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扉をひらく 池田先生の対話録 Ⅲ

2020/01/24
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​​扉をひらく 池田先生の対話録  Ⅲ 

第7回 海外の牧口研究のパイオニア デイル・ベセル博士 
幸福の源泉は「価値の創造」 
創価教育を世界に広げたい

長野研修道場で池田先生と会談した、デイル・ベセル博士(手前左側)。右後方はデイビッド・ノートン博士(1990年8月15日)
 ツネサブロウ・マキグチ。​​


 若きデイル・ベセル博士が、その東洋人の名を知ったのは1950年代。池田先生の会長就任前にさかのぼる。


 牧口先生の教育理念を知るほどに、その先見性、何より人間的魅力がベセル博士の心を捉えて離さない。


 程なく牧口先生の教育学説の研究に着手し、71年に博士号を取得。その2年後に『価値創造者――牧口常三郎の教育思想』をアメリカで出版し、海外の牧口研究の草分けとなった。 


 「熱意あふれる研究に、全学会員を代表して、深く感謝いたします!」


 74年11月7日、池田先生が東京・信濃町の聖教新聞本社(当時)にベセル博士を歓迎。「博士の名は、その功績とともに永遠に創価学会の歴史に伝わります」と、深い敬意を寄せた。


 ベセル博士が「ありがとうございます」と、なめらかな日本語で答える。長年の研究で語学に習熟していた。 


 池田先生が20年にも及ぶ牧口研究の動機を尋ねると、博士は落ち着いた口ぶりで来し方を語った。


 ――アイオワ州の高校で社会科教員を務めていたベセル博士。教壇に立つ中で、ある疑問が芽生えた。“社会は確かに便利になった。しかし発展を追求する社会にあって、人間が教育から置き去りにされているのでは……” 
 答えを求め、古今の教育者の著作を読みあさった。もともとアジアへの関心が高かった博士に、大学の恩師が薦めた人物が「牧口常三郎」だった。 


 「教育の目的は、知識の伝授ではない」「自己と他者のために価値を創造することこそが、幸福の源泉であり、人生の目的である」――あくまで人間を中心に据える牧口先生の哲学に、ベセル博士は思わずうなった。 


 何より、信念を貫くため、軍部政府の弾圧に屈せず獄死を遂げたこと、その偉大な教育者を日本社会が無視したことに憤りを覚えた。


 「牧口先生と『価値創造』の思想を全ての人に知らせたい」――この時、博士の人生の目標が定まった。


 69年、日本で2カ月間、集中して調査に当たった。牧口先生を知る人を訪ね、小さな農村にも足を運び、多くの手がかりを得た。創価学会についても正視眼で研究を積み重ねていった。

 ベセル博士は牧口先生と世界の教育者を比較しながら論を進めている。自著の結論に、こう記した。 


 「牧口が独創的だといえる第一の根拠は、現在、池田と創価学会が、(中略)牧口の提案を実行しているという事実にある」と。 
                              

                    ◇ 
 

「今日ほど、うれしい一日はありません!」


 74年11月の語らいで、ベセル博士は池田先生の前で喜びをあらわにした。 


 「政治や経済の次元を超え、教育・文化の次元で誠心誠意の努力を払い、世界平和を願う池田会長の根本姿勢が理解できたからです」


 会談では、開学4年目を迎えた創価大学の展望や「教育国連」の構想などが語られた。博士はくうなずき、「会長の話は、我々の勇気を鼓舞します」と。教育文化の興隆が世界の平和に寄与すると、意見の一致をみた。


 池田先生がベセル博士に語った。


 「国と国を結ぶ平和の波が悠久の大河となりゆくことに死力を傾けていく――これが私の唯一の念願です」


 さらに「学会員が、世界の恒久平和と人類の幸福のために全権大使として活躍することが私の夢です」とも。


 先生は、同年5月に中国、9月にソ連を訪問。中ソ対立のさなか、12月には第2次訪中で周恩来総理と会見し、翌年1月にはアメリカへ渡っている。


 自身の研究を通し、牧口先生の価値創造の思想が創価学会の中に生きていると確信していたベセル博士だが、その中心に池田先生の行動があることを知り、感動を新たにした。


 その後、博士は創価教育の現場を訪れ、「牧口氏の精神、また創立者の精神が、キャンパスの隅々まで生きている」と実感。東西の学園や創大で講演などを行っている。 
                                     ◇ 


 今、アメリカ創価大学やブラジル創価学園をはじめ、創価教育のキャンパスは世界に広がり、日々、牧口先生の教育理念の研究・実践が進む。


 その端緒を開いた中の一人が、ベセル博士である。創価教育学研究で著名なデイビッド・ノートン博士(米デラウェア大学教授、故人)も、ベセル博士を通じて牧口思想と出あった。


 89年、両博士の尽力により、『創価教育学体系』の英語版が出版される。


 翌90年8月15日、初来日したノートン博士が、ベセル博士と共に池田先生と会見。英訳に多大な貢献を果たした両博士に、先生が心からの謝意を表すると、ベセル博士が語った。


 「私の方こそ牧口氏に関する研究を続ける中で、多くのことを学ぶことができました。牧口氏の考えは、世界のあらゆる教育者に有益な“助言”を与える力をもっています。氏の思想は、教育が根幹とすべき真実の『原則』『法則』を明らかにしています。こうした意味から、私は牧口氏について研究できること自体、本当にうれしく、誇りに思っています」


 池田先生が応じる。 


 「人間の社会にあって、一番大切なものは何か。言うまでもありません。『人間』です。その人間をつくるのは何か。『教育』です。教育の重要性は、決して強調しすぎることはありません。『人間』のもつ限りない可能性をどう開くか。万人が真の『人間』へと開花しゆくためには何が必要なのか。私は、こうした社会の根本課題を真摯に研究しておられるゆえに、お二人を尊敬するのです」

 ベセル博士は93年に本紙の客員論説委員に就任。いじめ等の問題をはじめ、安全保障や飢餓などのテーマについて、牧口先生の思想をベースに提言を発信してきた。


 2002年には牧口先生の『人生地理学』の英語版の編集を担当し、序文には「もし日本が、環境と教育についての牧口の洞察に基づいて、実際にそうした産業社会の形態を発展させていたなら(中略)今日の世界は、どんなに違っていただろうか!」とつづった。


 牧口先生の先見性を証明しようとする執筆活動は、亡くなる2年前、2011年まで続く。息女のダイアナ・ベセル氏も『香峯子抄』の英訳を手掛けるなど、創価の哲学を世界に広めたいとの思いは今日に受け継がれている。


