醤油ラーメンとカツ丼

[雑記帖] カテゴリの記事

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• 鼻の系譜・補足

  補足。ラフカディオ・ハーンは新聞記者だつたときゴーティエの「クラリモンド」「ミイラの足」「アッリア・マルチェッラ」「クレオパトラの一夜」「カンダレウス王」を収めた『クレオパトラの一夜・その他』を翻訳、出版した。原題は（One of Cleopatra's Night)。これがハーン最初の出版物だつた。「夏目漱石や芥川龍之介は、この英語訳を通してゴーチェに　親しんでいる。」　　　　　　　　　　　　　　　　『小泉八雲事典』恒文社漱石の蔵書目録にあるゴーティエの本は三冊。その内の一冊がハーン訳。が、「１９０８」と書いてある。ハーンが亡くなつたのは１９０４年だ。（日本に来たのが１８９０年。）１９０８といふのは再版した年なんだらうか。

  2008.10.09

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• 辞書をよむクラリモンド

  ゴーティエと芥川龍之介には『クラリモンド』以外に接点といふか共通点があります。それは辞書を読むことが好きだつたこと。『書物』で柴田宵曲が書いてゐる「辞書」の項にその話がでてゐます。「ゴーティエの主なる娯楽は辞書を読むことであった。　彼の文学上の名声にあこがれて来る青年があると、必ず　『君は辞書を読む事が好きか』と尋ねる。」芥川の方は「私と創作」といふ文章からの引用。「子供の時から字引をよむ癖があるから、ディクソンの　『熟語辞書』などをよむ事もある。」ぼくはある言葉をしらべやうとおもつて辞書を引いたあと、そのページにある他の言葉をどんどん読みすすんでしまふことがよくあります。

  2008.10.09

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• 鼻の系譜

  ９月２４日「漱石の書き込み」の回に、「女ノ鼻ノ穴ヲ叙スルノハ新シイ」といふ漱石の本への書き込みを紹介しました。フランスの作家・詩人のゴーティエ（ゴーチェとも）の「The Dead Leman」（英訳です。おそらく『死女の恋』）といふ作品の余白に書いてあるやうです。（ここにはなぜか泉鏡花に対する批評も書き込んであつて　興味深いのだがそれはまたべつの機会に）女の人の鼻の穴を描写するのが珍しかつたんだなあ。漱石も細かいところを見てゐるものだ。でもたしかに人物の顔の描写で鼻の穴まで説明しないですね。鼻が高いとか低いとか大きいとかは書くことあるけど。原著を読んだことがないのでわからないが、鼻の穴が二つあるとか大きいとか小さいとか書いてあつたんだらうか。「女ノ鼻」とことはつてあるところをみると男の鼻の穴についてはべつに新しくなかつたといふことだ。なんでだらう、その男女差は。鼻の穴に注目したもうひとりの文豪がゐる。森鴎外だ。正確に言へば鼻ではなく鼻くそだが。『大発見』といふ作品。これは「自然研究者」の「僕」が、ヨーロッパ人が鼻くそをほじるといふこと証明しようとする話である。「僕」はドイツのベルリンに行き、日本公使館をたづねる。「僕」は鴎外その人がモデルだらう。そこでの公使との会話。「君は何をしに来た。」「衛生学を修めて来いといふことでござります。」「なに衛生学だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と　二番目の指との間に縄を挟んで歩いてゐて、人の前で鼻糞を　ほじる国民に衛生も何もあるものか。まあ、学問は大概にし　て、ちつと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが　宜しい。」「はい。」すごいこと言ふなあ。足の指と指との間に縄を挟んで歩く、といふ表現がじつにいいですね。（『森鴎外全集』の注によるとこの公使は青木周蔵）「僕」はこれをきつかけにして、「欧羅巴人は鼻くそをほじらないのか」といふ問題について真剣に考へ、観察し始めるのだつた。「僕」はドイツにゐた三年間であらゆる階級の人に会ふ。が、「僕はとうとう西洋人の鼻糞をほじるのを目撃せずにしまつた。」しかし「僕」はあきらめない。西洋人だつて日本人と同じはずだ。今度は書物のなかに書かれてゐないか徹底的に調べ始めるのである。そして……といふあらすじである。西洋人の鼻は謎めいたものだつたのだ。それから漱石といへば鼻毛のエピソードも有名である。漱石には鼻毛を抜いて原稿用紙に植ゑ付けるといふ癖があつて、『吾輩は猫である』にも出てくる。その原稿は内田百間が大事に持つてゐたといふことだ。鼻の穴と鼻くそといふふうに鼻に注目した漱石と鴎外。そしてここにはもうひとりの人物を加へなければならないだらう。『鼻』を書いた芥川龍之介だ。『鼻』は『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に題材を得てゐる。が、もちろんまつたく元の話と同じではない。「形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、　ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。」「細長い腸詰め」といふたとへなど、鼻の描写が芥川独自のものになつてゐる。『鼻』は漱石によつて激賞され、芥川が作家として注目されるきつかけとなつた。鴎外は『鼻』を読んで何か語つたりしてゐるんだらうか。そして自分が書いた『大発見』を思ひ起こしたりしたんだらうか。芥川の『鼻』は大正５年（１９１６年）。鴎外の『大発見』は明治４２年（１９０９年）。漱石のゴーティエへの書き込みはいつのものかわからない。が、１９０３年出版の本とあるから書き込みはそれ以降のものだ。そしてゴーティエの『死女の恋』を『クラリモンド』として日本語に初めて翻訳して紹介したのは芥川なのである。（久米正雄との共訳で大正３年（１９１４年）のこと）（底本にしたのはラフカディオ・ハーンの英訳版）（漱石の書き込んだのはハーン訳の本ではない）いろいろな人が鼻といふ縁でつながつてゐるのだ。ゴーティエの小説の中にある「鼻」に漱石は注目し、それを日本で初めて訳した芥川はのちに「鼻」といふ名の小説を書いて漱石に認められたのだ。漱石・鴎外・龍之介。大正５年１２月１２日にたつた一度この三人は同じ場所に集ふ。それは漱石の葬儀のときで、受付をしてゐた芥川の前に鴎外があらはれるのだつた。

  2008.10.09

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• 謎の楠木

  ９月28日にレモンの関連で高村光太郎にすこしふれました。その高村光太郎の父親は言ふまでもなく彫刻家の高村光雲。高村光雲の代表作に皇居前の楠公像がある。楠公は南朝の忠臣楠木正成。岩波文庫『幕末維新懐古談』「楠公銅像の事」にその制作秘話が詳しく載つてゐます。そこで今日は楠木正成について。楠木正成のことをうたつた詩をさがしてゐたら「湊河原のさつき雨　四条畷の夕あらし　枯れ朽ちたれど楠の　香りは今も匂ふなり」といふのがありました。ただ誰の何といふ詩なのかわからないんですよ。自分が読んだ本のことをメモしておいた古いノートにありました。「ああ正成よ正成よ　　公の逝去のその後は　黒雲四方にふさがりて　月日も為に光なく　悪魔は天下を横行し　下をしいたげ上をさへ　侮り果てて上とせず　絶ゆるひまなき軍馬の音」といふのもありました。これも詳細がよくわかりません。出典をきちんと記しておくんだつたなあ。でも楠木正成といへばなんといつても『青葉茂れる桜井の』が有名ですね。作詞者は落合直文。子の正行のことをうたつた『四条畷』といふ歌もある。作詞者は大和田建樹。岩波文庫『日本唱歌集』にのつてました。日柳燕石の「詠楠公」。日本に聖人有り其の名を楠公と謂ふ誤つて干戈の世に生まれ剣を提げて英雄と作る「誤つて干戈の世に生まれ」といふ箇所をたしか吉川英治が随筆でとりあげてゐたとおもふ。吉川英治は『私本太平記』で、平和を願ひつつやむをえず戦はねばならない武将として正成を描いてゐた。ただ本当はどんな人だつたのかはよくわからない。日本史の有名人の中でも特に謎に包まれた人物だ。その辺りが逆に詩人にとつては想像力を膨らませたり理想を託しやすかつたりしたのかもしれません。冒頭に書いた二つの歌詞について何かご存じの方はおしへてください。

  2008.10.08

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• 「どぢ」考・補足その２

  「どぢ」の語源説を前二回に書きました。おもつたほど反響ないですね。なんでかなあ。他の説を検証してみたいとおもひます。・「とちる」説について「どじ　［動詞「とちる」の語感を濁音化したもの］　ほかの人ならしないようなへまをする様子（人）。へま。」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『新明解国語辞典　第六版』　動詞「とちる」から名詞「どぢ」が生まれたといふのは　不自然ではないでせうか。　名詞から動詞が生まれることはあります。　「愚痴」といふ名詞があつて動詞「ぐちる」ができたとか　「ミス」といふ名詞があつて動詞「ミスる」ができたとかです。　同じやうに動詞「ドジる」は名詞「ドジ」からだ。　これが逆の場合があるだらうか。　また、動詞「とちる」には別の語源説（「とちめく」から）があること　からも「どぢ」との関連性は弱いと言へます。　あとこの説明だとどうしてどぢを「踏む」のかがわかりません。・相撲の「土地を踏む」説　　ぼくは相撲好きですけどさういふ言ひ方は聞いたことがないですね。　それを言ふなら「土俵を割る」でせう。江戸時代の相撲用語にはあつ　たかもしれません。あるならその出典を示していただけたらとおもひます。　ぼくの知る限りこの説を唱へてゐるサイトなどで用例を示してゐるもの　はありません。　それに土俵を割るのは勝負に負けて割るのですから、「どぢ」といふ　言葉の持つ失敗とかへまとかいふ意味合ひとは異なる気がします。・「鈍遅」説　これは後世の当て字ではないでせうか。　はたして「どんち」がなまつて「どぢ」となるでせうか。　「ドン」といふ音には安定感があります。（文字通り「ドン」と。）　「カン」とか「タン」とか「ホン」などでもおなじですが　「ン」を抜かしたらかへつて発音しにくくなつてしまふのではないでせうか。　　それに「鈍遅」が「どぢ」になるのなら「鈍感」の「ドンカン」は　「どかん」に変化するはずだし「鈍重」「鈍行」「鈍足」はそれぞれ　「どじゅう」「どこう」「どそく」になるはずぢやないですか。　そして「鈍遅」といふ漢語があつたとしてもどうして「踏む」や「組む」　なのかがやはりわかりません。ぼくの説はこの前に書きました。この説の補強としては、「ど」のつく家屋や建築に関する言葉が多いことを挙げておきたいとおもひます。「土間」「土方」「土行」「土場」「土塀」「土台」「土足」「土居」「土蔵」などです。また「地」で終る言葉で「ち」でなく「ぢ」とよむものには「木地」「石地」「下地」「砂地」「建地」「築地」「野地」などがあります。「どぢ」は「土地」だとぼくはおもふ。用例がないのであくまでも推測の域を出ませんが。　語源は本当に難しいですね。　

  2008.10.06

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• 「どぢ」考・補足

  「どぢ」の語源説のつづき。「どぢ」は建築の言葉からきてゐるのではないかと自説を述べました。これまでに出された「どぢ」語源説には三つがある。・「とちる」説・相撲の「土地を踏む」説・「鈍遅」説語源に関するサイトなどをみても書いてあるのはこのいづれかだ。が、ぼくはいづれもちがふとおもふのである。「どぢ」の「ぢ」は「床下地」や「天井下地」の「ぢ」だとおもふのである。前にも書いたやうに「踏む」と「組む」の両方を満たす「ぢ」はこれしかないからだ。上手に組んでない下地で「どぢ」。漢字をあてるとすれば「鈍地」かな。でも「どんぢ」といふよみかたが気になる。あつ、わかつた。「どぢを踏む」とは床下地を踏み外して下の土を踏むことだ。これなら漢字は「土地」と書けばいいぢやないか。「鈍遅」は後世の当て字だ。

