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若き指導者は勝った(全18回・完)

2009/03/04
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若き指導者は勝った
池田大作 --- その行動と軌跡 第18回
大阪の戦い 6


池田先生に育てられた大恩を永遠に忘れない
これが常勝の原点となった


 
 仕事と生活に勝て

 「大阪の戦い」も終盤。
 池田大作室長は外出から関西本部へ戻る途中、一軒の家に立ち寄った。
 以前から心配していた幹部の家である。どこか我流で、和を乱すことがあった。
 訪ねてみると、のんきに家でゆっくりしていた。室長は表情を曇らせた。
 「すみません。ちょっと、家の用事があって......」
 「分かります。用事があるのが当然です。しかし、みんな状況は同じです。時間を工夫し、団結して戦おうと努力しているのです」
 全軍をあげて前進しているさなかである。その土ぼこりに身を隠し、要領よく手を抜こうとする性根を厳しくただした。
 また、ある夜、関西本部で、男子部の幹部に声をかけた。「君は、きょう会合があったんじゃないのかい」
 彼は口ごもった。担当する組織の会合があったが、自分の"出番"はないから、休んでいた。
 組織にあぐらをかいてはいけない。魚も頭から腐る。
 「とんでもない! 大切な同志が集まっている。今すぐ行きなさい!」
 靴を手に、ほうほうの体で駆け出した。
 別の折。大阪駅に近い畳屋の井西宅に東京からの派遣幹部が集まった。
 打ち合わせを終えると、一人の青年を呼んだ。
 ギッと厳しく見据える。
 「ずっとこっちにいるね。仕事は、どうしたんだ」
 あれこれ言い訳をする。
 「手はキッチリと打っています」
 「ウソをつくな! 東京に帰って、ちゃんと仕事をしなさい」
 すべて見抜かれていた。
 「どうか、ここで戦わせてください」
 「ダメです。今すぐ帰りなさい!」
 その場に居合わせた大阪市北区の国重睦子は、胸が熱くなった。こんなに厳しい室長を見るのは、初めてである。
 たとえ白木が勝っても、自分自身が生活に負けてしまったら惨敗だ。
 いいかげんで、中途半端のまま、いてもらっては、士気を下げるだけである。
 室長は甘えを許さない。徹頭徹尾「自分に勝つ」ことを教えた。
 青年は東京に戻り、仕事を立て直してから、再び戦線に復帰。まるで別人のような動きを見せた。

 昭和三十一年(一九五六年)七月八日の日曜日。
 参議院選挙の投票日である。午後六時の投票締め切りを受け、立花仁六宅では集計に追われていた。
 ようやく報告を終わり、立花は住み込みの従業員たちと夕食をとり始めた。このところ忙しかったので、久しぶりの晩酌である。
 空きっ腹に冷たいビール。すぐに顔が真っ赤になった。
 と、その時である。「ごめんください」。聞き覚えのある声。池田室長が、白木義一郎や地区部長を連れてねぎらいにきてくれた。
 「おっ、前祝いかい?」
 妻の丸子があわてて片付けようとしたが、室長は「いいんだ、そのままで」。
 少し酔った勢いで立花が室長にビールを勧めると、コップを手にとってくれた。まったく飲めない室長である。一同は腰を抜かすほど驚いた。
 「みんな、本当にありがとう。勝たせてもらった。勝たせてもらったよ」
 立花は、きょとんとした。「あれ、室長、開票は明日でっせ。そんなん分かりまへんがな」
 室長の目は、自信に満ちていた。

 まさかが実現

 翌日、池田室長の言葉は現実となった。
 白木の得票数は、二一万八九一五票。
 次点に四万余の大差をつけ、第三位で当選した。世の中がアツと驚いた。
 朝日新聞では「"まさか"が実現」という見出しで報じられた。痛快な勝利である。一方、東京地方区。
 二〇万三六二三票を獲得したものの、残念ながら次点で敗れた。
 東京の総責任者は、石田次男だった。この敗北が戸田城聖会長の死期を早めたとする声もある。
 しかし、その一方で、戸田会長は未来への光明も見たにちがいない。
 なぜならば、室長は師から得たすべてを「大阪の戦い」でいかんなく発揮したからである。戸田大学や、水滸会で受けた指南が、勝利の兵法であったことを現実の上で証明した。
 東京の敗北に憤ったことは確かだが、それ以上の希望の光があった。

 大阪の勝利がもたらしたものは何か──
 「この人と一緒なら、どんな戦いにも勝てる」という強烈な確信である。
 それは世代を超え、伝えられていく。ここに大阪の強さの秘けつがある。
 大阪での約半年間、室長は訪問指導だけで八千人と会った。その足跡を取材班が赤ペンでマークすると、大阪の地図は、ほぼ真っ赤に塗りつぶされた。
 室長が誰よりも先頭に立って行動したことで、幹部が動く大阪になった。
 室長が会員と同じ目線で語ったことで、いばる幹部を許さない大阪になった。
 室長が愉快に前進の指揮を執ったことで、楽しい大阪になった。
 真っ赤な地図の上に、理想の組織が見えるようだった。

 豆タンクのニックネームで慕われたのが、地区部長の岡本富夫(梅田地区)である。
 猪突猛進タイプ。
 大阪の戦いで張り切りすぎ、いつの間にか商売が傾きかけていた。家族の間も、ぎすぎすしている。自分のことが全く見えない。
 そんな時、一枚の葉書が届く。差出人を見て驚いた。
 池田室長からである。
 「世紀の大法戦 広布の大将軍として 光輝ある指揮をとられよ」と記された後に、こう書かれていた。
 「仕事と夫人を大切に」
 岡本は、自分の頭をぽかんと殴りたい思いだった。アホなことしてしもうた……。
 室長は、お見通しだ。申し訳ない。商売や家のことまで心配をかけてしまった。
 心を入れ替えた岡本は家族に頭を下げた。
 ある夜、大きな紙を取り出し、字を書き始めた。
 「ええか、これは我が家の家訓や」
 仏壇の横の古い壁に画鋲でとめ、読みあげた。
 「池田先生によって育てていただいた我が岡本家は、この御恩を生涯、忘れてはならない……末代までこのことを語り伝え、厳守せよ」
 字は少々へたくそだが、声には気合いがこもっていた。関西の金同志の心を代弁していると言ってよい。
 池田室長によって生きがいを知った。真に正しい人生の道とは何かを教えてもらった。この「大恩」を関西は永遠に忘れない。

 最後に「大阪の戦い」の今日的意義について、一言つけ加えておきたい。
 明治以降に伸びた、いわゆる新宗教の分布を見ると、その多くが、発祥の地に教勢が片寄っている。
 日本列島は小さいようでいて、歴史や風土や人の気質は、それぞれの地域で大きく異なる。宗教を受け入れる土壌もまた然りである。
 教団の生まれた本拠地では強いが、他方面への展開は苦手。やがて外に拡大するエネルギー自体が失われていく。
 奈良の天理教なら西日本、東京の立正佼成会なら東日本に勢力の中心があった。
 目に見えない壁がある。
 では、創価学会は、どうであったか。
 先述したように、戸田城聖第二代会長が誕生するまで、学会員は首都圏の十二支部に所属していた。東京を中心とする教団になってしまう可能性もあった。
 しかし昭和三十一年の「大阪の戦い」で、大阪・堺支部の会員は、中国、四国、九州へ一気に広がり、西日本全域に学会員が増大する。
 壁は破れたのである。
 創価学会は、日本の東にも西にも強い、きわめて例外的な宗教団体となった。
 やがて、SGI(創価学会インタナショナル)として、全世界へ伸びていく基盤が、整ったのである。
 池田大作青年という一人の若き指導者によって、戸田会長は勝った。そして学会という一大民衆勢力もまた勝ったのである。    (完)

時代と背景
 「まさか」とマスコミも白木の当選に驚いたが、既成政党への批判票が集まったと分析している程度で、躍進の真の背景を見極める論調は皆無だった。しかし、今日、池田SGI会長を研究する世界中の識者が、大阪の勝利に着目している。
 北京大学「池田大作研究会」の價恵萱(かけいけん)前会長も大阪を訪れて語った。「関西の一大牙城は、大阪城のように、堂々とそびえ立っています」

2009年2月4日付 聖教新聞






Last updated  2009/03/22 07:12:58 PM
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若き指導者は勝った
池田大作──その行動と軌跡 第17回
大阪の戦い 5

きょうは これで 二十四ヵ所目だ
関西の友がいるところどこまでも走った

 

 鬼神も泣かむ闘争

 大阪市西成区に坂本堅という大工がいた。
 昭和三十一年(一九五六年)六月、関西本部で青年部の責任者会に参加した。
 各区から順調な報告が続く。坂本のところは他の半分あるかないかである。順番がきて立ち上がり「地区の班長もしてますんで......」と言葉をにごした。
 要するに青年部だけでなく、地区の立場もあるので大変だと弁解したのである。
 「それならば、班長の資格はない!」
 池田大作室長の大喝が響いた。周りから「三階の広間が揺れたで」と言われたぐらいの迫力だった。
 「やらせてください!」。食い下がった。
 「だめだ!」
 やりとりは、五、六回も続いた。
 室長は数字が伸び悩んでいることを叱ったのではない。青年らしくない、ごまかし、言い訳、逃げの姿勢。その心底を戒めたかったのである。
 坂本は、その場に座り込み、おろおろするうちに会合が終わってしまった。
 中央の通路を退場していく室長の前に飛び出す。もう一度「やらせてください!」。頭を下げた。
 坂本の表情に変化を見て取ったのか「ついてきなさい」と短く言った。
 広間を出て、廊下をへだてた応接室へ。「座りなさい」。池田室長に促された坂本は身を縮めた。ああ、またタコ釣られる......。
 生まれ故郷の香川県・小豆島の言葉で、叱られるという意味だ。
 ところが池田室長は何も言わない。手に持った白扇を広げて、さらさらと筆で何か書き「これを持って頑張りなさい。今の君ならできます!」と渡した。
 「鬼神も泣かむ 斗争たらんことを 君の健斗を祈る」
 坂本は扇子を手に、西成じゆうを駆け回った。

