カテゴリ:歴史・旅・散策
昨晩、とある番組で、サマザマな意味でたいそう『濃い』細川ガラシャ夫人を拝見申し上げ…。
その番組内容とは別に、最近読んだ本にて知った、意外な真相を思い出しまして候です。 【送料無料】キリシタンの心 昨晩の番組でもたしか(ナガラ観ゆえ、はっきりとは確認しておりませぬが)ガラシャ夫人の夫である細川忠興は、妻のキリスト教熱をよく思っておらず、禁じたがっていた…といった描写になっていた気がするのですが…。 これは、大抵のドラマでも、ほぼ似たような描き方をしておりますゆえ、『細川忠興はキリシタン嫌い』…と単純に思ってしまいがちとなります。 かく申す私めとて、何となくそういう印象を抱いておりましたのですが、実際は、細川忠興が嫌っていたのは『妻が(教会に行きたい!がゆえに)外出したがること』であって、キリスト教そのものではなかったのであります。 秀吉のバテレン追放令がなかったら…あるいは、もう1、2年先の発令だったら、ひょっとして細川忠興、『キリシタン大名』になっていた可能性もあるらしいのです。 なぜならば。 彼がとっっても尊敬する親友・高山右近に、日々、感化されまくっていた(まんまと布教されていた♪)とのことで…。 妻・激!!ラブの忠興サン、家に帰ると必ず「今日、右近どのからこんな話も聞いてしまってのぅ~~♪♪何でもデウス様というのは…」といった感じで、親友との楽しい語らいっぷりを、逐一、話していたらしいのです。 毎日それを聞かされていたガラシャ夫人「あらあら、殿ってば、よっぽど右近様がお好きなのね~☆☆」と思いつつ(たぶん)、次第に、夫が話してくれること以上にキリスト教・教義の深いところが知りたくなり(勉強ズキ♪)、ついに侍女経由で入信…という運びに。 ガラシャ夫人の気持ちを、急速にキリスト教に向かわせた一番の張本人は、夫・細川忠興だった…と申しても過言ではない…といった印象なのであります。 関ヶ原のあとも、忠興は、徳川幕府のキリシタン弾圧が強まる前まで、亡き妻のために領内に聖堂を建てたり、パードレを招聘したりして、精一杯のキリスト教式の追悼をしてあげたそうです。 禁教令が年々厳しくなり、せっかく建てた聖堂を閉鎖せねばならなくなったり、大親友の高山右近が海外(マニラ)に追放されるのを、ただ見送るしかなかったり…。 忠興自身は、ついにはキリシタンにはならなかったものの…。 妻や親友が信仰したキリスト教が、幕府によって徹底的に根絶されてゆく様を、切なく悲しく、けれど『家門』のため、ただ眺めているしかなかったのやも知れませぬな…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年12月30日 07時22分20秒
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