを除けば、ほぼ全員に待ち受ける「定年」。生活や環境が大きく変わる「人生の転換点」といえるだろう。コロナ禍との戦いで社会が転換点を迎える今この時、定年後の生き方も変わらざるを得ない〉
 現在、日本人の平均寿命は、女性が87・32歳、男性が81・25歳です。このことから、定年後を生きる期間は、20年から30年近くあるといえます。私の計算では、この定年後における自由時間は、8万時間以上。これは、定年までの一般的な総労働時間よりも長い。「定年後」は、余生ではなく「第二の人生」といえます。とはいえ、日本社会の長寿化は、ここ最近に始まった話ではなく、戦後から続いてきました。国民の多くが長寿化を認識する一方、自分の「生き方」が変わることまでは意識が追い付いていなかったのです。
 「定年後」の生き方が注目されるようになった契機は、2013年の「高年齢者雇用安定法」の改正だと考えています。これにより、会社は次の三つのうち、いずれかの制度の導入を義務付けられました。65歳以上への定年の引き上げ、定年の撤廃、もしくは継続雇用制度の導入です。いずれにしても、会社員の働く期間が延びたことになります。
 この制度変更は、定年を控えた世代に大きなインパクトを与えました。「今までと、生き方が変わる」と、多くの方がリアルに意識したことでしょう。
 この時、私は59歳。まさに当事者の一人でした。一つ上の先輩たちが「定年で退職するか、雇用延長を選択するか」など、熱っぽく語り合っていました。「定年後」について執筆しようと決めたきっかけになりました。
 ​

「人生100年時代」と聞くと、健康や介護、年金などを連想しがちですが、とりわけ「ライフサイクルの変化」こそ、私たちが最も向き合うべき課題だと考えています。
 自由な時間が増え、本来ならば可能性にあふれている「定年後」ですが、実際には不安を抱き、立ち往生している人が少なくない。だからこそ、「生き方」の転換が必要です。
不安の原因は「お金」ではない
 〈公益財団法人「生命保険文化センター」が行った「生活保障に関する調査」(2019年)では、老後生活に対する不安の内容として、「公的年金だけでは不十分」「退職金や企業年金だけでは不十分」など、「お金」に関する項目が上位を占めた。それとは対照的に、楠木さんは、近著『定年後のお金』の中で「不安の原因はお金ではない」と述べる〉
 多くの方が「お金」に関する不安を抱いているのは事実です。定年後の生活は、会社からの給与がなくなり、収入が大きく減りますから、当然といえば当然です。自らの資産管理や収入・支出の把握などは大切でしょう。
 しかし私は、定年後の不安とは、実はお金の問題ではなくて、「未来に対する不安」ではないかと思います。
 「定年後、何をすべきか分からない」「先行きが見えない」――将来に対する不安を強く抱える人たちは、何かしら「安心」を求めがちです。その象徴的な例が「お金」といえます。お金は数字に換算できるので、目に見える指標になるからです。つまり「安心」を「お金」に仮託しているのです。
 特に会社勤めの場合、個人事業主と違い、社会保障や福利厚生など、一定のリスクを会社が“担保”している側面があります。その分、リスクに対して守りに入りやすく、「安心」を「お金」に仮託する傾向が強いと感じます。
 もちろん「お金」はあるに越したことはないですが、心配し過ぎても際限がありません。どんなに気を付けていたとしても、予期せぬ事故や病気に遭う可能性はあります。リスク管理は「数字」だけでは表せません。
 取材を重ねてきた実感として、充実した「定年後」を送れるかどうかは「お金」の有無というよりは、いかに主体的に行動できるか、つまり「生き方」が定まっているかにかかっていると思います。「不安」の反対は「安心」ではなく、「行動」なのです。
「もう一人の自分」を持つ
 〈定年後の「生き方」を定めるために、心掛けるべき点は何か〉
 会社にいる間は、指示や命令に従って動く場面が多く、大多数の人は自分の意志や主体性をもって行動することに慣れていません。したがって定年を迎えてから、自分の意志でいきなり行動を起こすことが難しい。「会社員としての自分」しか行動基軸がなければ、なおさらでしょう。
 だからこそ、定年を迎える前に「会社員としての自分」の他に、「もう一人の自分」を持つことが大切です。例えば、地域活動やボランティアに関わってみる、新しい趣味や副業を始めてみるなど、自分が前向きになって取り組めるものを見つけることです。
 その上で「もう一人の自分」を探すのに、適切な時期があります。
 会社員としての人生を前半と後半に分けて考えると、前半戦は、「会社員としての自分」を磨く時期、後半戦は、「もう一人の自分」を探す時期といえます。
 前半戦は、自分自身が成長する実感も得やすいですし、コミュニケーションやビジネスマナーをはじめ、社会人としての“基礎体力”が付きます。その時期に身に付けたバイタリティーは、今後の長い人生を生きる上で力になります。そういった意味では、会社は、良質な“訓練機関”だと思います。
 40代半ば以降になると、それまでの働き方に疑問を感じる人が多くなります。過去にインタビューした方からは「誰の役に立っているのか分からない」「成長している実感が得られない」「このまま時間が過ぎてしまっていいのか?」といった声を、よく聞きました。
 この頃から、仕事との向き合い方を見直し、「もう一人の自分」を探し、育てることが必要になってくるのではないかと思います。
 とはいえ、いきなり「もう一人の自分」を見つけようとしても簡単にはいかないでしょう。大切なのは、気軽に行動してみることだと思います。40代半ばから「もう一人の自分」を探し始め、定年退職する前までに、確かな将来像をつかんでおけば良いのです。
 そのための決まった方法はありません。興味のある趣味を高める人もいれば、童心に帰って、かつて好きだったことをやってみる人もいます。身近な人の「生き方」から学ぶことも有効でしょう。さまざまな気付きや触発を得られるからです。「もう一人の自分」は、自分自身にフィットしたものであることが大切です。
 そうした中で仕事との両立に悩む時も出てくるでしょう。私自身も、50歳から仕事と並行して執筆活動を始めたのですが、両立には多少の苦労がありました。
 しかし、今振り返ると、どちらか片方を切り捨てることなく、両立させようと努力することで、それぞれの立場が充実したと実感しています。私の場合、執筆活動をする上で、会社員としての自分の実感や目線、周囲の雰囲気など“生の情報”を得られたことも、とてもプラスになりました。こうした経験は、定年後を心豊かに生きる上で支えになっていくはずです。
 また、実際に定年後の生活に入ると、仕事や家庭、趣味、親の介護など、役割を掛け持ちしながら過ごす場面が多いと思います。並行した生き方に慣れる、という意味でも、定年前から「もう一人の自分」を見つけることが大切になると考えています。
不確実な事態と向き合う
 〈近年、終身雇用や年功序列制などに代表される日本の雇用体系は変わりつつある。このことは、「定年後」の生き方や仕事との向き合い方に、どのような影響を与えるのだろうか〉
 社会の流れを見ると、10年後、20年後には、仕事に対する価値観は大きく変わると思います。日本型雇用の変容に加え、女性の社会進出はさらに進むでしょうし、フリーランスで生計を立てる人も増えていきます。
 こうした状況を踏まえると、20代、30代の方々は、現代の50代より、組織に頼らない働き方を身に付ける必要があります。仕事に対する価値観が流動的な状態にある中で、従来と同じ働き方をしていては、自分を見失ってしまう恐れもあるからです。
 それに加えて、現在の新型コロナウイルスの感染拡大は、こうした社会構造の変化を、間違いなく加速させるでしょう。日本型の雇用システムは大きく刷新されていくはずです。必然的に、私たちの働き方や生き方も変わっていきます。
 「人生100年時代」は、違う角度から見ると、生きる期間が長くなった分、新型コロナウイルスの感染拡大のような「不確実な事態」や、病気や事故などの「逆境」を経験する可能性が高い時代とも捉えられます。


 そうした想定外の事態と、どのような姿勢で向き合うかは、人生100年時代を豊かに生きる上で大切な視点でしょう。
 私自身、多くの定年後の人たちを見てきて、ある共通項があることに気付きました。それは、失業や交通事故、病気といった、いわゆる「不遇」や「挫折」に直面した人は、そのことが契機となって「もう一人の自分」を見つけ、充実した定年後を送っている人が少なくなかったことです。
 「なんで自分だけ」「あんなことさえなかったら」――こうした経験を受け入れ、乗り越えることは、もちろん容易ではありません。人はそんなに強くないので、悩んだり、後悔したり、立ち上がって一歩を踏み出すまでに多くの時間を要するでしょう。
 しかし、そうした経験は、自分の人生の枠組みを見つめ直す機会になります。自分の人生は有限で、その一日一日が大切だと気付いた時、「挫折」の経験は自分の人生を豊かにする起点になっていくのです。
不安を希望に転換する
 自分のネガティブな経験でさえも、意味を見いだせる、つまり不安を希望に転換して、前向きに生きる人たちがいるというのが、私が取材を通して学んだ大切なポイントです。人生100年時代の今、そのような視座は、ますます希求されるでしょう。


 〈プロフィル〉くすのき・あらた

 1954年生まれ。兵庫県出身。京都大学卒業後、生命保険会社に入社。勤務と並行して「働く意味」をテーマに取材・講演活動に取り組んできた。現在、神戸松蔭女子学院大学教授を務める。主な著書として『定年後』『定年準備』などがある。
 

   
 【おことわり】「ライフウオッチ――人生100年時代の幸福論」は、当分の間、休載させていただきます。


(2020年4月17日  聖教新聞)







最終更新日  2020.04.17 10:05:14


2020.03.31

​​ライフウオッチ ―― 人生100年時代の幸福論
読者と考える“見えない障がい”
 人生100年時代を豊かに生きる知恵を探る「ライフウオッチ」。​


 2月22日付1面では、高次脳機能障がいという“見えない障がい”を抱えながら生きる静岡県の吉永真也さん(41)=広宣長(ブロック長)=を紹介しました。
「もがきがい」のある人生を。


