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晴ればれとBlog

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池田先生の名誉学術称号45周年

2020/07/19
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池田先生の名誉学術称号45周年
未来に輝く知性の宝冠 ―― ブラジル リオデジャネイロ連邦大学
​全ての人に教育の機会を​

ブラジルの名門リオデジャネイロ連邦大学から、池田先生への名誉博士号授与式。マクラン総長(左から2人目)から学位記が手渡された。総長は「(先生を)わが大学の一員として迎えられたことは最高の喜びであり、大学の栄光とするものであります」と(1993年2月、同大学で)


 ブラジルのリオデジャネイロ連邦大学から、池田大作先生に「名誉博士号」が授与されたのは、1993年の2月11日。
 


 恩師・戸田城聖先生の、生誕93周年の日だった。
 


 謝辞に立った先生は語った。「民衆と共に進みゆかれる貴大学からいただいた尊き称号を、私は最大の誉れとし、わが恩師にささげたい」
 


 先生の平和・教育・文化への行動と、日本とブラジルの学術・友好交流への貢献をたたえて贈られた名誉博士号だった。同大学のマクラン総長(当時)による推挙の後、コミュニケーション学部の公式な申請・審議を経て、大学評議会で決議されたものである。
 


 歴史あるリオ連邦大学の中でも、新聞やテレビ、ラジオなど、言論界に一流の人材を送り出すコミュニケーション学部から申請された名誉博士号は、特に権威ある学位であった。
 


 この“言論の府”からの栄誉とともに、先生には、恩師にささげるもう一つの“栄冠”があった。28年の歳月を費やし、恩師の生涯を書きとどめた小説『人間革命』の「あとがき」を、この日、リオの地で記したのである。
 


 先生はつづった。
 
 

「私のなすべきことは、恩師に代わって、『世界の平和』と『人類の幸福』のために戦い、生き抜き、この世の使命を果たしゆくことと思っている」
 


 「私の胸のなかに、先生は今も生き続けている。とともに、同志の心のなかにも、先生が永遠に生き続けることを念じてやまない」

名誉博士号の授与式の翌日、池田先生はブラジル文学アカデミー「在外会員」に就任。アタイデ総裁は「これまで生きてきて、これほど『会いたい』と思った人は、初めてです」と喜びを語った(1993年2月、リオデジャネイロ市内で)
 ブラジルでは16世紀前半の植民地化以降、一部の指導者階級らを対象とする、宗教教育や知的エリートの養成に重きが置かれ、国民が教育を受ける機会は限られていた。人口の大半が集中する農村部では、読み書きを学ぶことすら、ままならなかった。
 


 同国で長年、国民の識字率が低迷したゆえんは、こうした歴史にあると指摘されている。
 


 だが一方で、先住民、植民者、奴隷として連れてこられたアフリカ系住民ら、多様な民族が共に暮らす中で育まれた、差別や偏見のない「人種デモクラシー」とたたえられる風土も、ブラジルが誇る精神史にほかならない。
 


 名誉博士号の授与式で、池田先生はこの点に触れ、現代世界が志向する「共生の道」に先駆けるのが同国であると述べている。
 


 全ての人に教育の機会を――ブラジルは、この人類の挑戦の先頭に、雄々しく立ってきた。
 


 高等教育の本格的な発展は、近代に入ってから。
 


 医学や農学、法学など、専門性を身に付ける教育環境が整備される中、1920年、医学校、総合技術学校、法律学校を一つにした総合大学としての「リオデジャネイロ大学」が誕生した。これがリオ連邦大学の前身である。
 


 本年で創立100周年。大学のモットーは“開かれた大学”“壁のない大学”である。「大学は、大学に行けなかった人のためにある」との先生の信条とも、深く響き合う。


言葉を武器に戦いましょう 私たちの献身が明日を開く
 南米最高の知性の殿堂である「ブラジル文学アカデミー」のアタイデ総裁は、同大学の卒業生の一人。
 
若くして新聞記者となり、30、40年代、独裁政権を真っ向から批判する正義のペンを振るった。3度の投獄、3年間の国外追放にも耐え、言論闘争を貫いた人権の獅子である。48年にはブラジル代表として、国連での「世界人権宣言」の起草にも尽力した。
 


 59年、ブラジル文学アカデミーの総裁に就任。文豪トルストイらが名を連ねる同アカデミーの「在外会員」の選考は、現会員の推薦によって行われる。就任以来、総裁が初めて推薦したのが池田先生だった。
 


 93年2月9日、総裁は94歳の身を押して、リオの空港で先生を歓迎した。11日には、母校から先生への「名誉博士号」の授与式にも出席。そして翌12日、東洋人初となるブラジル文学アカデミーの「在外会員」に先生を迎えたのである。
 


 12日の会見で、総裁は言った。「崇高なる『言葉』を最大の武器として、戦いましょう」と。
 


 ここから始まる二人の語らいは、対談集『21世紀の人権を語る』に結実している。テーマの一つとなったのは「教育」だった。
 


 “次代の人材を育成する教育なくして、国の発展はない”と語った総裁。70年以上にわたって、民衆の教育のために書き続けた。発表したコラムは5万本。先生のリオ滞在中も、先生を紹介する記事を連日、新聞に寄稿した。
 


 対談集の「はしがき」は、93年9月に逝去したアタイデ総裁が生前、久しく使っていなかったタイプライターを取り出し、全精魂を込めて残したものである。
 


 その一文に、こうある。
 


 「信じ合える、また忘れ得ぬ“戦う同志”として私が希望することは、私たちのこの“熱烈なる献身”が、明日という日を開き、来るべきその日を、すべての老若男女の“平等のための行進”の決定的な“救世の日”とすることであります」

サンパウロ市に立つブラジル創価学園「小学校の部」の授業。同市は質の高い教育内容を評価し、「優秀校」と推奨している
 一方の先生は、対談集の冒頭につづった。
 


 「私は一人の仏教者として、人類の幸福のために生涯を捧げた、戸田会長の弟子としての使命の道を、アタイデ総裁とともに歩んでいきたいと願ってきた」
 


 『人間革命』の続編となる小説『新・人間革命』の執筆を開始したのは、93年の8月6日。名誉博士号の授与式に臨み、総裁と出会った半年後である。
 


 93年のブラジル訪問は、先生の哲学と創価教育への共感が、同国に大きく浸透する契機となった。
 


 94年、「子どもの幸福」を第一とする牧口先生の創価教育学説を応用したプロジェクトが、各地の学校でスタート。今も全土で推進され、高い評価を得ている。
 


 2001年には、サンパウロ市内にブラジル創価幼稚園が開園した。その後、小・中学、高校を併設する創価一貫教育の学びやへと発展。社会に尽くす世界市民を輩出する。
 


 また、リオ連邦大学を端緒として、これまでにブラジルの28大学等から先生に名誉学術称号が贈られた。
 


 『人間革命』『新・人間革命』に描かれる物語――それは、名もなき庶民たちが、自己の無限の可能性を開いていく人間教育のドラマであり、民衆勝利の叙事詩であろう。
 


 今、ブラジルの大地に、この「人間革命」の哲学を実践し、実証する人材の陣列が陸続と生まれている。その唱道者である創価の師弟をたたえる声は、澎湃と広がっている。


アマラウ教授の声
 我々(西洋人)の中にも現状のままで良いと考えている人もいます。また、誰かが新たな行動をとるのを待っている人、まだ新しい道を歩き出すことができると信じている人がいます。そして、この最後の人々が、本日の池田先生との出会いを喜んでいる人々です。(中略)
 


 (牧口先生と戸田先生の)歩みを受け継がれたのが、池田先生であります。そして、先生が、それを私どもと分かち合ってくださることは、私どもにとって大変に栄誉なことであります。
 


 先生に、知性の象徴である称号、すなわち博士の称号を授与いたします。先生が守り、広げてこられた伝統を分かち合うことができることは、わが大学にとり本当に栄誉なことであります。そして、先生との出会いによって、わが大学がこれほど「生命の脈動」に接したことはまれなことです。(中略)
 


