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宮川哲夫を題材とした舞台劇のDVDが大島へ大島で生まれ育った文化人と言えば、洋画家の中出那智子、小説家・評論家の石川好、義太夫語りの竹本葵太夫(柳瀬信吾)と宮川哲夫ではないかと思って注目してきました。大島町の文化事業である「伊豆大島文学・紀行集4巻組」の編集に係わり作品の掘り起こしをしていた時に、大島を題材にした作品が石川氏や宮川氏にあることを知り4巻組に収録しました。週末のダンスフェスティバルの後に、宮川氏の3女浅見洋子さんから一枚のDVDをいただきました。それは宮川家の縁者である若い役者であり、脚本家でもある小谷嘉一さんがプロデュース公演した若き宮川哲夫の足跡をたどる舞台公演を撮影したDVDでした。2025年2月に5回都内で舞台公演をされた時の物です、若い俳優さんたち出演された「悲しみに戯けたピエローマボロシの作詞家ー」若い俳優さん17人ほどが演じた約2時間の上演舞台だということでした。去年の冬だったか、自分は役者だが今回は脚本とプロデューサーをします小谷です、と言って藤井工房にも顔を出してくれました。ご家族への聞き取りや資料などを読み込み脚本を書かれたようです。今回は役者としての出演はしない予定だとも言ってました。まだどんな劇なのかDVDを見ておりませんが、大島生まれの詩人で作詞家の話しなので、見終わったら多くの島の人にも見てもらえるのにふさわしい窓口を探してみたいと思います。いただいたチラシを一部切り抜き貼り付けコピーしたものを見てもらいます。
2025年07月15日
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7月12日13日におこなわれた2025年伊豆大島ダンスフェスティバルインすばるの「宮川哲夫の世界編」を見に行ってきました。12時から13時までで、スバルの芝生の庭を気持ちよさそうに走り飛び回っていました、屋内より開放的でよかったです。席とダンサーが近いのは良いのですがテントの中も暑くて、出演者はもっと暑い上演会となりました。青木健さんの「チャンバラ人生」初めて見ましたが普段とは違う役者さんの立ち振る舞いでさすが、と思いました。宮川哲夫さんの3女も見えられて、なつかしい松島アキラの「湖愁」「島の娘よ、さようなら」などを唄われました。
2025年07月14日
今日と明日のフェスティバルの進行時間表が届きました。まずは7月12日分です、お出かけください。7月13日分です、リハーサルもご覧いただけます。
2025年07月12日
伊豆大島ダンスフェスティバルが7月12日と13日に大島の「すばる」にて行われます。2025野外ライブイベントです。お馴染みの青木健さん、竹尾信吉さん、詩人(作詞家)宮川哲夫先生の娘さん浅見洋子さん、津軽三味線のといちさん、ダンサーの方も多数出演されます、どうぞポスターをご覧の上お出かけください。入場無料です。
2025年07月09日
前回はホトトギスの挿し芽をプランターに2鉢やってみたが、どうやら根付いたと思われる株が約半分か。ひとつの鉢に生き残りをまとめて観察してみようと思う。地上分が枯れていたり、わき目から新芽が出たりしているが、枯れていても引っ張ってみてすぐに抜けない株は根が貼りだしたという印になる。今回気が付いたことは茎を触るとスカスカになってしまった株は枯れてしまったということ、地上部が枯れても簡単に引き抜けない株は脈があるということも分かった。知人からメデネールという薬剤もいいよと教えてもらったので、名前からして期待できると思い前から使っている発根促進剤のルートンと合わせて試してみることにした、どうなりますか。時期的にもう遅いような気もしますが、やってみないと分からないこともあるので再チャレンジしてみる。7月6日11時に挿し芽実行、さて何日で結果が分かるのか、たのしみが一つ増えた。何でもだけどやってみないと分からない(教訓)からやってみる。緑色の細い新芽は生きている証拠根っ子がどうなっているかを見るためにそっと引き抜いてみてからまた同じ穴に戻しておいた、根が張り出しているのが見える。地中に新芽が出るように2つの若葉まで挿した上の茎に新しい根が伸びてる、地上部分からの新芽が伸びている。これで新しい株が1つ増えることになる。発根促進財のルートンと植物活力剤メデネールを使ってみたメデネールにしばらく浸してからプランターに挿す、19本あるルートンの粉をまぶしてから挿した
2025年07月06日
今年の春4月にホトトギスの新芽がだいぶ長く成長したところで、10本ほど地面から5センチくらいで切り取り、葉っぱを落として挿し芽(挿し穂?)ようにカットして赤玉土に挿してみた。あまり成績は良くないが、生き延びる割合は5割に満たないが、新しい芽が先端に伸びてきてこれから立派なホトトギスに成長して花を付ける。種蒔き、挿し芽、株分けを毎年続けて行けば、相当な数になると思ってやってきている。その花は私が好みの色が濃くてべっとりした模様の花が咲くはずだ。欲張って言えば挿し芽の9割くらいが根付いてくれたらと思うがあまり研究しながらやってはいないから、やり方もあてずっぽう。
2025年07月01日
式根島が舞台の「男はつらいよ」テレビ放映に山田洋治氏の「男はつらいよ」第38作目マドンナ役栗原小巻でテレビ放映がされたので見ることが出来た。大分前に「少年寅次郎」という子供の頃のとらさんの生い立ちをたどるテレビが放映されたのを見て、東京に暮らしているときには時々夏と冬に公開され作品を都内の映画館で見てきたが、以前よりも本編作品が気になる存在になっていた。舞台は伊豆諸島の式根島で昭和38年の作品だったので40年も前の懐かしい光景を見ることが出来た。私はストーリーより島や調布空港の変貌にびっくりした。30年ほど前までは式根島に仕事で通っていたので古い旅館(民宿)も村営船にしきも風景も懐かしかった。一番の変わりようは、調布空港だった。バラックのような建物に空港事務所の看板がかかっており、駐機中のセスナヒコーキの移動は車両により行われ、乗客もマイクロバスでタラップそばまで運んでいた。その当時の新中央航空の大島事務所は大島羽田間のヒコーキの搭乗手続きや案内をする狭い建物の一角を間借りして新中央のカウンターがあったような気がする。当時はヒコーキが人気があってチケットを取るために朝早くから並んだりした記憶がある。大島空港がジェット機乗り入れ空港となるために滑走路を長く広げて飛ぶようになり、管理事務所の建物も立派になった。私は便利に羽田便のヒコーキを利用していたが、料金が高いこと、東海汽船の高速船が就航すようになり、便利になったせいかすっかり羽田便を利用するお客が少なくなり、羽田便は廃線となってしまった。最後のころはジェット機にお客が5人そんなことはよくあったから、無くなるのも致し方なかったように思う。今年の夏の東海汽船の運航ダイヤを見ると高速船の便数が減り、簡単に欠航が増えて(簡単というより安全基準の見直し、徹底などか)で便数が減り、島民も観光客もよっぽど覚悟して日程を組まないと大変なことになる、東京への病院通いの人も多く、飲食を扱う業者さんは大変な苦労をされているだろうなと思う。島民が大きな負担を受けることは即観光客にも悪影響が発生することになるだろう、この夏どんな影響を受けるのか、島に来たはいいが、竹芝に戻れない、そんな島になってしまってきていると思う、新中央を頼りにする人が増えそうだが、一回に運べる人の数は20人ほどで、とても需要を満たすことにはならない気がする。そんなことを考えながら本編を見ていたので番組鑑賞はウワノソラになってしまった。