 「牧口会長の思想は、人権と世界平和を実現するうえで、極めて有益な思想をはらんでいる」


 今から60年以上も前にベセル博士が抱いた思いは、時を経るごとに、多くの人の実感となるに違いない。



 デイル・ベセル
 1923年、アメリカ・オハイオ州生まれ。ミシガン州立大学で国際比較教育を学び、「牧口常三郎の生涯と思想」をテーマにした論文で博士号を取得。グレースランド大学、インタナショナル大学で教授を歴任。創価教育学研究、牧口研究の草分け的存在で、『創価教育学体系』『人生地理学』の英語版の編集・監修にも尽力した。93年から本紙の客員論説委員も務め、健筆を振るった。著書に『価値創造者――牧口常三郎の教育思想』(英語版・日本語版)など。2013年1月、89歳で死去。


 〈引用・参考文献〉

 デイル・ベセル著『価値創造者――牧口常三郎の教育思想』中内敏夫/谷口雅子訳・小学館、同編・監修『Education for Creative Living』(牧口常三郎著『創価教育学体系』の英語版)Iowa State University Press、同編『A Geography of Human Life』(牧口常三郎著『人生地理学』の英語版)Caddo Gap Press、池田大作/ジム・ガリソン/ラリー・ヒックマン著『人間教育への新しき潮流――デューイと創価教育』第三文明社。



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(2020年1月24日 聖教新聞)







Last updated  2020/01/24 06:44:13 PM
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2020/01/10

扉をひらく 池田先生の対話録 Ⅲ  第6回
​

​歴史学者・華中師範大学元学長 章開沅氏​

「未来の果」は「現在の因」にあり 今を導き、明日を開く行動を


  初対面とは思えない。旧知のような語らいが、20年来、ずっと待ち望んだ出会いであることを物語る。
「ようこそ、お越しくださいました。心から御礼申し上げます!」​​


 2005年12月13日、東京牧口記念会館。現代中国を代表する歴史学者・章開沅(しょうかいげん)氏を池田先生が迎えると、章氏は満面の笑みで喜びを弾ませた。


 「中国語に『相見恨晩(シャンチェンヘンワン)』(「出会いが遅かったのが残念だ」の意味)との言葉があります。しかし私は、遅かったとは思っていません。まだ体も健康ですし、頭もはっきりしています。これから池田先生と実り多い対談ができると確信しています」
出会いを喜び合う池田先生と章氏(2005年12月13日、八王子市の東京牧口記念会館で)
 その時、章氏は79歳。学年でいえば、池田先生の一つ上に当たる。名門・華中師範大学で教授、学長を歴任した、中国近現代史の第一人者である。


 「私が、トインビー博士と池田先生の対談集の中国語版を手にしたのは、1985年のことです」


 章氏は大戦のさなかに青春時代を過ごし、大学を中退。革命運動に明け暮れる中、半ば偶然、歴史研究に身を置くことになる。当時、学んだのがトインビー博士の大著『歴史の研究』。その深い洞察への感動が、学究の道を進む動機の一つとなった。


 85年、トインビー博士と池田先生の対談集を手に取り、章氏は衝撃を受ける。何より池田先生の若さに驚いた。


 “まだ40代でありながら、齢80を超えた碩学(せきがく)と、まるで百科事典のような対談集を編んでいる……”。以来、池田先生の動向に関心を抱き続けた。


 2004年、華中師範大学が池田先生に名誉教授称号の授与を決定。同大学に池田大作研究所が設立されると、章氏は自ら顧問に就いた。


 念願かなった05年12月の会見は、まさに談論風発。積年の思いがあふれ、語らいは約3時間に及んでいる。


 池田先生は語った。


 「章先生とトインビー博士の深い縁を感じます。歴史――これを学ぶことが、人類にとって、どれほど重要か。歴史を繙き、歴史に学んでこそ、人類の未来は平和であり、勝利があります。栄光の軌道が開けてくるのではないでしょうか。その意味で、歴史を知ること以上の“武器”はありません。歴史を知らない。学ばない。それでは、無軌道な“野獣”の生き方になってしまう。真の幸福を得ることはできません」
2007年4月2日、章開沅(しょうかいげん)氏は創価大学の入学式に出席し、池田先生と再会を果たした。翌3日には「私と歴史学」と題し、同大学で講演を行っている
 池田先生と章氏には、多くの共通点がある。


 病弱で長くは生きられないと宣告された青春期。文学作品を読みふけり、作家や新聞記者を夢見てペンを磨いたこと。章氏は社会を鋭く批評し、同級生から「小魯迅(しょうろじん)」と呼ばれていた。


 戦争の悲惨さにも、また権力の迫害にも、同じく相対してきた。


 空襲(くうしゅう)で疎開(そかい)する途中、章氏の母は、すし詰めの蒸気船の中で末の子を産んだ。苦難の果てに1200キロ離れた重慶(じゅうけい)にたどり着くが、医療も物資も乏しく、家族3人が相次ぎ亡くなる。生まれたばかりの弟が肺炎にかかり、息を引き取るのを、ただ見ているしかなかった。


 戦後の混乱期にあって、満足に学ぶことができなかった二人だが、池田先生は恩師・戸田先生の個人教授で万般の学問を修め、章氏は長江での労働を通して人生への姿勢を深めた。


 「池田先生は『戸田大学』の卒業生です。私は、いわば『長江大学』の卒業生です」と語る章氏。長江で“一人の練達の舟人(ふなびと)”と過ごした日々が、自身の原点になったと振り返る。


 「彼は、大事なことを教えてくれました。いかにして自分の職業に誇りを持つか、ということ。そして、自分の船に乗っている人たちの命を、責任を持って、安全に運ぶということです。私は博士課程にも入らず、また、博士号のために教えてくれる先生もいませんでした。しかし、あの老舵取(ろうかじと)りは、私の“人生の博士号”の先生でした」
 


 その後、章氏は良き師に恵まれる。


 文化大革命の真っただ中、研究に没頭(ぼっとう)する氏を、根拠なき中傷が襲う。新聞や雑誌などで「章開沅の論文を掲載してはならない」と通達され、10年もの間、研究の中断を強いられた。


 弾圧をはねのけ、120万字に及ぶ『辛亥(しんがい)革命史』が完成したのは1981年。人生の岐路にあって、章氏を陰に陽に支えたのは師の存在であった。


 「よき師と巡りあい、偉大な師を持つことは、人生における無上の喜び」と語る章氏。それゆえ、創価の師弟の歴史と、師恩に報じる池田先生の生き方に賛嘆(さんたん)を惜(お)しまなかった。
 


 なかんずく、日中友好における先生の功績を訴えてやまない。
 

「日本で戦争責任の話をする場合、今でもまだ、それを快く思わない人たちからの有形無形の圧力を感じます。中日友好を進めるにあたって、先生がどれほどの勇気で、多くの圧力に耐えてこられたか。よく理解できます」


 章氏は「二千年を超える中日関係の歴史は、友好交流が主流」「和をもってすればともに栄え、争えばともに傷つく」と展望する。先生の日中国交正常化提言(68年)を「まさに『光』でした」「池田先生の勇気ある一歩によって、時代は音をたてて変わっていったのです」と評価。時代の転換点であったと洞察(そうさつ)する。