 「大阪の戦い」では広い府内を五つの管区にした。大阪市内を、北と南に二分する。
 それ以外を、三管区に分割した。いわゆる「北摂・北河内」「中・南河内」「堺・和泉」の三つである。
 この三管区は、それぞれ豊中市、布施市(東大阪市の一部)、堺市が中心である。
 室長は、ここにも力を入れた。大阪の周辺部から勢いをつける。
 序盤戦、豊中南部で活動する出口清一。厳しい現状をぼやいた。
 「明日、行ってあげよう」
 室長は、バイクの後ろにまたがり、十数キロ。野菜や魚の安売りでごった返す豊南市場を通り過ぎる。阪急・庄内駅近くの拠点に着いた。
 会えたのは、たった三人。しかし、目の前にいる三人に全魂を傾けた。
 後日、豊中駅前の拠点にも現れた。「ごめんやす」。大阪弁に、どっとわく。
 米軍の伊丹エアベース(航空基地)も近く、飛行機の爆音の下で奔走してきた同志である。
 室長の髪は、さっぱりと刈り上げられていた。駅前の床屋に入り、主人と対話してきたばかりだった。
 関西本部で目ざとく枚方市の会員数人を見つけたこともある。筆をとり「大斗争」と一気にしたためた。
 「校方の皆さんへ、おみやげです。お元気で!」
 枚方のある京阪沿線は、松下やダイエーが事業を伸ばす足がかりとなる。室長も、いずれこの方面が学会の一大拠点になると信じていた。

 戸田会長の応援

 堺市を回っている室長と地区担当員の江草ミドリが合流した。海沿いの高石町(現。高石市)へ向かう日だった。
 室長は、しきりに肩の凝りをほぐすように首を回した。
 「たしか、きょうはこれで二十四カ所目だよ」
 江草は言葉を失った。
 "どないしよ......"
 初めの予定より、さらに行き先を追加している。どこもかしこも、拠点で室長を待ちわびていた。
 室長はすべて回ってくれ、倒れ込むようにして、たどり着いた拠点もあった。
 それでも、ある会場で懇談中に、鳥の声に気づく。裏庭に小鳥小屋があった。
 「誰が飼っているの」
 その家の息子が飼っていたが、しつかり信心ができていないため、母親が申し訳なさそうにしている。
 「楽しそうに飼っているなあ。優しくて、いい子じゃないか」。室長から伝言が託された。
 信心もせんと鳥ばかり大事にしよって、と思っていた母の見方が変わった。やがて息子も信心を始めた。

 布施市の立花仁六は、かつて陸軍の伍長だった。
 関西本部で質問会になると、真っ先に手を挙げる。
 小柄で、ひょうきん。室長も、彼のとんちんかんな質問に誠実に答えた。
 旧・国道三〇八号線を入ってすぐの所に、立花のプレス工場があった。
 東大阪の一帯は、小さな町工場が多い。室長が生まれ育った東京・大田と似ている。戦時中、蒲田の鉄工所で働いたこともあった。
 布施市の公設市場では、集会所を借りて、よく座談会が開かれた。五月のある日、ここに室長が入った。
 新来者が七人いた。真言、念仏、天理教。
 「私は、宗教の正邪を仏法哲理の上から申し上げている!」
 確信を込めて語る。
 真言と念仏は入会を希望した。天理教だけ迷っている。家族がらみの事情があった。あえて問い詰めない。
 「きょうは家族とよく相談して、また来てください」
 どこまでも常識ゆたかな言動である。天理教は驚いた。世間で言われる"暴力宗教"と違うじゃないか!

 六月、布施の商店街に、大きな懸垂幕が掲げられた。
「創価学会会長 戸田城聖来る 六月二十七日 公設市場二階」
 午後一時。炎天下で演説会は始まった。公設市場の駐車場に八百人が押しよせた。
 ふだんは二階の室内エリアで集会を開くが、室長は「いや、入りきらない。ものすごい勢いで集まってくるよ」。
 計算どおりである。
 万全な態勢で師を迎えるため、前日には、入念に下見をしてあった。
 大変な人込みとなり、役員が汗をぽたぽた流しながら動いている。池田室長は一人の青年に目をとめた。歩み寄ると、両手で彼の右手をすくい上げた。
 「痛かったろうな」
 数本の指が欠けている。仕事場の事故で切り落としていた。青年は驚く。こんなに刻一刻をあらそう現場で指先を見てくれていたとは......。
 零細工場の町には、ケガをしても働き続ける孤独な若者も多かった。

 池田室長は多忙を極めた。関西本部では靴の踵を入れる間も惜しんで、草履を履いて飛び回ったこともある。
 ゆっくり食事する時間もない。関西本部の筋向かいにある「とみや食堂」から出前を取った。
 鉄板でキャベツ、豚肉をじゅうじゅう炒め、上に紅ショウガを散らしたヤキソバで腹ごしらえをした。
 婦人部も歩きに歩いた。
 仙頭辰子は毎日、弁当をさげて家を飛び出し、白木を支援した。
 ある日のこと。「あなたも白木さんでっか。もう四人目でっせ」と言われた。
 「初めは、何かゆうてはるなあと思った。二度目は、さっきと同じ名前やと聞き流したけど、三人目に、どんな人やろうと思ったんや。
 今度はあんたから聞かされた。それほど信頼されている人やったら、私も白木さんを応援しまっせ」
 二枚しかない仙頭の着物の裾は擦り切れた。桐の下駄も歯がすりへって、せんべいのようになった。(続く)
  
 時代と背景
 「大阪の戦い」にのぞむ決意を和歌に託している。「関西に 今築きゆく 鏑州城 永遠に崩すな魔軍抑えて」。西日本の要衝となる関西を、水滸会や戸田大学で折々に学んだ古代中国の難攻不落の城郭(現在の遼寧省南西部)にたとえた。
 返歌は「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」。恩師の目は、勝利の城のいただきを確かにとらえていた。
      

2009年2月3日付 聖教新聞







Last updated  2009/03/22 07:11:57 PM
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若き指導者は勝った 
池田大作
--- その行動と軌跡 第16回 
大阪の戦い 4


団結あるところ勝利あり
池田室長を先頭に関西の快進撃が始まった



  ジュース工場の拠点

 関西での池田大作室長の行動は、昭和三十一年五月に入ると、さらに加速する。
 大淀区(現・北区の一部)で「日栄ジュース」を製造する小谷鉱泉所。小谷栄一・ふみ夫妻が営んでいた。
 五月十日の夕方、瓶詰めの機械音がやんだ。もうすぐ隣接する二階の会場で、池田室長を迎え、班長・班担当員会がはじまる。
 室長は行く先々で、人智を超えたような、いわゆる神懸かり的な振る舞いをしたわけでは全くない。
 むしろ皆が一緒になって、横一線で動く楽しさを、身をもって示し、教えた。
 この日も、小谷宅を訪れ、事務所脇の階段を上がろうとした時である。
 電話が鳴った。すかさず室長が手を伸ばす。
 「はい、小谷鉱泉所です。......はい、はい......」
 そのまま会場に姿を見せ、小谷の妻に語りかけた。
 「今、注文の電話を受けてきたよ」
 「あらま、すんまへん」
 爆笑。いかにも大阪のおばちゃんらしい返事に、緊張していた雰囲気が、がらりと変わった。
 商品名も知らないはずなのに、日栄マークのサイダーに、ラムネ、ミカン水などケースごとに的確に注文を取ってくれていた。
 小谷夫妻は恐縮した。
 「じゃあ、せっかくだから、みんなにサイダーをもらえるかな」
 室長はポケットマネーで振る舞った。あいにく冷えたものがない。常温のサイダーが配られた。ボンと栓を抜くと、泡が吹き出す。
 笑い声が絶えない。
 「信心だけは絶対に負けてはいけません。仏法は勝負です。題目をあげて、あげて、あげ抜きなさい。信心の団結あるところ、必ず勝利があります」
 和気あいあいとした一体感があるから、指導がスッと胸に入る。

 港区築港。
 外国人の船員や港湾労働者が、ひしめいている。ここで田内喜郎、富士子夫妻がレストランを開き、拠点になっていた。池田室長が昼食を兼ねて立ち寄った。特製のカツカレーを「おいしい」とペロッと平らげた。カレーが大好物である。
 大きな模造紙と筆が用意された。室長は腕まくりをして力強い筆さばきで「大勝」と認めた。
 池田室長が転戦すると、向かうところ敵なしの勢いで折伏が決まっていく。しかし、世間によくある宗教の勧誘や説明の類ではない。
 堂々としていた。
 ある時、関西本部で、その心構えを指導している。
 「この信心は絶対です。どれほど社会的な地位があっても、名誉があっても、御本尊を拝する信仰者には、かないません!」
 気迫に満ちた言葉だった。
 「もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、大阪に一人でもいてはいけません! もし、そんな組織があれば、担当の幹部は責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!」
 この勇気、この確信が電流のように大阪中に流れていったのである。
 折伏の火の手は西日本一円にも及んでいく。週末になると、大阪港から船にも乗った。四国、中国、九州へ戦線を広げる。
 それまで社会の荒波の中で打ちひしがれ、意気地なしのようにおどおど下を向いていた者まで、人間として、信仰者としての誇りに目覚めたのである。