 池田先生は、異文化間の橋渡しをするために、多くの対話を続けてこられました。(中略)これらの対談は文化の違いの中に、アイデンティティーを求めるものであり、我々の時代を豊かにするものでした。そして、先生が写される写真は、強く、永続するもの、すなわち、そびえ立つ山や氷河から、もっと、もろいもの、すなわち飛ぶ鳥や太陽の下に咲く花などを写し出します。
 


 我々西洋人にとって、先生の仏法の思想や生命の尊厳についての多くの書物、例えば、『生命を語る』から、先生の思想や行動の精神的インスピレーションが感じられることは非常に印象深いことです。(名誉博士号の授与式<1993年2月11日>から)


本年で創立100周年 南米屈指の名門総合大学
 1920年、医学校や法律学校などが一つになり、総合大学として誕生。中南米屈指の伝統を誇る。
 
 リオデジャネイロ州内に複数のキャンパスがある。学士・修士・博士課程を合わせて約400の学位プログラムを提供しているほか、専門コースや研究プロジェクトも充実。国立博物館を含む七つの博物館、大学病院、研究施設、40以上の図書館なども大学に所属し、ブラジルで最大規模の教育環境を整備する。
 
 卒業生には、同国を代表する作家ジョルジェ・アマードや、医療の発展に尽くした医師オズワルド・クルスらがいる。


(2020年7月19日 聖教新聞)







Last updated  2020/07/19 01:12:44 PM
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2020/07/12

池田先生の名誉学術称号45周年

​未来に輝く知性の宝冠――トルコ アンカラ大学​

東西が出会う十字路

1992年6月、池田先生は首都アンカラに到着したその足で、「アタチュルク廟」を訪問。「建国の父」の生涯をしのび、献花した
 トルコの首都アンカラの空港に降り立った池田先生が、真っ先に向かった先は市内を一望するアヌッテペの丘だった。
​

 同国のケマル・アタチュルク初代大統領が眠る「アタチュルク廟」に、献花するためである。


 1992年6月の、先生のトルコ訪問の折だった。

 トルコ革命で共和国の樹立(23年)を導き、「アタ(父なる)チュルク(トルコ人)」、すなわち「建国の父」との称号を与えられた初代大統領は、今なお、国民の敬愛を集める指導者である。
 


 そのケマル大統領が教育改革に身をささげて創立した大学が、アンカラ大学である。


 同大学と創価大学の学術交流協定が締結されたのは90年。アンカラ大学が日本の大学と、創大が中近東地域の大学と、それぞれ初めて結んだ交流だった。
 


 前年の89年。創大記念講堂の着工に際し、創立者の池田先生は、世界の大学から由緒ある石を集め、定礎式で埋納することを提案していた。


 趣旨に賛同したアンカラ大学のセリーン総長(当時)は、総長室の机の下の「アンカラ・ストーン」をはがして寄贈した。この一つの石から教育交流が始まった。
 


 90年10月には先生と総長が初会見。ケマル大統領の民衆奉仕の精神、教育改革などを巡り、語り合った。


 この出会いを機に、総長は、先生の広い見識とトルコを見つめる人間史観に触れ、さらに創大や民音を通じて、トルコと日本の交流を促進する先生の功績への知見を深めていく。
 


 “この尊敬すべき、比類なき哲学者こそ、わが大学の名誉博士号を贈るのにふさわしい方である”
 総長の思いが発露(はつろ)となって、92年6月24日、アンカラ大学を訪問した先生に、「名誉社会科学博士号」が授与されたのである。

アンカラ大学「名誉社会科学博士号」の学位記が、セリーン総長(前列右)から池田先生に贈られた。この後、先生は、「文明の揺籃から新しきシルクロードを」と題して記念講演。ケマル・アタチュルク初代大統領の人間像を通して、人と文化を結ぶ教育の役割などについて語った(1992年6月、同大学で)


 アジア大陸の西の端、ヨーロッパ大陸の東の端に位置するトルコ。東西が出あう「十字路」のこの地は、いにしえより、古代ギリシャ・ローマ、ビザンチン帝国、セルジューク朝……幾多の民族と文明の、治乱興亡(ちらんこうぼう)の舞台となった。
 


 15世紀以降に一大勢力を誇ったオスマン帝国は、トルコを中心に文化絢爛(けんらん)たるイスラム世界を築いた。20世紀初頭、その帝国が第1次世界大戦で敗れると、トルコは列強による分割の危機に陥った。


 その時、立ち上がったのがケマル・パシャ(後のアタチュルク)であった。彼が率(ひき)いた革命によって、トルコは共和国として独立を果たしたのである。
 


 ケマルが20世紀を代表する指導者として評価されるゆえんは、建国とともに推進していった改革の数々にほかならない。


 最も特筆すべきは、イスラム国家としては異例の、政教分離に踏み切ったことである。さらに、アラビア文字に代えてローマ字表記を採用した「文字革命」や女性参政権の実施など、今日の近代国家としての基礎は、彼の時代に築かれた。

アンカラ滞在中、トルコ初の私立大学であるビルケント大学の「栄誉賞」が先生に授与された。同大学創立者で、アンカラ大学総長を歴任したドーラマジュ博士との友情はこの後も続いた(アンカラ市郊外で)

 奇跡とも称される改革を可能にした、ケマルの特質とは何か――。


 先生は、名誉社会科学博士号の授与式の席上、「文明の揺籃(ようらん)から新しきシルクロードを」と題して記念講演。その中で「卓越(たくえつ)したバランス感覚」を、理由の一つに挙げた。
 


 強大な権力を手にしながらも、自己抑制(じこよくせい)を働かせ、独善(どくぜん)や偏狭(へんきょう)を退(しりぞ)けたケマルのバランス感覚こそ、今日の世界が要請(ようせい)するものである、と。


 さらに先生は、ケマルが民衆の側に立ち続け、戦争で自失状態にあった民衆の心を変えることで、革命を成し遂げた事績に言及。その底流にあった力は「教育」であるとしつつ、こう語った。
 


 一見、急進的に見えるケマル革命も、教育を機軸(きじく)にした漸進(ぜんしん)主義を基調とした点に、革命の成功の要因があった。民族といい、文化といい、個別のもの同士が接触し、普遍的なものへと昇華する回路は、対話を含む、広い意味での教育による以外にない――。
 


 先生が、セリーン総長らアンカラ大学の首脳、オザル大統領、デミレル首相をはじめとする各界の識者との語らいで光を当てたのも、この民衆教育を志向するケマルの精神であり、行動であった。
 


 「一日にひとつ学校をつくること」を抱負(ほうふ)に、多くの学校を創立したこと。


 自ら黒板とチョークを持って、町から町を回り、人々に文字を教えたこと。


 大統領から直接教わり、自分の名前を書けるようになった人々が、喜びを分かち合ったこと――。
 


 「偉大なる運動はすべてその根を人民の心の底深くおろすべきである」(ブノアメシャン著『灰色の狼 ムスタファ・ケマル』牟田口義郎訳、筑摩書房)
 


 この叫びのままに、民衆を目覚めさせる教育の力で新生トルコの扉を開いたケマル大統領。アンカラ大学こそ、その建国の先頭に立つ学府であった。
 


命を懸けて「道」を開く。後に続く人たちを信じて
 先生が友情を結んだトルコ出身の知性の一人に、米ハーバード大学のヤーマン博士がいる。92年3月に初めて会って以来、二人は語らいを重ね、対談集『今日の世界 明日の文明』を発刊している。
 


 文化人類学の知見から、人が出会い、文明が出あう故郷トルコの、悠久(ゆうきゅう)の歴史を見つめてきた博士。先生に、こう語った。
 

「池田会長の実践は、対話のあるべき姿を示されています。すなわち、まず第一に『相手を尊敬する』。そして、『耳を傾ける』ということです。これこそが、他の文化に生きる人々との理解をすすめる道です」
 


 東西の十字路を行き交ったのは「人」である。人が出会うところ、無数の人間模様が織り成され、歴史がつくられていく。


 トルコをはじめ、世界を巡る先生の平和旅も、人間に会い、人間を結ぶ行動にほかならない。相手を尊敬し、耳を傾け、心通わせる「対話の十字路」が、あの地この地に広がった。