 語らいは書簡を通じて続けられ、2010年10月、対談集『人間勝利の春秋』として結実。中国語の簡体字(かんたいじ)版、繁体字(はんたいじ)版も相次いで出版された。


 同書で章氏は、「歴史学の真髄(しんずい)にも通ずる」と、仏典の言葉を繙(ひもと)いた。


 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231ページ)との一節である。
   


 章 私が尊敬してやまないのは、先生が徹して「行動の人」であることです。深い智慧を体現した、高い思想的な境地から繰り広げられる先生の行動は、いずれも総体的な理念や目的からぶれることはありません。


 池田 私にとっても、最大の関心は、ただ未来にあります。「未来の因は現在にあり」――ゆえに、青年のために、青年とともに、「現在」を変革し、よりよき「未来」を開いていきたいと願っています。


 章 歴史学、また歴史学者は、“過去、現在、未来をつなぐ懸け橋”であると考えています。ここでいう「つなぐ」とは、智慧の結びつきのことで、そのような豊かな智慧を通して、「現在」を導き、「未来」を開いていくことができるのです。


華中師範大学で開かれた「池田大作思想国際学術シンポジウム」で、基調報告を行う章氏(2006年10月14日)



 その後も、章氏は日本や韓国などで講演する一方、華中師範大学で講座を開き、池田先生の思想と行動に言及。先生とトインビー博士との対談集の中国語・簡体字版の完成発表会(2017年9月、北京)には、章氏がビデオメッセージを寄せ、未来への希望を後継の若き世代に託した。


 「行動こそ人生」「行動こそ未来」――池田先生と章氏が確かめ合った信念は、次代へ脈々と継がれていく。



 章開沅(しょう・かいげん)
 1926年7月8日、中国・安徽省生まれ。歴史学者、教育者。48年、金陵大学(現・南京大学)歴史学部に学ぶ。51年から現在の華中師範大学で教壇に立つ。84年から90年まで、同大学の学長を務めた。中国近現代史の大家で、特に辛亥革命に関する研究の第一人者。米国のプリンストン大学、エール大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校、台湾・政治大学、香港中文大学などに招かれた。『辛亥革命史』『辛亥革命と近代社会』など著書多数。


 <引用・参考文献> 池田大作/章開沅著『人間勝利の春秋――歴史と人生と教育を語る』第三文明社、池田大作/アーノルド・J・トインビー著『21世紀への対話』(『池田大作全集』第3巻所収)、同著『張謇伝稿――中国近代化のパイオニア』藤岡喜久男訳・東方書店、「人民網日本語版」2015年12月16日付。


(2020年1月10日 聖教新聞)







Last updated  2020/01/10 10:00:06 PM
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2019/12/27

​​扉をひらく 池田先生の対話録 第5回 
国際宗教社会学会元会長 カール・ドブラーレ博士

人間を結び、善なる力を集める。
それが生きた宗教、本物の宗教

笑顔で握手を交わすドブラーレ博士と池田先生(1984年12月、東京・信濃町の聖教新聞本社で)。後に博士は“生き生きとした対談だった”と振り返っている

 今からちょうど35年前となる、1984年の師走。
 都内で開かれた座談会会場の片隅に、会合の様子を鋭く見つめる西欧人の男性がいた。
 当時、国際宗教社会学会の会長を務めていた宗教社会学の世界的権威カール・ドブラーレ博士。
 体験・研究発表、幹部指導といった内容一つ一つを、克明にメモに書き留めている。会合が終わると、今度は、矢継ぎ早に質問を投げ掛けた。
 「皆さんの入会動機は何ですか?」
 「具体的に何を祈るのですか?」
 「1週間の活動時間は?」
 博士はベルギーで生まれ育った。名門ルーベン大学に進学後、ヨーロッパ社会で衰退しつつあった伝統宗教について研究を重ねてきた。やがて博士の関心は、アメリカやアジア、アフリカなど、世界の宗教へ。日本で大きな社会的影響力を持つ創価学会に注目するようになった。
 初来日を果たしたのは84年10月。以来、学会の各種会合や関連施設を精力的に訪ねては、会員の話に耳を傾け、「生きた教団」の原動力を探っていたのである。
                    ◇ 
 常に厳格な態度を崩さないドブラーレ博士だが、池田先生との初会見の席上、その意外な一面が見えた。
 会見が行われたのは同年12月22日、東京・信濃町の聖教新聞本社。博士が日本での研究日程の一切を終えたタイミングだった。
 科学一般に通じる“客観性”が話題となった時だった。
 先生は、人間の理性的な営為も、その底流にある意識が善意か悪意かにより、物事は生かされもするし、害されもする──すなわち、科学は人間の意識の影響を避けられないと主張した。
 深くうなずきながら、耳を傾けている博士。
 さらに、個人として揺るがぬ信仰を持つ一方、研究対象となる他の宗教には私見を挟まず、客観に徹することで知られる博士が、来日以来の研究の日々を、こう総括した。
 「信仰の確信に満ち、生き生きと活動するメンバーの姿に深い感銘を受けました」
 会見は2時間半に及んだ。二人の対談は、科学が発展するにつれ、宗教の重要性は高まること、宗教と社会、平和は密接かつ不可分の関係にあることで一致を見た。
 会見後、離日する博士は、やがて学会が世界的に発展し、広く人類に寄与する日が到来することへの期待を漏らしていた。「日本で過ごした1984年の最後の3カ月は、その年の最もすばらしい一時であり、生涯においても特筆に値するものであった」
                    ◇ 
 博士は、来日中に行った学会のリーダーとのてい談で、学会の原動力を、こう分析していた。「池田先生を中心とした人間味あふれる素晴らしいリーダーシップの関係がある」
 しかし、その一方で、「学会がリーダーシップをとって、平和実現のために他の力とも手を取り合える日が来ることを願っています。努力して、より大きな平和勢力とならなければ平和はなかなか達成されないものです」と、率直な意見も寄せていた。
 当時は、SGIの発足から10年がたとうとしていた頃。仏法の人間主義を基調とした平和・文化・教育にわたる運動は、世界的な広がりを見せていた。
 しかし、その社会に開かれた運動を妨げる“足かせ”があった。形式・儀式にとらわれた宗門の存在である。
 学会の運動は、宗門を外護する在家信徒の立場を理由に、他団体との協力などにおいて、さまざまな制約を受けていたのである。
 博士は、地域や社会に根差す信徒と僧侶との関係について、「緊張関係が生じやすい」と推測していた。
 やがて、それが表面化することになる。91年11月、宗門は学会に一方的に「破門通告書」を送付したのである。
 しかし、宗門との決別は、学会が、いよいよ世界宗教への飛翔を力強く開始するきっかけとなった。
 「博士のご期待通り、伸び伸びと平和のために行動できる時代が来ました」
──池田先生の声が、東京牧口記念会館(八王子市)に響いた。
 96年1月9日。二人が再会したこの日は、博士の妻リリアン・ボワイエ博士(当時、国際宗教社会学会会長。ルーベン大学教授)の誕生日。先生ご夫妻から花束が贈られた。
 ドブラーレ博士は後に振り返っている。「SGI会長夫妻の温かなお人柄は、素晴らしい思い出として私たち夫婦の心にいつまでも残っています」
 明るさに包まれた会見。その半面、学会を取り巻く日本社会の状況は、依然、厳しかった。学会は宗門の鉄鎖を断ち切ったものの、今度は、宗教に対する統制を強めようとする政治的な動きが出ていた。学会員もまた、卑劣なデマ・中傷にさらされていた。
 だが、博士は毅然としていた。「私には、今、日本で行われている議論が、どうしても理解できません」「『信教の自由』を脅かすものとして、大変に危惧しています。『信教の自由』を守るため、私たちも創価学会の皆さまと、ともに戦いたいと思います」 ​​


