☆仙人さんの掲示板より☆ -No 1 -

 ・・・不覚にも天空から落ちてしまいました。そこで これ幸いと、安寿と厨子王の物語をお話しようと思います。・・・・・・

 と、「仙人さん」がぴょんこの掲示板に天空より下りて来てくださって「安寿と厨子王」繋がりの貴重なお話をたくさんたくさん聞かせてくださいました。
ところが、悲しいから新しく掲示板が膨らんでくると「過去の掲示板」が削除され貴重なかきっこが消えてしまいました。
 HPにお立ち寄りくださいました多くの皆様のご希望にお答えし、仙人さんが舞い降りて来てくださった10月16日から冬眠された12月6日までのかきっこを
「仙人さんの掲示板より」と題して、こちらのペ-ジでご紹介させていただくことに致しました。

どうぞ、ごゆっくり お楽しみください

        ☆ 仙人さんの掲示板より ☆


アクセス一万回突破! おめでとうございます。すごいことですね。「安寿ロマン海道」はもう売り切れたのか知らん。祝杯を挙げましょう。私はタッチの差で10002でした。前後賞はあるのでしょうか。
 これも、安寿姫塚の魅力はもちろんですが、やはり 美しい!ぴょんこさんの魅力!!によるのでしょう。かく言う私も、ぴょんこさんの魅力にクラクラとなって、不覚にも天空から落ちてしまいました。そこで これ幸いと、安寿と厨子王の物語をお話しようと思います。首も手も横に振ってたって 押しかけちゃうんですから。まぁ 仙人はわがままで気まぐれですから 思いつくままに です。
 安寿が渇え死んだ「渇え坂」は、中山の八幡神社がある小山を越える、小さな峠のことです。よく八雲橋に続く崖の道が紹介されますが、あそこではありません。「坂」というのは、中世の言葉で「峠」のことなのです。昔の旅人は、目的地に行くのに、まっすぐな道を選びました。山があろうがお構いなしなのです。ここでも、もう少し東に回れば低いくぼ地があるのに、中山から下東へまっすぐ山を越えるのです。その途中に村境があります。そこが安寿の亡くなった所と伝えられています。 (10月16日13時54分)

 歓迎していただけて うれしいです。そうなると つい調子に乗るほうでして、お言葉に甘えておしゃべりの続きを。
 「かつえ坂」は漢字で書くと、「渇え」「飢え」の二つがあります。つまり二つの意味を持つ言葉です。もともとは「渇え坂」だったのでしょうね。
 かつえ坂で安寿が死んだ と言うと、「えーっ あんな小さな坂で死ぬわけがないよ。」と思われるかもしれません。私もそう思った。だけどよく考えてみると、そうじゃないのですね。昨日まではお姫様だった人が、今日は下人という奴隷にされて、汐汲みという重労働を強制され、粗末な小屋でろくな食事も与えられず暮らしたらどんなことになるか。 その上厨子王を逃がしたので、三庄太夫やその手下どもに鞭で打たれたり、水をかけられたりと酷い目にあわされた挙句に、逃げ出したのですから、まだ気力はあっても体力の限界だったのでしょう。
 あんな小さな峠すら越えられなかったのです。死んでいくときの安寿の気持ちは、厨子王に一縷の希望を託しながらも、苦しみの中に絶望と悔しさと悲しさと・・・思うだけでも涙が出ます。私も姉を交通事故で亡くしました。その姉の様子と重なって思えるのです。どんなに無念だったか・・・。
 リアルに言うと、姉は死ぬと思って死んだのではありません。生きようとしているうちに事切れたのです。きっと安寿も けなげにも歩こうと懸命にもがき続けていたのでしょう。誰もいない真っ暗な峠道で、もがいてもがいて死んでいったのでしょう。
  (10月18日2時21分)


 安寿姫が亡くなったのは中山と下東の村境、心の臓が下東側にあったので下東の村人が葬ったと、ぴょんさんも書いておられます。この話は、私も何かで読んだのですが思い出せません。まだらボケが始まったようです。                この言い伝えから二つのことが分かります。
 村境の境界線が話題になっていることから、この言い伝えは江戸時代にできたということ。中世には人家のあるところが村で、人家のなくなる所に六地蔵・さえの神が祀られ、村はずれを示す庚申塔が建てられました。つまり村境の境界線はなかったのです。もちろん古代から国・郡・郷の境はありました。しかしそれは庶民の生活の中に生きてはいなかったのです。
 もう一つは、心の臓があった側の村が面倒を見たということは、巡礼などの病人や行き倒れを、村々で処理するルールがあったということ。死人は無縁墓地に葬られ、その費用は村入用から支出されました。出身地には知らせません。巡礼者などは知らせなくともよいという書き付けを持っていたのです。
(10月19日2時28分)

ごめんなさい。昨日「ぴょんこさん」と書くべきところを間違っています。眠くなっていたので、しっかり打っていなかったミスです。くれぐれも人の名前は間違っちゃいけないと、ジッチャンの遺言でしたのに、ごめんなさい。(ピョコリ)
 気を取り直して、道の話です。
 安寿姫が歩いていたのは、京へ向かう道でした。和江から船で由良川を渡り、中山に上がって下東につづく道は京へいく道です。下東の谷に入り、溜池を回って山道にかかります。ぴょんこさんがHPに書いているとおり、この道は松尾寺に向かう巡礼道でもありました。山道を登っていくと追分になり、右へ行くと座尾峠をへて下福井に出ます。座尾というのは「蔵王ざおう」のなまったもので、その辺りで蔵王権現を祀る修験者が庵を結んでいたのでしょう。
 下福井から愛宕さんの山裾をぐるっと回り、七日市を抜けて池内谷に入り、幾津見(きつみ)峠を越えて綾部市の上林谷に抜け、南へ山なみを縫ってって周山街道から京都へ出るのです。鷹ヶ峰を越えたかもしれませんが、これが中世の京道で、厨子王がたどった道です。たぶん。
 中世も近世でも旅人の数はそんなに多くなかったかもしれませんが、それでもこの道はここらのメインストリートだったのです。安寿姫は山奥の人知れぬ谷に葬られたのではありません。厨子王が歩いた京道、厨子王が丹後の国主になって戻ってきた道のほとりで、安寿姫はずーっと見守ってきたのです。安寿姫は立派になった厨子王の凛々しい姿を、草葉の陰から見ることができたのです。よかったね。
(10月20日1時20分)

