11639367 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

晴ればれとBlog

PR

全21件 (21件中 1-10件目)

1 2 3 >

原爆投下・終戦から75年

2020/09/20
XML

〈信仰体験〉いま想う戦後75年  11   広島原爆の語り部15年

 【埼玉県狭山市】先月6日、入間(いぬま)市内の中学校。中島寿々江(すずえ)さん(86)=支部副婦人部長=は約80人の3年生の前で、75年前に起こったことを語り始めた。広島に原子爆弾が落とされたのは11歳の時。しぼり出す言葉の端々から、思い出したくない悲惨な記憶がよみがえる。それでも「戦争は絶対にいけない!」と、中島さんを見つめる生徒たちの瞳に訴えた。
  
「平和は誰かがつくるんじゃない。あなたがつくっていくの」
 1945年(昭和20年)当時、私は広島市内で、祖母と叔母の3人で暮らしていました。この2年前、父は仕事の関係で、母と弟を連れて高知へ。祖母も叔母も、親と離れた私を愛情いっぱいに育ててくれました。
 7月4日、高知が空襲に遭い、街は焼け野原に。両親は着のみ着のままで広島へ戻ってきました。大州町(現・広島市南区)に家を借り、7月末には4人で暮らし始めました。

 1週間後の8月6日。この日は、雲一つない快晴だった。そして、午前8時15分――。

 ピカッと見たこともない閃光を浴びた瞬間、ドーンというすさまじい爆音とともに、粉塵で目の前が真っ白になりました。
 「寿々江、大丈夫か?」。声を掛けてくれた父は、体中にガラスの破片が突き刺さり、真っ赤でした。私も肘にけがを負いました。母と弟は無事でした。

 外に出ると、家は傾き、窓枠がなくなっていました。自宅は、爆心地から約3・5キロ。近くの親戚の家に避難しました。
 道には力なく歩く人の姿が。足を引きずり両腕から皮膚がワカメのように垂れ下がっていました。全身真っ黒で、男女の区別もできない人もいた。

今年は新型コロナウイルスの影響で、多くの講演会が中止に。講演する場合は、万全の対策を行う(本年8月、入間市内で。本人提供)

 父と母は、祖母と叔母の消息を求め、大手町(爆心地から約1キロ)周辺を何日も何日も捜し歩きました。今思えば、放射線が降り注ぐ危険な街の中です。でも当時は全く分からなかった。

 数日後、祖母は自宅前で炭のように真っ黒に。叔母は全身に熱線を浴び、逃げた親戚の家で亡くなっていた、と聞きました。

 優しかった二人が、無残な姿になってしまったのかと思うと、悲しくて悔しくて、涙が止まらなかった。

 ある日、父が負傷した青年を連れて帰ってきました。お兄さんの頭は、4分の1ほどがなくなっていて、傷口から無数のウジが群がって、地面をはっていました。ウジを取っても取っても、なくなりません。とうとう、お兄さんは息をしなくなりました。足がすくんで体中が震えました。ショックで食べ物が喉を通らなくなりました。

 爆心地から約1キロ地点に住んでいた6歳と9歳のいとこも避難してきました。けがもなく、元気いっぱい家の中を飛び回っていて。でも1週間後に突然、「苦しいよー、苦しいよー」って倒れて。そのまま亡くなりました。
 8月15日、戦争は終わりました。でも、何も終わってなんかいなかったんです。

 戦後の中島さん一家を襲ったのは、見えない放射能の恐怖だった。
 それまで元気だった父親は微熱が続き、強い倦怠感を訴えるように。次第に働くことができなくなった。母親も同じ症状で倒れた。

 中島さんは両親を支えようと、中学卒業後、懸命に働くものの、17歳の時に父が、23歳の時に母が亡くなった。「今振り返れば、二人とも、原爆症のような症状が出ていました」

 59年、松雄さん(88)=副支部長=との結婚を機に、創価学会に入会した。心の中では、“戦争によって、無残に死んでいった人たちがたくさんいる。神も仏もあるものか”と思っていた。


孫の鶴見晃紀さんは「自慢のおばあちゃんです」と(右から、中島さん、長女・鶴見真須美さん、孫の晃紀さん、夫・松雄さん)

 失うばかりの人生に暖かな日がさした。
 3度の流産を越え、生まれてきたわが子。“かわいい、かわいい赤ちゃん、私たちのもとに生まれてきてくれて、ありがとう”

 だが、息をしていなかった。喜びの絶頂から一気に絶望の淵へ突き落とされた。

 すぐに婦人部の先輩が駆け付けてくれた。ギュッと抱き締め、一緒に泣いてくれた。
 「この信心は、宿命転換の仏法なの。赤ちゃんが亡くなった意味は分からないかもしれない。でも、生まれてきた意味は、あなた自身のこれからの戦いで決まるのよ」と、励ましてくれた。

 夫は「僕たちの宿命だから、一緒に乗り越えよう」と。夫婦で祈っては折伏に歩いた。
 子どもを亡くした友人の悲しみに寄り添えた時、「あの時、亡くなった子は、私に同苦する心を、信心を教えてくれた」と思えた。
 その後、一男一女を授かった。喜びはひとしおだった。松雄さんが創業した電気通信設備会社を切り盛りしながら、感謝の心で学会活動に励んだ。

 2006年(平成18年)、所沢市から戦争体験の講演を依頼された。“私には無理”と思った。
 実は以前も、戦争体験を語ったことがあったが、途中で涙があふれ、続けられなかった。

 以来、自分には務まらないとして、ふたをした。その一方で、“このままでいいのか”という思いも年々強くなっていた。

 核兵器を“絶対悪”と叫んだ戸田先生の「原水爆禁止宣言」。その遺志を継ぎ、平和のためにまい進する池田先生。師匠の大闘争に触れるたび、“弟子として戦わなければいけない”と思えた。


 御本尊に祈り抜き、引き受けることを決めた。
 “戦争で亡くなった方たちの思いを代弁する”“平和の種を子どもたちにまくんだ”

 講演当日、言葉に詰まりながらも、最後まで訴え続けた。
 「戦争は終わっても、私の中では終わっていません。戦争は絶対にやってはいけないんです。本当の平和は、政治家や偉い人がつくるんじゃない。あなたたちがつくっていくの。友達を、家族を大事にしてほしい。それが、平和への第一歩になるから」

 ある年、講演を聞いた高校生から手紙が届いた。
 <中島さんには、学校や塾では学ぶことができない、人間として大事なことを教えてもらいました。間違いなく、私の人生は、中島さんによって変わりました。“生かされた命”と思って、感謝の心で人と人を結ぶ人になっていきます>

 思いが届いた喜びに、中島さんの胸は熱くなった。

 語り部を始めて今年で15年になる。毎年、学校や公民館など40カ所以上で戦争体験を語っている。
 その間、厚生労働省の指定難病「原発性胆汁性肝硬変(たんじゅうせいかんこうへん)」と闘ってきた。2年前には心不全で倒れた。それでも、語り部として生き続ける覚悟を決めている。

 「子どもたちに教えているようで、改めて、教わったことがあります。それは『人は変われる』ということ。『けんか中の友達と仲直りしました』『お母さんを大事にします』。そんな声を聞くたびに、平和な世界が広がっていると思えるんです。一分でも長く、一人でも多くの人に、平和の心をつないでいきたい」


(2020年9月20日 聖教新聞)








Last updated  2020/09/20 10:45:10 AM


2020/09/08

​〈信仰体験〉いま想う戦後75年 ⑩ 被爆者の叫びを未来へ
「継ぐ」ことには責任と喜びがある

 【長崎市】8月9日。この日を迎える気持ちは、時を重ねるにつれ深まってきた。田平由布子さん=華陽リーダー=は、被爆地・長崎に生まれ育った。原爆が投下された日は、毎年、学校の登校日。教員や被爆者の話を聞いても、記憶には残らなかった。

​

 「ものすごく過去のように見えてしまって。平和な時代にいる私の生活と、どう関わっているんだろう。そう思っていました。あの時までは――」。

 現在、「語り継ぐ被爆体験(家族・交流証言)推進事業」の交流証言者として、今は亡き被爆者・吉田勲さんの思いを未来へつないでいる。

 今年の8月9日。長崎市で行われた平和祈念式典。新型コロナウイルスの感染防止のため、参列者は例年の1割に。その中に田平さんもいた。小学生の頃から平和学習の時間には興味が湧かず、中学時代には不登校も経験した。



 無力感にさいなまれた時、池田先生の『希望対話』に励まされ、未来へと踏み出した。「長崎を最後の被爆地に」という思いで活動する今が、自分でも感慨深かった。


 

 原爆投下の午前11時2分に黙とう。続いて長崎平和宣言に。長崎市の田上市長は「体と心の痛みに耐えながら、つらい体験を語り、世界の人たちのために警告を発し続けてきた被爆者に」敬意と感謝を込めて拍手を送ろうと呼び掛けた。夏空の下、拍手が響き渡る。田平さんの心に、ほほ笑む一人の被爆者が浮かんでいた。