 その後、学会は、日本における誹謗中傷を悠々と見下ろしながら、世界192カ国・地域でメンバーが活躍する団体として発展した。
 一方、博士も、そんな学会に注目し続けた。たびたび、妻のボワイエ博士と共に、世界中のSGIの施設を訪問しては、学会員と交流した。
 イギリスのメンバーへの大規模調査の結果を掲載した本の一つ、『創価学会──在家運動が宗教になる』を出版した後の99年12月、博士は都内で講演。
池田先生の功績として1.学会の運動を海外にまで広げ、「普遍化」「グローバル化」していったこと、2.その運動を基盤に学校や文化団体などのさまざまな社会的機関を構築していったこと、の2点を挙げている。
 「本物の宗教とは、人と人とを結びつけるものです」──これは、博士が初めて参加した学会の座談会で力説していた言葉である。創立90周年を迎える「本物の宗教」のさらなる発展を、博士はじっと見守っている。

 カール・ドブラーレ
 1933年、ベルギー生まれ。ルーベン大学(15世紀に創設された、現存する世界最古のカトリック系大学)に学んだ後、アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校に留学。66年に「カトリシズムの社会学的研究」と題する論文で母校から博士号を取得。以来、ルーベン大学で教壇に立ち、社会科学部長、社会学科長を歴任。83年から91年まで国際宗教社会学会会長を務める。93年にはベルギー王立科学・文学・芸術アカデミー会員に選出される。 欧米を代表する宗教社会学者。

引用・参考文献
 カーレル・ドベラーレ著『宗教のダイナミックス──世俗化の宗教社会学』ヤン・スィンゲドー/石井研士訳・ヨルダン社、ブライアン・ウィルソン/カレル・ドベラーレ著『タイム・トゥ・チャント──イギリス創価学会の社会学的考察』中野毅訳・紀伊國屋書店、カール・ドブラーレ著『創価学会──在家運動が宗教になる』エッレディチ社。

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(2019年12月27日 聖教新聞)







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2019/08/12

扉をひらく 池田先生の対話録 Ⅲ 第4回 
ノーベル物理学賞受賞者 香港中文大学・高錕 (こう・こん)学長
 香港中文大学の「最高客員教授」称号を記念する盾が、高学長から池田先生に手渡された(1992年1月、同大学で)。高学長は語った。「この称号を、偉大な世界平和の建設者に授与することが、わが大学の価値を高めることになると確信します」。2000年には、同大学から先生に「名誉社会科学博士号」が授与されている

 この一瞬一瞬にも、膨大な情報が飛び交うデジタル社会。今や地球の反対側にいる人とも、いつでも電話やメールでのやり取りが可能となった。
 こうした今の“当たり前”を支える技術こそ、秒速約30万キロという光の速さを利用して情報を伝達する「光ファイバー通信」だ。パソコンや携帯電話から発信された情報は、水深8000メートルに及ぶ海底ケーブルの光ファイバーを通し、世界各地を瞬時に結ぶ。
 この光ファイバー通信の実用化に大きく貢献し、2009年、ノーベル物理学賞に輝いたのが、高錕(チャールズ・カオ    こう・こん)氏である。
 中国・上海に生まれ、14歳の時に香港へ移住。イギリスに留学し、卒業後は同国の通信会社へ。研究者として奔走する中、1987年に香港中文大学の第3代学長に抜てきされる。以来9年間、同大学の運営に力を尽くした。
 そんな高氏が池田先生と出会いを結んだのは90年代――。同大学を世界に通用する学府へ発展させようと、東奔西走していた時であった。
                   ◇ 
 春らんまんの創価大学。色とりどりの草花が風にそよいでいた。
 「ようこそ!」
 91年4月5日、創立者の池田先生が高学長を迎えた。
 香港中文大学は、創大が初めて学術交流協定を結んだ大学である。池田先生は歴代学長と親交を結び、大学の使命や教育論を語り合ってきた。この日の会談も、話題はいつしか文明論に。
 科学技術が著しく発展する時代を、いかに生きるか。先生が力を込める。
 「たしかに情報と知識は、あふれんばかりにあります。しかし、人間がその分、賢くなったとはいえない。ここに現代の大学教育の課題もあります。知識をどう『知恵の開発』に結びつけるか。専門化し、細分化した『知識』と『知識』に橋を架け、人間の幸福のために、どう関連づけ、生かしていくか。そうした価値創造への知恵と信念をもった『創造的人間』の育成を、“創価教育”は目指しています」
 深くうなずく高学長。創価教育の理念に共感を示し、こう言った。
 「技術者や科学者は、自分の研究が、人間の生活・人生に、どんな影響を与えるかという責任を自覚すべきであり、また自覚せざるをえない時代になっています」
 技術の急速な発展や社会的変化の中で、「人間の幸福」という根本の目的を見失い、人間を手段化してはならない――二人の意見は一致した。
 会談では、高学長から、これまでの教育交流に加え、文化交流も進めていきたいとの提案も。先生は「“美”は人の魂を高め、“芸術”は人の心を感動で結びます」と賛意を示した。
 この時の約束は、94年、香港中文大学文物館での「東京富士美術館所蔵 日本美術名宝展」に結実している。同展は、戦後のアジア初となる本格的な日本美術展としても注目を浴びた。
 高学長は折に触れて、語っている。
 「交通や産業、情報が世界を狭くはしても、民族と民族、人と人を結ぶものは、文化交流であり、教育交流です。この信念のもと多彩な活動を展開する創価の皆さまに対し、最大の敬意を表したい」
                   ◇  
 「湾岸戦争の勃発で明け、ソ連邦の消滅で幕を閉じた昨年は、世界史が、文字どおり、地殻変動ともいうべき大揺れを演じた一年でありました」
 92年1月30日、香港中文大学の会議場に池田先生の力強い声が響いた。
 この日、先生は同大学初となる「最高客員教授」称号を授与され、記念のスピーチを行っている。イデオロギーが猛威を振るう国際情勢にあって、平和を築くために何が必要か――。
 先生は、香港中文大学のモットーである『論語』の「博文約礼」――博く学べ、しかし博識をもって満足せず、礼すなわち実行によって知識をまとめていくことが大切である――に触れ、中国には、常に「人間」を基軸にした発想があると指摘する。
 そして、中国古来、最高の徳目の指標である「中道」「中庸」に論及。同国に脈打つ“自律の精神性”こそ、新たな世紀への鍵であると訴えた。
 “中国思想の精髄”を示したスピーチに、聴衆は総立ちの拍手で応えている。
 同年12月、池田先生の大学講演や提言を収めた中国語版の書籍『世界市民的展望』が、香港最大手の出版社である三聯書店から発刊された。高学長は8ページにわたる序文を寄せている。
 同書には、香港中文大学での講演も収録。高学長は「中国思想と現代文明への深い見解に、私たちは共鳴し、自己を見つめ直そう」と記している。
 そう賛辞を寄せた高学長自身、常に自分を律し、「中道」の精神を体現した人物だった。
 ある時、香港中文大学での行事で、大学運営に不満をもつ学生が突然、壇上に上がり、高学長からマイクを奪って持論を述べるという一幕があった。
 騒然とする中で、記者が駆け寄る。「先ほどの学生に、どのような処分が下されますか?」。すると学長は、驚いた様子で問い返した。「なぜ学生を罰する必要があるんでしょうか」
 どこまでも学生を第一に考え、愛情をもって接してきた高学長。自らポケットマネーをはたき、人知れず、貧しい学生たちを援助していた。「私は理想主義で、周りからは“世間知らず”と批判されているかもしれません。ですが、これが私の性分なのです。世間知らずということへの反論は、私が、単純に誠実であるということです」
 「私は鎧を身にまとっています。誠実を貫くという厳しい自己規律によって、いつも安らかに眠り、自由に意見を述べてきました」
 冷静沈着。腰が低く、気さくに声を掛ける――高学長の温かな微笑みを、当時の学生は今も忘れない。
 池田先生と高学長が出会いを結んだ91年を境に、香港中文大学は飛躍的な発展を遂げていく。
 高学長は、エンジニア学部や教育学部などを次々と新設。研究と教育の強化を両輪とし、学生はもちろん、教職員たちも張り合いをもって成長していけるようにと、あらゆる手を打った。
 現在、大学の学生数は当時の倍以上に増加。世界大学ランキングでアジア9位、コミュニケーション・メディアの分野で世界15位に位置している。
 今も創大との学術交流が盛んに行われ、留学生たちが深い友情を育む。
 高学長が退任する際、大学の教職員たちは、「高学長が、私たちの大学を“世界の大学”へと変えてくれました」と、別れを惜しんだ。
                   ◇ 
 現代社会に不可欠な光ファイバーの通信技術。だが高学長は、同技術の特許を取得しなかった。
 ある時、周囲から「特許が無くて後悔はないですか」と問われ、「全くありません」と笑顔を見せた。
 高学長が願っていたのは「私の幸せ」ではなく、「私たちの幸せ」であった。常々、「世界中の人々が無料でインターネットを使えるようにすることが、私の夢なのです」と語っている。
 理想を掲げ、行動し続けた高学長。その根本には未来への確信があった。
 「世界の変化は、ますます速く、大きくなっています。ですが、私たちが心を合わせた先には、必ずや素晴らしいドラマが待ち受けているのです」