 ぴょんこさん お返事有り難うございます。
 私の希望を言えば、地元の貴女でも「へぇー」とか「そうだったの」とか、または「ンなわけないよ」とか、思われるんじゃないかと思います。また他の方でも「私のイメージと違うわ」とか「それ違うんじゃない」とか思われているんじゃないかな。
ぜひ皆さん聞かせてください。チャットを楽しみましょう。
 ところで、安寿姫塚が宝篋印塔(ほうきょういんとう)であることはご存知の通りです。少し欠けていますが、保存もよく美しい塔です。これは供養塔だからお墓じゃない、なんて話は学者センセイにお任せしておいて、ダレが何と言おうが安寿姫のお墓です。今年の3月に舞鶴市の指定文化財に選定されました。三庄太夫伝説のよすがとして貴重であるということが、理由の一つです。
 指定されたので昨年の祠修復への補助金が舞鶴市から出ました。立派に修復できたのは、舞鶴市や教育委員会・文化財関係者の助力に負うところ大きいのですが、それも地元の皆さんが長年にわたってお守りしてこられたご努力の賜物です。
 そのご努力は江戸時代にまで遡るわけですが、ぴょんこさんに見せていただいた祠の前に立っている立て札「安寿姫塚の由来」に、「かつえの仏として参詣者が絶えない」と書かれています。「かつえの仏」といえば安寿姫を指すのでしょうが、言葉としては飢え死んだ人すべてをさします。江戸時代には飢饉でたくさんの人が亡くなりました。下東でも死人が出たことでしょう。そういう人をも祀っていたのかなぁと思います。
 長年大事にされてきたので、塚は暗緑色の表面がとても滑らかです。石材は凝灰岩ですが、ジツは実は この石にスゴイ秘密が隠されていたのです。700年をへて明らかになった秘密とはいったい何だったのか? 次号を待て! (引っぱるなぁー) (10月21日0時23分)

 安寿姫塚と呼ばれている宝篋印塔は、白っぽく見えますが暗緑色の安山岩質凝灰岩です。そしてこの石の産地はというと、舞鶴のお隣の福井県は高浜町の日引であるという古川久雄さんの鑑定が出ています。舞鶴の田井の隣の海べりです。古川さんという方は神戸市在住の石造物オタク・・ (コホン) もとい 日本石造物学会の会長さんで、長年にわたって宝篋印塔や五輪塔などの仏塔を研究してこられた方であり、近畿一円はもとより全国の仏塔を訪ね歩いておられる斯界の権威です。         その古川さんは、7年前にある劇的な出会いをされたのです。その相手というのは、長崎県立大村高校の大石一久さん。大石さんも長年長崎県下の石造物を調査してこられた方ですが、300以上もの仏塔が地元で採れない石に刻まれており、それらは洗練された関西様式なのでした。どこの石で、どこで作られたものなのだろうか?ということが、大石さんの長年の謎で、遠く関西に何度も足を運び、福知山に来てようやく同じ石で作られた石造物を発見されたのです。ところが喜びも束の間、福知山でもその産地は分かりませんでした。          がっかりして帰った大石さんに、ある日知らない人から電話が入りました。それが古川さんからで、古川さんは大石さんの論文を読んで、これは日引石だ!と気付かれたのです。相寄る魂というか、二人の石造物オタク・・ (コホンコホン) 石造物研究者のココロザシがニューロンのように結びついて、二人は運命的な出会いをされたのです。そして、堰を切ったように長年の薀蓄を傾けあった二人がたどり着いた結論とは、いったいナンであったのでしょうか? (ジャーン) 日引石が語る驚くべき700年の謎は? 次号につづく。 (引っぱる引っぱる)
(10月22日2時22分)

古川久雄さんと大石一久さんが、日引石について明らかにされた秘密とは、中世の日本海全域にわたる航路の存在の確かな痕跡でした。
 安寿と厨子王が直江の湊でさらわれ、浦々を廻って ついに丹後の由良で 三庄太夫に売られたといっても、それは伝説やお話の世界のことで、確かに実証されていたわけではないのです。
 ところが、日引石製の仏塔が、北は青森県津軽の十三湊(とさみなと)から、南は鹿児島県の坊津まで分布しており、若狭・丹後・丹波・長崎など、分かっただけでも300を遥かに越える数の仏塔が、高浜町の日引で作られて、日本海沿岸の全域に運ばれていたのです。
 石塔に刻まれた年号から、その時期は南北朝から室町時代にかけてだったことが分かっています。安寿姫塚が作られたと推定されている14世紀末、室町時代の初めの時期は、ちょうどその最盛期に当たります。
 日引では、そのころ石塔を大量生産する工場があって、山から切り出した原石をネコで背負い、シュラで降ろし、加工して船に積み込んで運んだ、と考えられます。700年にわたって切り取られた山の採石場は、今では1時間も登らなければならない所にあり、昭和30年ごろ 最後の石工が廃業したという。
 まだまだ解明されなければならないことは多いが、中世日本海航路の存在が証明されたのです。
 なぜ長崎県の対馬・五島列島・平戸に多いかというと、そこを根拠地に朝鮮・中国の浦々を荒らしまわった海賊・倭寇が、略奪してきた仏像などの文物を売りに来て、日引の仏塔を買って帰ったと考えられます。宮津の文殊さんにある高麗の金鼓(きんこ)(重要文化財)もそのようにして運ばれてきたのでしょう。 (10月23日1時16分)