長崎原爆資料館には平和の祈りを込めた多くの折り鶴が飾られている


 定時制高校時代に長崎原爆資料館を訪れた時のこと。展示品に友達が顔をしかめた。「気味が悪い。見たくない」。そうした嫌悪感も特にない、当時の田平さんには、ただ関心がなかった。


 
転機は大学時代。学内の核兵器廃絶研究センターの存在を知った。核を巡る世界情勢や核抑止論など、初めて学ぶ事柄に強く関心を抱く。4年生の時には、核兵器廃絶長崎連絡協議会が主催する「ナガサキ・ユース代表団」の一員として渡米。国連本部での核軍縮・不拡散問題の国際会議を傍聴した。卒業後は2年あまり、母校の核兵器廃絶研究センターで働くことに。
 


 ある日の客員研究員の言葉が講話活動への道を開く。「被爆していないからといって、継承を放棄していいのか。私はそれは違うと思う」。被爆者自身の声には説得力があるに違いない。だが、いずれは被爆者のいない時代が来る。“だったら私が被爆者の思いを伝えなくては”。翌日、証言推進事業に応募した。そこで出会ったのが吉田勲さんだった。



 2017年(平成29年)7月。被爆者との交流会。全員と話し、継承する人を決める。吉田さんの印象は鮮烈だった。目に力があり、声がよく通る。にこにこして明るい人柄に引きつけられた。
 


 吉田さんは4歳で被爆した。放射線の影響と思われる症状で、体の傷やできものが化膿し、小学校では「カサブタ野郎」と呼ばれた。心を閉ざし、被爆の経験は一切口にせず、無関心を装ってきた。来し方を語る吉田さんは続けた。
 
 

「でも53歳の時、『原水爆禁止宣言』という声明の全文を改めて読んで変わったんです。どういう内容かというと――」。田平さんは驚いた。“学会員なのかな”。熱を帯びた口調で戸田先生の遺訓を紹介された。
 


 「それ(原子爆弾)を使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命である」



 田平さんが創価学会に入会したのは、2000年の2月11日。戸田先生の生誕100周年の日。母・純子さん(72)=地区副婦人部長=からそのことを何度も聞いた。吉田さんとの出会いに縁を感じた。


 
後日、継承する被爆者は吉田さんに決まった。8月と9月の2日間で計5時間、会って話を聞き取った。思いや経験の全てを託そうとする吉田さん。「次は10月、フィールドワーク(現地調査)をしよう。僕の生まれた家や思い出の場所を案内するから」と言われた。
 


 その歩みをどう伝えればいいのか。思案していた10月4日、訃報が届く。吉田さんは大動脈解離によって77歳で急逝した。信じられなかった。告別式で涙があふれた。聞きたいことはまだまだ山ほどあった。“私も学会員です”とも伝えたかった。式場には「世界広布の歌」が流れていた。


 このまま私が受け継ぎ、吉田さんの講話をしてもいいのか――田平さんはためらった。悩み、祈ること2カ月。推進事業の担当者と吉田さんの家を訪れた。
 


 家族に案内された吉田さんの部屋。被爆当時の長崎の写真が掲げられ、パソコンの横には書籍や書類が山積みになっていた。平和への熱意が胸に迫る。


 活動を継続したい思いを伝えると、家族から快諾を得て、遺品となった資料を全て託された。
 


 17年末、講話の作成が始まった。生前に関わりの深かった人を取材。吉田さんの手記もひもとき、その活動を知るほどに圧倒された。



 ――吉田さんは1999年から計4回、渡米し国連本部へ。高校生と核兵器廃絶の署名を届けた。空軍の博物館も訪れ、長崎原爆を投下した機体「ボックスカー」を目に焼き付ける。「長崎の証言の会」では、計310校5600人の生徒たちに平和の尊さを訴えた。
 


 2012年8月9日。長崎市を訪れたトルーマン元アメリカ大統領の孫と吉田さんは握手を交わす。トルーマンは原爆投下を指示した人物。吉田さんの手記には「心の葛藤を乗り越えて長崎に来られたんじゃないかなと思ったら、思わず握手に力が入りました」とあった。
 


 そして、「言葉がありません」と池田先生への感謝の言葉も。先生は随筆で吉田さんの歩みと、この握手をつづっていた。
 


 「世の注目を集めることもない、ささやかな握手かもしれない。しかし私は、悲惨な過去を乗り越えて平和な未来の扉を開こうとする、それぞれの勇気に最大の敬意をもって、“歴史的な握手”と賞讃を送らせていただきたい」



2008年、吉田さんがアメリカ・ニューヨークの学校で核兵器の絶対悪、平和の尊さを訴える(吉田さん家族提供)


 残された文章や録音した音声を通し、田平さんは吉田さんと対話した。戸田先生、そして恩師の遺志を継いだ池田先生の平和思想を学ぼうと、小説『人間革命』を読み直した。「継ぐ」という行為は容易ではない。その難しさ、責任の重さを感じた。
 


 「原水爆禁止宣言のことは学んだつもりでした。でも、単なる知識だったと気付いたんです。本当の精神を学ぼうとしていたのかなって。同じ時代を生きていない戸田先生に向き合う姿勢を、吉田さんが教えてくださったように思います」
 


 18年10月14日。長崎原爆資料館で初めての講話をした。構成、息継ぎ、言葉の間合いなど、その後も工夫を重ね全国を回った。命には限りがあっても、継ぐ人がいれば、その心は生き続ける。5000人以上に吉田さんの平和への叫びを伝えた。



田平さんがマイクを握り交流証言講話を。核兵器廃絶への思いを訴えた後、写真を交えて吉田さんの被爆体験を一人称で語る(8月23日、長崎原爆資料館で)


 75年前に思いをはせた今年の8月9日。平和祈念式典が終わると、田平さんは原爆資料館に向かい、国連の中満泉事務次長(軍縮担当上級代表)との意見交換会に参加した。午後6時からは赤十字国際委員会などによる核兵器廃絶のオンラインイベントで長崎市長や被爆者、大学院教授と共に若者代表として登壇した。
 


 田平さんの胸にあるのは“一人でも多くの人に、平和を築く主体者になってほしい”という思い。そして、戸田先生の遺志を継ぎ、若き日から一切を担ってきた池田先生への感謝がある。
 


 原水爆禁止宣言には、こうあった。「私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」。託された未来を担う責任感と喜びを抱き、田平さんは平和のために生きる。


「語り継ぐ被爆体験(家族・交流証言)推進事業」

 高齢化が進み、被爆者から体験を聞く機会が減る中で、2014年、長崎市は体験を継承する「家族証言者」を募集し、支援を開始。2年後からは「交流証言者」として家族以外も対象に追加した。体験を託したい被爆者も募り、次世代への継承を進めている。証言者は長崎原爆資料館のほか、全国の学校などで講話活動を行う。昨年からは長崎市の委託を受け、公益財団法人・長崎平和推進協会が実施している。


( 2020年9月8日  聖教新聞)







Last updated  2020/09/08 08:48:14 AM
2020/08/29

〈信仰体験〉いま想う戦後75年 ⑨ シベリア抑留を生き延びて

 【神戸市垂水区】終戦を迎えても“終わらない”苦境があった。海軍航空隊の一員として、韓・朝鮮半島で敗戦を迎えた国出武夫さん(93)=副本部長。侵攻したソ連軍によって捕らえられ、シベリアでの抑留を余儀なくされた。飢餓、重労働、酷寒……。死線を幾度となく越えた。その記憶は、今も脳裏に焼き付いて離れない。


 戦前、岡山県玉野市の造船所で軍艦が停泊しているのを見たことがある。国出少年は、乗組員が着る軍服に憧れを抱いた。“俺も、ああいう姿になって国に貢献したい”
 

 1945年(昭和20年)春、17歳で、韓・朝鮮半島のつけ根、日本海沿いにあった「元山航空基地」に整備士として配属された。攻撃機への搭乗経験もある。


 「“一式陸攻”という8人乗りで、爆弾を積んで行くんですが、飛行中も私らは機体の後方で作業をしていたんです。下から敵が撃ってくるのが分かるんですよ。爆弾を二つほど落として、飛行場へ戻ってきたら、蓋がもう穴だらけ。よう帰ってきたなと思うてね」


 日に日に少なくなっていく機体。


 「わずかに残っていたゼロ戦(戦闘機)も、南へ飛んでいって、敵の艦船へ体当たりする。多くの戦友が逝った。挨拶に上空を3回ほど旋回するんですわ。我々はそれを下からハンカチを振って見送る。今生の別れですから」


 8月15日。終戦の報を受けても、同月9日から始まったソ連軍の侵攻に対応しなければならなかった。「命じられるままに、わしを含めた3人で偵察に行きましてね。銃一つとっても力の差は明らかでした。かなわんなと」


