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あの世とこの世の意識の世界

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2010.08.26
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完全真理の講演会に参加している常連の人の大多数が真理の実践がまともに出来ていないことを耕栄さんが指摘することが何度かあったのですが、その多くは真理がうろ覚えだったり漠然と理解してるだけだったり、耕栄さんの成すことの言動を信じて何かと盛り上げる事が実践になるように勘違いしている人がいたりするから・・・(当人は実践しているつもりでも)その実践での実際の気付きが少ないのではないでしょうか・・・

私たちが常に良い悪いで判断しているのだから、日々雑多の生活の中で数えきれいなほどの「良いとこ取り」することで否定反発・自己主張・自己満足をしている事に気付いて当然なのですが、その良いとこ取りの意味さえも理解不足であれば実践がまともに出来る筈もありません。
だから臭い、汚い、暗い、危ないからと否定反発したり、それだから必然以上に快適便利さを追い求めたり、執ように安全を追い求めたり、製品・食品の品質・賞味期限に固守したりして、あれはいけない、これはだめと、一見なんでもないようなことにも良い悪いで判断して「良いとこ取り」をしています。

それも今は良かったことが後に悪いことに変わったりするように、善悪・優劣・損得もその場限りの個人の思いですから、後々の結果がころころと変わってきます。 また長所短所や好き嫌いも同じく逆の場合もあって矛盾することにもなります。

そこで例えば、開放感や静寂さを求めれば不便なところになりますが、その不便さを受け止めれば丸ごと収まります。
だから田舎で暮らそうが街中で暮らそうが、その裏側すべてを受け入れれば問題なく暮らせます。
仕事も同じで、生きるための犠牲として丸ごと受け入れれば仕事やその人間関係に何の問題も無くなります。
すなわち裏側の真実・事実・真意を知れば、その裏側に執着しなくてすむようになるのです。

★だから「良いとこ取り」の表ばかり追求しないで、その裏側も一緒に受け入れれば真実を知ったことにも成るのです。
だからその良かったり悪かったりするその矛盾を確かな実践意識で(裏も表も)味わい知ってしまえば真実を知ったことに等しいから、その現れた結果にいちいち執着しなくなり、その事実・現実をただ見て(その原因となる意識のことを真理で知っているし、お互い様の真実・事実も知っていることから)「成るようになった」と思えるようになります。
・・・だから完全真理を理解して、それを実践して、「気付く」ことが重要なわけです。

また意識で生きているのが人間だから、今の生活を天国に思えば天国に思えます。
しかし不平不満で生きていると面白くない生活になるもの当然ですが、(実践意識が無ければ)(日々雑多の中で忙しくて)その不平不満を自分が持っている事にさえ気付かない人も多いことでしょう・・・

だから真理を実践しているつもりでも実際に実践していないから、仕事や家庭やの人間関係・お互い様のことを(真理を介して)理解できずにいて、ただ否定反発する事が多くなったり、しかもその否定反発している事にさえ気付かないのかもしれません。
・・・私も同様ですから・・・それだけにその不完全さに「気付く」ことも多くあり、それらを事例で書いています。

その不完全な者同士が(同じ穴の中で)一緒に暮らしているのですから、互いの思いの「歯車」が噛合って回ることは殆どありません。
だから人間関係の中に「裏切り」関係があることを真理で説いていますが、お互いの思いが噛合っていないことで起こる裏切りですから「お互い様」の関係になります。
それなのに「裏切られた」と言えば一方的に自分を正当化したことになり、他を「裏切った」悪者扱いにしたこと(正義感)になります。
その事に気が付かなければ起きた事実に私見・思いが入って、妻が裏切った、夫が裏切った、信者が教祖を裏切った、教祖が信者を裏切ったと、互いが言い合い正当化することにもなります。

また「吸殻を捨てた」と事実を言ったことが・・・それが人の悪口・文句を言ったことに思う人がいれば・・・その悪く思った人に善悪の判断が働いたことになり、そして「私は正しい」の意識で自己主張したことになります。
しかも事実だけを言った人に対して(自分の思い・考えを押し付けて)その間違いを諭す真理の言葉を添えてまで述べる人もいますが、それでは未熟な理解のままに「真理ごっこ」をして自己満足しているに等しいことになります。
・・・私も同様ですから・・・人様の事に口出し手出しすることになったり、否定反発することにもなっています。

この世が不完全ですから人間関係も不完全です。 
だから不完全は「お互い様」の関係であることを理解しただけでもだいぶ意識が変わります。
それでも相手方の不完全を一方的に押し付けられればどうしても巻き込まれやすくなり、その分だけ気になります。
・・・ただ私の場合は単身過疎地で暮らしていますから、その分だけ気楽な生活になっています。

その過疎地暮らしを始めたことで気付いたことですが、とにかく否定反発しないこと、そして不必要に「人を巻き込まない」ように気配りしていますし、そうなっても足早に自らが引き下がることにしています。
また不完全な者が大事に思っている<喜怒哀楽や生老病死><常識・伝統・風習・道徳><趣味嗜好娯楽><快適便利>に執着していないことから、完全真理で言うところの自己縮小の実践が大切な事が理解できるのです。

だから自由気ままに生きて、そして守り・闘わないで、欲しがらないで成り行きに任せた生き方をして、それでもって人様を巻き込まないように自立・自力を養い活かして、そして願わくば健康で安らかな死が来れば(大勢の人を巻き込まない孤独死・無縁仏は望むところ)最高の人生だったと(終わり良ければすべて善しで)思い残すことも無くあの世とやらの意識次元の世界に旅立ち還れば、その意識のままに(完全と不完全を知った意識体として)あの世でも安らかな時が過ごせるようです。

すなわち完全真理の実践によって、生まれながらにして持っている不完全意識を完全に無くして「完全意識になることは不可能でも」、その良い悪いで判断した事に気が付く実践意識を持ち続けていたなら、この世の不完全意識とあの世の完全意識の両方・裏表を学び知ることに成った意識体・人間になることができます。





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最終更新日  2010.08.26 11:48:59
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