 教育交流もまた、民衆の間に、文化を超えた、尊敬と理解の橋を架けるための作業である。
 


 創大とアンカラ大学の交流開始から、本年で30年。両大学を往来する交換留学生らによって、友情の橋はさらに堅固になった。
 


 92年9月、セリーン総長との再びの会見に臨むに当たり先生は、こう語った。


 「『道』を私はつくっている。『道』さえあれば、次の世代、また次の世代の人たちが通っていけるからだ。ひとつの道は、他の道ともつながり、交差し、縦横に地球を包んでいく。時とともに広がっていく。私は、その未来を信じ、後に続く人々を信じて、毎日、丁寧(ていねい)に、命を打ち込んで、『平和の道』を切り開いているのです」
 


セリーン元総長の声
 「世界の平和と、学術・文化交流への貢献」をたたえて、私から(名誉社会科学博士号の)学位記を授与させていただきました。
 


 その際の「文明の揺籃(ようらん)から新しきシルクロードを」と題した池田博士の講演は、多くの聴衆に、トルコの「誇り」を呼び覚ますものでした。


 博士の英知の言葉は我々に建国の父アタチュルクの“世界に開かれた精神性”を一段と開花させ、新たな国際秩序の建設に寄与すべき「使命」があることを思い起こさせてくださったのです。(中略)


 トルコには「一つのパンがあれば、半分は貧しい人に分かち合う」という言葉がありますが、これはイスラムの知恵と教えであるのみならず、トルコ国民の知恵であり、国民性でもあります。
 


 これまで大学では、「技術」の開発には力を入れてきましたが、その技術を用いる「知恵」の開発は軽視されてきたと言わざるをえません。
 


 人類の未来を決する、環境や資源や戦争の問題を解決していくためには、極限にまで高められた技術を「何のため」に使うのかという、「賢明な知恵」の獲得こそが必要なのです。つまり、苦しむ民衆の心が分かる学生でなければならないのです。そのために私は、人類にとって最も重要な哲学者であり人間主義者である池田博士に学び続けていきたいと考えているのです。(本紙2012年9月30日付)
 


建国の父アタチュルクが創立 国家をリードする名門学府

トルコ随一の歴史と伝統を誇るアンカラ大学
 トルコ共和国の首都アンカラに立つ同国最高峰の学府。トルコ革命を指導したケマル・アタチュルク初代大統領を創立者と仰ぐ。
 


 農民に奉仕することを目的とした農業研究所や、トルコと世界を結ぶ“言語と文化の懸け橋”の形成を目指した人文学部などは、新生トルコの建設に大きな役割を果たした。こうした施設を基に、1946年にアンカラ大学として公式に設立された。
 


 現在、18学部に約6万7000人が学ぶ。同大学の名誉博士号は池田先生のほか、各国大統領ら国家元首、各分野の著名な学者などに贈られている。


( 2020年7月12日 聖教新聞)







Last updated  2020/07/12 09:46:05 AM
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2020/07/05

〈未来に輝く知性の宝冠〉 韓国 済州大学
友誼(ゆうぎ)よ無窮(むきゅう)に咲き薫れ
「文化大恩の国」に学ぶ それが平和と繁栄の道

韓国・済州大学から池田先生に対する、外国人初の「名誉文学博士号」の授与式。席上、民族衣装に身を包んだ少年少女からの祝福の花束に、先生ご夫妻が心からの感謝を(1999年5月、同大学で)

 韓国・国立済州(チェジュ)大学の趙文富(チョムンブ)総長(当時)が創価大学を訪れたのは、1998年の春3月だった。池田先生に対する、同大学への招請状を手に携(たずさ)えていた。
 「新世紀の『平和の島』を目指す済州島に、また、わが大学に、ぜひ、お越しください」
 初めて出会ったその日から、先生への深い信頼と友情が表れていた。
 総長の故郷である済州島(チェジュとう)は、自然・果実・人の心の「三麗(さんれい)」が輝く景勝の地。
“東洋のハワイ”ともうたわれる
 20世紀前半、日本の帝国主義は同島にも及んだ。
 戦後の48年には、祖国の南北分断に抗議した島民が武力鎮圧(ちんあつ)され、数万人が犠牲になった「四・三事件」が勃発。50年には韓国動乱(朝鮮戦争)が起こった。
 相次ぐ戦乱の渦中、“教育で郷土を発展させたい”との島民の熱意が結晶し、52年に誕生した学びやが、済州(チェジュ)大学の前身である。

 趙(チョ)総長の要請に応え、先生が同大学を訪問したのは99年5月17日。先生への、「名誉文学博士号」の授与式が行われた。
 同大学の名誉博士号が外国人に贈られたことは、過去にはない。ましてやその第1号が日本人に授与されるのは、同国の対日感情を知る者からすれば「想像もできないこと」だった。
 式辞に立った総長の、厳とした声が響いた。
 済州島民は、誰よりも世界との共存を目指し、平和を愛する人々です。名誉博士の学位は、池田先生のような「人類文化の発展のため献身された方」に、最高の栄誉を贈るための大学の制度なのです──。
                    ◇ 
 日蓮大聖人が「百済国(くだら)より始(はじ)めて仏法渡る」(御書1392ページ)等と仰せのように、インドで誕生した釈尊の仏教は、中国を経て、韓・朝鮮半島から日本に伝わった。
 仏教のほかにも、漢字、紙、墨(すみ)、稲作(いなさく)・灌漑(かんがい)技術、鉄器・青銅器など、さまざまな文化が半島から日本に伝わった。室町時代に始まった「朝鮮通信使」との交流は、数百年間続いた。
 さらに13世紀には、済州島で蒙古襲来(もうこしゅうらい)に対する義勇軍(ぎゆうぐん)の決死の闘争があり、そのため蒙古の日本到着が遅れたという歴史もある。
 こうした史実を踏まえて池田先生は、韓国を「文化大恩の国」と呼び、「師匠の国」「兄の国」と、深い感謝を寄せてきた。

 20世紀前半、日本は韓国を併合した。済州島では、島民を強制的に労働に駆り立て、美しい自然の地を要塞化した。
 日本にも韓国にも、それぞれの近代史観がある。その上で先生は、仏法者として、日韓数千年の交流という大局的歴史観に立って、軍国主義の日本が韓・朝鮮半島の人々に為した非道を率直にわび、「大恩」に報い、日韓の新しい友情の道を開くために行動してきた。柳寛順(ユグアンスン)、安昌浩(アンチャンホ)ら韓国の先人を通して、青年たちを励ましたことも多い。

 韓国へ、せめてものご恩返しを──先生の思いが結実したのが、1990年9月に実現した、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」のソウル展だった。先生自身も韓国を初訪問し、開幕式に出席した。
 同展は連日、長蛇の列ができる盛況だった。何より、韓国を「恩人」と語る先生の真情が、メディアを通じて大きく報じられたことは、日本人への見方が変わる、一つの契機(けいき)ともなった。
 92年には“答礼展”として、韓国・湖巌美術館所蔵「高麗 朝鮮陶磁名品展」が、東京富士美術館で開かれた。国外初公開の国宝や重要文化財、韓国で未公開の作品なども出展され、先生への深い信義が表れていた。
 文化とは“人間が人間らしく生きるための、なくてはならない魂”であると、先生は述べている。
 人倫にもとる戦争とは対極にある、生命賛歌の魂の共鳴──それが、文化交流にほかならない。

 90年、92年の展示会をきっかけとして、東京富士美術館や民主音楽協会(民音)を舞台に、日韓両国の友好の道が開けていく。文化によって耕された大地に、人華の花園が広がっていったのである。
 韓国SGIの友が、「国土大清掃運動」をはじめとする社会貢献活動を本格的に展開していったのも、この頃。はじめは根強かった“日本の宗教”という誤解(ごかい)や偏見(へんけん)も、粘り強い活動の中で徐々に雪解けしていった。師弟の絆こそ、同志の原動力であった。
 3度訪れた韓国で、また日本で、先生は同国のメンバーに「良き市民たれ」と指針を示した。ある時は「最も苦労した人こそ、最も幸福に」と慈愛の励ましを送った。
 言葉だけではない、信念を形にするこうした行動の積み重ねによって、韓国社会の中に、創価の哲学に対する信頼が深まっていったのである。
 未来志向の歴史観。
 平和と文化の促進。
 人間教育への尽力。
 済州大学からの名誉文学博士号は、同大学が掲げる理念を、先生が体現してきたことへの称賛にほかならない。
                     ◇ 
 謝辞の中で先生は述べている。「日本は、貴国と友情を結び、貴国を尊敬し、貴国の心に学んでいくならば、平和と繁栄の方向へ進んでいくことは明白であります」と。