2025年06月29日
この春に生まれたメダカの子供です。春までは外のカメで飼っていましたが、炎天下で水がぬるま湯になってきたので、夏が終わるまでがラスの水槽に移して室内で飼うことにしました。外のカメをよく見ると生まれたばかりのメダカが数匹見えます、まだ卵がくっついていて最近孵化したと思われます。涼しくなるまでにどれくらい大きくなってどれだけ生き残れるでしょうか。
2025年06月24日
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大島町の旧火山博物館が7月1日リニューアルオープンになります。施設の展示物制作に協力してくれたということで内覧会と開館の案内チラシを送っていただきました。少ない予算をやりくりして果たしてどんな展示になっているのでしょうか。よく町は金がない金がないと言ってきましたが、金がないなら知恵を出せ、そう思って聞いてきました。まだ中身を見ていませんが、知恵を出し合って一滴残らず出し合って工夫してきたことを知っているので、出来る限りの協力をしてきたつもりです。どこにもないユニークなミュージアムが出来ることを期待しています。オープニングセレモニーの中で、オープン記念の講演が行われるそうです。講演者は伊豆大島に移住して積極的に大島の自然に向かい合って培ってきたノウハウを駆使して活動をしている長谷川雅美氏(東邦大学名誉教授)です。ご縁があって親しくさせてもらいながら、いくつかの現場を一緒に探索してきました。私がスーッと通り過ぎるような現象を見逃さず、見てきた幾つかの事象を横につなげて仮説を膨らませて島のつながりを解き明かしたい、常にそういうことを繰り返されているようです。いつか点が丸に、丸が急になってゆく取り組みを間近に見ることができることを楽しみにしています。今年1月におこなわれた「元町大火60周年の写真展」にもレジメに一文を書いていただきました。直接会場に行けなければ、ビデオに撮ってもらって何を話されたのかを知りたいと思います。
2025年06月23日
去年の冬、突然自宅から200メートル離れた幹線道路沿いの家が白いテープで巻かれ、テレビドラマでよく見るような光景が現れた。多くの車両が集まり目隠しブルーシートとテントが張られ、何日もこの状態が続いた。うわさ話では、「若い男女間の話で、殺人事件があり、女性が焼かれて海に捨てられた・・・骨が見つかった、被疑者はまだ白状していない、まだ捜査員が時々来ている」というようなもので、私は島も大変な時代になったと当時思ったものだった。当時は雑誌やマスコミ新聞社が大勢見えていた。中でもテープが張られたその日からずっと今回の記事を載せている新聞社は相当に長く島にとどまっていた。島の人たちの事件に対する情報(うわさ話レベルだけど大きな判断材料)は「殺人事件があり、家主が殺して焼いて海に捨てた」と思っていたのではないか。島にいる親族はどんな気持ちなのだろうか、そんな風に受け止めていたのではないかと思う、もし私の想像が間違っていたり、この事件を蒸し返すつもりかと受け留められたとすれば陳謝します。報道によれば、6月19日に東京地裁で初公判がおこなわれて被告は「死体の遺棄と損壊を認めた」と書いています。事件の真相は分かりませんが、殺人事件ではなかった、やってしまったことは悪いことながら殺人事件ではなかったのだ、証拠となる書置きがあったという、遺棄損壊に対する罪に対する裁判であることを初めて知りました。詳しくは新聞切り抜き一部切り貼り加工を見てください。子供の頃から近所にいて顔見知りの青年やご両親のことを思えばうわさ話は間違っているらしいよと伝えたかっただけです。もう誰もが知っていることなら私が笑い者に、それでも何か書いて殺人事件ではなかったことを知らせたかっただけです。
2025年06月22日
私は1999年から私設の資料館(藤井工房併設)を開いてきました。前の職場にはまだパソコンがない時代だったので、ノウハウはなかったのですが、何とか自分がやっていることを残したいと思って独学で2004年からブログと簡単なHPをやり始めました。ブログは通算すると約20年で来館者のカウンターが150万を越しています。カウンターの仕組みもどうすればカウンターが回るのかも知りません。ただ土砂災害の時には一日800もカウントが増えたので、小回りの利く情報を災害に関係する人が探して見に来てくれているのだろうと思いおさまる迄は頻繁に更新しました。使っている楽天ブログは記事を更新した年と月を指定すると中身を見ることが出来るようになっています。四季の花や生きもの、身近な暮らしの様子などを中心に書いてきて、今と全く同じような代わり映えのしない繰り返しのように思いますが、それはそれで幸せなことではないかと思います。フェースブックも同じような内容で文字をコピーして記事を載せていますが、リアルタイムで情報が飛び交うので出来事を早く知ることができますが、前のことを調べようと思うとやっかいのように思います。残したい記事はこのブログやHPに書き込みを続けようと思います。このブログの主旨をトップページに書いてあります、20年経っても最初と相変わらす同じようなことをしたり、残そうと思ったりしています。ブログの表紙は私の父が彫った「あんこ人形」を似合った場所を探して連れまわし、撮影した写真です。偶然でしたが、右手前から夕陽が差し込み、坂道を母が登ってい行く、そんな雰囲気にしたかったものです。タイトルは「家路を急ぐ水汲みのあんこ」です。木村五郎は昭和の初期に活躍した彫刻家大島にやってきて、島人に「あんこ人形」彫刻の技法を伝授「あんこ」は年上の女性に対して親しみを込めてよぶ時の呼称で「姉こ」が変化したもの、広くは「島の娘」のこと その人形を60年彫り続けた職人の技と意気込みを伝える藤井工房 南国情緒あふれる「大島の風景」を競って描いた芸術家のまなざし みんな資料館の仲間たち 木彫人形資料館のこと、大島へやって来た芸術家たちのこと島の暮らし、島の野草や魚釣りなどもろもろ感じたことなど書いてます
2025年06月21日