 うちのパソコンちゃんは実に困ったことに気まぐれで、時々サボるのです。持ち主に似ると言うが、まぁ困ったもんだ。とゆーわけで、安寿をめぐるおしゃべりの続き。
 舞鶴にも安寿と厨子王の伝説があります。この言い方ヘンですね。つまり、よそから聞く話ばかりではなく、舞鶴にもオリジナルな伝説があるのです。もちろん大筋は同じですが、聞けばきっと「へぇー」ボタンを押したくなります。どこがって、それは読んでのお楽しみ。(気を持たせるなー)
 江戸時代の末に由良の米屋甚平さんが出版した「山庄太夫略由来」(さんしょうだゆうりゃくゆらい)というものがあって、中身は和江に伝わったお話です。だから舞鶴の伝説。米屋甚平さんは旅館をやっていたので、そのコマーシャルみたいなもんですね。「略」と言うからには本編もあるわけで、どちらも舞鶴市のHPの歴史文化ミュージアムで読むことが出来ます。原文のままでは読めないので、現代表記にして読みやすくします。それから名前は今使われている名前にあわせます。文章そのものはほぼもとのままなので、少しは江戸時代の香りがします。さぁさぁ ちょと違う安寿と厨子王のお話の はじまり はじまりぃー。

「山庄太夫略由来」 1
 そもそも 丹後国加佐郡由良郷、三庄太夫の由来をたずぬるに、人皇六十二代村上天皇の御宇、天暦年中のころとかや。
 この三庄大夫は、丹波国桑田郡川谷村の産なりしが、若年のときより、商いにいれこむ折りから、大雨といえどもこの青木山(和江の三庄太夫の屋敷なり)、流れいずる水の清々たるを見て、さてはこの山奥に金ありと思うて、ついにこの里に住まいす。そのいにしえはこの山より金出でたりとかや。 (10月27日0時56分)

前回 表題に誤植がありました。私は直し方を知らないのです、ぴょんこさん直してください。漢字がたくさん並びますが、どうしても読んでほしいものだけ読みをつけます。あとは眺めといてもらえばいいです。
 
 「山庄太夫略由来」 2
 さてまた 当郷和江村 国分寺普請の節、丹波地頭 大江左衛門時廉(ときかど)の下知として、三庄太夫は器量ある者なれば、、国分寺普請 万事よろしく支配いたすべきむね おおせつけらる。
 それより三庄太夫は 国分寺勧化(かんげ)にことよせ、在々所々の金銀を 思いのままにとり集め、自分のたくわえとなし、七珍万宝 蔵に満つ 大福円満の長者とはなりぬ。(千軒長者とはこのことなり)
 奥州岩城判官政氏 勤番にて都にいたまいしが、あまり おごりに長じたまい、出仕をおこたり、御台所(みだいどころ 奥様)の兄 丹波国大江左衛門時廉 これを讒言(ざんげん)し 申すようは、政氏病気といつわり、まことは謀反(むほん)をくわだつる由 奏したれば、さっそく吟味おおせつけたるところ、申し訳立ちがたく、ついに生害(しょうがい 自殺)におよべり。 (10月27日10時59分)

(ジャーン) ついにトップページに登場! なんていっても ごほうびがもらえるわけでも・・いやいや ぴょんこさんの笑顔が何よりのゴホービです。誤字訂正もやってもらって(トホホ)うれしいです。さて、物語はいよいよ安寿の登場です。

山庄太夫略由来 3
 はや本国・奥州へ 追討使の沙汰(さた 取り計らい)聞こえければ、政氏の御台所・御子厨子王・安寿姫、小姓一人召し連れ、主従四人落ち行きたまい、国郡没収せられたまいしは、うたてかりける次第なり。
 かくて四人の人々は、習わぬ旅の憂き苦労。夜を日についで、逃げ行きたまいしが、日をへて越後国高田城下 扇の橋に着きたまいしに、この所の山岡といいし者、かの従士をたばかりて、御台ならびに厨子王丸・安寿の姫、三人を九助という者に売りぬ。しかるに九助、御台所は佐渡ヶ島へ売り、御兄弟の人々は丹後国三庄太夫に売りぬ。 (10月28日22時54分)

 ねっ ずいぶん話が違っちゃってきたでしょう。それに「略」だから短くて、展開が早い。気がついていますか、ところどころ七五調になっていて、リズミカルな語り口でしょう。 (10月29日22時13分)

 えーん うちのパソコンちゃんは寝たふりしたり、勝手につないじゃったりするんですよ。もーいやっ!

山庄太夫略由来 4
 されば 三庄太夫は、国分寺普請 成就の間に、勤功によって 時廉より 由良の庄・岡田の庄・河守の庄と 合わせて三ヶの庄の 代官となしたまいければ、今は上見ぬ鷲の勢いにて、あまたの家来をせめ使うこと、あたかも獄中の呵責(かしゃく せめさいなむ)にことならず。人みな これを恨まぬはなし。
 されば、厨子王・安寿の姫 両人は、この里へ売られたまいしより、三庄太夫が家来となり、樵(きこり) あるいは耕しなんど、夢にも習わぬ賎(しず いやしい)が手わざ、せめ使いにあいたまいしは、いたわしき有様なり。 (10月29日22時36分)

 物語はたちまちクライマックスです。今夜は少し長めに。

山庄太夫略由来 5
 かくて 大江の時廉の下知として、岩城の余類 生け捕りし者は 恩賞たるべしとの拝聞(はいぶん うわさ)ありければ、二人の人々 ひそかに太夫が屋敷を忍び出でたまい、和江村の国分寺へ逃げ行きて、和尚に向かってのたまいけるは、みずからは女のこと、弟は大切の望みある身にてそうらえば、なにとぞ今しばらくお匿い(かくまい かくすこと)くださるべしと くれぐれ頼み 嘆(なげ)きたまいければ、和尚ねんごろに請あい、それより安寿姫は厨子王丸に向かい、みずからはこれより越後にて別れたる母上のお在りかをたずね、知らせ申すべし。その方はこの所にしばらく忍び、時節待ちて本意をとげたまうべしと、泣く泣く別れたまいしは、おいたわしき有様なり。
 それより安寿姫は、中山村とて 和江村の少し北(ほんとは東南)なる飢え坂という所にて、むなしくなりたまうとかや。今この所を姫路がゆりという。お屍骸は、その隣村下東村の山奥に葬りたてまつる。今この所に塚ありといえども、草木生い茂り 今は名のみぞ残りける。すなわち正月十五日 お忌日なりとかや。 (10月31日0時17分)

