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晴ればれとBlog

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1

戦争・被爆証言を聞く会

2020.10.29
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戦争・被爆証言集の発刊を受けて「未来部ピースミーティング」㊦

「未来部ピースミーティング」。戦争・被爆証言集の作成に携わった広島・長崎・沖縄の男女高等部員の代表が顔を合わせた(19日)
 広島・長崎・沖縄の高等部員の代表をオンラインで結んで行われた「未来部ピースミーティング」(19日)。22日付に掲載された㊤に引き続き、戦争・被爆証言集『75――未来へつなぐヒロシマの心』『私がつなぐ沖縄のククル(心)』(第三文明社刊)を巡って語り合った模様を紹介します。(長崎の証言集『大切な青年と――未来につなぐナガサキの声』は来月下旬に発刊予定)

平和のバトンを託された 「心の宝」を受け取った
 「胎内被爆」という言葉を、長崎で育った高等部員の美穂さんは生まれて初めて耳にしました。被爆証言集の作成に当たり、長崎市の婦人に聞き取りを行った時のことです。
 爆心地から3キロの地点で婦人の母親が被爆したのは妊娠3カ月の時。終戦の翌年に生まれてからは病弱で皮膚も弱く、虫に刺されるだけですぐに化膿して“うみ”が出てしまったそうです。小学校時代には、腕や足にいつも白い包帯を巻いていたといいます。その後も、難病などを次々と発症し、今も闘病中であることを打ち明けてくれました。
 原爆の影響かどうか分からない。それでも体調を崩すたび、“原爆のせいかも”と思わずにはいられない。不安はずっと、消えることはない――婦人の口から語られる胎内被爆の実態に、美穂さんはショックを隠し切れませんでした。“原爆が憎い!”。そんな感情が自然と胸の内からあふれてきたそうです。

長崎の女子高等部員が婦人の証言に耳を傾ける
 「核兵器も戦争も絶対にダメ。それを今の若い人たちに伝えてほしい」。婦人のその言葉を、美穂さんは“平和のバトン”を託されたものと受け止めました。被爆体験の“聞き手”から“語り手”となって、友人に婦人の証言を話そうと心に決めたのです。
 思い浮かんだ相手は、高校の同級生。今まで戦争について語り合ったことのない相手です。もしかしたら驚かれるかもしれない。それでも「胎内被爆のことを知ってほしい」。美穂さんは懸命に語りました。友人は何かを感じ取ってくれたのでしょう。婦人の痛みや苦しみに思いをはせようと目を閉じ、唇をかみ締めながら、うなずいたのです。
 戦争を直接知らない世代でも伝え合っていけることは、確かにある――それを実感した瞬間でした。

命こそ
悲惨を極めた沖縄戦の体験と記憶を、壮年が未来部員らに語る
 沖縄に生まれ育った裕さんもまた、証言の聞き取りを通して「聞き手から語り手に」と誓った一人です。
 将来、教員となって子どもたちに戦争の悲惨さを伝えていきたいとの思いを強くしたそうです。それだけではありません。「いじめをなくしたい。自分の命を絶とうと思う子を、一人も出したくない」――そう深く決意したといいます。
 その理由は、沖縄戦で筆舌に尽くせぬ悲しみを経験した壮年が最後に語ってくれた“一言”に、胸を揺さぶられたからでした。
 「自分を大切にしなさい」
 それが壮年の結びの言葉でした。“どうせ自分なんて……”と、自暴自棄になった経験のある裕さんにとって、その一言は“教訓”ではなく“励まし”として響いてきたのです。
 壮年は、「逃げることは悪いことではない」と強い口調で沖縄戦を述懐したそうです。時には誰の言うことにも従わず、自分の命を守ることが必要だ。親の言いつけに背いて死んだふりをして、集団自決から逃れた人もいたと聞く。「生きる力」を培っていくためにも、教育が大事。沖縄には「命どぅ宝」という言葉がある。命ほど大切なものはない。それを教えていかなければならない――と。
 それだけに「自分を大切に」という壮年の言葉は、裕さんにとって重みをもって感じられたのでしょう。この尊い命を何に使うか。「僕は子どもたちの未来のために使いたい」。彼は、そう語ってくれました。

広島の被爆者の話を聞きながら、メモを取る男子高等部員
 広島の徳華さんにも、心に残った“被爆者の一言”があるそうです。それは、「つらかったことは全部、宝になった」。しかし、被爆した婦人が語る原爆のむごたらしさは、とても“宝”と呼べるようなものとは、思えませんでした。


 ――馬も犬も人間も焼け焦げて、そこら中に転がっていた。白骨化した手が、同じく白骨と化していた別の小さな手に重なった状態でいる光景も見た。親子だろうか。わが子を助けようとしたのかもしれない。皮膚がちぎれた人がいた。手足がなくなった人もいた。むしろの上に寝かされて、水を求めていた人、人、人――。
 「思い出したら、今でも呼吸が苦しくなる」と婦人は言いました。戦後、広島平和記念資料館の展示を見た折には「こんなもんじゃない」とさえ思ったそうです。にもかかわらず、どうして婦人は「全て宝だ」と語ったのでしょうか。
 徳華さんは、婦人の「心の豊かさ」に触れたといいます。何があっても負けない強さ。人の痛みが分かる優しさ。目の前の一人を励まさずにはいられない温かさ――戦争や原爆を経験したからこそ、自らの意思で鍛え育んだその“心”を、婦人は“宝”と呼んだのかもしれません。