 これは、牧口常三郎先生と戸田城聖先生から受け継いだ信念でもあった。
 先生は続けた。
 「私たちも、一歩も引かずに、『人間主義の哲学』と『生命尊厳の価値観』を、青年の魂に育んでいかねばならない」「両国の若き世代に、揺るぎない理解と信頼の道を開きゆくために、誠実な往来を真剣に積み重ねていく決意であります」
 2冊の対談集を編んだ趙総長との友情をはじめ、李寿成元首相ら各界のリーダー、識者との語らい。
 民音、東京富士美術館を通じた活発な文化交流。
 そして、済州大学をはじめ韓国の14大学と学術交流を結ぶ、創価大学の人間教育──。
 その一つ一つが、謝辞で示した決意のままに貫かれた、先生の真心であった。


 2002年には済州島に「済州韓日友好研修センター」が開設。日韓の「友好の碑」が立つ九州・福岡研修道場と共に、両国の青年たちが集い、友好を誓い合う場となっている。
 趙元総長は語った。
 「私は済州島に生まれて、身に余るほど幸せです。そして私の人生は、池田先生のような偉大な方に出会えて、本当に幸せです」
 韓国の国花は無窮花(ムグンファ)。朝に花を咲かせ、夕方には萎(しぼ)むが、日々新たなつぼみをつけ、次々と開花する。
 両国の友誼(ゆうぎ)よ、無窮(むきゅう)に咲(さ)き薫(かお)れ──それが先生と済州大学を結ぶ心である。

趙文富総長
 池田先生は、済州島の過去と現在と未来をつなぎ、未来を壮大に展望してくださいました。
 「太平洋の水」が過去から現在、そして未来へと絶え間なく流れるように、済州島の素晴らしい「山の緑」が過去も現在も、また未来も青々と茂っていくように、池田先生は、済州島の過去と未来をつなぎ、人類の進むべき未来を提示してくださったのです。
 私どもは、普段から池田先生を尊敬申し上げ、素晴らしい志を学ばなければならないと思ってきました。(中略)
 我々は、済州島だけでは決して発展することはできません。
 韓半島は、日本とともに、中国とともに発展するのです。西洋との関係も重要視していかなければいけません。そのような現代世界にあって、池田先生は「架け橋」の役割をしてくださると信じております。私は、わが大学の若い教授が、その橋を渡って世界に貢献しゆくことを思い描いています。
 タゴールは謳(うた)いました。「アジアの黄金時代に、韓国は灯火の担い手の一つであった。今、灯火は再び点火されるのを待っている。全アジアを照らすために」
 東洋の明るい光が輝いた時に、まさしくこの世の中も明るくなる、と。
 このような例をまさしく池田先生が実践しておられると思います。(名誉文学博士号授与への答礼宴〈1999年5月18日〉から)

「三麗の島」に立つ国立大学 国際交流で世界市民を育成
 「三麗(さんれい)」が輝く済州島(チェジュトウ)に立つ国立大学。1952年に創立された済州初級大学を前身とし、82年に総合大学に発展した。国際自由都市を目指す、済州特別自治道の中心地にキャンパスがある。
 教育学部や看護学部、芸術デザイン学部など、15学部88学科や大学院に約1万6000人が在籍。世界44カ国・地域の316の大学、研究機関と学術交流協定を結び、多彩なプログラムを推進。時代の挑戦に応戦する世界市民を育成している。
 創価大学とは1998年に学術交流協定を締結。以来、毎年のように交換留学生が両大学を往来している。


(2020年7月5日 聖教新聞)








Last updated  2020/07/05 02:38:50 PM
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2020/06/28

​​未来に輝く知性の宝冠――池田先生の名誉学術称号45周年
キューバ ハバナ大学
何よりも美しきは「人間」

1996年6月、キューバ最古のハバナ大学から、日本人初となる「名誉人文学博士号」が池田先生に授与された。“芸術の粋(すい)”を集めた同大学のアウラ・マグナ(大講堂)での授与に続き、先生は「新世紀へ 大いなる精神の架橋を」と題して記念講演を行った
 「カリブ海の真珠」とうたわれる中米・キューバ。
 ​​


 その海の青さにも、街の壮麗さにもまして、何より美しいのは「人間」であった――池田先生はつづっている。
 


 先生は1996年6月に同国を訪問し、幾多の困難に遭いながらも、心豊かに生きる人々の、誇りと力強さを感じ取った。
 


 同月24日午後に到着し、26日午後には、次なる訪問地であるコスタリカへ。実質2日間に満たないキューバ滞在中、先生には、ハバナ市「最高賓客」称号、国家勲章である「フェリックス・バレラ勲章勲一等」、そして、ハバナ大学の「名誉人文学博士号」が相次ぎ授与された。
 


 先生は、キューバと日本の間に友情の橋を架けるべく奔走してきた。民主音楽協会(民音)の招へいで、キューバの音楽・芸術団体による日本公演がスタートしたのは81年。駐日大使らと文化交流を巡る会見を重ね、キューバ訪問の要請も受けていた。
 


 96年の訪問は、同国文化省の招へいによるもの。キューバ社会からの顕彰は、文化の力を通して、平和に尽くす先生への高い評価の表れにほかならなかった。
 


 中でも、同国最古の歴史を誇るハバナ大学がたたえたのは、先生の長年の執筆活動であった。
 


 6月25日、同大学のアウラ・マグナ(大講堂)で行われた「名誉人文学博士号」の授与式で、ヴァルデス総長(当時)は語った。
 


 池田氏は、作家、詩人、哲学者であり、その著作活動は「民衆の興隆」と「平和への貢献」を基軸にしたものである――と。
 


 「ペンの力」で民衆を鼓舞し、平和を開く。こうした先生の行動は、“キューバ独立の父”ホセ・マルティが、生涯貫いた闘争とも重なるものであった。


「ペンの力」で民衆を鼓舞し 「万人のため」の平和を開く
 1492年、コロンブスが“新大陸”への航海で到達した島の一つがキューバである。スペインの統治は約400年にわたり続き、人々は忍従を強いられた。
 


 1868年、第1次独立戦争が勃発。10年間の長い戦いの末、独立革命は未遂に終わる。16歳で運動に身を投じたマルティは、政治犯として投獄された。
 


 以降も何度となく追放され、その生涯を、祖国よりも長く海外で過ごした。
 


 命の危機と隣り合わせの日々の中で、若き革命児は言論闘争に立ち上がった。16歳にして新聞を創刊。植民地政府の非道を告発する本を出版し、さらにラテンアメリカ各地の新聞に寄稿した。亡命先でも炎のペンを走らせ、「独立の心」を鼓舞していったのである。
 


 革命党を創立し、95年に始まる第2次独立戦争ではその先頭に。そして同年5月、戦闘中に被弾し、独立の夜明けを見ることなく、42歳の生涯を閉じた。
 


 革命のために武器を取りながらもマルティは、壮絶な精神闘争を繰り広げ、敵も味方も、全ての人の自由を願う、透徹した人間観を確立していったのである。
 


 マルティは言った。
 


 「祖国を代表し祖国をまえにしてその持っている一切のにくしみを捨てることを宣言する」(神代修訳『キューバ革命思想の基礎』理論社)

ハバナ市内の革命広場にある“キューバ独立の父”ホセ・マルティ像に献花する池田先生(1996年6月)
 憎悪に対する戦争こそ、「唯一の戦争」であると考えたマルティは、あくまでも「平和革命」を志向していた。
 