高錕 (こう・こん) 
    1993年、中国・上海生まれ。電気工学者。英語名はチャールズ・カオ。ロンドン大学を卒業後、英国の通信会社で研究・開発に従事。66年に光ファイバー通信に関する論文を発表し、実用化の基礎を築いた。87年、香港中文大学の第3代学長に就任し、同大学の教育改革に貢献。その後、アメリカのソフトウエア会社の最高経営責任者などを歴任。2009年、光ファイバー通信の発展への貢献がたたえられ、ノーベル物理学賞を受賞した。昨年9月、84歳で死去。​


●引用・参考文献
 池田大作著『「世界市民的展望」――池田大作選集』三聯書店、チャールズ・K・カオ著『A Time and A Tide: Charles K. Kao ─ A Memoir』The Chinese University Press、同著『光ファイバシステム』島田潤一・平野正浩監訳(啓学出版)、小山慶太著『ノーベル賞でたどる物理の歴史』丸善出版。
 
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(2019年8月12日 聖教新聞)







Last updated  2020/01/10 10:07:02 PM
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2019/07/13

扉をひらく 池田先生の対話録  lll ​第3回 

オーストリア芸術家協会 ハンス・マイヤー会長  
写真も人生も「一瞬」が勝負  
今この「瞬間」に心を尽くす


  オーストリア芸術家協会会長のハンス・マイヤー氏を迎えて。会談では、池田先生と対談集を発刊したクーデンホーフ=カレルギー伯爵が芸術家協会の会員であったことなど、共通の縁も話題に(1992年8月26日、東京・信濃町の聖教新聞本社で)



 カシャッ、カシャッ。


 二つのカメラから、小気味よいシャッター音が響く。


 1992年8月26日、池田先生がオーストリア芸術家協会会長のハンス・マイヤー氏を聖教新聞本社に迎えた。


 著名な写真家であるマイヤー氏が池田先生にカメラを向けると、先生も手元のカメラを構える。


 レンズ越しにも、談笑が絶えない。じっくり語るのはこれが初めてだったが、旧知のように話が弾んだ。 


 「なぜカメラに興味をお持ちになったのですか」


 池田先生の質問に、幼少期を振り返るマイヤー氏。父の友人が持つカメラに夢中になった思い出を語った。 


 「カメラというのは、一体どんな仕組みになっているのか知りたくて、よく暗室に入り、一生懸命、眺めていたものです」「6歳の時には、もう『自分は将来、写真家になる』と決めていました」


 キュンストラーハウスの名で親しまれるオーストリア芸術家協会は、同国最古にして最大の芸術拠点として知られる。1861年の創立以来、数千回に及ぶ多彩な展覧会を開いてきた。


 戦後のウィーンで数々の賞に輝き、写真家として名をはせたマイヤー氏。1975年に同協会の会長に選出され、芸術振興に奔走してきた。


 池田先生もマイヤー氏も、かねて「写真は民衆に開かれた芸術」と述べ、写真文化の宣揚に努めてきた。 


 「写真を『芸術』と見る観点は二つあります」とマイヤー氏。 


 「一つは『道具を使った芸術である』ということです。人間の手だけでは表現できないものを、写真は表現できる。二つ目は『万人に開かれた芸術である』という点です。絵画などをうまく描けなくても、写真は、シャッターを切りさえすれば撮れる。だから極めて『民主的』な、それでいて高い質をもった芸術と言えると思うのです」 


 池田先生が応じる。

 「会長が言われたように、写真は、誰でも『見た』ものを『写す』ことのできる芸術です。その上で、重要なのは、同じものを見ても、生命にどう映るか、どう感じるかです。見え方の差、境涯の差は、おのずと作品にも現れるのではないでしょうか」


