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晴ればれとBlog

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第3代会長就任60周年記念 

2020/08/06
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​〈第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶〉 特別編 民衆勝利の大叙事詩


​​小説「新・人間革命」起稿(1993年)脱稿(2018年)の日​​

「8・6」小説『新・人間革命』起稿の日 師弟の真実を世界へ! 未来へ! 05:32  ​  ​

8・6広島「原爆の日」に書いた冒頭の一節
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」


 きょう8月6日は、広島「原爆の日」。原子爆弾が史上初めて実際に使用され、75年となる。池田大作先生は1993年のこの日、小説『新・人間革命』を起稿した。以来、世界に対話の波を起こし、平和建設への「弟子の道」を書き記して25年。2018年の同じ8月6日、全30巻に及んだ民衆勝利の大叙事詩を書き終えた。『人間革命』執筆開始からは、世紀をまたいで54年。その壮絶なペンの闘争を「師弟凱歌の記憶」特別編としてたどる。

 ──この日から、恒久平和建設への新しき鐘が鳴り渡った。
 ──この日から、金色燦たる創価の師弟の新しき大道が開かれていった。
 ──この日から、池田先生の、命を削っての新しき激闘の歴史が始まった。

 1993年8月6日。先生は、多くの青年と共に、長野研修道場に遠来の賓客を迎えた。
 インド国立ガンジー記念館館長(当時)のN・ラダクリシュナン博士である。“独立の父”マハトマ・ガンジーの孫弟子に当たる著名な平和活動家だ。
翌日には、広島市内での講演会を控えていた。

 原子爆弾が広島に投下されてから48年となったこの日。博士はガンジーが全ての暴力を否定し、“「魂の力」は原子爆弾よりも強い”と話していたことに触れ、語った。「この、誰もが持つ『魂の力』を引き出し、平和を生み出していく。これこそ池田先生が進めておられる運動です」


 会見で先生は、一枚の原稿用紙を手に取り、博士に紹介した。
 そこにはこう記されていた。「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」
 この日に書かれたばかりの『新・人間革命』の冒頭部分だった。
 「戦争ほど、残酷(ざんこく)なものはない。戦争ほど、悲惨(ひさん)なものはない」から始まる小説『人間革命』と、対をなす書き出しである。

2020年8月6日
 恩師・戸田先生の精神を伝えゆくため─「後継の“弟子の道”を書かねばならぬ」
起稿の日に語り合ったインドN・ラダクリシュナン博士 「原爆よりも強い“魂の力”を引き出し平和を生み出す。これが池田先生の運動です」

小説『新・人間革命』執筆開始の日、インドのN・ラダクリシュナン博士と会見。池田先生は、“人生は戦いです。「精神闘争」が人類を高めてくれます”と。人類の進歩に果たす宗教の役割などを巡って縦横に語り合った(1993年8月6日、長野研修道場で)

 インドや日本等で出会いを重ね、池田先生の著作を読み込んできた博士は、今も長野での語らいを鮮明に記憶するという。「原稿を見せていただいた時、私が率直に思ったのは、“池田先生は師匠の夢の実現のために生きている指導者だ”ということでした」

師との“最後の夏”
 なぜこの日、この地で小説『新・人間革命』の筆を起こしたのか──。
 池田先生は1957年8月、恩師・戸田城聖先生に呼ばれ、長野・軽井沢へ急行。共に浅間山の鬼押出に足を運び、師弟の語らいのひとときを過ごした。
 大噴火で流れ出た溶岩が織り成す奇勝(きしょう)を眺(なが)めつつ、師は“大自然の現象も、仏法の法理に照らせば明らかになるものだ”等と縦横に語った。「ほかに、何か聞きたいことはないかね」
 池田先生は戦争の脅威(きょうい)、中でも原水爆こそ現代の最大の脅威ではないかと尋(たず)ねた。東西冷戦の中、世界が覇を競うように核実験を繰り返していた。
 「そうだ。そうなんだよ。私も、最近、この問題について、考え続けているんだよ」「なんとしても、原水爆の廃絶への道を開かねばならぬ。そこに創価学会の使命もある」
 恩師は逝去の8カ月前。体は衰弱しても、その心には、核軍拡という人類滅亡への道を止め、恒久平和を実現するとの闘魂(とうこん)が赤々と燃えていた。
そのためには、断じて世界広布を成し遂げねばならない──。

 池田先生はこの夏に、師の生涯と精神を正しく伝える小説『人間革命』の執筆を固く誓った。それが全12巻で完結をみた後、続編となる『新・人間革命』をつづるにいたった理由を「はじめに」で述べている。
 「続編として、『新・人間革命』の執筆を思いたったのは、先生亡き後の広宣流布の世界への広がりこそが、恩師の本当の偉大さの証明になると考えたからである」「恩師の精神を未来永遠に伝えゆくには、後継の『弟子の道』を書き残さなければならない」

壮絶な執筆闘争

「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」――小説『新・人間革命』の書き出しが記された原稿


 「はじめに」は、こう続いている。
 「『新・人間革命』は、完結までに30巻を予定している。その執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」
 『人間革命』は、多忙を極める中での執筆であり、完結までに28年余を要した。先生は、新聞小説を続ける日々がどんなに過酷(かこく)な道のりかを誰よりも熟知(じゅくち)していた。
 “続編”の連載は、初代会長・牧口常三郎先生の50回忌に当たる1993年11月18日付の聖教新聞からスタートした。山本伸一が師の遺志を継いで、アメリカ、カナダ、ブラジルへと、世界広宣流布の第一歩を踏み出す場面から始まった。

 小説の中の伸一は、32歳の青年会長。
 一方、この執筆開始時、池田先生は65歳。広布の水かさも、平和・文化・教育運動の厚みも大きく増していた。先生は、若き山本伸一に勝る勢いで、平和への行動を続けていた。

 例えば──。
 『新・人間革命』第1巻の「開拓者」の章が連載中の94年5月から6月、ロシア、欧州を歴訪。
 モスクワ大学での講演、ゴルバチョフ元大統領との会見、イタリア・ボローニャ大学での講演、フィレンツェでの「日本美術の名宝展」、英チャールズ皇太子との会見、グラスゴー大学名誉博士号授与式等に臨んでいる。
 その間、第18回SGI総会に出席するなど、寸暇を惜しんで同志を激励した。
 その中で、連載は続いたのである。
 海外への平和旅に備えての、事前の原稿執筆、ゲラ刷りのチェックなど、どれほどの辛労であったか──想像に余りある。

テープに吹き込み
 広宣流布の指揮をとりながら、小説の新聞連載を続けることが、いかに至難であるか。小説『人間革命』執筆の際には、激しい疲れと発熱のため、口述(こうじゅつ)をテープに吹き込んで原稿を作ったこともあった。
 その場面が『新・人間革命』第14巻「烈風」の章に描かれている。
 同章で中心的に記されているのは、69年12月の関西・中部指導。肺炎による高熱を押して訪れた和歌山の会合では、「武田節」を舞って参加者を鼓舞した。
 その先生の姿は、今も関西をはじめ多くの同志の胸に焼き付いている。
 学会はこの時、悪意の中傷が発端となった、いわゆる「言論問題」の嵐の中にいた。


 年が明けても、先生は激しい疲労と熱が続く中で、広布への力走を止めることはなかった。しかし、どうしてもペンを握ることが困難になった。
 先生は、執務室に運び込んだテープレコーダーに向かい、口述での“執筆”を行った。
 「彼は、口述を始めると、すぐに息が苦しくなった。痰(たん)が喉(のど)に絡(から)み、咳(せき)が止まらなくなることも少なくなかった。額には、脂汗が滲(にじ)んだ」(「烈風」の章)
 先生は一切の障魔の矢面に立ち、仏と魔との熾烈(しれつ)な戦いの指揮をとりながら、全同志に勇気と希望を送り続けたのである。