 ぴょんこさん おひさしぶりです。(でもないか) お達者でしたか。そうですよね、安寿と厨子王の物語は家族愛の物語でもあるのです。感動するのは、やはり そこです。安寿はほんとに健気です。純な少女の健気さは、悲劇をはらんでいればよけいに、美しいと思います。
 さて 物語はさらに急展開をとげていきます。

山庄太夫略由来 6
 されば 厨子王丸は 和江村国分寺に忍びたまううち、ほどなく 伯父時廉の悪逆 露見しければ、時廉 自害し、家滅亡におよびけるとなん。
 それより、和江村の住人佐藤関内という者 厨子王丸のお供して 都をさして急ぎ上りしが、丹波国大江坂といえる所にて、先年扇の橋にて別れたる 岩城の家臣にめぐり合い 喜ぶこと限りなし。
 すなわち かの士 君に向いて申しけるは、このたび 伯父君時廉公 悪逆露見し、岩城判官 罪なきこと明白にあらわれ、岩城の余類 これあるにおいては、早々参内いたすべしとの高札 所々にこれありそうらえば、御本領をたまわること 疑いなし。片時も早く 都へお供せんと、関内に一礼をのべ、両人はお供にて すなわち厨子王丸 参内したまいしかば、父の本領 奥州五十四郡に 丹後をそえて下したまわりける。
 御母君は、佐渡が島にて、むなしくなりたまうとかや。 (10月31日10時44分)

 あっ忘れてた。今日は何やかやあって、今になっちゃった。物語は締めくくりです。

山庄太夫略由来 7
 ここにおいて、三庄太夫は 眷族(けんぞく)残らず御仕置あり。また 和江村の佐藤関内をはじめ、忍ばせたまううち ご介抱(かいほう)申したてまつりたる人々六人へ、いろいろご褒美・お墨付きなど たまわりけるとなん。近代まで みなみな持ち伝えけるが、中古焼失し、あるいは盗賊に奪われなんどして、今はなしといえども、子孫は今に歴然と栄えけり。
 国分寺和尚へも、それぞれ恩賞ありけるとなり。
 まことにめでたかりし世の中の、話のはしばし取り集め、記すものならん。        (11月2日2時23分)

 かめかめさん・DOZIKOさん、ご参入ありがとうございます。(ホストみたいな口きくんじゃないよ) 不肖わたくし 知っていることは何でも知っているんですが、私の辞書に書いてないこともございまして、えーっ この案件につきましては ご案内のとーり あくまでも前向きに善処してまいりたいと、かように存ずる次第であります。
 というわけで、「略由来」はコマーシャルですから、最後に名所案内がついています。

山庄太夫略由来 8
     旧跡
一、柴勧進(しばかんじん)  七曲り峠にあり。 この所にて、厨子王丸 柴勧進をしたまいしとい う。すなわち 道筋なり。
一、首引き松  七曲り峠にあり。三庄太夫 この 所にて お仕置ありけるとなり。すなわち 道筋 なり。
一、由良村より半道ばかり上(かみ)に、三庄太夫 屋敷跡あり。その前なる川の中に 一つの島あ  り。すなわち 太夫が邸跡なり。
一、護国山国分寺屋敷  和江村の奥にあり。三庄 太夫 これを焼失せしことは、人皇六十二代村上 天皇の御宇 天暦年中とかや。今 ここに毘沙門 堂あり。
一、北野御膳(ごぜ)宮  由良村にあり。すなわ ち 安寿姫 勧請(かんじょう)したる宮なり。
一、安寿姫塚  下東村にあり。道より四五丁より なり。 (11月3日0時18分)

 ようやく全編の最後にたどりつきました。でも その前に、糸井文庫について。DOZIKOさんの要をえた紹介につけくわえると、糸井文庫の歴史分は舞鶴西図書館にマイクロフィルムがあり、いつでもマイクロリーダーで読むことができます。また、物語・浮世絵分は、前にも書いたように舞鶴市のHPの歴史文化ミュージアムに収められていますから、これもいつでも閲覧できます。便利になったものです。舞鶴市はけっこう頑張っているんです。

山庄太夫略由来 9   (「旧跡」のつづき)
一、鹿原山金剛院  平城天皇御太子真如親王 開基。再建 鳥羽院女后 美福門院。御奉行平朝臣忠盛。この寺に厨子王身代わりの地蔵あり。肩に焼き金の痕あり。本尊は不動明王。相応和尚の作なり。その他宝物あまたあり。田辺より三里あまり。道より五六町よりなり。
一、和江村  厨子王丸お墨付 拝領の人々、佐藤氏、井島氏、山上氏、古森氏、加藤氏、丈島氏。以上 六軒。
           丹後由良庄 米屋甚平

 これで全部です。読んでみられたご感想はいかがですか。ぜひ 聞かせてください。
 さて 次回からは、かめかめさん・DOZIKOさんの書いておられることに触れたいと思います。ナニがナニしてなんとやら、ちょっとヤヤコシイ話になるかもしれませんが、「へぇー」ボタンを押したくなるはずです。(ほんまかいな) (11月4日2時35分)