  2008.10.06

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• 「どぢ」考

  １０月３日の「バナナの問ひ」に、「ドジ」といふ言葉を書きましたが「どぢ」の仮名づかひが正式ですね。手元にある『平成疑問假名遣　平成十七年版』に「どぢ」としてある。漢字で書くと「鈍遅」「鈍智」だが漢語ではない。この本では語源が「とちる」となつてをりさうなると「ち」の表記は納得がいく。が、杉本つとむ著『気になる日本語の気になる語源』は「どぢ」についてもつと詳しく書いてあり失敗の意の「とちる」が訛つたといふのは一つの説といふことになつてゐる。ぼくの個人的なイメージでは「ど」といふ音には「どんくさい」とか「どぶ」とか「どさくさ」とか「ど根性」みたいな言葉からくるやや卑俗といふかマイナスなイメージがありますね。「どぢ」といふ言葉もその「ど」の仲間に属するやうな気がする。使はれだしたのは江戸後期からのやうだ。天保十二年と慶応元年の用例が掲げてある。それから「どぢを踏む」といふ言ひかたがあるが、「ドジはどうして「踏む」ものなの？」といふ疑問を杉本先生は提示してゐる。これはおもしろい疑問だ。「地団駄を踏む」みたいに足元に関係があるんだらうか。しかし樋口一葉の『たけくらべ』（明治二十八年）には「そうどぢばかりは組まないからとて面目なささうにわびられて…」との記述があるのださうだ。どぢを組む？ますますわからなくなりますね。建築に関係があるんだらうか。杉本先生もここでは結論を出されてゐない。語源学は本当に難しい学問だからいいかげんなことは言へないのである。でもぼくはど素人だからここに自説（珍説？）を発表します。「どぢ」とは建築現場で組んだ下手くそな下地のことである。これなら「踏む」と「組む」の両方に意味が通じるではないですか。でもそんな言葉は聞いたこともないですね。語源は本当に難しいです。＜追記＞ネツトでしらべたら相撲の「土地を踏む」説、「鈍遅」がなまつた説が出てゐました。土俵の外に出ることを「土地を踏む」といふのなら『たけくらべ』の「どぢを組む」は何なんですかね。「土地を踏む」の用例はないやうです。「鈍遅」のなまり説が正しいなら「鈍感」も「どかん」となまるのではないでせうか。

  2008.10.05

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• バナナの皮は文学である

  バナナの皮ですべる作品を新たに見つけました。坂口安吾『総理大臣が貰った手紙の話』です。昭和１４年（１９３９年）に書かれた短篇。（一昨日紹介した中島敦の『虎狩』は昭和９年ごろの執筆。）「常々平身低頭の下役に気を良くして腹蔵なく威張つてゐると、　宴会の夜更けにビールの壜で後頭部を粉砕され、それまでの　人生となつてしまふ。何食はぬ顔をしてバナナの皮をプラット　ホームへ投げすてておいて、人がひつくり返つて線路へ落ちて　電車にひかれてしまふのを待ちかまへてゐる男もある。」ぼくは重大なことに気づいた。『虎狩』との共通点にである。それは誰かを滑らせるための「罠」としてのバナナだといふこと。つまりすべる側ではなくてすべらせる側の小道具として出てくるのだ。（主人公がバナナの皮ですべる小説があつたらおしへてください。）ここからはぼくのかんがへだが、バナナの皮で誰かをすべらせるといふ罠は斬新で魅力的なものである。それはなぜか。バナナの皮といふとるに足りないもので大きなものを倒すからである。非力・微力なものが知恵を使つて強いものを倒すのは人を惹きつける。この前書いたチヤツプリンの映画でもチヤツプリンが強さうな警官を転ばせる場面でバナナの皮を使つてた（と記憶する）。丸善の画集の上にレモンを置いてきた梶井基次郎はレモンを爆弾に見立ててゐた。（９月２８日の回参照）バナナの皮も爆弾なのだ。ただここからバナナの皮はテロリストの爆弾と同じだとか権力者に対する庶民の抵抗の精神の象徴だつたとかぼくはそんなことは言はない。非力でとるに足りないものとおもはれてゐたバナナの皮が巨大な力あるものをひつくり返すとはまさに文学そのものだなあとぼくはおもふのである。非力なものとは文学であり、そして言葉だ。９月１１日の斎藤茂吉の回と翌１２日の回を想起していただきたい。古今和歌集の仮名序に紀貫之は書いた。「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、　男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。」おお、これをバナナの皮に置き換へても意味が通じるぢやないか。…通じませんね。

  2008.10.05

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• バナナの問ひ・追記

  よくテレビのニュースで、凍結した道路ですべつて転ぶ人や風の強い日に傘がお猪口になつてゐる人がうつる。ぼくは痛々しくて気の毒な感じを受ける。バナナの皮とそれらとの違ひは何なのだらう。作り物の世界の痛みと現実の世界の痛みの違ひだらうか。といつても実際にバナナの皮で誰かがすべつて転ぶところを見たらやつぱりぼくは痛みを感じるだらうといふ気がする。さういふ劇や映画があつてもいい。

  2008.10.03

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• バナナの問ひ

  きのふ果物のことを書きましたが、最近バナナが品薄になつてるさうです。テレビなどで、朝食べるとやせられるなどと紹介されたのがきつかけで大量に買ふ人が増えたからださうです。バナナが売り切れるくらいだから、やせることに関心のある方はおもつてゐたより多いのだなあとおもつた。さういへばこのブログの第一回に登場した田口先生も、ブログの読者数を増やすにはダイエットをテーマにするのが一番ですよとおしへてくれたことがあつた。ぼくはもともとやせてゐるのでやせたい人の気持ちといふのは想像するのがむずかしいけれど、きつとぼくにはわからない苦労があるのだらう。といふことで今日はバナナのはなしを。きのふ紹介したアンソロジーには収録されてゐなかつたのだが中島敦の『虎狩』にバナナがでてきます。「其の時私はまじめになつて、此のバナナの皮を下へ撒いておいて、　虎を滑らしてやろうと考えたのだ。」ぼくはここをよんで「あ」とおもつた。バナナの皮で虎を滑らせやうとしてゐる。コントや漫画などで人がバナナの皮ですべるといふのがあるけどこの昭和九年ごろ執筆の『虎狩』にすでに出てゐるのだ。すごいなあ。ずいぶん古い時代からやつてゐるのだなあ。バナナの皮ですべるはなしはいつごろからあるのだらう。ちなみにぼくはバナナの皮ですべつたことはないが、あれはぬるぬるしてゐるから実際すべつたことのある人はゐるだらう。よし、さつそくバナナの皮ですべる作品を探してみよう、そして年代をしらべてみよう、とおもつた。が、そんなことを気にかけて日頃読書してゐるわけではないのでなかなかみつかるものではない。それでインターネツトでバナナの皮を検索したら、あつた。アメリカの俳優カル・スチュワートが１９００年ころに小話でバナナの皮ですべるはなしをやつてゐるのださうだ。そして１９１５年のチャップリンの映画をきつかけに広まつたのだと。これはやつぱりしらべてゐる人がゐるんだなあとおもつた。問ひを見つけたのはいいがすでに答へを出してゐる人がゐる場合があるんですね。では別の問ひとして、中島敦はチャップリンの映画を見たのだらうか。それとも別のものから着想を得たのだらうか。といふこともかんがへたが細分化しすぎててあまりいい問ひとは言へない。ではあとはどんな問ひが考へられるだらう。バナナの皮で転ぶといふのは要するにドジとかおつちよこちよいとかそんな人物像を表現するためのギヤグだらう。なんでバナナの皮ですべつて転ぶと人は笑ふのだらう。

  2008.10.03

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• 日本文学史上最高のメロン

  『くだものだもの』（福武文庫）といふアンソロジーがあつた。くだものに関する小説、詩、随筆などを歌人の俵万智さんが選んだもので、全部で３１篇が収められてゐる。福武文庫はなくなつてしまひましたね。目次を載せておきます。椎名誠　　　ハーケンと夏みかんあまんきみこ　　　白いぼうしねじめ正一　　　蜜柑一箱一回二個笑福亭松鶴　　　千両蜜柑芥川龍之介　　　蜜柑高樹のぶ子　　　トマト雑感清水義範　　　旬白石公子　　　メロン林真理子　　　週末の食べ物江国香織　　　メロン原田宗典　　　少年の夏のスイカ瀬戸内晴美　　　やまもも島崎藤村　　　初恋谷川俊太郎　　　アイザック・ニュートン鷺沢萌　　　りんごの皮林望　　　風の林檎中原中也　　　いちじくの葉武田百合子　　　枇杷庄野潤三　　　梨屋のお嫁さん宮澤賢治　　　やまなし松本侑子　　　葡萄の置き手紙村上春樹　　　葡萄太宰治　　　桜桃開高健　　　美味・珍味・奇味・怪味・媚味・魔味・幻味・幼味・妖味・天味吉本ばなな　　　バナナの秘密立原えりか　　　くだもののたね野田秀樹　　　ミーハーとバナナの時代内田百間　　　バナナの菓子昔話　　　桃太郎阿部昭　　　桃高村光太郎　　　レモン哀歌梶井基次郎　　　檸檬（編集後記にくだものの出てくる短歌の紹介がある）すごいなあ。結構あるものだ。ならべかたも工夫してあるのがわかる。さすが歌人だ。９月２８日にとりあげた梶井基次郎の『檸檬』は最後にもつてきてゐる。音楽のアルバムで言へば最後に代表曲をもつてくるやうなものか。高樹のぶ子と清水義範がとりあげてゐるのはトマト。ぼくはトマトは野菜の仲間かとおもつた。開高健の長い題名の作品はドリアンとバナナとアバカシについてのエッセイ。ぼくはドリアンといふのははたべたことがない。詩は藤村、中也、光太郎の三篇。谷川俊太郎の作品はニュートンの登場する短い小説。谷川俊太郎は岩波文庫の『中勘助詩集』の編者だが、中勘助にも「りんご」といふ詩があつてニュートンが出てきます。さういへば俵万智にはエッセイ集『りんごの涙』がある。編集後記に「みかんはなぜか男性の作品に多く、メロンは圧倒的に女性の作品に多い」とあり、短歌については「なぜか、葡萄が多いことを発見した。」とのこと。おもしろいなあ。ぼくもみかんは「こたつから帰つてきた男」といふ詩で出したけどメロンはまだ書いてない。男性の作品では森鴎外の『普請中』にメロンがすこしでてくる。アメリカ行くと毎朝メロン食べてるらしい。が、ぼくにとつてメロンといへばこれである。中谷宇吉郎の随筆『寺田先生と銀座』だ。中谷宇吉郎が寺田寅彦につれられて千疋屋にメロンを食べに行つたときのはなし。メロンが登場する日本文学史上最高の傑作と断言する。『くだものだもの』に入れてほしかつたなあ。『中谷宇吉郎随筆集』に入つてゐるのでぜひ。こちらは岩波文庫なのでまだ新刊書店にあるはずです。（追記）うちだひやつけんの「ケン」ともりおうがいの「オウ」の字が出ませんでした。出せるやうになつたらすぐに直します。

  2008.10.02

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• ブログ一ヶ月

  今日でブログをはじめて一ヶ月だ。よくつづいたものだと自分で感心する。もうやめてもいいくらいだ。このブログの数少ない読者のみなさまに感謝申し上げます。（一週間のときの感想はこちら）（二週間のときの感想はこちら）当初の目標一ヶ月を達成したのでこれからは休み休み更新していかうかなあとおもふ。ブログ二週間のときにやつたやうにこれまでのはなしのつながりをふりかへるとかうなる。「ブログ」→「田口先生」　　↓「徒然草」　　↓「吉田兼好」　　　　　　　　　「宮本武蔵・独行道」　　　↓　　　　　　　　　　　　　　　 ↑「本居宣長」→「鶴田浩二」→「佐々木小次郎」→「高倉健」　　↓「玉勝間」　　↓「みかん」→「みかんの種類」　　↓「寺田寅彦」→「斎藤茂吉」→「仮名づかひ」→「福田恒存」　　↓「すし」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「夏目漱石」　　　　　　　　　　　↓　　　　　　　　　　「海老のすし」→「入門書」→「青木功・会津八一」　　　↓　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「海老フライ」→「盆土産」→「チックとタック」→「すし」　　↓　　　　↓　「食べ方」　　　→「夏目漱石・汁粉」　　↓「小僧の神様」→「志賀直哉」→「名前の略式表記」　　↓「モーパッサン」→「本の書き込み」→「中島敦」→「斗南先生」　　↓　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓「首かざり」　　　　　　　　　　　　　　　　　　「サッカー・眼鏡」　　↓　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　↓　　　　↓「星新一」　　　　　　　　　　　　　　　　　「正義と微笑」「堀江忠男」　　　　　↓「生活維持省」　　↓「心中」　　↓「梶井基次郎」　　↓「レモン」→「高村光太郎」　　↓「内田樹」→「エマニュエル・レヴィナス」　　↓「寺田寅彦」また寺田寅彦に戻つてしまつた。