香峯子夫人の支え
 第20巻「友誼の道」の章には1974年5月の初訪中の模様が描かれている。
 国交正常化から2年弱。両国友好に大きく貢献した創価学会会長の初訪問は注目を集め、訪中記の執筆依頼が重なった。中国の実像を伝えようと、先生はこれらを引き受け、訪中の終盤から、時間を見つけては筆を走らせていたという。
 むろん、当時の先生には小説『人間革命』の締め切りも待っていた。
 帰国直後に記された第9巻「発端」26の原稿の欄外には、「6月25日。会長より口述、筆記する。香峯子」との書き込みがある。6月16日の帰国から、9日後の原稿である。
 また、「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と、欄外に書かれた原稿も残されている。
 卑劣(ひれつ)な謀略(ぼうりゃく)による第1次宗門事件の渦中にあっても、宗門僧らの批判を覚悟で、「苦労している同志に勇気を送りたい」と、『人間革命』第11巻の連載を開始している。この時も、体調が優れず、記者への口述で連載を重ねた。

永遠に指揮をとる
 その苦節の歳月を経て始めた『新・人間革命』の執筆である。連載期間中、長期の休載はなかった。むしろ、章と章の間の短い休載期間を埋めるように、1998年1月からは、随筆「新・人間革命」の掲載が始まった。
 第1回は、新年号に続くその年の最初の新聞である1月4日付。タイトルは「日に日に新たに」。若き日の日記に記した、10歳から60歳までの10年ごとの人生の節目と目標を述懐し、こうつづった。


 「ここに、60歳以降の、わが人生の歩みと推測を記せば、たとえば、次の如くなる哉。
 70歳まで……新しき人間主義の哲理を確立
 80歳まで……世界広布の基盤完成なる哉
 このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」
 当時の先生は70歳。
 『新・人間革命』完結への歩みは、そこからさらに20年間続いていく。

終わりなき師弟旅
 『新・人間革命』の起稿から四半世紀を経た2018年、池田先生は、執筆開始と同じ8月6日、長野の地で執筆を終えた。そして新聞連載は、恩師の「原水爆禁止宣言」の発表の日となる9月8日付で完結を迎えた。前作の『人間革命』執筆開始から数えて、実に54年。連載回数は『人間革命』1509回と『新・人間革命』6469回を合わせて、7978回に上り、日本の新聞小説史上、最長の金字塔となった。
 現在では『新・人間革命』だけでも13言語に翻訳され、世界中の同志が胸中で師弟の対話を重ねつつ、日々、自身の人間革命に挑んでいる。

 池田先生は、『新・人間革命』の「あとがき」に記した。「完結を新しい出発として、創価の同志が『山本伸一』として立ち、友の幸福のために走り、間断なき不屈の行動をもって、自身の輝ける『人間革命』の歴史を綴られんことを、心から念願している」


 「地球上から悲惨の二字をなくしたい」と願った戸田先生。その偉業を世界に宣揚し、「戦争の世紀」を「平和の世紀」へ転じゆく大長征を続けてきた池田先生。その不二の師弟に続き、生命尊厳の世界の建設へ、恒久平和の世紀の創造へ、出発する決意を、広島「原爆の日」75年のきょう、新たにしたい。


(2020年8月6日   聖教新聞)







Last updated  2020/08/06 01:34:08 PM
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2020/07/25

​​〈第3代会長就任60周年記念〉
広布史アルバム 7 中部の友「7・27」
「この道」歩まん 朗らかに​

“今日を、中部の宿命を転換する原点に”──中部記念幹部会に出席した池田先生は、「生死一大事血脈抄」の一節を拝して、「組織は人間の和」であると強調。指導の後、金糸で刺しゅうされた「堅塁(けんるい)」の二字が躍る「中部旗」を高々と掲げ、会場中央へ。
万雷の拍手に包まれ、代表に同旗が授与された(1976年7月27日、名古屋文化会館で)

 「7・27」。中部の同志が、池田先生との誓いに燃え立つ原点の日である。
 1976年(昭和51年)7月27日、中部の記念幹部会(名古屋文化会館)に出席した先生は、堅塁の象徴である「中部旗」を贈った。中部の頭文字「C」が赤・青・緑の3色で描かれ、3県の強き団結を示すように、「堅塁」の金文字が輝いていた。
   
 愛知と三重と岐阜の団結を象徴する「中部旗」が授与され、「中部の日」の淵源となった歴史的な会合である。
 私の決意は深かった。
 “今日の出会いを、中部の苦しき宿命を転換する原点にしたい”
   
 1970年(昭和45年)の“言論問題”の前後より、学会は、数人の代議士からも罵倒され、ある時は、テレビを使い、雑誌を使い、演説会を使い、非難中傷された。あらゆる会合で、火をつけるように、悪口罵詈(あっくめり)を煽(あお)り立てられた。
 なんという悪逆(あくぎゃく)か! なんという狂気(きょうき)じみた悪口か!
 私自身も、愛知県の代議士から、国会喚問(かんもん)の要求を初めてされた。
 「信教の自由」を侵害(しんがい)する狂暴(きょうぼう)な嵐であった。理不尽(りふじん)な罵倒(ばとう)の連続であった。
   
 一部の評論家や著名人、そしてまた何人かの代議士たちは、これだけの大攻撃を受けた愛知の学会は、必ず崩壊(ほうかい)するであろうと囁(ささや)いていた。
 しかし、中部の創価学会の勇敢(ゆうかん)なる信心は、凄まじき苦境を乗り越え、すべてに大勝利したのだ。それは、永遠に燦(りん)と輝(かがや)きわたる歴史として残るにちがいない。
   
 中部旗の授与から2年後(78年)、同じ7月27日に開催された記念幹部
会(中部文化会館〈当時〉)では、池田先生が作詞した中部歌「この道の歌」が発表された。
   
 「この道」とは、信念の道であり、そしてまた正義の道、幸福の道、同志と歩む勝利の道である。それは、我ら「創価の烈士」が進みゆく大道なのだ。
 当初の発表では、歌詞の結びは、「ああ中部中部 諸天舞う」となっていた。
 だが、皆の合唱を聴きながら、最後の歌詞がちょっと違うな、と思った。
諸天が「舞う」だけでは、主体である我々にとっては、受動的になってしまうからだ。
 大事なのは、諸天をも「舞わせる」、つまり「動かしていく」、我々自身の強き祈りと行動にしていくべきであると思った。
 そこで、後になって申し訳なかったが、「諸天舞え」と直したのである。
 仏法の勝負は厳しい。中途半端な、ひ弱な精神では、断じて勝てない。
 民衆の悲嘆(ひたん)の流転を変え、堂々たる民衆勝利の大喝采(だいかっさい)を叫ぶことはできない。
 ゆえに、徹して、断じて強くあれ! ひとたび戦いを起こしたなら、必ず勝て!
 必死の一人は、万軍に勝るのだ!
   