波浮の港の一節を絵手紙でお礼伊豆大島の唄と言えば「波浮の港」が思い浮かびます。私の古い知人が久しぶりに大島を訪ねてくれました。共通の旧友なので、女房殿が学んでいる絵手紙で私が作っているあんこ人形をモデルにハガキを書いてくれたので、一枚は投函して4枚は額に入れて工房に飾っています。ハガキの表の半分に線を引き上に宛名、下に文字を入れています。時々ですがこうして葉書に描いて出しています。
2025年06月17日
三原山の噴火は1986年11月に始まってから、当時私が勤めていた大島支庁(東京都の出先機関)では大噴火に備えて毎日無線機を持って2人組当番制で三原山展望台から噴火の様子を監視していました。ちょうど私と阿部さんが当番で待機していた時、三原山火口からは相変わらず噴火していましたが、立っておれないほどの揺れが続いていました。11月21日夕方になり予測もつかない噴火口に向かって左奥のカルデラの中から急に噴煙が上がりました、最初は白くて、だんだん黒くなり、噴出物も肉眼で見える大きなものが吹きあがっていました。展望台には役場やマスコミや関係者、見物人らが何人もいましたが、警察からだったと思いますが、避難下山の指示が出されました。様子を本部に報告して下山する旨を伝えて庁有車のそばに戻ろうとすると、カメラのシャッターを押し続ける阿部さんは帰ろうとしません。しばらくすると残っているのは警察署と私らくらいだけになっていました。この写真には写ってませんが肉眼では噴煙の手前を展望台に向かって逃げてくる観測員数人の姿がみえました。前にどこかで書いた記憶がありますが、この時に走って逃げてきた一人が今大きな仕事をされている火山学者で赤色立体地図で活躍中の先生でした。ようやく阿部さんも危険を察知したのか下山に同意しました。途中の富士見峠のあたりで車が宙に飛んだような気がしました、スピードを出していたので道路の大きな段差に気づかず、その後この道路は熔岩で埋め尽くされることになります、位置から言ってそこから噴火したのかもしれません。。これでは終わらず、下山途中に温泉ホテルの寄ろうということになりました、カルデラ噴火現場の反対側にあるホテルです。まだ見物人も含めて多数の人が駐車場から見ていました。あとで「ファイヤーカーテン」と呼ばれる噴火をこの目で見ることになりますが、同行の阿部さんの写真が見た証拠になります。写真を撮ってすぐに下山、本部に無事にたどり着きましたが、職員は誰もおりませんでした。庁舎が古くて大きな地震で危険になったの、みんな町役場へ避難していました、何と情けなかったことか。それから噴火はカルデラ内で止まることなく、外輪を飛び越して山麓からも噴き上げて、その夜には全島民島外避難となり一カ月を島から離れて避難生活をして戻ってきました。この三原山噴火の始まりから帰島まで、阿部さんは写真を取り続けて、焼き増ししてファイルにきちんと整理されていました。すべてがこのとおりで、大島で起こった多くの出来事がきちんとファイルされています。私にはできないことです、長くなるのでここまでに、脱帽です。
2025年06月15日
地味ながら長く疲れている「かしゃんば」は島になくてはならない銘菓だと思う、本日ゲット。同じような和菓子が鹿児島に「かからん団子」というのがあるみたい。かからは「サルトリイバラ」の方言で、サルトリイバラの葉で包んだ団子。
2025年06月14日
大島にとっても私にとっても、阿部さんは生き字引だった、95才で亡くなられたが困っている人が多いいのではないだろうか。詳しくは別の時に詳しくまとめたいと思っているが、大事な人だったことは間違いがない。時間があるとよく私のところ(藤井工房)へ来てしゃべっていってくれた。私との付き合いは公務員時代から数えると45年近くになる。普段は何でも知っているおしゃべりなおじさんという風に受け止められたかもしれないが、出る所によっては段違いな格上の名士だったと思う。島の行事と言えば必ずカメラ(ニコンが愛用)をぶら下げて顔を出されており、時々その写真を見せてもらったりした。冗談に「阿部さんが顔を見せないイベントは大島では非公認だ」、若い時からそれくらいマメで歩いていた。自宅にはそんなイベントの写真などと一緒に、古い絵葉書や貴重な資料類がいっぱい残っている。2年くらい前だったか、こんな写真があるというので見せてもらって、私はもし何かの時にはこの写真を使おうか、嫌だとは言わなかったので、焼香の時に使う小さな額にこの写真をプリントしてご家族に届けた。さすがいリボンのついた大きな遺影の写真はご家族が用意した。長老の功績を考えれば町の表彰ものだと思うが、どんなものだろうか。いろいろ伝えたいことや書きたいことはいろいろあるが、もうしばらく気持ちを整理してからまとめてみたいと思っている。合掌
2025年06月13日
昨日更新している楽天ブログに記事をアップした時に公開された記事を「SNS]でシェアしようという、メッセージが出ていた。同じ記事をブログとフェースブックに載せてきたので、どんな風につながるのだろうか、きっと便利なやりかたなのだろう。機能的なものをほとんど知らないので、どうなって現れるのだろうか、古い写真も3枚試しに入れてみた。授粉してタネを付けた大島自生のホトトギス
2025年06月10日
前にも見てもらったことがあると思う画像ですが、同じ「ホトトギス」でも、長年野生で暮らしてきた環境により花の色がこれほど違うのは不思議です。みんな私が大島で見つけた自生株を撮影したものです。べっとりと濃い色が出た花が好みです、身近な場所で殖やしたいですね。
2025年06月09日
ホトトギスを殖やしたい花の斑点が濃くて大きい種類のホトトギスという花を殖やしたいと思っています。試験的に二つの鉢の一つ、数年前から一つのプランターにギュウギュウに詰めになっていた株の根を花が終ってからバラシ、プランターと4つの丸鉢に株分けしてみましたがうまく思ったような斑点の花が咲くでしょうか。殖やしたい斑点のホトトギスの花(去年撮影)終わりに近い株花が終わってから二つのプランターに株分けした、元気に育っています
2025年06月08日
今年になってからは単発の告知の更新だけにとどまってきました。私はブログとHPは自分の両輪だと持ってきたのでなかなかパソコンに向かうことができませんでしたが、何とかHPも同時に更新できることになったので、このブログも再開しようと思います。何年も待ちましたが、ようやくです。今日の花はハマナデシの白と赤花です、どっちが大島に多く自生しているのか分かりませんが、コンクリートの割れ目からでも芽を出すので元来が強い植物です。最初の何粒かの種がドームのそばで飛んで仲間を殖やしています。
2025年06月07日
