5364333 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ロマンチック中年男の独り言 DVDレビュー、収集物、趣味全般、日々想うこと

全14件 (14件中 1-10件目)

1 2 >

地元の思い出

2019年09月25日
XML
テーマ:友達(256)
カテゴリ:地元の思い出
アニメファンなら誰でも知ってる大御所声優のことではありません。そういう期待をして見てくださった方たちには大変申し訳ありませんが、中学の頃同級生だった神谷くんのことです。はま寿司のナレーションを大御所声優様が担当していたので思い出しました。
私が中学の頃の御大はカッコいい二枚目という印象でしたが、さすがに70歳を超えた現在は立派なオッサン(ジジイ?)です(苦笑)。

現在も第一線で活躍する御大ですが、当時から『勇者ライディーン』『惑星ロボ ダンガードA』などの主役声優として活躍していました。
神谷明 ウィキペディア


「神谷」も「明」もありふれた名前なので、同姓同名がいてもさして珍しいことじゃないと思います。

神谷くんとは中学校のときから付き合いがはじまりました。当時から声優神谷明は人気アニメで活躍していて多くの子供が知る名前だったので、自己紹介をする彼の名前を聞いて誰もが「あっ」という反応をしていました。

彼はそんな反応に辟易していたのか名前のことを話題にすると嫌な顔をしました。しかし彼はマンガが上手でした。小学校のときにノートに落書きのようなマンガを書いた経験のあった私は、プロはだしの見事なマンガを見せられて唖然とした記憶があります。そんな彼が「神谷明」という名前を意識していたことは間違いないと思います。

同じ高校に入ったので付き合いは続きました。神谷くんは細面のシュッとした感じでカッコいい部類でしたが、どちらかと言うと内向的だったので男女交際はしてなかったようです。高校は1年次から理系文系に分かれており、神谷くんの理系クラスは45人中数人しか女子がいなかったので、よけいに女子とは縁が無かったのかもしれません。

関連ブログ
半田東高校のこと(おバカの受難) 2007年11月07日

今なら引きこもりになってもおかしくないようなおとなしい性格でしたが(苦笑)、当時「引きこもり」という言葉はなかったですし、イジメも表立って無かったようなので無事高校を卒業したようです。

それに彼は家庭の事情があったようです。詳しいことは知りませんが、高校に入った彼は半田市亀崎町(乙川町だったかも)から隣の碧南市に移っていました。半田市の亀崎町は古くから黒酢の産地として有名で、黒塗り板壁の倉庫のような建物が立ち並んでいましたが、碧南市の家もそんな感じの昔の古い商家でした。貧乏人の息子だった私は、明治か大正時代らしい建物の広さにまた唖然とした記憶があります(おばあさんの家だったのかも)。

そこで彼は家族から離れて居候というか間借りしていたようです。そのとき見せてもらったマンガは中学の頃よりも上達していました。

高校を卒業して彼はまた別の家にいました。碧南市を含めた愛知県の三河地方は当時からうなぎの養殖がさかんで(隣の静岡県浜松市がうなぎで有名だから?)、彼の新しい家ではうなぎを養殖していました。その時は家族と一緒に暮らしていたようです。

テレビなんかでよく見る、真っ黒でヌルヌルしたうなぎの大群が餌に群がる異様な光景を直接見て私は唖然としました(汗笑)。

そこで彼はホンダZの中古車に乗っていました。Zはホンダの軽自動車でもスポーティなイメージがありますが、ウィキをみると初代Zは1974年に生産を終わっているので、高校を出たばかりの彼は10年落ちの安い車を手に入れたのでしょう。
新製品 “HONDA Z”のご案内 1970年09月02日 ホンダ公式サイト


2浪の年にサンケイ新聞奨学生に応募して上阪した私は、それまでのつきあいをほとんど断ってしまったので、神谷くんがその後どうなったのかわかりません。漫画家になったという話は聞きません(出身者#愛知県立半田東高等学校 ウィキペディアをみても、有名になったはあかほりさとるだけのようです)。

関連ブログ
少年の頃のこと(赤堀君のこと) 2006年12月18日

お互い50すぎのオッサンになっていますが、死ぬ前にもう一度あいたいと思ってます。


banner_02.gif面白いと思ったら、クリックを






最終更新日  2019年09月25日 21時28分42秒
コメント(0) | コメントを書く
2015年07月13日
カテゴリ:地元の思い出
日テレ『ザ!鉄腕!DASH!』で福井県の和紙でパラシュートを作るという企画をやった時に、福井県の「都道府県魅力度ランキング」がかなり低い(45位ぐらい?)という紹介をされ、そして茨城県がワースト1でした。

都道府県 魅力度ランキング 2015 多言語のススメさん 2015年05月08日
こちらで「ブランド総合研究所が毎年、国内1000の市区町村及び47都道府県を対象に、認知度や
魅力度、イメージなど全74項目からなる調査を実施した都道府県魅力度ランキング」として紹介してます。