  2008.09.30

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• 真理は単純にして平凡なり

  ９月２６日にサッカーと眼鏡のことをすこし書きました。そこでぼくは岡田武史選手（現監督）のことを挙げた。が、その前に堀江忠男選手を挙げないといけなかつた。ベルリンオリンピックの日本代表で経済学博士で早稲田のサッカー部の監督だつた人だ。岡田監督も早稲田だから指導を受けてゐる。（詳しいことは堀江忠男著『わが青春のサッカー』を。　岩波ジュニア新書に入つてゐる）もちろんぼくは堀江氏の現役時代は知らない。が、一つの言葉で印象に残つてゐる。加藤久選手のインタビュー記事。「＜真理は単純にして平凡なり＞　これも好きな言葉の一つ、大学の時サッカー部長で、僕の　生き方に大きな影響を持つ堀江忠男先生の言葉です。」　（『サッカーマガジン』１９９３年６月１３日号より。）真理は単純にして平凡なり。いろんなことに通じる言葉かもしれない。今の日本代表も単純で平凡なプレーを確実にやつて世界に羽ばたいてほしい。

  2008.09.29

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• レモンと弟子

  きのふのレモンのはなしのつづき。きのふレモンが出てくるもつとも有名な小説は梶井基次郎の『檸檬』、もつとも有名な詩は高村光太郎の『レモン哀歌』だらうと書いた。それらほど有名ではないのだが印象的なレモンの出てくる本がある。内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』といふ本だ。「「レモン」を切り取ることのできた師と、「レモン」の香りを　嗅ぐことしかできない弟子。この対比の比喩のうちに私たちは　古代から連綿と継承されてきた、律法学習における師弟関係に　ついての重要な教えを見ることができる。」哲学者エマニュエル・レヴィナスの師弟関係についての「深い洞見」について解説した箇所にある。このレモンの比喩といふのはレヴィナスの『困難な自由』といふ本から内田先生が引用した一文にある。そしてそのレヴィナスはラビ・アキバといふ人物の言葉としてこのレモンの比喩を引用してゐるのだつた。つまり引用の引用だ。「レモン」の比喩はずつと継承されてゐるのだらうなあとぼくはおもつた。有名ではないレモンのことを書いた内田樹先生はいまでは有名になつてしまつた。「なつてしまつた」とおもはず書いてしまつた。寺田寅彦は夏目漱石先生についてかう書く。「むしろ先生が、いつまでも名もないただの学校の先生であって　くれた方がよかったではないか、という気がするくらいである。」　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「夏目漱石先生の追憶」）内田先生は自分はレヴィナスの「弟子」だと書いてゐる。レヴィナスが日本でもわりと知られるやうになつたことをどんなふうにかんじてゐるのだらう。「師」のことが知られるやうになつてよかつたなあとおもふのだらうか。それとも寅彦の漱石に対するそれと同じやうにおもはれるのだらうか。寅彦の『柿の種』に漱石の「お弟子」について書いた短章がある。「夏目先生のお弟子と見られている人がかなりおおぜいいるようである。　この「お弟子」の意味がずいぶん漠然としていて自分にはよくわから　ない。」といふ書き出しで始まり、「お弟子の名もはかないものである。」で終る。寅彦の本音がすこし出てゐる気がする。

  2008.09.29

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• レモンといへば

  ９月９日にみかんといへば芥川龍之介の『蜜柑』９月１４日にエビフライといへば三浦哲郎の『盆土産』と書いた。しかし小説に出てくるレモンといへばあのレモンしかない。きのふ出てきた梶井基次郎の『檸檬』だ。（詩なら高村光太郎の『レモン哀歌』がありますね。）この人の場合には作品の数が少なく、これが代表作でもあるから前二者以上に結びつけられやすい。この作品を論じたものはたくさんある。そして「檸檬」は何かの象徴なんだといふ説明がなされる。９月２３日の志賀直哉の『小僧の神様』のところにもすこし書いたが、ぼくは文学作品の何かが何かを象徴してゐる、といふ話は苦手だ。象徴は書いた当人にしかわからない。仮に象徴されてゐるものの答へがわかつたとしてもその作品をわかつたことにはならないだらう。どうしてそんなに無理して象徴含意を読み取らなければならないのか。「あなたにとつてサッカーとはなんですか。」「大関にとつて横綱とはなんですか。」と聞くインタビュアーのやうなものだ。それなら「檸檬」は岡本太郎の太陽の塔だと言つてもいい。あれも雑多なもののなかに屹立して全体を調和させてゐる。でもぼくはさういふことよりも視覚的なイメージがおもしろい作品だとおもふ。昔の寺町通りはこんなかんじだつたのだなあと思ひ描くのもたのしい。檸檬の色彩が、「カーンと冴えかえっていた。」といふところもいい。果物屋でも丸善でも「私」以外の人間が誰ひとり出てこない。檸檬を買つたとき当然お店の人と顔を合せてるはずだが、店の人は描かれない。丸善にだつて人がゐるだらうが「私」の眼には映らない。「私」はさういふ状態なのだとわかる。「檸檬など極くありふれている。」でも『檸檬』はありふれた小説ではない。＜追記＞レモンの出てくるもつとも有名な詩を書いた高村光太郎も丸善には縁があります。明治三十八年丸善で『オオギュスト・ロダン』といふ本を手に入れ、彫刻こそ自分の道だと感じるのでした。

  2008.09.28

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• ふたりの「心中」

  一昨日、星新一のことを書いたとき、星新一が眠れないほど悩まされたといふ川端康成の『心中』にすこしふれた。現在新潮文庫の『掌の小説』には１２２篇の短篇が収録されてをり、『心中』はその中にあるたつた２ページの作品だ。最後の一行。最初読んだときはやつぱり「えっ？」といふかんじだつた。なんだこれは、とおもつた。でもぼくはそれ以上ふかくはかんがへずに次へすすんでしまつた。それを星新一はかんがへつづけたのだ。星新一にとつて『心中』は１２２篇のなかの単なる一篇ではなかつた。１２２篇のなかで『子の立場』『心中』『龍宮の乙姫』と連続する三篇に星新一は『掌の小説』の「頂」を見てゐる。そして『心中』は雲の中に突つ込んだ先端であると。短篇集全体をこんなふうにたとへた読み方がすごい。『心中』はそれだけの傑作なのだ。川端康成といへば『雪国』や『伊豆の踊り子』が有名だけど。『心中』に注目した作家はじつはもう一人ゐる。梶井基次郎だ。『川端康成第四短篇集「心中」を主題とせるヴァリエイシヨン』といふ題の小品がある。これはアレンジといふのかリメイクといふのかわからないが、梶井による『心中』だ。梶井にとつても『心中』は特別な一篇だつたのだ。時代も作風も生き方も違ふ二人が同じ作品に魅せられたといふところがおもしろい。ちなみに『心中』は星の生まれた大正１５年に書かれた。梶井はその年２５歳だつた。

  2008.09.27

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• 作家とサッカー

  一昨日、中島敦全集のことにすこしふれました。中島敦に『斗南先生』といふ作品がある。主人公「三造」の眼を通して中島敦の伯父中島端のことを描いた短篇だ。「三造」は中島敦その人であらう。「斗南先生」とは中島端のこと。読んでゐたらこんな箇所があつた。「彼は、学校で蹴球（アソシエーション）をしていて、顔を蹴られ、　顔中繃帯をして病院へ通っていたのであった。」中島敦がサッカーやつてたとは知らなかつたなあ。（「蹴球」はフットボール。「アソシエーション」とは「アソシエー　ション・フットボール」（サッカー）の略。ラグビーと区別するため「協会式」の意でこの名称を用ひた。「ア式蹴球」ともいふ。）高等学校を卒業する年とあるから年譜で見ると昭和五年（１９３０年）、二十一歳のときだ。おそらく日本の文学作品にサッカーのことが出てくるもつとも古いものではなからうか。（これより以前の作品があつたらおしへてください。　作品自体は昭和八年（１９３３年）に書かれてゐます。）サッカーの歴史と照らし合はせてみる。１９１８年、日本フートボール優勝大会の開始。　　　　　　（現在の全国高等学校サッカー選手権大会）１９２１年、大日本蹴球協会設立。１９２９年、日本が国際サッカー連盟に加盟。１９３０年、第１回ワールドカップがウルグアイで開催。１９３６年、ベルリン五輪で日本がスウェーデンを破る。中島敦がサッカーやつてたのは最初のワールドカップのころなんだなあ。すごい。歴史を感じる。『斗南先生』の記述はまだつづく。「上から落ちてくる球をヘッディングしようとして、一寸頭を　さげた途端に、その同じ球を狙った足に、下から眼のあたり　をしたたか蹴られたのである。眼鏡の硝子は微塵に砕けて、　瞬間はっとつぶった彼の眼の裏には赤黒い渦のような影像が　はげしく廻転した。」うわあ。大丈夫か。痛さうだ。これで眼のまわりを切つた三造は病院に二週間通ふのだつた。この逸話は昭和十一年に書かれた「どのスポーツが好きか」といふ文章にも出てくるので事実そのままであらう。それにしても当時はまだ眼鏡をかけて試合をしてもよかつたんだなあ。これ公式戦かはわからないが。やはり危ないといふことで禁止になつたのだらうとおもふがいつからさうなつたのかなあ。現在日本代表監督の岡田武史選手は現役のとき眼鏡かけてたからそれ以降だらうか。でもいまはコンタクトレンズがあるか。最近ではオランダ代表のダービッツが緑内障の手術後特殊なゴーグルをつけて試合に出てゐた。中島敦の時代にはそんなものないから大変だつたのだ。（岡田監督の時代も。）今回、サッカーを扱つた小説があまりないことに気づいた。最近ではいくつかあるがＪリーグ発足以前に書かれたものは少ない。集英社文庫の『スポーツ小説名作選』といふ本にも野球やボクシングの小説はあるがサッカーはない。サッカーは難しいんだらうか。太宰治の『正義と微笑』の主人公は蹴球部だがサッカーについての詳しい描写はない。「きょうは、二中と試合をした。僕は前半に二点、後半に一点をいれた。　結局、三対三。」ハットトリック決めてるのに淡々としてるなあ。

  2008.09.26

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• 星新一の「生活維持省」

  一昨日、星新一のことを書いたが、星新一の『生活維持省』といふ作品に似た漫画があるといふことが最近話題になつてゐた。『生活維持省』。『生活維持省』は強烈だつた。星新一には膨大な作品群があるけれどこれが特に印象に残つてゐるといふ人は多いだらう。ミュージシャンがベストアルバムを作るときみたいに「星新一ベスト」といふのを選ぶとしたらこれは必ず入る。ボブ・ディランでいへば「時代は変る」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」みたいなものだ。星新一と『生活維持省』の評価については谷沢永一が「『人造美人』の余白に」といふ文章で最大級の賛辞を与へて言ひつくしてゐる。「星新一の作品で特別の地位を占めるのは『生活維持省』である。　読んで下さいというよりほかない深刻な名作であり、こういう　方角から問題を考えるには文学という形式をとる以外に方法が　ないと痛感させられる絶品である。」　　　　　　　　　　　　（『人間通になる読書術』に所収）名作は再読すると新たな発見があるものだ。ぼくは今回『生活維持省』をあらためて読み返してみて、またちがつた印象を受けた。何か見落としてゐるやうな気がするのである。何かここには深い意味があるのではないか。そんな気になつてしかたがなかつた。課長。カードの束。自転車の二人。ウサギと少年。ガソリンスタンド。小川のほとり。わからない。なんでだらう。かういふ気持になつた人はほかにもゐるんだらうか。ぼくに読解力がないだけかもしれないが。星新一自身も川端康成の『掌の小説』にある「心中」といふ作品に眠れないほど悩まされた体験を書いてゐる。あの星新一が、である。『川端康成全集』の月報にのつてゐるのだが、谷沢永一が『生活維持省』を評した文章に負けないぐらいこちらもすごい。「こんな作品が古今東西ほかにあるだろうか。」そこまで言ふのか、とおもふほどだ。ぼくらが『生活維持省』で受けた衝撃は、星新一にとつては『心中』だつたのだ。