ブログ最終更新から大分時間が経ってしまっていますが、直近の告知を先にさせていただきます。本日チラシをいただいたので紹介します、11月にPRした時のチラシと上演時間が変更になっておりますのでご注意ください。・上演演目:国際ツバキ大会イン大島「オペラ大島椿姫物語」ーオペラ「椿姫」の音楽と共にー・日時:2025年3月12日16時開演・15時30分開場・会場:大島町開発総合センター2階大集会室2024年11月19日では大島町民向けにフリー入場で公演をしましたが、今回は台本を一部修正して公演するそうです。大島ゆかりの関係者で言えは、大島出身のオペラ歌手竹尾信吉さん、モダンダンスの青木健さん、手踊りの里喜本社中、大島高校吹奏楽部・御神火太鼓などが出演されるようです。もちろん東京からオペラ歌手が駆けつけて演じます。国際ツバキ大会で、世界中から椿の愛好者が東京へ集合、その中から大島の椿鑑賞を希望する海外参加者と島民の希望者(予約制)が同じ会場で、オペラ椿姫を楽しむことができます。めったにない機会ですのでお出かけください、予約は2-5091です。
2025年03月10日
ヤマイモが手に入るとよく女房殿の実家(泉津)で養母が作ってくれました。今は泉津にいる娘と私の女房殿が引き継いでいます。もう5年ほど作っていなかったので、記憶をたどって姉妹で作ってくれました。何という料理になるのか、すり鉢でヤマイモを自家製のサンショの木の枝で作ったスリコギでなめらかになるまですって、だし汁を少しずつ入れて伸ばしてご飯にかけモミノリをのせて食べます。大きな芋だったのでいつもの時より粘りが強い贅沢な「ヤマイモかけご飯」を頂きました。島外に居る息子と娘にも半分ずつ分けて送りました。正月の昼食にサンマの塩干、カブの漬物、差し入れてもらった五目御飯が登場しました。しばらく前からお神酒ではなく冷えた缶ビール350mlをいただいてます。天気も良くて上々のスタートとなりました。
2025年01月06日
巳年です、今年もよろしくお願いいたします。ちょうど正月が休館日にあたり、泉津の女房殿の実家の畑で「ヤマイモ」を掘りました。12月に太い蔓だから掘ってみればという女房殿の予言に従い休日なので掘ってみました。普通は傾斜地を崩すように土をどけて行けばいいのですが、予言の土地はフラットで階段式に下りてゆく道を作らなければ獲物はゲットできません。元旦にお告げに従い、ここ掘れワンワン状態で始めました。シャベルとスキを使って掘りました、幸いなことに根っ子がないので助かりました、初めての体験でした。何と長さが120センチ、重さが1.8キロの大物でした。幸先が良い話ですが、出来れば人から頂いて、うまいうまいと言いながら食べるのが一番、それが感想です。ちょうど蛇の形をしています。
2025年01月05日
私にとってやっぱり冬の味覚の王様は「ブダイ」先日のこと、知り合いが海の潜りの人から分けてもらった「ブダイ」を分けてもらって食べた。もう何年かぶりの生のブダイだ。小さめだったけど、ブダイはブダイ、身のところはべっこうのお寿司に、骨とアラはアシタボ汁にしていただいた。やっぱり寒い夜の汁物は温まって最高だ。もらった人が海の様子を聞いてみたら「海藻が少ない、魚も少ない、イセエビも激減、エビは海水温のこともあり北の方へ移動しているのかもしれない」と話していたそうだ。もう磯釣りはストップしているが、今シーズンの3月までに何とかもう一回、通い慣れた磯に行ってみたくなってしまった、最悪でも2匹くらいは釣れそうな気がする。そう思ってしまうと抑えきれないのが、自分の欠点でもあり良い所でもあるように思う。休みの日の天候と波の具合が大事、準備をしてチャンスを待ちたい。
2024年12月21日
宮沢賢治の伊豆大島を題材とした「三原三部」の鮮明な画像です、ぜひ読んでください。昨日は記事の大きさを知ってもらいたくて宣伝など全部載せた誌面だっから読みづらかったかもです。画像一枚の容量に制限があるのでこれが目いっぱいです。
2024年12月16日
読売新聞12月15日)日曜版よみほっとに、先月取材に見えて記者さんが記事を大きく載せてくれました。大きすぎて、スキャナーに入りません、とりあえず速報で、ということで2面全部をカメラで撮って載せてみました。記事の中身は後日アップしたいと思います。これでも見えそうですが。
2024年12月15日
12月の中旬になり、もういいかと怒って、去年ももらいに行った椿花ガーデンに朝一番に行き、サクユリ種を分けてもらってきました。去年よりだいぶ種が入ったサヤが少なかったです。聞いてみると、日に当たる場所のユリが種を付けていないとのことです。きっと夏の暑さにやられてしまったのでしょう。比較的日陰で難を逃れたサヤを7つもらってきました。去年も試験的に種を蒔いて発芽させて子株を増殖させようとやってみましたが、思うようには育てられませんでした。今年から本腰を入れて取り組んでみたいと思います。一つのサヤにどれくらいの種が入っているのでしょうか。サヤ一つに部屋が6つに分かれていて、それぞれにびっしりとタネが入っています。少なく見積もっても一部屋に60個の種として、一房に360粒、今現在で全部で2500粒、まだもらえそうお宅もあるので、どのくらいの粒になるのか、オオタニショウヘイ並みのとんでもない数字になるのかもしれません。半分でも発芽すれば幸先上々といった素人のチャレンジです。私の成果は8年後くらいから大輪の花が咲く予定ですが、椿花ガーデンの山下さんの植物の増殖計画ははるかに長い話です。お互いに長生きしましょう、そう話してきました。花の種類は違いますが、負けずに頑張ります。サヤの先が開いてくると取り時です
2024年12月14日
三原山地蔵尊(大島町指定文化財)の清掃令和4年3月23日に三原山地蔵尊群が大島町指定文化財に指定されました。2013(平成25)年10月16日の台風26号による土砂災害の時に参道の簡単な橋が流出してしまい、三原地蔵尊へ行くことはできなくなってしまっていました。大島町では、文化財指定に向けて周囲の環境整備を進めてきました。沢に架かる仮橋を設置、急な坂道(参道)には丸太の階段を設けて、訪れやすくしてきました。2022(令和4)年に町の文化財としてしていされました。まだ看板などの整備や旧道の石段の復元など手を加えてもらいたいことはありますが、まあそれは今後ということで待ちたいと思います。御神火スカイライン(旧5合目)から徒歩で10分ほどで行けるお参りできる三原山地蔵群なので、元町の有志の方々が年に2回訪れて、清掃とよだれかけ(赤いエプロン)取り換えをしています。大体12月最初の日曜日と、三原山の山開きの前の日曜日におこなっています。写真は木村武山画の線彫像をきれいにしているところです。2枚目は境内全体の(参考写真)です、今回撮影の物ではありませんが。3枚目は参道までの途中の整備状況、4枚目は町が出している地蔵尊の解説資料です。
2024年12月08日