 嵐に負けない水の信心

 快進撃した大阪支部は五月、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げた。破竹の勢いは止まらない。
 六月五日火曜日、大東市の朋来住宅に、池田室長が入ってきた。
 「室長がお見えになったら一筆お願いするよう、だんなに言われまして」
 その家の妻が大きな模造紙を広げている。
 「うーん、紙も筆もよくないなぁ」
 ユーモアをまじえながら墨に筆をひたした。
 今日は何日ですか、と聞き六月五日と確認する。
 「牧口先生のお誕生日の前日だね」と口にしてから、紙の上で身をかがめた。
 「信心は水の如く」と大書した。
 「水の和き信心って分かるかい?」
 まだ墨が光っている紙を指さしながら言った。
 「平らな川の水の流れではない。嵐の中の怒涛が大きな岩にぶちあたり、その岩を乗り越えていくような信心だ。
 難を乗り越える信心をしていきなさい」
 まさに法難と戦った牧口初代会長の魂そのものだった。室長は皆をうながすように、パンと手をたたいた。
 「さあ、勇気を出して、出かけましょう!」
 歯切れのいい言葉に、だれもが玄関から飛び出した。

 六月十二日の火曜日、参院選が公示された。
 遊説が始まり、各所で演説会がスタートした。
 平日は毎晩、演説会が開かれた。男子部、女子部の代表も「青年代表」の肩書でマイクを握った。池田室長は「大蔵商事営業部長」として応援演説に立った。
 河内市(現・東大阪市の一部)では、各会場を立て続けに回った。
 国鉄の鴻池新田駅に近い会場。室長の話は理路整然としている。「あの人は若いのに大したものだ。立派だ」。有権者は候補者よりも室長をほめていた。
 花園方面の会場。先回りした室長がつぶやいた。
 「よく集めてくれたけれど、未だ少ないな......」
 それを聞いていた宇田荘太郎は、言葉尻をとらえ、かっとなった。
 「少ないとはどういうことや。このへんは、みんな農家で遅いんや」
 もの凄い剣幕である。
 二千人の部下を率いた元軍人。地元の有力者で、選挙戦にも持論があった。
 入会九カ月。まだ池田室長の存在を知らない。翌日になっても腹の虫が収まらない。妻に言った。
 「戸田という会長におうて来る。昨日のこと、ゆうたろう思うて」
 関西本部で戸田会長を呼んだ。出てきたのは室長である。ちょうどいい。
 「昨日、結集が少ないって、あれはなんや。河内の選挙は、河内にまかせてもらわな困る」
 室長は、ほほ笑んだ。
 「わかりました。では、あなたにおまかせしましょう」
 きっぱりと言われ、かえって宇田は拍子抜けした。
 それ以上に、びくっとしたことがある。
 笑っているはずなのに、その眼光には、野戦の指揮官のような凄みがあった。
 河内の自宅に帰るなり、家人に告げた。
 「昨日は暗うて分からんかったけど、あの目を見たら分かる。あんなに、すごい目をした男は軍隊にもおらんかった。間違いない。ものすごい人やで」

 西本茂が一年間だけやってみるという約束で入会したのは、六月中旬だった。しかし困った点がある。西本は労働組合の幹部だった。
 参院選でも他党の候補を組合あげて応援していた。学会と労組の板ばさみ。
 関西本部へ指導を受けにいった。
 「あれが池田室長やで」
 先輩に言われた西本は、労働阻合のお偉方の顔と室長を比べた。
 若い。目が濁っていない。組合のトップが古狸のように思える。
 西本は室長に事情を打ち明けた。それでも学会は組合のように、きっと締めつけてくるだろう。それが選挙というものだ。
 意外な答えが返ってきた。
 「そうですか。選挙活動は自由です。ご自分でお決めください。どうか後悔のない活動をしてください」
 西本は絶句した。懐が深い。この人と一緒に戦おう。逆に腹を決め、これまで他党でかためた所をもう一度、回った。
 白木を頼む。お好み焼きのように引っくり返した。
 「いったい、どないしたんや」
  いぶかしがる相手を熱心に口説いた。利害ではない。信頼できるから推す。
 同じ一票を頼むのに、こんな違いがあるのか。義務的にやらされた選挙とは、まったく異なる充実感があった。 (続く)
       
時代と背景
 昭和31年5月15日、新聞の朝刊に「"暴力宗教"創価学会」という見出しが出た。大阪支部の学会員6人が、大阪府警に不当逮捕される。その当日の朝刊に記事が掲載され、学会の快進撃をねたむ意図的な弾圧であることは明らかだった。
 池田室長は「電光石火」と揮毫し、動揺する会員を渾身で激励する。障魔を乗り越え、大阪の団結は一段と強固なものとなった。
2009年1月31日付 聖教新聞







Last updated  2009/03/22 07:10:59 PM
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き指導者は勝った 
池田大作──その行動と軌跡 第15回 
大阪の戦い 3


関西で立ち上がれ 
あらゆる企業・団体もしのぎを削った学会が躍進する急所だった


  世界へ通じる大拠点

 昭和二十年代の後半、企業や団体が戦後の復興を終え、地方への進出をはかった。
 しかし、東京から大阪へ伸びようとして成功した例は少ない。
 経済界では、住友や松下など地元はえぬきが地歩を固め、大阪では強かった。かたくなに東京勢を拒んでいた。
 宗教界では天理教。「東の立正佼成会、西の天理」と呼ばれた時代である。
 昭和二十六年(一九五一年)に戸田城聖第二代会長が誕生するまで、創価学会は東京を中心とする教団にすぎなかった。全国の会員も、首都圏十二支部のいずれかに所属している。地方への指導はまだ手薄だった。
 関西がカギだった。ここを押さえれば、全国への展開は大きく開かれる。
 日本だけではない。戸田会長は若き日から、関西こそ世界へ通じる大拠点であると考えていた。
 十八歳の日記。
 「我れ志を抱く、これ世界的たらんとす」「よろしく座を阪神とすべし(中略)天下の形勢に通ぜん」
 世界に飛翔するためには、まず関西で勝ち上がっていくしかない。あらゆる企業や団体が、ここで、しのぎを削っていた。
 昭和三十一年、学会として初の参院選の支援にあたり、戸田会長があえて大阪に候補を立てたのは、そうした厚い壁に切り込んでいくためだった。だからこそ、青年部の池田大作室長を大阪の責任者にしたのである。
 候補者は、四人の全国区のはか、地方区は東京の相原ヤス、大阪の白木義一郎の二人だった。
 当時、東京の会員は九万世帯を優に超え、大阪の会員数は三万世帯にすぎない。完全な「東高西低」である。
 当選ラインは二十万票といわれる。大阪の敗戦は必至だった。
 しかし、あえて戸田会長は愛弟子を千尋の谷に突き落とした。

 昭和三十一年一月四日水曜日の夕刻である。
 二十八歳の池田室長は天王寺区の関西本部に初めて足を踏み入れた。
 前年の暮れに古い音楽学校を改装した建物だが、まだ所々、ガラス窓は破れ、扉は閉まらない。天井には雨漏りのあとが染みていた。
 当時の庶民の生活といえば、憲法二十五条に保障された「健康で文化的な最低限度」どころか、ぎりぎり以下の生活だったといってよい。
 関西本部の周辺にも、靴どろぼうが出没した。新しい靴が盗まれる。若手職員に下足箱を見張る職務があった。
 当時の社会の一断面だが、日雇い労働者は梅雨時、仕事が減る。暴動でパチンコ店が襲われないよう、警察が頼みこんだこともあるという。「治安のためや。釘をゆるめてくれへんか」
 簡易旅館では、宿代を踏み倒すため、共謀した二人で大げんか。一人が逃げる。「待て!」。追いかけたまま二人とも行方をくらます。
 時折、どこからか逃げてきた者が座談会場に飛び込んできた。こわもての若い衆が追いかけてくる。そこへ会場の隅からドスのきいた声。
 「ここは、お前らの来るとことちゃう。はよ去ね!」
 若い衆は立ち去った。裏社会から足を洗った男まで座談会にいた時代だった。
 きれいごとだけでは済まない。清もあれば濁もある。昭和三十一年、そんな庶民の世界へ池田室長は飛び込む。

 夜行列車で大阪駅へ

 まだ底冷えのする時期のことである。早朝、大阪駅のプラットホームに夜行列車が滑り込んだ。
 池田室長は薄明の大通りを天神橋筋六丁目方向へ歩いた。市電の中崎町の停留所を過ぎ、シャッターの閉まった靴屋の角を左に曲がる。
 畳屋の戸をたたいた。
 「おはようございます」
 班担当員の井西はなが顔を出した。
 「こんな早うから、寒うおましたでしょ。どうぞ、お入りください」
 い草のにおいが漂っている。畳店の土間を抜け、奥の部屋へ通された。二階は大阪支部の拠点になっている。
 井西は、あわてて裏の八百屋に走り、酒粕を買った。得意の甘酒をこしらえる。
 ほかほかに温めた甘酒を出す。室長の冷えきった身体にしみこんだ。
 東京──大阪の往復は、夜行列車が多く利用された。
 たとえば五月には、こんな強行スケジュールを強いられたこともあった。
 五月一日。豊島公会堂での本部幹部会に出席し、終了後、夜行列車で大阪へ。
 二日。阿倍野地区の決起大会に出席し、夜行列車でとんぼ返り。車中、徹夜で原稿を書く。
 三日。本部総会で渉外部長として登壇する。
 四日。東京での仕事を片づけ、長期滞在の支度をととのえて夜行列車に飛び乗った。
 片道十時間以上かかる。夜行での往復は、室長の体力をひどく消耗させた。
 室長の行動をつぶさに見ている大阪の会員たちは、なにがなんでも勝とうという気持ちになった。
 マラソン選手が全力で走るのを見て、無条件に声援を送りたくなるのと似ている。