「地域ブランド調査2009」(全国3万2124人から回答。2009年7月に実施)の調査結果 現代ビジネス 2009年の調査でもワースト1でした。

3年連続で魅力度ワーストの茨城県は茨城県民がアピール下手だからだった!?こんなにある、茨城県の見所! NAVERまとめ 「地域ブランド調査2011」からの出典ですが、茨城県のいいところをいろいろ紹介しています。


ちなみに2015年の調査で関東は東京が4位、神奈川が5位、千葉が19位で、栃木41位、埼玉42位、群馬46位、茨城47位となってます。

北関東が非常に低いという結果になっていますが、上位1~3位の北海道、京都、沖縄が日本の代表的な観光地であることから、栃木以下の4県に目立った観光地がないのが順位の低い理由だと思います。

あるいはなんでもある大都市東京との対比から実力?以上に低く見られているのかもしれません(東京のベッドタウンとして見られている?)。神奈川が5位なのは横浜が東京から手軽に行ける観光地(デートスポット)というイメージが強いような気がしますし、千葉が19位なのはTDLの存在が大きい気がします。

「チバラキ」「ダサイタマ」などという言葉も、東京との対比で生まれたのだと思います。


3年連続?最下位の茨城ですが、私が務めていた会社の親会社である某巨大企業の発祥の地でしたから、常磐線の水戸、勝田、日立、水戸線の下館にある関連企業の工場にネットサーバ関連業務の出張で何度も行きました。

親会社の某巨大企業が「寄らば大樹の陰」を体現する旧態依然としたイメージが強いのも茨城県の土地柄と関係しているような気がします。ただし某巨大企業は今世紀になって終身雇用を撤廃するなど企業イメージはずいぶん変わったと思います。

私は相模原の今の家を買う前に茨城県に建売の家を見になんどか行きました。東京港区にあった当時のオフィスから30キロ圏内(これが通勤に適しているかどうかはなはだ疑問ですが、苦笑)では、茨城県の相場が一番安かったからです。

3000万円以下の4LDK庭付き物件がそれなりにありました(ただし私の予算はもっと低かったので結局今の「うさぎ小屋」になりましたが、汗笑)。

茨城県の面積は6096.93km2で、栃木の6408.09km2や群馬の6362.28km2より狭いですが、利用できる平地が山がちの栃木や群馬より広いので、宅地も安いような気がします。

都道府県の面積一覧 ウィキペディア

6096.93km2は東京の約3倍(2190.90km2)ですが、島嶼部を除くともっと差が開きます。

私が知っている北海道の人はおおらかな人が多いのですが、広い土地で育った人はそういう性格になるような印象があります。


学生の時に大阪奈良京都と2府1県の都市部から離れたところに住んでいて関西弁が好きでした。自分が愛知の田舎出身だからという理由もあると思いますが、就職して横浜に来た時は東京弁(標準語)がとても冷たく感じました。

相模原の今の住所に引っ越した当時は、現地人?が出身地を「横浜」という*のに違和感がありましたし、車の相模原ナンバーが「相撲ナンバー」とバカにされていた土地柄なのに都会人ぶっているそぶりがあるところもあまり好きではありませんでした。

* 愛知県も同じですが県名と県庁所在地が違う場合、「愛知県出身」というより「名古屋出身」と言ったほうが他の土地の人にわかってもらいやすいので、相模原市の人間が「横浜出身」と自称するのもわかりますが、なんだか見栄を張ってるようでいやでした。私は「名古屋出身」というウソは絶対言いたくありません。


勤め先の近くに家を持っているだけで、ゴミゴミした都会で賃貸住まいする人よりリッチな生活をしていると思います。

「東京(都会)が魅力的」というイメージは、優秀な人材を全国から集めたい、集めた人間の大量消費で効率的に利益を上げたいという大企業の意図を、マスコミが走狗となって喧伝したプロパガンダが成功した結果です。

今はネットでなんでも買えるのでそれで物欲は満たされますし、現実には田舎暮らしのほうが豊かな人生が送れると思います。

出張で茨城に行った時は居心地が良かったです。東京に対して自分たちの土地が田舎という引け目を持っているように感じましたが、その裏返しなのか気取ったところがなくみんないい人に見えました。

なにより、茨城女子の方言が可愛い(笑)

出張なので20代くらいの女子社員としか話してませんが、ちょっとアクセントのある話し方にときめきました(笑)。学生時代高槻に住んだ時に京都弁がちょっと混じった北摂の大阪弁にときめいたとき以来でした(笑)。

『下妻物語』という映画(深田恭子、土屋アンナ主演)がありましたが、あの映画はあまり茨城の「お国言葉」にこだわってなかったようで(深田恭子は関西の尼崎から引っ越してきた設定でしたし)、「茨城女子」のちょっとくせのある話し方という可愛い面がオミットされていたのが残念です。