2004年から続けてきたブログには、ほとんど反応はありませんが、こんな人もいるんだと思ってもらいながら大島のことを知ってもらえれば、そう思って続けています。フェースブックを始めてからは、同じ記事を両方に載せるようにしています。どうやら島の同級生(男)だと思われる人からここ何回かメッセージが入って来ています。大島のめぐみ(マガニ採り)の書き込みを読んで反応してくれたものです。次のようなメッセージを返しました。私は三人兄弟の末っ子です。真ん中の兄が家を継ぐために養子になって名字が変わりました。そのあとに長男が事故で亡くなり、末っ子だった私が長男に繰り上がってしまいました。高校を出てから東京で10年暮らして大島に戻ってきました。兄二人が家に居れば今頃は都内のマンションにでも暮らしているか、あるいは島に居場所がなくてと言っていいかもで、島には法事などで時々帰ってくるような暮らしをしていただろうと思います。良かったかどうかは分かりませんが、せっかくだから子供の時からいる大島で自分らしい島の暮らしがしたいと思いながら、こうして他愛ない中身のブログの更新をしています。カーツはおっしゃる通りの果実で、他の人に取られないように早く見つけたら取って、米びつや土に埋めて食べていました。今はほかのサクランボも桑の実もアスナロも口にはしていません。子供だったからうまかったようなものですね。ポポーはそういう自生の果実ではなく、柿と同じような人が買って植えた木になり、熟してくると自分から地面に落ちてくるので、登って食べてことはありません、マンゴーのような味でしょうか。大きな篭(リールやおもりやエサを入れた)を担いで釣竿を片手に出かける磯釣りは体力勝負です。オマケにブダイが3匹でも釣れれば重くて帰り道は難儀なことになります。冬になるとブダイが食べたくて磯に行きたくなりますが、いろいろ考えると決断しかねます。お店に並ぶこともありますが買うのもしゃくで、どうしてもの時には仕掛けから準備して、静かな北風が吹き船が元町港に着岸するような時に、長根の先端にでも行ってやってみる手もあります。まあそうなった時にはまたお知らせしたいと思います。どなたか分かりませんが、また書き込んでみてください、ありがとうございました、長くなるのでこの辺で。
2024年12月02日
本日風もなく良い天気で、メジロの気配が濃厚になってきました、木々の間を何匹化が飛び交っている能な気がします。撮影もできましたが、デジカメの設定が間違っていたのか、暗くなってしまっています。外の駐車場の方から写してみると、ほとんどエサがあるようには見えないかと思いますが、ちゃんと覚えていて来るものだと感心します。これから3月まで楽しめます。エサ台を覆っているツルは取ってしまおうと思います。
2024年12月01日
伊豆大島の風景(リアルタイム)というブログ を当初は内堀・藤井で運営してきました。2008年大島のブロガーいうか、大島情報を発信したいと思っている人を募って共同運営方式でスタートしたブログでしたが、参加者は私と内掘さんだけでした。ほとんど内堀さんの今では貴重品となったデーターが公開されています。もう書き込みはできなくなったようですが、私も時々催しがあった時などに使わせてもらってきました。今年の11月から別のブログに切り替えて内堀さん(チョモさん)単独のブログ開設・更新が始まったのでお知らせします。まだ始められたばかりですがのぞいてみてください。新しいうログのタイトルは 伊豆大島の風景②です。
2024年11月30日
毎年メジロがやってくる頃からエサ台に数羽のメジロが来てくれています。今日スマートなメジロがチラッと姿を見せましたが、それっきりです。まだアパートで言えば空き家状態で、部屋の修繕もエサも用意していませんでした、傾いだままです。でも見えにくい場所にあるはずのエサ台にこうして来るということは、去年いい思いをしたという経験をしたメジロだと思います。さっそくエサを用意してトライしてみます、テーブル席から2メートルくらいの近さのエサ台で、これから3月まで毎日やってくるだろうと思います。今はアパートはツルが絡み放題、このままが良いのか、きれいにすべきか、色がカブルので、すっきりきれいにした方が良いのか悩みどころです。のんきな話ですみません。去年は12月5日にやってきたとこのブログにに書き込んでいます。
2024年11月24日
11月19日(本日)の定時の防災おおしま放送(ラッパ)で本日のオペラ公演の案内が流れました。私はてっきり放送では案内がないと思っていましたが、お昼の定時放送で告知してくれました。私はチラシを自身の外の掲示スペースに貼りだす事、ブログやフェースブックで情報を流す事、奥さんを連れて一緒に見に行くくらいのことしかできませんが、こうして島内全域に開催の告知をしてもらえて、やれやれよかったよかった、と思っています。あとは見に行こうと思うのかどうかは個人の判断だからしょうがない、そう思って応援メンバーとなって見てきたいと思います。また報告します。 本日午後6時30分からの公演となります、入場無料・予約不要です
2024年11月19日
大きなプランターと丸鉢で育ててきた「ホトトギス」の花が終わった数日後にもう一鉢のホトトギスが咲き出しました。暑かった夏の前からずっと室内に置いてあったので開花が遅れたものと思います、最初(6月に撮影した写真)より株数も勢いもずっと日に当てなかったので弱々しくなってしまっていますが、私が殖やしたかった花の斑点が濃くて大きなホトトギスです。名が付ているのかどうかわかりませんが一般的な山にある「ホトトギス」と同じ種類だと思います、大島の山の中で偶然見つけた株です。もう覚えていませんが採取できたのは2株くらいだったかと思います、これまでは挿し芽で殖やしたものです、3鉢で150株には分けられるかと思っています。これからも春に挿し芽、秋に出来たタネでも殖やしたいと思っています、今のところタネは8つしか実っていませんが、一つのサヤに30くらいは入ってる筈です。今咲いている最後の一鉢に期待したいと思います、毎朝新しい花に授粉のまねしています。6月に撮影、この時はまだ外に置いてました、葉もピカピカでした
2024年11月18日
国際ツバキ協会では2年ごとに世界各地で国際ツバキ大会を実施しています。2025年には東京大会が開催されます。ツバキのふるさとの日本では約10年に一度の割合で各地で開催されてきましたが、来年3月には東京がホストとなる東京大会が海外からの参加者を集めて開催されます。それに合わせて3月12日に海外からの参加者がツアーを組んで大島に来島してちょうど咲き乱れる椿の花をめでながら【ツバキ大会来島歓迎セレモニー】として「大島椿姫物語ーオペラ「椿姫」の音楽と共にー」が大島で公演されます。何と、大島島民向けに(本番のリハーサルを兼ねた公演)が組まれて(フリー入場)特別公演が予定されています。20数年に渡り「オペラ椿姫」を大島でオペラ公演をしてこられた(株)椿の日原さんがツバキ大会準備委員会大島全権委員として運営に関わり企画されたオリジナルストーリーで、波浮の港を舞台にした恋物語が展開されることになります、オペラ椿姫の音楽に乗せた物語には、大島で活躍されている新大島節の竹尾信吉・モダンダンスの青木健・里喜本社中・大島椿姫合唱団などが特別参加されます。大島の方々に是非見てもらいたいという思いから実現した公演です。チラシを参照ください。日時:2024.11.19(火)18:30分開演会場:大島町役場・開発総合サンタ―2回大集会室(入場無料)
