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2006年07月29日
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カテゴリ:紹介
[紹介] これは香港についての興味深い記述だ 邸永漢(きゅう・えいかん)2
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(つづき)
 
 当時の台湾では、そんなことをしたら命がない。そこで、とるものもとりあえず友人と首謀者2人で飛行機に乗って香港に逃げようとなったのです。
 でも、2人一緒に捕まったらかなわない。1人が捕まっても、もう1人は逃げられるようにしようと1時間違いの別々の飛行機に乗り、台北を発つ時に「命があったらペニンシュラ・ホテルの前で会おう」と。
 そういって、それから3時間ほど後にペニンシュラの前で顔を合わせて、どうやら命が助かったというところから香港の生活が始まったのです。
 
 --ペニンシュラの付近は当時も繁華街だった?
 
 邸 もう全然違いますよ。だって当時はペニンシュラ・ホテルが一番高い建物で、近所の建物は全部2階建て。現在のような高層建築はなくて、路上に張り出すネオンもなかった。
 ペニンシュラの海手に、いま時計台が残っているが、あそこが広東に向かう九龍鉄道の発着駅だった。
 香港は戦前には100万人ぐらいの人口があったけど、戦時中、日本に占領されて人口が半分ぐらいに減っていた。それが戦後、再び急激に膨らんで現在は630万人前後になっている。だから当時といまとは全然違う。啓徳空港にしても、小さな待合室があっただけでね。裏手は山になっていてダイヤモンド・ヒルというからダイヤモンドでも出るのかと思ったら、そうではなくて貧民窟でした。
 ちょうどその頃は、大陸で共産党がどんどん国民党を追い落としている時だから、猛烈な勢いで難民が香港に集中していた。そういう人たちが電気も水道もない山の上に掘っ立て小屋を建てて住んでいたのです。
 
 --その香港で、どんな仕事を?
 
 邸 2・28事件を扇動したとして台湾で逮捕令が出ていた学者兄弟がいた。その弟のほうが香港にいて、やはり独立運動をしなければならないという考え方をしていた。私は台湾にいた時にその兄弟のお義姉さんから「ウチの義弟たちはこういうことを考えている。香港ではそこを訪ねたらよい」といわれていたので、、まず、そこに転がり込んで居候をしたのです。
 その人は上等の家を借りて住んでいて、転がり込んできた連中が寝泊まりする部屋もあった。私もそこに半年ぐらい寝泊まりしたかな。一緒に亡命してペニンシュラの前で待ち合わせた友人は、「他人の家に世話になんかなっていられない。台湾の将来については連合軍司令部が力を持っているから東京へ行く」と。でもパスポートもないわけだから、閣船に乗って日本に密航して行きました。

 自分も『風と共に去りぬ』のバトラーになれると思った
 
 --でも、いつまでも無職で居候を続けるわけにもいかないですね。
 
 邸 しばらく居候をしていたけれど、学校で習ったことは何の役にも立たないし、友だちはいないし、言葉は通じない。何とか飯を食っていく方法はないかと考えていたら、ある日、日本から密航してきた商人が、その家を訪ねてきたのです。当時香港では1本1000円ぐらいで買えたペニシリンやストレプトマイシンを日本に持っていくと1万円ぐらいで売れたんですね。なにしろ結核は不治の病。かかったら死ぬ以外に方法がなかった頃だから。
 それで私が、その人の道案内をしたわけです。こっちもろくな手伝いはできないけれど、その人より道ぐらいは知ってるからね。
 すると、その人はペニシリンやストレプトマイシンを買うと石油缶の中にぎっしりと詰めて、フタをハンダ付けして、さらにゴムの袋に入れる。「何でこんなことをするの?」と聞くと、「日本に着いた時、MP(憲兵)とうまく話がつけば、そのまま港から下ろすけど、どうしても話がつかない場合は、海のほうに捨てて、小船で拾いに行くんだ」と。そういう荷物を詰める手伝いまでやらされた。
 その人と一緒に道を歩いていたら、靴やら毛糸、洋服生地を買い込んで、こちらは郵便で送ってくれという。当時日本には他国の親戚からの救じゅつ物資なら一定量以下は無税で送れる規定があって、こちらはそれで送るのだという。「日本に行ったら3倍でも5倍でも売れるから」というわけで、私が送ってあげたわけですよ。
 そして、それを送る時、l万円のコストの小包が日本で2万円に売れるなら、10個送れば10万円の儲けになる。100個送れば100万円になるじゃないか、と。まだ赤坂の土地がl坪1000円の時代ですからね。もしかしたら、自分も『風と共に去りぬ』のレット・バトラーになれるんじゃないかと思った(笑)。
 実際、当時の金で2000万円ぐらい儲かった。この調子だと大金持ちになるんじゃないかと思ったが、アッという間に、そういう夢は吹っとんでしまうんですよ。まだ世の中の仕組みもわからないし、カネの儲かる仕事というのは、たちまち競争相手が出てくるものなんです。また、もうひとつ、30歳前に稼いだカネは残らないというけれど、本当にいつでも儲かると思っているから気も大きいし、思い切り使うしね。
 私は、それでも一生懸念自制心を働かせて使わないようにしたけれど損をする時には、今度は稼いだお金はみんな無くなってしまうからね。
 たまたまその頃、私と同じように台湾で生きていけなくなった友だちが、香港に私を訪ねてきたので、私は彼に「香港にいたってしょうがないから、日本に行け」と勧めた。ところが妻子が台湾から訪ねて行ったら、2回も裁判にかけられて強制追放だという。

 ちょうどその時、日本で会って「どうしたんだ?」というと、彼は、「いままで日本人ということになっていたのに、戦争が終わったら、突然日本人でなくなり、台湾にもおれず、せめてここに置いてくれと頼んでもいうことも聞いてくれない」と。
 なるほど理屈に合わないなあ、と私は『密入国者の手記』という作品を書いたのです。知人がその作品を長谷川伸さんのところに持っていったら、村上元三さんや山岡荘八さんがはめてくれた。そのおだてに乗って、小説家になりたいという気持ちを起こしたわけです。
 
 --そうだったんですか。
 
 邸 それで、その友人に「"オール新人杯"というのがあるから実力を試すために応募してみたらどうだ」とすすめられた。大作家が好んで使う浅草の満寿屋の原稿用紙に小説を書いて応募したところ最後の5編に残ったんですよ。「満寿屋の原稿用紙で、しかも香港から送ってきた。もしかしたら、これは誰かプロの人ではないか」
 ということで文章春秋の係は最終候補に残したんだという説だけどね(笑)。結局、小山いと子さんと尾崎士郎さんは賛成してくれたけど、あとの3人が反対し、受賞はできなかった。でも偶然試みたことが最後まで残る結果となって、「ひょっとしたらできるんじゃないか」と思った。
 それで昭和29年に香港から日本に引っ越した。その間、ちょうど6年間、香港に住んでいたというわけです。

 香港の金持ちには尊敬できる人がひとりもいない
 
 --台湾から亡命した当時の香港は、どんな印象でしたか。
 
 邸 台湾なんか比べものにならないほど賑やかで自由な都市で、だいいち命の心配もしなくて済むしね。船でいえば、船底の牢屋みたいなところから、突然、1等キャビンに出たような感じですよ。
 
(つづく 3へ) (別窓)





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最終更新日  2006年07月29日 22時36分16秒
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