 上官からは極秘裏に「自決用の手りゅう弾」が配られた。


 同月23日、押し寄せたソ連軍により、所持品は没収された。

 「4列に並んで“港に船があるからそこまで歩け”と言われました。すぐそこの港に日本船が来ているのかと思ったら、北の方の港まで歩かされましてな。峠を越えて約40里(約160キロ)も行進ですわ。ほとんど飲まず食わずでね。ソ連兵が銃を持って、列から離れればその場で即撃ち殺されました。用を足しに行こうとしても、バァーッと撃たれて蜂の巣です」


 船と汽車を乗り継ぎ、シベリアの収容所へ送られた。


 「翌日起きたら、山へ連れて行かれた。100年も200年もたったかと思うような木をね、切るんですわ。のこぎりで、2人でね。あっち引っ張ったら、今度こっち引っ張ってと。外は氷点下40度にもなりますから、木は堅いし押しにくいし、足の上に落としたりしたら、骨なんかすぐ折れますからね。食事は黒パン1個と、薄い塩味のするスープだけ。しかも、昼なしでした」


 2カ月ほどした頃、ふいに胸に息苦しさを感じて倒れた。「肺炎」の診断を受け、別の収容所へ。容体は落ち着いたものの、さらなる苦役が待っていた。
 

「10人一組で連れて行かれて、穴掘り。深さ3メートルほどの穴を掘るんですわ。どうして掘るのかと思えば、遺体を埋めるんです。同じように体を壊した捕虜が収容されていて、毎日何十人と、病気や栄養失調で死ぬんですわ。雪が降ってますから、遺体をそりに乗せて、穴まで運んで、埋めるんです、毎日。死んだ人にも、奥さんがおったり、子どもがおったり、帰りを待っとるやろうに。涙が出ましたな。この死を、家族は誰も知らないままでいるんやと思うと、不憫でならんかった」


 死線を幾度も越えた。48年に帰国の報を受け取ると、日本海に面するナホトカ港から京都の舞鶴港へ渡った。

 出国から3年ぶりに、日本の土を踏み締めた――。


 帰国して3年後の51年、郷里の岡山から神戸へ移った。勤め先で知り合った先輩の紹介で、妻・藤子さん(故人)と結婚。だが程なくして、藤子さんに心臓の病が。


 「妻の叔父から折伏されましてな。わしの実家は別の宗教をやっとったから、初めは一切聞く耳を持たんかった。かつて死と隣り合わせながら、日本に帰ってこられたのは、その信仰の加護だという自負もあった。だが妻の病状は、なかなかよくならん。それなら“いっぺんやってみましょうか”いうてね」

 1961年(昭和36年)、創価学会に入会する。その際、地域に住む学会員の先輩から掛けられた言葉が忘れられない。


 「ど貧乏やったもんで。うちの息子のガリガリに痩せた姿を見て、『今あなたたちは冬のようや。必ず桜の咲くきれいな春が来るから』と、ごっつ言い聞かすんですよ。それから桜のびっしり咲いた真っさらな風呂敷を持ってきてね。御本尊様を包んで『この桜のようにな、必ず花が咲くから。君も使命があるんやから頑張りよ』って、子どもの背に御本尊様を負わせてくれた」


 治療も奏功し、妻は病を乗り越えることができた。自ら保険代理店を立ち上げ、支店を数店舗に拡大。また、仕事の合間を縫って学会活動に駆け、20人以上の友人へ弘教も実らせた。


 「生き残ったこの人生、一旗揚げてやろうと兵庫に出てきました。でも学会の皆さんは、誰かのために動いておりました。こっちが身構えると、仏法対話する相手も身構える。ニコニコしてることが大事やね」


 入会間もない頃から、池田先生との出会いを幾度も刻んだ。「78年、神戸の文化会館に来られまして。署名の入った経本と共に、伝言をいただきました。この時、自分も広宣流布の使命に生きようと改めて誓いました」


 人種や思想を超え、世界を飛び回る広布の師匠に応えたいと、国出さんは地域を駆け回った。その中で、感じてきたことがある。


 「先生は、現地の学会員だけでなく、平和のために、積極的に各国の識者と友情を結んでこられた。こちらから心を開くことに、平和の一歩があるんやと思います」
 2011年(平成23年)。当時84歳の国出さんのもとに一本の電話が入った。


 「覚えているかい?」


 声の主は、元山の飛行場でソ連軍が上陸した時、共に偵察に出た戦友の一人。二人は終戦から66年の月日を経て再会を果たす。戦争当時の記憶に立ち返りつつ、互いの来し方を語り合う中で、二人の共通点が分かった。それは、創価学会の信心と出あったことだった。


 「かつては武器を手に死線を駆け回った“戦友”と、広宣流布の使命を共有する“同志”になれたことが、本当にうれしかった」


 信心を始めて明年で60年。視神経の炎症による失明の危機や、心筋梗塞など、多くの病魔とも向き合った。いかなる苦境もわが使命と捉え、走り抜いてきた人生だ。


 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書970ページ)の御金言を心に刻み、朗々と題目を唱える国出さん。「健康で皆さんの見本になれるよう、人生の完成に向けて、たとえ今日が最後でも、悔いのない一日一日を積み上げていきたいね」


 【シベリア抑留】終戦前後、中国東北地方などでソ連の捕虜となった日本兵・軍属がシベリア地方等に連行された。57万人以上が捕虜として収容され、採鉱、採炭、森林伐採、鉄道建設、道路工事など、主として屋外重労働に従事。食料不足や極寒といった劣悪な生活環境下で、5万5千人に及ぶ死者を出した。(抑留者、死者数はモンゴルへ連行された人も含む。厚労省の発表に基づく)


(2020年8月29日)







Last updated  2020/08/29 04:00:05 PM
2020/08/22

〈信仰体験〉いま想う戦後75年 ⑧ 満州からの引き揚げ

 【京都府宇治市】終戦直前の1945年(昭和20年)4月末、13歳の湯川一子さん(88)=地区副婦人部長=は、京都満州開拓団として、両親、3人の妹と共に海を渡った。
 つかの間の平穏な日々は、終戦を境に一変する。「人間の一番残酷な本性を見ました」。
 父母と別れ、幼い姉妹だけで飢えや恐怖、絶望に立ち向かいながら、懸命に生き延びた一日一日があった。

 父親は戦時下でも俳句や劇の脚本を作り続けた。それが“反戦思想”とみなされ、治安維持法違反で1年間の投獄に遭う。
 蔑むような「世間の目から逃れようとしたんだと思います」。出獄後、父は京都満州開拓団に応募する。家屋や広大な田畑の支給が約束された満州開拓。船と汽車を乗り継ぎ、ハルビンの東約250キロの舒楽鎮(現・舒楽村)に落ち着いた。
 「松花江という川の側で、ユリやシャクヤクなどの花が咲く、きれいな土地でした。父母の畑仕事を手伝いながら学校に通って。帰り道、友達と花を摘んだり、お弁当を食べたり。来て良かったって思ってたんだけどね」
 だが3カ月後の8月9日、150万人のソ連軍が満州へなだれ込んだ。
 父は召集を受け、家族と離ればなれに。数日後には、湯川さんら舒楽鎮の開拓団も避難することとなった。松花江を船でハルビンへと向かった。

 16日正午過ぎ。甲板後方のテントにいた湯川さんは、轟音と激しい揺れに襲われた。「ソ連の飛行機が落とした爆弾でした。母がいた傷病人用の船室を直撃したんです。船首から船が沈み始め、私たち姉妹もテントごと水没していきました。頭まで水に漬かろうとした時、テントの上の方が破れて穴が開いてました。急いで外に這い上がり、妹たちを引き上げました。流れてきた流木に4人でしがみつき、顔を水面から出しました」
 やがて別の汽船に救助されたが、母の姿はどこにもなかった。「お母さん、お母さん」と泣きじゃくる妹たちに「大丈夫。お母さんはおるよ」と励まし続けた。
 「本当は私も、お母さんって叫びたかったよ。でも涙は出なかった。長女だから。母の代わりに妹を守らんと。日本へ連れて帰らんとって思ったのね」
 それは13歳の少女の悲痛な決意であり、信じがたい現実を生きる支えでもあった。

 湯川さんらは、ハルビンにある学校に収容された。食べ物はなく、ジフテリアなどの疫病が蔓延し、連日、子どもたちが亡くなっていく。9月14日、4歳の末の妹・慧子さんが息を引き取った。
 「やせこけて、冷たくなった妹の体に、両親が買ってくれた一番上等のコートを着せてやってね、麻袋に包んで収容所の裏に埋めたの。お供えする物も何もなかった。子どもたちだけの寂しい通夜でした」
 その後、ハルビン郊外の新香坊難民収容所へと移される。氷点下10度以下にもなる極寒の中、湯川さんは妹たちを収容所に残し、病院で同郷の子どもの看病をしたり、その日食べるものを求めて働きに出たりした。
 「親のいない子の面倒も見てね。でも結局、何もできなくて亡くなっていった。食べる物を買うために町に出て、子守の手伝いをしながら、お菓子を売って日銭を稼いでた」