2024年11月16日
昨日は満月、満月と言えば海の大潮です。これからの冬場は潮が引きます、昨日は海は凪、藤井工房は休館日です。もう何年かぶり5年ほど出かけていないと思います。簡単な装備をしてフラフラと近場の磯に行ってきました。目的は獲物のゲットが第一ですが、磯がどうなっているのかも知りたくて出かけてみたわけです。若い時から通い慣れた磯なので楽勝かと思ったら、ぴょんぴょんと岩を渡り歩くことが出来なくなっていました、竹の杖も必要になっていました。磯の様子を見るより自分の現実を見せつけられてしまいました。それでもめげずに獲物を少しだけ捕まえました、朝のみそ汁にダシ代わりにマガ二(本名はショウジンガニ)とアシタボを入れて食べました、春の香りです。気づいたことは「スベスベマンジュウガニ」が増えたこと、それと本名は知りませんがマガに似た裏に模様がないカニがやたら増えていること。こういう甲殻類をエサに「ブダイ」を釣っていた者として覚えているのは、前もこの裏が白いカニをエサにしましたが、食いつきはマガにの方が数段上でした。3匹縦に並んだカニは上からマガニのメス・オス・白いオスの順です、はっきりとした根拠はありませんが二匹は親戚でも別の種類のランクが下のカニだとずっと思ってて、食べたことはありません。もっぱら釣りの餌にしました。ブダイ釣りにはもう行けないだろうけど、これだけカニが減っているということは甲殻類を食する魚は投げ釣りでは一匹釣れればオッケーで、大量は難しいだろうなと思いながら家に帰ってきました、時々ブダイを食べたくなりますね、冬が来たという合図でしょう。
2024年11月15日
ある生協チラシのコラムのコピーを知り合いからもらいました。賢治の碑の話題は島内でも話題になっても、くすぶってはいつしか消える、そんな現状を見てきました。何とか火をつけたいものです。先日全国区の大手新聞の記者が「宮沢賢治の大島」の取材に見えました。記事は年内くらいまでには掲載されると思いますが、どこまで切り込んでくれるのか、と待っています。
2024年11月12日
フェースブックの友達つながりで投稿してくれた知人の更新の記事です。愛宕山のホトトギスの増殖は12年ほど前にボーイスカウトの子供たちや一般の愛好者などが集まってくれてあっという間に用意した700本もの挿し芽株を植え込みました。土手だから根の部分を深く植え込むことより、どんどん差し込むほうが土手にも良いと判断しての事でした。根が張るまで時間がかかかることになったけど見事に群生していて驚きました。花が咲いてから受粉によってタネがずっとできなかったのは、不勉強で挿し芽にしたからかななどど思っていました。根を張って地力がついて株が強くなったのかもしれません。素人のままで研究はほとんどしていませんので工夫はしていません、植えっぱなしですが、ちょっと人間が手を貸してやればこうして群落を形成することができることが証明されてうれしいです。自生地に近い条件の場所が適地だったと思います。 ホトトギス20241102(土) ご無沙汰です1ヶ月ぶりのfacebook 投稿です。 早、10日前(10/22)になりますが愛宕山町道沿いのホトトギスが満開でした。郷土を愛する藤井工房藤井氏を中心に自然愛好家が現地で挿し穂繁殖をさせた物です。 同じ挿し穂の株が大島町郷土資料館古民家前庭でも咲いております、27日に撮影しました。ホトトギスが一株もなく、カヤやシダだらけだった土手がこんなになりました。
2024年11月11日
平成6年度第42回地域研究発表会のおしらせです。町立第二中学校の発表会です。表紙とプログラムを見ていただきます。何度か当方も取材を受けて協力してきた関係からか、今年は子供たちは誰も取材に見えてませんが、プログラムを先生が配ってきてくれました。42回目だということで、第1回から見れば変化があって比べてみるのも面白いかと思います。発表のレジメは持っていませんが、研究テーマは分かります。大島の椿、大島の凧、為朝、大島公園、天古舞、大島の遺跡と伝説、鉄砲場、行者窟、日忌さまでした、
2024年11月09日
ホトトギスの受粉結果殖やしたいと思っている「ホトトギスの受粉」の結果はプランター一鉢で約百の花が咲きましたが、タネのサヤ(朔果)は8つだけ残りました。辞書を見ると授粉は人工的に花粉を付けた時、受粉は自然に虫などによって花粉が着いた時のこと、そう使い分けるようです。今年の場合は虫と人間の半々ということにしたいと勝手ながら思います、残念ながら一割にも届きませんでしたが、完熟させてから採取して蒔きたいと思います。一つのサヤに幾粒入っているのでしょう、数えてみたいと思います。そしてどれだけ発芽するものか、調べてみましょう。そういうことを気長にしてれば、大島第二中学校の地域研究発表会(今年は11月16日)に招待されるかもしれません(冗談です)最後の写真は知り合いが愛宕山の土手で撮影した受粉した複数のサヤです。あれだけ多くの花が咲いたのにやはりサヤになった割合は低かったようです。この株はたまたま元気が良い虫にあたったラッキーな花だったのでしょう。先端が白くなった株がアウト三つの花のうちの一つがサヤ黄色っぽく色付き、先端が開いてきます、タネが飛び出さない程度に開いたくらいが収穫時です、逃すと風に飛ばされていなくなってしまいます。愛宕山の土手のホトトギスの受粉したサヤです
2024年11月08日
3連休の真ん中の日曜日です、ずいぶんと連休が増えたように思います。レンタサイクル自転車に乗った若い女性がひとり、何人かで見えた自由時間の中で工房へ「あんこ人形絵付け」に来てくれました。ケーキとコーヒーのセットを注文しながら約一時間で完成しました、椿満開の前垂れを付けた若い女性に完成です、頭に水桶を乗せたやさしい島娘(あんこさん)です、うまいものです。もう一年以上前から「彫って絵付けする2時間コースの体験」は都合により休止させていただきておりますが、絵付け体験(30分から1時間くらい)は、あらかじめ椿の枝を私が彫ってストックしてあるので、その場でイメージに合う原木を選んでもらって出来上がった作品です。
2024年11月03日