 そんな婦人を前にして、徳華さんは思わず自身が抱えている悩みを打ち明けました。婦人が笑顔で言った言葉は「大丈夫」――そのたった三文字に、心をそっと包まれるような安心感を覚え、徳華さんは大粒の涙をこぼしたそうです。
 大丈夫。未来部のあなたたちなら、どんな困難も、きっと乗り越えていける。平和な未来を、必ずつくっていける。大丈夫――。
 終戦75年の本年、未来部の友が聞き取りを通して受け取った「心の宝」は、今後その輝きを一段と増していくに違いありません。誰かを励ますたびに。平和への思いを語るたびに。

発刊された広島と沖縄の戦争・被爆証言集


 【出版案内】『75――未来へつなぐヒロシマの心』は1200円(税込み)。

『私がつなぐ沖縄のククル(心)』は1650円(税込み)。


 いずれも全国の書店で購入・注文できます。聖教ブックストアでの電話注文も受け付け中。電話(0120)983563(午前9時~午後5時、土・日・祝日を除く)。

※支払いは代金引換のみ。FAXでの注文はできません。


 コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「HMV&BOOKS online」での注文、受け取りも可能です。







最終更新日  2020.10.29 12:22:37


2020.10.22

戦争・被爆証言集の発刊を受けて「未来部ピースミーティング」㊤


「未来部ピースミーティング」。戦争・被爆証言集の作成に携わった広島・長崎・沖縄の男女高等部員の代表が顔を合わせた(19日)
 「未来部ピースミーティング」が19日、広島・長崎・沖縄の男女高等部員の代表をオンラインで結び、行われました。戦争・被爆証言集『75――未来へつなぐヒロシマの心』『私がつなぐ沖縄のククル(心)』(第三文明社刊)の発刊を受けたものです(長崎の被爆証言集『大切な青年と――未来につなぐナガサキの声』は来月下旬に発刊予定)。その模様を紹介します。

広島・長崎・沖縄の高校生が語り合う
 原爆投下、そして沖縄の地上戦――この世の「残酷」と「悲惨」の全てを、その目、その肌、その命に刻みながら、懸命に生き抜いてこられた方々がいます。
 


 被爆者の平均年齢は約83歳。戦争を知る世代の肉声に触れられる機会も減っているのが現実だといえるでしょう。今回の証言集の中には、コロナ禍の直前まで中学・高校生たちが体験者のもとへ足を運び、勉強や部活動の合間を縫って懸命にペンを走らせた内容も、少なくありません。
 


 そこには、未来部員一人一人の切実な思いがありました。“こうして直接お話を伺えるのは、これが最後かもしれない”と。
 


 終戦75年の夏を経て、これまでの労作業が一つの結実を見た今、未来部員たちは何を思い、感じているのでしょうか。


テーマ:体験者に聞き取りして自分自身が変わったこと
 「未来部ピースミーティング」のテーマは、「聞き取りをして自分自身が変わったこと」。広島・長崎・沖縄の代表6人が一人ずつ語っていきます。
 


 広島に住む義広さんは、15歳で被爆した婦人に聞き取りを行いました。婦人は当時、大勢の人たちが焼けただれた皮膚をぶら下げながら歩く姿を見て「地獄の行進じゃ……」と体を震わせたといいます。被爆したお母さんの体にも、無数のうじ虫が――。
 


 もう二度と思い出したくない。話したくもない。忘れよう、忘れようとしてきたけれど「時期が来たのでしょうね。実母も両親も兄や姉もみんな亡くなり、私も90歳になりました。生きている間に話しておこう」と婦人は思い、初めて口を開くことにしたそうです。
 


 広島で被爆3世として生まれ育った義広さんにとっても、実は被爆者の話を直接聞く機会は初めて。これまで学校でたくさんの平和教育を受けてきましたが、「それって、全部“受け身”だったんですよね。だから戦争も原爆も、どこか遠い世界の話のように受け止めていたかもしれません」。しかし今回は違いました。自ら積極的に質問をして、必死にメモも取りました。
 


 彼は言います。
 

「あの日から勉強や勤行・唱題の姿勢が変わりました。『平和を築ける自分になるため』という目的が、ハッキリしたからでしょうか。毎日の祈りにも力が入るようになったし、核兵器廃絶のために“自分の人生を使いたい”って思うようになったんです」

祈りをささげ
 長崎に住む健太郎さんも「自分が生まれた時には日本は平和だったし、戦争といっても漠然としていて、身近に感じられずにいた」と振り返ります。
 


 しかし、旧・城山国民学校6年生(12歳)の時に被爆したという壮年から聞いた話は、とても人ごとには思えない内容でした。約1500人いたとされる全校児童のうち、原爆投下から3カ月後の学校再開時に集まったのは、40人ほどだったそうです。その後も一人また一人と亡くなっていく級友たち……。2人の姉も原爆症で失いました。
 


 健太郎さんは、壮年から“平和とはどこか遠くにあるものではなく、身近な家族や友人たちと一緒に過ごせる日々にある”とのメッセージを受け取りました。そして心の中で“ささやかだけれど大きな変化”が生まれたといいます。
 


