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☆New Beginnings in CANADA ☆

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東南アジアの旅 -Part 2/3-

カンボジア(3)
カンボジアの近代史


カンボジアの歴史:フランスからの独立からクメール・ルージュまで
カンボジアの近代史は、多くの戦乱に巻き込まれたとも言える時代だった。そんな歴史のはじまりは、フランス植民地からの独立から始まる。
この時代の東南アジアは、特に第二次世界大戦をさかいに、多くの国で独立運動が盛んになり、不安定になり始める。そんな中カンボジアは、1953年に、シアヌーク国王によって、フランスからの独立を達成。その後、シアヌークは、インド・中国・フランスとの関係を重視しつつも、非同盟中立国を訴えた。そんなシアヌークのどっちつかずな政策は、多くの反感を買ったが、こういう立場を主張したために、隣国ベトナムで起る戦乱に巻き込まれなかったという見方もある(事実、カンボジアは、ロン・ノル政権になるとベトナム戦争に巻き込まれていった)。

その後、シアヌークは、王位を父であるスラマリット殿下へ譲り退位。自ら総裁となるべく人民社会主義共同体(サンクム)を組織した。しかし、サンクムの実態は、シアヌークによる独裁政治だったため、反発を招くことに。

ただ、この60年代のカンボジアは、実に良い時代だったと印象を持つ外国人も多い。街は安全で、人々はとてもフレンドリー。豊かな国という印象をもった。国もそれなりに安定し、経済復興を遂げようとしていた頃だったようだ。でも、内情は外の人間には分からないだろう。実際、シアヌーク政権に反発はあったし、秘密警察のような人達が反対派を捉えたり拷問したりという事はあった。

60年代後半になると、シアヌークのとった経済政策が失敗する。それと同時に、サンクム内の左右の均衡も同時に崩れ、1970年に右派のロン・ノル将軍によって、クーデターが起こる。その時、シアヌークは、中国に外遊中だったため、カンボジアには戻れず、それ以降、北京で亡命生活を送る。

北京に亡命中のシアヌークは、ここで、「カンプチア民族統一戦線」の結成を宣言し、共産勢力クメール・ルージュと協力しあった。ロン・ノル政権 vs シアヌークに支持されたクメール・ルージュ、70年代に入ると、カンボジアの内戦は激化する。

この時代、シアヌークと協力を結んだクメール・ルージュは、共産主義の中国は勿論のこと、隣国のベトナムの共産グループと深い繋がりをもっていた。結果、アメリカ、南ベトナム軍からの標的にされる。共産主義拡大を恐れたアメリカは、ロン・ノル側にもついていたこともあり、クメール・ルージュと北ベトナム軍が潜伏しているだろうカンボジア北東部めがけて、爆撃を開始する。その爆撃は、なんと第二次世界大戦時・日本へ落とした爆弾数3倍の攻撃になった。もちろん、殆どの被害者は民間人である。

そんな状況の中、カンボジア国内の多くの人々は、アメリカよりのロン・ノル政権への不信感を募らせる一方で、クメール・ルージュへの支持が高まる。特に、アメリカの爆撃以降は、多くの人がクメール・ルージュへの入隊を希望した。73年以降には、カンボジアでの内戦は増々激化。その内戦は、1975年、クメール・ル-ジュによるプノンペン入城で、事実上、終結と思われたが・・・。この日から3年8ヶ月、カンボジア国民にとって、新たな悪夢が始まる。

クメール・ルージュとポル・ポト
クメール・ルージュを支えたのは、2つのイデオロギー・反植民地主義と毛沢東主義であり、全ての階級をなくした共産主義社会を目指していた。

このような社会を築き上げる上で、まず重要になった考え方として、クメール・ルージュ、いやかつてポル・ポトが仏教校でも学んだ個の破壊がある。クメール・ルージュは、仏教でいう個(又はエゴ)の破壊によって、無の境地になり、完全な状態へ(極楽)近づく事を目指していた。

個の破壊過程において、まず個人の所有を手放さなければいけない。当時、ポルポト他、クメール・ルージュの幹部達は、個人の所有という概念を無くす事によって、全ての人が平等になる社会を描いていた。そして、それは、カンボジアの中の一番貧しい農民層に、全ての人がなることを意味していたのだ。このプロセスは、75年にプノンペン入城を果たした数年前から、”革命”の名の下に、クメール・ルージュの占拠する地域ですでに始まっていた