 そして、人間の上に人間を置くことに警鐘を鳴らし、他の人々を利用しようとする野蛮性を、取り除く道を探っていった。
 


 これは、先生とマルティ研究で著名なヴィティエール博士が、対談の中で語り合った点でもある。
 


 揺るがぬ人間への信頼と民衆奉仕の精神は、マルティの死後も、キューバ発展の道しるべとなっていく。
 


 1902年にスペインから独立した同国は、その後もアメリカの事実上の支配下に置かれ、親米政権による独裁が始まった。
 


 「キューバ革命」で独裁政権を打倒したのは59年。後に国家評議会議長に就くカストロ氏が、その中心的存在だった。
 


 96年6月のキューバ訪問の折、池田先生は、ハバナ市内の革命宮殿にカストロ議長(当時)を表敬訪問。約1時間半にわたって会見している。


 
議長は、革命の道徳的基盤はマルティにあり、公平と平等を掲げる「モラル革命」、「教育革命」であると位置付けていた。事実、キューバは、教育、医療の無料化や、ほぼ100%の識字率を実現。賃金格差を解消し、食糧や物資の配給制を敷いた。
 


 ハバナ大学は、その推進力となった。
 


 字が読めない国民のため、集まった“志願教師”の中核が同大学の学生や卒業生だった。都会の青年たちが、農村へ。昼は農作業を手伝い、夜は明かりの下で文字を教えた。
 


 「万人とともに、万人のために」。このマルティの精神を携えてきたのが、同大学なのである。

池田先生がカストロ国家評議会議長(当時)を表敬訪問。議長はいつもの軍服ではなく、スーツに着替えて先生を迎えた(1996年6月、ハバナ市内の革命宮殿で)
 同じ社会主義国だったソ連の崩壊。アメリカとの関係の悪化。96年6月当時、キューバを取り巻く国際情勢は厳しかった。
 


 それでも、“人間と会い、友情を結ぶ。全ての道は、そこから始まる”と、訪問を決めた先生。
 


 その後もマルティを通して、キューバの美しくも気高い精神を、世界に発信し続けてきた。
 


 「皆さまのキューバ訪問は、平和に貢献する人間主義を主張する上で、重要なことと思っています」


 
そう語ったカストロ議長をはじめ、歴代の文化大臣、ハバナ大学の関係者らキューバ各界の多くの識者が、先生への敬愛と信頼を深めていった。
 


 名誉人文学博士号の授与式の3カ月後、ハバナ大学と創価大学は学術交流協定を締結した。以来、交換留学生が毎年のように往来している。2017年には、スアレス前総長も創大を訪問した。
 


 また、歴代の駐日大使も創大を訪れ、学生や教職員と交流を重ねてきたほか、民音の招へいによる、キューバの音楽団体の日本公演も活発に行われてきた。
 


 2007年に法人認可されたキューバ創価学会の同志も、“良き市民”となって社会貢献の道を歩む。
 


 「生きるということは世の中のために善を行うということである」(青木康征・柳沼孝一郎訳『ホセ・マルティ選集第2巻』日本経済評論社)
 

 マルティの言葉を抱き締めて、先生が築いた平和と教育と文化の橋を、多くの若人たちが渡っている。


ガルシア教授の声
 (池田)博士は、人道主義を重んじ、民衆の中で寛容性と理解をもって「人間の尊厳」を守り、調和の未来へと昇華させる努力をされています。
 


 よって当大学の義務は、これを認識し、池田大作氏に称号を授与することであります。なぜなら高潔な教えを語る人への感謝は、すべての人間の義務だからです。(中略)
 


 池田氏は、精神的価値の興隆には、文化や社会の向上に向けての個人の参加が不可欠である、と考えておられます。理想を目指すたゆまぬ努力の人であり、同時に、当面の現実に対しても、たゆまぬ努力の人であります。この見地から、池田氏の思想の要素を、うかがうことができます。
 


 すなわち、各個人が責任を有し、精神的に成長し、ドグマとエゴイズムを克服するところに、人間と人間、人間と自然が共生できる可能性を見いだしうる、とするものです。つまり、受け身的な消極性とか無益な神秘主義でもなく、我々の環境にとって真に必要である課題を呼び起こす思想なのです。(中略)
 


 本日の式典は、ただ単に世界的な人物を、たたえているだけではありません。私どもが、「責任を果たす」という決意を表明することによって、氏に真の敬意を表す式典でもあるのです。すなわち、我々の知識を幅広い精神性へと高め、ハバナ大学に、独創的かつ完全なる良識と調和した場所を創出しゆくことをもって、私どもは、この「責任」を果たしたいと思うのであります。(名誉人文学博士号の授与式<1996年6月25日>から)


キューバ最古の大学 教育立国の発展リード
キューバ最古の歴史を誇るハバナ大学
 キューバの首都ハバナに立つ、ラテンアメリカ屈指の名門学府。1728年に設立され、同国最古の歴史を誇る。
 


 小学校から大学までの教育費の無料化、100%に迫る識字率など「教育立国」として名高いキューバの発展をリード。カストロ国家評議会元議長ら国家元首をはじめ、各界に有為の人材を輩出している。
 
 文学、生物学などの学部と研究所に、1万4000人の学部生や大学院生らが在籍。50以上の国際機関に所属し、海外の大学と400以上の学術協定を結ぶ。


(2020年6月28日   聖教新聞)







Last updated  2020/06/28 01:48:36 PM
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2020/06/07

​​未来に輝く知性の宝冠――池田先生の名誉学術称号45周年
フィリピン大学
人類は皆が「世界市民」

フィリピン大学の卒業式で、池田先生に「名誉法学博士号」の学位記が贈られた。これに先立ち先生は、経営学部の卒業生に対して記念講演。ホセ・リサールの精神を通して語り、晴れの門出を祝福した(1991年4月)
 空と海を深紅に染める、フィリピン・マニラ湾の夕日は、“世界一美しい”といわれる。一日の終わりを告げる光の饗宴(きょうえん)は、希望の明日への約束だ。
 
​​

 「東洋の真珠」とうたわれるフィリピンを照らし続ける“太陽”――それが独立の英雄ホセ・リサールである。祖国を愛し、平和を願ったリサールは、フィリピン人の象徴である。
 


 「過去の歴史に“戦争のリーダー”は多くいましたが、“平和のリーダー”はわずかしかいませんでした」
 


 1990年4月、リサールの心を携えたフィリピン大学のアブエバ総長(当時)が、日本での会見で池田先生に語った。



 総長は、「ノンキリング(不殺生)社会」の実現を目指す政治学者でもある。先生と対談した平和学者のグレン・ペイジ博士を通じて、先生の平和行動を深く知るようになった。
 


 会見で総長は、平和への「大きな波動」を起こすために、先生のフィリピン訪問を強く望んだ。


 
 訪問が実現したのは、翌91年4月。フィリピン大学などによる招へいだった。
 


 同月21日、先生は同大学の卒業式典に出席。席上、「名誉法学博士号」が贈られた。フィリピンの歴代大統領や各国首相らに授与されてきた、同大学の最高栄誉である。
 


 再会を心待ちにしていたアブエバ総長がたたえた。“池田先生の平和・文化・教育への貢献は、善意の人々に対する大きな励ましです”と。


教育の“太陽”に照らされ 平和のリーダーは陸続と
 16世紀半ばから300年以上にわたり、フィリピンはスペインの植民地だった。独立を果たした直後、今度はアメリカの支配下に。
 


 支配は1946年まで続いた。戦時中には日本軍の暴虐によって、尊い命と国土が踏みにじられた。
 


 フィリピンの歴史は、自由への苦闘そのものであった。だが歴史家のトインビー博士は、戦争の傷痕が残る同国を訪れ、苦難をはね返す活力と楽観主義を、人々の中に見たとつづった。
 


 その不屈の強さの“源”へとたどっていくと、ホセ・リサールその人に行き着く。
 


 20以上の言語に通じ、小説家や詩人としてのみならず、哲学者や教育者、医学者、農学者等としても万能の才を発揮したリサール。
 


 彼が生きた19世紀後半、フィリピンには、植民地当局、とりわけ聖職者らの悪行がはびこっていた。祖国に自由と正義と高潔を取り戻すべく、立ち上がったリサールが、武器としたのは「ペンの力」であった。
 


 1887年、小説『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』を発刊。「おまえ(祖国)の現状を、なんの手かげんもせずに、忠実にここに描き出してみようと思う」(岩崎玄訳、井村文化事業社)――忍従を強いられた祖国の姿を克明に描き、聖職者の堕落(だらく)や欺瞞(ぎまん)を痛烈に告発した。
 