あと日立駅の窓口にいたJR社員が妙に可愛かったのも覚えてます。もう10年位前になるので同じ人はもういないと思いますが、茨城は東京と違って流行に踊らされたような浮ついた会社が少ないので、JRのような優良企業にそういう女の人が入社するのか、なんて感じた覚えがあります。


banner_02.gif面白いと思ったら、クリックを






最終更新日  2015年07月14日 19時57分43秒
コメント(0) | コメントを書く
2015年02月23日
カテゴリ:地元の思い出
今は豚肉なんですが、愛知県の実家にいた10代は鶏肉でした。なんといっても愛知県などの中部地方には「若鶏のさんわ」があったからです(現在は関東や関西にも店舗があって買えるようです)。

ユニーはもちろんもっと小さなスーパーにも店舗があって、週1以上の頻度で食べていた気がします。

若鶏のさんわ 懐かしのCMソング 桃太郎編 Youtube 中部地方の人なら絶対に聞いたことのある「さんわさんわさんわの若鶏、おいしいったらないね♪」です(笑)。

鶏三和 若鶏のさんわ公式サイト
さんわギャラリー 上のリンクのCMなどのギャラリーです。

鶏三和のホームページトップには名古屋コーチンが紹介されていますが、庶民が名古屋コーチンを口にすることはまずなく(貧乏な我が家だけだったかも、汗笑)ブロイラーです。

で、定番は「手羽先」。名古屋名物として知られている素揚げにタレを塗ったゴマかけタイプではなく、甘辛いタレの照り焼き風です。モモ肉は手羽先より贅沢でした。

手羽先はモモに比べて細い骨が多くて食べにくいですが、慣れているのでキレイにしゃぶりつくします。軟骨はもちろん食べますし、骨の両端の「サクッとした」部分もきっちり食べます。

鶏の骨はささくれるので犬に与えてはダメと言われているようですが、両端からかじって中間部分をうまく割って髄まで綺麗に食べます(初心者は真似しないでください、っていうかこんな貧乏くさい食べ方はしないと思いますが、笑)。

少年時代、手羽先を文字通り「骨の髄」まできっちり食べたおかげで骨や歯が丈夫になったと思います(笑)。


鶏キモもよく食べました。甘辛い味付けの鶏の内臓ごった煮です。レバーなどの内臓は若干苦みがあってあまり好きではありませんでしたが、ハツはコリコリして好きでした。黄色が鮮やかな卵の元?もわりと好きで兄弟で奪い合いました(笑)。

で、私はハツをアレだと思い込んでいました。だって自分のと似てるでしょ((笑笑))。ちょっと考えたら、あんなモノが股間にぶら下がっていたら、ニワトリが走り回れないことはすぐにわかったはずなのに、少年時代(特に小学校)の私は本当にバカでした(笑)。


あと最近食べてないのが「ヒヨコの丸焼き」

これは「若鶏のさんわ」ではなく、月に数回行われる「市」の出店(屋台)で食べられました。ヤクルトオバサンだった母が勤める「センター」のある通りで定期的に行われていた市でした。朝のヤクルト配達を手伝った時など母に連れられて買って貰いました。

下の写真と違って3羽だったと思いますが、生前の姿が想像できそうなヒヨコの丸焼きが串に並んで刺さっています(笑)。若鶏の骨は全部食べられませんが、ヒヨコの骨は細いので丸かじりです。

ヒヨコの丸焼き食べた horideeeさんのツイッター こちらにそのものズバリの写真があります。

若い女の子が「キャー」と叫んで逃げそうな見た目ですが、『はじめ人間ギャートルズ』の「マンモの肉」的な野趣にあふれたごちそうでした(笑)。


大阪に出る前に自宅で1浪していた時、予備校の後期の学費を稼ぐために手羽先屋(飲み屋)で3ヶ月ほどバイトしました。こちらは典型的な名古屋名物の「手羽先」で素揚げした手羽先にタレを塗ってゴマをふりかけます。

私はただのバイトなのでもちろん揚げの作業などもちろんせず、主に皿洗い担当でしたがタレに入れるニンニクもすりました。最後まで全部すり下ろせと店長から言われて、小さくなったニンニクと一緒に指先もすっていた(苦笑)ので、受験勉強をしていると指先が強烈に臭かったです(苦笑)。

あと前日の売れ残りで血が滲んだような手羽先を開店前に水洗いして使うのですが、「高額バイトの死体洗いはこんなだろうな」という感じのとても嫌な異臭がしました。

あまり流行ってなさそうな手羽先屋に行く時は、前日の売れ残りがはけた頃に行くことをお勧めします(苦笑)。


banner_02.gif面白いと思ったら、クリックを






最終更新日  2015年02月24日 00時28分04秒
コメント(0) | コメントを書く
2014年10月17日
カテゴリ:地元の思い出
15日放送の珍百景で紹介されて、「今週のMV珍」に選ばれていました(【珍百景No.2028】「童話のような河川敷」愛知県半田市)。
珍百景コレクションテレビ朝日|ナニコレ珍百景

