
香港についての本を図書館でいろいろ見ていると興味深い文章に出くわした。
1997年に発行された本で、香港返還などにふれた本だ。
表紙はこれ。

この本の中に邸永漢(きゅう・えいかん)氏を通しての香港が描かれている。
いわく、
-- だいいちに金持ちで尊敬できる人がひとりもいない。中国の人は金持ちを尊敬するけど、物書きなんて貧乏人の代名詞だと思っている。それから口舌の徒は捕まえて牢屋に入れるべきだと思っているからね(笑)。でも、香港で金持ちになった人は、全て土地の投機をした人だけなんですよ。 --
また、
-- 基本的に香港の人は本なんか読みやしない。いまでも本屋を探すのに苦労します。香港とシンガポールがアジアで一番文化のない都市ですね。 --
ほー、香港には本屋さんが少ないのか。興味深いですねー。あの林立するビル群のその裏がわには何があるのか、香港の本当の姿が垣間見れます。
スキャンしてOCRにかけました。 読もう。
インタビューアー : 田澤卓也 (ジャーナリスト)
・・・ 6年間の亡命生活をもとに「香港の原点」を語り下ろす ・・・
この地の「自由」は日本や中国にはマネできない
「亡命者」「作家」そして
「実業家」として生きた香港
「人生は、陸地を歩むより、むしろ荒波の上を進む航海に似てるんですよ」
もう20年近くなるおつき合いの中で邸永漢氏は、一度、私にこう漏らしたことがある。
直木賞作家にして金儲け教祖。美食家でファッションも車も超一流好みの快楽主義者でありながら、かつては台湾独立運動の亡命者。邸氏は、大いなる二面性の持ち主である。それが邸氏の幅広い活動と深い洞察の原動力だと私は勝手に推測している。
邸氏の運命を大きく左右したのは、いうまでもなく日本の敗戦である。大正13年、植民地時代の台湾に生まれ、日本人子弟との間に明らかなハンデを負いながら、旧制台北高校を卒業し、東京帝国大学経済学部に進んだとびきりの秀才でありながら、たとえば高校時代のクラスメイトであった李登輝・台湾総統のような体制側のエリートコースを歩むことはなかった。
大学を卒業し、日本軍が去った台湾の銀行に勤務して20代のエリート管理職となりながら、故郷に安住しなかったのは何故なのか。台湾での青春を描いて昭和29年に発表された『濁水渓』に、こんな一節がある。「私は、私の青春が空しい敗北また敗北の連続のような気がした。(略)
鳴呼 ! 中国よ。失われた祖国よ。祖宗の地よ。なぜ俺がこんなに声を大にして叫んでもお前は答えてくれぬのか。ここにお前のために生命を投げ出そうとしている男があるのに、なぜそれを受け入れてはくれぬのか」
日本に代わって台湾を統治することになった国民党は、「犬去って豚来たる」といわれたほどの校滑で過酷な弾圧を行なった。邸氏は深い挫折を味わったはずである。『濁水渓』の主人公の、次のような叫びは痛切だ。「君は自分で自分を叛逆者だと思っているだろう。(略)だが、君はなんの叛逆児だ。君は君の血に叛逆しているにすぎないじゃないか !
僕たちは全然べつべつの道を歩いていると思っているのか。とんでもない。僕たちは同じ一人の人間だ。一人の人間が二人の姿になって現われたにすぎないのだ」
もとより、政治に挫折した青年の運命は、もはや彼一人のものではない。中国と日本と、そしてアジアの激動の巨大な力が、彼を、自由都市・香港への亡命へと突き動かしたのである。
その香港で彼が目にしたものは、まばゆいほどの、そして同時に嘔吐するほどの"自由" そのものだったに違いない。そこには政治などまるで無縁であるかのように高度経済成長に走りはじめた、したたかな人々の影がある。
直木賞受賞作となった『香港』に、彼はこう書く。「我々は、誰からも保証されずに自分の力で生きて行かなければならないのだ。我々に与えられた自由は、それは滅亡する自由、餓死する自由、自殺する自由、およそ人間として失格せざるを得ないような種類の自由なのだ。金だけだ。金だけがあてになる唯一のものだ」
戦前の日本の優等生だった青年は、こうして大いなる二面性の持ち主となっていったのだろう。まさに、邸氏にとって香港での亡命生活6年間は、かけがえのない原点となったのではなかろうか。
はたして、亡命生活を終えて来日してから30年以上が過ぎて香港返還と中国の開放経済が話題になりはじめた頃、彼は、いちはやく香港に帰って行った。原点に返って、アへン戦争以来の長いアジアの植民地の歴史の結末と、そして21世紀に向かうアジアの未来を見定めるために。
いま香港と日本、そしてアジアの行方を語る時、邸氏以上の適任者を私は知らない。その邸氏に、あらためて香港の魅力と未来を問いかけてみた。
"台湾独立"の請願書を国連に提出し、香港に逃亡した
--香港に亡命したのは昭和23年 1918年のことですね。
邸 23年の10月ですね。私は戦争の終わった翌年に日本から台湾に帰って華南銀行という銀行で調査課長をしていた。ところが、当時、蒋介石から派遣されていた行政長官の陳儀という人がいいかげんな政治をしていて私らのように若くて正義感に燃えていた人間はとても我慢できなかった。それで2・28事件が起こって、1万人以上の人々が殺されたのです。
これではもう台湾はやって行けないのではないか。台湾の将来は、やはり台湾の人々の国民投票で決めるべきではないか。それを国連に請願しようとなって、私が、ひそかに請願書を書いて国連に提出したのです。
ところが、それが国連から通信社を通して世界中に報道された。台湾の人たちが独立運動をしているというわけで、当時の台湾議会の議長も新聞に反駁文を載せるような騒ぎになった。
(つづく 2へ) (別窓)