 「広布の一番星」と輝く友は、自らが決めた「この道」を、これからも進む。「堅塁・中部」の誇りも高く。


(2020年7月25日 聖教新聞)








Last updated  2020/07/25 11:14:25 AM
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2020/07/22

第3代会長就任60周年記念​「師弟凱歌の記憶」​

​第12回 妙音奏でる平和の天使

​Online鼓笛隊総会   03:21

きょう「7・22」結成記念日 創価文化の旗手・鼓笛隊 

 法華経に登場する妙音菩薩は、苦悩渦巻く世界に妙なる調べとともに現れ、人々を幸せへと導く。
 さながら“現代の妙音菩薩”として、華麗なメロディーと舞で、見る人の心に感動と勇気を送ってきたのが創価の鼓笛隊だ。


 結成は1956年7月22日。その数カ月前、女子部の代表が、青年部の室長だった池田大作先生のもとへ。広布の展望を語り合う中で、鼓笛隊の結成が話題に上った。
 だが、皆、貧しく、すぐに楽器をそろえる余裕などない。それでも先生は「どうにかして、楽器を買ってあげるから、少々、時間をくれないか」と語った。その後、自ら費用を工面して、ファイフとドラムを贈ったのである。
 33人で出発した、手づくりの鼓笛隊。先生は「私は、この新しき『平和と文化の旗手』の誕生が、ことのほか嬉しかった」と真情をつづっている。

 しかし、誕生した当初はファイフもドラムスティックも初めて手にする人ばかり。決意とは裏腹にまともに音が出せず、“スースー隊”と笑う人もいた。
 悔しさをにじませるメンバーに先生は、「最初は、何を言われてもいいじゃないか。いつか、世界一になればいいんだ」と。さらに、“学会の鼓笛隊は「戦争の世紀」に終止符を打つために歴史の舞台に颯爽と登場した、尊き「平和の天使」なのである”と、その深き使命を示し、励まし続けてきた。


「鼓笛隊の日」を記念して先生が贈った和歌


 師の期待を抱き締めて、鼓笛隊は結成以来、国内各地でパレードに出演し、69年には全米総会を記念してアメリカで日米鼓笛隊がパレード。81年には、2月にアメリカ、5月にソ連へ。モスクワでは先生と共に、戦争犠牲者を追悼する「無名戦士の碑」を訪ね、鎮魂の曲を演奏するなど、文化の力で人々を結ぶ“無冠の外交使節”として活躍した。


 明年に結成65周年を迎える今、鼓笛姉妹の連帯は世界に広がり、「太陽のように明るく 月光の如く清らかな鼓笛隊たれ」の指針のまま、世界中に妙音を響かせる。
 コロナ禍にあっても一人でも多くの人に勇気を送ろうと、メンバーはオンラインでの演奏を実施。たゆみなく技術を磨く。
 鼓笛隊の友に贈った随筆に、先生は、こうつづる。
 「何があっても、常に大いなる目標へ、さらに次なる目標へと、力強く前進し続ける。これが『創価の心』だ。この強き金剛の心こそ、鼓笛隊の誉れの伝統だ」
 逆境を力に変える妙音を今こそ!──鼓笛姉妹は、地球を包む音色で今日も希望を届ける。


(2020年7月22日   聖教新聞)







Last updated  2020/07/22 01:06:50 PM
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2020/07/17

創価学会公式ホームページ「SOKAnet」に開設された、池田先生の第3代会長就任60周年を記念する特設ページ「映像で見る池田SGI会長の行動と軌跡」。

​https://www.sokanet.jp/recommend/daisakuikeda-movies/

特設ページでは、「文明間対話の軌跡」「識者が語る池田大作」「文化・芸術」「海外学術講演」など、テーマ別に映像がまとめられています。

 「文化・芸術」では、先生の写真文化への貢献を描いた番組「自然との対話――池田大作写真展」をはじめ、東京富士美術館や民主音楽協会の歩みなどを紹介。このほか、先生の世界の大学・学術機関等での講演をまとめた「海外学術講演」などもあります。
 先生の平和・文化・教育への功績を、さまざまな角度から知ることができる特設ページ。ぜひ一度、閲覧してみてください。







Last updated  2020/07/17 12:06:25 PM
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​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」
第11回「不敗の原点 大阪大会」​


1957年(昭和32年)7月17日の「大阪大会」で池田先生が師子吼(大阪市中央公会堂で)


 1957年(昭和32年)7月17日、大阪・中之島の大阪市中央公会堂で歴史的な集いが行われた。池田大作先生の不当逮捕に抗議する「大阪大会」である。場内は満員となり、場外に1万数千人の同志があふれた。



 同年4月、参院大阪地方区補欠選挙の支援活動において、熱心さのあまり、選挙違反をした会員が出た。それを学会の組織的犯行と一方的に見なした大阪府警が、支援の責任者であった池田先生を逮捕。7月3日のことだった。



 15日間の勾留の末に、7月17日正午すぎ、先生は釈放され、大阪拘置所を出た。東京から駆け付けた戸田城聖先生をただちに伊丹空港で迎え、午後6時からの大阪大会に臨んだ。開会からまもなく、猛烈な雨が降り、雷鳴(らいめい)が轟(とどろ)いた。会場を取り囲んだ同志は、特設スピーカーから流れる登壇者の声を、身じろぎもせずに聞いていた。

「大阪大会」で実際に使われたマイク
 いよいよ池田先生が登壇。第一声が終わると大拍手の中、戸田先生が立ち上がり、自ら愛弟子のためにコップに水を注ぐ。



 「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」

 池田先生の師子吼に、会場を揺るがす大拍手が再び鳴り響いた。



 雨と涙の中で参加者は誓った。“そうや! 戦いは負けたらあかん!”“これからは全ての戦いに信心で勝つ!”

 

 終了後、先生は会場の外に出て、雨に打たれて聴いていた同志のために、音楽隊の演奏に合わせて何度も学会歌の指揮を執った。



1991年(平成3年)の7・17「大阪の日」記念幹部会を祝し、池田先生が贈った和歌。「七月の おお十七日の 炎をば 君の胸にも あなたの胸にも 合掌」と万感の思いを込めて

 以来、約4年半続いた裁判闘争を経て、1962年(同37年)1月25日、大阪地裁の無罪判決を勝ち取る。そして2月8日、エジプトのカイロで「控訴なし」の報を聞くのである。



 ――池田先生は1991年(平成3年)7月17日に行われた大阪幹部会に和歌を寄せた。



 「七月の おお十七日の


   炎をば 君の胸にも


    あなたの胸にも 合掌」



 「7・17」が巡り来るたびに、関西の友は常勝不敗の闘魂をたぎらせ、世界の同志が立正安国の誓いを新たにする。先生が証明した“信心しきったものが最後に必ず勝つ”との信念こそ、永遠に光る学会魂である。


「常勝の空」特別映像
 「大阪大会」から21年となる1978年(昭和53年)7月17日、関西の歌「常勝の空」(山本伸一作詞)が発表されました。このたび「7・17」を記念し、関西吹奏楽団・関西男声合唱団が「常勝の空」を演奏・合唱した特別映像を制作。こちらからご覧いただけます。


7.17記念 関西の歌 「常勝の空」​2:04

「いざや前進」と誓う
 小説『新・人間革命』には、池田先生が、関西の歌「常勝の空」を作詞した折の真情がつづられている。


 「関西の後継の勇者たちが、“関西魂”を永遠に受け継ぎ、新しき飛躍を期す誓いの歌として、『関西の歌』が必要である」(第28巻「広宣譜」)


 この歌の発表は、大阪大会から21年後の78年(同53年)7月17日。喜びの歌声と共に、新たな前進が始まった。


 先生の会長辞任から3年を経た82年(同57年)3月。第1回関西青年平和文化祭でも、「常勝の空」の大合唱が轟いた。阪神・淡路大震災をはじめ、さまざまな苦難にも、同志は「常勝の空」を口ずさみ、前を向いた。
 

「『今再びの 陣列に』――大変であればあるほど、燃え上がるのが関西魂だ。


 『君と我とは 久遠より』――誰人たりとも、我ら関西の同志の絆を断ち切ることはできない」(関西広布写真集『常勝の共戦譜』「発刊に寄せて」)
 