 それを実感したのは今年の8月9日。75年前に長崎へ原爆が投下された午前11時2分、黙とうが始まりました。例年であれば、ただ漠然と目を閉じていた1分間。けれど今年は違いました。原爆の犠牲になった一人一人の痛みに、人生に、少しでも心をはせようと真剣でした。犠牲者だけではありません。悲しみや後悔の念を背負いながら今日まで生きてきた方々にも、深い祈りをささげたのです。自分なりに、精いっぱい、“75年の重み”を凝縮した“1分間”――。ゆっくりと目を開けた瞬間、胸に込み上げるものがありました。

 沖縄の杏珠さんは、聞き取り取材の中で使ったB6サイズのメモ帳を画面越しに見せてくれました。「自分でも『こんなに書いてたんだ』って驚いて……」。11ページにわたり、隙間もないほど、びっしりと文字が詰まっています。
 


 その中でも、ひときわ力強い筆致で記されていた言葉は「魂が死んでいた」。これは沖縄戦で“地獄の中の地獄”を経験したという壮年に、彼女が「一番つらかったことは何ですか」と尋ねた際、その答えの中にあった一言だそうです。


 
壮年は目に悲しみの色をたたえながら言いました。「何もない。なぜかというとね、“魂が死んでいる”から家族が死んでも泣かなかったし、死体を見てもなんとも思わなかったんだ」
 


 戦争は人の心まで殺してしまう――杏珠さんは、この事実を自らの命にいつまでも消えぬよう強く深く書き付ける思いで、壮年の声に耳を傾けたのです。


 
歴史を振り返ると、未来部員の手による証言集の先駆けとなったのは、池田先生の提案を受けて沖縄の友が1976年に完成させた『血に染まるかりゆしの海――父母から受け継ぐ平和のたいまつ』でした。
 


 20世紀から21世紀へ受け継がれてきた“平和のたいまつ”は今、21世紀になって生を受けた未来部員たちの手に渡り、新たな広がりを見せようとしています。(㊦は29日付に掲載予定)


発刊された広島と沖縄の戦争・被爆証言集


 【出版案内】

『75――未来へつなぐヒロシマの心』は1200円(税込み)。

『私がつなぐ沖縄のククル(心)』は1650円(税込み)。


 いずれも全国の書店で購入・注文できます。聖教ブックストアでの電話注文も受け付け中。電話(0120)983563(午前9時~午後5時、土・日・祝日を除く)。

※支払いは代金引換のみ。FAXでの注文はできません。


 コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「HMV&BOOKS online」での注文、受け取りも可能です。







最終更新日  2020.10.22 11:03:29
2020.10.19

戦争・被爆証言集に共感広がる

 広島と沖縄、それぞれの男女未来部員の代表が中心となって聞き取りをした戦争・被爆証言集『75――未来へつなぐヒロシマの心』『私がつなぐ沖縄のククル(心)』に、共感が広がっている(共に第三文明社刊)。ここでは終戦75年の節目に未来部員による証言集が発刊された意義とともに、池田先生が未来部員に語った平和への指針を紹介する。なお、長崎の被爆証言集『大切な青年と――未来につなぐナガサキの声』も来月下旬に発刊される予定である。


未来部が「平和の心」の伝え手に
 「戦争を知らない子供たち」という言葉が流行したのは約半世紀前。1970年代前半のことだった。当時、ヒットを記録したフォークソングの曲名である。
 


 74年2月、沖縄を訪れた池田先生は中学・高校生の代表と懇談している。皆、戦後生まれのメンバーだ。
 


 先生は呼び掛けた。
 

「今、戦争の記憶が、社会から忘れ去られようとしている。だからこそ諸君には、21世紀のために、お父さん、お母さんたちの戦争の苦しみを、厳然と伝え残すべき使命と責任と義務があります」「書き残さなければ、真実は伝わらない」
 


 中高生たちは重たいテープレコーダーを抱え、証言の収集を開始した。何度も自宅に足を運び、ようやく重たい口を開いてくれた人もいたという。2年かけて声を集め、34人の証言を活字にした。76年に完成した証言集のタイトルは『血に染まるかりゆしの海――父母から受け継ぐ平和のたいまつ』。祖母に聞き取りを行ったメンバーの一人は、こう感想をつづっている。
 


 「『もし戦争が起ったら、私はその日のうちに死にたい』と叫ぶ祖母の声は、僕の胸に突きささりました。戦争を知らない僕ですが、これからの世界を平和な社会にするには、まず戦争のない世界をつくることからはじめる以外にない、と祖母の体験談に思ったのです」

沖縄の男女未来部員が戦争体験者の話に真剣に耳を傾ける(昨年3月)
 終戦75年の本年に発刊された証言集にも、未来部員が自らの声を寄せている。
 


 広島の男子未来部員は記した。

「学校で勉強することに慣れ、平和に慣れている僕たちにとって、平和の大切さが分かりづらくなっている。だからこそ、被爆者の心を知り、戦争の悲惨さを学ぶことが大切なのだと思いました」
 


 長崎の女子未来部員は聞き取り後、その被爆証言を友人に話したという。被爆者の痛みを自分なりに感じようとする友の姿を見て、未来部員は「(被爆者の)話を直接聞いたかどうかよりも、受け止める側の心のほうが大切なのだと気付かされました」と書いた。
 


 戦争を知らなくとも、証言や記録を通して、戦争の愚かさや恐ろしさを学ぶことはできる。生命の尊さをかみ締めることもできる。
 


 「戦争を語り伝える営み」とは、単に証言者の言葉を伝言のようにリレーすることではない。体験者の“心”を受け取り、「戦争とは? 平和とは?」と自らが考え抜いた思いを言葉にして伝え、書き残し、未来につなげる作業であろう。
 