 辻さん よくいらっしゃいました。ぴょんこさんが寝ているようなので、代わりにご挨拶を。
 そうなんですよね。説経節はまさに家族愛のものがたりです。また、おいおいお話しましょう。
 瑞光寺の楠さんのお話が話題になっていますが、ジツはわたくし今日お話を伺ってきました。どういうことを話されたかと言いますと・・。
 天正十年、一色義俊(義有? 五郎)が宮津城外米田屋敷で謀殺された後、弓ノ木城にたてこもった一色勢は、稲富祐直などの奮闘でなかなか落ちなかった。そこで二歳の嫡男一色五郎(一色家は代々跡継ぎを五郎と名づける)の継承と奥方の助命を条件に開城となった。(『宮津市史』) 
 ここからが住職さんのお話なのですが、嫡男五郎とその姉は舞鶴につれてこられて、五郎は竜勝寺へ、姉は瑞光寺に預けられました。そこで私は「竜勝寺は一色家の菩提寺だから分かるのですが、姉はなぜ瑞光寺に預けられたのですか?」とお尋ねすると、老僧もご一緒に「瑞光寺初代の明誓の妻は幽斎の妹だから、五郎の姉は姪にあたるからですよ。」と明快に答えていただきました。五郎姉弟の母もまた幽斎の娘だからです。
 あれっ 安寿と厨子王の話はどうなったの?って、話はまだまだ先があるのです。
 幽斎の娘伊也は天正九年五月に嫁したと綿考輯録にあります。すると天正十年九月まで一年四ヶ月しかありません。それで二歳の五郎と姉がいたとはどういうことでしょう。まぁここは、二卵性双生児で、女の子の方が先に出生したと考えておいてください。当時は数え年ですから、年が変われば二歳です。 (11月5日0時52分)

 昨日わたくしチメーテキな間違いをしていました。十月十日(とつきとうか)を足し忘れていたのです。天正九年五月に十ヶ月足すと、ン? 生まれたのは年を越してしまう。つまりこれは縁起譚なのです。
 そんなわけで、瑞光寺に預けられたお姫様はどうなったのでしょうか? 大切に育てられ、スクスクと大きくなったのでしょう。寺伝によれば、下東の首塚によくお参りをして一色諸士の菩提を弔っていたそうです。そして得度したと、一色系図に書いてあるそうです。今ちょっと確かめられませんが、お姫様の名前も書いてあったとか。しかし、その後の消息は一向に分かりません。
 それでも瑞光寺には、そのお姫様の念持佛だという誕生釈迦像が伝わっています。20センチほどの小さいものですが、とても変わっています。右手を上に左手を下に下げているのは同じですが、その手は握ったまま。体全体がとても細く、足の間がひどく開いています。選挙候補者の襷ぐらいの布を左肩から右斜め下にかけ、お腹の前で結んであります。下ばきは畳み目のようなものがつき、短パンのように短い。足許は蓮の花の上に立っています。作りは稚拙ではなく、気品さえ感じられます。なんだかインド風と思うのですが、分かりません。
 このお姫様、実は厨子王の子孫なんです、というお話は、また明日。
 ぴょんこさんは、また寝てるのかなぁ。タヌキ寝入りだったりして。(ペチッ!) ウサギだけに、時々昼寝をします、お後がよろしいようで。(えっぴょんこさんて うさぎなの?) (11月5日22時51分)

 かめかめさん お待たせしています。話の種は竜勝寺縁起にあるのですが、実はまだ見ていません。先日伺ったのですが、お留守で境内だけ見てきました。
 そこでモンダイ外なのですが、瑞光寺話の続きです。ここの門は幽斎から田辺城の門をもらったということですが、移したのは京極時代に下がるでしょう。古ぼけていますが、400年前の幽斎の時代がしのばれる堂々たる門です。この門を整備して晋山式を挙げるというのが楠さんのご希望です。
 この寺に堀があったと旧語集にあり、「寺内町」でもないのになぜ?と疑問でした。お話しすると楠さんは、明治5年の境内図を出してこられました。1間半の堀が正面を除く三方をぐるりと守っています。宮津口からの道は裏門に突き当たり、新町の方ではなく、海側を回ります。堀の内側 境内西端には土居が三分の二ほど残っています。つまりこの寺は由良川方面から侵入する敵を迎えうつ砦だったのです。城下町を繁盛させるために、商人・水夫・職人が信心する浄土真宗を誘致したことといい、幽斎さんはダテに瑞光寺を建てた訳ではないようです。楠さんのご案内で、年来の疑問が氷解しました。 (11月6日23時59分)

 モンダイ外の商店街あたりをうろうろしていますが、今日は交通整理です。「さんせう太夫」・安寿と厨子王のものがたりは、全国にたくさんあります。糸井文庫だけで45冊挙げられています。これらのものをどのように整理したらよいかということが今日のテーマです。交通整理ができれば、内容の理解も確かなものになります。
 私は時期ごとに三つにわけ、それぞれの特徴を考えてみました。
 第一期は、平安時代から江戸時代の初めまでです。この時期、安寿と厨子王、さんせう太夫の話は、一ないし数個のモチーフによって構成される短い話です。後のものがたりに比べると、断片的だし、長いつながりはありません。
 たとえば、高浜町日引にこんな話がつたわっています。そう あの石の日引です。
   仏礁(ほとけぐり)
 むかし丹後由良の海賊山荘太夫が、正楽寺のご本尊・聖観音のお像を盗み出し、船に乗せて持ち去ろうとして海上に漕ぎ出した。しかし夜通し漕いであくる朝になっても、日引の浜を離れることができなかったので恐ろしくなり、仏様を岩の上に投げ捨てて逃げ去った。その礁を村人たちは「仏礁」と名づけた。
 これだけの話で、安寿はかけらも出てきません。しかし、山荘太夫が海賊だという話はここだけで他にありません。それだけ貴重で、三庄太夫伝説の面白いバリエーションです。海賊という言葉は中世の特徴ある呼び方で、三庄太夫の特徴をよく物語っているかもしれません。
 この時期はこういう短い話がたくさん各地に生まれ、次第に繋がっていって、長い複雑な話に成長していく時期なのです。そして、ついには説経節「さんせう太夫」へと完成されていくのです。
(11月8日1時40分