 91年には続編の『反逆・暴力・革命――エル・フィリブステリスモ』を出版。二つの小説は、フィリピン同胞たちの大きな反響と、植民地当局の強い反発を巻き起こした。
 


 当局から危険視されたリサールは逮捕され、ミンダナオ島のダピタンに追放。4年間の流刑生活の後、35歳の若さで処刑された。



 彼の小説は人々を深い眠りから目覚めさせ、自由と独立を求める民衆の声を高めていった。死してなお、その理念と精神は生き続けたのである。
 


 一方で、作品で暴力革命の成功を描かなかったように、リサールは、改革のために名もない民衆の血が流れることを、決して望んでいなかった。
 


 「われら自身が自由にふさわしいものになることによって、それを戦い取らなければいけない」(岩崎玄訳『エル・フィリブステリスモ』井村文化事業社)
 


 彼が願ったのは民衆それ自身の向上であった。
 


 そしてリサールは、人間の内なる変革を可能にするのは教育であると考えた。
 


 「学校は社会の基礎であり、その中に国民の将来が書かれてある本である」(『ノリ・メ・タンヘレ』)
 


 生まれ故郷に学校を創設する夢を抱き、流刑地のダピタンでも、貧しい子どもたちに学問を教えた。
フィリピン大学のアブエバ元総長と先生が創価大学で再会(1999年11月)。90年以来、7度にわたる二人の語らいは、対談集『マリンロードの曙』に結実している
 フィリピン大学が創立されたのは、リサールの死から12年後の1908年。独立の英雄が託した人間教育の理念を礎とし、“国家の発展はフィリピン大学と共にある”といわれる名門学府に成長。卒業生には、歴代大統領らが名を連ねる。
 


 56年、フィリピン議会は全ての学校・大学に、リサールの生涯と著作に関する課程を含めることを定めた条例を可決。「リサール法」と呼ばれる国法である。
 


 リサールを学び、その心を後世に伝えていく――そうした挑戦の先頭に、フィリピン大学は立つ。ゆえに、リサールの精神を体現する人物をたたえることは、必然にほかならない。フィリピン大学から先生に贈られた「名誉法学博士号」の意義も、そこにあった。
 


 「『偉大な人物』の精神を広めることが、『偉大な社会』をつくり、『偉大な平和』を築く」
 


 この信念で先生は、青年に、世界の民衆にリサールを語り続けてきた。
 


 名誉法学博士号の授与式の翌日には、フィリピンの同志に長編詩「民主の空 希望の太陽」を贈り、呼び掛けた。
 


 「庶民と庶民の心を結び/祖国フィリピンの/素晴らしい明日を信じて/今日の労作業に取り組もう/その一漕ぎ一漕ぎは/輝く明日への前進の歩み/いざ 進め 共々に/人間性の花咲く幸の港めざして」

1998年2月のフィリピン訪問の折、先生は独立の英雄ホセ・リサールの像に献花。先生と深い友誼で結ばれた「リサール協会」のキアンバオ会長(当時)㊧も共に
 アブエバ総長をはじめとするフィリピン大学と池田先生の友情は、時を経るごとに彩りを増していった。
 


 93年、先生はフィリピンを再訪。この折、同大学内に国際教育交流を促進する「平和の家」がオープン。総長の強い要望と大学関係者の賛同により、「イケダ・ホール」と命名された。
 


 さらに先生は、コラソン・アキノ大統領、ラモス大統領ら国家指導者や、リサールの理念を世界に広める「リサール協会」の歴代会長をはじめ、各界の識者と交流を重ねてきた。
 


 同協会は96年、先生に日本人初となる「リサール大十字勲章」を授与。98年には第1号の「リサール国際平和賞」を贈っている。
 


 フィリピン大学から始まった創価大学とフィリピンの大学の学術交流は、今では8大学に広がる。
 


 リサールは小説の中で語った。いつか世界からは人種が消え、人間は皆が「世界市民」になる――。
 


 フィリピンの英雄が見た壮大な夢は、人間教育の太陽を浴びて育った無数の青年たちによって、受け継がれている。


アブエバ元総長の声
 フィリピン大学は1991年、池田博士に名誉法学博士号を授与しました。そしてまた、個人的にも互いを知り、友好を続ける中で、博士のこと、そして博士の偉大さを深く知ったのです。
 
 私のこの思いは、1998年、池田博士に、最高位であるリサール国際平和賞の第1号を授与したリサール協会の指導者たちも共有すると確信します。(中略)
 
 池田博士は、国連や多くの地域機関がもつ理想やビジョンを共有し、その実現を強く要求してきたともいえましょう。世界平和への貢献によって、博士は1983年、国連平和賞を受賞しました。平和と公正な発展への普遍的なビジョンを実現する手段として、またその帰結として、池田博士は教育と文化の交流を促進し、支援しています。言葉ではなく、「具体的な行動」で示してきたのです。(中略)
 
 アジアの他の国々と同様に、フィリピンはかつて、日本の軍国主義と帝国主義、侵略と占領、あらゆる野蛮な圧政と非人道的行為の犠牲となりました。しかし池田博士は、先達であり恩師であった牧口常三郎初代会長や戸田城聖第2代会長と同様に、先の第2次世界大戦の日本の軍国主義に反対する姿勢を、厳格に体現している模範的人物なのです。(中略)
 
 (博士は)世界市民であり、「人道的で公正なグローバル化」の擁護者です。結論して言うなら、池田博士は、世界の平和、人類の幸福のために戦う、誠実と希望の闘士なのです。(本紙2001年2月19日付)
 
歴代大統領らを輩出 フィリピン最高峰の学府

フィリピン大学ディリマン校のキャンパスに立つ、先生の名前を冠した国際交流施設「平和の家(イケダ・ホール)」
 1908年に創立されたフィリピン最高峰の名門大学。同国全土に17のキャンパスを持つ。
 


 教養学部、政治学部、医学部などに258のプログラムと、438の大学院プログラムがあり、約6万人の学生が在籍。アジア太平洋地域をはじめ、世界中の大学や学術機関と連携して国際交流を推進する。
 


 卒業生は同国の歴代大統領や最高裁判所長官のほか、医師、弁護士、科学者など各界で活躍する。


(2020年6月7日   聖教新聞)







Last updated  2020/06/07 09:44:04 AM
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2020/05/31

​〈未来に輝く知性の宝冠〉 カナダ ラバル大学
個性が光る多文化主義
対話を重視する人間教育に世界市民育成の模範を見た

350年の伝統が光るラバル大学からの「名誉教育学博士号」の授与式。ブリエール
学長(当時)右.から池田先生に学位記が手渡された(2010年5月、東京・八王子市の創価大学で)