今年95歳になるダイゾウというご老人が新美南吉の『ごんぎつね』の風景を再現したくて、半田市岩滑(やなべ)の矢勝川堤(河川敷)に一人で20年以上も彼岸花の苗を植え続けたそうです。
<新美南吉顕彰会・彼岸花のページ>

その後地元の小学校などのボランティアの協力を得て、数キロ続く矢勝川沿いの彼岸花は今では観光名所になったそうです。9月中旬から10月初旬あたりが見頃で、10万人以上の観光客が訪れると紹介されていました。

新美南吉は岩滑の出身で半田市立岩滑小学校で教鞭を取っていたこともあるそうです。ちなみに大府高校出身の槙原寛己(元巨人)は岩滑小学校、半田中学の出身でした。

半田高校は県内有数の進学校で中学で20番以内ぐらいじゃないと入れないので、野球ばかりしていた槙原は大府高校に進学したのだと思います。


私の実家は岩滑ではなく海に近い乙川と亀崎の中間あたりでしたが、小学校の帰り道の田んぼ沿いに彼岸花(曼珠沙華)が自生していたのをよく目にしました。

『ごんぎつね』の絵本ページにもお墓とともに描かれていて、彼岸花というと秋のお彼岸に咲く花というイメージですが、万寿釈迦(まんじゅしゃげ)というと真っ赤なルージュを引いた女性の唇の艶めかしさというイメージです。ひときわ目立つ真っ赤な色は毒々しいほどで、実際にこの花には毒性があるそうです。

ヒガンバナ ウィキペディア 「ヒガンバナ(彼岸花、学名 : Lycoris radiata[1])は、ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。クロンキスト体系ではユリ科。リコリス、曼珠沙華(マンジュシャゲ、またはマンジュシャカ サンスクリット語 manjusaka の音写)とも呼ばれる」

「全草有毒で、特に鱗茎にアルカロイド(リコリン、ガランタミン、セキサニン、ホモリコリン等)を多く含む有毒植物」

日本におけるヒガンバナの名所#ヒガンバナ ウィキペディア 「愛知県半田市の矢勝川の堤防 : 100万本のヒガンバナが咲く。一説には200万本とも。近くに新美南吉記念館があり、新美南吉『ごんぎつね』の舞台として有名である。」

真っ赤な花びら?と触角状の花弁?の独特な姿は、有毒性もあって艶めかしい娼婦が手招きしているイメージです。

こんな表現をすると『ごんぎつね』の童話のイメージが台無しですが(汗笑)、曼珠沙華というと山口百恵のイメージが強いです。

曼珠沙華 (アルバム) ウィキペディア 「タイトル曲「曼珠沙華」は、この後1979年3月に発売のシングル「美・サイレント」のB面として収録された。」

山口百恵 曼珠沙華 Youtube 歌詞では「まんじゅしゃげ」ではなく「まんじゅしゃか」になってます。

一つ違いの姉が山口百恵のファンで隣の部屋からこの曲がよく聞こえていました。

70年代の歌謡曲は陰のある物憂げな雰囲気があり、引退間際の山口百恵はまさに妖艶でどこか陰がある歌手でした。

banner_02.gif面白いと思ったら、クリックを






最終更新日  2014年10月18日 01時29分14秒
コメント(0) | コメントを書く
2013年03月20日
カテゴリ:地元の思い出
前のブログの関連ですが、最近テレビで常滑焼きの急須(赤いです)を見て確かウチでも使ってたのを思い出しました。


この急須で煎れるとおいしくなるなんてことを言ってましたが、まあそれはどの急須でも同じことを言うと思います(笑)。

しかし母子家庭で母はヤクルトおばさんだったので、お茶よりもヤクルト(コップに3~4本いれて一気飲みはよくやりました)や、いつもケースで常備されていたスカール(ヤクルトのサイダー系炭酸飲料)をよく飲んでました。

関連ブログ:ヤクルト スカール 2012年04月08日:ヤクルトとブレンドもしました(笑)。


このタイプだったと思います。暖色系の朱泥がかなり目を引くと思います。子供の頃これを初めて見たときにはずいぶんハデな印象を受けたと思いますが使っているウチに慣れました(笑)。

banner_02.gif面白いと思ったら、人としてクリックを






最終更新日  2014年10月17日 22時43分59秒
コメント(2) | コメントを書く
2008年07月11日
カテゴリ:地元の思い出
イチジク、無花果(映日果)、蓬莱柿(ほうらいし)、南蛮柿(なんばんがき)、唐柿(とうがき)とも言うそうですね(イチジク ウィキペディアより)