  2008.09.25

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• 漱石のかきこみ

  きのふモーパッサンの『首かざり』のことを書いたときに夏目漱石の感想を引きました。あれは『漱石全集』別冊にある「藏書の餘白に記入されたる短評竝に雜感」にのつてゐます。要するに読んだ本の余白の書き込みです。こんなものまで全集に収められてゐるのはさすが漱石だなあとおもはずにはゐられません。個人的な書き込みだからどこかに発表することを想定して書いたものではないのですが、これがおもしろい。大半が英語の本で、シェイクスピア、ミルトン、スウィフト、デフォー、ディケンズなどの本が出てくる。あとダンテ、バルザック、ゴーリキーなども英訳で読んでゐる。で、モーパッサンのところを見ると、「愚作ナリ」「愚作ナリ」「是も愚作ナリ」「面白イ。然シ要スルニ愚作ナリ。」などと書いてある。きびしいなあ。「是ハヨシ」といふのもあるが全体的にモーパッサンには点が辛いのだつた。他の人のところも読んでみる。面白いことばがたくさん書いてある。「可ナリ」「奇」「ツマラヌ」「ソンナ者ヂヤナイヨ」「コンナ長い獨言ヲ言フ者ガアル者カ」「女ノ鼻ノ穴ヲ叙スルノハ新シイ」「アマリ面白カラズ。コレ丈ノideaガアレバモツトウマク書イテミセル」いいなあ。その本を読んだことがないのにわかつた気になつてしまふ。じつはぼくはこの漱石の書き込みが面白くて自分でも真似をして本に「愚作ナリ」とか書き込んでたことがある（笑）。その本いまどこにあるかなあ。古本屋に売つたかもしれない。買つて読んだ人はびつくりするでせうね。それとは逆に、書き込みのある本を買つた経験があるといふ人も多いとおもふ。推理小説を買つたら登場人物欄に「→犯人」て書いてあつたとか。ぼくも何度かある。一番印象に残つてゐるのはちくま文庫の『中島敦全集』の古本。本文の何箇所かにアンダーラインが引いてあり、注釈が加へてある。へえー、勉強になるなあとおもつてすこし得した気分になつたものだ。漱石に本を貸してもらつた人はもつと得した気分になつただらう。漱石の解説付きですよ。

  2008.09.24

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• エス氏の首かざり

  ９月１８日に『小僧の神様』のことを書いたときに、志賀直哉は劇的な結末にしなかつたといふことを書きました。それとは反対に劇的な結末を得意とする人もゐる。ぼくがまづ思ひ浮かべるのは星新一。誰の追随も許さない世界でも唯一無二の存在だとおもふ。それからオー・ヘンリーやロアルド・ダールなどがゐますね。が、そのあまりな結末により次のやうに評された小説がある。「今までに書かれたあらゆる小説のなかで最も残酷な物語が　『首かざり』である。幼き日の私はこの一篇を読み終えて　殆ど作者を憎悪した。」　　　　　　　　（谷沢永一「人間通になる読書術・実践編」）『首かざり』はフランスの作家モーパッサンの短篇。残酷な話といつても人が死んだりとか血が出たりとかするわけではありません。この『首かざり』といふ作品は夏目漱石も読んでゐて次のやうなことを書いてゐる。「此落チガ、嫌デアル。コヽニ至ツテ今迄ノイヽ感ジガ悉ク　打チ壊サレテ仕舞フ。ナゼモーパサンはかうだらう。」　　　　　　　　　（『漱石全集別冊』「短評竝に雜感」）漱石もひどく嫌つてゐますね。このあとにはその嫌悪感を具体的に指摘する言葉がつづきます。漱石は落語好きだけどかういふ落ちは嫌なのだ。かういふのがどういふものなのかは落ちなので具体的には書けませんが。ここでおもひおこされるのが星新一である。星新一の作品にだつて辛辣な落ちがあるものは少なくない。が、あまりにひどい後味の悪さや憎悪などは感じない。さういふ書評も聞かない。なぜ読者は嫌悪感にまで達しないのか。作者が登場人物に感情移入させないからである。星新一はそのために細心の注意を払つてゐる。人物の描写を極限にまで削ぎ落とし、名前もエス氏やエヌ氏、ただの「男」とか「警官」とか「教授」だ。フロル星人とか。一方モーパッサンの『首かざり』は人物にマティルド・ロワゼルといふちやんとした名前がついてゐる。リアルだ。もうひとつ、星新一は話を終らせるタイミングが絶妙である。いきすぎることもなければもの足りないといふこともない。漱石は久米正雄の『競漕』を評して、『競漕』はあれ以上行けないのです。またあれ以上行く必要はないのです。と言つたらしいが、星新一はそれを毎回やつてゐるのである。１００１話だつたかな。これはすごいことだ。さういへば『小僧の神様』も人物名がＡとＢですね。小僧は仙吉といふ名前だけど。Ａと仙吉。この命名のしかたの違ひはどこからくるのか。むかしからいろいろ言はれてますね。貴族院議員と秤屋の小僧といふ越へ難い階級の差を象徴してゐるんだとか難しい解釈が。どうなんでせうか。ぼくの素人かんがへを書きます。『小僧の神様』の最後のところにかうある。「とこういうふうに書こうと思った。しかしそう書くことは　小僧に対し少し惨酷な気がしてきた。それゆえ作者は前のと　ころで擱筆する事にした。」つまり、名前の付いた人物に残酷なことはできないのである。モーパッサンはそれをやった。志賀直哉は名前の付いた人物に詳細な描写を加へれば読者が感情移入をし、理不尽なひどい目にあはせれば傷つくことも当然わかつてゐる。志賀は小僧のほうをリアルにしたことで、記号的な「Ａ」には善事をしたのに「変に寂しい、いやな気持ち」を背負はせてゐる。小僧の名前がＡとかＢなら例の祠の落ちもあり得たかもしれない。つまりモーパッサンの『首かざり』は、リアルなＡが寂しい気持ちにおちいり、記号的な小僧がすしを置いて帰るやうな話なのである。（それはそれですごいなあ。）志賀直哉はそのやうな手法を理解した上で、『小僧の神様』でわかりやすく示してみせたともいへる。星新一はさらにそれをあのやうな独自のスタイルに発展させた。星新一だつたらあの小僧の結末をどうしただらう。とかんがへるのは、たのしい。

  2008.09.23

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• 追記

  むかしはひとつの姓に所属する親族集団の単位が大きかつた。それがだんだんと個人を示せるくらいに縮小してきたから姓だけの表記でも通用するやうになつてきたのだといふ説明もつく。ウヂ（氏）の名からイへ（家）の名への変化といふことも関係してゐるかもしれない。

  2008.09.20

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• 「夏目」と「龍之介」補足

  きのふの人名の略式表記のはなしの補足。堀辰雄は「堀辰雄」とフルネームで表記してゐるものが多いと書きましたが、「堀」「堀さん」も結構ありました。といふことは、雅号などをつけてない和音の名前の人は姓で呼ぶ傾向があるといふ説に堀辰雄もあてはまるわけですね。今日はきのふご指摘を受けた文学者以外の歴史上の人物でもこれを考へてみたいとおもひます。（あくまでも現在のわれわれがどう略して呼ぶ傾向があるか、といふことですが、私の主観的な思ひつきや印象が入つてしまふかもしれません。何かお気づきになつた方はご指摘ください）（藤原）道長　頼通　忠通　俊成　定家（源）義家　頼朝　義経（平）清盛　重盛　知盛（北条）時政　時宗　泰時（足利）尊氏　直義　義満　義政代表的な姓をまとめて源平藤橘と言つたりしますが、このへんは姓だけでは誰だかわからないので当然名前ですね。これは戦国時代の人物についても変りません。（武田）信玄　（上杉）謙信　（毛利）元就　（織田）信長　（豊臣）秀吉　（徳川）家康名前だけで通用しない人はフルネームになりますが、姓だけで通用する人はゐません。豊臣、長宗我部、竜造寺のやうにめづらしい姓でもおなじです。何代もつづく家系で他にもいろいろゐるんだからあたりまへだらうと言はれさうですが。が、これが幕末の人物になるとすこし変つてくるのです。西郷（隆盛）大久保（利通）高杉（晋作）近藤（勇）土方（歳三）勝（海舟）なんかは文脈によつては姓だけで通用する場合が多い。「文久三年に高杉が奇兵隊を作りましたよね」「ええ」とか、「新撰組で誰が好きですか？」「土方です」といふやうな会話は十分なりたちます。でも戦国時代の話題で、「織田が永禄三年の桶狭間の戦ひで…」「はい」とか、「戦国武将で誰が好きですか？」「上杉かな」とは言はないやうにおもひます。これは幕末維新史で高杉とか大久保といへばそのひとしかゐないため誰だか特定できるからだとおもひます。さういふわけで幕末になると姓だけでも呼ばれる人が何人かゐます。（司馬遼太郎の幕末を扱つた作品をみると文中に姓だけで表記される人物がたくさんでてきますね。戦国時代を扱つた作品と比較してみるとその違ひははつきりしてゐます）では、戦国と幕末の間の江戸時代ではどうでせうか？（幕末も江戸ですが）姓だけで表記されたり呼ばれたりする人。大石（内蔵助）と吉良（義央）ですかね。あとは田沼（意次）、大塩（平八郎）あたりか。近松（門左衛門）も。ある程度めづらしい姓で同時代に有名人がゐなくて、一般的に通つてゐる名前が和音の戦国時代以降の人、これが現在姓だけで呼ばれ得る歴史上の人物の条件と言へるのではないでせうか。結論を書いてしまひましたが、この定義からもれる人もゐるとおもひます。今後また気づいたことがあれば書きます。