 「私の大好きなカナダの天地に、お元気で、まもなく99歳になられる偉大なお母さまがおられます」
 カナダ・ラバル大学からの「名誉教育学博士号」に対する池田先生の謝辞は、こんな言葉で始まった。
 2010年5月4日、創価大学での授与式。
 先生が語った“カナダのお母さん”とは、ブリエール学長(当時)の母・ガブリエルさんである。
 「自立」と「自発」の心を育んでくれた母は、学長にとって生涯、感謝してもしきれない存在であった。そんな母子の絆を通して、先生は呼び掛けた。
 「大きく深い『母の恩』を知り、それに報いていく心から、確かな『平和』の心が生まれるのです」と。
 その後も先生は、集った友に訴えた。「親孝行の前進を!」「勇気と忍耐で勝て! 断じて負けるな!」
 そのたびに、参加者からは「ハイ!」と元気な返事が。そんな“父子”の交流を、ブリエール学長は目を細めながら見つめた。
 学長に、先生への名誉教育学博士号の推薦状が届けられたのは、08年のこと。
当時の教育学部長による推薦だった。
 先生の教育哲学と平和への実践が、同大学が掲げる価値観と一致するものであることを、学長は知った。その後、学長の正式な推薦が大学理事会で評決され、授与に至ったのである。
 ブリエール学長が特に感銘を受けたのは、対話を通して交流と相互理解を促進するとの、先生の教育観であった。「世界市民としての人間の育成」を目指すラバル大学にとって、その模範を示すのが創価教育であると確信した。
 大学の歴史上、異例ともいえる学外での授与を、自ら来日して挙行したゆえんも、ここにあった。
 そして授与式は、学長にとって、先生の人間教育の一端を垣間見る式典ともなった。
                   ◇ 
 ラバル大学は、北米最古のフランス語系の大学である。その歴史は、世界へと扉を開いた国家の歩みとともにある。
 16世紀以降、カナダには多くのフランス人が移り住み、「ニューフランス」と呼ばれた。1663年には初の司教であるフランソワ・ド・ラバル卿によって、神学校が創立。これがラバル大学の前身である。
 18世紀、植民地を巡る戦いで、イギリスがフランスを破る。イギリス領となったカナダは、英語とフランス語の二言語政策、さらに「多文化主義」への舵取りを開始した。
 世界有数の移民、難民の受け入れ国であるカナダ。その数は、毎年20万人以上を数える。“世界中のあらゆる民族が住んでいる”といわれる、多民族国家として発展を遂げた。
 多民族国家といっても、カナダのそれは、特定の生活や行動様式に統合されていく「るつぼ」のような同化主義ではない。それぞれの民族が、独自の伝統や文化、生活習慣を守りながら暮らす国家のあり方であり、「モザイク」に例えられる多様性である。
 列強による支配を乗り越え、外交にあっては、大国間の「橋渡し」「仲介役」として国際社会で確かな地位を確立し、内政においては、民族間の平等を常に模索しつつ、平和と共存のグローバル時代の先頭に立ってきた。 ​


 1960年以降、同国を3回訪れた池田先生は、カナダは「思いやりの文化」の国であるとたたえる。
 87年には、同国SGIのメンバーが永遠の指針とする長編詩「ナイアガラにかかる虹」を贈り、こうつづった。「多種多様な相違のなかにあって/一人ひとりの色彩を生かしつつ/美しき調和の虹をかけゆく/包容と忍耐のリーダーであってくれ給え」と。
 個性が輝く“思いやりの国”カナダにあって、ひときわ独自性を保ってきた地域が、ラバル大学が立つケベック州である。カナダがイギリス領となった後も、同州では「ケベック法」などにより、フランス独自の文化や慣習が残されてきた。現在も人口の7割をフランス系が占め、唯一の公用語はフランス語である。
 そんなケベック州で発展したのが、「間文化主義」といわれる理念である。
異文化との交流を重視し、その交流で生じる摩擦を乗り越えるために、「対話」に重点を置くことを指す。
 ラバル大学にもまた、対話を重視した人間交流の文化が息づく。池田先生と創価教育に着目したのは、必然であったといえる。
 同大学のジャルベ教育学部長は述べている。
 対話においては、偏見や決め付けを取り除き、相手を自分と同じ「価値のある存在」と見ることが大切です。創価教育は、自分と相手を結ぶ対話の空間をつくる特色があります──と。
                   ◇
 名誉教育学博士号の授与式の後、創大にほど近い牧口記念庭園で、ブリエール学長の母をたたえる「ガブリエル・ブリエール桜」の植樹が行われた。
 ガブリエルさんが99歳で天寿を全うしたのは、その4カ月後であった。
 「人生の最終章に、桜の植樹という永遠の思い出を刻むことができた母は、本当に幸せな人でした」
 感涙をにじませて語った学長。母との絆を心の滋養として、さらなる大学発展へと力を注いだ学長が、その実践の原動力にしたのが創価教育であった。
 先生の教育の精神に啓発を受け、ラバル大学での奨学金プログラムの人選基準を、従来の学業成績から、学生の持つ人間的な指導力や人道的な行動に移したという。


 また学長は、2014年にも来日し、創価学園、創大を訪問。生徒、学生らと触れ合うたびに、人間教育の精神がキャンパスに流れていることを確信し、先生への信頼と敬愛を深めた。
 ラバル大学との友情は、大きく広がる。18年には、先生の対談集や学術講演集など150冊の書籍が、大学の図書館内の特設コーナーに設置された。
 また、ジャルベ教育学部長らを中心に、アメリカ・シカゴのデポール大学「池田大作教育研究所」と連携し、先生の教育思想の研究が進んでいる。


「名誉教育学博士号」の授与式で、先生は語った。
「創価教育は、日本の軍国主義と対決した初代・牧口先生と、2代・戸田先生を源流として、三代の師弟の大河となりました。教育の連帯を世界に広げ、正義と英知の人材を続々と育てる。ここにこそ平和の創造があります。これが教育の根本です」
 本年は、『創価教育学体系』発刊から90周年。創価の人間教育の“苗木”は、平和と友情の大樹へと育った。多様性の国・カナダをはじめ、世界各国で人材の大輪の花を咲かせている。
 その人華の彩りこそ、“創価教育の勝利”の何よりの証左である。
北米初のフランス語系大学 国家の知の伝統をリード
 1663年、ケベック州に誕生したケベック神学校に淵源を持つ、北米最古のフランス語系大学。1852年、正式に現在の大学として設立された。
 法学、医学、哲学など17学部に約4万3000人が在籍。最先端の設備を誇る研究センターなども充実。世界77カ国の約600の大学などと協力協定を結ぶ。
 卒業生は31万人を超え、カナダの歴代首相、最高裁判事、大使、オリンピック選手、ケベック州首相など各界で活躍。多文化主義を進めるカナダの、知の伝統を力強くリードする。

ブリエール前学長
 私自身、深く感動したのは、(創価の学びやの)学生や生徒たちがいかに世界に開かれた眼を持ち、自身を取り巻く環境や社会に開かれた意識を持って学んでいるか、ということです。
 彼らは自身のため、そして社会のための教育の意義を深く理解していました。
学ぶことの目的を何よりも大切にしていました。ゆえに、心からの喜びと感謝をもって学んでいました。
 その教育の精神と伝統が、小学校から大学まで一貫している──ここにこそ、創価教育の最大の強みがあると思ったのです。(中略)
 私たちが何かに感謝するのは、その価値に対して深い「信」を置いているからに他なりません。
 また感謝するということは、自らがその価値に献身することを意味します。
その献身を通して、価値は自身の中で肉化され、新たな創造をもたらすのです。
さらに感謝するということは、既成の価値に、より深い意味を与えていく力となると言ってもよいでしょう。そこにこそ、SGI会長が強調される感謝の真価があるのではないでしょうか。(中略)
 私がここで明確にしておきたいのは、わが大学がSGI会長に名誉博士号を授与したのは、人生のあるべき価値を体現し、それを通して社会への貢献を果たした偉大な人物をたたえてのものであるということです。そして、その称号は学長である私個人の意志ではなく、大学の総意として贈られたものなのです。
 この栄誉をカナダからSGI会長に授与することができ、私たちは、大きな誇りと喜びを覚えているのです。(本紙2011年11月7日付)


(2020年5月31日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/31 04:19:37 PM
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2020/05/24

​​未来に輝く知性の宝冠――池田先生の名誉学術称号45周年
    中国 北京大学
    友好の「金の橋」は永遠
   
中国教育界をリードする北京大学から「名誉教授」称号が池田先生に。丁石孫学長㊥は「今日から池田先生は北京大学の一員です。今後、機会あるごとに北京大学へお戻りください」と。この言葉の通りに先生は、同大学を7回訪問した(1984年6月、同大学で)
 中国の知の伝統をリードする北京大学の誕生は、清朝末期の1898年にさかのぼる。
 当時の名称は「京師(けいし)大学堂」。近代化を目指す、同国の改革措置の一環として創立された。現在の「北京大学」に改名されたのは、中華民国成立後の1912年5月である。
 19世紀末は、国家の激動期であった。清仏戦争、日清戦争の相次ぐ敗北などで打ちひしがれた中国。自国の富強のためには、軍事力の強化よりも「民智」の向上が不可欠であるとの認識が広まっていった。
 同大学が創立され、中国の近代教育の最高峰としてその草創が築かれたのは、まさにこの頃であった。