 だがある日、収容所に戻ると3女の陽子さんの姿が、どこにも見当たらない。
 「同じ収容所の大人に連れ去られ、中国人夫婦に売り渡されてしまったの。何よりこたえたのは、こうした大人たちの裏切りです。収容所の管轄がソ連から中国に移って、監視が甘くなると、子どもを残して我先に出て行ったのも大人たち。生きるか死ぬかという時に、人の醜い本性が出てきますね。残酷です」
 翌46年、引き揚げ船に乗れることに。街中を探し歩いたが、陽子さんには会えないまま、すぐ下の妹・匡美さんと2人で帰国列車に乗るしかなかった。同年10月に日本へ。京都の祖父の家に身を寄せた湯川さんは、他の家族のことを聞かれ、母と妹の死を伝えた。
 「とっさに、『陽ちゃんも死んだ』ってうそをついたの。売られていった、助けられなかったという罪悪感。真実を言えなかった」
 祖父は、母と2人の妹の位牌を作り、死亡届を出した。

 「若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451ページ)
 湯川さんが、心に刻む御金言だ。「私の戦後の思い、人生の歩みにも重なるように感じています」と――。
 姉妹2人で日本に戻った翌47年、シベリアに抑留されていた父が帰国した。父は戦争未亡人となった女性と再婚。
 戦後12年が過ぎた57年11月、湯川さんの元に手紙が届く。それは、生き別れた妹からの便りだった。妹は「売られた家で奴隷のような扱いを受けていたが、自力で逃げ出し、助けてくれた中国人の協力を得て、裁判で自由の身になった」という。その後、中国で日本人と結婚し、上海で看護師として働いていた。
 58年の6月、13年ぶりに日本へ帰国した妹と再会を果たした。「生きていた妹を前に、『お帰り』の一言しか言えなかった。それ以外に言葉が出てこないの。ずっと罪悪感が消えなかった。その日、やっと肩の荷が下りて、私にとっての戦争が一区切りついた」

湯川さん㊧と、共に語り部として活動する妹・伊藤匡美さん
 3年後の61年、創価学会を知った。きっかけは夫・眞次さん(故人)の結核。入院先の病室で隣のベッドに寝ていた患者から信心の話を聞き、夫婦で入会。共に祈る中で、夫は病を乗り越えた。
 「入会前は“他人なんか、誰も信じるものか”という気持ちがありました。戦争で見た人間の醜さが、心に刻まれていたんだね。でも、学会の世界は違ったの。『必ず病を乗り越えられる』と話してくれた紹介者もそう。みんな、人のためにって動いてた。こんな世界があったんだって」
 戦争によって少女の胸に刻まれた、人間の残酷な一面を上書きするように、自分の生命を磨き続けた。
 さらに感動したのは、池田先生の平和のための闘争だった。

 直接、池田先生に会ったことはない。それでも「聖教新聞の隅々から、先生を身近に感じてきました。世界の指導者の全員が、先生みたいに平和のために行動し、対話を重ねてほしい」と願う。
 とりわけ湯川さんが衝撃を受けたのは、先生が中国やソ連の指導者と相次いで対談したことだ。ソ連のコスイギン首相。中国の周恩来総理。中ソ対立の中で、先生は民間人でありながら、両者を結ぶ平和の使者として駆けた。
 「私たちは本当に苦しい思いをしたけれど、日本が大陸で野蛮な侵略をしたのも事実です。そうした歴史を踏まえたうえで、先生は人間として友情を結ばれた。私たちの師匠は、平和の大指導者です」
 今まで生きてきたことは、何のためであったのか。湯川さんは思い至った。「生命を大切にするこの信心と出合って、自分の経験を人に知ってもらう使命を自覚しました。そこに、私が生きた意味がある。先生と一緒に、世界を平和にできんかなって気持ちです」

友人へ送る趣味の絵手紙
 81年に夫・眞次さんを見送り、70歳を過ぎた頃から、湯川さんは妹の匡美さんと一緒に、府内の各地で語り部として戦争体験を伝えてきた。「若い人たちに、知っててほしい。戦争で何があったのかを」
 コロナ禍でも「できることを」と、友人に趣味の絵手紙を書き、電話で励ましを送っている。「この前も、お友達に電話してね。声が聞けて良かった。目の前のお友達を大切にしていくことも、私にしかできない、かけがえのない行動よ」
 自分中心の争う心と、平和を願う心。どちらも知っているからこそ、「みんなに幸せになってほしい。それだけですね」と、優しくほほ笑む。

 【満州開拓】1931年(昭和6年)の満州事変以後、満州(現・中国東北部)に多くの農業移民が渡った。36年には、20年間に開拓移民100万戸の入植計画が決定。全国から満蒙開拓青少年義勇軍を含む約30万人が移住した。日本の傀儡国家・満州国においては、戦時中、戦闘行為はほとんどなかったが、終戦間際の45年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破棄し満州へ侵攻。終戦時の開拓移民は約27万人。このうち約8万人が現地で死亡した。

(2020年8月22日)







Last updated  2020/08/29 03:42:45 PM
2020/08/18

〈信仰体験〉いま想う戦後75年  ⑦ 

​ 街を真っ黒にした岐阜空襲​

【岐阜市】澤田佐代子さん(91)=支部副婦人部長=が大切にしている一枚の写真がある。
 1941年(昭和16年)正月、母と4人の兄、2人の弟がそろった家族写真。当時11歳。写真の澤田さんは笑っていないが、「緊張したのかも。当時は貧しくて、苦しかったけど、兄たちが久しぶりに帰ってきた、この時だけは、本当に幸せだった」と目を細める。

 この年の暮れ、太平洋戦争が始まった。
 少女が笑えなくなったのは、いつの頃からだろう。
 父は株で失敗し、多額の借金を抱えた。出稼ぎに行っても、仕送りはなかった。母が和裁の仕事で家計を支えたが、食べるものにも事欠いた。
 4人の兄は既に親元を離れており、澤田さんが2人の弟の子守をした。隣家から聞こえる家族だんらんの声を、うらやんだ。

 41年1月、兄たちが久しぶりに帰ってきた。長兄が一冊の本をくれた。
 「母に、欲しい物をねだったことは一度もありません。初めて手にした少女雑誌。付録は宝物でした。9歳上の長兄は優しかった」

 きょうだいそろって、かるたをしたり、追いかけっこをしたり、「大声で笑った。幸せでした」。



 母は「もう集まれないかもしれない」と家族写真を撮った。その年の12月、太平洋戦争が勃発。



 翌年、出征した長兄から母へ手紙が届いた。<遠く離れていても、同じ月を見ていると思うと、隣にいてくれているようで心強いです>。読み終えた母は、背中を小刻みに震わせていた。



 澤田さんは、母を元気づけたくて国民学校で懸命に学んだ。成績は全て最高の「優」。就職を考えていたが、母は学費を工面して、高等女学校へ進学させてくれた。



 だが43年10月、一家の柱だった母が病で他界してしまう。
 

「病気で苦しいはずなのに、弱音や愚痴を一切言わない母でした。自分よりも、私や弟の食事の量を多くする優しい母でした」

 悲しみは続いた。
 45年春、長兄がフィリピンで戦死した知らせが届いた。木箱の中には、石が一つだけ入っていた。「形見も何もなかった」
 次兄は病のために戦地から戻ってきたが、薬を買うお金がない。せめてもの思いで雑炊を作ってあげたが、米は2、3粒。それが精いっぱいだった。兄は、見る見るやせ細っていった。亡くなる前日、「何も悪いことをしてないのに、なんで……」。その一言が「今も耳を離れない」という。

 母と2人の兄を失い、小さな肩にのしかかる重責。“お国のため”と心を空っぽにして、頑張るしかなかった。
 そして、7月9日午後11時過ぎ、岐阜空襲が始まった。


澤田さんが岐阜空襲を振り返
 その日の夜、空襲警報が鳴り響きました。もう寝ようとしていた時間でした。



 突然の轟音に驚き、急いで防空壕へ飛び込みました。ドーン、ドーンと爆発音が鳴りやみません。近所の人が「ここも危ない」と、防空壕を飛び出しました。私も弟の手を握り、逃げ惑う人の流れを必死に追い掛けました。助けを求める人、泣き叫ぶ声、生きた心地がしませんでした。