今、“関西の月”7月から、新たな時代を開く時。常勝の同志は誓う。「いざや前進  恐れなく」と。


(2020年7月17日   聖教新聞)







Last updated  2020/07/17 11:44:11 AM
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2020/07/16

〈第3代会長就任60周年記念〉 

​師弟凱歌の記憶 特別編 世界が憧れる幸福の宝島


きょう池田先生の――沖縄初訪問60周年


美しい海を望む恩納村の沖縄研修道場。池田先生の提案で、かつての核ミサイル発射台が「世界平和の碑」に生まれ変わった

「私は 沖縄を詩う/私は 沖縄を愛する/私は 沖縄に涙する/そして 私は 沖縄に/民衆の幸の凱歌の潮騒を聞く」(長編詩「永遠たれ“平和の要塞”」)――きょう7月16日で、池田大作先生が沖縄を初訪問して60年となる。海も大空も大地も、人も美しい沖縄には、「命(ぬち)どぅ宝(たから)」(命こそ宝)の心が輝く。先生が「3日間で3年分は働く」との決意で臨んだ沖縄初訪問の歴史を、「師弟凱歌の記憶」特別編としてつづる。

 “池田先生が初めて沖縄へ!”――南国の友が待ちに待った朗報は、1960年(昭和35年)6月10日付の本紙1面で伝えられた。
 先生は5月3日の会長就任以来、関西に始まり北海道、九州、東北、中部、中国の幹部会に出席。就任式で亡き恩師・戸田城聖先生の七回忌までの目標として掲げた会員300万世帯の達成へ、怒濤(どとう)のごとき拡大の波動を起こしていった。
 戦後15年。沖縄はまだ、アメリカの施政権下にあった。本土との往来にはパスポートがいる。本紙の記事は「なかでも特筆すべきことは、会長池田先生が初めて海外に出発され、沖縄において指導されること」と強調している。沖縄初訪問は、世界広布への助走ともいうべき意義を含んでいたのである。


 沖縄の友は沸き立った。
 沖縄広布の一粒種として折伏の火ぶたを切った故・安見福寿さんの喜びは、とりわけ大きかった。長男の宏志さん(副圏長)が述懐する。「この時、私は14歳です。父は買ったばかりの車を毎日のように走らせ、島中を折伏や個人指導に回っていました。道があまり整備されていない時代で、よく山の中で立ち往生したことを語ってくれました」
 仏法の話をすると、たいてい「ヤマトゥ(本土)から来た宗教」と揶揄(やゆ)された。それでも同志は、「必ず幸せになれる信心です」と歯を食いしばった。
 先生の訪問を拡大の実証で飾ろうと、折伏の勢いは加速。約7000世帯の陣容を整え、先生の初来島を迎えたのである。

「立正安国論」上呈700年の佳節に
 7月16日午後2時過ぎに羽田をノースウエスト機でたった池田先生は、約3時間半のフライトを経て、夕刻、那覇国際空港に降り立った。
 ターミナルには歓迎の同志約200人が詰め掛けていた。入国審査を受け、ロビーに姿を現した先生を、地区部長の安見福寿さんらが迎えた。
 「先生、ようこそ」――そう言ったきり、胸がいっぱいになった安見さん。
 先生は「働くよ。3日間で3年分は働くからね」と温かく包み込んだ

 宿舎に移り、沖縄の実情を丹念に聞いた。
 日本の敗戦から15年――「鉄の暴風」と形容され、県民の4分の1が犠牲になった地上戦を経験した沖縄は、戦後も基地建設に伴う土地の強制収用など、筆舌に尽くせぬ苦渋の道を歩んできた。祖国復帰は、当時、沖縄の人々の痛切な願いであった。
 夕食後には、同行幹部が担当して、各部ごとの指導会を開催。続いて、池田先生が出席し、班長・班担当員以上が参加して幹部会が行われた。そこで先生は、翌日の大会で沖縄支部を結成したいと提案した。
 「太陽が東から昇り、西を照らしていくように、この沖縄に始まり、やがて、台湾、香港、インドなど東洋の各地に、支部が誕生していくことでしょう。その先駆けの使命を、沖縄の皆さんに担っていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 万雷の拍手が起こった。
 沖縄に第一歩をしるした7月16日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈して700年。一番苦しんだ人が一番幸せに――この“世界広布即世界平和”の新たな一歩を、沖縄から踏み出したのである。

「前進」の決意で船出
 翌7月17日。支部結成大会の会場前には、朝から長蛇の列ができた。沖縄本島はもとより、宮古や八重山の島々からも、喜々として友が集って来た。
 空は青く、太陽の光は刺すようにまぶしい。
 新垣昇さん(沖縄方面参事)は、場外で整理誘導役員に就いていた。高校3年生で、入会2年目だった。「先生を沖縄にお迎えできたことが誇らしく、汗をびっしょりかきながら、学生服で任務に就きました。また、沖縄らしい夏の暑い時に来てくださったことに、感激したことを思い出します」
 訪問に際し、周囲から“もっと涼しい時期に”との意見もあったという。だが先生は「同志の労苦は、最も大変な時に現地へ行かなくては分からない」と、盛夏の訪問を決めたのである。
 会場は満員。外にはゴザが敷かれ、場内外で1万2000人を超える友が集った。場内の正面には、「前進」の大文字が掲げられ、求道の熱気に満ちていた。


 登壇した先生は、軍部政府に抵抗し、獄死した牧口常三郎先生と、生きて出獄した戸田城聖先生の闘争に触れつつ、未来のために、世界の平和に貢献しゆく学会の使命の深さを語った。
 さらに、「文証」「理証」「現証」の明快な基準に照らしてこそ宗教の浅深、高低が明らかになることを強調。中でも、最も大切な功徳の「現証」を積み上げ、その確信と体験を語りながら折伏を進めてほしいと訴えた。
 「ユタ」の言葉によって物事を決める慣習などが色濃く残り、学会への無理解による非難中傷を浴びてきた友の心に、先生の明解な指導が勇気の炎をともした。
 この日、沖縄の女子部の中心者となった本山多津子さん(総県婦人部主事)は語る。「会合に先立って、先生は“最も大事なことは福運だよ”等と、女性の生き方を諄々と説いてくださいました。あの結成大会でのお姿、決意を生涯忘れることはありません」
 会合を終えた先生は、支部結成を祝う寄せ書きに力強い筆でつづった。
 「沖縄の同志よ団結せよ」

沖縄戦の激戦地で厳粛に題目三唱を
 初訪問の最終日となった18日午前。池田先生一行は沖縄戦の激戦地である南部戦跡を訪れた。
 太平洋戦争で悲惨(ひさん)な地上戦が展開された沖縄では、“一木一草といえどもこれを戦力化すべし”の号令のもと、全島が要塞化(ようさいか)された。本土決戦までの時間を稼ぐ「捨て石」にされ、米軍による激しい攻撃が続いた。日本の守備隊が潜んでいそうな所は火炎放射器で焼かれ、激しい砲爆撃で丘は削られた。日本軍によって“自決”を強要される悲劇もあった。マラリアや飢えで命を落とした人なども含め、県民の4人に1人が犠牲になったとされる。
 一切の掃討戦などが終わるのは、8月15日の終戦から20余日が過ぎた9月7日のことだった。
 池田先生の一行は最初に、看護要員として動員され亡くなった学徒隊らを慰霊する「ひめゆりの塔」へ向かった。塔のそばには、ガス弾によって乙女たちが命を落とした自然壕が口をあけている。関係者の説明を聞き終えた先生は、つぶやくように「残酷(ざんこく)だな……あまりにも残酷だ」と。厳粛に題目を三唱した。