  2008.09.20

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• 「夏目」と「龍之介」

  きのふ志賀直哉のことを書いてゐてふとおもつたことがあります。今日はそのはなし。ぼくは夏目漱石を「漱石」と略して表記してゐる。芥川龍之介を略すときは「芥川」だ。ぼくのやうにブログに読んだ本のことを書くことが多い人はたいていそのやうに書いてゐるだらう。評論などで「夏目の『坊ちゃんが』が…」なんていふ文章にはまづお目にかかつたことがないですね。夏目漱石を「夏目」と書く唯一（？）の例外は漱石の奥さん夏目鏡子の『漱石の思い出』だらう。（これは夏目鏡子が口述したものを松岡譲が筆録したものだから厳密に言へば「書いた」わけではないのだが）芥川龍之介を「龍之介」と書くものも見かけない。手元にある本をいくつか見てみたがほぼ「芥川」だつた。９割方「芥川」です。（毎日新聞社から出てゐた『昭和文学作家史』といふ本の芥川のページにある解説文に、「龍之介」と書いてあるのを見つけた）つまり略式表記には二種類ある。「漱石」のやうに名を書くものと「芥川」のやうに姓を書くもの。これには法則がある。やうな気がする。まづこんなふうに考へた。ペンネームが漢字音の人はそれで呼ぶ。漱石　露伴　紅葉　鴎外　逍遥　一葉だから俳人は例外なく俳号で呼ぶ。子規　虚子　碧悟桐　蛇笏歌人もさうですね。啄木　茂吉　晶子　左千夫詩人も。白秋犀星朔太郎賢治中也では歌人や詩人ではなく作家で和音の人は姓で呼ぶのかといふと、これがちょつとあやしい。とりあへず挙げてみます。芥川谷崎武者小路川端横光太宰井伏時代が新しくなればなるほど姓で略式表記が増え、下の名で呼ばれる人が減つていく。松本清張の「清張」あたりまでか。漢字音のペンネームが少なくなつたせいかもしれない。例外的な人もある。堀辰雄だ。新潮文庫の丸岡明の解説文は全文「堀辰雄」とフルネームで表記されてゐる。同文庫の『風立ちぬ・美しい村』の中村真一郎の文章も「堀辰雄」。前掲の『昭和文学作家史』でも全文「堀辰雄」。さつきのパターンでいけば「堀」と表記する系統なのだらうが「堀」が二音であるためか「辰雄」もくつつけてゐる。姓が二音は名前もつけるなら檀一雄はどうだ。「檀」か「檀一雄」ですね。織田作之助を「織田作」司馬遼太郎を「司馬遼」と言ふ人がゐる。三字の名前の人にたまにある。でも大江健三郎を「大健」とは言ふ人はあまりゐませんね。あ、わかつた。「堀辰雄」は「司馬遼」、「織田作」と同じなのです。この三人は姓が二音。「大江健三郎」が「大健」にならないのは「大江」が三音だからだ。姓が二音の人の時、下の名前をくつつけることがあるわけだ。何でだらう？二音だと呼ぶ時何か座りがわるいからかなあ。そこで志賀直哉である。ぼくはきのふ志賀直哉のことを書いたとき、あれ、志賀直哉は「志賀」か「直哉」かどつちかなあ。と迷つて全部「志賀直哉」にしたのだつた。さつきのパターンでいけば「志賀」なのだらうが、「直哉」と書いてあるものも多い。有島武郎も「武郎」と書いてあるものが結構ある。ふたりとも白樺派ですね。でも時代が経つにつれて「志賀」「有島」表記が増えていつてゐる傾向があるやうに感じる。（詳しくしらべたらまた書きます）といふことはやはり名前が和音の人は姓で略式表記、といふ法則はある程度あてはまるわけですね。堀辰雄以外は。さういへば「志賀」も二音ですね。それで迷つたのか。

  2008.09.19

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• 偶然の再会

  きのふ志賀直哉の『小僧の神様』のことを書きました。そのつづき。岩波文庫版の「あとがき」には作者自身の解説がのつてゐます。「屋台のすし屋に小僧がはいって来て一度持ったすしを　値をいわれまた置いて出て行く、これだけが実際自分が　その場に居合わせて見た。」志賀直哉自身の体験が元になつてゐるのですね。といふことは貴族院議員のＡが登場してその後すしをごちさうしてやる部分などはすべて作者の創作といふことだ。わづかな材料から想像をふくらませてあのはなしに仕立てたところがやつぱりすごいなあ。ところで、『小僧の神様』はこんなふうに終ります。「作者はここで筆をおくことにする。実は小僧が「あの客」の　本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えてもら　ってそこを尋ねて行く事を書こうと思った。」作者が出てきてこの話の終らせ方について説明するんですね。そして、「ところが、その番地には人の住まいがなくて、小さい祠があ　つた。小僧はびっくりした。」といふふうにしようとおもつたが、小僧に対して残酷だと思いやめた。そんなことをつけ加へて終わるのです。ぼくは作者が最後に登場するのもおもしろいなあとおもつたけど、なるほどさういふオチをつける人もゐるだらうなあとおもつておもしろかつた。何か志賀直哉の性格や創作の姿勢の一端がわかるやうな文章です。たしかに最後に祠を見つけてびつくりするなんてのは、わざとらしいといふか不自然といふかやりすぎな感じがぼくもしますね。ただ、それを言ふならこの作品には一つ無理をしてゐるなあとおもふ箇所がある。Ａが小僧と偶然再会するところだ。Ａは小僧（仙吉）のことが気になつてはゐたが、名前も住所もわからない。そんな時Ａは自分の子供の体重を知りたいといふ気持ちから秤を買ふことを思ひつく。そして神田の秤屋へ行つたら偶然小僧がゐた。ちよつとできすぎだなあ。どう思はれましたか？秤屋さんに秤を買ひに行く機会なんてめつたにないんぢやないでせうか。しかもこの人は貴族院議員ですから。（でもお金持ちといふ設定でないとすしをごちさうできない）めつたに行かない秤屋にたまたま行つたら例の小僧が働いてゐる店だつたといふことになる。やりすぎのオチを避けた志賀直哉にしてはこれは劇的すぎる。もつと自然な再会の方法はないもんだらうか。作者になつたつもりで考へてみました。すし屋の主人か他の客が小僧のことを知つてたといふことにして、「ああ、あの子は神田の秤屋の小僧ですよ」なんて言つたのをＡが聞いて秤屋に行くことを思いつく、といふふうにしたらどうだらう。だめだなあ。それではあのすしを引つこめる場面の気まずい感じが出ない。それに屋台のすし屋だから客は「三人ばかり」といふことになつてゐる。三人の中に顔見知りがゐたらそれこそ偶然すぎる。知り合ひのゐないやうな屋台のすし屋だからこそ小僧は思ひ切つて入れたのだし。ではＡが神田に何か用事があつて出かけた時、秤屋の前を通りかかる。そしてたまたまそこで働く小僧を見かけて「あ、あのときの小僧だ」と気づく、といふのはどうだらう。うーん、さつきよりは自然だがどつちにしても偶然の力を借りないとだめですね。結局「偶然」の使ひ方次第といふことか。さうすると問題はどの偶然を選択するかだ。志賀直哉もその辺はわかつた上であの「偶然」を選んだのだらう。偶然とか特別な力でも借りなければ素性がわかりさうにないからこそ小僧はびつくりして、Ａを「神様」とまでおもふやうになるのだ。考へてみればぼくも偶然の再会といふものをしたことがある。だれだつてひとつやふたつはあるだらう。事実は小説より奇なりといふが小説や映画だとかへつて不自然に見えてしまふことがあるから難しいですね。

  2008.09.18

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• 広まるもの

  ９月１４日の回に海老フライのことを書いたとき、エビのフライは尻尾を食べるかどうか論争があるといふコメントをいただきました。（ありがたうございました。）ぼく自身はエビフライを食べないので周囲の人間に聞いてみたところ、食べないで残すといふ人が多かつたです。油で揚げてあるので体に悪いといふことはないやうな気はしますが、尻尾をカリカリと食べるといふ人は少数派でした。食べ方も人によつていろいろですね。といふのが今回のはなしの前置きで、「すしを食べる時には、魚のほうを下にして食べる」といふ話を聞いたことがありますか？といふのが本題です。ぼくがこの話を最初に聞いたのは小学校の時の先生からだつた。「魚のほうを下にして口に入れると魚の味がわかるのです。」そんなやうな理由であつたとおもふ。ぼくはへえ～、さうなんやあとおもつてそれ以来その先生の教へを守つて魚を下にしてゐるのだつた。が、ある有名な文学作品にそのはなしが出てゐるんですね。すしが出てくる短篇と言へば（長篇があるかは知らないが）、志賀直哉の『小僧の神様』である。貴族院議員のＡとＢとの会話から。（先に話しかけてゐるほうがＡです）「このあいだ君に教わったすし屋へ行ってみたよ」「どうだい」「なかなかうまかった。それはそうと、見ていると、皆こういう　手つきをして、魚のほうを下にして一ペンに口へほうり込むが、　あれが通なのかい」「まあ、まぐろは大概ああして食うようだ」「なぜ魚のほうを下にするのだろう」「つまり魚が悪かった場合、舌へヒリリと来るのがすぐ知れるから　なんだ」「それを聞くとＢの通も少し怪しいもんだな」Ａの言ふ通りＢの根拠は何か怪しいなあ。ちなみにぼくの周囲には魚を下にする人は少なかつた。すし屋に関する俗説（？）つて多いですね。箸ではなくて手で食べるのが通だとか。何を最初に注文すると通だとか。醤油はどつち側につけるのがいいとか。すしを数へるときは一貫二貫なんだとか。ぼくはどの食べ方が正しいかといふことよりも、なぜ特にすしに限つてそんな説がいろいろと生まれてくるのか、といふことのほうに興味がありますね。『小僧の神様』は大正８年（１９１９年）の作品です。小説が書かれた年から計算しても、「魚（ネタ）が下」説は９０年もの長きにわたつて日本人の中に生き続けてゐるわけです。すごいなあ。なぜ「魚（ネタ）が下」説はこんなにも生命力があるんだらう。一人や二人ではなくたくさんの人が広めたからでせうね。なぜ広まるのか。日本を代表する食べ物であり、日本人誰もが大好きな食べ物でありながら、すしはよくわからないことが多い。他の食べ物（そばとかうなぎ丼とか）と比べて形状が特殊だ。いろんなことを知りたいし覚えておきたいとおもふ。そんなすしについての蘊蓄や雑学といふのは、他人に教へて「通」だと思はれたいといふ欲望をもつとも誘発するものだつたからだらう。「通は下にするんだ」とか言つて。『小僧の神様』に出てくるすしは「まぐろ」と「のり巻き」。寅彦の回からしらべてゐる海老のすしは出てきません。ちなみにまぐろは一つ六銭とあり、秤屋の小僧仙吉はその値段を聞いて一度手にとつたすしを置いて出て行つてしまふのだつた。

  2008.09.17

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• 汁粉屋の爺さん

  ９月１４日の回に夏目漱石と海老フライのことを書きました。今日は漱石と汁粉です。（食べ物のはなしばつかりだなあ。）漱石の汁粉好きは有名ですね。『吾輩は猫である』にもこんなふうに出てくる。天然居士・曾呂崎のことを迷亭や鈴木君とふり返る場面。天然居士は実在の人物で漱石の友人米山保三郎の戒名です。「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉を食いに　出たが、その祟りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。　実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎より　先へ死んで宜い訳なんだ」このはなしは漱石が学生時代に汁粉をよく食べたといふ実話そのままです。「入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。これは毎晩寺の門前へ売りに　来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前ま　で来た合図に、きっと団扇をばたばたと鳴らした。そのばたばた云　う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。した　がって、余はこの汁粉屋の爺のために盲腸炎にされたと同然である。」　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（「満韓ところどころ」）盲腸炎を汁粉屋の爺さんのせいにしてゐるところがおもしろいですね。それにしても汁粉毎晩はすごいなあ。漱石先生食べ過ぎです。漱石つて胃弱なのに大食家なんですね。正岡子規も鍋焼きうどん１０杯食べたらしいですけど。病気がちの人ほどよく食べるんだらうか。それともよく食べるから病気がちになるのか。何かこの二人は似てゐます。一緒にごはん食べた時はすごかつただらうなあ。ここでこの間の海老フライのはなしへ戻ります。この間は『琴のそら音』に、腹の具合がわるいのを海老のフライが原因だと考へる主人公が出てくるといふ内容でした。今回の汁粉のはなしも同じで、体の不調の原因は食べ物にあるだらうと考へるところが共通してゐます。漱石は胃が弱かつたし、晩年は糖尿病なども患つてゐた。健康や病気についていろいろとおもふことが多かつたのだらう。漱石は四十九歳で亡くなるのですが、体が丈夫だつたらもつとたくさんの作品が書けたかもしれない。『明暗』だつて完結してゐたはずだ。ぼくも汁粉屋の爺さんが恨めしい。