 第2の時期は、江戸時代初めから大正2年までです。つまり、説経節「さんせう太夫」が大ヒットして世の人気を博してから、森鴎外の「山椒太夫」が現れる前まで。
この時期は、長い複雑な物語「さんせう太夫」が国民に受け入れられ、浸透していくとともに、それを踏まえた改作、バリエーションがたくさんあらわれる時期です。
 前にDOZIKOさんが書いていらしたように、「由良湊千軒長者」はおさんが酉娘という趣向が大うけします。「山庄太夫略由来」はどうもこの話を大筋で真似、しかも枝葉を落として作ったように思います。DOZIKOさんはどのようにお考えですか? 先に見た「略由来」のように、大筋は同じながら、違った趣向を盛り込んだ「さんせう太夫」話がたくさんあらわれます。
 糸井文庫の諸作品は、この時期のものがほとんどです。
 第3の時期は、森鴎外の「山椒太夫」がベストセラーのロングセラーになって、他の物語を駆逐してしまい、「山椒太夫」が映画や歌舞伎・芝居などに繰り返し作られる時期です。
 現在は一応第3期ですが、少し様子が変わってきました。第4期にはいったのかもしれません。相変わらず「山椒太夫」の人気は高いのですが、中西和久さんの一人芝居「山椒大夫考」のような説経節「さんせう太夫」を復活させる動きが多くの支持を集めだしたのです。 (11月9日0時10分)

 中西和久さんの一人芝居「山椒大夫考」は、99年11月7日の夜、宮津会館で上演されました。もう4年前になるのですね。入場者800人でしたっけ、とにかく大入り満員で大成功を収めたのでした。舞鶴からもたくさんの方が観に行きました。本家本元の舞鶴で、是非見たいものです。
 そのストーリーは私の記憶から消失しているのですが、確か中世的な香りは残しながら、思い切った省略がしてありました。祭文・瞽女風の語りを交えながら説経節語りで、劇的に盛り上げていきます。
 大筋で説経節「さんせう太夫」と同じなのですが、違う点は説経節のように地蔵菩薩の霊験譚-苦しみを代わりに受けてくれるお地蔵様をたたえる-に終わらせないこと。お地蔵様のお蔭は受けるのですが、あくまでも人間の奮闘物語になっています。
 この点、鴎外の「山椒太夫」も、お地蔵様への信仰によって安寿は、厨子王とともに生きると信ずることで、自己を犠牲にする転生譚になっています。肝心なところが信仰に吸い取られる点で同じなのです。
 「山椒大夫考」はそうではなくて人間の物語です。私は信仰や宗教を否定してるんではないのですよ。吸い取られるのは嫌なんです。神仏のご加護のもとで、神仏に助けられもしながら、やはり人間の奮闘物語が、私は好きです。
 だから鴎外の「山椒太夫」で安寿が入水自殺するのはゼッタイ得心いきません。安寿が自殺するはずないじゃないか! 安寿はお姫様であっても、たくましい中世の女です。責め殺されるか、飢え死ぬか、いずれにせよ、安寿は生き続けようとしたのです。生きようとして途中で断たれた、だから哀切なのです。 (11月10日0時30分)

 私のパソコンは調子が悪く、一度書いたのですが、消えてしまいました。(トホホ) また いつ消えることやら・・・。
 糸井文庫について、もうひとつ。舞鶴市が出している「ふるさと舞タウン」第9号は糸井文庫特集、きれいな写真をいっぱい使って紹介しています。舞鶴市郷土資料館でもらえます。(無料)
 その9号に、中西和久さんの対談が載っており、生の声を読むことができます。そこで彼が語っているポイントは、説経節「さんせう太夫」を語り継いだ人たちが伝えたかったことは、「つらいことばかりではない。いきよ。」ということだったと。
 説経節でそのテーマを語るのは小萩です。三庄太夫にこき使われて、あまりのつらさに二人は浜で死のうとします。そこを同じ下人仲間の伊勢の小萩に「命を庇(たば)え、姉弟よ。」(庇え=守れ)と、こんこんとはげまされます。小萩の激励に力を得た二人は、過酷な運命に正面から立ち向かい、厨子王は逃げのび、安寿は責め殺されます。
 「いのちをたばえ、きょうだいよ。」 小萩の声は、現代に生きる私たちをも限りなくはげましてくれます。
 小萩がはげますシーンは、説経節「さんせう太夫」の肝心なポイントであり、物語はそこから急展開をとげていきます。鴎外の「山椒太夫」にはこのシーンはなく、安寿は自殺します。
 女が男にすがって生きるしかなかった時代には、途方にくれれば自殺するしかなかったかもしれません。鴎外が生きた時代はそうでした。
 しかし、中世は「わわしい(かしましい)女」の時代でした。小萩のように自分の足でしっかり歩いている女も多かったのです。幼いお姫様だった安寿も、自分の意志で生きようとできたのです。
 現代はというと、すでに「女の時代」になって久しい。(はぁー。[注-溜め息]) 
 鴎外の「山椒太夫」は、たしかに名作です。… (11月11日0時51分)

 やっぱり 尻切れトンボになりました。(トホホ)
切れた尻尾
 ・・しかしながら、そこに描かれた安寿像は、もはや共感をえられなくなりました。
 中西和久さんが語る安寿は、幼いながら健気にも困難に立ち向かう少女です。ナウシカや五月・千尋と同じイメージの少女なのです。 (11月11日1時2分)

私のパソコンは、ついにオーナーの言うことを聞かなくなりました。(ゲコクジ
ョウじゃぁ!)
 そこで頼もしくて可愛い(順番が逆か)ニンフちゃんに助けてもらうことにし
ました。

 11日に若狭の国は高浜へ行ってきました。日置を左折して、三松のトンネル
をぬけると右手に小さな岩山が見えてきます。そこに安寿と厨子王の銅像が建っ
ています。旅のいでたちで、童画風の可愛い顔立ち、なぜか西を見上げています。
 その横に立て札があり、「安寿と厨子王が人買いにさらわれて、丹後に向う途
中時化(しけ)にあい、この難波江の岩洞で、藁を被(かぶ)って幼い二人が抱
き合って、悲涙の一夜を明かした。」と書いてあります。
 ところが高浜町企画ナントカ課に問い合わせると、当時の担当者が言い伝えも
何もないという。(ナンジャラホイ) 
よっぽど予算がたくさんあるんですねぇ、高浜町
は。どこかの城門みたいにもっともらしいが中身はないということらしい。
 そのあと、ニンフちゃんと一緒に竜勝寺に行ったのですが、大切にしまいすぎ
て縁起書が見つからない。またまた骨折り損の一日でした。 (11月12日17時31分)