 年頭から折伏は上げ潮の勢いである。大阪の会員数は飛躍的に増えていった。
 連日、関西本部では、会員カードの整理のため、夜遅くまで人が残っていた。池田室長は、彼らに語った。
 「谷間に咲いている白ゆりは、人が見ていようが見ていなかろうが、時が来れば美しく咲き、よい香りを放っています」
 暖房もない部屋で、ちちかむ手をこすりながら作業してきたメンバーである。
 「美しい花は、山野の嵐や雨と戦い抜いて勝ち取った姿です。誰も見ていないかもしれませんが、時が来れば必ず大きな功徳が出ます」
 作業部屋には、室長から何度も出前のラーメンなどが届いた。

 四月八日、豪雨の大阪球場に二万人が結集した。大阪・堺支部連合総会。
 京都の舞鶴から乗りこんだ一団があった。大型バス二台。班長が総勢百二十人を率いてきた。
 経済の復興は都市部から進むため、地方の農村部は取り残されていた。
 土砂降りの雨をついて決行された総会で戸田会長は叫ぶ。「大阪から貧乏人を絶対なくしたい」。班長は目頭を熱くした。
 しかし、参加者はずぶ濡れである。歩くたびに長靴の中がゴボッゴボッと鳴る。バスに戻っても、がくがくと震え、総会での歓喜も消えてしまいそうだ。
 関西本部へバスを向けた。管理人に頼み、三階の仏間へ。濡れた衣服のまま座るので、たたみに水が染みこんでいく。
 その時、班長は思いついた。そうや、このまま隣の応接間で待っとれば、戸田先生に会えるんやないか......。
 こっそりと応接間に忍び込む。入れるだけの人数を詰め込んだ。
 静かに待つこと二十分。
 ついに扉が開き、班長が口を開こうとした瞬間である。
 「誰だ!」
 ぬれねずみの集団を見て、会長は驚いた。
 かろうじて「舞鶴から来ました」と答えた。
 「そうか、それは、よく来た。せっかくだから懇談してあげよう」
 四十分余り、懇切に指導をおこなった。「もういいだろう。おれは先に行くから、あとは頼むぞ」。池田室長にバトンを託し、奥に消えた。
 何もかも信頼し、まかせた様子である。
 「戸田先生は世界に二人とない大指導者です。私は若輩ですが、どこまでも戸田先生についていきます。皆さんも、どんなことがあっても、信心から離れず、戸田先生についていきなさい」
 これが師弟というものか。舞鶴の会員は初めて目の当たりにした。
 別の折、関西本部でこんな場面があった。
 室長が指導していると、電話が鳴った。東京の戸田会長から連絡のある時間だった。
 その瞬間、室長は機敏な動作で、腕まくりしていたワイシャツの袖を伸ばす。背広を着て、ボタンも留める。きちんと正座してから、受話器を取った。
 厳粛な姿だった。(続く)

時代と背景
 昭和31年1月4日、特急「つばめ」で来阪した池田室長は「大法興隆所願成就」と脇書された関西本部の御本尊に勤行。「戦いは勝った!」と師子吼する。 翌日の地区部長会。自ら「黒田節」を舞い、参加者にも踊らせた。楽しく、にぎやかに戦いゆくことを教えたが、日記には「痛烈なる、全力を尽くした指導をな す」と。すべては一念に億劫の辛労を尽くしての指揮だった。       
2009年1月30日付 聖教新聞






Last updated  2009/03/22 07:09:46 PM
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若き指導者は勝った
池田大作
--- その行動と軌跡 第14回
大阪の戦い 2

  私は戸田先生に代わって御書講義をしている
  師が見ていると思って全力でのぞみなさい



きれいに使われた御書

 昭和二十九年(一九五四年)九月二十六日、青年部の池田大作室長による御書講義が始まった。
 京都から来た逢坂琴枝(おおさかことえ)は驚いた。
 各宗派の本山が、京都には、ひしめいているが、眠くなる坊さんの説法ではない。りりしい青年が歯切れ良く語っているだけでも、新鮮このうえない。しかも講義なのに、理屈っぽくない。それでいて、頭が整然と整理できる。
 俗に言うところの、ありがたい話ではなかった。仏さんという遠い存在を語るのではなく、現実の生活を見つめる話だった。
 同じ会場で、大阪の班担当員だった北側照枝(きたがわてるえ)も、ほれぼきれと聴き入っていた。生活に密着している。だからビシッと心に入る。なにか身体がうずうずして、動き出さずにはいられない。喜んで動き、働くから、生活も改善される。
「ほかの人の話は、教義が優先。理屈も大事やけど、それだけでは喜びがわいてきまへん」「ほかの人」とは東京の幹部のこと。北側の言葉を借りれば、生活に密着していないから実践の後押しにはならず、喜びもわかない。
 なによりも室長の講義は、自分の言葉、自分の確信で語られていた。
 他の幹部は、どこか戸田会長のものまねだったり、いたずらに理論を押しつけていぶそくた。なかには勉強不足を声の大きさや、威圧感でごまかす者もいた。

 まだ大阪に創価学会の自前の建物はない。天王寺区の夕陽ケ丘会館や北区の計量研究所などを借りた。
 翌三十年の一月。教学部員になるための試験が行われた。筆記につづいて口頭試間である。
 吃音で悩んでいた奥野修三が見違えるように、すらすらと質問に答えた。毎回の講義で御書を読むうちに、すっかなおり治っていた。
「おい、池田室長の講義は違うでえ」。評判になった。
ある青年部員は室長の御書に注目した。あんなにすごい講義ができこるのは、よっぽど書き込みがあるからではないか。休憩時間。好奇心にかられ、そっと室長の御書を手に取った。
 きれいだった。所々に朱筆で傍線が引かれ、丸印が入られている。その線や印すら、きちっ、きちっと整っている。きたない書き込みなど、どこにもない。
 講義を始めたのは第五期の教学部員候補からだったが、第六期から希望者が殺到する。とうとう候補を選ぶための予備試験まで行われた。
 池田室長が、豊中方面の拠点であった矢追久子宅を訪れた時、そこに居あわせたのが、峰山益子(みねやまますこ)だった。
 阪急電鉄の創業者・小林一三ゆかりの図書館「池田文庫」に勤めていた。
「御書を持っていますか」
 室長がたずねた。
「あ、いえ」
「何万冊もの本に囲まれて御書がないなんて」
ため患をついた室長は、御書を学ぶ大切さを説いてから、すらすらと便せんに万年筆を走らせた。
 月光の如く
 尊き乙女して
 永久の功徳を
 強く受けきれ
 峰山は、仰天した。がみがみ叱る幹部はいても、即興の和歌を贈ってくれる人がいるだろうか。
 すぐさま御書を購入すると、第六期の教学部員候補に手を挙げた。誰もが室長の講義を聞きたがった。

 心をつかむユーモア

 ある日の講義。
 室長が会場に入った後で、青年部の幹部が遅れて現れた。まったく求道心が感じられない。
ちらっと視線を向けるや、火を噴くような声を放った。
「その態度は何ごとだ!」
幹部たちは立ちすくんだ。
「本日、私は師匠である戸田先生に代わって講義を担当させていただいている。そういう決意でのぞんでいる。
であるならば、真剣さを欠くとは、もってのほかだ」
 それから、ゆっくり正面に向き直ると、すっかり怒気はき消えている。
「これは幹部に言っているんです。あなたたちにではありません」
 受講者の博多洋二は、その気迫に圧倒された。頭では分かったつもりだったが、師弟という間柄の厳しさを初めて思い知らされた。

 村田只四(むらたただし)にも、忘れがたい思い出がある。
 御書を講義していると、その会場に室長が入ってきた。席を譲ろうとしたが「そのまま続けて」。
 視界に入る位置から、厳しい表情で村田を見つめている。いい加減なことは言えない。背中に冷や汗を流しながら、全魂をこめて話した。
 終わってから室長が村田に言った。
「御書講義は戸田先生の名代として行うものです。私は,いつも戸田先生が、そばにいらっしゃると思って講義をしています。きょうのように、私がいつも見ていると思って全力でやりなさい」

 室長の講義には、確信があり、聴いていて力がわく。
まだまだ、そのほかにも、関西で受け入れられ、慕われる理由がないか。取材班が考えながら大阪を歩いた。
 大阪環状線で、向かいの乗客が「大阪スポーツ」いわゆる"大スポ"を広げている。
 超低空でUFOを発見という記事を、そばの小学生がネタにしている。
「まじ、すげえ。民家の上空に出現やって」
「あほか、こんなん、はっきたりに決まってるやんけ」
ボケとツッコミの分担が自然とできている。
 大阪は「お笑い文化」の発信地である。おもしろ面自いか、面自くないか。この尺度は、やはり大きい。

 ある証言。戸田会長は講義で、こんな話をしたという。
「私が大阪に来るのは貧乏人と病人をなくしたいからだ。今は貧乏でも心配するな。そのうち聖徳太子(当時の千円札)がオイッチニー、オイッチニーと行列を作って家に入ってくるぞ」聖徳太子が行列……爆笑が会場を包んだことは言うまでもない。
 池田室長が生野区の座談会に入った時のことである。
かつて革新政党の幹部だった男が参加していた。今は魚を行商していたが、プライドの高さがにじみ出ていた。
 室長は、その壮年に語りかけた。
「この信心で必ず願いは叶います。叶わなければ、この池田の首をあげる」
 そう言ったあと「あっ、あなたは魚屋さんだから、私の首をあげても、アラにもならんだろうね」。
 しかめっ面をしていた魚屋がぷっと吹き出した。あとは話が早い。その場で、入会を決めた。また池田室長はよく、にわか大阪弁を使った。
「お元気でっか」「もうかってまっか」
 何ともいえない親しみがあり、相手のハートをつかむのである。