 さらに一行は摩文仁(まぶに)へ。
 先生は、従軍した学徒を合祀(ごうし)する「沖縄師範健児之塔」や、人々が身を隠した洞窟を視察しながら、ゆっくりと踏みしめるように歩みを運んだ。
 カメラを持参して同行した久保田淑子さん(県婦人部主事)は、健児之塔の前で祈りをささげる先生の様子を、鮮明に記憶している。
 「先生は、『皆さんの犠牲は無駄にしません。必ず沖縄を仏国土に変えてみせます』と強くおっしゃったんです。その深いお心を感じながら、必死でシャッターを切りました」
 先生は後に、南部戦跡を訪れた真情をうたった。
 「世界不戦への誓いを固めつつ思った/いつの日か書かねばならぬ/小説『人間革命』の筆を/もっとも戦争の辛酸をなめた/この沖縄の地で起こそうと」
 敗戦間近の焼け野原から広布の戦いを開始した戸田先生の生涯を通して、世界平和を開く指導原理と、それを実践する学会の使命を、ここ沖縄から書きつづる――この池田先生の決意を知る人は、この時、まだいなかった。

「人間革命」の執筆そして平和の天地に
 池田先生は61年(同36年)の沖縄総支部結成大会、62年(同37年)の沖縄本部落成式に出席。
 4度目の訪問となった64年(同39年)12月2日、沖縄本部で小説『人間革命』のペンを執(と)った。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」――。
 前述の久保田さんは、翌65年(同40年)1月1日付の本紙で連載を開始した『人間革命』の第1回を読み、思わず「あっ」と息をのんだという。沖縄で書かれたことは知らない。だが自分が沖縄戦で痛感したことが、そのまま書かれていると思えたからだ。
 以後も池田先生は、沖縄訪問を重ね、その歴史は17回を数える。


 沖縄支部の初代婦人部長を務めた仲間玉枝さん(総県婦人部総主事)は「先生は沖縄にいらっしゃるたびに、私たちに『三変土田(さんぺんどでん)』の法理を教えてくださったと思います」と振り返る。
 その象徴が、恩納村(おんなそん)の沖縄研修道場にある「世界平和の碑」。
 碑はかつて米軍の核ミサイル・メースBの発射台だった。
 「永遠に残そう! 『人類は、かつて戦争という愚(おろ)かなことをした』との一つの証(あか)しとして」。この先生の提案によって、84年(同59年)、平和への誓いのシンボルに生まれ変わった。


 本部町の沖縄平和記念墓地公園には、「永遠平和の碑」がある。99年(平成11年)2月、同墓園を初訪問した折、先生は沖縄の代表と共に、碑の前で厳粛に祈りを捧げた。
 「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」
 深い決意を込めた鋭い声を、沖縄の同志は忘れない。
 沖縄戦終結から75年。
 先生の初訪問から60年。
 沖縄の父母たちは、師の限りない励ましを抱き締めて、世界が憧れる幸福の宝島を築いた。「命どぅ宝」の精神を語り継ぐ青年たちの躍動も頼もしい。
 限りない先生の励ましを胸に、「世界最初の広宣流布の地帯」を目指す沖縄健児の意気は高い。


(2020年7月16日 聖教新聞)

〈案内〉

沖縄広布の歴史を紹介する番組「一番苦しんだ人が一番幸せに~池田先生と沖縄~」(15分)、「世界で最初の広宣流布の天地に!――沖縄の誉れの使命」(15分)が、モバイルSTBで視聴できます。

沖縄で小説『人間革命』を起稿したことを記念して、池田先生が後年、屛風に揮毫した。

「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」――小説『人間革命』の冒頭の一節に続き、「昭和三十九年 十二月二日 沖縄本部二階 第一和室にて 留め記す也」と


沖縄で小説『人間革命』を起稿したことを記念して、池田先生が後年、屛風に揮毫した。「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」――小説『人間革命』の冒頭の一節に続き、「昭和三十九年 十二月二日 沖縄本部二階 第一和室にて 留め記す也」と



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Last updated  2020/07/16 11:54:13 AM
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2020/07/14

​​​​池田先生の会長就任60周年「記念映像上映会」を各地で開催

 池田大作先生の第3代会長就任60周年の「記念映像上映会」が、10日から始まった。
 新型コロナウイルスの感染防止に万全の対策を取りながら、各地の会館等で順次、開かれる(開催日時・単位・参加人数は各県・区で決定)。
 
 記念映像のタイトルは「指揮は われにと――不滅の第三代会長就任式」。今回、初めて公開される貴重な写真や音声などもあり、第2代会長・戸田城聖先生の後を継ぎ、一人立たれた池田先生の真情と広布伸展の軌跡に迫る。
 創立90周年の「11・18」へ、師の闘争に連なる実践を約し合い、新たな出発を切る契機となろう。

恩師の遺言“一歩も退くな!”
 1960年(昭和35年)5月3日、東京・両国の日大講堂――。
 恩師・戸田先生が逝いて2年。全学会員が待ちに待ったその日が訪れた。
 初夏の陽気に包まれる中、全国の代表約2万人が集い、池田先生の第3代会長就任式が挙行(すいこう)されたのである。
 
 「若輩(じゃくはい)ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀(けぎ)の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執(と)らせていただきます!」
 
 青年会長による広布誓願の大師子吼(だいししく)。瞬間、大鉄傘(だいてっさん)を揺るがす雷鳴(らいめい)のような拍手が沸き上がった。
 先生は続けた。“恩師の7回忌までに、300万世帯を成し遂げたい”と。
 そして、学会歌「威風堂々の歌」が響き渡り、歴史的な式典は幕を閉じた。
 
 以来、池田先生は全国・全世界を駆(か)け巡(めぐ)り、折伏の大旋風を起こした。池田門下の弟子たちは「一歩前進」を合言葉に、師弟共戦の闘争で続いた。
 
 62年(同37年)11月、学会は目標を上回るスピードで300万世帯の弘教を成就。会長就任10周年を迎える70年(同45年)1月には、755万7777世帯に。恩師の時代の実に10倍の陣容へと発展を遂げた。
 同年4月、戸田先生の13回忌法要で、池田先生は「750万世帯の達成」を恩師に報告。“「一歩も退くな!」との戸田先生の遺言を強く胸に刻み、勇気凜々(ゆうきりんりん)、再びの前進を”と訴えた。
 
 本年は、池田先生の会長就任から60周年の大佳節。“恩師への誓いを果たさん”と決然と立ち上がった先生の闘争に連なり、今再び、我ら池田門下の師弟誓願の大行進を開始する時である。


 民衆の幸福と安穏のために! 世界の平和と前進のために!
 