仙人さんの文章を、私のパソコンから書き込みした
ところ、改行を間違えて、変になってしまって
すみません~m(__)m反省。 (11月12日17時35分)

やれ うれしや。何とか繋がってます。鬼の目を盗んで、明日の分を。

 それでも森鴎外の「山椒太夫」の人気が衰えない理由の一つは、そのエンディングにあります。私は「山椒太夫」でもっとも感動したところは?と聞かれれば、ためらわずに厨子王が母と再会する最後の場面をあげます。なんど読んでもウルウルきてしまうのです。
 これ実は鴎外もそうだったらしく、「山椒太夫」を書く前に、この場面だけの短編を考えていたらしい。説経節の「厨子王恋しや、ほうやれ、安寿の姫恋しやな。うわたき恋しや、ほうやれ。」とあるところに感銘を受けたらしい。
 実はジツはあの柳田国男も、浄瑠璃の「あんじゅこひしや ほほらほい、つし王こひしや ほほらほい」 この唄を聴いて、幼いわれわれはしばしば泣いた、と書いている。
 「山椒太夫」では、「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。鳥も生(しょう)あるものなれば、とうとう(早く)逃げよ、追わずとも。」 さすがに最も感動を呼ぶ仕上がりになっている。
 ここを読むとき、私たちは子どもになって、お母さんが呼んでくれているような懐かしさをおぼえ、盲目になった母が貧しい生活の中を生き抜いて、なおも私たちを忘れずにいてくれることが、限りなくうれしく、哀れに思うのでしょう。
 小学校の教科書に「しいちゃんの影送り」という戦時の生活を描いた童話があって、私は子どもが読んでいるのを横で聞くたびに涙が止まらなくなって困りました。
 「さんせう太夫」が家族の物語だという場合、もっとも大事なポイントです。
(11月13日0時45分)


 私のパソコンは一向に言うことを聞いてくれません。インタ-ネットとの接続が悪く、メ-ルは何とか繋がるのですが、インタ-ネットは何十分も挫折の連続です。
スリルとサスペンスに満ちた、手に汗握りながらでは書くのも落ち着かないので (*^_^*)さんに代わりをお願いしました。

 さてそれでは、中西さんの「山椒大夫考」の大団円はどうなっていたか?これが情けないことにゼンゼンご記憶にございません。そこで、案内パンフを写します。
 母のゆくえを追って佐渡に渡った厨子王の耳に、目を泣きつぶした老女のかすかな唄声が届きます。「安寿恋しや ほうやれほう 厨子王恋しや ほうやれほう」
 物語をずぅーっと聞いてきてここへくると、話の筋は分かっているのにやはり、涙があふれてくるのを抑えられません。鴎外が一幕ものを作らなかったのは、長い物語の厚みがなければ感動はないことを悟ったからでしょう。
 家族の絆は生活を共にすることから生まれてきます。情けを通わせること少ない、単なる同居のような家族では、お互いをいとおしむ気持ちは生まれてこないに違いありません。泣いたり笑ったり喧嘩したり、お互いを真剣に大切にしあいたいと、つくづく思います。
 公演を聞いて感動して帰る道すがら、あらためて家族を大切に思う気持ちがわいてきます。
(11月15日9時3分)
 雲騰眠竜(うんとうみんりゅう)=雲にかけあがる眠れるドラゴン (ナンノコッチャ)。これお坊さんの名前。ほんとです。誰かというと舞鶴市紺屋町にある曹洞宗 中本山は桂林寺の27代目の住職を務めたエライお坊さん。1837(天保八)年になくなりました。
 この方が「山庄太夫略由来」を書いたのではないかと、私はにらんでいるのです。
 理由1-彼は大宮町の妙性寺にいたとき、小野小町伝説を記した縁起を書いているのです。つまり文学的関心が高い。だから手口 もとい 筆法が同じ。
 理由2-「略由来」は、和江の言い伝えを由良で出版したものです。彼は由良の松原寺と和江の仏心寺と両方の住職を務めました。つまり土地勘 もとい 地縁があ
る。
 理由3-著名な歴史学者林屋辰三郎は、「略由来」が天保年間以降に書かれたと推定している。アリバイがない もとい 亡くなったころを含んでいるわけです。
 というわけで、犯人は もとい 筆者は眠竜さんではないかと。 WANTED!
 この顔見たら110番
(11月16日23時34分)

 なんという奇跡! 神は我を見捨てたまわず。カキコができる!

 「丹後国田辺図」という絵図があります。享保12年に写したと書いてあるから、1727年 およそ300年前、江戸時代中期です。わりと保存が良く、いっぱい書き込みがありますが、ほとんど読めます。その中に安寿と厨子王ものがたりのことが3ヶ所に出てきます。前にDOZIKOさんが書いておられましたね。

1 瑞雲山龍性寺へ弐里半 此寺に山升大夫法名俗名の位牌有
2 油良か嶺  麓にあんしゅの姫つし王姉弟水盃の清水有
3 長尾峠  麓につし王丸柴くわん進の跡有 今に所の者行来に柴を手向る 山升大夫鋸引にをこなはれたる跡 印に松三本有 三かい程の大木也

 送り仮名を補いながらゆっくり読めば、だいたい分かると思います。姫塚のことは書いてありませんが、当時の言い伝えがよくわかります。
 この絵図は、今舞鶴市郷土資料館に展示されています。所有者の杉本隆司さんが快くお貸しいただいたので、会場の一番目にとまる所に大きく展示してあります。今回の絵図展は、成長する展示です。展示資料が増えたり、説明が増補されたり、誤りが訂正されたり・・ 資料館スタッフが少しでもいい展示になるようにイッショウケンメイなのです。 (11月17日11時57分)
田井の海臨寺に行っていました。日引石の古川久雄さんに初めてお会いしました。
「斯界の碩学」という言葉とはほど遠い、笑顔を絶やさない丸ぽちゃのオニイサン(失礼!)でした。お話しすると、石造物オタク(シツレイ)には違いありません
が、歴史研究者としての姿勢がはっきりしたホネのある方でした。
 学術論文「安寿姫塚宝篋印塔」をいただきました。行き届いた説得力のある論文でした。(ホントにわかったのかどうか?)  
 ひとつ興味深かったのは、塔の下に丸石を集めた塚状の遺構があったのではないか、という指摘です。つまりなんらかの形の塚があったのではないか。そうであれ
ば、塔なのに安寿姫塚と呼ばれた訳が分かります。
 もう一点、基礎に穴が開いていて、ふた石がある、後から後から骨を入れたのではないか? だからたとえば、飢饉でなくなった人の骨を後から入れ続けた、という推理もできるのです。
 この論文をぴょんこさんに差し上げようと思います。
(11月18日19時24分)