 室長のユーモア精神は、東京の創価学会の幹部の中では極めて珍しかった。東京には室長の先輩格の幹部が数多くいる。
 石田次男。威張っていた。戸田会長の話を聞いても、「ほう、ほう」と相づちを打つ。不遜な態度だった。後輩と食事に行くと「僕くらいになると、少欲知足で、食欲もないんだよなあ」と、すかしていた。
 石田の妻も、よく似ていた。戸田先生のおっしゃっていたこと、ここが違うのよね」と平気で口にした。
竜年光。まるで相手をなじり倒すように話すのが特徴だった。
 当時の会員らの回想。
「あまりに狂気じみていて、まともに目を見ることができなかった」「いつも会合に、怒鳴られに行くようなもんだった。信仰というのは怒鳴られるものなんだと思っていた」
石田や竜だけではない。ほとんどの幹部が号令をかけてばかりいた。自分では動かない。そのくせ後輩の失敗や欠点ばかりをあげつらい、罵倒した。
 東京から大阪へ派遣される幹部も、似たり寄ったりである。入会して日の浅い大阪の会員を、どこか小バカにしたような臭みがあった。
 同じ目線で語りかけるのは池田室長一人だった。(続く)

時代背景
 池田室長の御書講義により、関西の会員は短時日のうちに急成長を遂げる。昭和31年1月、大阪支部は蒲田支部を引き離し、いきなり全国 1位の弘教を達成。さらに教学部員候補の合格率も全国平均を圧倒的に上回る結果を残す。r幾度も、大阪へ行く事になる。大阪の人々と、心から仲良くした い。嬉しい事だ。真実の同志、大阪よ、と叫びたい」(池田大作著『若き日の日記』)
2009年1月28日付 聖教新聞






Last updated  2009/03/22 07:08:27 PM
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若き指導者は勝った
 池田大作 --- その行動と軌跡 第13回 
大阪の戦い 1

なぜ関酉は強いのか
池田室長と戦った
昭和三十一年の金字塔に その原点がある



 常勝の源流へ

 大阪・天王寺。「えらいこっちゃ、もうすぐ始まるで」「ほんまや。走ろか」男たちが次から次へ、民家に駆け込んでいく。
 昭和三十一年(一九五六年)初夏。拠点闘争が続いていた。隣は自転車店だった。道路に、もうもうと砂ぼこりが上がる。店主が水道のホースを手に散水していた。
"まったく、毎日毎日、ようけ来よるなあ"
 時々、キーッとにらんだり、わざと水をかけた。
 "つぎ来るやつに、また水かけたろか"
 その時、一人の青年が足早に近づいてくる。精桿な顔つきである。青年部の池田大作室長だった。
 近所の一軒一軒に失礼はないか、目を配っている。
 昼から飲んでる男も多い町で、紳士的な人はいない。ニコッとほほ笑み、会釈された。自然と店主もペコッと頭をさげた。
 礼儀正しい。それでいて、堂々としている。
 隣の家に消えると、側にいた人にたずねた。
「今来た人、あの人、だれやねん?」
「ああ、創価学会の青年部で一番えらい人ですわ」
「うーん、そうか。そうやろうな。あの人なあ、今に天下一のえらい人になるで」
 東住吉の拠点。「きょうは東京から、すごい人が来はるんや」「そんなら、私もいくわ」「あかん、あかん。もう夜は遅い。きょうは壮年部の会合や」
 夫は軽快な足取りで出掛けていった。妻の森脇喜代子は、どうしても"すごい人"の話を聞きむたい。こっそり会場へ向かったものの、さすがに中には入りづらい。
 暗い庭先で耳を澄ます。雨戸ごしに声がした。ナポレオンの話のようだった。
「この信心に不可能はない!幸せになれないわけがありません!」と戸板がゆれるような気迫にぶったまげた。
 もっと聞きたい、もっと知りたい。息を殺して、雨戸にぴったり張りついていると、巡回中の警官に「そこでなにしとるんや」。
 空き巣とまちがえられたが、あの凛々たる声は、いつまでも心に消えなかった。
 白木義一郎(初代大阪支部長)の回想。
 戸田城聖会長の話になると、池田室長は、とたんに居ずまいを正した。記憶が実に正確である。
「何年、何月、何日の晴れた日、あの時、こうだった」師と語らった日時、場所、天気、話の内容、その時の恩師の表情、身ぶり。あらゆる出来事を完壁に再現してくれた。まるで戸田会長の録音テープの再生を聴くようだった。

 なぜ大阪は強いのか ー。
 いつのころか、関西といえば「常勝」の冠がつくようになった。
 昭和三十一年に、創価学会として初めて推薦候補を立てた参院選があった。池田室長が大阪の責任者になり、完全な圏外から「まさか」の当選を勝ち取った。
 一カ月に一万一千百十一世帯を弘教する金字塔を打ち立て、 冒頭にあげたようなエピソードが、いくつも語り継がれている。
 そこに大阪の原点があることは間違いない。
 しかし、五十年以上たっても揺るがない強さの秘けつとはム。

 初めての講義

 聖教新聞の関西支社では、当時の会員の回想録を大切にしまってある。大阪へ向かった。
 大きな段ボール箱が四つ。貴重な原稿の山である。執筆者の存命を確認してく。大半は物故者だったり、病気療養中だったが、百人近い人物が健在していた。このリストをもとに「常勝の謎」を解く取材を開始した。

 地下鉄なんば駅から雑踏をかき分け道頓堀(どうとんぼり)へ。
ミナミの繁華街は、店の看板が驚くほどせり出している。隣の店より、うちのほうがと、あからさまに目立とうとしている。
 堺筋(さかいすじ)を左へ折れ、道頓堀川に架かる日本橋を渡る。かつて、その辺りに、京屋旅館があった。
 昭和二十七年(一九五二年)八月、池田室長と戸田会長が大阪への第一歩を印した拠点である。
 ここから百万組織の拡大がはじまる。
 そう思うと、ミナミの看板や風景にも、何やら大切な意味が感じられる。
 この町でのしあがるんやったら、遠慮なんかいらん。格好つけるな。おもろないとあかん。まったく無名の創価学会が勝ち上がっていく過程にも、そんな浪花のど根性が発揮されたにちがいない。大阪には、東京への強い対抗意識がある。
 生粋の江戸っ子である池田室長が、早い段階から大阪の会員に「先生」と呼ばれ、慕われたことが不思議でならなかった。
 大阪府の地図を広げ、京屋旅館のあった場所に赤い印をつ付けた。ここから池田室長が足跡を伸ばした場所へ印をつけながら、くまなく当たる。
 地図が赤く染まるころ、なにかが見えてくるはずだ。

 昭和二十九年、池田室長は大阪に足しげく通いはじめ、九月二十六日に初めて御書講義を行った。
 天王寺区の上本町駅に近い弘洲会館が会場だった。
 外は風が強い。
 この日未明、九州の大隅半島に上陸した台風十五号は西日本一円を暴風圏に巻きこみ、日本海に抜けた。
 やがて、函館湾で青函連絡船「洞爺丸(とうやまる)」など五隻の船をの飲みこむが、弘洲会館の二百人は知るよしもない。
 京都市の逢坂琴枝(おうさかことえ)は、やっと工面した交通費を握りしめ、京都から大阪まできた。
 地図を手にしたまま、上本町の路上で道に迷った。困っていると、見るからに凛々しい青年がいる。
 親切に教えてくれた。涼やかな目。若いのに何ともいえない威厳がある。
 びゅうと音をたて、風が吹き抜けた。逢坂は我にかえって、あわてて会場への道を駆け出した。
 弘洲会館は、ぎっしりと人で埋まっている。午前九時ちょうど、白木義一郎に続いて、場内前方に人が現れた。
逢坂は跳び上がりそうになった。あの青年ではないか!
「東京から来てくださった池田室長です」
 白木に紹介された室長は「大阪の皆さん、おはようございます」と、歯ぎれよくあいさつをして席に着いた。
 この日、午前中は「諸法実相抄」、午後は「当体義抄」と、一日がかりで講義が行われることになっていた。
阿倍野(あべの)から参加した奥野修三(おくのしゅうぞう)は幼いころから吃音(きつおん)で悩んでいた。
「諸法実相抄」の講義が始まる。
 さっと会場を見渡した池田室長は、奥野に教材を読むように指名した。「しょ、しょ、しょほう、じ、じ、じっそう、しょう……」立ち上がってタイトルを読み始めたが、満座のなかで奥野は、しどろもどろである。
 苦笑する者もいたが、不思議と場内は温かい。軽んじてはいけない空気がある。
 それは中心者が醸し出すものだった。
 池田室長は、じっと聞いている。つっかえ、つっかえ読んでいる奥野の一言一言にうなずく。目顔で"もっとゆっくり"と語りかけた。
 じつは四カ月前の五月十六日、入会して三カ月の奥野は西成区の花園旅館で池田室長に会っている。
 そのとき、吃音や引っ込み思案の性格に悩んでいることを打ち明けた。室長は奥野に経験を積ませるため、あえて指名したのである。
 もっとも場内の大半は、奥野といい勝負だったかもしれない。漢字は苦手だし、人前で何かを述べる経験も薄い。
ある時など「四信五品抄(ししんごほんしょう)」が教材だったがハ抽選で五品くれるんやハと思って参加した女性もいたほどである。
 吃音だからといって卑下することはない。読んだり!学んだりすることが苦手だからこそ、ここに集まって勉強しているのではないか。
 学会は「学ぶ会」と書くが、ここには妙な序列もなくお互いに助け合う学校に似ていた。(続く)