師弟の大行進を今再び
 上映会では、記念映像に先立って、原田会長の指導の動画が流された。
 会長は、コロナ禍の中、奮闘する「無冠の友」をはじめ全同志に心から感謝。そして、学会創立90周年の「11・18」、さらに100周年の2030年へ、池田先生の心を学び、先生の心をわが心として、今再びの前進を開始しようと訴えた。

感染防止対策を徹底しながら、各地で行われている上映会。横浜平和講堂では南横浜総県金沢総区の友が視聴した(12日)

 12日午後に横浜平和講堂(横浜市金沢区)で行われた上映会には神奈川・南横浜総県金沢総区の友が出席。参加者は語った。
 「戸田先生の不二の弟子として、報恩の誠を貫かれる池田先生の姿を拝見しました。先生が60年間、どのような思いで戦い抜いてこられたのかに接し、“弟子のあるべき姿”を学びました。私も池田門下生として、師弟不二の心で勝利の旗を打ち立てます」(壮年部)
 
 「池田先生の命懸けの闘争に、熱いものが込み上げてきました。特に、恩師の13回忌法要の場面での、先生の“師を思う弟子の一念”に触れ、胸を打たれました。どんな困難な状況でも、常に心に師匠を抱き、『一歩前進』していきます」(女子部)


記念映像上映会での原田会長の指導


人間革命の劇を師と不二の心で  

新しい生活様式の中で新しい広布の活動へ


一、池田先生の第3代会長就任60周年を慶祝する記念映像上映会の開催、誠におめでとうございます。
 
 新型コロナウイルス感染症の世界的な流行によって長期間の活動自粛を余儀(よぎ)なくされましたが、この間も「無冠の友」の皆さまをはじめ、広布のため地道な行動を貫いてくださってきた全ての皆さまに、まずは衷心(ちゅうしん)より御礼を申し上げます。
 
 感染状況を注視しながらの活動再開となりますが、これからも、「さきざきよりも百千万億倍・御用心(ごようじん)あるべし」(御書1169ページ)の御金言の通り、信心しているからこその聡明さで、ともどもに無事故と健康に細心の注意を払い、新しい生活様式の中での、新しい広布の活動に、仲良く、また、たくましく取り組んでまいりたいと思います。
 
 一、さて、これからご覧いただく記念映像では、1960年5月3日の池田先生の会長就任式、その前後の広布史が描かれています。
 
 「わが運命 かくもあるかと 決意せば 惑(まど)うことなし 恐(おそ)れることなし」
 
 これは、先生が第3代会長に就任されるにあたっての真情をお詠みになり、ずっと執務室に掲げてこられたお歌です。
 
 池田先生が、どのような決意で戸田先生から妙法の松明(たいまつ)を受け継ぎ、この60年、どのような覚悟で広布の指揮を執り続けてこられたのか。学会創立90周年を迎える本年の「11・18」へ、さらには創立100周年の2030年へ、今、再びの前進を開始するにあたり、私どもは、先生のお心を学び、先生の心を心としてまいりたい。
 
 一、池田先生は小説『人間革命』で、師弟の真髄について、次のように記されました。
 
 「師の意図(いと)するところが、現実に現れるか、現れないかは、弟子の実践の姿を見れば容易に判断のつくことである。師の意図が、脈動となって弟子の五体をめぐり、それが自発能動の実践の姿をとる時、初めて師弟不二の道を、かろうじて全うすることができる。師弟に通い合う生命の脈動こそ、不二たらしめる原動力である」
 
 「多くの弟子たちは、その困難(こんなん)さを避(さ)ける。師の意図に背(そむ)く考えは、さらさらないものの、師の意図を、ただ教条的にしか理解しない」
 
 「直面した現実を特殊な事態ととらえ、信心という根本を忘れ、浅薄(せんぱく)な世間智(せけんち)を働かせて現実に対応しようと焦(あせ)る。ここに至って、師弟の脈動が断たれていることに気がつかない」――このように「単なる師弟の道」と深淵(しんえん)なる「師弟不二の道」の決定的な違いを教えてくださいました。
 
 かつてない困難に直面した今こそ、「単なる師弟の道」をゆくのか、それとも「師弟不二の大道」を歩み抜くのか。一人一人が自身を見つめ、自身に問い掛けながら、新たな挑戦を開始してまいりたい。
 
 そして、師弟が脈動(みゃくどう)する、我ら池田門下の祈りで、智慧(ちえ)で、実践で、必ずや一国の宿命の転換を成(な)し遂(と)げ、さらには全人類の宿命の転換をも可能にする、壮大なる「人間革命」のドラマを、ともどもにつづりゆこうではありませんか。​


(2020年7月14日 聖教新聞)









Last updated  2020/07/14 12:55:32 PM
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2020/07/04

〈第3代会長就任60周年記念 広布史アルバム〉6 

昭和51年7月18日 「人間革命の歌」誕生
逆境の時こそ勇んで進め

「人間革命の歌」の作曲に全精魂を注ぐ池田先生(1976年7月18日、創価文化会館〈当時〉で)。先生は「後世永遠に歌い継がれる、最高の歌を作りたかった。だから、安易に妥協したくはなかった」と。曲が完成すると、先生は各方面・県のリーダーらに次々と電話を入れ、電話口の前にカセットデッキを置き、誕生したばかりの歌を伝えていった

 誓いを貫きゆく正義の歌を。
 師弟の魂あふれる勇気の歌を。
 池田先生が「人間革命の歌」の制作を決めたのは、1976年(昭和51年)6月の末のことである。
 当時、広布の伸展と共に、一部のマスコミによる、いわれなき中傷(ちゅうしょう)があった。
また、宗門の悪侶(あくりょ)らも、陰湿(いんしつ)な悪口を浴びせ始めていた。障魔(しょうま)が蠢動(しゅんどう)する中、池田先生は、大切な同志が一人も漏(も)れなく地涌の使命を果たし抜くため、歌の制作を開始した。
    
 この歌を作った当時は、すでに第一次の宗門問題の兆(きざ)しが現れていた時期であった。聖職者であるべき僧が、あろうことか信徒(しんと)を見下(みくだ)し、かりそめの宗教的権威をかさに、民衆を支配しようとする策動(さくどう)であった。
    
 それらが、私一人に向けられたものであれば、まだよい。大切な学会と学会員を守るためならば、私自身は、どんな批判の矢面(やおもて)にも立とう。
 だが、ひたすら「僧俗和合(そうぞくわごう)」を願い、守りに守ってきた聖職者から、一方的にいじめられ、ののしられる庶民の悲しみ、苦しみ──それが、どれほど深く、大きなものであったか。
 しかも、そうした悪侶の策謀(さくぼう)に対する、やむにやまれぬ正義の声すら、表立ってはあげられないという厳しい時代であった。それでも同志は、「和合のために」と歯がみをする思いで、耐えに耐えてくださっていたのである。
 そのけなげなる尊い友のために、はたして何ができるのか。私は人知れず、さまざまに思索をめぐらした。──「人間革命の歌」は、そうした背景のもとに生まれた歌である。
    
 民衆をいじめ、僧衣(そうい)の権威(けんい)で縛(しば)りつけようとする悪侶らの陰険な言動──だからこそ私は、いわば新たなる「魂の自由」の歌、「幸福への前進」の歌を、全国の友に贈りたかったのである。
 嵐吹きすさぶ時こそ、仏法者としての「人間革命」の好機ではないか。「地涌の同志」が、使命の道を勇んで開いていくべき、旅立ちの時ではないか、と。
    
 先生が歌詞を作り終えたのは、7月16日。当初、18日の本部幹部会で、曲と共に発表する予定だった。しかし、曲が仕上がらず、先に歌詞のみが発表された。
    
 「歌は、心で歌うものだ。そして心で聴くものだ」。作詞に取り組む私の脳裏からは、恩師の姿が、言葉が、瞬時も離れることはなかった。
 ──私は、恩師とともに、あの「人間革命の歌」を綴(つづ)ったつもりである。
    
 やがて歌詞はできたが、問題は曲のほうである。もとより専門的な音楽教育を受けたわけではないし、楽譜で音階を追うこともおぼつかない。曲の一応のイメージができあがると、周りの若い人の意見も確かめながら、少しずつ練り上げていった。
    
 先生は、本部幹部会に出席した後、再びピアノに向かった。試行錯誤(しこうさくご)を重ね、やがて曲も出来上がった。しかし、先生は録音テープを聴くと、さらに、歌詞にも、曲にも、手直しを加えた。
 そして、7月18日午後8時40分、ついに「人間革命の歌」が完成。歌詞と楽譜は、翌19日付の聖教新聞に掲載され、歓喜と決意の波動が列島を包んだ。
    