 民衆に智慧を与え、民衆が社会変革へと立ち上がる起点となった北京大学。
 創立記念日は5月4日。1919年の「五・四運動」にちなんで定められたものである。民衆革命の発火点といえる同運動の中心となったのが、北京大学の学生たちであった。
 北京大学から、池田先生に対する「名誉教授」称号が贈られたのは84年6月5日。同大学の図書館で授与式が挙行され、丁石孫(ていせきそん)学長(当時)から先生に名誉教授の証書が授与された。
 同大学からの名誉教授称号が、日本人に贈られたのは初めてであった。
 参加した同大学の王学珍(おうがくちん)元校務委員会主任は、授与の理由をこう語っている。
 “池田先生は、最も早い時期に中日国交正常化を提言され、中日友好を成し遂げた一人です。だからこそ私たちは、名誉教授称号を授与すべきであると考えたのです”

揺るがぬ「人間」へのまなざし 民衆の大地に平和は開かれる
 歴史を画する先生の「日中国交正常化提言」は、1968年9月8日の学生部総会で発表された。
 東西冷戦下、日本でも中国敵視の感情が高まる中、“日本と中国の友好が、世界平和の実現に不可欠である”との、命懸けの師子吼(ししく)であった。
 日中友好の「金の橋」は、先師・牧口先生、恩師・戸田先生から受け継いだ悲願であった。その実現のために先生は、国交正常化の2年後の74年5月、中国への第一歩を刻んだ。
 この訪問で北京大学にも足を運び、図書5000冊の目録を贈ったほか、学生との交流のひとときを持った。
 同年12月には、同大学からの招へいで再び中国へ。周恩来総理との一期一会の会見に臨み、日中友好への努力を強く約し合った。
 先生の中国訪問は、これまで10度。そのまなざしの先には常に、「人間」がいた。訪れるたび、国家のリーダーとも、民間人とも、誠心誠意、語らった。民衆と民衆の心を結ぶことが、国家の友好の礎であるとの信条からであった。
 そんな信条の一つの表れが、北京大学との友情にほかならなかった。
 初訪中以降、先生は同大学を7度訪れた。「私が往来する、友好の『金の橋』は、いつも北京大学と結ばれていた」と先生はつづっている。


 80年4月の第5次訪中では、北京大学で「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題して講演。この折、先生の日中友好への尽力をたたえて、名誉教授称号を授与することが伝えられた。その授与式が挙行されたのが、続く84年6月の訪中であった。
 名誉教授称号の授与に続き、先生は、「平和への王道――私の一考察」と題して、北京大学で2度目の講演を行っている。

 授与式の後、先生は「平和への王道――私の一考察」と題して北京大学で2度目の講演。演壇の校章は、かつて北京大学で教えた文豪・魯迅(ろじん)がデザインしたもの
 先生は、中国三千年の歴史を動かしてきた力は、文化や文明を尊ぶ“尚文(しょうぶん)”の気風であり、そうした歴史と伝統が、武力を抑制してきたと洞察(どうさつ)した。
 さらに、中国の人々の視点や考え方の原点には人間が据えられていると述べ、禍福の織り成す大河のごとき歴史において、「人間という座標軸」が揺らいだことはなかったと強調。近代の争いはこの“人間”という機軸が欠落した帰結であり、信頼と愛と友情を築く心の触発こそ、平和への王道であると訴えた。
 「この重要な講演は、北京大学の歴史に書きとどめられることでしょう」。そう語った丁学長をはじめ、講演は、参加者の大喝采(だいかっさい)をもって迎えられた。
 そして人間という視座に立った講演は、北京大学に脈打つ民衆奉仕の精神と響き合うものだった。


 同大学で6年間、教壇に立った革命作家の魯迅。代表作の『阿Q正伝』『狂人日記』等で、民衆の魂の変革なくして、中国の前途はないと鋭く喝破(かっぱ)した。先生の講演時にも設置された、「北大」と記された同大学の校章は、魯迅がデザインしたものである。
 また北京大学には、周総理が6度訪れ、講演した歴史もある。人民奉仕の総理が常々語っていた、“生ある限り、学び続けよう”との向学の精神は、今もキャンパスに息づく。
 90年5月、同大学での3度目の講演に立った先生。大学のモットーの一つである「創新(新しきものの創造)」に触れ、語った。

 “「創価」の理想とも相通ずる、この「創新」の光輝く貴大学の未来を心に描きながら、私もさらに力を尽くしてまいります”と。

「大学」の交流は、その国の「未来」と交流すること――1974年6月、北京大学を初訪問した先生は、学生たちと歓談のひとときを
 7度の訪問と、3度の講演。北京大学は、「友情は、貫いてこそ“真の友情”」と語る先生の、平和行動の舞台そのものだった。
 先生の姿を目の当たりにした多くの人たちが、先生をたたえ、その行動に連なっていった。
 北京大学の名誉教授称号は、中国の大学・学術機関から先生に贈られた140を超える名誉学術称号の、第1号となった。
 北京大学が最初に交流協定を結んだ日本の大学は、創価大学である。本年で交流開始から40周年となる両大学の間では、これまで100人を超える交換留学生や教員が往来。創大と中国の大学との学術交流は、66大学に広がる。
 2001年に発足した、北京大学日本研究センターの「池田大作研究会」は、中国で最初の池田思想研究の拠点に。02年には、同大学副学長を歴任した季羨林博士、中国社会科学院の蒋忠新博士と池田先生のてい談集『東洋の智慧を語る』が発刊された。
 さらに06年には、北京大学に隣接する地に創大の北京事務所がオープン。王学珍元校務委員会主任が名誉所長に就任した。
 北京大学を起点に結ばれた平和と友好の「金の橋」を、崩してはならない。
 かつてない危機の時代の今こそ、「創新」の哲学、「民衆」という大地に根差した行動が求められている。
2008年2月、北京大学で池田先生の傘寿(80歳)を祝賀する学術シンポジウムが開催。全国20大学の首脳らも出席した

王学珍元校務委員会主任の声

 池田先生は、第1次から第7次訪中まで、中国を訪問するたびに、毎回、わが北京大学のキャンパスを訪れるなど、特別な関心を寄せてくださいました。
 1984年、先生の6度目の北京大学訪問の際、私は、ちょうど校務委員会の主任になったばかりで、大学を代表して先生と会見しました。
 池田先生は当時、中国では既に大変に有名な人物で、多くの指導者が先生にお会いしたいと願っていました。特に、私たちが敬愛する周恩来(しゅうおんらい)総理が、病を押して会われたほどの人物です。ですから私は、先生を歓迎できたことをとてもうれしく思いました。(中略)
 私たちにとっては、名誉教授を受けてくださったことこそ、大変な栄誉でした。わが国のトップの学府である北京大学が、日本人として初の名誉教授の称号を授与したのが、池田先生なのです。そして、北京大学が初めて交流協定を結んだ日本の大学が、先生の創立された創価大学です。ここに中国教育界、学術界の池田先生への尊敬の念を知っていただきたい。
 今、長期的な歴史の大河から考え、そして未来に目を向けていかなければなりません。つまり、後継の人材の育成によって、はじめて両国は、いわゆる世代から世代へと友好を継続していけるのです。また、学術的にも、各分野の相互交流の促進ができるのです。
 そのためにも私たちは、今こそ池田先生の実践に、学んでいかなければならないと思います。(本紙2012年9月29日付)​​


近代中国初の総合大学 魯迅、デューイらが教壇に
中国を代表する知性の府・北京大学の図書館。2016年には、池田先生の写真展が開かれた
 1898年に「京師大学堂」として創立された、近代中国初の総合大学。1912年に、現在の「北京大学」に改称された。清華(せいか)大学と共に中国の重点大学のトップに位置する同国随一の学府。革命作家の魯迅やアメリカの教育哲学者デューイらも教壇に立った。
 メインキャンパスは首都・北京にあり、約5万人の学生が在籍。また、アメリカ、イギリス、オーストラリアなど各国の大学と交流協定を締結し、約7000人の留学生を受け入れるなど、国際交流も盛ん。
 卒業生には李克強(りこくきょう)首相をはじめ、経済界、政界、法曹界など、各界のリーダーがいる。


(2020年5月24日 聖教新聞)







Last updated  2020/05/24 03:10:05 PM
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