 度重なる失業に、もがき、苦しみながらも、前を向き続けた吉永さん。その挑戦を支えたのは、家族と創価学会の同志の励ましでした。
​

 ここでは、読者から寄せられた声を紹介します。いかなる困難にも負けない、「もがきがい」のある人生とは――皆さんと一緒に考えていきたいと思います。



学会員ではない恋人にもシェア


 「見えない障がい」という言葉が目に焼き付きました。


 私は19年間、虐待に遭っていました。母子家庭で、母にはネグレクト(育児放棄)、兄には暴力や暴言を受けてきました。


 奨学金を借り、バイトをして、恋人の家に転がり込んだりし、なんとか4年制大学を卒業できました。


 しかし、心身が悲鳴を上げ、たまに通っていたメンタルクリニックに行き、大泣きしながら、事情を全て話しました。


 もうその頃には重度のうつ病、対人恐怖症、パニック障がい、睡眠障がい、複雑性PTSDを患っていました。「見えない障がい」です。
 病院のメンタルヘルスソーシャルワーカーさんに、卒業とともに生活保護を勧められ、実家から離れることを決めました。


 薬の調整のために2回精神病棟に入院。“合う薬”がようやく見つかり、現在も療養中です。


 小さな頃から画家になることが夢でしたが、食欲不振や一日中動けなかったり、題目も寝ながら唱えたり、自分の生活もままならない状態。「もがき続けている人生」です。


 精神疾患は他人からは見えません。一見、本当に「普通の人」です。どんな言葉で説明したとしても、経験しないと理解はできない病気です。


 しかし、どんなに落ち込んでも、私は創価学会員であるということが救いになっています。


 1人暮らしを始めた時、マンションの前に偶然、女子部の人が住んでいて、座談会や会合にできる限り一緒に参加してくれたり、今までの境遇を全て聞いてくれたりしました。


 「1人なら苦しい」。本当にそうだと思います。入院した時に、同じ薬を服用している年上の女性と友人になったり、中学生の頃からの友人はずっと励ましてくれ、病気のことを全部受け入れてくれる恋人ができたり、いろんな方が慈愛をくださっています。


 信じてくれる周りの人がいるから、どんなに落ち込んでも“死”という選択はありませんでした。その人たちの幸せを本気で祈れる自分になれています。そう祈っていると、うれしくなります。


 しかし、社会から切り離されたような疎外感、思うように動くことができない自分、何も知らない人からの視線、それは本当に苦しく、つらく、私が創価学会を知らなければ“夢も希望もない”と嘆いて自殺していると思います。


 でも常に、私には暗闇の中でも一点の光が見えます。


 私には仏法があるから“絶対治る”と思えます。違う疾患ではありますが、この記事を読んで、仏法に触れて頑張っている人がいる、一人じゃないと思えました。


 そして、人生のリアルが書かれていて、共感できました。
 

「何があっても前を向ける信心」。その通りです。どんなことがあっても、この信心で前を向ける自分になれるんだと実感しています。


 25歳である私の人生は、まだまだ長いです。記事の中にあった「人から大事にされないと、心が枯れてしまう。だから君が、みんなの太陽になれ」との池田先生の言葉を大切にし、どんなに今が苦しくつらくても、感謝と思いやりを忘れない人間になります。


 この記事を読めて良かったです。学会員ではないですが、恋人にもシェアしたいと思います。
 (大阪府 匿名)


信じ、待ってくれている人がいる
 障がいがある心身で懸命に 生きる吉永さんの姿と、それを支え続ける妻の幸代さん、 ご家族、同志に思いをいたし、これほど心強く頼もしい絆は他にないと思いました。
 身近な友人が障がいを抱えながら戦う姿とも重なり、私たちも必ず勝利していと決意を新たにできました。
 私は308半となり、人生 の試練を一歩また踏み出したところです。日々思うようにいかないことばかりで、投げ出したくなる思いの方が大きくなることも多いです。
 それでも池田先生が”自分を信じて待ってくださっている"と思うと、力が湧いてきます。社会や人の心を照らす素晴らしい記事に感謝します。(福岡県 中澤洋子)



病気、障がいに負けない宝の息子


 自分と重なる点が多いように感じて、おえつしながら読みました。


 私はパニック障がいを発症して12年。今、精神障がい者手帳2級を持っています。


 パニック障がいになった背景に「自閉症スペクトラムがある」と10年のお付き合いになる主治医から診断を受けています。


 私には、先天性水頭症で生まれた次男、教師の暴力で3年半引きこもったアスペルガー症候群の長男、同じくアスペルガーの三男の宝の子どもがいます。


 それぞれに苦労はありましたが、信心で乗り越え、長男は障がい者枠で上場企業の地域限定社員になり、次男は就労継続支援B型事業所でパン製造に携わり、三男は今春、短大へ進学します。


 子育てと並行して、認知症になった、しゅうとめを自宅で介護し、家業の美容室の仕事をしている時にパニック障がいになりました。


 その後、しゅうとめをみとり、子どもたちも成長したのですが、美容室の経営が行き詰まり、今は夫が店を一人で営業し、私は治療をしながら、近くのコンビニのパートをしています。


 異業種に就いたこともありますが指示された意味の取り違え、注意欠損のミスが多く、劣等感を持たない日はありません。その都度、題目をあげ、聖教新聞を読み、なんとか前を向いています。


 学会の地区の皆さんには全てをさらけ出しているのですが、いつも支えてくれています。


 キラキラした成功体験や優秀な人の話は、私のような人間には読むのがつらい時もありました。


 今回のような体験は、もがき苦しみ、それでも進みたいと思っている私のような人間に大きな力をくれました。
 (長野県 木下さん)



自分も誰かに「光」を送りたい


 学会2世として、学生部では部長、男子部大学校と、信心に取り組んできました。


 吉永さんとは程度の差こそあれ、私も精神障がい者手帳3級を手にし、今、家族がいるなか、1年半休職中で、3月末で退職になります。


 吉永さんの記事を読み、自分の生き方を見つめ直し、自分自身を受け入れる・認める大切さを学びました。


 と同時に、僕自身がどこまでできるのかを知る良いきっかけにもなりました。


 吉永さんの人生と妻の幸代さんの支えは、僕に「光」を与えてくれました。遠くても「光」って届くんですね。


 僕も今、主夫の状態です。


 自分らしく、次は自分が「光」を送る番になることが、お世話になったいろんな方への恩返しだと思いました。


 うつ症状と発達障がいを抱えながらも、少しずつ人生を歩んでいきます。
 (山口県 山下さん)


(2020年3月31日   聖教新聞)







最終更新日  2020.04.01 01:43:11
2020.03.28

​ライフウオッチ ― 人生100年時代の幸福論
車いす劇団の主宰

「嘆くよりも、輝く」
 障がいがある人と健常者が一体となって、“バリアー(障壁)のない舞台”を創り上げる「まゆみ劇団」。
 主宰者である中谷まゆみさん(69)=大阪市平野区、地区副婦人部長=は「たまたま障がい者になって、嘆(なげ)いているより、少しでも生きるって素晴らしいことやと感じてほしい」と語る。
 底抜けに明るい彼女の強さに、人生100年時代を生きるヒントがある。
 
 劇団を主宰して21年になる。自主公演にイベント出演、施設への慰問など活動は幅広い。
 もともとは、ウィルチェア(車いす)ダンス中心のミュージカルを行っていたが、今では詩吟(しぎん)、琴・三味線などの邦楽演奏、影絵の劇まで演じる。
  
 「21年もやってると、みんな高齢化して、激しいのは無理。動かんでいい演技が増えてんよ」
 それもそうだが、15人も劇団員がいれば、障がいもさまざま。「手が使えれば、楽器。車いすに乗れない子にもできる演目を、と考えていって。全部、覚えて教えなあかん、こっちは大変やで」
 脚本から作詞作曲、ダンス、詩吟、楽器の演奏指導も中谷さんが担当する。しかも、そのほとんどが、50歳を過ぎてから始めたというから驚きだ。
 
 2歳の時、ポリオ(小児まひ)にかかった。娘の将来を案じた両親が1954年(昭和29年)、創価学会に入会。
 常勝関西の草創期、両親に連れられ、親戚中を折伏に歩いた。物心つく頃には、勤行・唱題を実践し、小学2年で任用試験にも合格した。
 外出も小学校の登校もずっと母に背負われての生活。“歩けるようになりたい”と祈り、訓練に励み、小学5年の春、初めて杖をつき、一人で登校することができた。
 しかし、校門の前で同級生に石を投げられた。その日から壮絶ないじめが続いた。それでも、くじけなかった。「家に帰って、何くそって題目あげて」
  中学2年の夏、近畿地方の障がい児が集まる合宿に参加した。その夜、同じポリオの女子生徒に言われた。
 「私らは一生、この体のままや。結婚もできへん」
 それまで母から「祈れば、いつか治る」と聞かされていた。愕然(がくぜん)とした。「それからは反抗期まっしぐら!」
  
 心配した女子部の先輩が訪ねてきても、取り合わない。ある日、母に諭(さと)された。
 「あの子はな、複雑な家庭環境で苦労しながら、一人で信心してんねん」
 “それなのに私のために……”。先輩の思いが心に響き、素直に話を聞くように。
 「仏法では『願兼於業(がんけんおごう)』と説かれてるんよ。今は分からへんかもしれんけど、私らには使命があるねん」
 感動し、再び、信心に目覚めた。
 