 一夜が明け、目の前に広がっていたのは、焦げた電車、柱だけ残った建物、真っ黒になった街でした。太陽が異様に真っ赤で、恐ろしかった。



 女学校へ向かいました。人や馬、牛が倒れていて、怖くて、目を伏せて歩きました。でも、強烈なにおいが鼻をつきました。私を見つけた先生が、ギュッと抱き締めてくれて。やっと全身の力が抜け、その場に泣き崩れました。心の中で“お母さん”と叫びました。



 後に、約130機のB29が1万発以上の焼夷弾を投下したこと、街の7割が焼けたこと、約900人が犠牲になったことを知りました。その中には同級生もいて。とても悲しかった。



 空襲から1カ月後の8月15日、玉音放送が流れました。親戚のおじさんが「日本は負けたんだ」と教えてくれました。



 その時、思いました。我慢して耐え抜いた母、惨めに死んでいった兄、そして私。自分たちは、何のために生まれてきたんだろう、と。
 戦争が終わっても、貧しさはずっと変わらなかった。女学校を辞め懸命に働いた。

 輝義さん(92)=地区幹事(堅塁長<ブロック長>兼任)=と結婚した頃、知人から創価学会の話を聞いた。「絶対に幸せになれる」との言葉に、55年、夫婦で入会する。

 二人で毎日、折伏に歩いた。相手から水や塩をまかれても「これで貧乏の宿業が切れた。感謝だね」と笑い飛ばした。

 輝義さんが地域に根差したいと、58年に生花店を始めた。輝義さんは、同業者や華道の師範に頭を下げて、一から技術を学んだ。夫の実直で明るい人柄、澤田さんの懸命で誠実な姿に顧客が増え、自社ビルを構えることもできた。報恩感謝の心でさらに地域広布に歩いた。

 澤田さんは、その一方で、戦時中のことを話すことはなかった。「惨めな記憶。思い出したくない、振り返りたくもなかった」

 そんな心に変化が表れたのは2003年(平成15年)。副腎皮質の機能が低下する厚生労働省の指定難病「アジソン病」を発症した。食べ物が喉を通らず、入退院を繰り返した。真剣に題目を唱える中、治療が功を奏し病状は快方に向かう。

 その後、座談会で戦争体験を話してほしいと相談された時、“生かされた命。戦争の悲惨さを伝え、平和を訴えなければいけないのでは”と思った。

 池田先生の言葉も背中を押してくれた。
 

「世界の平和とは、与えられるものではない。人間が、人間自身の力と英知で、創造していくものだ。戦い、勝ち取っていくものだ」



 数日後、初めて人前で戦時中のことを話した。空襲の恐ろしさ、家族の死を語る時は、言葉に詰まった。それでも、最後まで訴えた。



 「戦争は建物や街だけではなく、人の心まで壊します。だから、二度と繰り返してはいけない。平和ほど尊いものはないんです」

地域から愛されている澤田さん夫妻の生花店。親戚が店を手伝ってくれている(右から、夫・輝義さん、澤田さん、澤田貴靖さん、澤田由美子さん)
 澤田さんの日課は、御書と小説『新・人間革命』の研さん。平和への誓いを新たにする日々だ。

 夫と営む生花店は、“街の社交場”のように地域の人々が訪れる。その触れ合いが何よりの楽しみだという。

 「戦争に笑顔を奪われた私が、人を笑顔にする花屋になったことが不思議でした。でも今は、それが使命の道だと思えて。花を見ると、大切な人の笑顔が頭の中に浮かびます。その誰かを思いやる心が、平和な世界をつくると信じているから」


 【日本への空襲】日本への空襲は、1942年(昭和17年)4月から始まった。44年8月、マリアナ諸島が連合軍の支配下となると、日本のほぼ全域が、爆撃機B29の航続距離内に入った。当初は、飛行場などの軍事目標に対し行われていたが、その後、市街地への無差別爆撃に方針を変更。45年3月10日には、東京大空襲で下町が標的となり、約10万人が亡くなったとされる。終戦までに、約400の市町村が被害を受けた。


(2020年8月18日)







Last updated  2020/08/29 03:40:07 PM

​〈投稿〉戦後75年 語り継ぎたい平和の心
 今年は戦後75年の節目の年です。未来を担う子どもたちへ、どのように平和の心を伝えていますか。読者の皆さまから寄せられた地域や各家庭での取り組みやエピソードを紹介します。

父から初めて聞いた過去の体験
東京都八王子市 多田 寿美江 (主婦 73歳)

 私の父は、現在97歳。3年前、母が他界し、今は一人で洗濯や料理など何でも頑張っています。
 最近、自粛生活で会話する機会が増え、初めて自身の戦争体験を話してくれました。
 第2次世界大戦の戦局が悪化し、全国の大学生が兵力として動員されました。父も、大学卒業を前に、土浦の海軍航空隊に入隊。ゼロ戦の訓練を受け、飛行検査に合格したゼロ戦を、宮崎の基地まで空輸したそうです。
 父が届けた戦闘機に戦友たちが乗り、次々と帰らぬ人に。中には、いつ自分の名前が呼ばれるかと正気でいられず、酒を飲んで気を紛らわし、飛び立つ友もいたそうです。その時の光景が今でも鮮明に思い出されると、苦しい心境を話してくれました。
 飛び立った友の辞世の句を教えてくれました。
 「垂乳根の 母の祈りに背きてぞ 我は散りゆく 沖縄の空」
 無事を祈る母の心を思うと、胸が痛いです。
 ある時、父が乗ったゼロ戦のエンジンが故障し、森林の中に墜落。意識不明の重体で、海軍病院に入院しました。その頃知り合った母が知らせを受け、東京空襲の火の海の中を命懸けで会いに来てくれたことに感動し、戦後、母との結婚を決めたそうです。
 父は、戦争は絶対にあってはならないと、日々、世界の平和を祈っています。そんな父を誇らしく、心から尊敬しています。

日頃の会話を通して善悪を教える
大阪市福島区 山本 佳世 (日本語講師 43歳)

 私の祖父母と父は、広島で原爆に遭い、父は体内被ばくのため、私は原爆2世です。
 幼い頃、よく祖父から戦地での体験や、原爆の話を聞いていました。父が原爆被害者の会で活動していることもあり、わが家では戦争や原爆は身近な話題でした。
 今でも鮮明に覚えていることがあります。小学3年生の時、学校で見た原爆の映像が脳裏から離れず、怖くなって、母に「戦争ってまた起きる?」と聞くと、母は「起きないように池田先生も、お父さんもお母さんも頑張っているんやで」と。思いもよらない返答で、子どもながらに平和のために活動している両親を尊敬した出来事でした。
 それから母になり、6歳と4歳の子育てにおいても、ストレートに戦争や原爆の話をすることもありますが、日常の中で自然な話題として、善悪を教えるように心掛けています。
 感謝や思いやりの気持ちを意識して言葉にしたり、性格や文化、慣習に違いがあることを伝えたり、アニメでいじめのシーンを見たら、いじめは絶対悪だと教えたり。まだ小さな子どもたちですが、小さいがゆえに良いことも悪いことも素直に吸収しているのがよく分かり、伝える側の責任の重さを感じては、自身の成長を決意しています。

ふるさとが一変 脳裏から離れない記憶
千葉市若葉区 宮内 勝代 (主婦 81歳)

 終戦から75年がたち、実際に戦争を経験した私たち世代も減り、若い世代に直接話をする機会も少なくなっています。
 1945年3月、千葉県銚子の空襲で、わが家は全焼しました。当時、私は6歳でしたが、焼夷弾がB29から音を立てて落ちてきた、恐ろしい記憶が残っています。
 夜中の3時ごろ、私たちきょうだいが寝ているところに母が来て、「逃げよう!」と言って玄関を開けると、火の粉がたくさん家の中へ入ってきたので、家の裏口から逃げました。私たちは、火の中を、寝間着、はだしで逃げたので、足が熱かったことを覚えています。
 戦車に乗った兵隊から「防空壕に行くと危ない」と言われ、海辺へ逃げました。翌朝は、良い天気でしたが、見渡す限り、今までの景色とは一変していました。防空壕で、兄の友人が親子で亡くなっている姿も目に焼き付いています。
 今でも、焼け野原になった所を通ると思い出す、つらい経験となっています。
 孫娘をはじめ、未来を担う世代に、体験したことを聞かせておきたいです。戦争のない平和な世界を願っています。

家庭で地域で つなげる思い
三重県名張市 富永 智江子(82歳)

 私は82歳の今も、生涯現役の思いで働いています。
 終戦の年、1945年は7歳でした。子ども心にも、戦争の恐ろしさは身に染みています。
 父と弟が同じ年に病死しました。医師は国に招集され、薬もなく、栄養が豊かな食べ物もありませんでした。
 「戦争さえなかったら、お父ちゃんも伸ちゃんも死なんですんだ」と涙ながらに言った母の言葉が、7歳の時から耳にこびりついています。
 75年の平和が、多くの命の犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはなりません。わが家では、毎年8月15日は粗食にし、家族で平和を意識する日にしています。
 30年続けている合唱指導のボランティアでも、戦争体験を風化させないため、戦後60年、70年の節目に、ふるさとコンサートを開催。たくさんの人たちと思いを共有してきました。
 新型コロナウイルスの終息や、武力戦争の絶滅を願い、人間の知恵を信じて、人類の一員として頑張っていきたいと思います。