 本紙では今後、証言集の作成に携わった広島、長崎、沖縄の未来部員の代表が思いを語り合う「未来部ピースミーティング」の模様を、上下2回にわたり掲載していく(22日付、29日付の予定)。

発刊された戦争・被爆証言集『75――未来へつなぐヒロシマの心』『私がつなぐ沖縄のククル(心)』(第三文明社刊)


【出版案内】

『75――未来へつなぐヒロシマの心』は1200円(税込み)。『私がつなぐ沖縄のククル(心)』は1650円(税込み)。


 いずれも全国の書店で購入・注文できます。聖教ブックストアでの電話注文も受け付け中。

   電話(0120)983563(午前9時~午後5時、土・日・祝日を除く)。

 ※支払いは代金引換のみ。FAXでの注文はできません。


 コンビニ通販サイト「セブンネットショッピング」「HMV&BOOKS online」での注文、受け取りも可能です。 


池田先生の指針――すべては自分の勇気から!
 戦争は、始まってしまえば、悲劇しかありません。「平和を築くための戦争」なんて、私は信じない。戦争が終わっても、地獄の苦しみは、ずっと続きます。わが家だけでなく日本中の多くの家族が、その苦しみを味わいました。それは、アジアでも、世界でも。


 
ゆえに、戦争は絶対悪なのです。私は戦争を心から憎みます。
 戦争を引き起こす魔性を断じて許さない――私は、こう誓ったのです。
 


                   ◆◇◆ 
 


 「平和」とは、何なのか――そうやって考えていく、若き誠実な心こそ、平和の源泉です。今は、はっきりと分からなくとも、粘り強く求め続けていくことが、平和の波を起こすんです。



 戦争の本質は「暴力」です。国や民族の間の大きな争いから、「いじめ」にいたるまで、現実には有形無形の暴力がある。ゆえに、「いじめ」をなくそうと祈り、努力する君は、すでに平和の創造者です。平和は、自分の勇気から始められるのです。



 政治や外交、経済の次元などで平和を考えるのも、もちろん大事でしょう。しかし、それを動かしているのは、人間です。「平和」をつくるのは「人間」です。



 結局は、一人ひとりの「平和の心」を育む以外に、平和への確かな道はありません。
 


                   ◆◇◆ 
 


 私の恩師・戸田城聖先生は、悪に対しては、それはそれは激しく憤怒された。なかんずく、最も正しく、最も偉大な師匠・牧口常三郎先生を獄死させた軍国主義への怒りは、烈々たるものでした。



 この正義の怒りに貫かれた「原水爆禁止宣言」が、私たちの平和運動の大いなる原点です。



 1957年(昭和32年)9月8日、神奈川で開催された青年部の体育大会で、戸田先生は不滅の宣言を発表されたのです。



 先生は断言されました。「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」



 あらゆる戦争や核兵器は、人間の心の中に潜む魔性の現れであると、先生は見抜いておられました。その魔性を打ち砕いて、民衆の生命を守り抜くために、ご自身の命をかけて師子吼されたのです。



 そして、この「核兵器を使用した者は魔物である」という思想を世界に広めゆく大使命を、青年に託されました。
 


                   ◆◇◆ 


 
みんなが今、できることは、決して「少し」なんかじゃありません。むしろ、貴重な青春時代だからこそ、直接、たくさんの平和を築くことができる。
 


 それは、なぜか――。



 「友情」が平和の力だからです。

 「親孝行」が平和の源だからです。

 「勉学」が平和の光だからです。



 君が友達と励まし合い、良い友情を築いた分、平和は前進します。



 あなたが成長し、ご両親に喜んでもらった分、平和は広がります。



 みんなが徹して学び、民衆を守る力をつけていった分、世界を平和で照らしていけるのです。(『未来対話』より)







最終更新日  2020.10.19 11:07:27
2020.08.27

​〈青年部主催〉被爆証言を聞く会から
日本被団協事務局長 木戸季市(きどすえいち)さん​


 青年部主催の「オンライン証言を聞く会」の第5回が23日に開かれ、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局長で、長崎で被爆した木戸季市さんが体験を語った。要旨を紹介する。
                   ◇
 今年1月、私は80歳になりました。自分の人生の原点、出発点は何だろうかと改めて考え、やはり一つは被爆体験だろうと思うようになりました。
 私は、自分が3度、被爆者になったと思っています。
 1度目は、1945年8月9日です。
 私は爆心地から南に約2キロの自宅前の路上で被爆しました。母と近所の人たちと共に、配給を受け取りにいくところでした。
 飛行機の音が響き、一人が“おかしいね。アメリカの飛行機みたいだ”と言いました。音のする方を見上げた瞬間、ピカっと強烈な光を浴び、私は20メートルほど爆風で吹き飛ばされて気を失いました。母の呼び声で意識を取り戻し、稲佐山(いなさやま)の防空壕に避難しました。


 私は顔の左半分に、母は顔一面と胸にやけどを負いました。間もなくやけどした箇所が腫れ上がり、母は何も見えない状態になりました。旧市街に行っていた父が戻ってきて、私たちを見つけるなり「無事でよかった」と言いました。無事とはとうてい言いがたい状態でしたが、防空壕にたどり着くまでに見た光景が、父にそのような言葉を言わせたのでしょう。