  2008.09.16

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• すしとバンカーとウグイスと

  えびのすしの問題（９月１０日）のつづきを書きます。といつても新事実が見つかつたわけではありません。きのふつづきを書くと予告してしまつたので。まだわかりません。図書館にも行きましたが、海老のすしの歴史について書いてあるものがない。「寿司ネタの歴史」とか、「海老と日本の食文化」とか、そんなタイトルの本があつても良ささうなんだがなあ。ぼくはすしに関しては素人だから、いい入門書があるといいな、ともおもつた。「入門書」について丸谷才一先生がこんなことをおつしやつてゐる。「以前僕は、入門書の選び方について書いたことがあります。そのとき、言ったのは、『偉い学者が書いた薄い本を読め』ということでした。例にあげたのは荻生徂徠の『経子史要覧』、あるいはコーンフォードの『ソクラテス以前以後』。」　　　　　（『思考のレッスン』より）なるほど、偉い学者が書いた薄い本…。でも、ちょつと待つてください。ある分野を概観して誰が偉い学者なのかがわかるやうな人は入門書なんか読まないのでは？丸谷先生はどういふ意味で言つてをられるのだらう。さうすると寿司の世界で偉い人つて誰なんだらう。そしてその人は薄い本を書いてゐるのだらうか。わからないなあ。ゴルフの青木功が解説者のときよく言ふセリフ。「ここから出せるやうな人は、こんなとこ打ち込まない。」（要旨）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　つまり入門書の良し悪しがわかるやうな人は、入門書を読む必要がないわけで。おなじやうなセリフをもう一つ。会津八一が講演をきいてゐるときウグイスが飛んできて彼の頭にとまつた。そばにゐる人が立ち上つて、そのウグイスを捕まへやうとした時、会津八一はどなつた。「馬鹿者ッ、捕まえようとするようなやつの頭に、ウグイスは　止まらない」　　　（戸板康二著『ちょっといい話』から。（要旨））いいはなしだなあ。

  2008.09.15

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• えびフライからえびの寿司へ

  エビフライのはなしのつづき。えびフライが登場するもつとも有名な小説は何か？三浦哲郎『盆土産』ではなからうか。中学の国語の教科書（光村図書）に載つてゐたのでかなりの日本人がこれを読んでゐるはずだ。「えびフライ」といふ発音が難しくて、「えんびフライ」と言つてしまふ主人公、といへばあー、あれか。とおもひだされる方もゐるだらう。（舞台はおそらく作者の故郷青森）東京で働く父から手紙がくる。「『盆には帰る。十一日の夜行に乗るすけ。土産は、えびフライ。油とソースを買っておけ。』」そして父、姉、祖母と自分の四人で冷凍えびフライを食べるのだがこれがじつにうまさうなのである。それだけで印象に残つてゐるといふ人も多いとおもふ。「揚げたてのえびフライは、口の中に入れると、しゃおっ、というような音を立てた。かむと、緻密な肉の中で前歯がかすかにきしむような、いい歯ごたえで、この辺りでくるみ味といっているえもいわれないうまさが口の中に広がった。」でもおもしろいなあ。この作品は昭和５５年刊の短篇集『冬の雁』に収録されたもの。この前に書いた漱石と秋声のほうがずつと前の人なのにエビフライをありがたがる気持ちが薄い。時代背景や環境による違ひだらうか。ちなみにえびフライの発祥は東京銀座の「煉瓦亭」が１９００年に始めたのだといふ説がウィキペディアに出てゐました。漱石の『琴のそら音』は１９０５年の作品。時代的には合ひますね。「煉瓦亭」はポークカツレツやカキフライも元祖ださうです。カキフライを始めたお店ならえびフライも可能性高いですね。あと三浦哲郎は『とんかつ』といふ作品も書いてゐる。これもおもしろかつた。前回、脱線のことを書いたのにまた脱線してきたなあ。本流の「えびのすしのはなし」に戻さなければ。といふわけで、三浦哲郎の『盆土産』は国語の教科書にのつてゐたが、国語教科書の名作といへば、『チックとタック』（千葉省三・文／安野光雅・絵）がありますね。なつかしいなあ。　　　　　　　　　これは柱時計の中に住む小人のチックとタックがおじいさんの寝てる間にすしをつまみ食ひするのだが、おすしの中にはわさびが入つてゐて…といふおはなし。　　　　　　　　　おすしといへば寺田寅彦が漱石にすしをごちさうになつたときのはなしがぼくは大好きである。そこには海老を食べたと書いてあるのだが、そのころにはまだ海老のすしはないといふ説があるのだつた。では次回はえびのすしのはなしで。…なんとか戻つてきました。

  2008.09.14

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• 枝葉の問題

  エビフライのはなしのつづき。何かどんどん脱線していきますね。今日でブログを始めて二週間になるが、「ブログ」→「徒然草」→「本居宣長」→「玉勝間」→「みかん」→「寺田寅彦」→「すし」→「夏目漱石」→「海老のすし」→「海老フライ」と、はなしをつなげてきた。こんなふうにひとつの話題から連想して別の話題につなげていけばブログもつづけやすいのではとぼくはおもつたのだ。ただ困るのはときどきひとつの話題から二つや三つも枝が分かれてしまふことがあることですね。これまでのなかでも、「本居宣長」→「鶴田浩二」→「高倉健」「寺田寅彦」→「斎藤茂吉」→「福田恒存」といふふたつの枝が派生してきた。かういふのはまた一本の主流に合流できるときれいにまとまるんだが。枝は枝のままで伸ばすといふのもいいかもしれませんね。またこれから考へていきます。エビフライのはなしのつづきはまたこの次に。

  2008.09.14

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• 漱石と秋声のエビフライ

  えびのすしのこと（９月１０日の回）がなかなかわからないので、今日はえびフライについて。漱石の作品にエビフライが登場するものがある。明治３８年の『琴のそら音』だ。「余」が蒲団の中でランプの丸い影が動いて見えるのは腹具合のせいかもしれないとかんがへる場面。「今日会社の帰りに池の端の西洋料理屋で海老のフライを食ったが、ことによるとあれが祟っているかもしれん。詰らん物を食って、銭を取られて馬鹿馬鹿しい廃せばよかった。」このころもう海老フライがあつたんですね。漱石も食べたことがあつたんだらうか。でも作中で「詰らん物」と言はせてゐるところをみるとあまり好きではなかつたのかもしれない。海老フライが出てくる小説をもうひとつ。徳田秋声の『のらもの』（昭和１２年）から。晴代が腹痛で帰つてくる。いつもはウイスキイを飲むと納まるのだが、といふところ。「その日は昼飯の時に食べた海老魚のフライにでも中てられたのか、ウヰスキイの効き目も薄かった。」なんと、海老フライの出てくる二つの小説がいづれも食当りがらみだ。しかも両者とも実際には海老フライが原因かどうかはわからないのに、海老フライのせいだらうと見当をつけてゐるのだ。すごいなあ。「漱石と秋声の共通点は？」と聞かれたらこれからは「食当りを海老フライのせいにする小説を書いた作家。」と答へてしまひさうだ。あと細かいことだが二人とも「海老フライ」とは書かない。「えびのフライ」である。つまり明治３８年から昭和１２年までの間、「エビフライ」といふ呼称はまだ定着してゐなかったといふことがわかる。ぼくも小学校４年のとき海老フライに当つて学校を休んだことがある。それ以来、海老フライはだめである。（海老フライが好きな方、ごめんなさい。）「海老フライ」＝「食当たり」といふイメージ。これはもしかしたら漱石・秋声だけでなく結構一般的なものだつたのだらうか。そしてそれを作中の人物の憂鬱な心理描写に用ひたのか。これはぼくにしてはいい発見だ。と思つたのだがそれを証明するためにはちょつと事例が少なすぎるなあ。海老フライで食当りになる作品を他にも探さなければ。

  2008.09.14

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• レニかムリリョか

  ９月９日の回に寺田寅彦が夏目漱石を訪ねて、すしをごちさうになるはなしについて書きました。そのはなしにつづけて。寅彦はイギリス帰りの漱石からあるものをもらふ。「そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その中で好きなのを二、三枚取れと言われたので、レイノルズの女の子の絵やムリリョのマグダレナのマリアなどをもらった。」　　　　　　　　　　　　（『夏目漱石先生の追憶』より）とある。いまでも美術館に行くとかういふものがよく売つてますね。だが問題はここから。寅彦はこのはなしを『柿の種』「女の顔」にも書いてゐるのだが、かなり違ひがあるのだ。「夏目先生が洋行から帰ったときに、あちらの画廊の有名な絵の写真を見せられた。そうして、この中で二、三枚好きなのを取れ、と言われた。　その中に、ギドー・レニの「マグダレナのマリア」があった。それからまたサー・ジョシュア・レーノルズの童女や天使などがあった。」マグダレナのマリアの作者が、『夏目漱石先生の追憶』ではムリリョ。『柿の種』ではギドー・レニになつてゐる。また『夏目漱石先生の追憶』ではレイノルズ。『柿の種』ではサー・ジョシュア・レーノルズになつてゐる。（これは単なる表記の違ひでせうね。）そして二、三枚のうちの一枚に「天使」の絵が追加されてゐる。ぼくは絵や画家のことについてはよくしらないのだが、ギドー・レニ（１５７５～１６４２）はイタリアの画家でグイド・レーニといふのが慣用的表記のやうだ。ムリリョ（１６１７～１６８２）はスペインの画家でパルトロメ・エステバン・ムリーリョのこと。マグダレナのマリアはマグダラのマリアと表記することが多く、いろんな画家が絵の題材にしてゐる。二人は時代はある程度重なるが国が違ふ。寅彦がもらつたのはどつちなんだらう。わからない。寅彦の記憶もあいまいだなあ。『柿の種』「女の顔」は昭和６年１月。『夏目漱石先生の追憶』は昭和７年１２月。ほとんど同じ時期ですね。といつても約二年経つてゐるが。二年の間に「女の顔」を読んだ知り合ひに、あれはムリリョだよと指摘されて『夏目漱石先生の追憶』で直した可能性もある。寅彦はこの写真を額縁に入れて下宿に飾つてゐたといふから寅彦以外の人も見てゐるだらう。だが二年の間に「女の顔」に書いたことを寅彦が忘れてしまつて、誤つてムリリョしたといふ可能性も考へられる。どつちかなあ。絵に詳しい人ならすぐにわかるのかもしれない。でもそれ以前に、有名な随筆だからすでに誰かがこの問題を指摘して解決済みかもしれませんね。

  2008.09.13

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• 福

  この前の回を書くとき、「福」の正字体が出てこなかつた。ぼくは最近のパソコンは進歩してるはずだから出てこない字なんてないんだらうなとおもつてゐた。でもさうでもないみたいですね。禮とか禪は出てくるのに。人の名前は正しく書きたいものだ。「ふくだつねあり」を「福田恆存」と書かないといけないのはつらい。心が痛む。正字体が出てくるソフトといふのがあるらしいのでパソコンに詳しい人に教へてもらつて直せるやうにしたいものだ。前に書いたやつを直せるのはブログのいいところですね。紙に書いたものだつたらかうはいかない。紙には紙のよさがあるけれど。