これは、カンボジアの郊外の25%をしめる一番の貧困層の人々にとっては容易だった。なぜなら、彼らは最初から何も所有していなかったから。そして、残り3/4の人々にとっては、辛いプロセスとなる。彼らは、ロウワーからロウワーミドルクラスの人々で、やはり生活は苦しかった。しかし、個の破壊、所有を手放す事によって、市場などで行われていた売買全ては廃止(又は禁止)になり、人々はさらに苦しい生活になっていた。クメール・ルージュの描いた理想と現実は全く違ったのだった。

この層の多くの人が、アメリカやロン・ノル政権を倒し、平和を取り戻してくれると信じていたクメール・ルージュへ子供入隊させていた。しかし、この頃から、クメール・ルージュへの信頼が落ち、その結果、人々は逃げはじめていたのも事実。これは、まだ75年のプノンペン入城前。結局、上の政策は、プノンペン入城後、全国に広がり、人々は貧困に苦しみはじめる。

クメール・ルージュの政策で、もう1つ特徴的なのは、自己批判と内省だ。自分の落ちどと強さを分析見つめる事が重要視された。これによって、クメール・ルージュは、自己依存(自分だけが頼り=他者を信用せず)と謙虚な姿勢を植え付けてゆく。

ここで矛盾しているのが、他者への依存を少なくしていこく事と、集団主義、みんな平等で協力し合うというモットーだ。誰も信用できなくなるようにコントロールする一方で、集団においてはひとまとまりにした。これは、再教育プログラムや日々の村での集会において、アンコール(かつての栄光)に誓い革命を成功させる事、又は、革命に協力しないものは悪といった恐怖感を人々に植え付けていき、人々を過酷な状況下に置いて管理した。

クメール・ルージュの他の決まりについては、敵に燃えたぎる怒りを向けること、外国(人)には依存してはいけない事、伝統ある人々に習え、といった考えがあった。すでに、プノンペン入城以前に、クメール・ルージュの政策は出来上がりつつあり、実施されていたのだ。しかし、この時期から、ポル・ポトを含む、クメール・ルージュ内では、敵に対しての警戒心を募らせていた。誰がスパイなのか、誰が信用できるのか?このような警戒心、疑心暗鬼から、人々に対する管理と監視は、さらに厳しくなる。むろん、このような警戒心が募ってしまうのも分からなくもない。70年代前半のカンボジアは、内戦が激化した時代だ。それに加えて隣国ベトナムも根底では信用せず、北京にいるシアヌークと手を結ぶんだはいいけれど、それは格好だけのものだったし(世論を味方につける良いプロパガンダにもなるので)、アメリカはロン・ノル政権側というのもあり、カンボジアの郊外へ激しい爆撃を繰り返していた。

そんな時代のカンボジアは、よりよい国作りのために理想を掲げつつも、次第に間違った方向へ暴走しはじめた。ポル・ポト含めその頃の指導者は、全ての国民が平等に豊かになる国を作りたかった。

資本主義、所有という概念がある為に、階級という格差ができてしまう。この頃の共産主義者の多くは、本当に理想的国家を作ろうとしていたのは間違いないだろう。しかし、哀しい事に、思い描いた理想とは別の国家が出来上がってしまった。それは、悲劇としかいいようがない・・・。

ポル・ポトという人物
ポル・ポト(本名:サロト・サル)は、カンボジア郊外の比較的裕福な農家に生まれた。親戚には、国王に見初められた叔母がいたり、王宮で働いていた兄もいた為、小さい頃、兄の家に預かられプノンペンで幼少期を過ごす。その頃、叔母に会いに宮殿にも出入りしていたという。

その後、ポル・ポトは、仏教系の学校へ入り、厳しい戒律を学び(ここで学んだ事も、後のクメール・ルージュに影響しているようなだ)、その後、工科大学へ進学。大学在学中には奨学金で、3年間フランスに留学。その頃、共産主義と出会い、その後の政治の表舞台に立つ人々と出会う。

この時代までのポル・ポトは、さほど目立った存在でもなかったらしい。そして、フランス留学していた他のカンボジア人と比べると、自分はできが悪いという事も感じてもいたようだ。しかし、この留学は、後に重要なネットワークを築き上げる事になる。なにせ、この時代に、カンボジア人でフランス留学できるのは、限られた階級の人達だ。(勿論、ポル・ポト自身、その限られたカンボジア人の1人なのだが)。この時代、フランスにいたカンボジア学生の多くが、社会主義へと傾倒していった。