 翌10日、浦上川右岸の道を(爆心地から約3・5キロの)道ノ尾まで避難しました。母は戸板に乗せられ、私は作業用のかごで運ばれました。そこで見たのは“何もない”街。ただ真っ黒だったという記憶が残っています。
 爆心地に近づくにつれ、至る所に死体が目に入り、水を求める人々の声が聞こえてきました。浦上川には、水を求めてきた人たちの死体が、水を求める姿そのままで折り重なっていました。
 私たちは一戸建ての家に避難することができました。その家には足が焼け、骨が見えているお嬢さんもいました。お嬢さんは苦しさから、私の母に“おばさん、カミソリをください”と言いました。死のうとしていたのです。母が“命を粗末にしてはいけないよ”と諭(さと)していたことを覚えています。
 私も40度を超える高熱を出し、下痢や歯茎から出血しました。
 以上が1度目です。


 しかし当時は5歳でしたから、あの時、何が起きたのか実はよく分かっていませんでした。吹き飛ばされて気絶した後、目が覚めて最初に目にしたのは町工場のドラム缶が散乱した光景でしたので、近所のドラム缶が爆発したのだと思っていたくらいです。


 2度目は、52年8月のことです。
 原爆に関する報道規制が解かれ、「アサヒグラフ」が原爆被害を伝える特集を紹介しました。この時に初めて、私は自分が被爆者なのだと知りました。“被爆者は白血病で死ぬ”“肢体の不自由な子どもを産む”などと言われ、強い不安と恐怖に襲われるようになりました。
 高校時代は“広島と長崎以外では、被爆者であることを語るな”と言われたこともありました。隠す気はないけれど、自分が被爆者だということは、なかなか言えない。大学3年生の時に初めて最も親しい友人に打ち明けたのですが、本当にエネルギーがいることでした。


 一方、大学で学ぶ中で、どんなに難しく見えても解決できない課題はない、人間は必ず原爆に打ち勝つことができるのだと思うようになりました。そして“どんなに限られた記憶であっても、自分は被爆体験を自分の言葉で話すことができる最後の世代。いずれ何か行動を起こさなくてはいけない時がくるだろう”と考えるようになったのです。


 3度目に被爆者となったのは、91年5月からです。
 岐阜県で被爆者の会を結成し、私は事務局長に就任。日本被団協でも活動するようになり、被爆者運動に参加するようになりました。被爆者としての生き方を教えられ、被爆者になってきた時期です。
 
もう二度と被爆者をつくるな
 原爆は、広島と長崎を一瞬で死の街に変えました。私たちが身をもって体験した地獄の苦しみを、二度と誰にも味わわせたくありません。
 「ふたたび被爆者をつくるな」は、被爆者の命を懸けた訴えです。核兵器は絶対に許してはなりません。
 被爆75年を迎えて、私たちは今、危機の時代を生きています。
 広島、長崎は過去の話でも、被爆者だけの話でもありません。核兵器の問題は、現在を生きている全ての人々が今後も生き続けることができるかを問い掛けている、いわば未来に関わる問題です。
 核兵器を取り巻く状況は今も非常に深刻ですが、核兵器の廃絶は希望の次元から現実の課題の次元になってきたと感じています。皆で力を合わせ、核兵器のない世界を実現したいと願っています。


(2020年8月27日 聖教新聞)







最終更新日  2020.08.28 00:23:52
2020.08.13

〈未来部育成のページ〉​ 戦争・被爆体験を聞いた未来部員の声​

​​ 終戦・被爆から75年の今月、未来部員の代表がオンラインで行われた広島・長崎の被爆証言会に参加した。今秋には沖縄・広島・長崎で、未来部員が青年部員と共に聞き取りをした、戦争・被爆体験者の証言集が発刊される予定だ。一人一人が“聞き手”から“伝え手”へ――。ここでは「オンライン証言を聞く会」に参加した証言者と未来部員、そして戦争体験を取材した沖縄のメンバーの声を紹介する。


【沖縄】中学3年・廣瀬心優さん
信心は平和に直結する
 昨年の3月、高安ハツ子さんの家に沖縄戦の話を聞きに行きました。初めてお会いしたのに、高安さんは私のほおに手を当てて「よく来てくれたね」と、優しく語り掛けてくださいました。
 話の途中も、「さっき言ったアダンの木って分かる? 海沿いに生えているチクチクする木だよ」など、私が理解できるように気を配ってくださり、伝えたいという思いを感じました。
 私と同じ年頃に戦争に巻き込まれた高安さんは、砲弾や銃弾の中を家族と共に、沖縄本島の南へと逃れていったそうです。
 行き着いた先は、島の南端にある喜屋武岬(きゃんみさき)。逃げ場を失い、アダンの木の下に隠れているところをアメリカ兵に見つかり、捕虜(ほりょ)になったそうです。
 奇跡的にご家族は全員無事だったそうですが、一度、お父さんとお兄さんがどこかへ連れて行かれ、家族がバラバラになってしまったそうです。その話の途中では、声を詰まらせていました。
 学会に入ってからの信仰体験の話では、信心は平和に直結することも学びました。
 私は、曽祖父母には、沖縄戦の嫌な記憶を思い出させるのは悪いと思い、聞くことができなかったのですが、高安さんから話を聞く機会を頂き、戦争の恐怖を身近に感じることができました。
 その後、授業で沖縄戦の調べ物をした時は、より真剣に取り組むなど、意識が変わりました。鼓笛隊にも入り、今は信心と練習にも励んでいます。
 高安さんは話の最後に、「勉強と勤行をしっかりしてね。未来の沖縄をよくしていくのは、あなたたちだから」「また会おうね」との言葉を掛けてくださいました。
 高安さんの心を受け継ぎ、誰にでも優しく、頼られる自分になっていきます。​

