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5月の末の日曜日、カフェに行ったときのことだ。 いつものように私はアイスコーヒーを頼み、ランニング雑誌を読んでいた。 席を立ち、春香さんに帰るという合図を送った。 すると春香さんが紙袋を持って近寄ってきた。 春香さんは紙袋を私に差し出した。 「ネックレスのお返しです」 私は戸惑いつつ紙袋を開けてみた。 アディダスの紺色のキャップだった。 実は先日妻から全く同じものをもらっていた。 私の表情が瞬時にこわばったのを春香さんは見逃さなかった。 「迷惑だった?」 春香さんの目に怯えが浮かんでいる。 「ありがとう。実はね、先日似たような帽子を買ったばかりなんだ」 春香さんの顔がみるみる後悔の色に染まっていくのが分かった。 「ごめんなさい。私余計なことをしちゃった」 しゅんとなっている春香さんを見て、私は自分がひどく春香さんを傷つけてしまったことを悟った。 「でも、こちらの方がグレードが高いと思う。僕が買ったのはバーゲン品だもの。春香さんありがとう」 春香さんが弱々しく笑った。 「これは特別だから、特別なときに被るよ。 せっかく春香さんからもらったんだ。長く使いたいし」 春香さんはだんだんいつもの元気そうな様子になってきた。 「神崎さん、うれしい?」 「ん?プレゼントかい?もちろんうれしいよ」 春香さんは何か言いたげだったが、店内が混雑していることを察知して営業スマイルに戻った。 「大事に使ってくださいね!ありがとうございました」 道すがら、私は自分の不甲斐なさにいらいらした。 「『妻』に同じ帽子を買ってもらった」とはっきり言った方が良かったのだ。 いや、そんなことを言ったら春香さんはひどく傷つく。 ひどいことを言って、思い切り幻滅された方がいいのだ。 傷つけたくない、愛想をつかれたい、そばにいたい、距離を置きたい。 私は常に宙ぶらりんだった。 自分がキャスティングボードを握るのは嫌だった。 離れていくのも傍にいるのも春香さんが決めることだ。 我ながらずるいと思ったが、これ以外の手段はないようにも思えた。 帰宅すると、妻はショコラと一緒にソファで寝ていた。 床に落ちていたブランケットを妻とショコラにかけてやった。 私はそっと自室に入り、クローゼットの奥にあるトランクに紙袋を入れた。 そしてロックをかけた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 4, 2010 02:10:41 PM
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