愛知県の半田と言うところで少年時代を過ごした私は、道ばたになっているイチジクをもぎって食べてました。しかし多分それは誰かが植えたモノで、私はドロボーしてたわけですが、ちゃんとしたイチジク畑というわけでなく、ホントに道ばたに当たり前のようにイチジクの木が生えてました。

最近テレビで愛知の西三河がイチジクの最大産地であると知って、その対岸である半田でもイチジクが普通に植えられていたことに納得しました。

あの中身のつぶつぶが実際には花だそうです(無花果の名前はそこからきているそうです)。ネットリした果実液(?)とちょっとえぐみがあって、そんなに好きだったワケではありませんが(イチジク浣腸という連想もマイナスかも)、常識のない子供だった私は天の恵みとばかりに、小学校の帰りなどによく食べてました。

いちおう地元の名誉のために弁解しておくと、半田は知多半島の中核都市と言われる戦前からの都市で、樹木のうっそうとしたイナカというわけでもなかったです。



banner_02.gifランクアップを励みに毎日更新してます。ご協力をお願いします。






最終更新日  2014年10月17日 23時09分53秒
コメント(0) | コメントを書く
2008年02月10日
カテゴリ:地元の思い出
今関東にいるので、テレビの地上波はNHKが1と3チャンネルで、4以降の偶数チャンネルがVHF(?)の民放ローカル局に割り当てられていますが、私が10代まで住んでいた愛知県では、1チャンネルはフジTV系列の東海テレビで、3がNHK総合、9がNKH教育で、残りの奇数チャンネルが民放のチャンネルに割り当てられていました(名古屋を含む尾張地方の半田市に住んでましたが、東の三河地方では別のチャンネルも使われているようです)。

***愛知県(名古屋)のローカル局***
1 東海テレビ(フジTV系)
3 NHK総合
5 CBCテレビ(TBS系)
7 中京テレビ(日テレ系←ただしUHFの35をプリセットしている:電気屋からテレビを出荷する時点でこのチャンネルが割り当てられていることが多い)
9 NHK教育
11 名古屋テレビ(テレ朝系)
*******************************

関東よりも、1チャンネル少ないことになりますが、愛知にいた25年前は、すでにテレビ愛知(テレ東系←UHFの25チャンネルを使用)があったので、ローカル局の数は同じでした。

愛知のローカルテレビ局で全国的に有名なのは名古屋テレビだと思います。機動戦士ガンダムは名古屋テレビをキー局として放送され、後の作品とあわせてガンダム4作品を名古屋テレビで放送しました。機動戦士ガンダムは私が中3の時に放送され、もちろん欠かさず見ました。合体ロボ全盛の当時(ガンダムもGメカで合体してましたが)、リアルな戦場での心理描写に衝撃を受けました。
機動戦士ガンダム ウィキペディア
名古屋テレビ ウィキペディア

あと東海テレビが昼の時間に放送している昼メロドラマ(?)の「薔薇と牡丹(ウィキペディア)」も話題になりました。

19才で大阪に引っ越しましたが、たしか大阪は関東と同じようなチャンネルだったと思います(*)。引っ越した当時はチャンネルが違うことにとまどいましたが、今では関東式のチャンネルに慣れたため、名古屋に泊まりで出張したときは、逆にチャンネルの違いにとまどいました(札幌に出張したときもとまどいましたが、札幌は名古屋に近いチャンネルだったように思います)。
* ただし関西にいた学生時代5年間はテレビを持っていなかったので、テレビの話題には全く無関心でした。当時放送していたとんねるずの「ねるとん紅鯨団(ウィキペディア)」を知らなかったのでさんざんツッコまれました(恥笑)。


banner_02.gifランクアップを励みに毎日更新してます。ご協力をお願いします。






最終更新日  2014年10月17日 23時04分54秒
コメント(6) | コメントを書く
2007年12月02日
カテゴリ:地元の思い出
少年時代の友達のことを書きます。

イナカだったので、小さい頃は近所の友達と池や川(といっても池の底にはゴミがたまっているようなキタナイところでしたが)でよく遊びましたが、小学校4年ぐらいから中3まで新聞配達をしていたので、放課後友達と遊ぶ時間があまり無く、友達は少なかったと思います。

高校にはいると奨学金をもらった(貧乏なら成績に関係なく貸与されるヤツです)ので、新聞配達はしなくてもよくなりました。

半田東高校のこと(おバカの受難)にも書きましたが文系クラスだったので、男子のクラスメイトは少なかったです。高校3年間(多分、恥笑)同じクラスだったHという生徒がいました。

Hは、半田というイナカに来る前は大阪かどこかの大都市で暮らしていたらしく、小学校の高学年で転校してきたはずです。その後は高校まで同じでしたが、最初の印象は都会暮らしで洗練された感じで、悪く言えばキザなヤツで友達になれるとは思いませんでした。ちびまるこちゃんの「花輪クン」に似てたと思います。