ここ数年私が殖やしたいと思っていた自生株の「ホトトギス」はまったく種が実りませんでした。今年初めておしべめしべの場所を確認して絵具の細筆で朝開いたばかりの花に授粉のまねごとをしてみました。昆虫も少し来ていたのでそっちの効果かとも思いますが、何にしても人工的な授粉に初めて挑戦してみたおかげもあろうかと思います。確率としては全体の1割にも届きませんが、大事にしたいと思います。今年の夏は猛暑で半日陰の畑からプランターを工房には連れてこれず、涼しくなって咲き出してから持ってきました。同じ苗をもう一鉢株分けしたと思っているのですが、この鉢は梅雨明けからずっと室内に置いていました。まだようやく花芽が伸びてきたひょっろとした株ですが、うまく花が咲くでしょうか、先端に伸びてきたのが蕾のような気がします。ほとんど種のサヤなしで花が落っこちていますこっちから見ると6本くらいサヤが着いてます、念願の孫のようです、大事にします自分では同じ株分けをしたと思っている「ホトトギス」です、弱々しいですが期待したいと思います。
2024年11月02日
工房の周りに「ホトトギス」が結構咲いていますが、種のさやを見たことがありません。町中で虫が頻繁に来ないのか、山の中ではよく見ました。殖やすとすれば「挿し芽」です、これだとかなりの確率で殖やせます。春に勢いが良い頃【30センチくらいの高さになった頃)に親株を一度地上10センチほどを残して(新芽をいくつか残す)切り取り、芽を3つほど残して苗木としてプランターで育てる方法があります。残った親株は新芽が出る所から枝分かれして育ち花を付けます。しかし毎年それを繰り返していると親株がダメージを受けると思って時々しかやってきませんでした。今年はお気に入りの模様のホトトギスを株分けにして殖やしたい、それに挑戦してみたいと思います。プランターにギュウギュウ詰めに根がいっぱい張っているので、そう思うのですが、根を動かすことで今のバランスが崩れないか、それも心配ではありますが。今日飛んできた虫の撮影に成功しました。子供の時によく見かけたセセリ、イチモンジセセリと名前は知らない蜂のような虫でした。検索で「おしべとめしべ」がどれか分かりましたが、おしべがまだ熟さないせいか硬い塊のままで、粉状にはなっていません、今は虫が来ても受粉とはゆかないような気がします。工房の周りに「ホトトギス」が結構咲いていますが、種のさやを見たことがありません。町中で虫が頻繁に来ないのか、山の中ではよく見ました。殖やすとすれば「挿し芽」です、これだとかなりの確率で殖やせます。春に生育に勢いが良い頃に親株を一度地上10センチほどを残して(新芽をいくつか残す)切り取り、眼を残して苗木としてプランターで育てる方法があります。残った親株は新芽が出る所から枝分かれして育ち花を付けます。しかし毎年それを繰り返していると親株がダメージを受けると思って時々しかやってきませんでした。今年はお気に入りの模様のホトトギスを株分けにしてして殖やしたい、それに挑戦してみたいと思います。プランターにギュウギュウ詰めに根がいっぱい張っているので、そう思うのですが、根を動かすことで今のバランスが崩れないか、それも心配ではありますが。今日飛んできた虫の撮影に成功しました。子供の時によく見かけたセセリ、イチモンジセセリと名前は知らない蜂のような虫でした。検索で「おしべとめしべ」がどれか分かりましたが、おしべがまだ熟さないせいか硬い塊のままで、粉状にはなっていません、今は虫が来ても受粉とはゆかないような気がします。
2024年10月27日
今から13年ほど前のことです。大島に自生している「イズノシマダイモンジソウ」と「ホトトギス」を種や株分けで殖やした精鋭の株を有志を募り、愛宕山の土手に挿し芽で700本移植しました。何分にも世話に手が届かず、面倒もみてやれず、確か1回草取りをしたきりで放任してきました。数日前に、移植した仲間の一人から「ホトトギスが見事に咲いているよ」と連絡をもらったので見てきました。何で愛宕山の土手に植えたかというと、環境(北向きの斜面、少し湿っている)が自生地に近いという理由から場所を選定しました。2年後には100本以上を空きスペースに植えました土手には信じられないほどの群生で見事な「ホトトギスの群生地」が気持ちよさそうに花を咲かせていました。ああ、やってよかったな、という気持ち、自生地と同じような環境の場所を人間が選んで手を貸してやれば、殖える強い自生株だと思っていたことが現地で証明されました。もともと強い株だからいつまでも絶えることなく生存できているのだと思います。移植に成功してことは喜びではありますが、手入れの行き届かない草が伸び放題で、鑑賞には程遠い草だらけの土手を見ると「私たちがやったのよ」とは恥ずかしくて名乗れませんね。ホトトギスは元来が茎が長いのでアザミやシダには負けませんが、同じ土手に植えたイズノシマダイモンジソウはほぼ地面と同じレベルなので一年中草の陰でじっと根を張っていたのでした。草をそっとずらして土手を見ると大株はあまりありませんが、確実に仲間を殖やしていました、植物は鉢植えより露地、強いものです。よく女房殿に言われました、野草は自生地に置いた方が殖えるんじゃないのと。確かに自宅の庭の棚には株数から言うとダイモンジソウは残っていません。女房の言うとおりの現状ですが、元町の役場横の藤井工房(資料館併設)の周りは今がホトトギスが満開真っ盛りです。画像でも見ていただきますが、ぜひとも近くにおいでの時には見ていってください。オマケで言えば大島特有の花びらの斑点が細かくて淡い紫色が一般的ですが、たまたま私が山野で見つけた株は色が濃くて斑点が大きいのと小さいのと、花によって異なる空を向いて作私好みの姿かたちで、今満開です。まだ株数は少ないのですがこういうホトトギスをもっと殖やしてみたいものだと改めて思ったここ数日のことです。ホトトギスの育成の関する情報は「伊豆大島文化情報館・藤井工房」野草のコーナーに掲載してあるのでよかったらのぞいてみてください。(もう7年ほど記事の更新ができておりませんこと)ご承知おきください。11年ほど前に追加で挿し芽を女房殿と2人でしました今年のホトトギスですこんなに群生しています、見事です近くに植えたイズノシマダイモンジも小さいながら健在です、冬に可憐な花が咲きますホトトギスの名前の由来は、鳥のホトトギスの胸の模様と似ているからということからの命名のようです。私は淡い紫色の細かな模様より写真のように模様が大きくて不規則に出る濃い花が好みです。偶然に山の中で見つけて挿し芽で殖やしてきましたが、あまり殖やせていません、花粉を交配させるおしべとめしべがどこにあるのか不勉強で分かりません、もう何年も種をつけていません。
2024年10月25日
昭和44年に作られたと思う(作者不詳)大島観光協会の磯釣り場(海岸地名)の名称の小冊子に掲載されている大島の海岸地名です。この地図と当時お元気だった各地区の物知りから、名前の由来を書き留めたり現地を一緒に歩かれて作られた資料が坂口先生とコマイ先生の地名の冊子で、見比べるとけっこう由来がわかります。資料のファイルをよく見ると坂口先生の資料には改訂版があるようで、より細かな記述がなされています、表紙や年代が分かるものはついていませんでした、どこでもらったものか。