​​
証言者から未来部へ
【広島】松浦悦子さん
「魔性の心」を打ち砕く


 夏になると皺(しわ)のない両足の皮膚が痒(かゆ)くなり、あの頃を思い出します。私は話さずにはいられません。今も平和記念公園や地域の会合に行って被爆体験を語り、平和の心を伝えています。6日の証言会も、初めてのオンラインで緊張しましたが、思いが伝わるように祈りながら話しました。
 参加者には未来部のメンバーもいらっしゃいました。私も未来部世代の17歳で学会に入り、信心を通して、偏見や原爆症におびえる自分を変えることができました。
 戦争には勝者も敗者もありません。互いの心に深い傷が残るだけです。その戦争を引き起こす「魔性の心」を打ち砕くのが、信心の戦いだと思います。
 未来部の皆さんは、これからいろんな人と出会うと思いますが、相手との「違い」を拒絶することなく、尊重し、理解し合うことを心掛けてほしい。そして、誰とでも話ができ、仲良くなれる心の豊かな人になってください。
 平和といっても、どこか遠くにあるのではありません。身近な日々の生活の中にあります。命を大切にし、清らかに育んでいくことで、平和は築かれていくのです。


 <プロフィル>
 まつうら・えつこ 婦人部副本部長。7歳の時に広島で入市被爆。「大思想は原爆を怖れじ」との池田先生の生命尊厳の思想を胸に、本紙通信員として被爆体験などを多く取材。61年たった今も健筆をふるう。​​


松浦さんの証言を聞いて
 岡山・高校2年 坂手青葉さん
 松浦さんのお話で、校庭で死体を焼き、校舎の靴箱に遺骨が置かれたとありましたが、衝撃でした。ここまで具体的な話を聞いたことがなかったからです。
 松浦さんが目にされた光景は、忘れたくても忘れられない、つらい記憶だと思います。でも、学会と巡り合い、それを語ることに自身の使命を見いだし、きょうまで歩んでくることができたと語られていて、同じ学会員として勇気と誇りを感じました。
 僕の「青葉」という名前は、小説『新・人間革命』の「青葉」の章から付けたと両親から聞きました。その章には「平和といっても、人間と人間の心の結びつきを抜きにしては成り立ちません」と書かれています。
 今回の経験を通して、自分の名前にふさわしい、“世界の人々を友情で結ぶ人”に成長していきたいと強く思いました。


証言者から未来部へ
【長崎】梅林二也さん
核兵器廃絶へ師の心を実践


 私は10歳の時に、長崎の爆心地から約4・5キロの場所で被爆しました。両親や下のきょうだいたちは広島で被爆しました。
 今回、自分の体験を未来部の方にお話しするのは初めてです。ですから9日の証言会には、これからの時代の主役である皆さんに、平和のたいまつを託し、核兵器のない世界を必ずや実現してほしいとの願いを込め、真剣に祈って臨みました。
 私は、20歳の時に入会し、戸田先生の「原水爆禁止宣言」を直接聞くことができました。被爆を経験した一人の仏法者として、そして、戸田先生、池田先生の弟子として、師の心をどれだけ実践できるかを常に考えて行動してきました。被爆証言は、その一つです。
 被爆当時のことを思い出すのは、今でもつらく、話したくないのは事実です。しかし、“核兵器という絶対悪を断じて許さない”“同じ過ちを二度と繰り返してはならない”との戸田先生、池田先生の熱願が、私の背中を強く押す原動力です。
 平和は与えられるものではありません。どうか、未来部の皆さんも、池田先生の心を学び、世界の平和のために行動できる人に成長していってください。​


 <プロフィル>
 うめばやし・つぎや 参議。10歳の時に被爆。体のだるさなどの症状に見舞われる。20歳で入会し、長崎で教員を務めた後、学会本部職員に。長崎創価学会の草創のリーダーとして平和社会の建設に尽力してきた。


梅林さんの証言を聞いて
 鹿児島・中学2年 矢野悠貴さん
 以前、戦時中の祖父母の話を聞きました。教師の前で「キャラメルが食べたい」と言ったら「ぜいたくを言うな!」と怒られたこと。特攻隊員として生き延びたことを恥じたことなど、市民と兵隊の両方の気持ちを知りました。
 今回は、直接聞いたことがなかった被爆者の方の思いを知ることができました。小学生の頃、長崎原爆資料館を見学した時は、怖さばかりが心に残りましたが、梅林さんのお話を伺い、戦争も核兵器も絶対にダメだということ、信心は平和のためにあることを深く学びました。
 終了後、一緒に見ていた母から感想を聞かれたので「自分の発言や行動に責任を持つ」と答えました。最近見掛けた友達のけんかの話にもなり、「そういうことも止めていくことが大事」と語り合いました。身近なところから平和への行動を起こしていきます。