時代背景
 昭和27年2月1日、プロ野球投手の白木義一郎が大阪支部長として赴任。同年8月14日夕、池田室長は大阪へ第一歩を印す。恩師と出会って5周年の日だった。帰京の途、一詩を綴った。
「旅人は征く (中略) いずこより来り いずこに還りゆかなん 悲劇の旅より希望の路に……」
 昭和30年に地方議会に進出した学会は、翌年、参院選に挑む。白木が大阪の候補者となった。







Last updated  2009/03/22 07:07:03 PM
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2009/03/03
若き指導者は勝った
池田大作──その行動と軌跡 第12回
水滸会 5

 おぼえておきなさい
 すべては三代目で、決まる
 第三代の会長はこの中から出るのだ


 池田部隊長の一日

 水滸会の全貌が明らかになるにつれて強く感じる点があった。
 この指導会は、戸田城聖会長が第三代会長のために構想を語り残す機会ではなかったのか。
「今に三代目の会長が、この中から出るだろう」
 水滸会で明確に宣言した。
「二代目は頭がよくなくても、一代目の威信を守っていればよい。
 おぼえておきなさい。三代目で偉いのが出るかどうかで決まる」
 近い未来を予見した。
「したがって三代目は非常に難しいことになる。徳川は三代目がよかったから続いた。また三国志の孫権は三代目として内治派の英雄であったから、よく国が保った。
 三代目の会長は、この中から出るのだ」
 戸田会長が会合ではじめて第三代会長に言及したのは、会長就任から間もない昭和二十六年七月十一日だった。
「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現れる」
 その視線の先に、池田大作部隊長がいたことは疑いない。第二代が生まれた直後、すでに第三代の道を示している。

 当時、池田部隊長が、どのような日々を過ごしていたか。その一日の一端を再現してみたい。
 ある朝、京浜東北線の車内に、声が響いた。戸田会長の会社で働く社員の一人が振り向くと、池田部隊長の姿があった。
「ここで降りましょう」
 東京駅で」緒に改札を出た。なにか見せたいものがあるのか、タクシーで市ケ谷を目指す。皇居の北側から九段下を抜け、外堀通りへ出る。
 悠々と外をながめながら「なつかしいな。あの堀端を見なさい」。西神田も近い。
 戸田会長と日々、奮闘してきた街並みである。折々に受けた指導を教えてくれた。
 どんな風景を見ても、口をついて出るのは、恩師のことばかりである。会社がある市ケ谷ビルの、となり手前で車を停めた。首をかしげる後輩に語った。
「戸田先生が降りられる場所で降りたら、申し訳ないじゃないか」
 出社後の「早朝講義」などの様子は既述の通りである。
 戸田会長は午前中、市ケ谷で働き、午後になると、信濃町の学会本部に移動した。池田部隊長も夕刻、いつたん仕事を終え、市ケ谷から本部に向かう。
向かって左に「創償學會」の看板が立つ門を抜ける。本部には一匹の犬がいた。
「シロ!」
 そっと頭をなでると、シッポを振リながら、足元にまとわりつく。いつの間にか、迷いこんだ犬である。師がかわいがり、小屋を作って飼っていた。

 檜舞台へ立つ

 学会本部の建物に入って、右側の秘書室を経由してから二階に上がる。
 会長室で待っていた師に会い、短く報告。支持を受けて、また出いく。
 聖教新聞の販売部にいた、辻敬子。「まさに疾風のようでした」と振り返る。
「いつもパット来られて、パッと出て行かれる。あのようなかたちで、会長室に頻繁に参上しておられたのは、池田先生だけだった」と
 金曜目の夜、戸田会長は豊島公会堂に向かった。御書講義を行うためである。
「一般講義」と呼ばれ、会員は誰でも参加できた。
 池田部隊長も駆けつけた。だが、場内の座席には座らない。舞台の袖から戸田会長を、じっと見つめる。
 恩師は時折、椅子の上であぐらをかき、演台の上にグッと乗り出すように熱弁している。いつもと変わらぬ姿だ。安心した面持ちで、公会堂を後にした。仕事のため、池袋駅に向かう。
 後輩に語っている。一度でいい。一度でいいから、戸田先生の講義を席に座って最後までうかがいたいものだ」

 戸田会長を事業の究竟から救ったのは、池田部隊長である。後継者の記別も、この渦中に託されている。
その後、矢島周平に乗っ取られるかに見えた学会を、師の手に取り戻し、第二代会長に就任せしめた。
 会長就任を見届けた後、けっして組織の表舞台に出ることなく、学会の基盤を支え続けた。東京の各地で、組織の拡大にも、傑出した結果を残している。
 さらに、昭和三十年(一九五五年)には北海道の小樽で日蓮宗(身延派)との法論があったが、これも完壁に打ち破った。
 すべて池田部隊長が勝利への突破口を開いたのである。
 いわば、戸田会長は図面は引いた。だが、土地を整備し、実際に建物を建てたのは、真の弟子だった。
 こう言っては、あるいは池田会長に叱られるだろうが、歴史の事実に照らせば、こう言わざるを得まい。
「戸田城聖を戸田城聖たらしめたのは、池田大作である」と。

 無名でもいい。無冠でもいい。師匠のために役に立てればそれでいい。陰に徹しようとする弟子を、師は表舞台へと引き出していく。
 池田部隊長が後継者であることは明白だったが、まだ公にはしない。ただ「第三代を守れば広宣流布はできる」と遺言した。

 戸田会長は実学の人である。理でなく実を好む。作戦本部で想を練る参謀でなく、野戦の司令官である。後継者も、そうでなければならない。
 これまで、戸田大学、水滸会で真情と未来への構想を十分に伝えてきた。
あとは実地訓練である。天下分け目の戦場から、勝ち名乗りを上げられるかどうかである。
 すでに第一部隊や蒲田、文京で存分に手腕を発揮している。いよいよ大合戦の指揮官として立つときだ。
 その舞台は、大阪だった。(続く)

 時代背景
 激務の戸田会長を陰で支えたのは池田部隊長だった。昭和29年、青年部の室長と学会の渉外部長に就任。75万世帯へ学会を牽引しながら、一切の攻防戦の矢面に立つ。
大手メディアや右翼の中傷にも一人で抗議に立ち向かった。「なんとあさはかな言論よ。なんと責任なき批評か。思い上がりの評論家たちにあきれる」(池田大作著『若き日の日記』)

2009年1月23日付 聖教新聞






Last updated  2009/03/22 07:05:28 PM
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若き指導者は勝った
池田大作──その行動と軌跡 第11回
 水滸会 4


宗門は組織が老いている
学会が伸びたのは
組織が若く新しいからだ



 全体観に立て

 この日は『水滸伝』第九巻を終了する予定だった。
 最初の議題は「遼(りょう)の国の申し出に対する呉用(ごよう)と宋江(そうこう)の相違」だった。
 すでに梁山泊の軍勢は、宋の国の正規軍に編入されていた。北方異民族の遼を討つため遠征してきたが、敵の遼から使いが来る。
 お前たち、こっちへ寝返らないか。もし我が国につくなら重く用いるぞ。
 宋江は、腐敗しているとはいえ、宋の朝廷のもとで戦う考えだった。
 一方、参謀の呉用は、堕落した宋についても仕方がない、遼と結んだほうがよいと考えた。
「それでは意見交換に入ります」
 司会に向かって、いっせいに手が挙がった。
「学会の組織にあてはめてみれば、宋江がリーダー、軍師の呉用は作戦担当にあたります。意見が違うこともあるでしょう」
「宋江の立場は忠義ひとつです。むしろ部下たちの心が揺れるのを心配しているのだと思います」
 あとは先細りで、似たような意見ばかりになった。池田部隊長がパッと軌道修正をうながす。「違った立場から答えなさい」。しかし、相変わらず話の幅が広がらない。
 仁丹をかみながら青年の議論を聞いていた戸田会長が短く言った。「諸君が宋江なら、どうする。呉用につくのか、つかないのか」

 池田部隊長が大きな声で言った。
「呉用につく者は?」一人も手があがらない。
「では、つかない者は?」
 さっと全員の手があがった。宋の国のもとで戦うという判断である。
 会場の隅で東京大学の学生が当時の戦略状況を分析し始めたが、戸田会長は、それをさえぎった。
「作戦など聞きたくない。どちらを取るかである」
 この遼からの申し出は、巧みな分断工作でもある。梁山泊の軍勢と宋の国を引き裂こうとしている。結局、この場では全員が宋江につき、宋の国を立て直すことになった。組織防衛というテーマの格好な材料でもあった。
しかし、なぜ宋江支持なのか。それを、なかなか自分の言葉で言えず、もどかしい。
 戸田会長は、ぐるっと見回した。「宋江には全体観がある。それに比べ、呉用は団体観にしか立っていない」

 君らは一流から学べ

 全体観と団体観—。
 高い視点から全体を見渡すべきであり、自分の団体だけに固執してなはいけない
 水滸会のことだけ考え、青年部のことを考えないようでは、それはいけない。青年部のみを考え学会を考えないなら、これもだめだ」
 さらに戸田会長は続けた。「それだけではない。学会のことのみを考え、社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。大きく考えることが必要だ」
 水滸伝のケースにあてはめてみれば、梁山泊の生き残りだけを考えるのでなく、どうすれば宋の国がよくなるのかを念頭に行動しろというのである。