 私のパソコンの手なずけ方が分かりました。要は根気よく相手に合わせて付き合うことです。(次郎と同じ?) そうすれば愛情をもって応えてくれます。(なぁーんちゃって。 フルイ!)

 舞鶴市東部の志楽で、応永元年記銘の十三仏笠塔婆の調査をした後、日引へ行きました。山の稜線・谷底とかなりのアップダウンを繰り返して、はるばると30分、空は快晴、緑の中を、立ちションなんぞしちゃったりして、気持ちイィーッ。(ナニが?) 
 日引は間人を小さくしたような、急斜面に家が建ち並ぶ小さな港でした。そこらじゅうに石垣があって、それがゼンブ日引石。(当たり前か) 私は外洋に面していると思っていたのですが、向かいに音海が見える内湾でした。そうか、舞鶴市境との間に、まだ上瀬があったのでした。
 まず 正楽寺へ行きましたが、仏像マニアの住職さんは(コラコラ だれでもかれでもマニアにするんじゃないの! だって私も古文書マニアだもん。お仲間よ。)出かけたとこで、上品なおばあさんが申し訳なさそうに応対していただきました。いえいえ 勝手なときに来たんですから。その後境内にある宝篋印塔を見ました。だいぶ風化していますが立派なものです。鐘楼に寄って鐘銘を見ようと見上げたとき、ジージーと機械音がして、いきなり鐘が鳴りました。カァーン。誰もいません。自動鐘突き装置なのでした。びっくりしたなぁ。
 藤原又次さんにお会いしました。石取場の山を尋ねると、上の谷の方を指差して。30分ほど歩いた奥だとのこと。普通の修羅は幅1尺・長さ3尺で、ものによって大きいものを作るとのこと。笑顔の人懐こい篤懇な方です。また仲間と一緒にまいります、とお約束して別れました。 
 村を歩くと、いかにも古様な気比神社の杜がありました。港では広い拡張工事をしています。
 波音を聞きながら急坂を駆け上って、安寿姫塚の生まれ故郷… (11月19日12時2分)

を後にしました。
 あっ 仏グリを見てこなかった。 (11月19日12時8分)

「丹後国田辺図」の建部山の絵の所に、「たけへ山 こふしとも言う」と書いてあります。今は「たてべさん」と言いますが、当時は「たけべさん」と言ったのです。南北朝時代の古文書に「竹辺城」とありますから、古くは「たけべさん」と呼んでいたのでしょう。用字に引きずられて変わったのですね。
 また、当時からこぶしは咲いていて、土地の人がこぶしと呼ぶので、この筆者は「こぶしじゃないんだけれどなぁ」と思いながら、土地の人は「こぶしとも言う」としたのでしょう。貴重なのは、この筆者がこぶしを見て書いていることです。きっと春の下東(川筋)を歩いたに違いありません。
 最近 本合達雄写真集『光彩舞鶴』が出版されました。地元生まれの私でも見たこともない美しい風景の数々ですが、残念なことに、建部山は3枚、こぶしの建部山はなく、いずれも東側からです。 (11月20日23時19分)


「丹後国田辺図」と同じころ、享保16年1731の『町在旧記』に「大舟峠 建部山の麓。妙見権現の社あり。本地は奥州岩城判官政氏娘 安寿姫なりという。石塔あり。」と書いてあります。ここに石塔がでてきます。地元の記録では一番古い。
本地とは、もともとほんとうの仏・菩薩をいいます。妙見さんは、ほんとうは安寿姫だというのです。浜田正憲の『旧語集』(享和元年1801)に、「妙見権現 社地に安寿姫石塔あり。大舟峠より、北の道を行く山際にあり。」「下福井村と喜多村の間にある山を建部山という。これを田辺富士山といいならわす。高山なり。八分目に小池あり。雨強き時は水谷へ流れ、滝を見るがごとし。」
ここに田辺富士山が出てきます。「富士」と呼ぶ言い方は、宝永七年1709の「田辺府志」が文献初出です。桂林寺の高僧霊重(れいじゅう)和尚が書いたものですが、旅が盛んになって、名所に見立てて楽しむことが広まってきたのです。
(11月22日22時11分)

 漢詩をたしなむ人たちの間で、建部山は小芙蓉と呼ばれています。富士山のことを芙蓉峰というからです。野田笛浦は「小芙蓉霽(晴る)雪」を九景にあげ、妙法寺の額には「小芙蓉晴雪」とあって、小芙蓉に「たてべやま」と振り仮名がつけられています。このころ「たてべ」に呼び方が変わったのでしょうか。大津の俳人五来申斎が、舞鶴西湾を九景ヶ浦と名づけたときも、「建部晴雪」をあげていますから、雪の晴れ間の建部山は詩人の目に美しく映ったのでしょう。
 杉本剛斎は「武部落照」を掲げ、桂林寺の霊重方丈は「建部松雪」と題して七言絶句を作り、さらに和歌を詠んでいます。
  誰見ても富士とやいわん建部やま
        みどりの森にかかるしら雪
 霊重は長文の「建部山賦」「同詩」(「田辺府志」)を作っていますから、建部山がよほど好きだったのでしょうが、和歌は下手です。まぁ本人も「和歌はその道しらざれども、またおかしき言の葉も一興たらんことをおもひて」と恥ずかしそうにしているので、これ以上言いますまい。
(11月22日22時13分)




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