  2008.09.12

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• 戰と武器の関係

  きのふの斎藤茂吉の『新仮名づかい』のはなしにつづけて。新仮名づかいに抵抗した人といへば、まづ福田恆存を挙げねばならない。（※「福」は正字體でなければならないのですが、出てきませんでしたのでやむをえず以下「福」を使ひます。どうか御理解ください。）福田恆存の主張は『私の國語教室』に書いてある。（※「教」も正字體ですが出てきませんでした。以下「教」を使ひます。）むかしは新潮文庫や中公文庫に入つてゐたがいまは文春文庫に入つてゐる。この本は現代仮名づかひや戦後の国語改革についてさまざまな角度から批判した本だ。内閣告示として「現代仮名づかい」と「当用漢字」が制定されたのが昭和２１年１１月１６日。茂吉が『新仮名づかい』を書いたのが同年１２月３日。『私の國語教室』は昭和３３～３４年に連載、翌年刊行。きのふの茂吉の短文に対してこちらは文庫本で３５０ページもあるのだが、このふたりの文章には共通する言葉が出てくる。それは「戰に敗れ」である。きのふの斎藤茂吉の文章をもういちど引く。「われわれはやぶれた。やぶれたのは何にやぶれたか、戦にやぶれたのである。戦に徹底的にやぶれてへたばってしまった。戦がもう出来なくなってしまった。また永遠に戦わしてはならない、またしないつもりである。軍艦一つ造らぬのである。永遠の丸腰である。へたばったのである。しかし自分の国語までへたばり、堕落せよとは誰が教えたか。」そして福田恆存。「かうして幾多の先學の血の滲むやうな苦心努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、人々の關心が衣食のことにかかづらひ、他を顧みる余裕のない隙に乘じて、慌しく覆されてしまつた、まことに取返しのつかぬ痛恨事である。しかも一方では相も變らず傳統だの文化だのといふお題目を竝べ立てる、その依つて立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が傳統、何が文化であらう。なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか。」（『私の國語教室』文春文庫版附録「福田恆存全集覺書四」より。昭和６２年８月）（※「覆」と「録」は正字體ですが出てきませんでした。）　ぼくは昭和２１年の国語改革の経緯については勉強不足でよくしらないが、二人とも敗戦と新仮名づかひとを結びつけてゐる。このやうな認識は一般的なものなのだらうか。このふたりについてだけの一致なのだらうか。あるいは福田が茂吉の文章に影響を受けたのか。福田恆存は『歌よみに与へたき書』などで茂吉のことを書いてはゐるけれど。ちよつとわからない。ぼくは以前ある先生（恩師のひとりであり歌人でもあられる）に昭和２１年当時のことを質問したことを思ひだす。「先生は、「新仮名づかひ」に変つた時にどのやうに受け止められましたか？抵抗がありましたか？それともすんなりと受け入れられましたか？」「いえ、やはりすんなりとはいきませんでしたね。」とのご返事だつた。そしていろいろな例を挙げて、歴史的仮名づかひのいいところをおつしやられ、歌は歴史的仮名づかひで書いてゐると言つてをられた。これは茂吉がとつた立場にちかいとおもふ。先生はおだやかな表情で、「言葉は武器です。」と言つてをられた。

  2008.09.12

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• 非力なもの

  この前寺田寅彦の随筆はどれをよんでもおもしろいと書いた。ぼくは寅彦がいちばん好きだが、ほかにもおもしろい随筆を書く人はゐる。そのひとりが斎藤茂吉だ。茂吉は短歌だけでなく、散文もいい。いま手軽によめるものとしては、岩波文庫の『斎藤茂吉随筆集』があり、これは阿川弘之と北杜夫の編集で２７篇が収録されてゐる。北杜夫は茂吉の次男。ヨーロッパ紀行の「ドナウ川源流行」「接吻」なんかがこの中ではとくにおもしろい。が、ぼくにはどうしても気になる一篇がある。終りから二番目に収められた「新仮名づかい」だ。これは新仮名づかひに対する茂吉の態度を端的に表明した文章で、昭和２１年１２月３日の日付がある。これをよむと茂吉は新しい仮名づかひ（ここでは「発音式仮名づかい」とある。）には反対の立場であることがわかる。そして、「私の生きているうちは無論、私の歿後歌集を出すような場合があったら、やはり私が原稿に書いたとおりに印刷させてもらいたいものである。これは天下のお役人にお願しておく。」（※「お願」となつてゐるがそのまま写しました。）と書いてゐる。なるほど、茂吉は以前の仮名づかひのままにしてほしいと主張してゐるのだな、とおもふ。が、変である。その主張は新仮名づかひで書いてある。新仮名づかひに反対する文章が新仮名づかひで書いてある。茂吉の原文は茂吉の文中の言ひ方でいふところの「国語式仮名づかい」で書かれてゐるはずなのだが。新仮名に直して収録してあるのか。岩波文庫は巻末の「岩波文庫（緑帯）の表記について」にあるやうに、「旧仮名づかいを現代仮名づかいに改める。」といふ方針で表記されてゐるからだ。この文庫の底本になつてゐるのは岩波の『斎藤茂吉選集』だと書いてあるが、そちらのほうも新仮名で表記されてゐるのだらうか。見てないからなんとも言へないが。ぼくはせめてこの文章だけは正仮名のままで載せてくれないと何が何だかわからないぢやないか、とおもふ。それでもこの茂吉の文章は短い中に言ひたいことを全部言ひ切つてゐて、非常に気持ちがいい。「われわれはやぶれた。やぶれたのは何にやぶれたか、戦にやぶれたのである。戦に徹底的にやぶれてへたばってしまった。戦がもう出来なくなってしまった。また永遠に戦わしてはならない、またしないつもりである。軍艦一つ造らぬのである。永遠の丸腰である。へたばったのである。しかし自分の国語までへたばり、堕落せよとは誰が教えたか。」茂吉は「われわれ歌よみなどというものは、まことに非力なものであるから」と、このあと悲観的な見通しで締めくくつてゐる。茂吉が現在の日本を見たらなんと言ふだらう。

  2008.09.11

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• 漱石、すしを食べる。

  きのふ寺田寅彦のすしの食ひ方を漱石がノートに書いてゐたといふはなしを書いた。何度も言ふがぼくはこのはなしが大好きである。漱石の食べ物に関する研究書といへば、河内一郎著『漱石、ジャムを舐める』がある。これは漱石の生涯と作品中における飲食に関する記録をしらべた本だ。漱石が舐めてゐたジャムの種類とか、『三四郎』の冒頭で三四郎が食べる駅弁はどこの駅で買つたのかとか、おもしろいはなしが食品別にたくさんのつてゐる。寅彦とすしを食べたはなしものつてゐるかなとおもつて、「握り鮨」の項を開いてみた。が、のつてゐなかつた。「漱石がすし屋に行った記録はない。握り鮨が家庭料理として作られたことはなかったであろう。ちらしずしなら食べていたかもしれない。他家を訪れた際に出前のすしを出されて食べたかもしれない。」とある。寅彦の回想記によれば、すしをごちさうになつたのは「矢来町の奥さんの実家、中根氏邸」である。「海苔巻」「卵」「海老」とあるから一般的な出前のすしであらう。漱石が残したといふ海老だが、河内さんの本にはすし種について、「大正後期になると生海老、しゃこ、数の子、新香巻などが現れる。」とある。前掲の逸話は漱石がロンドンから帰国したときだから明治三十六年。どういふことだらう。その時代に存在しない物を食へるはずがない。海老は海老だとおもふのだが。よくわからない。

  2008.09.10

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• みかんとすしの食ひ方

  前回のみかんのはなしにつづけて。みかんが登場するもつとも有名な小説は何か？芥川龍之介『蜜柑』であらう。しかしぼくには小説ではないけれど、みかんの出てくる大好きな作品がある。寺田寅彦の随筆『相撲』だ。何で相撲のことを書いた随筆にみかんが出てくるのかといふと、それは次のやうなしだいである。寅彦学生時代のはなし。「ある時東海道の汽車に乗ったら偶然梅ケ谷と向かい合いの座席を占めた。からだの割合にかわいい手が目についた。みかんをむいて一袋ずつ口へ運び器用に袋の背筋をかみ破ってはきれいに汁を吸うて残りを捨てていた。すっかり感心して、それ以来みかんの食い方だけはこの梅ケ谷のまねをすることにきめてしまった。」梅ヶ谷は初代ではなく、第２０代横綱の二代梅ヶ谷藤太郎のこと。精細な人間観察と対象への愛情。いかにも寅彦らしい文章だ。線香花火や草花、とんぼや蓑虫などさまざまな対象を観察して、名人芸とも言へる随筆を数多く書いた寅彦。寅彦の随筆はどれをよんでもおもしろい。だがそんな稀代の観察者である寅彦その人を、同じやうな眼で観察した人がゐる。師の漱石である。ロンドン留学から帰国した漱石を寅彦は訪ねる。「たしかその時に鮨のごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかっ　たが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻きに箸をつけると　自分も海苔巻きを食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。　先生が海老を残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の　死後に出てきたノートの中に「Ｔのすしの食い方」と覚え書きのして　あったのは、この時のことらしい。」寅彦の随筆『夏目漱石先生の追憶』より。漱石を敬愛するあまり寅彦は動きが同調してしまつたのであらうか。他人のことには目がいく寅彦がちつとも気がつかなかつたといふのがおかしい。そして弟子の些細な言動までおもしろがつて見てゐてくれる師、漱石はやはり若い人を惹きつける魅力のある人だつたのだなとおもふ。寅彦のこの追懐文は抑制の利いた文体のなかに、師漱石への思ひがあふれてをり、静かな感動を呼ぶ。みかんの食ひ方とすしの食ひ方。二人は発想が似てゐる。漱石にもつとも愛された弟子はおそらく寅彦だつたのではないかとぼくはおもふ。観察者同士、気が合ふのは当然といへば当然であつたのかもしれない。

  2008.09.09

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• みかんの登場

  ９月５日のところに、『玉勝間』の「古より後世のまされる事」の項のことを書いた。宣長はみかんが大好きだつた。「此みかんにくらぶれば、橘は数にもあらずけおされたり、その外かうじ、ゆ、くねんぼ、だいだいなどの、たぐいおほき中に、蜜柑ぞ味ことにすぐれて、中にも橘によく似てこよなくまされる物なり」６種類の柑橘類の名称が出てくる。みかん（蜜柑）橘かうじ（柑子）ゆ（柚／柚子）くねんぼ（九年母）だいだい（橙）ぼくはミカンと橘と柑子は同じ物を言つてるのかとおもつてゐたのだがさうでもないらしい。宣長は使ひ分けてゐる。古語においてはあいまいだつたのだが江戸時代になつて別々の品種を表すやうになつたのかもしれない。語源をしらべてみた。ただし語源説は証明が難しい。あくまでも有力な説といふことで。柑子と柚子は漢語が和語になつたもの。橙は果実が年を越しても２～３年は生りつづけるから「代々」がなまつたもの。橘は垂仁天皇の時、田道間守（たじまもり）が常世の国から　　持ち帰つたからといふ説が有名。　　ほかに、　　香りの高く立つ花説。　　民家には見られない舘の花説。　　葉が常に立ち青んでゐる花説。　　などがある。みかんは蜂蜜のやうに甘い柑子「密柑」から「みっかん」→「みかん」と変化した。宣長自身は「ユカン」（柚柑）が訛つたといふ説をとつてゐる。（『古事記伝』）九年母はインド語「kumela-nebu」の略。（『大言海』）前述の田道間守が持ち帰るまで九年かかつたからといふことに結びつける説もあるが、吉田金彦先生は『語源辞典植物編』で否定されてゐる。くねんぼは別名アベタチバナ。『万葉集』に「吾妹子に逢はず久しもうまし物安部橘の蘿（こけ）生すまでに」の歌がある。宣長はその安部橘よりも、みかんはうまいと言つてゐるのである。あまいみかんの登場は衝撃的だつたのだ。

  2008.09.09

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• 橋はヨコかタテか

  この前にブログの横書きのことについてすこし書いた。横書きの文章を縦書きにして本にしたものがある。さういふものはよめばわかる、と誰かが書いてゐたとおもふ。だれだつたかなあ。ぼくもなんとなくわかる気がする。活字のかたまりがつまつてゐて、息苦しい感じがするやつは横を縦にしたものだ。最初から縦書きのものは字の並びがもつとまるい。横を縦にしたものは活字が長方形にかたまつてゐて、都会のビル街みたいなかんじがするのだ。と、勝手におもつてゐる。高島俊男先生でした。『お言葉ですが…２』の「タテヨコの論」といふ回。横書きと縦書きでは「思考の通路」がちがつており、タテ書き発想で書かれた文章を横書きの文章にしたら読みにくくなる。逆もまたしかり、といふことを書いてをられる。（高島先生の本は「縦」を「タテ」と書く。）「タテのものはタテのまま、横のものは横のまま、というのがわたしの主張である。それが一番読みやすい。第一まぎれがない。」まつたくその通りだとぼくもおもふ（さう言ひながら、タテ書きの高島先生の文章を横に書いてしまつたが）。無理に縦にせずに、横書きの本を出せばいい。高島先生は書くときはタテ書きださうだ。ぼくは書くときは縦書きと横書きとを使ひわけてゐる。手紙はだいたい縦書きだ。よむときはどちらかといふと縦の本のほうがよみやすい。平仮名は下につづけやすい形をしてゐるから、本来縦書きをすることをかんがへて生まれた文字だ。でも人間の眼は横長の形だから、よむときに眼球の動きは左右のほうが上下より可動域が広いし、多少楽ではある。縦書き文化と横書き文化のちがひについてだれかが書いたものがありさうだ。最後にひとつ。宮城谷昌光が司馬遼太郎の文章について語つた言葉。「　私が理想的だと思うのは、本を開いたときに、各行の行末が全体として、アーチ型になつているケースです。読んでいて息をつきやすいし、次の頁にスムーズにつながってゆく。左側に空間があると、次の頁をめくる勢いを殺いでしまうんです。　　司馬先生のものを拝見すると、この理想形にやや近い。長い文章の後、二、三歩踏む。その二、三歩は、ある種の余白をつくる二、三歩でもあるわけです。そういう設計を誌面的に司馬先生はたぶんなさつている。そこで僕らは、そのアーチ状の橋を次々にきれいに渡ってゆくことができるんです。」　　　　　『司馬遼太郎の世界』所収「文章に秘密あり」文章は読者を渡す橋だつたのか。