 そう語り、言葉を継ぐ。 


 「余談ですが、有名な『キヤノン』という名称も、もとは『カンノン』だったそうです。カンノン――日本語では、『観音』といえば法華経の『観世音菩薩』のことです。『世音を観ずる』すなわち世間のあらゆる“生命の声”を、真実を、ありのままにキャッチしていく。写真芸術にも通じる、生命の働きを表していると思います」


 “心のレンズ”を磨き上げてこそ、真実を写すことができる――先生の言葉に、氏が満足そうにうなずいた。 
   

                      ◇ 


 毎年元日、ウィーンの楽友協会から世界に生中継され、年明けを華やかに飾る「ニューイヤーコンサート」。 
 この楽友協会の真向かいに立つキュンストラーハウスで、92年1月、「自然との対話――池田大作写真展」が開幕した。東京富士美術館主催の「日本美術の名宝展」と同時開催である。 


 「私は写真芸術家ですから、池田会長の写真の芸術性の高さがよく分かるつもりです」とマイヤー氏。自ら作品選定に当たり、一枚一枚を吟味した。


 当初、案に挙がっていたのは、パリやウィーンなど、池田先生が欧州訪問の際に写した作品が中心だった。 


 しかし氏は、山あいの田畑や紅葉、竹かごに盛られた秋の味覚など、日本の四季折々を収めた作品を推薦。並び順にも熟慮を重ねる姿は、関係者が圧倒されるほどの真剣さだった。


 写真展には3万人を超える市民が来場し、連日、新聞やテレビなどの主要メディアで報じられた。過去最大級の日本文化の展覧会となった同展に触れつつ、先生と氏の語らいは「戦争と文化」に焦点が移っていく。 


 にこやかな表情を浮かべていた氏から、笑みが消えた。「絶対に忘れられない、また許すことのできない不幸な出来事でした。こんなことは、二度と、二度と繰り返してはなりません」


 氏は先生より2歳年上。17歳の時、徴兵でドイツ陸軍に入隊している。 
 

「よく分かります。私も、あの暗い戦時中に少年時代を送った一人です」と池田先生。 


 マイヤー氏の父は、終戦までの7年間、悪名高きダッハウ強制収容所に囚われた。祖父も収容所に送られ、自ら命を絶っている。 


 「『右』にせよ『左』にせよ、人間を抑圧する『独裁』というものは、同じです。こうしたバカげた愚行を絶対に繰り返させないことが、私たちの『使命』なのです」


 語気を強める氏に、池田先生は「深い『人間観』に基づいた、深い『歴史観』を感じます。『人間』の真実の叫びです。私どもも、『独裁』と戦っています。『抑圧』と戦っています。会長と『同じ使命』の同志です」と。


 芸術家協会では、氏の主導で旧東欧諸国との文化交流にも尽力してきた。「私は私なりに、“東側”との文化交流を続けてきましたが、そのことが、旧東欧諸国の共産主義体制の崩壊に若干の貢献をしたかもしれません」


 池田先生が深くうなずく。 


 「大きな貢献と思います。『文化の力』は小さいようで、長い目で見れば、確実に、時代と社会の底流を動かしているものです」 
                                                         ◇ 


「法華経の序品では、釈尊が、いわば最高のカメラマンのごとく、森羅万象の映像を鮮やかに映し出し、人々に見せてあげている。すなわち、釈尊の眉間から発する光明が、東方の1万8千といわれる世界を照らすと、全てが黄金の光の中に浮かび上がります。生命の閃光、フラッシュに例えられるかもしれません」 


 92年8月の会談で先生は、法華経の映像性を通し、写真芸術を語った。 


 「法華経では、この森羅万象が自己の『一念』に収まり、また自己の一念が『全宇宙』に遍満していくことを明かしている。また『生命の永遠性』を説きつつ、果てしない過去も未来も、現在の『一瞬』に凝縮されていることを説いています」 


 技術の発達により、今や写真は毎日の生活に欠かせないものとなった。だが、それが「一瞬」を「永遠」に刻み残す作業であることに変わりはない。


 マイヤー氏は語っている。 


 「会った瞬間、私にははっきりと分かりました。池田会長が、私と同じような人生体験をお持ちであり、『不幸を繰り返さぬ』ために戦っておられることが――」 


 信念の人のみが、信念の人を知る。 


 「瞬間」の芸術に生き、文化交流に生涯をささげた氏が、“心のレンズ”で捉えた先生の実像である。


 ハンス・マイヤー
 1926年~93年。写真家。75年にオーストリア芸術家協会(キュンストラーハウス)会長に就任。オーストリア最古の伝統を誇る同協会の活動を主導し、多くの芸術家に発表・交流の場を提供。旧東欧諸国との文化交流にも力を尽くしてきた。91年6月、写真分野における芸術的業績が評価され、池田先生が同協会の在外会員に就任。翌92年1月には、キュンストラーハウスで「自然との対話――池田大作写真展」が開かれ、3万人を超える市民が鑑賞した。同年11月、国際的な文化交流活動への多大な貢献がたたえられ、池田先生に同協会の名誉会員証が授与されている。


 〈引用・参考文献〉

 池田大作/ユッタ・ウンカルト=サイフェルト著『生命の光
 母の歌』、広瀬佳一・今井顕編著『ウィーン・オーストリアを知るための57章』(明石書店)、増谷英樹著『図説 ウィーンの歴史』(河出書房新社)、R・ヴァイセンベルガー編『ウィーン 芸術と社会 1890-1920』池内紀・岡本和子訳(岩波書店)。

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(2019年7月13日 聖教新聞)​







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2019/06/01

扉をひらく 池田先生の対話録 Ⅲ 第2回 

ペルー
 国立サンマルコス大学 ファン・デ・ディオス・ゲバラ総長

​ 
 いかなる時も信義を貫く 人間の真価は逆境で光る

   東京の創価学園を訪れたゲバラ総長(中央)が池田先生と語らう(1981年4月10日)



 車窓から流れる景色は、大学が嵐の渦中にあることを物語っていた。


 キャンパスの壁という壁が赤や黒のペンキで塗りたくられ、政治的主張が書き殴られている。


 1974年3月26日。ペルーを訪れていた池田先生は、国立サンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ総長との会見場所に向かっていた。


 当時、大学改革を求める学生運動が世界的に高まり、サンマルコス大学でも学生と大学当局が対立。キャンパスではデモ行進が繰り広げられ、総長の自宅は爆弾テロの標的となった。


 とてもキャンパスに立ち入れる状況ではなく、首都リマ市内にある大学事務局が会見の会場となったのである。


 池田先生を迎えたゲバラ総長が、笑みをたたえながら語った。「私たちは池田会長を、ただ大組織の会長として見るのではなく、会長の人生や著作を通じて、新社会建設の創造的活動に忠実な、偉大な師匠、人道主義者、哲学者、作家であると見ます」


 科学者らしい冷静沈着な口調だが、その言葉の端々に、先生を慕う気持ちがにじみ出ていた。


 先生が、にこやかに応じる。「私は創価大学創立者として、また人類の幸福と平和と繁栄を心から希求する一人として、その一切の鍵は青少年の教育にあると自覚しつつ、私なりに最善を尽くしてきました」