 高校進学は断念し、手に職をと和裁を学ぶ。ひたぶるに祈る中、18歳で結婚。子宝にも恵まれた。だが、すれ違いが重なり、29歳で離婚する。
 シングルマザーとなり、幼い娘を育てるため、内職して生活費を賄(まかな)った。
 その頃までは杖で生活していたが、徐々に体が動かなくなり、車いすに。
  持病の肺気腫も悪化し、毎晩、せきで寝付けなくなった。
 失われていく体の自由。“私の使命って何なん……”。御本尊に泣きながら祈った。
 そして、ある思いが湧く。「障がいがある私やからこそ、社会に飛び出さな!」
 障がい者の施設や作業所を回って、何をすべきか模索した。暗い顔をした人たちが気になった。化粧もせず、服にも無頓着(むとんちゃく)――。
 「障がい者が輝く姿を、いろんな人に見せたい。そんな舞台があったらいいなあと思って」
 
 1999年(平成11年)に劇団を結成する。ウィルチェアダンスを始めるも、活動は低迷したまま。
 そんな頃、民音公演のアルゼンチンタンゴに魅了された。
 「傷ついた気持ちを素直に表現するタンゴは、私にぴったりやった」
 来日したプロの舞踊家に指導を仰ぎ、レッスンに励む。車いすで踊るアルゼンチンタンゴは一躍、話題を呼んだ。
 
 劇団員も増え、テレビでも特集され、さまざまなイベントに引っ張りだこに。
 しかし、活躍すればするほど、周囲の嫉妬(しっと)にさらされた。足を引っ張られ、諦めた事業もある。
 壁にぶつかるたび、「強くあれ」との池田先生の言葉を思い返した。
 「先生は、できないことは言われへん。“私も強くなる”って題目あげてあげて。そしたら、ちょっと強くなりすぎました(笑い)」
 
 46歳で一緒になった夫・政夫さん(80)=副常勝長(副ブロック長)=とは再婚同士。
 子どもも3人ずついて、一族は大所帯に。集まればいつも、にぎやかだ。
  中谷さんは諦めていた進学にも挑戦。59歳で夜間高校を卒業した。
 「私の人生は限界ばっかり。けど、へこたれへん。悩んだら、聖教新聞。先生が背中を押してくれる。そして、何回でもやり直す。結婚も3回したしね(爆笑)」
  
 池田先生は語っている。
 「あらゆる差異を突き抜け、人間としての根源の力で人々を救うのが地涌の力です。“裸一貫”の、ありのままの凡夫(ぼんぷ)、『人間丸出し』の勇者。それが地涌の誇りなのです」
 
 「まゆみ劇団」は12年前、NPO法人「フレンド」に。地元・大阪市平野区内で、健常者と障がい者が一緒にボランティア活動を行ったり、小・中学校の人権の授業に招かれたり、地域密着の活動を続けている。
 しかし、現在は、新型コロナウイルスの影響で、劇団は慰問(いもん)や公演を見送っている。学校の授業も自粛になった。
 介護施設の職員から「利用者さんが会いたがってます」と言われると、心が痛む。
 だが、嘆(なげ)くより、輝く。今は力を蓄える時だと、琴や詩吟の稽古にいそしむ。
 「ようやく障がい者もおしゃれして、街へ出ていく時代になった。だけど、バリアーは残ってる。私らの輝きで社会を変えていかな。使命は大きいねん」​


 (2020年3月28日 聖教新聞)







最終更新日  2020.03.28 12:41:38
2020.03.24

ライフウオッチ 人生100年時代の幸福論
 

認知症と看取り。​「夫の最終章。私は主演女優賞」


 人生100年時代は、「認知症と向き合う時代」ともいわれる。​


 厚生労働省によると、「高齢者の約4人に1人が認知症の人又はその予備群」と。5年後は患者数が700万人になると推定され、介護を担う人も増える。
 岐阜県各務原市の南城千恵さん(65)=地区副婦人部長(白ゆり長兼任)=は、「レビー小体型認知症」を患った夫・健一さんを、2年4カ月前に看取った。


 認知症の夫を支え、看取る中で、南城さんが抱いた思いとは――。
 大工の夫を折伏し、27歳で結婚した。


 おしゃべり好きな自分とは対照的に、夫は寡黙(かもく)で、穏(おだ)やかな人。二人とも、子どもが大好きだった。


 だが結婚の翌年、子宮筋腫(しきゅうきんしゅ)を患(わずら)う。


 治療するも、子宮を全摘することに。「離婚してもいいよ」と涙ながらに語ると、夫は「そんなこと考えるより、体を治すこと考えよ」と。


 この頃から、夫は創価学会の会合に参加するようになった。


 以来、夫婦水入らずの暮らし。いつしか夫を「お父さん」と呼ぶように。


 温泉や演歌歌手のコンサート、学会活動もいつも一緒。冬の朝、聖教新聞を配る道には、雪かきに汗する夫の姿が。リストラなどの試練も、夫婦で祈り、乗り越えた。


 夫の様子が変わり始めたのは、2008年(平成20年)ごろ。


 目の病気で入院中なのに「(大工の)道具を持ってこい」と言ったり、病室のロッカーを巻き尺で測ったり。


 医師に言われた。「若年性の認知症かもしれません」
 夫は当時、58歳。通院を重ね、「レビー小体型認知症」と診断された。


 少しずつ「できないこと」が増えていく。服を渡しても、「どうやって着たらいいんだよ?」と。


 幻覚(げんかく)を見る時も。「なあ、姉さん」。ある日、夫にそう呼ばれた。“お父さん、とうとう私のことまで分からなくなっちゃったの……”
 目を離すと家を抜け出し、町を徘徊。たびたび行方不明に。学会の同志や近隣の人たちも捜してくれた。


 寒い冬の夜。“お父さん、凍えていないだろうか……”
 明け方、自宅から20キロ以上離れた所で見つかったことも。それでも、“体力が続く限り”と、在宅介護を選んだ。


 夫はトイレの場所も分からなくなり、外出から帰ると、家のあちこちに排せつ物が。


 入浴の介助をしていた時、夫が急に怖い顔をして、「俺はもう必要ないんだろ!」と叫んだ。裸のまま家を飛び出そうとする夫を、小さい体で押さえ込んだ。


 「疲れすら感じる余裕もなかった」


 それでも、夫と向き合えたのは、「お題目のおかげ」。


 祈る中で、元気だった頃の夫を思い出す。リストラされても、ハローワークに通い、懸命に働いてくれた。定年を迎える直前の認知症。“一番悔しいのは、お父さんだよね”
 認知症になって6年後、南城さんは腰を疲労骨折。夫を介護施設に預けることにした。


 入所を見届けて帰ろうとした時、夫が「俺も一緒に行く」と。涙をこらえ、背中を向けた。
 

 夫とは意思の疎通(そつう)ができなくなっていたが、毎日のように施設に足を運んだ。


 「きょうも、お父さんの分まで学会活動してきたよ」。そう呼び掛けながら、何度も何度も、夫の顔をさすった。


 夫が好きだった学会歌も耳元で歌った。「でも、私の方が泣けて泣けて……」


 大工道具を見せて、「お父さん、懐かしいでしょ?」。笑ってくれることもあった。「元気な頃と変わらない、お父さんの優しい笑顔でした」


 振り返ると、施設を利用して「良かった」と思う。心身ともに余裕が生まれ、「亡くなるまで、お父さんと心を通わせることができたから」。


 4年半にわたる施設での生活の末、夫は旅立った。


 安らかな顔に声を掛けた。「お父さん、よく頑張ったね。お疲れさんだったね」


 夫の人生の最終章に最後まで寄り添えた。「頑張った自分に、主演女優賞をあげちゃおうかね(笑い)」


 南城さんは63歳で、人生の伴侶(はんろ)を亡くした。だが、寂しさを感じることは少なかった。


 かつて夫と通った喫茶店。「南城さん、一緒にコーヒー飲みに行こうよ」と、今は婦人部の人たちが、デートしてくれる。


 町の人は「南城さんに会うと、子どもたちがホッとするんです」と声を掛けてくれる。


 夫を看取り、強くなった思いがある。「夫の介護を支えてくれた人たちに恩返しがしたい」


 聖教新聞の配達を始めて24年目。週6日、バイクを走らせる。


 町の体育指導員など、地域活動にも関わってきた。少子化が進む町で、来期から青少年育成委員長を担う。


 仏壇の前の経机に置いた「お父さんの写真」。祈っている南城さんを、いつもニッコリ見つめている。


 池田先生は語った。「亡くなられたご家族の使命も、福運も、全部、皆さんの胸の中に受け継がれていきます」


 元気だった頃の夫も、認知症と闘った夫も、世界に二人といない最愛の人――。


 「私は欲張(よくば)りだから、まだまだ人生の舞台で輝いちゃうよ! お父さん、見守っていてね」


 (2020年3月21日 聖教新聞)







最終更新日  2020.03.24 15:00:05
2020.03.14

​ライフウオッチ ―― 人生100年時代の幸福論
“昭和の男”の定年後    余生ではなく“与生”です。

 「人生100年時代」は、定年退職後の時間が“余生”とは呼べないほどに長くなる。萩原竹男さん(69)=茨城県土浦市、副圏長=は中学卒業と同時に、東京の町工場に就職。その後、パソコンの営業などを経て、通信業界で定年を迎えた。転職、リストラ、有期雇用も経験した。昭和、平成を駆け抜けた“モーレツ員”は、令和をどう生きているのか──。(記事=掛川俊明、野田栄一 写真=中谷伸幸)

 それまでは「名刺」に書かれた社名と役職で、社会は自分を認めてくれた。定年後は「名前」だけになる。社会との糸がぷつんと切れ、宙に浮いたような感覚。むなしさが心を覆(お)う。
 気ままな余生と粋がっても、2年もたてば時間を持て余し、気がめいりそうになる。会社組織で立場のあった人ほど、家庭や地域でも“部長”のまま。
 居場所をなくし、離婚やうつ病になる人もいる。“自分は何のために……”。定年後とは、生きる意味が問われる時間でもある。「学会では普段から、それを教えてもらっている。ありがたいですよ」
  