「オンライン証言を聞く会」参加者の声


広島・高校2年 松永あやなさん
 原爆被害の悲惨さや被爆者への差別の話を聞き、胸が苦しくなりました。松浦さんが悲しみを乗り越え、平和を伝えようと、聖教新聞の通信員として活躍されていることは、とても素晴らしいと思います。私も、誰に対しても優しく、思いやりのある振る舞いを通して、平和の心を広げていきたいです。


鳥取・高校2年 永見 蓮さん
 世界中の人が被爆者の話に耳を傾け、その現実を知ることができれば、きっと戦争をなくせると思いました。『未来対話』を読み、池田先生が、核兵器や戦争をなくすために信念を貫かれた識者の方々と、信頼を結ばれてきたことを学びました。僕も世界の争いを平和に解決し、正義を証明する人になっていきます。


島根・高校2年 両見響妃さん
 今回、被爆証言を視聴し、平和に対する考え方を見つめ直したいと思いました。今の私は戦争とは無縁の環境にいますが、世界では今もどこかで戦争が起きています。「苦しんでいる人がいる」という想像力を常に持ちながら、戸田先生、池田先生の精神を受け継ぎ、戦争のない世界の建設に貢献したいです。


福岡・高校2年 岡 大地さん
 「目の前のことに挑戦しながら、自分の使命を見つけてほしい」との梅林さんのエールに感動しました。声にも優しさや力強さがあります。戦争の悲惨さを身にしみて感じ、それを一人でも多くの人に伝えたいからだと思いました。そうした方々の思いを、これから友人に語っていこうと決意しました。


佐賀・高校1年 山崎良美さん
 核兵器は絶対悪だと強く感じました。なくすためにできることは何か――小学校でいじめを受けた私にとっての答えは、思いやりの心を持つことです。コロナ禍の今は、募金活動や教室内の消毒など、今の自分にできることをしています。今後もさらに人の役に立てるよう、成長していきたいです。


大分・中学2年 岩男さくらさん
 原爆に怒りと悲しみを感じました。戦争をなくすには友情の対話が大切だと思います。以前、勇気を出して友達に声を掛け、仲良くなれたことがあります。お題目を唱えると、そういう気持ちが出てきます。証言会では、祈りから平和が始まると、さらに深く感じました。今回の話を友達に伝えていきたいと思います。


 感想はこちら→ikusei@seikyo-np.jp


( 2020年8月13日  聖教新聞)







最終更新日  2020.08.13 14:02:25
2020.08.07
広島の原爆投下75年 女性平和委員会と青年部が被爆体験を聞く会
各家庭で全ての犠牲者を追善 

原爆投下から75年 未来へつなぐヒロシマの心 創価学会広島青年部制作 ​ 3:09

 広島に人類史上初めて原爆が投下され、75年となった6日、広島をはじめ全国の各家庭で、投下時刻の午前8時15分を中心に、全ての核兵器と核実験の犠牲者を追善し、核廃絶を誓う祈りがささげられた。
 
 広島では同日夜、婦人部の広島女性平和委員会と青年部がそれぞれ、“被爆体験を聞く会”を開催し、オンラインで発信した。

婦人部の集いで講演した上土井さん。広島女性平和委員会の渡辺委員長、桜尾総広島婦人部長があいさつした
青年部の集いで75年前の被爆体験を語る松浦さん。広島青年部の代表による原爆被害の研究発表も行われた

 広島女性平和委員会が主催する集いでは、6歳で被爆した上土井多子さんが証言した。
 
 上土井さんは、直接の被爆は免れたものの、母と共に負傷者を介抱して二次被爆した。大八車いっぱいに積まれた遺体が川の中州に投げるように置かれ、焼かれた光景と臭いが忘れられないという。
 
 長く胸にしまい込んでいたが、5年前に初めて被爆体験を人に話すようになった。自宅の庭で開く毎年恒例の「そうめん流し」の集いでも、近隣の友人や海外の青年を交え、平和への思いを伝えている。
 
 最後に上土井さんは、「核兵器廃絶に向けた“ヒロシマの心”を世界中に広げていってほしい」と望んだ。
 
 青年部主催の集いでは、松浦悦子さんが証言した。
 
 原爆が投下された3日後、疎開先から市内の自宅に戻り、被爆した松浦さん。体に対する影響への不安や被爆者に向けられる差別に苦しみ続けてきた体験を語り、「皆さんの手で核兵器のない世界を築いてほしい」と呼び掛けた。

広島青年部の代表が原爆死没者慰霊碑に献花し、犠牲者の冥福を祈念した(7月31日、広島市の平和記念公園で)
 被爆75年の本年、広島創価学会は被爆体験の継承と核兵器廃絶を目指すさまざまな取り組みを推進している。
 
 7月31日には、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に、約40年にわたって聞き取り・収録を行ってきた被爆証言の映像と音声、合わせて164点を寄贈。
 
 広島青年部の代表は同日、不戦の誓いを込めて、広島市にある平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。
 
 中国方面学生部は25回目となる「学生平和意識調査」を行った。
 
 戦争・被爆証言集の発刊も、長崎や沖縄と共に今秋に予定。核兵器廃絶という責務を果たすその日まで、友は「ヒロシマの声」を世界に届け続けていく。

証言会がSOKAnetに追加
 7月に行われた青年部の第1回オンライン証言会(沖縄)の模様が、学会公式ホームページ「SOKAnet」の特設ページに追加された。(​特設ページはこちら​)
(2020年8月7日 聖教新聞)