自分が挑戦することで伝えたい
大阪府寝屋川市
小山 新一 (嘱託社員 68歳)

 父は、戦前に満州へ送られ、終戦の翌年に生きて佐世保港より祖国の土を踏んだ。その後、私が生まれた翌年、病死。今の自分は父のおかげか。
 石垣島生まれの母は、10年前に92歳で他界。生前、島のこと、空襲や疎開先のことなど聞かされた記憶はない。
 母が亡くなり、島のことや、沖縄の歴史など調べてみると、想像できないほど悲惨な事実が分かってきた。沖縄戦だ。
 小説『人間革命』の執筆が沖縄の地で開始されたこと。核ミサイル「メースB」の発射基地が池田先生によって平和の基地「沖縄研修道場」として生まれ変わったこと。「6月23日」が「沖縄慰霊の日」であること……。
 平和の思いを受け継ぎたい、何かできないかと考えた。子や孫たちに難しい言葉は伝わらない。自分が何かに挑戦することで、伝えられないか。
 そして、本年6月23日当日、自宅から大阪城まで歩くことにした。ひめゆり学徒らが摩文仁の丘まで逃げたのと、ほぼ同じ距離。
 最高気温33度の猛暑。4時間40分ほどかかった。正午、天守閣にて黙とう。子や孫、沖縄の親戚、友人や知人に、手紙で達成を知らせた。慰霊の日「6月23日」を伝え継ぐことができたと感じている。


(2020年8月18日 聖教新聞)







Last updated  2020/08/18 11:29:26 AM
2020/08/16

〈信仰体験〉いま想う戦後75年  ⑥
 長崎原爆、朝鮮人強制連行の歴史を背負って 下
​心はつながる。世代を超えて花は咲く。​

 【横浜市神奈川区】2012年(平成24年)7月2日――。韓国の慶熙大学で、大塚智栄さん=婦人部員=が大学院の修士論文の公開発表を行った。この日は、母方の祖父・安命岩さんの命日だった。



 06年から韓国で学び、進学した慶熙大学の韓国語学科を首席で卒業。胸には、いつも祖父への思いがあった。戦時中に日本へ強制連行された祖父は、福岡の炭鉱で働いた末、豪雨によって増水した川で溺死した。



 孫として韓国の地で、一家の悲しい歴史の日に新しい思い出を加えられる。そのことがうれしかった。長崎原爆の被爆3世、強制連行された韓国人の孫。戦争を知らない世代だが、戦争のことが心から離れない青春だった。



 韓国で平和への思いを深め、今年1月に帰国。日韓友好の思いを抱き、現在は博士論文に挑戦しながら留学支援の会社で働く。
(母・和江さんの体験は15日付で掲載)


被爆3世 韓国人の孫
 母・和江さん(66)=区副婦人部長=や祖母(故・千鶴子さん)から戦争の話を聞いて育った。祖父は日本に連れてこられ、祖母は長崎で被爆した。“祖父も祖母も母もかわいそう。誰も悪くないのに”

 大塚さんの心に平和への願いが芽生えていく。“おじいちゃんの国の人と話してみたい”“アジアの国の人と親友になりたい”。それが幼い日からの目標になった。だが体調を崩すことが多く、高校時代はぜんそくや倦怠感に苦しめられ、大学は不合格。ふさぎ込み、自信を失って引きこもった。
 


 そんな19歳の春。友達に誘われて、東京・八王子市の創価女子短期大学の見学へ。偶然、学生を激励する創立者・池田先生の姿を目の当たりにした。「私はその時、誰もが“あの人はもうダメだ”と思ったとしても、自分自身が諦めたとしても、池田先生は私を信じ、期待してくださっていることを感じて、心が蘇生していきました」
 アルバイトをしながら、独学で韓国語の勉強を始めた。女子部の部長をしている時、韓国から来たメンバーと知り合い、韓国語で言葉を交わすと夢が膨らんだ。2004年、母と一緒に祖父の古里を訪れ、思いをはせた。

 2年後、蔚山大学の語学堂で語学を学び、慶熙大学に入学した。大学の図書館では聖教新聞を閲覧できた。同大学の名誉哲学博士号を授与されている池田先生の平和闘争が胸に浮かんだ。

 以来、14年間の韓国生活で多くの友人ができた。歴史観や戦争への認識の違いが、今も人を隔てていることを知った。それでも、必ず分かり合うことができる――そう実感させてくれたのが池田先生だった。

 先生が小説『新・人間革命』につづった人間外交の在り方を大塚さんは実践してきた。
 「まずは、歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです。そうすれば、日本人として反省の念も起こるでしょう。当然のこととして、謝罪の言葉も出るでしょう。それが大事なんです。相手が、こちらの人間としての良心、誠実さを知ってこそ、信頼が生まれていくからです。国と国との外交といっても、すべては人間同士の信頼から始まる」
 
 帰国する時、韓国や中国の友人が別れを惜しみ、涙を流してくれた。現在の日韓関係は決して良好とはいえないが、「私たちの友情は変わらないからね」と連絡をくれる友達が大勢いる。この絆が平和を紡ぐと信じている。
 戦争の時代を生きた韓国人の祖父、被爆者の祖母、そしてもう一人――大塚さんは韓国に行ったからこそ、向き合うようになった人がいる。

伝えたい――平和をつくる心
 私の二人の祖父は、母方が強制連行された韓国人で、父方が旧日本海軍の軍人でした。留学を決めたのは、韓国が祖父の母国だったから。一方で父方の祖父(故・清勝さん)が軍人だったことには、心を閉ざしていました。



 戦争をしていた人をよく思わない気持ちが、そうさせていたように思います。人は誰かと接することで、自分自身を知ることができる――そう感じたのは、韓国に来て間もない頃でした。



 韓国の人と話した時、日本が朝鮮半島を植民地化したことを非難してきました。まだ語学力がなく、うまく話せなくて。私は、寮に帰ると泣いてしまった。最初は悔しさでいっぱいに。

 でも唱題をすると、相手の心を受け止めようともしない自分に気が付きました。その理由を見つめると、“私は韓国人の孫”で“戦争の被害者の一族”という意識があり、そこに寄っかかる自分だったから気持ちが揺れたんだと思います。
 
 その方の目には、かつて植民地支配をしていた日本人として、私が映っていたのだと思います。そのことが、加害の側面に向き合うきっかけをくれました。そして、目をそらしてきた父方の祖父のことを思うようになりました。
 
 祖父は、海軍の軍人として満州(現・中国東北部)の大連に出征。その後、日本に戻り、最後は人間魚雷の「回天」に携わる特攻隊の一員でした。

 元軍人で戦争の話をしても涙を見せない人でしたが、一つだけ、必ず涙を流す場面がありました。敗戦した日本に対して、中国が寛大な姿勢を取った話になると、いつも泣いていたんです。「中国には大きな恩義があるんだ」と。
 
 私は孫として、この祖父の姿も友人に話すようになりました。
 ある中国の友人に話した時のことです。彼は「本当に!?」と何度も聞いてきました。「その世代の軍の人がそう言ってくれていたなんて、信じられない」と驚き、その目には涙が光っていました。以来、より友情が深まりました。

 世代が変わっても、過去の事実を受け止め、人は心をつなぐことができる。一緒に平和へと歩むことができる。そう学びました。

大塚さんは仕事では韓国留学のカウンセリングを。また、韓国の国立国語院による日本での韓国語教育実習のプロジェクトにも携わる
 私たちは、戦争をした世代ではありません。関係ないと片付けることは簡単です。でも、他者の苦しみに目を向け、勇気を出せば、心を結んでいけます。同苦の心が平和な世界をつくっていけると信じます。
 
 仲良くなった韓国や中国の友人とは、2年前の世界青年部総会に一緒に参加できました。平和を願うなら“反感を抱くのではなくて、親友をつくっていくこと”を大事にしてきました。被爆3世として、アメリカの方にも、そんな思いでいます。
 


 人にはそれぞれ、自分だからできる戦争との向き合い方があります。私は“春風のようになれたら”。そう決めています。そうすれば、人の心が芽吹いて、花が咲きますから。


 【朝鮮人強制連行】1910年から終戦の45年まで、日本は韓・朝鮮半島を植民地に。その間の日中戦争と太平洋戦争中に、炭鉱などの労働力として朝鮮人は強制的に日本本土に連れてこられた。自ら選択して来た人もいたが、徴用などを背景に意志に反して連れてこられた人もおり「強制連行」と呼ぶことが多い(『日本大百科全書』より)。

(2020年8月16日)