 2010年(平成22年)に定年退職した後は、朝から晩まで学会活動するのが夢だった。圏壮年部長に加え、統監部、儀典部、農漁光部、会館運営を担う王城会、創価宝城会。頼まれた役目は全て引き受けた。家では、妻・久子さん(66)=婦人部副本部長=の家事のペースを乱さないように、庭の手入れと家の周りの外掃除を買って出た。
 肩書がなくなる「キャリア・ショック」には、学び続ける“キャリア・チャレンジ”で応戦。デジタル機器を使いこなし、頻繁に書店に行っては、ビジネス書や専門書からキーワードを見つけ出して深掘り。時事問題への目配りも怠(おこた)らない。
 「何よりも“挑戦の題目”を続けると、諸天善神が“人生の案内人”のように助けてくれるんです」。定年から9年、唱題は1400万遍を超えた。
 思いがけず、定年後の仕事が決まる。退職の直前、飛び込みで来た営業マンと意気投合。彼に紹介され、社長と会うと人材論に花が咲き、「顧問になってください」と頼まれた。
待遇面は一歩も妥協しなかった。「中卒のたたき上げだからこそ、自分の価値は安売りしませんよ」
  
 ──中学卒業後、東京の町工場で働き、21歳で転職。作業着をスーツに替え、書籍の営業に汗を流した。常に時代の先を読み、攻めの転職を繰り返す。事務用品からパソコンの営業へ。学会活動は一歩も引かず、圏男子部長として活躍。池田先生とも何度も出会いを結んだ。
 試練は48歳の時。業績の悪化で会社が事業から撤退(てったい)。部下は解雇(kいこ)された。自分だけ残れと言われたが、自ら職を辞した。真っ先に部下の再就職先を探し、取引先を回る。最後の3人を迎え入れてくれた商社から、「あなたも採りたい」と言われた。
 その商社では、51歳で契約社員から正社員に。一度は役職定年も経験したが、最後は通信事業の部長で終えた。
 定年前、有期雇用の部下120人を「正社員にしてほしい」と会社に掛け合った。就職氷河期に派遣労働が増え、部下は「人生設計ができない」と嘆いていた。周りからは「自分の立場を大事にしろ」と忠告されたが、「保身だけで定年を待つなんてできなかった」。人事部にも味方が現れ、分社化で
全員を正社員にすることが決まる。
   
 定年後は、どんな立場でも、若い世代の役に立ちたいと祈ってきた。特に「優秀な若者が心を病み、離職してしまうのが、いたたまれなくて」。65歳で創価大学の通信教育部に入学。経営学はもとより社会教育、心理学も履修。「ポジティブ心理学トレーナー」の資格も得た。
 人的資源管理(ヒューマン・リソース・マネジメント)も学ぶ。「モノや資金の価値は額面通りだが、人間だけが大きく変わる可能性を持っている。これも学会で学んだことの“答え合わせ”ですよ」
 「人と組織のコンサルタント」として独立。今までに5社と顧問契約を。大手企業でセミナーや研修の講師を務め、「中卒の私が、一流大学卒の人たちにも教えるんですから、人生って分からないですよね(笑い)」。
 現在の顧問先の経営者は、30代。毎月、懇談しながら、会社組織の“成長痛”をどう乗り越えるか、コンサルを行う。
   
 69歳になり、体力は落ちた。ゆっくりしたいと思わないわけでもない。「けれど、過去を食べて生きているのが老人。
未来を食べるのが青年。もう一度、ゼロから自分をつくろうと思って」、今まで勉強した仕事の資料を思い切って処分した。
 池田先生はつづっている。
 「かつては、定年後の生活を“余生”ととらえる人が多かった。しかし、これからは、長年培ってきた力をもって、地域に、希望を、活力を与える“与生”であらねばならない」
 生涯、先生と共に、青年の気概で。「“人生のアスリート”として、死ぬ瞬間(しゅんかん)までトップギアのままで走り続けたい!」

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(2020年3月14日  聖教新聞)







最終更新日  2020.03.16 13:08:20
2020.02.22

信仰体験<ライフウオッチ ―― 人生100年時代の幸福論> 
​見えない障がい
「生きるとは、もがくこと」​


 頑張っても報われない。体当たりしても壁が破れない。それでも前へ、何度倒れても、前へ――。
 
 
静岡県焼津市の吉永真也さん(41)=広宣長(ブロック長)=は、高校2年の時に交通事故に遭い、体の自由を失った。夢は、ことごとくついえた。それでも明日を捨てなかった。


 地味でいい。泥まみれでもいい。もがき続けてみせる。
 

「その先にはきっと、僕にしかない人生があるはずだ」


 17歳の秋、部活の帰り道、時速70キロの車にはねられた。


 頭を強打し、脳挫傷、頭蓋骨を複雑骨折……。一命を取り留めたが、右目の光を失った。


 体にまひが残り、声も出せない。自分が誰なのかさえ、分からなかった。


 地をはうようなリハビリ。足を引きずりながらも、歩けるようになった。


 記憶が少しずつ戻り、ゆっくり会話もできるように。だが、知能は……。「1+1」から学び直した。


 2カ月のリハビリを終え、高校に戻った。


 まともに歩けず、話せなくなり、クラスメートからバカにされた。


 もともと運動神経が良く、学力も優秀だった。それだけに悔しくてたまらなかった。歯を食いしばり、短大まで卒業した。
 1998年(平成10年)当時、就職氷河期が始まっていた。


 履歴書を手に歩いたが、面接でまともに話せず、不採用が続く。


 知り合いの建設会社に拾ってもらった。掃除、道具運び。愚直に汗を流した。だが、くぎを打つにも、はしごを上るにも、左目だけでは距離がつかめない。


 体に残ったまひのため、動作がにぶる。「早くしろ!」と怒鳴られ、いつしか相手にもされなくなった。


 仕事を変えた。グループホームで介護の仕事を。ヘルパー2級(介護職員初任者研修)を取り、「今度こそ」と腹を据えた。


 利用者のリハビリに励む姿が、かつての自分と重なった。


 “この人たちの支えになりたい”
 理学療法士の資格を取るため職場を辞め、一浪して専門学校に入った。
 朝から晩まで机にかじりつく。教材を読んでいると、ある言葉に目が留まった。
  
 

<高次脳機能障害>


 事故による脳のダメージで、記憶障がいや注意障がいなどを引き起こす。何度も同じことを聞き返したり、同時に二つのことができなかったり、うまく言葉が話せなかったり……。


 周りからは、“見えない障がい”。その症状が、驚くほど、自分に当てはまっていた。


 “けど、僕は違う”。現実を認めたくなかった。


 専門学校の卒業を間近に控えたある日、学校長に呼ばれた。


 「君はよく頑張った。筆記は合格だよ。でも実技が……。残念だが卒業はさせられない」


 理学療法士への道がついえた。4年間、一途に追い求めてきた夢。拳を握り締め、涙をこらえた。


 ハローワークで見つけた訪問介護の仕事に就いた。


 そこで、運命的な出会いがあった。看護師の幸代さん(35)=副白ゆり長。


 仕事が覚えられず、何度同じことを聞いても、根気強く教えてくれる。笑顔の素敵な人だった。


 その後、幸代さんの笑顔の源に、創価学会の信仰があることを知った。


 初めて手にした「大白蓮華」。穴が開くほど読み込んだ。


 難しい仏法用語は分からなかったが、心から離れない言葉があった。  



<冬は必ず春となる>



 2011年、学会に入会し、幸代さんと夫婦になった。


 守るべき人ができ、仕事にも力を注いだ。介護福祉士の資格も取った。だが頑張っても、同僚たちのスピードに付いていけない。言われたこともすぐに忘れてしまう。


 そのたびに、「僕の努力が足りないんだ」と自分を責めた。


 ある日、上司に呼ばれた。「君に正規の仕事は無理だと思う。パートになってくれ」


 自主退職に追い込まれ、退職金は1円も出なかった。


 その後も転職を繰り返した。


 「必要とされる人になりたい」と、ケアマネジャーの試験に挑んだ。一発合格したものの、実戦になると、うまくいかない。電話の対応ができない。プラン立てに時間がかかる。まともに働けず、また仕事を失った……。