フランス留学から帰ったポル・ポトは、カンボジア国内の変化、そして、裕福だった実家や親戚農家が、苦しい生活を送っている事実に驚愕する。ポルポトは、その頃から、次第に後に繋がる活動へと入ってゆく事になる。


1975年以降 -プノンペン入城後-
どこから、狂ってしまったのだろうか?なぜ、あのような虐殺をしなければいけなかったのだろうか?貧困を生み出す資本主義に失望し、共産主義が人々を救う事を信じていたクメール・ルージュの幹部達。

クメール・ルージュ、プノンペン入城後、街中は、内戦が終わった事に歓喜し、熱狂した人々で溢れた。しかし、その数時間後、クメール・ルージュは、"2-3日で戻れるから"と嘘をつき、プノンペンにいた国民を全て郊外へ出した。そして、「カンボジア・ゼロ年」を掲げ、国の大改革を行ったのだ。

その大改革は、まず街の人々を田舎の農村へ住まわせる事。今まで所有していたもの一切を取り上げ、農民としてアンコールの為に働く事だった。そして、通貨の廃止。通貨は、もともと廃止する予定ではなく、すでにクメール・ルージュは、中国で新しい通貨を印刷ずみだったのだ。しかし、幹部の1人が、”お金”は資本主義のシンボルだとし、これがあるから所有という概念が生まれ、人々の暮らしに格差ができるといって、通貨使用に反対。ポル・ポト含む、他の幹部も、その意見に賛成し、せっかく印刷された紙幣は倉庫ゆくとなったというエピソードがある。このように、改革を進める間に、最初の理想とは違った方向へと歩き出す事になる。

その結果、飢餓と虐殺という悲惨な歴史を作り上げてしまった。飢餓は、かなり深刻な問題だった。それは、すでにクメール・ルージュ政権の最初の年に始まっていたのだ。街に住んでいた多くの人達は、はじめて田舎で暮らし始める。それも、かなり過酷な労働を強いられた。というのも、この頃、人々は3つのカテゴリーに分けられた。簡単に説明すると、まず、一番貧しかった層(もともと何も所有していなかった層)は、リーダー格で、かなりの特権があった。次は、頑張ればリーダーになれる層。最後は、革命の理想とは程遠い人達(多くが街に住んでいた教育がある人、知識人)。彼らは再教育が必要とされ、過酷な労働を強いられた層だ。

多くの人達がどんどん痩せ細り力をなくしてゆく。そんな状態では、農業の生産率も悪くなる。だから、食べ物はやはり少ない・・そんな悪循環ができあがった。多くの場所で食料が不足し始めた。そこで、ポル・ポトは、また大きなミスをする。この問題を解決するために、他の地区にいた人達を食料の不足する地区へ移動させ、人員を増やして農業の効率を良くするという事・・・。しかし、これは、まったく悪循環である。移動させられるのは、慣れない街主審の再教育の必要な層がほとんどで、移動して労働を手伝ったところで、すぐに食料が増えるはずも無く、効率はどんどん悪くなっていったのだ。これが、さらなる飢餓を増やしたらしい。

飢餓も深刻な問題で、多くの人の命をうばったが、この他に、集団虐殺もクメール・ルージュ政権下で行われ、ここでも多くの人の命がなくなった。クメール・ルージュは、もともと資本主義に関する事全てを廃止したかった。なぜなら、彼らはカンボジアにおける革命の悪とされていたのだ。よって、資本主義国家(または西洋文化)から影響を受けていると思われる、知識人(医者・教師など教育者)、宗教家、外国人がターゲットとなった。この虐待や虐殺から逃れるために、多くの人が自分のもとの職業を隠したりもした。しかし、プノンペンから追い出した後、人々に自分史を書き提出することを義務づけていたので、それで素性はわかってしまったし、それに、正直に言えば許すと言った嘘をついて、人々のバックグラウンドを聞き出しては捕まえたという。言ってしまったら最後、彼らはいつの間にか村から消えてしまう。

