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カテゴリ:伊豆大島案内
2,3日前に島のお客さんと「大島観光のイベントー武田信玄の孫のお墓に参拝・・」といった話題が出て、誰が何処に という話になった。詳しく知っている人はおらず、「野増のお墓の七人様のことじゃないか」、本棚にある史跡の資料を見ても詳細は判らなかった。
昨日になって知人が山梨の新聞社が発行している「ザやまなし10月号」を読めば、と届けてくれた、何だろうと見ると『素顔の武田信玄ー望郷の念深く大島に果てた武田 村人から厚い温情静かな臨終』と目次にあった。 読んでみると「信玄の孫の信道(当時42才)が幕府転覆を謀ったと嫌疑をかけられ、大島に遠島された。妻と子供、7人の家臣と一緒に来て共に生活したという。子供は成長し、島の女性と結婚している。信道は70才で亡くなっているから28年大島で暮らしたことになる。 『村人は流人との接触を表向きには禁じられていた。だが、実際には村人の手助けなしでは暮らしはままならない、手を差し伸べた村人がいたはずです』というコメントが載っていた、読み進むと、今回の記事の資料を提供した人物が大島の郷土史家の樋口先生だということが判って納得。 野増の共同墓地には信玄の孫やその妻や家臣たちが眠っているが、お墓のまわりはいつも掃除がされ、今でも集落の人たちが代々守り続けている・・「大島からは晴れた日には富士山の左奥の方に南アルプスが見える、どんな思いで眺めてただろうか・・・」、これだけの背景を短い文章で紹介できる人物は島にとって貴重な存在だ。 私は「七人様が武田の孫のことだ、そう思っていたが配流(遠島)されて来たのは12名、『七人様』は野増村を切り開いた開祖七人の墓のことのようだ、またひとつ勉強をさせてもらった。 大島には源為朝や役の行者、赤穂義士の遺児間瀬定八などが流されている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年10月24日 10時23分47秒
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