 さいわいなことに、全国の友は、「人間革命の歌」を愛唱してくださった。
私の「心」を受けとめてくださった。
 しかし、その後、波浪(はろう)は、さらに激しく学会に襲(おそ)いかかってきた。一時期は、とうとう、この「人間革命の歌」をはじめ、いくつかの愛唱歌さえも歌えない、いな、歌ってはならないという状況になったことを、今なお覚えている方もおられるであろう。
 だが、いかなる権威も、人間の心までは縛(しば)れない。会合の帰り道で、一日の仕事を終えてたどる家路で、友は「人間革命の歌」を口ずさみながら、あの苦しい日々を進んでくださったのである。
 「人間革命の歌」は、どんな吹雪にも、胸を張って生きぬいていこうという心を歌ったものである。人生には、暴風雨があり、暗い夜もある。だが、それを越えれば、ふたたび、晴れた青空を仰ぎ見ることができる──。
 冬の寒さを知る人こそが、春の暖かさを実感できる。苦しみが深かった分だけ、大きな幸福の朝が光るのである。
 どんな「運命」も「価値」に転換していく人──それが、人間としての勝利者であり、王者であろう。
 その王者の「前進の歌」となれば、これほどの幸せはない。​


(2020年7月4日 聖教新聞)







Last updated  2020/07/04 12:21:50 PM
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2020/07/03

第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」​

 特別編「創価三代の獄中闘争」

きょう正義の「7・3」

正義を貫いた牧口先生、戸田先生の胸像を見つめる池田先生。かつて語った。「『三代の師弟』の闘争こそが、学会の正統中の正統の歴史である」と(1992年1月、神奈川・横浜平和講堂で)

 きょう7月3日は、第2代会長・戸田城聖先生の出獄75年。軍部政府の弾圧(だんあつ)によって、初代会長・牧口常三郎先生は獄死(ごくし)。生きて牢獄(ろうごく)を出た戸田先生は1945年(昭和20年)のこの日、先師の遺志を胸に、学会の再建に一人立った。57年(同32年)の同じ7月3日、権力の横暴によって、第3代会長・池田大作先生は無実の罪で逮捕・勾留(こうりゅう)された。連載企画「師弟凱歌の記憶」の特別編として、「7・3」に刻(きざ)まれる創価三代の正義の闘争をたどる。

第3代会長 池田先生の「入獄」63年
昭和32年7月3日
 1957年(昭和32年)7月3日。池田先生の身を案じ、羽田の東京国際空港に駆け付けた戸田先生が、一冊の本を手渡した。「いよいよ出たよ。あとで読んでくれ」
 戸田先生が「妙悟空(みょうごくう)」の筆名で書いた小説『人間革命』の、完成したばかりの単行本である。この7月3日を記念して発刊されたものだった。

 不当に同志を弾圧した夕張炭労との戦いに決着をつけた池田先生はこの日、大阪府警に出頭するため、札幌から大阪に向かっていた。羽田には乗り継ぎのために降りたのである。学会は「炭労事件」に続き、「大阪事件」という権力の弾圧に直面していた。
 池田先生に掛けられた容疑は、3カ月前の参議院大阪地方区の補欠選挙における「公職選挙法違反」であった。一部の会員による違反行為を、支援の責任者だった先生の指示によるものとし、無実の罪を着せようとしたのである。出頭すれば逮捕は確実だった。

 「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」──牢獄(ろうごく)の過酷(かこく)さを骨身(ほねみ)に染(し)みて知る戸田先生は言った。

 出発の時間が迫る。
 搭乗口に向かう池田先生に、同志が呼び掛けた。
 「お元気で……」
 「ありがとう、これがあるから大丈夫だよ」。先生は師の小説をかざした。
 機中で先生は、小説を真剣に読み進めた。主人公は、戸田先生の分身ともいえる「巌九十翁(がんくつお)」。小説の後半には、2年に及んだかつての獄中闘争の様子が、克明に描かれていた。

戸田先生の小説『人間革命』。池田先生の文字で、昭和32年7月3日の日付と「戸田城聖先生ヨリ 給ハリシモノ也」の書き込みが

昭和20年7月3日
 1943年(同18年)の7月6日、初代会長の牧口先生は、折伏のため訪れていた静岡・下田で、戸田先生(当時、理事長)は、東京・白金台(しろがねだい)の自宅で逮捕された。

 容疑は治安維持法違反および不敬罪(ふけいざい)。国家神道を戦争遂行の精神的支柱に据(す)え、国民への思想統制を強める軍部政府に対し、両先生は、特高警察の厳しい監視下にあっても立正安国の実践を貫(つらぬ)き通した。宗門は神札(かみふだ)を容認し、受けるように勧めたが、学会は敢然(かんぜん)とこれを拒否(きょひ)。そして、ほどなく逮捕・投獄されたのである。

 牧口先生と親交のあった民俗学者の柳田国男(やなぎだくにお)は、“熱心に戦争反対論や平和論を唱えるものだから、陸軍に睨(にら)まれて牢屋(ろうや)に入れられた”と回想している。

 牧口先生は逮捕から約2カ月後、警視庁から東京拘置所(現・豊島区東池袋)に移送される。その折、警視庁でわずかな時間だが師弟の出会いが実現した。
 「先生、お丈夫で」──戸田先生がただひと言、声を絞り出すと、牧口先生は無言でうなずいた。これが師弟の今生の別れとなる。

 両先生の獄中生活は、過酷(かこく)を極(きわ)めた。戸田先生の小説『人間革命』に、その忍従の日々が描かれている。
 拘置所の夏は暑く、冬は極寒。戸田先生は「泥水のような味噌汁」をすすった。戦局の悪化で、米四分と麦六分の握り飯は、麦が大豆、さらにコーリャンへと変わった。風呂は月に数度、わずかに5分。看守(かんしゅ)から平手や麻縄(あさなわ)で何度も殴(なぐら)られた。
 先生は、70歳を超える牧口先生の身を案じ、ひたすらに無事を祈った。牛乳びんのふたで自作した数珠(じゅず)を手に、1日1万遍以上の唱題を重ねた。

 44年(昭和19年)11月中旬、年頭からの唱題が200万遍に達しようというころ、戸田先生は、自身が法華経の虚空会(こくうえ)の儀式(ぎしき)に連なった地涌(じゆ)の菩薩であることを深く自覚(じかく)する。この「獄中の悟達(ごくたつ)」と同時期の同年11月18日、牧口先生は獄中で、73歳の死身弘法(ししんぐほう)の生涯を終えた。
 亡骸は、家人に背負われ東京拘置所を出た。葬儀に連なった者、わずか数人に過ぎなかったという。

 戸田先生が、師の最期を知ったのは、年が明けた45年(同20年)1月8日のこと。予審判事から、ただ「牧口は死んだよ」と告げられた。

 戸田先生は後に語った。
 「自分の部屋へ帰って、思いきり泣きました」
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王(がんくつおう)の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」

 同年6月29日、豊多摩刑務所(東京・中野区)へ移送。その4日後の7月3日午後7時、戸田先生は出獄した。かつて20数貫(85キロ前後)あった堂々たる体?は、12~13貫(45~約49キロ)もなく、痩(や)せ細っていた。体は衰弱(すじゃく)し、片目はほとんど視力を失っていた。歩いて中野駅へ向かった先生は、目黒駅で電車を降り、時習学館(じしゅうがくかん)の焼け跡を見た後、白金台の自宅に戻った。
 戸田先生は出獄を機に、名を「城外」から「城聖」に改めた。師の仇討(あだう)ち──すなわち世界の民衆を救う広宣流布の大闘争に、75年前のきょう、一人立ったのである。