 そのうち、体が悲鳴を上げた。腰椎ヘルニアで手術を受けた後、感染し、化膿性脊椎炎も併発した。


 入院は5カ月に及んだ。看護師として家計を支える妻。家事や育児も任せきり。胸がかきむしられた。


 退院後、腰に負担のかからない仕事を求め、ハローワークへ。だが、受け入れてくれる会社が見つからない。


 これまで何度も立ち上がり、挑み続けてきた。だが、もう疲れ果ててしまった。


 そんな時、妻が肩を抱いてくれた。


 「真也さんは、真也さんらしく生きる方法があると思うよ。障がい者手帳、取らない?」


 妻は分かっていた。夫が健常者と同じ職場で競い合い、無理を重ねてきたことを。


 「真也さんは、もう十分頑張ったよ。家族のために、頑張ってくれた。これ以上、無理しなくていいんじゃない?」
 

 これまで、自分が「障がい者」であるということを認めたくなかった。「今の自分」を否定し続けてきた。「元気だった頃の自分に戻りたい」と。
 

「僕にもできる」と強がり、泥沼の中で、もがいてきた。


 だが、ようやく気付いた。


 自分さえ受け入れられなかった「今」を、認め続けてくれた人がいることを。


 見えない「明日」を一緒に探そうと、手をつないでくれた人がいたことを。


 来る日も来る日も、妻は一緒に祈ってくれた。


 消えては現れる試練の壁。そのたびに、夫婦で祈り、体当たりしてきた。「今度こそ、今度こそ」と。


 男子部の仲間が、何度も悩みを聞いてくれた。その場限りの励ましではなく、ずっと気に掛け、寄り添ってくれた。


 社会では、何度もバカにされ、笑われてきた。「頑張れ」「負けるな」と、上から物を言う人は大勢いた。


 だが学会の人たちは違った。真剣な人を笑わない。


 「一緒に頑張ろう」と手を握ってくれた。「一緒に祈ろう」と隣に座ってくれた。


 どんなに時間がかかっても、「ゆっくりでいいんだよ」と言ってくれた。


 「自分のため」だけに祈っても、なかなか道は開けなかった。


 だが、「支えてくれる人たち」の顔を思いながら祈ると、命の底から力が湧いてきた。


 “何度倒れても、立ち上がってみせる”
 自分らしく、無理なく。“障がい者として生きる”。心は決まった。


 医師から正式に「高次脳機能障害」と告げられた。精神障がい者手帳3級を手にした日、幸代さんに言った。


 「これから、僕の第三の人生が始まるよ」


 健常者だった17年。障がい者である自分を認められなかった20年。そして、障がい者として生きると決めた「これから」――。


 初めて、「今の自分」と向き合い、受け入れることができた。


 職業訓練を受け、就職が決まるまで3年かかった。


 その間、看護師として働く妻を支えようと、主夫となり、家事も担った。


 2時間以上かかって、家族の食事をこしらえた。料理、洗濯、娘の世話……その合間での就職活動。


 想像以上に大変な毎日だったが、妻への感謝があるから耐えられた。


 病院に<障がい者枠>で採用された。


 痛めた腰をいたわりながら、誰とも競わず、無理なく働いている。


 とはいえ、職場の悩みが消えたわけではない。今も、もがき続けている。だが、「信心を始めて『もがきがい』ができた」と思う。


 もがき続ける人生。一人なら苦しい。だが、周りには今、挑戦をたたえ、喜んでくれる人がたくさんいる。


 今月9日、地元の学会の地区総会が行われた。


 新たに広宣長(ブロック長)となった。幸代さんと登壇し、自身の来し方を話した。
 

「今の自分があるのは、支えてくれた皆さんのおかげです。これからは、皆さんに元気を送れる人間になっていきたいと思います」
  
 

池田先生は、つづっている。
 

「人間だって、花と同じように、光がいる。人も、人から大事にされないと、心が枯れてしまう。だから君が、みんなの太陽になれ」


 幸代さんに出会い、かけがえのない宝物を得た。


 何があっても前を向ける信心を。どんな時も信じてくれる友を。だからこそ、何度倒れても大地をつかみ、立ち上がることができた。


 ただ実直に、誠実に。壁に向かって体当たりしていく。もがき続けていく。“今度は僕が「光」を送る番”。それが、支えてくれた人への恩返し――。


(2020年2月22日  聖教新聞)







最終更新日  2020.02.22 23:53:59
2020.02.15

​<ライフウオッチ ―― 人生100年時代の幸福論>
長期化するひきこもり その背景にあるもの
斎藤環・筑波大学教授に聞く
 人生100年時代を豊かに生きる知恵を探る「ライフウオッチ」。今回は、精神科医の斎藤環(さいとうたまき)・筑波大学教授に話を聞いた。(聞き手=佐口博之、村上進)
 
 <ひきこもりの長期化・高齢化が懸念されている。内閣府が40歳から64歳までの中高年を対象に実施した調査で、その人数が61万人に上ることが明らかになった。斎藤環教授は、ひきこもり人口は実際、中高年で100万人以上、若年世代も含めれば200万人以上いるのではないかと指摘する。その背景にあるものは何か>
  
 今の世の中は、社会的に機能している人は尊重される一方で、社会的に機能していない人はスティグマ化「負の烙印(らくいん)、偏見(へんけん)の固定」され、排除(はいじょ)されている傾向があります。
 
 たとえば、学校や職場ではコミュニケーション能力が、評価基準の大部分を占めています。その能力が高い人は社会的に評価されるが、そうでない人は「コミュ障」などとレッテルを貼られ、排除されてしまう。非婚や未婚の問題も同様です。“結婚は大前提”という考えが社会に根強く残っていますから、中高年の単身者や、シングルマザーなどに対する偏見はいまだにあります。
  社会の多様化が進んでいるにもかかわらず、個人が尊重されにくい風潮が、若者に限らず、中高年の漠然とした生きづらさを、招いているように思えます。
 
 ひとたび、“だめな人間”という烙印(らくいん)を押されてしまうと、なかなか、自信を持てません。そればかりか、自分で自分を排除する「セルフスティグマ」に陥り、次第に家族や社会との接点も失い、孤独化していきます。その象徴的な現象が、ひきこもりです。これは、個人の責任でなく社会のある種の必然性が生んだものです。
 ひきこもりが増大し続けているのは、それを恥とされ、排除され続けてきたことが最大の要因です。ひきこもりは決して「病気の人」ではありません。「たまたま困難な状況にあるまともな人」です。どこでも、誰でも、いつからでも、ひきこもりは起こり得るのです。
 成熟社会は、何かしら、困難を抱えながら生きる時代ともいえます。ひきこもりに限らず、あらゆるスティグマをなくしていくことが、誰もが生きやすい「人生100年時代」につながるのではないでしょうか。
 
「ひきこもりシステム」の悪循環
 <ひきこもりの長期化・高齢化では、当事者だけでなく、その家族も困難を抱えている>
 ひきこもりは、不登校の延長線上と考えられてきましたが、今は、いったん就労してから、ひきこもる事例が増加しています。
 その中で、懸念されているのが、ひきこもりの長期化・高齢化です。この背景にあるものとして、個人の未成熟化が進んでいることが挙げられます。経済成長などによって、人間はモラトリアム(猶予)を享受(きょうじゅ)できるようになりました。それは言うまでもなく良いことです。
 
 実際にITをはじめ新たな分野では、一見すると、未成熟な人で活躍している場合も多いように思います。しかし、それらは少数派で、多くの場合、未成熟は社会に背を向けている「非社会性」と表現され、スティグマ化されます。ニートやおたく、不登校、ひきこもりなどが、その象徴です。
 
 一方で、同じ未成熟でも、かつての学生運動やヤンキーなどの「反社会性」に対しては寛容(かんよう)います。社会の多様化が進んでいるにもかかわらず、「非社会性」を受け入れる土壌は乏しい。ゆえに、多くの人々が生きづらさを覚えます。次第に周囲との接触を避(さ)けるようになり、自分の殻(から)に閉じこもっていきます。この象徴的な現象が、ひきこもりです。
 
 とりわけ、それが長期化すると、「ひきこもりシステム」の悪循環を招いていきます。
  私たちの暮らしは「個人」「家族」「社会」によって構成されています。「通常システム」では、これら三つが相互に関係し合っています。
 
 これに対し、「個人」がひきこもった場合、「個人」は「社会」との接点だけでなく、「家族」との接点も失うことが多くあります。そして「家族」もまた、「社会」との接点を失ってしまうリスクがあるわけです。なぜかといえば、「家族」も「個人」も悩んでいるものの、偏見(へんけん)を恐れて、誰にも、打ち明けられないからです。
 この悪循環の根っこにあるのが、“ひきこもりはダメなもの”というレッテルです。そうして、「個人」と「家族」「社会」が、いつまでも接点を持てなくなることが、ひきこもりを長期化・高齢化させる最大の要因だと考えます。
 
「マイルドなお節介」とは
 <斎藤教授は1980年代から、いち早く、ひきこもりと向き合ってきた。「ひきこもりシステム」から脱するためには何が必要か>
 
 当事者が「家族」「社会」との関係性を回復させていくためには、家族による適切な関わりが大切であることはもちろんですが、それは簡単なことではない。だからこそ「家族以外の第三者」の役割が重要です。
 ひきこもりのニーズは多様です。治療や支援を受けたい人もいれば、拒否する人もいます。まずは、当事者はもちろん、親だけであっても、周囲はあらゆるニーズに対応できるようにする必要があります。本音をいえば、全ての当事者は、潜在的(せんざいてき)に支援ニーズを抱えていると思っています。
 ここで、大事になるのは、「マイルドなお節介」です。第三者が、当事者やその家族に対して、機会あるごとに“御用聞き”をし、ニーズの有無を尋(たず)ねる。断られたら、別の機会に足を運ぶ。押し付けではありません。
 
 「マイルドなお節介」のイメージは「藤里(ふじさと)方式」と呼ばれる、秋田県・藤里町の社会福祉協議会が取り組んだひきこもり支援策がヒントになります。
 
 「藤里方式」は、支援ニーズの把握から、就労支援を基軸とした窓口の開設、高齢者支援とひきこもり支援を組み合わせるなど、他に類を見ないサービスを提供しています。
 踏み込んで調査できたのは就労支援を掲げて戸別訪問したからです。政府の調査では「あなたの家にひきこもりはいますか」と質問しますが、家族は率直に回答しづらい。
 一方で、菊池さんは「こういう事業を考えていますが、あなたの家にそれを利用できそうな人はいますか」と質問していきました。就労支援を受けられると分かってもらえれば、回答を得やすいわけです。
 この「藤里方式」に貫かれているのは、当事者に対する配慮と距離感です その内容は、至ってシンプルです。当事者とその家族、医療関係者や支援者で対話を重ねていきます。計画もなければ、結果も求めない。いわば“目的のない対話”です。話し続けること自体が目的ですから、おしゃべりに近い感覚です。
 このオープンダイアローグ」を成立させる核は「他者の他者性」、すなわち、他人は自分とは異なる存在であることを歓迎し、尊重する姿勢です。対話は、自分の意図に即して相手をコントロールし、変えようとすることではありません。相手をありのまま受け入れ、言動に即して反応することが重要です。
 
 私が「オープンダイアローグ」を日本で実践し、初めて社会復帰を果たしたのが「ひきこもり新聞」の編集長を務める木村ナオヒロさんです。
 
 当事者の彼は当初、対話を拒(おば)みましたが、家族を交えて対話の場を持つと、「次回もお願いします」と言いました。家族と言い争いになることもありましたが、ありのままの姿を受け入れ、対話を続けていく中で、自分で妥協案を見つけていくようになりました。
 ある時、「写真の専門学校に行きたい」と言うので「なぜか」と聞くと、「写真の力で当事者の支援をしたい」と答えました。彼は自ら、社会との接点をつくり始めていったのです。
 このように、当事者への偏見のない姿勢で対話を続けていけば、解決を意図しない解決の道が開けてきます。精神医療の現場でも、その効果が証明されてきています。
 