 今回の招聘(しょうへい)は、総長自身の強い要望によるものであった。


 南米最古の伝統を誇るサンマルコス大学は、1551年の創立以来、歴代大統領やノーベル賞作家など、ペルーを担う幾多の人材を輩出してきた。


 総長には“大学は単なる教育機関ではない。国の未来である。その第一の役割こそ人間形成”との信念がある。世界を席巻する大学紛争の嵐を乗り越え、同国の灯台として未来を示すために――大学のあり方を模索する中で注目したのが、日本の創価大学であった。


 創立400年を優に超えるサンマルコス大学。片や創価大学は開学4年に満たず、いまだ卒業生も出ていない。産声を上げたばかりの大学である。


 だが総長は断言した。「両大学の目的は本源的に一つです。わが大学は、創価大学と同じ目的を持つことを誇り高く宣言させていただきます」


                        ◇ 


 会見には、ゲバラ総長だけでなく、副総長、12人の教授も同席している。


 長テーブルには各人のマイクが用意されていた。報道陣も詰め掛け、あたかも国際会議のような雰囲気である。


 まず話題となったのが「教授と学生の断絶」について。


 副総長が口火を切る。 


 「やはり第一は対話です。これが絶えず行われている大学には、前進がある。第二は、学生が大学の諸行事に責任を持って参加すること……」 


 「新しい大学像」「学生自治の運営」「教授自身の再教育」など、白熱の議論が続く。「学生こそ“大学の主役”」と異口同音に語る教授陣に、池田先生は深い賛同を寄せている。


 先生が創価大学の建設に踏み出したのは、日本の大学紛争が最も激しい時期。その根底には“創価大学は学生中心の大学であり、全員が創立者の気概で進んでほしい”との思いがあった。 


 そうした建学の精神に触れ、先生は、教育興隆を世界的に推進する「教育国連」構想、その準備段階としての「世界大学総長会議」の開催などを提案。それを聞いた総長は声を弾ませた。


 「その構想が実現するならば、大学の諸問題の解決はもちろん、教育の振興へ、人類全ての英知を結集していくことができます。素晴らしい! この壮大なるスケールの提唱を、私は心から祝福いたします」


                        ◇  


 この74年3月のサンマルコス大学訪問は、池田先生にとって、体力の限界を超えた交流でもあった。


 日本を発って、すでに20日。ペルー滞在が中南米訪問の折り返しに当たっていた。大学への表敬はサンマルコス大学で4校目となる。先生は北米、パナマと激励を続け、ペルー到着後も炎天下で同志を励まし抜いた。 


 大学訪問の朝、疲労は極限に達していた。発熱で足元がおぼつかない。会見の直前、同行者が大学訪問の中止を申し出ると、先生は言下に否定した。


 「そんなことはできない! ゲバラ総長は、大学のあり方について深く考えられ、私と話をしようと、待っておられるんだ。何があってもお伺いするのが、人間の信義じゃないか」


 会見の翌日にも行事が予定されていたが、先生は代理を立て、宿舎で安静にせざるを得なかった。


 その夜、宿舎に思いがけない来客があった。ゲバラ総長本人が見舞いに訪れたのである。「心配でお訪ねしました。ご迷惑とも思ったのですが……」 


 先生の手を握り締め、「私のごとき者でも、よい友をもったと思って、いつでもペルーにお越しください」。


 先生は「総長のご厚意を、終生、私は忘れません」と――。宿舎の外には総長夫人が待機していた。先生に心労をかけまいとする心遣いだった。



                        ◇ 

  
 桜花が咲き薫る東京・創価学園の第14回入学式(81年4月10日)。講堂に万雷の拍手が沸き起こった。


 サンマルコス大学のポンス・ムッソ新総長がゲバラ総長夫妻と共に、はるばる来日し、池田先生に同大学の「名誉教授」称号を贈ったのである。


 日本人初の栄誉であり、異例ともいえる大学外での授与である。


 池田先生にとって、モスクワ大学の「名誉博士号」授与(75年)に続く、2番目の名誉学術称号となった。


 ゲバラ総長は、その後もペルーで、また日本で先生と再会を果たし、2000年5月に90歳で世を去るまで親交は続いた。晩年まで先生の著作をそばに置き、ペルーSGIの行事には、何を差し置いても駆け付けた。


 一昨年8月には、サンマルコス大学と創価大学の間で交流協定が締結され、その折、池田先生に同大学の「名誉博士号」が贈られている。


 先生は、ゲバラ総長との出会いを振り返り、つづった。


 「人生は不測の事態の連続といえる。そのなかでいかに行動するかに、その生き方が現れ、誠実さが輝く」と。


 信義には信義で応える。


 真心には真心で応える。


 その実践の中で、時を経るごとに輝きを増す、真の友情が紡がれる。


 
 ファン・デ・ディオス・ゲバラ
 1910年3月1日、ペルー南部ピスコ生まれ。31年にサンマルコス大学に入学。有機化学の博士号を取得後、20年以上にわたって研究を重ね、同大学の名誉教授となる。69年から77年までサンマルコス大学総長を務めた。ペルー化学者協会会長等を歴任。ペルー共和国政府から「教育最高栄誉章」、スペイン王国政府から「アルフォンソ10世勲章」など受章多数。2000年5月6日、90歳で死去。



〈引用・参考文献〉
 池田大作著『新・人間革命』第19巻、同著『心に残る人びと』角川書店(『池田大作全集』第21巻所収)、細谷広美編著『ペルーを知るための66章』明石書店、工藤瞳著『ペルーの民衆教育――「社会を変える」教育の変容と学校での受容』東信堂、アルベルト・フジモリ著『アルベルト・フジモリ、テロと闘う』岸田秀訳・中公新書ラクレ。


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(2019年6月1日 聖教新聞)​







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2019/04/12

​​扉をひらく 池田先生の対話録  lll 第1回
女性初の宇宙飛行士 ワレンチナ・テレシコワ氏

同じ人間として心を結ぶ     その先に崩れざる友情が

第4次訪ソで、人類初の女性宇宙飛行士であるテレシコワ氏と再会(1987年5月26日、モスクワで)