最終更新日  2020.08.09 00:42:51
2020.08.05

青年部主催 第1回 戦争証言を聞く会(オンライン)から 沖縄県 仲程シゲさん

 青年部がオンラインで実施している戦争・被爆証言を聞く会の第1回が7月19日に開催され、沖縄在住の仲程(なかほど)シゲさん(90)=支部副婦人部長=が戦争体験を語った。要旨を紹介する。
                    ◇ 
 沖縄戦の時は、数え年で16歳でした。1944年8月、2学期が始まる頃、沖縄に10万人の兵隊が来ることになりました。そんなに兵隊が入れるところはないから、私が通っていた学校(大里第二国民学校)も兵舎に取られました。私たち生徒は交代で兵隊の炊事用の水くみをしました。

 翌45年3月ごろから空襲がひどくなってきました。大里村(現・南城市)にあった私の家にも兵隊がやって来て、重砲隊の本部になりました。屋敷や納屋に、弾薬が入った木箱が次々と積まれました。

 3月23日から大空襲が始まりましてね。わが家にいた兵隊たちは、「第一線突入!」と言って出て行ったんです。その時に二人から遺言を頼まれました。
 「シゲちゃん、僕らは軍人だから、生きて帰る望みはない。故郷には家族がいる。もしあなたが生きて元気だったら、僕の消息を告げてくれないか」と。

 それから私たち家族も防空壕生活が始まりました。何万発にも思える爆弾が落ちてきて、そこに水がたまって周囲はため池みたいになりました。
 昼に炊事すると煙が出て攻撃されるので、戦闘機が飛ばない夜に炊きました。日中は身を潜めて、モグラのような生活でした。

戦争は人間の心まで奪ってしまう
 <4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。攻撃は激しさを増した。5月に入ると、米軍が目の前に迫った>
 
 兵隊たちは「5月27日は海軍記念日だから、絶対に勝つ」と言うんです。でも実際は、敵はもう目の前。全部うそでした。
 5月29日、防空壕を出て避難することにしました。わが家には私と母と弟二人の他に、親戚の姉妹がいました。でも、ポリオ(小児まひ)で歩けないから置いて逃げてきてしまった。毎日が死の恐怖と隣り合わせでしたから、その後、二人のことは忘れてしまいました。戦争は、人間の心まで奪います。人間じゃなくなります。
  
 <シゲさんは今も、この姉妹を残していったことを後悔しているという。その後、玉城(たまぐすく)、具志頭(ぐしかみ)、糸満(いとまん)と転々と避難する生活を強いられた>
 
 6月19日、真栄里(まえざと)(現・糸満市)で壕を掘り、身を潜めていた時に米軍の戦車が壕の前に来ました。
 そうしたら親戚のおじさんが「敵軍にやられるより自分たちで死んだ方がましだ」と言って、手りゅう弾を手にしたんです。母はおじさんの手首をにぎって、「いくらなんでも、この子どもたちを殺せるか」と、諭しました。この時の母の行動がなければ、私は今ここにいません。

 <恐怖におびえながら必死で逃げた。6月20日に、現在、平和祈念公園がある摩文仁(まぶに)付近に到着する。すると近くで爆発が起きた>
 
 水をくみに行こうとしたら、近くに砲弾が落ちました。眉間に破片が刺さり、顔中、血だらけになりました。母は私が死んでしまったと思ったそうです。
 
 21日、摩文仁の丘で逃げ場を失った時に、若い兵隊さんが「皆さん、このままでは生きていけない。米軍には食べ物もあるから、男はふんどし一本、女は荷物を置いて捕虜になろう」と呼び掛けたんです。
 すると日本兵二人が出てきましてね。「こんなばかがいるから戦争に負けるんだ」と、日本刀でその人の首を斬ったんです。
 
 私たちはとっさに荷物を置いて、崖から海岸へ逃げました。海岸では死んだ赤ちゃんが波に揺られていました。あたりは死体の山。水牛のようにおなかが膨れた人や真っ黒に焦げて男女の区別もつかない人、はえやウジでいっぱいでした。本当に地獄でした。
 
 母はどうしても故郷に帰りたいと言うのですが、私はケガで歩けません。「どうせ死ぬんでしょ。このガマ(洞窟)で一人で死ぬ」と言う私に、母は、「生きても死んでも親子は一緒。あんたを置いてどうして行けるか」と言って私を叱りつけました。
 
 母にお尻を持ち上げられ必死で崖を登りましたが、丘に着くと、あたり一面、死体でいっぱいでした。仕方なく、もといたガマに戻りました。そこで死ぬつもりだったんです。
 そうしたらガマにいた日本兵の将校らしき人が「米軍は住民を殺さない。捕虜になりましょう」と言うので、ガマを出ました。そこで米軍に保護されました。その人のおかげで生きられたんです。

「沖縄慰霊の日」である6月23日、沖縄青年部の代表が「平和の礎(いしじ)」に献花し、祈りを捧げた

命の大切さを後世に伝えてほしい
 戦争は本当に残酷です。「命(ぬち)どぅ宝(たから)」(命こそ宝)です。全国の皆さんに戦争体験をこうして語れるのも、命があるからです。生きていて本当に良かったと思います。
 あの戦争で、同級生も恩師も皆、亡くなりました。どうか私の体験を全国の皆さんに、次の方に伝えていってください。


(2020年8月5日 聖教新聞)







最終更新日  2020.08.16 10:23:57
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