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迦陵頻伽─ことだまのこゑ─

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2026.05.04
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カテゴリ:七代目嵐徳三郎
「王女メディア」


師匠については当然、「王女メディア」は切っても切り離せない。



言わずと知れた、蜷川幸雄演出の、ギリシャ悲劇の名作である。

この芝居によって、師匠・七代目嵐徳三郎は、ローレンスオリビエ賞にノミネートされるなど、海外で認められる俳優となったのである。

師匠と蜷川幸雄氏との出会いについては、すでに演劇ファンや関係者たちが述べていることなので省略し、ここでは私が弟子として実際に観た「王女メディア」の思い出をお話ししたい。

私が初めて七代目嵐徳三郎主演の「王女メディア」を観たのは、まだ国立劇場の歌舞伎俳優研修生だった二十歳の時、ある方が貸してくれたビデオによってだった。

それは、平成五年(1993年)十月、新宿文化センターでの公演を録画したものだった。

女の情念を相手の男に激しくぶつけていく、そういうメディアであった。

相手の俳優も本気で足を踏ん張って受け止めなくては、たちまち吹き飛ばされてしまう気迫に満ち、半可な者ではとうていつとまらない。

私がなにより圧倒されたのは、そのセリフ術である。

コロス(この場合は“群衆”)に、裏切った夫への復讐計画を打ち明ける場面がある。

「立て板に水」の如く鮮やかに、実に歯切れよく聞かせていく日本語に、私は恍惚となった。

早口にまくし立てているようでいて、実は早口ではなく、一つ一つの言葉から、信じていた夫に裏切られた女の深い悲しみと怒りが迸り、それが観る者の心を激しく衝くのだ。

義太夫節の語りの技法に、“たてことば”というのがある。

文字通り、長い詞章をトントンと早い調子に歯切れよく語り込んでいく技法で、すこし専門的になるが、「摂州合邦辻」の“合邦内の段”で、玉手御前が実父の合邦に刺されて一同騒然となる件りの語りが、それである。

私はその、“たてことば”に似ていると思った。

弟子となってから師匠より直接聞いた話しだが、やはり師匠は、あのギリシャ悲劇の名文なセリフに、歌舞伎や文楽の、“息をつむ”セリフ術を取り入れると云う、まさに上方の歌舞伎役者ならではの、独特な工夫を凝らしていた。

私が「たてことばに似ている……」と感じた件りは、やはりその技法を大いに参考にして創り上げたのだそうだ。

歌舞伎演技の技法はセリフだけでなく、演技でも女形の技術を活かしていた。

そのひとつが、“裾捌き”である。

辻村ジュサブロー氏がデザインしたドレスのように裾を長くひいた衣裳を、師匠は自分の体の一部の如く、いとも簡単に操っていた。

それはまさに、歌舞伎の舞台で裾をひく衣裳を着けた時のこなしそのものであり、ギリシャ悲劇のなかに取り入れたこうした“裾捌き”は、女形演技の基本中の基本である。

ある方が、

「嵐徳三郎の王女メディアは、ギリシャ悲劇のなかに歌舞伎の女形の演技術を取り入れ、融合させることに成功した、その好例といえる」

と評しているのを読んだことがあるが、意外にも師匠は、

「歌舞伎っぽくならないよう、なるべくの歌舞伎から離れて役を創造していこうと思った。これはあくまで“新劇”としての舞台であり、また第一に“ギリシャ悲劇”なのだから」

と、あるインタビューで語っている。

その通りだとしたら、長い歌舞伎修業で培った演技術が、ここぞという時に自然とにじみ出て、本人にも気づかぬうちに大いに活かされていた、ということか。





さて、私が初めて生で観た師匠の「王女メディア」は、平成十一年(1999年)十月十一日、滋賀県大津市の「びわ湖ホール」公演である。

この月は関西で歌舞伎興行がなくて休演だったので、それを利用して、折から大阪へ遊びに来た母と一緒に観に行ったのである。

開演前に、師匠の楽屋へ挨拶に行く。

師匠は「王女メディア」の時は、楽屋での手伝いには弟子を使わず、いつも若手の新劇俳優をアシスタントにお願いしていた。

あの子たちのほうがよっぽど気が利いて助かる、と歌舞伎興行の楽屋で私たち三人の弟子の前でよく嘆いていた師匠の姿も、いまとなっては懐かしい……。

師匠はちょうどこれから、化粧をはじめるところであった。

師匠は、「王女メディア」の化粧道具は歌舞伎とはきっちり別にし、自分以外の誰にも触らせない徹底ぶりで、そこにもこの芝居への思い入れの強さがよく表れていた。

楽屋を辞去するとき、頭にかぶるというか何というのか、あの不思議な形をした“かぶりもの”がソファーに置いてあるのが目に映ったのだが、舞台上では深いネズミ色に見えるそれが、ここでは青とも緑とも見える不思議な色を放っていたのが、印象的であった。

この公演は大津のあと宮崎、奈良、大阪郊外の河内長野と巡演し、私は宮崎以外の公演を“追っかけ”よろしく観に行った。

私は師匠の弟子、つまり関係者としてではなく、一般客の立場で観たかったので、チケットはすべて会場窓口で自腹で買った。

千穐楽の河内長野公演の終演後、改めて師匠の楽屋へ挨拶に伺った際にそのことを話すと、

「あなたは僕の弟子なんやから、楽屋口から入って観たらええんや」

と、叱られてしまった。

結局、この平成十一年(1999年)十月二十三日、大阪府河内長野市「河内長野ラブリーホール 大ホール」での公演が、師匠最後の「王女メディア」となってしまった。



それから五ヶ月後の、最後の歌舞伎出演となった中村鴈治郎さん(※故人 四代目坂田藤十郎)の「近松座」公演とあわせて、私は二つの師匠最後の舞台に、弟子として居合わせたことになる。

一緒に乗せてもらった帰りのタクシーのなかで、師匠は公演中にアシスタントをつとめてくれた同乗の若い俳優さんに、

「今日は調子がよくなかったんよ、セリフも怪しかったしな……」

などとこぼしていた。

が、師匠は芝居のことに関しては、たまに肚と別なことを言うので、「あ、またいつもの口グセだ……」と、信用しなかった。





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最終更新日  2026.05.04 03:10:04



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