2024年10月23日
この頃は生まれ育った伊豆大島の「なりたち」のようなことに興味を持って調べたりしている。私は基本はインフラ(水と道と交通)を把握することではないかと思っている。身近に知るにはいつも見ている島の海岸についている「名前」とその由来のようなものがわかれば、もっと身近になるだろうと思う。地図には200を越す海岸の名前が記されている、誰がまとめたものだろうか。幸いなことに、どこから入手したものか、もう覚えていないが誰かにもらったいろいろな資料がある。家から5分で行ける「弘法浜」、それは何でそう呼ばれるようになったのか、さすがにいつからとは判断できないが、由来はわかる。信頼度の順位はつけられないが、大島波浮港出身の民俗学者でもある坂口一雄先生の「大島の海岸地名の由来」・石神会コマイイツオ先生の「大島地名」・大島観光協会の「磯釣り場(海岸地名)の名称」・月出くの子著「伊豆大島要覧」(大島はしりのガイドブックのような本で大正3年に出版された)の中にある伊豆大島全図には村の境界、道、海路、山の位置が表示されている、主な地名は表示されているか、由来集ではない。番外で「磯釣りガイド」がある、磯釣りの釣り場の地図に、どっちに何メートル投げれば何が釣れる、そう書かれたもので、若い時にはよくお世話になっていたもの。
2024年10月22日
数日前に「大島で採れたポポー」という果実の」写真を見てもらいました。今日は月に一回、大島に住む絵手紙の先生の教室(今の生徒は3人で女性の大人です)が工房であって、それぞれが描きたい素材を持って集まって来て描いています。その素材の中に「カーツ(あけび)」があって、食べごろの色合いで、一つはもう食べてくれと割れています。自家栽培で収穫された里芋とさつまいもの3点が一つの絵手紙になりました。こうしてはがきに書いて送れる人がうらやましいです。
2024年10月21日
伊豆大島出身の歌舞伎義太夫語りの竹本葵太夫の旧ツイッターの2024,10,13に書き込みがありました。出し物「俊寛」という名作で、島流しにあった話です。もう何度も演じてきたお役のようです。写真は昨年の親睦会の時の写されたものです。葵太夫の書き込み昨日は伊豆諸島の親睦会である東京島嶼郷友連合会ご一行52名様が昼の部をご見物くださった。昨年6月歌舞伎座「吃又/又平住家」についで2回目。有難い事。島育ち·島暮らしの皆様に今回の鬼界ヶ島はお楽しみ頂けたようで良かった。
2024年10月18日
大きい方です、長さが10センチくらい、下が食べごろなつかしく、夢中で食べた果実(熟んでくると甘く良い香りがする)本名かどうか知らないが「ポポー」と言ってた。大島にそんなに出回っていたものではなく、何人かでまとめて買って育てたものだと思う。熟すと地面に落ちるので、木に登る必要はなくてシーズンになると朝見に行ってゲットして食べていた。食感はマンゴーのようか、ちょっと違うか、部屋に置くとよい香りが漂う、そうなれば食べて良しの合図。我が家の両親はどういう訳か、このポポーや梨(ちゃんと剪定していた)ビワ、豚も飼っていた。露地でイチゴを栽培したり、背の高いパンパス(ススキの親分のような風よけ植物)なんか植えていた。何かの記念日の時には上の兄と両親の4人でトランプをすることが楽しみだった。みかんやお菓子を賭けていた。まだ小学生高学年くらいの時の事だから七ならべやババ抜きと思うかもしれないが、中心は「ポーカー」だった。子供から一緒に育ってきた親戚の女性からもらった「ポポー」から子供の頃の自分が思い出された、きっといい時代だったのだと思う。
2024年10月15日
朝晩は大分過ごしやすくなってきました。夏の炎天下で元気に咲いていると元気をもらえる花(色が大事)を大事にしてきました。今年の猛暑でも咲いてくれました。バトンタッチして秋らしい花がもうすぐ家の庭と工房の入口で咲き始めます。暑苦しさよりたくましさを感じる真夏のルドベキア、庭一杯に咲きました。本名は知りませんが、も50年上もっとか、父母の代から畑の隅で咲いてきたタデ科の「あかまんま」水を小まめに上げないとすぐにしおれてきます。去年も咲いた根性持ちの「コスモス」、少しの土があれば根を張ってコンクリと側溝の間でも咲き誇ります。小さな株にして育てたいと思って植木鉢に移植しました、もうすぐ咲きそうです。
2024年10月14日
詩人・作曲家の宮川哲夫を追跡私はこれまで「伊豆大島を訪れた文人墨客の作品や足跡」をずっと調べてきた。大多数が島外から船に乗って大島に見えた方の見聞録のようなものだった。大島出身の文人と言えば2024年8月に亡くなられたジャーナリスト・評論家・ノンフィクション作家の石川好さんがあげられるが、大島を題材とした作品というと少ない。「伊豆大島文学紀行集」の詩歌・小説・紀行記・絵画編の4巻組の中にわずか「南海の稲妻 大和の虹」の中で回想のような一部で登場しているだけであった、その一部は第3巻「紀行記編」に収録してある。紀行記編には違和感もあるが、4部門の中でどれかと言われれば、紀行記編だろう、そう思ってそこに入れた。ふるさとを作品の中に登場させるということは、何か難しいものがありそうな気がしている。洋画家の故中出那智子さんは、「ふるさとには自分のことが充分に知られてしまっていると思うので、なかなか描けないものよ」と言われた、人によってかもしれないが、そんなものかもしれないと思う。もう一人あげるとすれば詩人で作詞家の宮川(みやかわ)哲夫さん、私が18才で高校を出てから28才で島に戻るまでに多くの歌謡曲を耳にしてきた、それはすべて都会センスの歌だったような気がする。松島アキラの「湖愁」がちょっと違いそうだが(余談)。去年2月の大島町郷土芸能祭の特別枠扱いで「宮川哲夫生誕100周年を記念したミニオペラ」が上演された。それから今日までふるさと大島の作品を探してきた。もちろん詩歌のようなものはいくつかあるが、作曲が付けられた作品は「島の娘よ、さようなら」(作曲吉田正・唄山田真二1956年発売)しか知らなかった。今年は没後50周年に当たる年ということで、町田市で記念のイベントもにぎやかに行われている。私は何とかミニオペラの動画編集と今年知人と協力して見つけ出した歌謡曲の「アンコさん」「また来いよ学生さん」「差木地音頭」とを絡めた伊豆大島出身の作詞家宮川哲夫の足跡を残せないものか、そう考えているが、動画の編集が初心者なので、簡単にはできそうもないが、あきらめなければアップすることがいつの日かできるでしょうか。最近の花火は大型で連発でおまけにきれい。自分のSNSの書き込みは昔風のドーンと一発型で続かない、何とか連発にできるようになりたいものだ。
2024年10月13日