 議論が一段落したころ、池田部隊長が身を乗り出した。「今までの歴史上でも、同じようなことがあったと思います。どのような顕著な例があったでしょうか」
 師はタバコに火をつけながら話をつづけた。
「いろいろあったと思う。戦略上では敵方を裂くのが一番だろうな」
 ここぞという急所では、いつも池田部隊長の質間を起点に話を展開する。「このようなことは、大につけ小につけ、いろいろあっただろう。作戦のひとつだよ。敵の力を二分、三分して弱くする。次に大切なのは、降参した者を差別しないで重用することだな」
皆、しきりにうなずく。
「宋の国で政治が乱れたのも組織が古くなったからだ。日本の軍隊が乱れたのも組織の旧弊化にある。宗門が崩れたのも組織が老いたからで、学会が発展してきたのは組織年齢が若いからだ」

 そこまで言うと、少しずり落ちた眼鏡を、右手で押し上げた。学会も組織が大きくなり、幹部が偉そうにしていることを厳しくいましめた。
「もし、そういう威張った幹部がいたら知らせてくれ」
 ハイッ。一同が声をそろえ、返事した。
 すかさず池田部隊長がたずねた。
「先生、組織が古くなった時には、どうしたらよいでしょうか」
 左側に座っている池田部隊長に顔を向けながら、遠くを見つめるように語った。
「何らかの形で刷新し、時期が来たら、すぐに組織を作るのがいいだろう」
 常に新しい創価学会でなければならない。どこまでも組織は若く、新しく。

『水滸伝』が終わると、『モンテ・クリスト伯』『風霜』『風と波と』『九十三年』『ロビンソン・クルーソー』『隊長ブーリバ』。さらに第二期では『三国志』、第三期では『新書太閤記』がテキストになった。

 それぞれの教材も池田部隊長が選んだ。
 ある時、会員二人に教材の案を考えさせた。任されたほうは大変である。喫茶店や、とんかつ屋で顔をつきあわせて「おい、どうする」と相談した。神田の書店街を回り、ようやく『風と波と』を見つけた。
 村松梢風(むらまつしょうふう)という当時はやりの伝記作家の小説だった。
 主人公は明治時代に「二六新報」という新聞を創刊した秋山定輔。のちに政治家になった。
 池田部隊長は「よし、それにしよう」と採用した。後輩が一生懸命に考えた案は却下しなかった。
 ところが水滸会の日、戸田会長はものすごい剣幕で怒り出した。
「誰が選んだ!」選んだ二人は青くなった。その時。
「わたくしです。申し訳ございません」池田部隊長が頭をさげた。
 水滸会員の多くは、本に描かれた秋山の活躍をたたえた。だが戸田会長は「秋山は三流人物だ」と一刀両断した。秋山定輔は革命児で情熱家である。しかし、人物としては策士で三流人物だ、と。
 一流の人物とは天下国家を動かす人物である。君らは一流の人物に触れよ。一流から学ぶのだ。これが戸田会長の教えだった。
 池田部隊長は叱責(しっせき)を一身にかぶった。この時だけではない。すべての責任を取り、いつも叱陀(しった)を受ける。それゆえ「防波堤」といわれた。
 本を選んだ一人の回想。
「一言も我々のことを言わせずに守ってもらった。責めるような言葉もない。戸田先生も、それを承知の上で叱られたのだと思います」(続く)

 時代背景
 昭和二十九年(一九五四年)二月九日の水滸会。
会場は信濃町の学会本部である。前年の十一月に西神田から本部を移している。
前日の八日、戸田城聖会長は学会本部で御書講義を終え、会長室で倒れた。一時間あまり発作が続き、畳がぬれるほど汗を流した。
「大、大はいないか、大作は……」
熱にうなされながら池田大作部隊長の名を呼び続けた。昨日の発作には触れず、何事もなかったように会合を始めた。水滸会での指導は、しだいに遺言の様相を帯びていく。

2009年1月21日付 聖教新聞






Last updated  2009/03/22 07:04:22 PM
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若き指導者は勝った
池田大作---その行動と軌跡 第9回
水滸会 2


青年たちに語られた
戸田会長の構想は
世界的な事業となって花開いた


 戸田思想の源流

 新たに発見された水滸会の資料。調べるにつれて、抱いていた概念が崩れていった。
 戸田城聖会長の言葉には、創価学会の会内にしか通じない、いわば内側を向いたものなどはなかった。
 まとめられた資料のインデックスを見ても、政治や経済に関するものが並んでいる。
 政治でいえば、国家機構、外交、教育行政。経済なら、経済政策、経済人。
 学会の目的である広宣流布を論じた個所もあるが、日本民族論や革命思想、戦争、指導者、処世など、外に話を開いた項目が目についた。
 要するに、天下国家を論じる話が多い。いかに実学を重んじたかもうかがえる。観念論などない。仏法哲理に裏づけられた社会論、現実変革論である。

 資料を前にすると、ふたつのことが浮かぶ。
 第一に、当時の日本の社会状況である。占領下にあった日本は、昭和二十六年(一九五一年)九月八日、サンフランシスコ講和条約に調印。
 翌二十七年四月に発効して、日本の独立が回復された。まだ主権国家として歩みはじめたばかりだった。
 新しい社会の創生期である。あらゆる団体や組織が、我が地盤、陣地、版図を広げるため、いっせいにスタートダッシュした。
 そんな時代背景だからこそ社会の青写真を示したのではたいないか。国家観。世界観。大局的な視点を与えている。
 それこそ、戦争で一切の価値観が崩れ、精神的に渇いていた青年世代が求めていたものでもある。
 第二に、ここには戸田思想の源流があり、そのすべては第三代の池田大作会長に引き継がれたことである。
 池田会長の人生には、社会運動家としての側面が強いことを、よく世界の識者が指摘している。その遠因は、どこにあったのか。答えを見つけたような思いがした。
 公明党の創立。
 創価一貫教育の完成。
 民主音楽協会、東京富士美術館を両輪にした文化事業。平和運動にしても戸田記念国際平和研究所を創立するなど、常に社会に開いた運動を起こしていく。
 いわゆる経営手腕、事業家としての力量がなければ、これほどの運動を牽引することはできない。
水滸会資料に、その豊かな種子を垣間見るのである。

 水滸会には、前史がある。当初、三十八人の陣容で昭和二十七年十二月にスタート。発刊まもない佐藤春夫の『新? 水滸傳』をテキストに戸田会長は毎月二回ほど、男子部の代表を訓練した。
 格調高く、臨場感あふれる文体だった。
 メンバーは青年部長、男子部長、当時の四部隊(男子部の部組織)の代表で構成され、池田青年の役職は班長だった。

公明選挙をやれ

 しかし回を重ねるごとに、惰性がしのびよる。飛びこみの参加者までいた。その象徴が一人の中国帰りの学生だった。調子に乗って中国酒の作り方などを、えんえんと話したことから、戸田会長は激怒した。
「こんな腐ったところにいても、どうしようもない。私は帰る。
立ち上がり、ぷいっと部屋を出ていった。
首脳は、おろおろするばかりだった。
そこで指導力を発揮したのが池田青年だった。
人心を一新するとともに、三つの誓いを起草して、戸田会長に水滸会の再開を願い出た。
 宗教革命に生きる。
 師の精神を受け継ぐ。
 仲間を裏切らない。
 この三点を骨子にした「水滸の誓」である。
 戸田会長も諒とし、四十三人が誓いに署名、栂印した。
昭和二十八年(一九五三年)七月二十一日、再生なった水滸会が発足した。

 再出発で明確に変わったのは、指導体制の確立である。 人選、教材の選定、日程、討議内容など、運営に関するすべてが池田青年を中心に進む。青年部長、男子部長は同席するものの、いわゆるオブ一ザーバで、これといった権限はない。
(池田青年は昭和二十八年一月に男子第一部隊の部隊長に就任セたため、この章では池田部隊長と表記する)
 戸田会長は水滸会を一時的に中断させた段階で、すでに新しい体制への切り替えを企図していたのかもしれない。
 新生・水滸会での戸田語録は、そう確信させるほど精彩を帯びて浮かび上がる。
 大半の会員は夢物語のように聞いていた。それも当然と思えるような壮大な構想なのである。
 だが、それは、池田部隊長によりて、後に次々と実現されていく。まず、その事実に驚かされる。
 水滸会といっても、満足に学間をしてきたメンバーは少ない。顔ぶれを見れば、どこにでもいる平凡な若者ばかりである。油まみれになって働く修理工もいた。小学校しか出ていない者もいた。小説を読んで筋を理解するにも、ひと苦労である。
 戦後の教育制度も軌道に乗り始めだばかりである。戦前は兵隊の位で人間に序列があったが、戦後は学歴や会社組織のなかで新しい格差が生まれようとしていた。
 戸田会長の結論は明確だった。

「学校の優等生が、かならずしも社会の優等生とはかぎらない。日本の学校は全科目で高得点を取らせる教育だ。
 しかし、社会に出てからは平均点よりも、一つでも九〇点があったほうがよい。一芸に秀でることだ」