  2008.09.07

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• ふるいやつ

  きのふは『玉勝間』のことを書いた。『玉勝間』はさいきん岩波文庫上下巻で復刊された。おもしろいはなしがたくさんあるがぼくがとくにいいなあとおもつたのは十四の巻「古よりも後世のまされる事」の項だ。むかしのものよりもいまの世のほうがまさつてゐることがおおい。そのひとつはみかんである。みかんはむかしの橘よりも味がいい。このやうに、いまからのちの世にもすぐれた物がおほくできるであらう。　といふことが書いてあるところだ。ぼくはこれをよんで、むかしよりいまのもののほうがいい例として出てくるのがみかんなんて宣長はおもしろいなあなんておもつてゐた。でも高島俊男先生は『座右の名文』のなかでこの箇所について、「これは、一見あたりまえの意見だが、しかし当時の考え方としてはずいぶん柔軟である。相当知識がなければ言えることではない。むかしの書物の研究をした人だからこそ、いまとの比較ができる。そこから推測して、将来の展望までができたのだ。」と書かれてゐる。当時はかういふかんがへかたをするひとはすくなかつたのか。高島先生はすごい。ぼくはいつもむつかしいことを言つてゐるイメージのある宣長が、みかんをおいしさうに食べてゐるところを想像してなんかいいなあとおもつてゐただけなのだが、そのやうな深い読み取りかたもできるのだ。もうひとつ、宣長は古いものが絶対にいい、といふ人かとおもつたら意外にさうでもないのだといふことだ。（本に関しては別だが。）足立巻一の『やちまた』に次のやうな文章がある。「宣長は新しい知識にはきわめて敏感であつた。たとへば、石見の門人小篠御野に長崎でオランダ人をたずねて自分の音韻論を実証させたことが『玉勝間』に出ている。」ふるい人かとおもつたらそうでもないのだ。それでおもひだしたのが、「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど　新しいものを欲しがるものでございます。」鶴田浩二の「傷だらけの人生」の冒頭のせりふだ。鶴田浩二といへば「明治侠客伝三代目襲名」の浅次郎、「お茶漬けの味」ののんちやんもいいが、ここでは「男たちの旅路」の吉岡晋太郎。「俺は、若い奴が嫌いだ。」「俺は、そういう人間だ。君たちに好かれようとも思わん。」そんなことを言ふ吉岡のところには彼を慕ふ若い人がなぜか集まつてきた（水谷豊とか）。宣長も弟子が多かつた。宣長の弟子は５００人ともいはれる。ほんたうに古い人間は自分が古いといふことを意識しない。自分のことを古いやつだ、と言ふことは、俺は同年代のほかの人たちとは違ふんだぞ、といふ宣言のやうにもぼくにはおもへる。さういふ他とはちがふ人、変はつた人、自分たちにはわからない規準で生きてゐる人は、魅力があるのである。だから若い人が集まる。新しいものをひきつける。古いやつは新しいやつなのである。

  2008.09.05

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• わからないひと

  『徒然草』のはなしのつづき。『徒然草』は江戸時代に人気が出た。寛文のころ北村季吟は『徒然草文段抄』を書いて２４４の章段に区切つた。それまでははなしとはなしの間がひとつづきになつてゐて、切れ目がはつきりしてゐなかつた。今で言ふ「段落」といふかんがへかたがなかつたからだらう。ぼくらが現在よんでゐる『徒然草』は基本的にこの季吟の区切りかただ。芭蕉も『徒然草』を下敷きにした句をつくつてゐる。　秋のいろぬかみそつぼもなかりけりは第９８段をふまへた句だ。偽作の兼好の伝記などもたくさん書かれたらしい。本は有名になつたのに作者のことがよくわからないからだらう。さういふものをあつめた『近世兼好伝集成』といふ本があるさうだ。おもしろさうだなあ。そんなふうにして江戸時代に人気があつたのだが、『徒然草』と兼好をはげしく嫌つたひともゐた。本居宣長である。宣長の兼好批判は『玉勝間』に書いてある。宣長の『玉勝間』も『徒然草』とおなじやうに断片的な文章を気の向くままにならべたものだが、宣長の文章はときどきはげしく攻撃的になるのが特徴だ。『玉勝間』はまだおだやかなほうだが。宣長は『玉勝間』四の巻の「兼好法師が詞のあげつらひ」の項で『徒然草』１３７段（「花はさかりに」のところ）を批判して、「人の心にさからひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流（みやび）にして、まことのみやびごゝころにはあらず、かのほうしがいへる言ども、此たぐひ多し」と書いてゐる。そのあとおなじ項に「人のまことの情」「人のまごゝろ」「人のま心」といふことばがでてくるやうに、ありのままの素直な心を宣長はたいせつにした。でも兼好はつらいことも趣が深いものだといふ。そんな兼好のさとつたやうな言ひかたが宣長は気に入らなかつたのだらう。宣長にはかんがへかたの柔軟なところとかたくななところが共存してゐる。合理的なところとさうでないところが両方ある。ぼくの中にはいろいろな宣長像ができあがる。ちよつとわからないひとだ。わからないところがたくさんある。ただ、どういふひとなのかわからないけど、『玉勝間』はめちやめちやおもしろい本である。

  2008.09.04

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• のこしたひと

  『徒然草』のはなしのつづき。『徒然草』の人気が出たのは江戸時代になつてからだつた。江戸時代にこの本が広く受け入れられた理由については前に書いた丸谷才一の本に書いてある。『徒然草』は兼好の歿後有名になり、兼好は『徒然草』によつて有名になつた。つまり兼好の生前や室町時代にはそんなに有名ぢやなかつた。だからこの前正徹以前の写本がたくさんあるんだらうなんて書いたけど、そんなにたくさんはなささうだ。自筆本は回覧するからそのうちぼろぼろになつてしまふだらう。だいいち自筆本があつたかどうかもわからない。『徒然草』はばらばらに書きちらした反古をあつめたものだといふ伝説もあるから。要するに最初のころどんなかたちをしてゐたのかまつたくわからない。ばらばらに書きちらしてうもれてゐた紙切れでものこるものはのこるし、本屋さんから整つたかたちで出版されたものでも消えていくものは消えていくのだ。でもそのためには、「ああ、これはおもしろいからのこしてをきたいなあ。」と言つて埋もれてゐたものの価値を見いだすひとがゐないといけないのだ。書いた人と見いだしたひとがゐて、のこる。さういふ役割をはたすひとはたいせつだ。『徒然草』においてはそれがだれなのかわからない。今川了俊と命松丸がまとめたといふ三条西実枝の話は研究者の間ではつくりばなしとして否定するひとがおおいらしい。のこしたひとのことは、のこらないのだ。

  2008.09.04

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• 似てゐるもの

  今日でブログを書くのも三回目だ。われながらよくつづいたものだ。きのふは『徒然草』のことをすこし書き出したらわりとすらすらと言葉が出てきた。よし、今日も『徒然草』だ。『徒然草』について書かれたものは多い。ぼくが最近読んだもののなかでは、丸谷才一の「吉田兼好論」（『綾とりで天の川』所収）がおもしろかつた。丸谷先生はこの中で、『徒然草』は『論語』に似てゐるといふ説を書いてをられる。「生活美学があつたり、人生論があつたりする。それが断片的に語られる。その語り口が『論語』に似てゐると、言つて言へないことはない。　」なるほど、さういはれるとそんな気がしてきた。さすがだなあ。だいたい、似てゐるものを指摘するのは、違ひを指摘するよりたいへんなことだ。わかりにくいし、発表するのは勇気が要る。それをあつさりと書いてゐるところがこの本のすごいところだ。この本のべつのところで丸谷先生は、勝海舟が西郷隆盛と由比正雪を比較して論じてゐることに触れ、「しかし正雪と南洲の対比論なんて、あつと言はせる批評の藝ですね。　普通の評論家にはとても思ひつかないよ。」（「批評家としての勝海舟」）と書いてゐるが、『徒然草』と『論語』の対比論もなかなかおもひつくもんぢやないよ、とぼくはおもふのだつた。

  2008.09.03

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• 徒然草のはなしから

  なんとかブログをはじめられてよかつた。きのふ田口先生にどんなブログにするのか聞かれて、「『徒然草』みたいなやつですかねえ。」とこたへたのだが、それはやつぱり日記だとぼくにはなかなかつづけられないとおもつたからだ。『徒然草』は吉田（卜部）兼好が書いたみじかい文章をあつめたものだ。十四世紀前半に成立したといはれてゐるけど、兼好が書いた自筆本はのこつてゐない。のこつてゐないといふことは発見されてゐないといふことだ。すてられてしまつたのか、やかれてしまつたのか、まだどこかにあるのか、それはわからない。おもしろくて有名な本だからたくさんの人が写した。『徒然草』の現存する写本でもつとも古いものは永享三年に正徹が写したものだ。永享三年は西暦でいふと１４３１年ごろだから、兼好がはじめに書いてから百年くらいが経過してゐる。ずいぶん、ながい。その間どうやつてつたはつてきたんだらう。正徹もだれかの写本を写したはずだから、その本がないといけない。そしてまたその写本には親本があつて…といふふうにずつとたどつていくと百年前の兼好自筆本にたどりつくまでには、ぼくたちのもう見ることのできないたくさんの写本があつたことだらう。たぶんあつたけどなくなつてしまつたのだ。なんといつてもいまから６００年くらい前だから。６００年もの間には戦争だとか災害だとかいろんなことがあるだらう。本は紙でできてゐるからかんたんにもえてしまふ。もえてしまつたら、あつたものはなかつたものになつてしまふのだらうか。でも『徒然草』はまだいいほうだ。いちばんすごいのは『古事記』である。和銅五年（７１２年ごろ）に『古事記』は成立したといふことになつてゐるが、応安四年（１３７１年ごろ）に書写された本（真福寺本）が現存する中ではもつとも古く、その元になつた本も弘長三年（１２６３年ごろ）のものだといふ。和銅五年の成立から５５０年くらいある。どうやつてつたはつてきたんだらう。その間の写本が一冊もみつかつてゐない。ものすごくふしぎだ。さがせばどこかにあるんぢやなからうかとぼくみたいな素人はおもつてしまふ。古い寺とか古い家の蔵なんかをさがしたら出てこないもんだらうか。出てきたら奇蹟の大発見だ。平成四年（１９９２年）に藤原公任書写の古今和歌集が見つかつたとき、古本屋さんがつけた値段は１憶５０００万円だつた。すごいなあ。写本の値段といふのはだいたい江戸時代が１０万円台　室町時代が３００万円前後鎌倉時代が１０００万円前後なのださうだ。（ちがつてゐるかもしれません。それに江戸時代といつても長い。）藤原公任は平安時代の人だからそれよりももつと希少価値があることになる。むかしは印刷機なんかなかつたからみんな本を写した。写した本は人に貸す。それをまた写してべつの人に貸す。手書きだからたくさんは作れない。紙だつて貴重だつた。むかしのひとは本をたいせつにした。さうやつてつたへられてきた本を現代のぼくたちが読むことができるといふことはすごいことだ、とおもふ。

  2008.09.02

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