ポル・ポトの最初の理想は、クメールの血を引くもの、そして長い間、農業に従事し、かつ貧しい暮らしを強いられてきた人々にとっては、良かったのかもしれない。もう一度、ピュアな心に戻って、クメール人としての文化、誇りを築き上げるべく、クメール人だけによる、クメールの国を作り上げたかったのだ。しかし、その美しすぎる理想は、ときに残酷になってゆくことがよくある。それは、美しすぎる理想の裏側には、多くの憎しみや嫉妬、そして恐怖と絶望感が存在するからなのかもしれない。だとすると、ポル・ポトが生きた時代のカンボジアというのは、やはり、そういった憎しみ・嫉妬・恐怖・絶望を抱きやすい時代だったといえるのではないだろうか。そういう気持ちが心に抱かれると、次第に管理を強めたくなるものである。そう、不安だから。ポル・ポトの不安、いや、多くの幹部が抱いていた不安は、まさに、この政策に表れていたのではないだろうか。

そういう意味で、あの恐ろしい3年8ヶ月が起こってしまったのも、フランス植民地時代を含む、それ以降の近代カンボジアにおいて、強国に翻弄された時代背景が、やはり影響するように思えてならない。

誰を信用してよいのか?誰も信用できない時代。もしかすると、ポル・ポトは、教育のない、貧しい農民だけが信用できたのかもしれない。政治というのは、自己保身や自分に有利になるようにと動く事が多々ある。現に、シアヌークは、かつてアメリカよりだったにも関わらず、ロン・ノルがクーデターを起こせば、クメール・ルージュと協力し合う事になるし、かつてクメール・ルージュを支援していた北ベトナムは、ベトナム戦争後勝利をおさめた後は、反ポル・ポト派と一緒になって、クメール・ルージュを攻撃した。

もっと皮肉な事は、かつて、多くの爆弾をカンボジアの地へ落としたアメリカ軍は、ベトナム軍とカンボジア救国民族統一戦線(反ポル・ポト派)に追放されたクメール・ルージュの、その後を援助した。その頃、クメール・ルージュによって埋められた多くの地雷は、アメリカ軍も関与しているのだろう・・・。

中国は、クメール・ルージュを革命前から支援していた。特に、当時、ソ連との関係が悪くなった中国は、ベトナムがソ連と近づくと、カンボジアを自分の方へ引寄せた。ただ、興味深い事に、カンボジア革命直後、中国を訪れたポル・ポトへ毛沢東は、「(文化革命でおかした過ちを話し)同じ間違えはしないように」と警告しているエピソードがある。

カンボジアの近代は、まさに強国に翻弄されっぱなしだった。かつての味方でも、明日は敵にもなりえる情勢。まったく、何がなんだか。これでは、被害妄想にも陥り不安は増すばかり。その不安の増した分だけ、人を殺めれば気分は落ち着いたのだろうか・・・。ここまでくると、この時代、全体が狂っていたようにしか思えない。そして、それは、とっても哀しい時代だと思った。

そんな翻弄された一連の流れをみると、クメール・ルージュはあるべくしてあったし、そんな時代を生き抜いたポル・ポトの思想は、やはり、作られるべくして出来上がった・・・と感じてしまう。大きな時代の渦にまんまと沈んでしまったクメール・ルージュ。こういう時、いつのまにか現実がみえなくなり、人は、大きな過ち、取り返しのつかない事をしてしまう。こういう事を繰り返さないようにしたいものだ・・・が、実際、2007年現在も、世界のどこかで起こっているのが現状である。

カンボジアの近代史は、フランス植民地時代から出発し、クメール・ルージュの悪夢まで、数多くの戦乱と混乱に巻き込まれた。しかし、その背景には資本主事vs共産主義、米ソの冷戦と、避けては通れなかった状況がある。そんな辛い時代を生き抜いてきたカンボジア。これからの平和と発展を、心の中で願いたい。

参考文献:
地球の歩き方「アンコールワットとカンボジア 2006-07」
Pol Pot: The History of a Nightmare by Philip Short(←お勧めです!)
Weikipedia: クメール・ルージュ

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お勧め図書:わたしが見たポルポトby 馬渕直城
著者は、当時カメラマンとしてカンボジア現地にいた人だ。多くの外国人ジャーナリストが自国へ帰国する中、その後も、彼はカンボジアに残り、ここで起こった事の多く目撃することとなる。



東南アジアの旅 -Part 2/4-  11/10~11/11/2006:カンボジア(4) ~クラチェの夕暮れ~へ続く。

東南アジア旅行記
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東南アジアの旅 -Part 2/3-  11/8~11/10/2006:カンボジア(3):カンボジアの近代史


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