Last updated  2020/08/29 03:37:01 PM

〈青年部主催〉 被爆証言を聞く会から 長崎県 梅林二也さん

 青年部主催の「オンライン証言を聞く会」の第4回が9日に開かれ、長崎で被爆した梅林二也さん(85)=参議=が体験を語った。要旨を紹介する。

 1944年、父の転勤で私たち家族は長崎から広島に引っ越しました。爆心地から数キロの、今の広島市・観音新町に暮らしていましたが、空襲が激しくなり、学童疎開が始まりました。
 
 広島に身寄りのなかった私は、両親と離れて岡山の田舎に疎開しました。しばらくして長崎に残っていた祖母が、「寂しいから孫を一人よこすように」と手紙を送ってきました。そこで、私は再び長崎に戻ったのです。
 
 45年8月9日は、よく晴れていたと記憶しています。私は友達と川に向かいました。すると突然、稲妻のような閃光がピカッと光りました。何が起こったのか分かりませんでしたが、危険があれば、すぐ防空壕に避難するよう教えられていたので、急いで近くの防空壕に駆け込みました。その直後、「ドカーン」というごう音が響きました。
 
 すさまじい衝撃波で天井の土砂が崩れ落ちて体が埋もれ、呼吸ができなくなるほど砂ぼこりにまみれました。恐怖と土砂で動けずにいると、一緒に遊んでいた子の母親たちが掘り出してくれました。その時、初めて外を見ました。1時間ほどたっていたでしょうか。明るかった夏の空が、夜と見間違えるほど真っ暗になり、炎があちらこちらで燃え盛っていました。
 
 辺りの家は屋根瓦が崩れ落ち、周囲に吹き飛ばされたガラスや家具が散乱していました。私が住んでいた、現在の日の出町は爆心から約4・5キロにあり、山の陰にあったため、家屋の崩壊は免れました。
 
 同じ爆弾が広島にも投下されたことを2、3日後に知りました。“広島は全滅したらしい”といううわさを聞き、じっとしていられず、私は祖母と共に長崎駅に向かいました。広島にいる家族が生きていれば、長崎に戻ってくるはずだと思ったからです。
 
 市街地に進むに従って、焦土と化した街並みが目に飛び込んできました。建物は原形をとどめておらず、がれきが道をふさいで、どこが道路かも分かりません。死体が至る所に転がっていました。長崎駅とおぼしき場所に来て、がくぜんとしました。駅舎は焼けてなくなり、車両も見当たらないのです。復旧の見込みは立たないと言われ、その日は帰りました。


 翌日、長崎駅から二つ先の駅跡まで行きました。血に染まったシャツのまま、放心状態で歩く人、子どもを背負って家族の安否を尋ねる人、倒壊した建物の前で立ち尽くす人など、町は殺伐とした雰囲気でした。
 
 救護の腕章を付けた人が死体を運び、消防団が廃材で遺体を焼いていました。その周りで、泣き尽くして涙も出ないといった様子で呆然と肉親の遺体が焼かれる炎を眺めている人たちがいました。
 
 8月14日に、両親ときょうだいが帰ってきました。その後、私と3人の妹は父の郷里である、今の南島原市に疎開することになりました。原爆投下から2週間近くたっているにもかかわらず、道中の列車の車窓からは、田畑で農作業をしていた人たちの焼死体が放置されたままになっているのが見えました。
 
 列車の中も異常でした。夏の暑い時期ですから、やけどの傷口が腐り、ハエが飛んできます。近くにいた人を見ると、傷口に湧いたウジを母親らしき人が箸で取っていました。
 
 しきりに洗面器に血を吐いている人、焼けて男女の区別がつかない人、そして、それらに混じった死体の臭い――あの年は、そんな臭いが至る所に漂っていました。私自身も、だるくて起きていられず、すぐに横になることが多くありました。歯茎からは出血し、薬が手放せなくなりました。

核兵器は絶対に許さない
 終戦から12年後の57年、人生の原点をつくらせていただきました。横浜・三ツ沢で行われた「若人の祭典」に参加し、戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の場に居合わせたのです。
 
 先生の師子吼は肺腑をえぐるようなものでした。“核兵器を絶対に許さない!”との先生の熱願と、原水爆を保有し、使用しようとする人間の生命に巣くう魔性を打ち砕く烈々たる叫びに武者震いしました。
 
 宣言は、被爆の後遺症に苦しめられ、いわれない差別を受けた被爆者とその家族にとって希望の光源となりました。実はこの前年、戸田先生は福岡でも、「原爆などを使う人間は最大の悪人だ!」と語られました。九州での平和宣言、核廃絶の叫びが原水爆禁止宣言につながり、今日の創価学会の平和運動へ広がったのだと思うと、身が引き締まります。
 
 原爆を体験した身として、当時のことは、できれば思い出したくありません。しかし、戸田先生、池田先生が言われたように“原爆を許さない”“他の誰にも同じ苦しみを味わわせてはならない”との思いが私の原動力です。仏法を実践する中で、その思いを行動に昇華できました。
 
 皆さんには、今なお後遺症に苦しめられ、おびえ続ける被爆者の声に耳を傾けてもらいたい。そして、そのメッセージを、世界中に発信してもらいたいと思います。


(2020年8月16日 聖教新聞)







Last updated  2020/08/16 11:00:04 AM
2020/08/15

〈信仰体験〉いま想う戦後75年  ⑤

長崎原爆、朝鮮人強制連行の歴史を背負って 上
​私は世界市民。次世代のため種をまく。​


 【横浜市神奈川区】2004年(平成16年)8月――。大塚和江さん(66)=区副婦人部長=は初めて韓国の地を踏んだ。飛行機のタラップを下りた瞬間、空を見上げると涙が頰を伝った。



 “やっと来られたよ。お父さん、お母さん……”。現地の友人に車で案内され、慶尚北道の盈徳郡へ向かった。着いた場所は、のどかで桃の木が印象的だった。家の表札を見ると「安」の名字が多い。思いをはせたのは、亡き父・安命岩さんのこと。



 ここは、太平洋戦争が勃発後、日本に強制連行された父の古里である。大塚さんのかばんの中には、前年に亡くなった母・千鶴子さんの遺影が。母もまた、長崎に投下された原爆で被爆し、長年、苦しんできた。



 韓国人の父、被爆者の母のもとに生まれ育った大塚さんは、「私自身は戦争を直接、経験していません。けれど、その影響を色濃く受けた人生でした」と。信心に励むまで、韓国は近いようで遠い国だった。



被爆2世韓国人の子
 それは大塚さんが7歳の時だった。「おまえの本当の父親は朝鮮人だ。血が違う!」。実の父と思っていた人から突然、強い口調で打ち明けられた。理解できず、母親に聞こうとしたが、困らせるのも嫌で切り出せなかった。
 


 やがて、母はぽつぽつと話してくれた。福岡県田川市の炭労で働いた実の父親がいたこと。重労働の影響で片足を膝から切断。大塚さんが3歳だった時の豪雨で、増水した川に足を取られ溺死したこと。
 


 そして父は、日本に強制連行された韓国人だったこと――。この父には、韓国に妻や娘がいた。連行される時、祖母は父の名前を何度も叫んで泣き崩れた。父は空を見上げては、韓国の思い出を話してくれたという。
 母は涙ながらに言った。「お父さんと過ごしたのは3年間だったけど、何十年分の愛情をくれたんだよ」。養父からは冷たい仕打ちを受け続けた。中学生になると、差別は家の中だけではなく、社会でも同じだということを知った。

 つらくて、自分の存在に自信が持てなくなった。“私は、どうして二人の間に生まれたの……”。運命を恨んだ。心がすさんでいたある時、母から小さな手帳を見せられた。「被爆者」の文字が目に入った。

 長崎に原爆が落とされたあの日、21歳の母は爆心地から3キロの軍需工場にいた。腕にやけどを負いながらも、焼死体を運ぶ作業を手伝った。泣き叫ぶ子どもたち、黒焦げの遺体。それらが目に焼き付いて離れないという。

 黒い雨を浴び、高熱で10日間、生死をさまよった。以来、倦怠感が抜けず、心臓肥大や子宮がんを患った。生きながらえても、後遺症の苦しみに終わりは無かった。「二度とああいうことをしたらいけん!」
 
 日ごろ寡黙な母が感情的になるのは珍しかった。そして、絞り出すように言った。「ごめんね……」。大塚さん自身も幼少期から虚弱体質で、養父にはよく「怠け者」と、ののしられた。その原因を知った思いだった。

 時が過ぎようとも世代を超えて、戦争は人を苦しめ続ける。大塚さんは、“韓国”や“戦争”という言葉に敏感になり、やがて死への衝動に駆られる。人生に希望を見いだせなかった。

心を変えた青春の出会い
 高校生の時だった。「お題目あげな! 命の底から元気になるから、やりな!」。親友の言葉を信じ、題目を唱えるようになった。心に活力がみなぎることを感じて自ら入会。その翌年、人生が変わる出会いがあった。
 