花輪君のような長髪で身長も高く二枚目でした。しかし引っ越してきた子供にありがちな疎外感を感じていた(あるいはイナカの子供になじめなかったのかも)のか、中学でも友達は多いようには見えませんでした。

高校でHと同じテニス部に入りましたが、私はすぐにテニス部をやめて(実は入部希望が多すぎて、部活をさぼっていた私はすぐにクビになりました、恥笑)、その後からつきあいが始まりました。

Hはテニス部をやめた私に「ラケットを売ってくれ」と声をかけてきました。当時はラージラケットがはやってましたが、私は変なところにこだわってウィルソンの流行はずれのラケットを持ってました。それを安く手に入れようとして声をかけてきました。

Hは高校でも二枚目でしたがドライ(?)な性格で、一般の人が持っている大阪人の悪いイメージ(間違ったイメージですが)がぴったりでした。友達関係にも損得勘定をまず考え、自分にプラスになる人間としかつきあわないところがあるようでした。

どうもそのあたりの性格が周りの人から敬遠されていたようです(二枚目に対するやっかみもあったかも)。私に対してもHが本当に友情(?)を感じていたか不明です(苦笑)。

というのもHは高2の頃、Y子という同級生とつきあい始めます。Y子は小学生の頃私服がおしゃれなカワイイ女の子で私は淡い恋心を抱いていました。高校生になってそのころの気持ちはもう無くなっていましたが、Hは私の部屋を借りると言って、何度かY子と二人きりになっていました。

B-29の爆撃(冒頭に書いた池は爆撃でできたという噂がありました)にも焼け残ったような古い家で、2階の私の部屋は引き戸で区切られていたので、彼らを覗こうと思えばできましたが、青臭いプライドがあってしませんでした。しかしアレ特有の声が聞こえてきたのを覚えています。

彼らが帰った後のベッドに嫌悪感を含んだ複雑な気持ちがしました。

高3になるとHはY子と別れ、私に付き合えという雰囲気をにおわせました(Y子もその気だったようです)が、私は知らん顔をしていました。私が小学校の時にY子を好きだったとHが知ったために、友情(?)を示したのか、単に飽きた女を私に押しつけたかったのか、Hの気持ちはよく分かりません。

高校の時は硬派(?、笑)だった私は、(今思うとY子に非常に失礼でしたが)お下がりとつきあう気は全くありませんでした。

高校卒業後Hは地元の大学に入学し、2年後やっと大学に入った私は一度だけ彼に会いましたが、その後つきあいはありません。

これだけ書くとHがスゴイいやなヤツだった気がしますが、当時は普通の友達としてつきあっていました。背が高く二枚目なHにあこがれの気持ちがあったのかもしれません。

他にも岡田准一をもっと優しくしたようなM君と高校で友達になりましたが、M君は育ちも良く(Hも決して育ちが悪かったわけではないですが、苦笑)、気持ちのいい少年で、同じ予備校に通いました(河合塾の本部が名古屋にあり、地元では河合塾に通う浪人が多かったですが、私とM君は代ゼミに通いました)。

大学の時一番仲の良かった友達もイケメンだったので、どうも私は友人を顔で選ぶ傾向があるようです(苦笑)。

コレまでつきあいのあったイケメンは性格のいいヤツが多いですが、性格の悪いヤツに痛い目に遭ったこともあります。でも二枚目だとそれだけで許してしまうので二枚目はトクですね(笑)。

追記
一応断っておきますが、私はゲイでは無いので、そっち方面で男性に興味はありません。きれいなものが好きなだけです(笑)。


banner_02.gifランクアップを励みに毎日更新してます。ご協力をお願いします。






最終更新日  2014年10月17日 22時52分54秒
コメント(4) | コメントを書く
2007年11月07日
テーマ:学校生活(512)
カテゴリ:地元の思い出
半田東高校のこと(設立当時)の続きです。個人的なことで長文になってしまいました。余裕のある方はどうぞご覧ください。ノンフィクションです。

中学時代の成績は中の上あたりで、中2まで高校進学は考えていませんでした。しかし中3になって半田東が新設されるため、市内の中学生は強制的に半田東に入学させられることになって、私も進路指導で半田東に行くように言われました。貧乏で高校に行くなんて考えていなかったのですが、親(母子家庭でした)も高校進学を許してくれてうれしかったです。

3年の期末試験は成績が上がりました。それまでせいぜい300人中100番に入ればいい方だったのに30番くらいになりました。すでに内申は決まっているし、他の生徒は受験勉強に力を入れていためでしょうが、それまで定期試験の前に勉強したことがなく、はじめて試験勉強らしい勉強をしたおかげです。ただし英語だけは付け焼き刃の勉強が通用せず、よくありませんでした。英語の点が良ければ、もっと上位になったはずです。