 政界も混迷していた。
 昭和二十三年(一九四八年)には昭和電工事件があった。復興金融金庫から融資を受けるため、化学工業会社の昭和電工が、政府高官に金をばらまいたのである。
「日本の昭電事件なども、賄賂がもとである。政治が腐っていった。選挙なども、『三当二落』なんて言っているが、三千万円使えば当選する。二干万円では落ちるということだそうだ」
「その選挙に使った三干万円は、当選してから、どこかで生み出さなければならない。そこにまた汚職問題が起こってくる。学会は、そんなものを一銭も使わないで、公明選挙をやるのだ」
 日本の政治の悪弊を痛烈に批判した。
 この政治風土を打破したのも池田部隊長である。
 次章でくわしく述べるが、昭和三十一年(一九五六年)の参院選で大阪地方区の候補者を手弁当で当選させ、世間をアッと言わせた。
 それには理由がある。
 こんにち選挙といえば、今日からは想像もつかないほど、金がかかっていた。金がらみ、利権がらみ、縁故がらみでなければ、まともに動かない。選挙事務所に行けば、飯が出され、酒が出される。その握り飯の中には、札がねじ込まれている……。
 世の中が考える選挙運動とは、およそ、そのような実態だったからである。(続く)
時代と背景
 水滸会の発足に先立つ昭和27年10月2日。戸田会長は女子部の人材グループ「華陽会」を結成。『二都物語』『三国志』などをテキスト にした。この年の5月3日、恩師は会長就任から1周年となる日を選んで、池田青年と香峯子夫人の結婚式に出席。夫人の前途には想像を絶する苦難が予想され たが、彼女は『結構です』と、微笑みながら答えてくれた」(池田大作著『私の履歴書』
2009年1月17日付 聖教新聞






Last updated  2009/03/22 07:03:17 PM
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若き指導者は勝った
池田大作 --- その行動と軌跡 第10回
水滸会 3
 

「今に世界の指導者がやってくるぞ」
周恩来やネルーと語り合う
時代を恩師は見つめた



 忙しくすれば人材が出る

 水滸会で、吉田松陰とその門下を描いた『風霜』がテキストになった。庶民感情に通じた著者・尾崎士郎の作風を戸田城聖会長は讃えた。
「日本の文学者のなかでは、ひとつの思想を、ちゃんと持っているという点で尊敬できる」
 松陰門下の高杉晋作を、こよなく愛した。三味線をひきながら奇兵隊を指揮した。
 「面白いじゃないか。こんふうに悠々と指揮した晋作は、よほどの大人物だ。我々の人生も、晋作のように悠々といきたいものだ。
 もし歴史上の人物に会えるものなら、ぜひ高杉晋作には会ってみたいな」と笑う。
「先生、でも明治維新の志士たちは、生活が、めちゃめちゃでした」
 きちょうめんな青年から、こんな声があがった。
「たしかに、そうだ」と会長は認めた。
「革命だから、やむをえない面もあるが、要するに彼らは遠視眼であった。国家のことのみを考え、自分のことを
考えていない。これでは駄目だ。我々は正視眼である。国家のためであり、また自分のためでなければならない」
 晋作に会ってみたい — 戸田門下から高杉晋作のような傑物が欲しいというシグナルでもあったろう。
 維新の志士を出した長州藩(山口県)は、明治政府でも実権を握り、その後、保守政党の牙城となる。
 学会の布教も後れを取っていたが、後に池田大作部隊長が戸田会長のもとで「山口作戦」を立案する。晋作のように自在に転戦し、組織を躍進させるのは、昭和三十一年(一九五六年)秋から翌年にかけてのことである。

 戦後、どの会社でも雨後の笥のように労働組合が結成された。日本国憲法によって労働基本権が認められ、大規模なストライキが世間を騒がせていた。
「ストライキの話し合いは、全くへたくそだ。話し合いのこつは、刀を持って、抜くぞ、抜くぞという気配を見せながら交渉するのだ」
 組合活動に身を挺していた青年もいたが、まったくその通りだと手を打った。
 戸田会長は会社を経営し、多くの若者を雇ってきた。その経験から青年像も語った。
「人の信用を得る根本は約束を守ることだ。何を犠牲にしても、絶対に約束をがっちりと守ることにより、信用がえ得られる。これは青年の絶対社交術である。できないことは、はっきりできないと断る。引き受けたら、絶対にやる。これが信用の根本であり、金はかからない」
 金のかからない方法を知って、彼らは大いに喜んだので
ある。
 誰よりも人生の浮沈を味わってきた師の、ふとした一言には、千鉤の重みがあった。
「自分自身を、じっと見つめなければ宿命の打開はできない。指導に際しても、宿習に悩む自分の姿をそのまま見せてやればよい。決して偉そうな顔をしてはいけない」
人材育成についても極めて現実的な持論があった。
「人材を輩出させるためには、忙しくさせるのだ。そうすれば組織が若返る。その中で人材が養成されるのだ」

 戦後、アメリカ文化の流入とともに、キリスト教が布教した。
「東洋の広宣流布といっても、その根本は一対一の個人折伏と座談会以外にはない。伝道のために牧師を派遣したり、慈善事業をやったり、職業化している宗派もある。
 しかし学会は、どこまでも座談会を中心にした折伏が原則である」


エリート主義の打破

 戸田会長の話は、まさに縦横無尽だった。
 新聞は一紙にかぎらず、何紙かを情報源にしていたようだが、極度な近視である。大きな見出しは読めるが、記事は判読しづらい。あまりラジオニュースもかけず、そばの者に、よく古典や歴史小説を朗読させていた。それでいて、ずばりと現代社会の事象の本質を突く。
 朝鮮戦争(昭和二十五年-二十八年)の報道でも、南北の対立を後ろで操る米国、ソ連の動向を追った記事は多かった。
 しかし、会長は「彼らのなかには(中略)『お前はどっちの味方だ』と聞かれて、驚いた顔をして『ごはんの味方ほうで、家のある方へつきます』と、平気で答える者がなかろうか」と「大白蓮華」の論文に書いている。

さらに水滸会で、今に世界の指導者がくるぞ、と将来を思い描く。実際家らしく、具体的な建物の間取りまでうれしそうに語る。
 「一階は下足箱をたくさん置く。エレベーターもつくる。三階は広間にする。四階は外国人を招く。
 五階には歴代の会長の写真を飾る。すばらしい日本間もつくるんだぞ。せっかく外国の首相を呼んでも、座らせるところがなくては困るからな。そうだな、毛沢東や周恩来、ネルー首相だの。マッカーサーは呼んでやろうよ」
 青年たちは酔いしれたように聞き入っている。
 ひとり池田部隊長だけが、近い将来の懸案として胸に刻んだ。
 今日、学会には大規模な収容人数の会館が整ったが、その原型もここにある。こうした施設を実際に建て、世界からの賓客を迎えるのは池田会長の時代である。
師が実名をあげた中国の周恩来とも会い、ネルー家の後継者とも友情を結んだ。

 水滸会の存在は当初、一般会員には伝えられなかった。
 昭和二十九年一月一日付の聖教新聞に、初めて紹介されている。水滸会は前年の七月に新出発したので、半年近くふ伏せられていた。
「男子青年部員にとって最大の名誉は水滸会員となる事だ」「先生の広布への構想を一言も聞き逃すまいと真剣そのもの」そして最後は、世界を震えさせる革命児の集いこそ水滸会と結ばれている。
 青年たちは色めき立った。水滸会は、一気にあこがれのまと的となった。
 戸田会長は推移を、じっと見守っていた。ある時、こんな話をしている。「本部にシロという犬がいる。よく、わしのひざに上ってくる。おっぽり出すと、また上ってくる。また、おっぽり出すと、今度は鼻にかみついてくる。
 わしのところへ来い。水滸会員とは会う。いつでも会長室に入ってきてよい。来るのはお前たちの勝手だ。会いたくないと断るのも、わしの勝手だ。断られて会いに来るのも、またお前たちの勝手だ」 
 水滸会員を愛犬シロにたとえるのも戸田会長らしいが、ストレートな愛情が伝わってくる。
 会いたければ来い。
 これが戸田会長のスタンスだった。
 自然体である。妙に構え、特別に選んだような「エリート主義」は微塵も感じられない。
 もし特別意識が水滸会にあれば、勘違いも、はなはだしい。またしても水滸会を中止にせざるをえない。同じ危倶を抱いていたのが-池田部隊長だった。
 増長、傲慢、思い上がりに厳しい。時に周囲からは過剰と見えるほど厳しかった。
 ある時、誰かが戸田会長に聞いた。
「先生、この中から大臣か、国会議員が出るんでしょうか」 会長は遠くを見つめるように語った。
「それは出るさ。政治家も出る。弁護士も出る。裁判官も出る。学者もいるだろう」
 まわりを見ても、そんなやつはいない。きっと将来、水滸会に、そういう人物が入っでくるのだろうと、参加者は勝手に納得した。
 その一方で、俺がなるに違いない、と思い上がっている者もいた。

『水滸伝』の暴れん坊・黒旋風李達(こくせんぷうりき)に話題が及んだ折。
「今で言えば誰だ」
青年の顔を見回した。皆が押し黙った。
「お前だな」
指されたのは後に議員になる男だった。
相撲も強い。足も速い。口もうまい。才におほれるタイプである。
別の機会にも見栄っ張りなこころね心根を切られている。しかし気づかない。
「そうかなあ、おれ、そうかなあ。そんなこと言われたら、いやんなっちゃうな」
おどけていたが、やがて退転していく。(続く)

時代背景
 戸田会長はアジアの民衆の幸福を願っていたが、ネルーのもとで独立したインドも、毛沢東・周恩来が建国した中国も、まだ貧困にあ えいでいた。朝鮮半島は動乱の舞台になった。水滸会が再出発した昭和28年7月、朝鮮戦争の休戦協定が調印された。朝鮮特需は日本経済を救った。昭和33 年完成の東京タワーも一部、戦争で使われていた戦車を解体した鉄材が原料になる。

2009年1月20日付 聖教新聞









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