創価学会をはじめとする中間団体の役割
 <創価学会の座談会なども、「オープンダイアローグ」の発想に近いものがある。人生100年時代にあって、学会のような国家でも個人でもない中間団体に求められるものは何か>
 「オープンダイアローグ」は、あらゆる場面で応用していけます。
 対話で大事なのは「不確実性に耐える」ことです。いつ解決するか分からないという「不確実性」をはらんだ悩みと向き合う人は、たくさんいます。そうした人たちと接する側も、いつ状況が好転するのか分からないという「不確実性」との格闘があります。
 相手に偏見をもたず、気軽に対話し続けていくこと自体が「不確実性」と向き合い続ける力になっていくと思います。創価学会をはじめとする中間団体には、こうした対話の場をつくり、広げていってほしいと思います。
 人生100年時代を、希望をもって生き抜くためには、社会の価値基準を変えていく必要があります。苦しければ休養し、他人に助けを求めることができる緩(ゆる)やかな社会を志向していくべきではないでしょうか。
 途中で、ひきこもることがあってもいいと思います。「ひきこもっても大丈夫な社会」になれば、ひきこもりは排除(はいじょ)されにくくなり、一定以上に増加することがなくなるばかりか、激減する可能性もあると考えています。
 人間は、違いがあって当然です。それを認め合う対話を広げていくことこそが、誰もが生きやすい「人生100年時代」への第一歩になるのではないでしょうか。

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(2020年2月15日 聖教新聞)







最終更新日  2020.02.15 13:36:52
2020.02.08

連載「ライフウオッチ ―― 人生100年時代の幸福論」
がんサバイバー「腫瘍はあるけど、不安はない」〈信仰体験〉
  
 大迫美和子さん(68)=宮崎県日南市、婦人部副本部長=の50代は試練の連続だった。50歳を目前にして、うつ病を発症。その後、母親の介護が始まり、自身の乳がん、度重なる再発を経験した。
 今も鎖骨(さこつ)の下に腫瘍(しよう)がある。それでも「何の不安もない」と底抜けに明るい。彼女が見つけた“新しい人生”の生き方とは――。(記事=掛川俊明、野田栄一)


■がんサバイバーが生きる“新しい人生”
 男女ともに2人に1人が、がんになるといわれる現代。
​

 診断された直後の人、治癒(ちゆ)した人、治療中の人も含めて、がんを経験した全ての人は、世界的に「がんサバイバー」と呼ばれている。


 英語のsurvive(サバイブ)の語源をたどると、surには「超えて」「上を」という意味があり、viveは「生きる」を意味する。“その上を生きる”ことは、“新しい人生を生きる”ことに通じる。


 近年では、がんは「克服」するものというより、よりよく生きて「共存」するものだと語る医師もいる。
■初めてのがん「四つに組んで闘います」
 乳がんの宣告を受けたのは2009年(平成21年)3月、58歳の時だった。


 左胸に違和感があり、気付けば乳房が7、8センチほど、赤紫色になっていたのだ。

 医師は「ステージ3で、乳管(にゅうかん)から間質(かんしつ)に浸潤(しんじゅん)し、がんが広がりすぎて手術できません。まずは抗がん剤治療です」と。
 当時、認知症の母を自宅で介護していた。


 母は、最期は大迫さんのことも分からなくなっていたようだった。薬を飲ませようとしてもコップははじき飛ばされ、大迫さんが唱題していると後ろからバーンと頰(ほほ)をぶたれた。


 それでも母に寄り添い、介護に尽くした。父は大迫さんが3歳の時に亡くなった。以来、母は泥まみれになって働き、4人の子どもたちを女手一つで育ててくれた。

 大迫さんは幼い頃、心臓の病があった。小学6年の時、同級生の母親から創価学会の話を聞き、12歳で自ら入会を希望した。その時も子どもの思いを受け入れ、一緒に入会してくれた母だった。
 がんの診断を受けたのは、そんな母を介護して、毎日、ひたすら題目を唱えていた時だった。


 「だから、よかったのよ」。がんを告知された瞬間に、「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)との開目抄の一節が浮かび、腹が決まった。


 「今が“その時”なんだって。だから医師に言ったわ。『がんと四つに組んで闘いますから、よろしくお願いします!』って」

 抗がん剤の副作用で髪は抜け落ち、「何を食べても味がしなくて、砂みたいだった」。
 それから2カ月後、母が亡くなった。生死の境にあって、母は10度も蘇生(そせい)し、安らかに息を引き取った。
 「『お母さん、よく頑張ったね』って。実家に戻って3年間、最期まで寄り添えて、何の後悔もなく、みとることができました」
 ただ、「“坊主頭”で母を見送ったこと」が心残りだった。そう思えばこそ、“必ず、がんに打ち勝ってみせる!”と自身を奮い立たせた。11カ月間の抗がん剤治療を続け、翌10年2月、左乳房を全摘出する手術を受けた。
 手術の日、娘が「森ケ崎海岸」のテープを持ってきてくれ、枕元で聴いた。
 

「『いかに生きなば わがいのち』ですよ。麻酔でスッと眠って、目が覚めたら手術は無事に終わっていたの」
■がんの再発「4日間、真っ暗闇だった」
 だが、1年もたたないうちに、首の付け根のリンパ節に、がんが再発した。


 「なんで、また私が……」。真っ暗闇の中に落ちて、もがき苦しんだ。
 ひたすら御本尊に祈り、池田先生の指導をむさぼり読んだ。


 「妙法は すべてに勝ちゆく 法なれば 断固と楽しく 愉快に生き抜け」


 池田先生の言葉を何度もかみ締めていると、4日後に“もう一度、がんと闘うんだ”という決意が湧き上がってきた。

 17歳で上京し、美容師になった大迫さん。地元・宮崎県に自分の店を開くまで、東京の原宿、青山、西麻布などの美容店に勤めた。


 港区や足立区で女子部の活動に励み、両国の日大講堂での本部総会に参加し、池田先生の学会歌の指揮を目に焼き付けた。師匠との思い出がよみがえると、闘志が湧いた。
 「がん腫瘍を抱えてますから、もう題目をあげざるをえないんですよ。愉快に、楽しく。そう思えるまで祈り抜こうって決めたの」
 切除手術を受けるも程なくして胸骨近くのリンパ節に転移。しかし、今度は「落ち込んだのは10時間だけでした」。


 この時は、ちょうど娘が仕事の資格試験に臨む直前だった。
 

「『お母さんは大丈夫! 安心して試験を受けておいで』って言ってあげたかった。やっぱり“母の祈り”が大事じゃないですか。腹を決めました」
 再び手術。抗がん剤治療が続く。高額な医療費がかかり、家計は火の車だった。
 夫・義洋(よしひろ)さん(74)=副本部長=は、地元の信用金庫を定年退職した後も、実家の餅店を継いで働き続け、生活を支えてくれた。そんな夫に「本当に感謝しているんです」。


 奈良に住む妹の応援もあった。家族の支えが何よりもありがたかった。
■4度目のがん「『さあ来い!』ですよ」
 15年に再び、がんが見つかる。左の鎖骨の下に、1・5センチの腫瘍ができていた。


 「4度目は、がんになっても『さあ来い!』ですよ」  
 治療費だけが心配だったが、御本尊に祈り抜く中で、医師からは「今回は、抗がん剤は必要ありません。経過観察で大丈夫」と言われた。
 それから4年がたつ。
 服薬もなく、今も経過観察が続いている。胸には、かつての治療で使った点滴用のポートがあり、月に一度、そのメンテナンスのために通院する。


 「病院の待合室は“勉強の場”なの。静かで都合がよくて、じっくり『大白蓮華』を読むんです」  
 先月は腫瘍が1・3センチに縮小し、腫瘍マーカーの数値も下がった。がんとの闘いは続いているが、大迫さんに悲哀はない。取材に訪れた時も、満面の笑みと元気な笑い声で迎えてくれた。
 「今は、がんに“感謝”しかありませんよ。だって、がんになったから、こんなに題目をあげさせてもらえる人生に変わったんだもの」
 最初のがんの時から、唱題表をつけ始め、もうすぐ1800万遍になる。「今は、題目をあげるのが楽しくって仕方がない」
 病院などで知り合った、がんと闘う友達も多くいる。「私を見て『大迫さんみたいになりたい』って、学会員じゃないのに唱題している“題目フレンド”も6人いるのよ」
闘病をつづっている日記
 がんの診断を受けた時から書き始めた日記には、病気についての指導の切り抜きも貼っている。

「私の人生の“闘争史”だから、娘と息子に残してあげたくてね。これが私の“終活”です」
 昨年末は、聖教新聞の購読推進が14部も実った。今は、池田先生の指導を学ぶのも、訪問・激励に歩くのも楽しくて仕方がない。


 「臨終の時は、みんなに私の“如是相”を見てほしいわ。もう何も怖いものなんてない。だから、こう言ってるの。『腫瘍はあるけど、不安はない』ってね」
■がんを生きる「たたみ一畳あればいい」
 池田先生は『法華経の智慧(ちえ)』で語っている。


 「この世は『一睡(いっすい)の夢』です。長命だ、短命だと言っても、永遠から見れば、なんの差もない。寿命の長短ではありません。どう生きたかです。何をしたかです。どう自分の境涯を変えたのか。どれだけ人々を幸福にしたのか、です」
 大迫さんは、「がんが私の信心を、私の人生を変えてくれた」と。


 近所の人、友人、学会の仲間。みんな、大迫さんが、がんと闘っていることを知っている。
 「だから、誰に会っても『生きてますよ!』ってあいさつするの。空元気を演じるんじゃ無理ですよ。題目をあげきった命の底から湧き上がる生命力だから、みんなも『きょうも元気だね』って笑ってくれる」
 一番、苦しかった時期を尋(たず)ねると、「御本尊の前にも座れなかった、うつの時かな」と大迫さん。50歳を目前にうつ病になり、7年ほど苦しんだ。