豊多摩刑務所の遺構「旧豊多摩監獄表門」。同刑務所から出獄した戸田先生は75年前のきょう、学会の再建へ、一人立ち上がった(東京・中野区、2015年撮影)
戸田先生が出獄した豊多摩刑務所の鉄の門扉(縦約225センチ×横約90センチ)。東京・中野区の中野南文化会館に保管されている

“99・9%有罪”に挑んだ若き池田先生
「裁判の場で 必ず無実を証明して 正義を満天下に示す」
 ──昭和32年の大阪の夏は、蒸し暑い日が続いていた。大阪入りした池田先生に、関西の婦人部の友が、泣きながら出頭を思いとどまるよう懇願(こんがん)した。先生は答えた。「大丈夫だよ。ぼくは、何も悪いことなんかしていないじゃないか。心配ないよ」

 1957年(同32年)7月3日夕、池田先生は大阪府警に出頭。午後7時ごろに逮捕となる。一部の会員による選挙違反を、学会の組織的な指示によるものとして、その勢いをそごうとする権力の意図は明白だった。
 池田先生は7月8日、大阪拘置所に移監。独房に入った。高圧的な検事の尋問(じんもん)は、食事も与えないまま、深夜に及ぶこともあった。ある時は、手錠(てじょう)をかけたまま大阪地検の本館と別館を往復させたこともあった。ついに検事は“罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する”と迫った。
 池田先生の苦悩は大きかった。若い自分はよい。しかし、既に衰弱(すいじゃく)の激しい師匠が投獄されることは、そのまま命の危険に直結する。それだけは絶対に避けねばならない──。

 先生は後に回想している。「眠れぬ夜を過ごした。そして、決断した。“ひとたびは、罪を認めるしかない。そして、裁判の場で、必ず、無実を証明して、正義を満天下に示すことが賢明かもしれない”」
 起訴されれば「99・9%が有罪」とされる日本の刑事裁判で、無罪を勝ち取るのは至難の業である。それでも池田先生は、師と学会を守るため、その0・1%に懸けたのである。

 7月17日に出獄。
 法廷闘争(ほうていとうそう)はその後、4年半続いた。公判は84回、うち先生の出廷は23回。
来阪するたびに先生は、関西の同志を励まし続けた。

 61年(同36年)12月16日、最終陳述(ちんじゅつ)に立った先生は、学会の運動の正当性を述べ、自身や同志が受けた取り調べの非道さを「断じて許しがたい」と言明した。1月25日の最終公判での判決は「無罪」。2月8日、先生は訪問中のエジプトで「控訴(こうそ)なし」の報を聞く。正義は証明されたのである。

15日間の獄中闘争を終え、大阪拘置所から出獄した若き池田先生。香峯子夫人と多くの同志が出迎える(1957年7月17日、大阪市内)

池田先生が大阪拘置所で使用した御書
差し入れ許可を示す証書が貼られ、獄中での「称呼番号」が記されている

弟子が師を宣揚
 時代は戻って、池田先生の出獄から1カ月がたとうとしていた1957年(同32年)8月。先生は戸田先生に呼ばれ、長野・軽井沢(かるいざわ)で師弟最後の夏を過ごした。
宿舎で戸田先生は、自身の小説『人間革命』を話題にした。「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先に立って、できないということだよ」

 池田先生はその夜、師の言葉を反すうした。“この師の真実を、誰が永遠に残すのか。それは身に影の添うように、先生に仕えることのできた、栄誉ある私の使命ではないか”
 自身も恩師の偉業をつづり、後世に伝え残す決意を固める。8月14日のことだった。
 64年(同39年)4月、戸田先生の七回忌に当たり、小説『人間革命』の執筆を発表。同年12月2日、沖縄の地で筆を起こした。ペンネームは「法悟空」。

 「戦争ほど、残酷(ざんこく)なものはない」の一節に続いて描いたのは、戸田先生が豊多摩刑務所から出獄する「7月3日」の情景であった。

 ──池田先生は詠んだ。
 「出獄と 入獄の日に 師弟あり」


 広宣流布とは、永遠に仏と魔との闘争である。創価学会が広宣流布の使命を体した仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の教団であるならば、その前途に、権力の魔性による迫害は必定である。
 仏の別名を「能忍(のうにん)」とも「世雄(せおう)」とも言う。迫害の嵐の中で、巌窟王のごとく忍耐強(にんたいづよ)く、師子(しし)のごとく恐れなく闘い抜いてこそ、立正安国の大道は開かれる。
 創価三代の師弟が命懸(いのちが)けで残した民衆勝利の原点「7・3」。その輝きを永遠ならしめるのは、後に続く私たちの使命である。

「出獄と 入獄の日に 師弟あり」──学会の正義の原点である「7月3日」に万感の思いをはせ、池田先生が記した


(2020年7月3日 聖教新聞)








Last updated  2020/07/03 12:13:09 PM
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2020/06/25

​第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶
第10回   ​「『総務』として奮闘」​

恩師の肉声を残そうと、池田先生が主導して制作したレコードの一つ。戸田先生と識者の対談が収録されている
 第2代会長・戸田城聖先生の逝去から3カ月になろうとする1958年(昭和33年)6月30日。池田先生は、新設された役職で、学会の運営を統括する「総務」に就任した。以来、学会の実質的な指揮を執ることになる。
 


 先生は当時、戸田先生の精神を正しく継承することに全力を注いでいた。この頃の日記には「生死不二なれば、先生、今ここにあり」「私は戦います。先生、見ていてください」との誓いの言葉が連なる。
 


 59年(同34年)の元日には、池田先生の提案で戸田先生の講義の録音テープを聴いた。「歳月(さいげつ)は、精神を風化させる。学会にあっては、それは、広宣流布の破綻(はたん)を意味する。彼は、戸田の叫びが、薄らいでいくことを憂(うれ)えたのだ」(小説『新・人間革命』第23巻「敢闘」の章)
 


 池田先生は恩師の講義や質問会での指導などを収録したレコードの制作を推進。1枚目は「可延定業書(かえんんじょうごうしょ)」の御書講義で、同年の7月に完成した。ジャケットを飾る「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」との力強い金文字は、池田先生の筆によるものである。

元日に戸田先生の講義を聴く(1959年1月、東京・信濃町で)


 総務としての先生の激励行は、全国に及んだ。御書講義で、質問会で、一人一人を奮起させていった。恩師亡き後、“学会は空中分解する”と世間がうわさする中で、同志の不安を晴らし、新たな前進への勇気を送った。
 


 59年(同34年)1月には、炭労事件の舞台であった北海道・夕張へ赴(おもむ)いている。出迎えた同志に「戸田先生のお約束を果たすために、ここ夕張へ、まいりました!」と語った。


 
前年の3月、夕張から静岡に駆け付けた女子部に戸田先生は言った。「学会員をいじめる権力は、許さない! 戸田が、夕張に行ってあげる。夕張は青年が立ちなさい。青年が立て! 青年が立て!」。その脇で恩師に寄り添っていた池田先生が、亡き師に代わって“約束”を果たしたのである。


 
池田先生は後に戸田先生への感謝をつづった。「現在の私は、あの約十年にわたる師匠・戸田先生の訓練なくして存在しない」「私は、師匠に育てていただいたこの生命を、師の悲願であった『広宣流布』――民衆の幸福勝利のために捧げるのだ!」
 


 不二の弟子の戦いによって、師の構想は現実となる。若き日から広布の一切の責任を担った先生の闘争が、それを証明している。


(2020年6月25日 聖教新聞)







Last updated  2020/06/25 08:07:26 AM
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