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テーマ:東欧への旅(30)
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92年10月17日(土)[103/150] プラハに着いた翌日。 よく眠って起きたのは8時頃。 食堂で朝食をとる。学生とおぼしき旅行客が多い。 ユースホステルの雰囲気である。居心地良好。 天気はあいにく、雨模様。 今日はまず市街の中心地、ヴァーツラフ広場へ行って、 街の様子を確かめた後、国立美術館へ行こうと思う。 10時前くらいに宿を出発し、 地下鉄でMustek駅へ。(uの上に小さなマルが付くんです!出し方解らず…スミマセン) 地下鉄の駅から地上に出ると、 もうそこがヴァーツラフ広場だった。 広い通りで繁華街といった感じ。賑わっている。 正面の坂の上に建つ国立博物館に向かって、大きな通りが伸びている。 道の両側には店が並んでいる。 建物はそれぞれに美しい。 本屋やデパートなどに入ってみる。 2階の婦人衣料品売り場の様子を見る。 品物は豊富だ。結構色々な品が売られている。 雰囲気は庶民的で、ダイエーやイトーヨーカドーといった趣である。 値段をいくつか見る。東欧圏は一般に物価が安いが、 ものによっていろいろなので様子を確かめてみた。 ラムウールのセーターが3千円ちょっと。 スーツは1万3千円くらい。 トレーナーは1,300円程度、 キルティングのコートが1万2千円~2万4千円。 オーバーが2万5千円くらい。 ジーンズが2千円ちょっとから1万3千円程度と幅がある。 食料品や宿泊費などの物価の安さを思えば、 衣料品は高めの印象である。高価なのは輸入品なのかな? サイズは大きくて、あまり着たいものはない。 寒くなってきたので、ジーンズの下に穿くのにタイツを購入。 タイツは安くて160円ほどだった。 スープとビーフグラーシュの昼ごはんを食べる。 その後、国立美術館へ。 この時のことは、昨年の8月、プラハに洪水があったと報じられた時、 すでに書いていたので、小さい字で再録します。 東欧は、味わい深い街が多い。 西欧の街に比べると、なんていうんだろう、わびさびがあるような...。 美しい中にも、秘めた悲しさや切なさがあるように思う。 そして、なんともいえない懐かしい素朴さがそこここに残っている。 人々はとてもフレンドリーで親切である。 通りすがりの人なのだけれど、私には大切な思い出がある。 92年にプラハを訪れた時、 私は国立美術館に行くことをとても楽しみにしていた。 地図を見て、大体の位置を確かめて、 地下鉄の最寄り駅とおぼしき駅で降りた。 きっと駅のすぐそばにあるか、歩くにしても、何か目立つ表示があるだろうと思ったのだ。 その日はあいにくかなり本降りの雨。 10月半ばのチェコは私にとって冬の感覚、寒さが身に沁みた。 (5℃くらいとメモにあるがこれは客観的な数字なのか?) 地上に出てみる。 想像していたような表通りではなく、静かな裏通りの印象。 ナショナルギャラリーへの案内板などもなく、 通りの名前の表示(ヨーロッパの街にはたいがいある)も見つからない。 地図は持っていたが、これでは、どちらへ向かって行ってよいか、さっぱりわからない。 人に訊こうにも、人っ子一人歩いていない。 手がかりを探して、雨の中しばらく周辺を歩き回った。 ようやく、一人の、年配の女性の姿を見つけ、 これ幸いと、ナショナルギャラリーの場所を尋ねた。 彼女は、私も同じ方向に行くから一緒に行きましょうと言ってくれた。 坂道を上がった先に、目的の場所はあるらしかった。 並んで歩きながら、ブルガリア出身でプラハに住むというその女性は、 ぽつぽつと自分の話しをしてくれた。 会話はドイツ語。 (私はごく初心者だったが、勉強してまもなくだったので聞き取れた) 驚いたことに、10日前にご主人が亡くなって、教会に花を持っていくところだそうだ。 (改めて見ると彼女は黒い帽子と黒いコートを身につけていた。) 頭の病気で、10分間で亡くなったというから、脳溢血か何かだったのだろうか? ひとり娘さんがいらして、今日はその娘さんの結婚式なのだけれど、 私はそこへは行かず、教会に行くのだ、という。 私は彼女の言葉に耳を傾けながら、 えっ、えっ、マイネンマンって夫ってことだよね。 ホッホツァイトは確か、結婚式だよね...。え~~っ! こんな話を初対面の私にしちゃっていいの? ...と心底驚いた。 何という大変な日にある人と出会ってしまったことだろう。 それでも、彼女は静かな調子でごく穏やかに話してくれたし、 わが身の不幸を嘆くといった感じではなかった。 坂道を登りきると王宮があった。ナショナルギャラリーはこの中だと、彼女は教えてくれた。 (あとで知ったのだがナショナルギャラリーは市内にいくつもあるのだった) 別れ際に彼女は笑顔を見せて、 「プラハを楽しんでね」と言ってくれた。 私は何か言いたかったが、 悲しいことにドイツ語で自分の気持ちを表現できなかったので、 心からのお礼を言い、彼女と別れた。 このときの光景―雨の中の坂道や、暗がりから次第に明るくなっていく様子(雨は次第にやんだ)。 はじめて会った人と歩きながら何故か心やすらいでいた自分。 時が過ぎても、この日のことが、幾度となく鮮やかに思い出される。 彼女はきっと美しい生き方をしている人だ、と私は思った。 そんな大変な境涯にあって、 見知らぬ旅人の私に親切にしてくれ、旅を楽しんでね、とまで言ってくれた。 願わくば彼女が今も健在であり、今回の洪水の被害にあっていませんように...。 ( 92年10月17日(土)[103/150])2002年8月17日記 さて、彼女と別れた後、 私は旧王宮へ、その後イジー修道院のギャラリーで、 14~16世紀の作品の数々をゆっくりと鑑賞した。 カトリックの聖人の像が多かった。 皆、自分の功績を象徴する品物を持っていたりする。 この由来がわかったら面白いだろうなと思う。 宿の最寄地下鉄駅のそばにあったチャイナレストランで夕食をとって帰る。 20時ごろ宿に帰る。 ---- ここ数日、やたら重いのはどうしてなのでしょう? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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