 大好きだった学会の会合にも行けなくなり、きれい好きなのに部屋の片付けもできなかった。何とか週に数回、美容室の仕事に行くものの、高校生の息子の弁当も作れなかった。
 うつの症状が薄紙をはぐように快方へ向かったのは、母の介護を始めてからだった。“母を支えたい”という一心で祈るうちに、徐々に元気を取り戻した。


 「うつ、介護、乳がん。信心に励んでいると、乗り越えられる順番で試練がやって来るから、不思議よね」
 最近は、医師や看護師にも「あなたが、がんになったら、私が励ましてあげるわ」と語っている。みんな、大迫さんの姿を見ているから、「はい、よろしくお願いします」と。
 長寿化が進む現代にあって、求められるのは、病気が治るかどうかだけでなく、病気を経験した上で“どう生きるか”なのかもしれない。大迫さんの生き方に、人生100年時代を生きるヒントを教えてもらった思いがする。
 “母のために”と祈り抜き、うつ病を乗り越え、乳がんと闘った。


 “わが子のために”と闘志を奮い起こして、がんの再発に向き合った。


 “池田先生”を思って、がんに「さあ来い!」と言い放った。
 今、大迫さんは連日、友人への仏法対話に歩いている。困っている誰かの力になりたいと、毎日、友の元に足を運ぶ。
 昨年末、一人の“題目フレンド”を見送ったという。


 「寂(さび)しいけど悔(く)いはない。あの人も見事に生き抜いた。最後は題目もあげられた。最高に幸せだった。どんな大邸宅に住んだって、寝る時は、たたみ一畳あればいい。私はこれからも、“ただ人のために生きたい”、それだけよ」


  
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(2020年2月8日 聖教新聞)







最終更新日  2020.02.08 10:57:39
2020.02.01

ライフウオッチ--人生100年時代の幸福論 ​

米ハーバード大学名誉教授 ヌール・ヤーマン博士

弱者を社会問題化する現代
「共感」の力が解決への鍵に

​ヤーマン博士が池田先生をボストン近郊の自宅に招いて会談。「環境問題」「信仰と学問」「古代文明への関心」などについて意見を交換した(1993年9月)
人生100年時代を豊かに生きる知恵を探る「ライフウオッチ」。今回は、トルコ出身の著名な文化人類学者であり、アメリカ・ハーバード大学名誉教授であるヌール・ヤーマン博士

今こそ問われる「生死観」
 <池田先生と対談集『今日の世界 明日の文明』を編んだヤーマン博士は、長年、中東やアジアでフィールドワーク(現地調査)を行い、宗教と社会の関係性などを研究してきた。「人生100年時代」が到来した今、宗教が果たすべき役割は大きくなっていると、博士は指摘する>
  私自身、すでに100年近く生きてきた身ですので、近年の「長寿化」には、強い関心を抱いています。
 人生をどう生きていくのか。これについては、さまざまな文化・宗教が独自の考え方を持っています。
 仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、道教、儒教、ユダヤ教などの伝統宗教や、多様な古代文明を比較してみても、多くの教訓を得ることができます。
 例えば、古代エジプトの生死観は、とても興味深いものです。エジプトからスーダンにかけての一帯には、数多くのピラミッドがあります。


 古代エジプト人にとって、「生きる」とは、太陽や天に存在する神々に近づいていく、ということでした。そのためにピラミッドを建てた、という説もあります。
 ピラミッドの側面は三角形をしていますが、これは大地に降り注ぐ太陽の光線を表現しているともいわれます。人々は光線を歩いて渡り、太陽に至ることができると信じていたのでしょう。
 このように、人類には古来、「生きるとは何か」を探求した、数々の豊かな文化が存在します。
 一方で、資本主義が主流となった現代社会では、多くの人々が、「生死」という人間の根本問題から目を背けています。そこから、弱者に対して傲慢な心が生まれ、自己中心的な価値観、生き方がまん延しているといっても過言ではありません。
 「人生100年時代」の生き方を見つめるためには、こうした人生観に関わる思想・哲学の次元から考察を深めていくことが大事であると思います。

 日本では、「人生100年時代」に対し、漠然とした不安を抱く人も多い。生活スタイルが多様化する中で、家族や地域コミュニティーのつながりが弱まり、孤独感を覚える人もいる。親日家でもある博士は、こうした日本の現状をどう分析しているのだろうか。
  
 私の知る限り、日本ほど「組織化」された社会はありません。日本のように、組織的に徹底して生産性を求める社会にあっては、必然的に生産性の低い人々、特に高齢者の存在が“社会問題”になってしまいます。
 どのように一人一人をケアしていくのか、人道的な支援環境を整えていくかが、大きな課題となります。高齢者だけの話ではありません。病気の人、また安定した仕事を持たない人など、自立した生活が難しく、助けを必要としている人はたくさんいます。
 生産性を強く求める社会組織では、こうした“弱者”の存在が、あらゆる不安を生み出す原因になってしまうのです。
 ギリシャのことわざに、“若き日は、父母の足にくっついて成長し、老いた日には、わが子の足にくっついて生きる”とあります。
 現代社会では、このような伝統的な家庭内の共助のサイクルも、すでに成り立っていません。現代社会は、人々を分断する性質を持っているのです。
  
 「生産性の重視」が、社会不安や人間関係のひずみを生む原因なのだろうか。
  
 現代生活の本質は、「生産性の追求」よりも深い次元にあります。それは家族をベースとした生活とは全く異なる、「資本主義」の生き方、価値観です。
 程度の差こそありますが、現代の人々は皆、資本主義が浸透した社会で生きています。
 資本主義的生産が全ての中心になり、人々は毎日、熾烈(しれつ)な競争に追われている。家族と離ればなれになり、仕事のために、どこへでも行きます。カップルが一緒に暮らすことも、難しくなりました。日本も、その傾向が強い国の一つです。
 また、科学技術の発展が人々を分断する方向に働いていることも否めないでしょう。本来、人の手を借りて受けるような支援も、革新的な技術で補えるようになりました。いわば生きる上で他人に頼(たよ)る必要性が、失われつつあるのです。
 資本主義の社会は安全とはいえません。世界には今、多くの「恐れ」がまん延し、人々は不安を抱(かか)えて生きているように感じます。不安定な社会、自分自身の将来、経済の行く末を、絶えず恐れて生きているのです。
 仕事がないまま放置されかねない。老いた時に、世話をしてくれる人がいないかもしれない。資本主義の社会は、本質的に孤独(こどく)で困難(こんなん)な社会だといえるでしょう。
  
 現代とは、いかなる文明か。池田先生は、1993年にハーバード大学で講演し、現代は「死を忘れた文明」であると指摘した。当時、ヤーマン博士は、同講演の招へい元である文化人類学部の学部長を務めていた。
  
 池田先生の鋭い考察は、当を得ています。現代社会は、誰もが最後は死を迎える、という事実を隠そうとしています。
 アメリカのハリウッドに見られるような若者文化は、その顕著(けんちょ)な例です。誰もが、まるで死が存在しないかのように振る舞っており、「人生に終わりがあることを忘れてしまえる」と思っているようです。
 人々は若さを保つヘルスケアに夢中で、死は“汚れたもの”として捉えています。
自分さえ幸せになればよいとし、自らの権利や利益ばかりを主張しています。
 そこから、高齢者や病人、死者に対する「傲慢(ごうまん)さ」が生まれます。結果、自分自身の生命だけを守ることに熱心で、他者の生命はどうなってもよい、といった人生観が常識になってしまうのです。
 先ほども申し上げた通り、世界のさまざまな宗教では、常に「生死」が大きなテーマになってきました。
 ブッダの悟りへの第一歩も「死」の探究です。現代社会の人生観は、ブッダが「生老病死」を直視し、経験したことと正反対の方向に向いていると言わざるを得ません。
 個人としても、また社会としても、私たちが新しい未来を創造していくには、こうした思想の次元に光を当て、生死観を見つめ直していくことが急務です。
  
 博士は、池田先生との対談集で、異なる背景をもつ人々が互いを理解し、共存するために大切なのが「共感」である、と強調している。それは、生き方が多様化する「人生100年時代」にあって、ますます必要とされるものであろう。
  
 長寿社会にあって一番大事なのは、未来を楽観視すること、そして他者に胸襟(きょうきん)を開いて、深い思いやりの心をもって接すること、まさに「共感」の力です。
 現代は生産性を高めようとするあまり、人間関係が機械化しています。一方で、情報交流が活発な時代であるからこそ、他者への共感や、差異を理解する知性が決定的に重要となります。
 とりわけ「共感」は、人間性の最高の特質だと思います。それは、人と人との心通う交流の中でのみ、育むことができる。宗教の使命とは、さまざまな文化的・社会的背景をもった人々の“交流の質”を高め、人々を強く結んでいく点にあります。


 私たちが、「生老病死」の問題を解決していく唯一の道は、苦悩する人々に対する「共感」と「思いやり」、そして「支援」以外にないのです。
 同じ時代に生まれ合わせた、私たちの人生の貴さを自覚しつつ、まずは自分自身が、親切で、善良な人間に成長していくことが大切です。親切心や善良さは、身近な人々にも同じ精神を呼び起こしていきます。それは、池田先生が推進される平和運動そのものです。
  
 創価学会は世界各地で対話運動を展開し、世代や文化を超え、さまざまな人が自身の悩みを語り、励まし合っている。「人生100年時代」における創価学会の社会的使命を、博士はどう考えているのだろうか。
  