 長い冬を越え、新緑萌えるポプラや白樺がモスクワに春を告げていた。
 1975年5月26日。
 第2次訪ソの折、池田先生は、婦人部、女子部の訪問団と共に、プーシキンスカヤ通りに面するソ連婦人委員会の建物に足を運んだ。
 一行を立って迎えたのは、委員会議長のワレンチナ・テレシコワ氏。
 「ボストーク6号」に搭乗した、人類初の女性宇宙飛行士である。
 「カモメさんに、お会いできました!」──池田先生のあいさつに、テレシコワ氏の笑顔が輝く。
 「カモメ」は、テレシコワ氏が地上との交信で用いたコールサイン。氏の宇宙からの第一声は、「ヤー・チャイカ(私はカモメ)」であった。
 楕円形のテーブルを挟み、学会訪問団と婦人委員会が向かい合う。ソ連の女性指導者がずらりと並んだ。
 社会主義と異なる自由主義の国、その上、宗教者との会見でもあり、ぎこちない空気が漂う。婦人委員会の副議長らが委員会の構成や活動を説明するが、いずれも演説のような口調だった。
 池田先生は、議長のテレシコワ氏にこう切り出した。「なぜ、宇宙飛行士を目指されたのでしょうか」
 テーブルの上で手を組み、氏は、にこやかに答えた。
 「1961年に、わがソ連のガガーリン少佐の乗ったボストーク1号が、世界初の有人宇宙飛行に成功しました。ソ連の青年たちは皆、感動し、ガガーリン少佐のようになりたいと思わない若者はいなかったと思います」
 61年4月12日──。後に「世界宇宙飛行の日」として人類史に刻まれる日でもある。
                   ◇
 当時、24歳だったテレシコワ氏は繊維工場で働いていた。戦争で父を失い、母のきょうだいも内戦や飢餓で5人が犠牲に。家計を支えるために学校を辞め、母や姉と工場に通った。
 ガガーリンの歴史的壮挙に世界が沸いた夜、テレシコワ家も、遅くまでこの話題で持ちきりだった。
 「次は女性の番ね!」──この母の何げない一言が、テレシコワ氏の人生を変えることになる。
 農村に生きる一女性にとって、「宇宙飛行」はあまりにも遠い世界の話。工場の同僚からは、「女性が宇宙に飛ぶなんて」と一笑に付された。
 だが、母の言葉は、日を重ねるごとに氏の心の中で大きくなっていく。
 “宇宙へ飛ぶとしたら、どんな女性が選ばれるのだろう”。想像を巡らせ、宇宙飛行士になる条件を考えて行動を起こした。家族に内緒で宇宙飛行士の願書を出し、地元の航空クラブでパラシュートの降下練習に明け暮れた。
 「いたずらに好いお天気を待って、岸辺に坐ってはいられません。未来のためにたたかい、勇敢に困難を克服すべきです」(『テレシコワ自伝』)
 立ちはだかる壁があれば、自ら飛び込んでいく。それが氏の姿勢だった。
 念願かない、テレシコワ氏は宇宙飛行士の候補生に選ばれる。しかし、その訓練は想像を絶する厳しさだった。
 遠心力装置で体を回転させられ、体が鉛のように重くなる。身体訓練に加え、ロケット工学などの専門知識の習得は深夜に及んだ。
 “女性は宇宙飛行には耐えられない”との主張も多かった。心身への負担は大きく、テレシコワ氏以後、女性宇宙飛行士は20年近く現れていない。その後、世界で60人を超える女性宇宙飛行士が誕生したが、女性の単独飛行は、今も氏ただ一人である。
 63年6月16日、氏は3日間にわたって地球を48周。それは女性の時代の幕開けを告げる飛行でもあった。
                   ◇
 「一つ重大な質問をさせていただきます……」
 池田先生が言うと、テレシコワ氏の表情が緊張する。
 「飛行中、恋人のことは考えましたか」
 氏の顔に、思わず笑みが浮かぶ。
 「恋人を搭載せずに、地上に残したまま飛行してしまったにもかかわらず、私の心臓はいたって順調に鼓動していました」
 会見の場がどっと沸く。ユーモアに満ちたやり取りに、張り詰めた空気がみるみる和らいでいった。
 「地球が見えるうれしさは、たとえようもありません。地球は青く、他の天体と比べて格別にきれいでした。どの大陸も、どの大洋も、それぞれの美しさを見せていました」
 地球の輝きを映すかのように、テレシコワ氏の青い瞳が光る。
 「宇宙から一度でも地球を見た人は、自分たちの揺籃(揺りかご)の地である地球を、尊く、懐かしく思うに違いありません」
 テレシコワ氏との会見の翌日、先生はモスクワ大学で記念講演を行い、その次の日にはクレムリンでコスイギン首相と再会。その後も訪ソのたびに歴代首脳と対話を重ねてきた。

 テレシコワ氏は語る。
 「池田会長と出会った私たちの誰もが、世界が武力による競争をやめ、核兵器が廃止されるようにとの、会長の熱い願いに共感を覚えました」
 第4次訪ソ(87年5月)では、テレシコワ氏が対外友好文化交流団体連合会議長として先生を迎えている。空港での歓迎から首相会見までの諸行事を支え、モスクワでの「核兵器──現代世界の脅威」展の開催にも尽くした。
 その後も池田先生は、訪ソのたびごとに文化・教育交流を一段と広げ、行動と結果で信頼を築いてきた。
                   ◇
 テレシコワ氏は、自伝の中で、ある宇宙科学者の言葉を記している。
 「はじめは思想、夢、おとぎばなしが先に立つ。そのあとを科学的計算が追ってゆく。そして遂には実践によって思想が結実する」
 かつて夢物語だった宇宙開発は、無数の人々の挑戦によって実現し、発展を続けている。
 今や世界に広がる創価の人間主義もまた、池田先生が対話という「実践」で切り開いてきたものだ。

 テレシコワ氏は振り返る。
 「私は、会長とお会いした時のことをよく覚えています。その時、会長は、ソ連訪問に反対する人々から、“なぜ行くのか?”と質問されたと、話してくださいました。そして、その問いに対して、会長は答えられました。
 『私は行く。なぜなら、そこには、何世紀にもわたって、世界に不滅の全人類的財産を贈り続けている、素晴らしい文化をもった人々が住んでいるからだ』と。この言葉は、永遠に忘れられません」
 民族や国家、思想や宗教といった「違い」にとらわれず、心の扉を開き、あくまで同じ「人間」として尊敬し、誠実に対話を重ねる。
 そこから、崩れざる友情と信頼の世界が広がっていく。

ワレンチナ・テレシコワ 
1937年3月6日、ロシアのヤロスラブリ州生まれ。
63年6月、女性初の宇宙飛行に成功し、70時間50分で地球を48周した。単独で宇宙飛行を成し遂げた、ただ一人の女性である。地球との交信に使われたコールサイン(呼び名)から、「カモメ(チャイカ)さん」の名で人々に親しまれる。
ソ連婦人委員会議長、ロシア国際科学文化協力センター議長、ロシア国際協力協会理事長などを歴任。2011年から、ロシア連邦議会・国家院(下院)議員を務める。

〈引用・参考文献〉 池田大作著『世界の指導者と語る』潮出版社(『池田大作全集』第123巻所収)、ワレンチナ・テレシコワ著『テレシコワ自伝 宇宙は拓かれた大洋』宮崎一夫訳(合同出版)、同著『ニコラエワ=テレシコワ はてしない宇宙へ』岡田よし子訳(プログレス出版所)、冨田信之著『ロシア宇宙開発史気球からヴォストークまで』東京大学出版会。

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(2019年4月12日 聖教新聞)







Last updated  2020/01/10 09:50:32 PM
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