コレである種の自信を付けたのが間違いでした。人生塞翁が馬というかあざなえる縄のごとしで、急に成績の上がった私を疑っていたのか、国語の授業で先生が執拗に私に質問します。ちょっと天狗になっていた私は、先生の質問にすらすらと答えましたが、先生は違うという、また別の答えを言っても、違う、それが何度か続いて、とうとう私は授業中泣き出しました(恥笑)。

この年頃の男子ならわりとありがちだと思いますが、国語なんて普段しゃべっている言葉を改めて勉強することはない、小説なんて作り事だと、国語に対してあまり肯定的ではありませんでした。この一件で国語の先生にトラウマができました(しかし結局大学の文学部に進学することになりましたが)。

高校に入学する前に、学校からクラスの希望を調査されました。理系の人間だと思ってましたが、理系/文系には丸を付けずに、どちらでもよいに丸を付けました。要するに何も考えていなかった訳です(恥笑)。

文系希望の男子はほとんどいなかったようで(愛知県の工業出荷額が日本一なのが関係してると思いますが)、どちらでもよいに丸をしたうかつモノは文系コースに入れられました(苦笑)。

おかげでクラスの45人の2/3が女子というクラスになりました。うらやましいと思うかもしれませんが、それはあの年頃の女子がグループになったときの猛威を知らないから言えることで、少数派の男子は窓側にまとめられ、常におとなしくしてました。

しかも入学してすぐ担任に呼ばれて、出席番号1番だから室長(学級委員をそう呼んでました)をやってくれと言われて、高校に入った高揚感で舞い上がっていた私は「ハイ」と答えてました(恥笑、世間知らずのおバカでした)。もちろん小中と学級委員の経験などありませんし、他に経験者はいたはずで、担任もとりあえず聞いてみただけだったと思います。

私は親がよく言う「やればできる子」の典型だったようで、普段はほんとにダメダメだったと思います(恥笑)。授業開始の号令もか細い声で、頼りない暗い少年だった思います。

授業中、男子がおとなしく聞いてるのに、女子はおしゃべりしなけりゃ死んじゃうとでも思っているのか、厳しい先生でなければ、地獄の釜のような騒ぎでした(大げさかも、苦笑)。

現国の厳しい先生(この授業は女子も静かでした)が女子に質問して、答えられないのを執拗に責めている時に、わざと反抗的な態度を取り、その教師の注意を引いて、生意気なこと言った(女子をいじめるなんて許せん、という子供っぽい正義感もありましたが、それ以上に中学時代のトラウマで国語教師に反感を持ってました)せいで、不良としてレッテルを貼られたようです(その教師が職員会議で問題にしていたことを担任が教えてくれました)。

あんなヤツを室長にしているから、あのクラスはやかましくて授業にならないと思われたようです。それから体育教師の体罰が始まりました。担任は室長を頼んだ負い目があるのか、私を何とか助けたいと思っていたようですが、私はかなり追いつめられました(体罰は是か非かを参照ください)。

窮鼠猫をかむではないですが、追いつめられた私は体育会系になりました(笑)。先生と話すときは直立不動の姿勢で、返事ははっきりと、号令も大声で、怒ったような顔を常にしていたかもしれません(そのころは真剣でしたが、結果として管理教育の典型的な生徒のフリをしてました)。急に態度を変えた私に警戒(殴られすぎて頭がおかしくなったと思われたかも、苦笑)したのか、女子も静かになりました(女子も体罰を受けており、私が体罰を受けてこんな風に行動した気持ちを理解してくれたと思います)。

それでその場は乗り切ることができて、「やればできる子」から普通のダメダメに戻りました(笑)が、それ以降頭のネジがゆるんだ(キレちゃったわけです)ようで、ちょっとおかしな行動を取るようになってました。

若い国語の先生に句読点のつけ方で注意されたとき、「おまえはトイレで尻を拭かんのか(文章の終わりは句点をちゃんと付けろの意味)」と問いつめられ、しばらく沈黙した後、生意気そうな笑みを浮かべて「大きい方なら」と答えたら、クラスが大爆笑しました。

若い女性教師(古文)の授業中、急に教室の前の戸から出て行きました。女性教師が血相を変えてその戸の前で立っています。ガラス越しに笑顔で廊下にあるロッカーから出した国語の辞書を見せると、またクラスは大爆笑。女性教師は戸を押さえて入れてくれないので、後ろの戸から自席に戻り、先生も授業を再開しました(辞書取りに行ってイイですかと聞けば済んだことですが、そのときの私は硬派で口数の少ない少年でした、恥笑)。

他にも(ウケ狙いの)ちょっと変な言動をするたびに教室は大爆笑でした。そう言うときは妙な間(ウケ狙いを考えている)があるので、笑う方も心の準備がしやすかったと思います(笑)。