 創価学会の活動は重大な意義を持っています。現代社会の進むべき道標を示していると言ってもよい。
 世界には「宗教」という言葉に対し、神や女神、悪魔、儀礼などを思い浮かべる人も数多くいます。ですが創価学会が成し遂げてきたのは、そうした既成の概念を破り、仏教哲学から人間主義のメッセージを抽出し、全世界に発信したことです。
 創価学会の思想は今、世界のどの地でも受け入れられています。地域社会に根差し、互いを励まして進む学会の運動は、まさに「個人」と「社会」が最も必要とする支援です。


 宗教には、二つの役割があります。一つは「アイデンティティー(自己同一性)の強化」。これは人々を分断する働きとなる場合もあります。もう一つの役割は、「善良な人間をつくる」こと。この点、特に仏教には素晴らしい伝統があります。
 池田先生は、この宗教の持つ役割、そして仏教の最善の側面をさらに高めて、普遍的な人間主義の思想を広められています。仏教史上、初めての偉業です。
 創価学会の皆さんは、自分自身がより良き人間に成長していくことで、緑する人々、そして社会をも改善できるということを証明されています。これは人類に対する最大の貢献(こうけん)の一つでしょう。
 「人生100年時代」においても、創価学会の皆さんが「共感」の力を大きく開花させ、多様な人間同士の信頼関係を築いていってほしいと念願しています。

 Nur Yalman
 1931年、トルコ生まれ。文化人類学者。米ハーバード大学名
誉教授。英ケンブリッジ大学で文化人類学の博士号を取得。米シカゴ大学の社会人類学教授を経て、72年よりハーバード大学教授。同大学の中東研究センター所長等を歴任した。インド、スリランカ、トルコ、イランなどでフィールドワークを行い、イスラム教や仏教、ヒンズー教など、宗教と社会の関係の研究でも著名。


(2020年2月1日 聖教新聞)








最終更新日  2020.02.01 15:00:05
2020.01.29

​​​​「ライフウオッチ ― 人生100年時代の幸福論」
アラフォー世代の生き方 総集編   

社会・環境の変化に「人間革命」で応戦
 長寿化が進んでいる
 人材論・世界論の権威リンダ・グラットン氏とアンドリュー・スコット氏の共著『ライフ・シフト』(東洋経済新報社)によると、「いま先進国で生まれる子どもは、50%を上回る確率で105歳以上生きる。1世紀以上前に生まれた子どもが105歳まで生きる確率は、1%に満たなかった」と。
 働き方、引退時期、家庭生活など、あらゆる環境において「常識」が変化する時代に入った。
 求められているのは、新たなロールモデル(生き方の模範)。同志の体験に、そのヒントを探した。
 
4人の子育て シングルママ
 第4子を出産し、子どもたちと一緒にアパートに帰ると、“もぬけの殻(から)”。夫が蒸発(じょうはつ)していた。
 北海道札幌市の小野亜沙希(あさき)さん(40)=地区副婦人部長、写真=は、当時29歳。リーマン・ショック直後で、就活するにも、中卒のシングルママに開かれた門戸は少なかった。
  
 祈る中、主婦の経験の中で身に付けた「パソコンの技術」が生かせるのではないかと思い立ち、大学教授の手伝いで書類作成などを行う仕事を見つけた。
 私服で面接に臨むも、まさかの採用。働きながら、高卒認定資格を取得した。
 転職のたびに資格を取り、現在は大手電子メーカーで正社員として勤務する。
 長男は創価大学へ進み、次男は創価高校を卒業し、ドイツのプロサッカー選手に。三男も創価高校で学ぶ。
 現在は、四男と二人暮らし。聖教新聞を配達しながら、母として、敏腕プログラマーとして、充実の日々を過ごす。 ​(2019年10月27日付)​​
 
天売島で暮らす 漁師の妻
 北海道の天売(てうり)島で生まれ育った三浦美保子さん(35)=副白ゆり長、写真。
 2006年、第1子の臨月を迎えていたが、突然の出血。島には産科医がいないため、高速船で本島を目指した。
 胎盤剝離(たいばんはくり)。2500㏄も出血。ドクターヘリで札幌の病院に運ばれ、一命を取り留めたが、おなかの子は亡くなった。
  “せめて一度でも、抱いてあげたかった”。悲しみに沈んでいた時、義母が声を掛けてくれた。
 「胸の中にある思い、全部、御本尊様にぶつけていいのよ」
 夫婦で祈り、毎日を懸命に生きる中、07年、三浦さんのおなかに再び命が宿る。
 出産予定日は、亡くなった子と同じ7月3日――。「生まれ変わりだね」と、夫と肩を寄せ合い泣いた。
 今、3人の男の子に恵まれ、夫の漁を手伝う。第1子の死産を通して、島にはドクターヘリが飛ぶようになり、多くの島民の命を救っている。 ​​(2019年11月24日付)


のしあがる! 失業から逆転
 埼玉県所沢市の藤本寛明さん(38)=男子部副本部長、写真。高校を卒業後、土木職人になり、懸命に働いた。
 数年後、父が大腸がんで亡くなる。父の遺志を継ごうと「信心を抱き締め」、仕事にいそしむ。結婚し、父親にもなった。
 だが2010年、ネフローゼ症候群を患う。追い打ちをかけるように、勤めていた会社が倒産した。
 雇われ時代の苦労を思うと、どうしても再就職への踏ん切りがつかない。出した答えは、株式会社フジ建設の起業。一発逆転の大勝負に出た。
 経営者の壮年部員の励ましもあり、業績は右肩上がり。もうすぐ、起業から10年がたつ。
 妻の勧めでネイルカフェも始めた。「右肩上がりは、安定してない証拠」と、社員と力を合わせ試行錯誤(しこうさくご)の日々。ネイリストの目線に立ちたいと、ネイルの資格まで取った。
 のし上がれるか! これからが、正念場だ。 ​(2019年12月28日付)
 
記者の目 「変身」を続ける覚悟
 日本ではしばしば、長寿化の負の側面ばかりがクローズアップされる。
 だが悲観するばかりでは前へ進めない。
 長寿化の恩恵を、一人一人が享受(きょうじゅ)できるよう考え、ヒントを共有し、実験を重ねる以外、「社会に一大革命をもたらす」ともいわれる人生100年時代を乗り切ることはできない。
  
 長寿化は、これまでの「常識」を大きく変える。
 働き方や引退の時期、教育の在り方、結婚や出産のタイミング。親の世代には有効だった人生モデルが、子の世代にも通用するとは限らない。
 先述の『ライフ・シフト』に、こうある。
 「長寿化を恩恵にするためには、古い働き方と生き方に疑問を投げかけ、実験することをいとわず、生涯を通じて『変身』を続ける覚悟をもたなくてはならない」
 つまり「社会・環境の変化」に対し、「個人の変身」で応戦していくということだ。
 例えば、働き方を考えても、スキル(訓練して獲得した能力)の価値が瞬く間に変動する。
 手持ちのスキルにしがみつかず、常に新しいスキルの習得に挑んでいかねばならない。
 北海道札幌市の小野亜沙希さんの体験は、その好例だった。
 学歴は中卒、4人の子を育てるシングルママ、リーマン・ショックの直後……後ろ向きになる要素は多かった。
 にもかかわらず、小野さんは信心強く前を向き、諦めずに就職先を探した。
 派遣の仕事をしながら、高卒認定資格を取得。次の仕事は、タクシー会社のオペレーター。ここでも無線従事者免許を取得。モールス信号の解読やドローンの操縦まで、できるようになった。
 子どもが成長し、学費が増えると、IT就業支援の学校に通い、1年間の猛勉強。マイクロソフトの資格試験6種全てで満点合格を果たし、晴れて大手電子メーカーの正社員に迎えられた。今も新たな資格試験に挑んでいる。
 無論、誰もが小野さんのように「華麗なる変身」を遂げられるわけではない。
 昔ながらの標準的な生き方を尊重してきた日本においては、慣習(かんしゅう)や伝統的価値観、地域・家庭の“しがらみ”に、個人が縛(しば)りつけられることもある。
  
 北海道の天売島で生まれ、漁師の家に嫁いだ三浦美保子さんも、そうした一人だ。
 島民の数は年々減り、本島より速いスピードで高齢化が進んでいる。2人の息子が通う学校も、存続を維持(いじ)していけるか分からない。
  活気を失っていく島は見たくない。
 それでも三浦さんは今、島に住んでいる。夫を支え、息子の夢を応援しながら、「できる限り、踏ん張りたい」と。
 それは「この島に骨を埋める」的な使命感ではない。未来にあらゆる「選択肢」を残し、冷静に将来の家族の在り方を考えながら、“しがらみ”に対し、しなやかに応戦しているのだ。
  「選択肢を残す」ことの価値は、人生100年時代において、より一層高まっていくだろう。
 人生を再スタートさせる機会、逆転のチャンスが格段に広がっていく。

   
 埼玉県の藤本寛明さんは、11年間働いた会社が倒産。失業した。
 人生の分岐点に立ち、選んだ道は「起業」。民主党政権下で公共事業が減少している最中とあって、同業者はこぞって反対した。
 背中を押してくれたのは、妻の一言。「もう落ちるところはない。後悔のないように」。“たとえ失敗しても、やり直すチャンスはある”と踏み切った。
   
 起業から10年。業績は右肩上がり。だが油断はない。
 移ろいやすいお客の心を敏感に察知し、毎日帳簿をにらみながら、進むべき方向性を慎重に見極めている。
 池田先生は、21年前の1999年1月、米国の経済学者レスター・C・サロー博士との対談で、地球社会の趨勢(すうせい)を鋭く見通しながら、次のように語っている。
 「変化の時代にあっては『自分自身をつくり変え続けていくこと』や『新しい知識や技能を絶えず習得していくこと』が重要です」
  私たちは池田先生の指針を胸に、日々「人間革命」に挑み、自らをアップデート(最新化)してきた。それは「変化への対応力」を備えてきたとも換言できる。
 人生100年時代とは、「人間革命」の哲学を体した私たちが、新たなロールモデルを示していく時代なのかもしれない。​​​​


(2020年1月29日 聖教新聞)







最終更新日  2020.01.29 15:44:04

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