 1971年8月、高等部の夏季講習会へ。その折、世界ジャンボリーに参加していた世界87カ国・地域のボーイスカウトたちが、台風による豪雨のため避難してきた。池田先生が救援の陣頭指揮を執っていた。
 


 大塚さんは振り返る。「翌日、池田先生がボーイスカウトの方々と懇談されているところを偶然、目にしたんです。世界中の子どもたちからのお礼に、先生は応えられて。“私には、国や文化が違う人にも真心で振る舞われる師匠がいる”と思うと、涙があふれ、一瞬にして心が変わりました。韓国のことで差別を受けようが、被爆2世のことで苦しもうが、ちっぽけに思え、悩みが吹き飛んだんです」

 バスで講習会から帰る際、手を振って見送る先生の姿を心に焼き付けた。高校を卒業して上京した後も、胸を打たれる先生との出会いがあった。
 
 「池田先生がある会合で、『ソ連に行ってきたんだ』と言われたのが印象的で。怖い国というイメージがあった共産主義の国へ足を運び、人と人を結ばれる。先生の平和への戦いは想像を超えた壮大なものだと感じました」
 
 被爆2世で、医師から子どもを授かるのは難しいと告げられたこともあったが、全てを伝え、夫・清隆さん(65)=副支部長=を折伏し、76年に結婚。夫の実家へ引っ越すと驚いた。
 「そこが、横浜の三ツ沢でした。戸田先生が原水爆禁止宣言をされた地。使命を感じたんです」
自己変革のドラマが始まる
 被爆2世であることはあえて自分から話してこなかったが、婦人部の先輩が後押ししてくれた。「自分の体験を平和のために話していくべきよ」。以来、書き、語り、平和を訴える毎日となった。


 
 96年、平和学の父といわれるヨハン・ガルトゥング博士が神奈川で創価学会の会館を訪れた際には、大塚さんが体験を発表した。「あの時の私の話を、博士が称賛してくださいました。草の根の運動が最も世界平和につながることを確信して歩んできました。何の取りえもない私ですけど、ただただ学会活動が大好きなんです」
 


 大切に保管する本紙の切り抜きがある。池田先生ご夫妻が韓国を訪問した折、韓国の民族衣装に身を包んだ写真だ。



 「先生は、韓国を兄の国、文化大恩の国と尊敬されます。“平和”“友好”と口ではなんとでもいえます。実際に行動されるのが、本当の真心なんだと教わりました」
 
 かつては複雑な思いを抱いた国。その見方が変わった。長女・智栄さん(43)=婦人部員=が韓国出身の女子部メンバーと親しくなると、親子で交流をするように。
 
 長年、経済苦に悩んだが、2004年に初めて韓国へ。その女子部員の実家で平和への願いを込め、題目を唱えた。その後、長女は韓国へ留学。以来、身近で大切な国になった。  

「この哲学を、そのまま実践に移すならば、そこから、無気力と苦悶の人生を、充実と喜びの人生へ転換しゆく、自己変革のドラマが始まる。また、そこから、人類が強くなり、豊かになり、賢明になるための、あらゆる次元の革命の歯車がまわり始めます」
 


 最近、楽しみな時間は、韓国の友人とのオンライン通話。「オモニ(お母さん)」と呼ばれ、「日本のおばあちゃんだよ」と友人の子どもにも紹介されると、「サランヘ(愛してる)」とほほ笑み返す。
 


 「池田先生のおかげで、日本や韓国という国の枠を超え、私は世界市民になれたんです。私が花を咲かせるのではなくて、次の世代のために平和の種をまくような生き方をしていきます」
 (日韓友好の道を歩む長女・智栄さんの様子は、あす16日付で掲載します)


 【長崎への原爆投下】1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下された。爆心地から1キロ以内にいた人は爆発圧力および熱気でほとんどが即死。2キロから4キロ以内は、爆風による飛散物によって重軽傷ややけどを負った。死者7万3884人、負傷者7万4909人と共に、原爆症による多くの犠牲者をもたらした。

(2020年8月15日)







Last updated  2020/08/29 03:33:29 PM

NHK「戦争証言アーカイブス」
[視点・論点]​原爆朗読劇 最後の夏に​

◆解説
女優の渡辺美佐子さんは東京育ち。小学生の時の同級生が、広島に疎開し、その子の消息を長年案じていた。
35年前、広島・長崎で被爆した子どもや母親たちの手記などを読む朗読劇『夏の雲は忘れない』の企画が持ちかけられた。そして渡辺さんは、劇で使われる小学生の文集の名簿にその同級生の名前を見つけた。
以後、朗読劇は毎年夏、全国で巡回してきた。しかし渡辺さん自身が高齢になったこともあり、2019年夏で終了した。​

原爆朗読劇 最後の夏に(1)   02:06

​◆再生テキスト
板と板の中に挟まっている、弟。
うなっている。
弟は僕に、「水、水」と言った。
僕は、「崩れている家の中に入るのはイヤ」と言った。
弟は、黙ってそのまま死んでいった。
あの時、僕は水をくんでやればよかった。 小学5年生。

原爆朗読劇 最後の夏に(2)   05:55

◆再生テキスト
私が小学校のとき、麻布の笄(こうがい)小学校に通っていました。戦争がひどくなって、小学校4年か5年のときでしたかしら、みんな生徒たちは、学童疎開で先生に引率されて疎開に行ったり、あるいは、縁故疎開で親戚のうちに疎開したりして、何百人もいた生徒が、一つのクラスで15人ほどになってしまいました。

そんな時に、珍しくよそから生徒が入ってきたんです。その子は私と家が同じ方向なものですから、そのころの小学校の男の子と女の子は口をきいたりしません。「おはよう」とか「こんにちは」も言わないんです。目もほとんど合わせないですね。なんとなく、後になり先になりしながら学校に通ったり学校から帰ってきたりしていました。その子が急にいなくなっちゃったんです。あ、あの子もやっぱり疎開したんだなあと思っていました。でも私はなぜかその子のことが忘れられなくて、ずっと、戦争が終わってからも探していましたけれども、わかりませんでした。
ご対面番組というのに出て、探してもらいました。当日、カーテンの陰から出てきたのは、年をとられたその子のご両親でした。「東京の空襲が激しくなってきたので、広島の祖母の家に疎開させました。そして、8月6日、あの日、タツオは、中学1年になったタツオは、作業に出かけて建物疎開という作業に仲間と一緒に出かけて、そして、彼が働いていた場所は、原爆が落ちた直下だったそうです。遺体はおろか、遺品も、目撃者もいないので、35年たった今もお墓をつくることができません」。そう淡々と話してくださいました。

私はその話を聞いて、泣きはしませんでした。でも泣く代わりに、何かすごい塊が、胸の中にぐんと残って、それをずっと抱えていたときに、木村光一さんからの朗読劇のお話を聞いて、もう真っ先に手を挙げました。「ぜひ一緒にやらせてください」そして、資料として送られてきた、たくさんの本の中から、一冊、『広島二中1年生全滅の記録 いしぶみ』というご本がございました。もしやと思ってその巻末をめくりましたら、322人の生徒の名前が全部書いてあって、その中にタツオくんの名前がありました。その時の思いが、それから今日まで、今年まで35年間、私を支えてきてくれたんだと思います。

この子たちの夏から始まって35年目の今年、寄る年波には勝てず、今年幕を下ろすことになりました。本当に残念です。でも、『夏の雲は忘れない』になってからは、子どもたちの声をたくさん、台本に取り入れていろんな中学校、高校、たくさん回らせていただきました。若い人たちにも聞いていただきました。その若い人たちの中から、私たちがつくったときはみんな戦争の経験者です。戦争のつらさを、愚かさをよく知っている私たちが選んだ台本と、全く戦争を知らない若い人たちが選んだ新しい台本で、きっと後に続いて、この広島、長崎のことを伝えてくれることを信じて、そして願っております。


原爆朗読劇 最後の夏に(3)  01:51

◆再生テキスト
夜はとっても寒かった。川の水はおいしいねえ。
兵隊さん、僕たちがどんな悪いことしたの。
お母さん、文子はもうすぐ死にます。私のお墓の周りには、いっぱいお花を植えてください。
父ちゃん、母ちゃん、お大事に。満13歳、広島一中、壇上竹秀。
本当にお浄土はあるの。そこには、ようかんもあるの。
できるだけ僕のそばにいて。離れないでね。
おかあちゃーん、おかあちゃーん。
今まで悪かったところを許してね。母さん、よか場所ばとっとくけんね。
姉ちゃーん、目がくらくなった。
母さん、戦争だものね。

原爆朗読劇『夏の雲は忘れない』より







Last updated  2020/08/15 10:25:59 AM

全21件 (21件中 1-10件目)

1 2 3 >


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.