普通に考えれば、大爆笑するようなコトじゃありませんが、教師とケンカした前科(?)のある私の突飛な行動で、「またケンカ」という緊張感を感じて、その後の間抜けな結果に安心して笑ったのだと思います(ダウンタウンの松本の笑いに通じるかも)。しかしケンカにならないように笑ってごまかそうとする優しい気持ちもあったのだと思います。

と言うのも私はクラスのヒーローになってました(カッコよくはないですが)。半年経って室長から解放されると、社長(シャチョー)とあだ名を付けられました。室長がなまってシャチョーなのと、そのころNHKの朝の連ドラ(「なっちゃんの写真館」だったと思います)をぎりぎりまで見てから、自転車でめいっぱい走って、いつも遅刻寸前(実際何度か遅刻してたと思います)だったので、「社長出勤」から来たのだと思います(私が渡り廊下のスノコを走る音でクラスから笑い声があがったこともありました)。

秘書3号までいましたが、それは女子が勝手に騒いでいただけで、硬派(笑、奥手とも言う)だった私は結局高校時代女子とつきあうことはありませんでした(今考えるとすごいもったいなかったかも)。

そんなお祭り騒ぎは1年の時だけで、騒ぎに懲りた私は2、3年は目立たないように行動し、全く平凡な高校生でした。勉強も適当で、現役の時に受かった大学も、担任から同志社を受けるなら滑り止めで受けろと強制された地元の三流大学だけでした。

banner_02.gifブログランキング参加中。クリックでご協力をお願いします。






最終更新日  2014年10月17日 22時36分00秒
コメント(12) | コメントを書く
テーマ:学校生活(512)
カテゴリ:地元の思い出
高校時代は、恥ずかしいことだらけで、あまり書く気がしなかったのですが、同じ高校の方からコメント頂いて、ちょっと書いてみようかと思いました。

半田東高校という新設高校の1期生でした。当時の愛知県は千葉、広島(宮城かも)と並ぶ管理教育王国で、新設校で3Tと呼ばれた管理教育モデル校、東郷高校、天白高校、豊明高校を手本に、厳しい管理教育をするのが常でした(同じ市内の旧制中学から高校になった半田高校は、かなり自由な雰囲気がありました)。

半田東は3流高校だとずっと思っていましたが、最近見た愛知県の高校ランクではそこそこの位置にあり、偏差値も55程度だったと思います。多分後輩の方たちががんばったんですね(恥笑)。今はどうか知りませんが、ちなみに当時の愛知は全体に私立より公立のレベルが高く、私立受験はあくまでもスベリ止めでした。

ついでに言うと大学進学率も当時は県内進学が70%近かったように思います(あるいは隣県もあわせた数字かも)。人口規模に対して愛知県は大学数が多かったせいもあると思います。名古屋が田舎と言われるのは、こうした閉鎖性があると思います。

半田東ができたおかげで、私は高校進学ができたようなものです(家が極貧だったので中学卒業後は就職するつもりでしたが、半田東なら入れそうということになって、奨学金をもらって進学しました)。すでに市内に普通高校、農業高校、工業高校、商業高校の4校があったため、新設の普通高校は必要ないという意見もありましたが、半田高校のレベルが高すぎで市内の中学生が進学しにくいこともあり、地元に密着した普通高校として作られました。

しかし割食った生徒もおり、本来ならレベルの高い半田高校に進学するのが当たり前の優秀な生徒でも、市内の中学生は進路指導で強制的に半田東に入れられました。

さらにできた当時の1年生しかいない半田東は、校舎は半分しか完成しておらず、体育館もなく(体育館の4分の1程度の武道館が体育館代わりでした)、プールもなく、運動場は石ころだらけでした。おかげで年中どこかが工事中で、授業中は工事の音が響いているし、朝の朝礼では運動場の石拾いが通例でした。

そんなわけで体育でできることも限られてます(体育教師は当時の短距離記録で日本3位が自慢の教師でしたが、この人にはかなり殴られました)。

おまけに決して都会(いちおう人口10万の知多半島の中心都市ですが)とは言えない半田の中心部からかなりはずれた場所で、人家もまばらで田んぼや畑の方が多い、近くに商店もありません(2年目あたりに校門のそばに文房具店?ができました)。運動場の向こうは鴨池と呼ばれた池があり、丘側には牧場があり、自然が豊かという言い方もできますが、夏になると、牧場特有の臭いに閉口したモノです。

半田東高校 ウィキペディア

banner_02.gifブログランキング参加中。クリックでご協力をお願いします。






最終更新日  2014年10月17日 22時56分03秒
コメント(2) | コメントを書く

全14件 (14件中 1-10件目)

1 2 >

総合記事ランキング

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール


aosaga369

カテゴリ

カレンダー

フリーページ

ニューストピックス


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.