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カテゴリ:七代目嵐徳三郎
最後の“おえんさん”
平成十ニ年三月四日、この日の東京は朝から曇りであった。 中村鴈治郎さん(故人 四代目坂田藤十郎)主催の「近松座」巡業公演の立ち稽古(総浚い)を前日に東京で済ませ、都内のホテルに宿泊した私たち三人の弟子は、翌朝にホテルのロビーで待ち合わせて師匠を定宿の丸の内ホテルへ迎えに上がり、一門揃って羽田空港へ向かう段取りになっていた。 が、実際にはそのようには運ばなかった。 早朝に師匠から兄弟子のもとへ、 「右手が痺れて思うように動かへんのや。ちょっと来てもらえるか」 と、連絡が入ったためである。 そこで一番弟子が丸の内ホテルへ急行し、確かに右手が不調な師匠にかわって荷物をまとめた。 その間に二番目の兄弟子と私は先にJRの有楽町駅へ移動し、師匠と一番弟子の到着を待つことになった。 やがて一番弟子に付き添われて駅へやって来た師匠は、しきりに右手を揉んでいる。 今朝に目が覚めたら右手の指がすこし痺れていて、思うように動かせない、と困惑の表情だった。 昨夜はベッドで右腕を下にして寝ていたらしくてな、その体の重みで腕が痺れたのかもしれん── それにしてはやけに痺れが長くないか……、と不審には思いつつ、このとき四人はまだ事態を楽観視していた。 平成十ニ年三月、私たち葉村屋一門は、「第十五回 近松座」巡業公演に出演することになっていた。 ![]() 狂言は「操り三番叟」、「玩辞楼十二曲の内 封印切」、「吉野山」の三本、師匠は「封印切」で、持ち役の“井筒屋おえん”をつとめることになっていた。 私はこの「封印切」で仲居の役をいただき、師匠の芝居を毎日間近で見られると、とても楽しみにしていた。 この三月四日は羽田空港から飛行機で山口県の宇部空港へ飛び、そこから貸し切りバスに乗り換えて長門へと縦断する行程になっていた。 宇部空港に到着すると、天気はあいにくの雨だった。 そんな空模様のせいもあってか、師匠は移動中もずっと表情が冴えない。 マッサージの心得がある二番弟子が付きっきりで右手を揉み続けているが、快方の兆しが見えないと云う。 やがて巡業の一行は長門市街のホテルに到着した。 翌日は、初日の会場である新築の「ルネッサながと」で舞台稽古だが、師匠の表情は相変わらずだ。 楽屋では、師匠の化粧(かお)を兄弟子が手伝った。 そして舞台稽古。 いざ芝居が始まれば、たちまち師匠は嵐徳三郎から井筒屋おえんに変身する。 大坂新町で井筒屋を切り盛りする女将、花街(いろまち)の女そのものな姿には、右手の不調を訴える嵐徳三郎の姿など微塵もない。 ただいつもと異なるのは、不自由な右手のかわりに左手を使って演じているということだが、それでも違和感を見せないあたりは、さすが持ち役の強みというものだ。 たまにセリフをまごついたが、それは舞台稽古中には誰しもあることだ。 師匠は大丈夫だ……。 仲居役で同じ舞台の上にいて、私はそう確信した。 そして初日の昼の部。 「おえんさん、おえんさん」 と仲居たちの呼びに、 「アイ、今そこへ行きますわいなァ」 と奥で受けてから、暖簾をゆったり分けて姿を見せた時の師匠の美しさは、とても忘れられない。 歌舞伎では、最初の“出”をなにより大事に扱う。 この“出”によって、あとすべての成否が決まってしまうくらいのものだ。 あの日のルネッサながとの客席に、それを見極められる見物がどれほどいたか分からぬが、もしいたら、かならずや唸ったに違いない。 今日から千穐楽までの毎回、この幸福にあずかれるかと思うと、私は嵐徳三郎門下になれた喜びを、舞台上で改めて噛みしめたものだ。 ところがそれは、夜の部までだった。 終演後、「ひとつの劇場での公演ならともかく、長い巡業なので今回は大事をとって」初日限りで休演と、公演プロデューサーが判断したのだ。 なんでや……。 師匠が内心で不本意なのは、私も傍にいて充分に察せられた。 だがこの場合は、公演プロデューサーの判断が妥当といえる。 師匠は楽屋からそのまま、近隣の病院へ検査に行くことになった。 衣裳を脱ぎ、化粧を落として身支度を整えた師匠が、楽屋口に横付けしたタクシーの後部座席に座ったときに窓から覗かせた不安と寂しさの入り混じった何とも言えぬ表情は、いまも脳裏に強烈に焼き付いている。 井筒屋おえんの役は、二日目から鴈治郎一門の名題が代わることになった。 もう明日から、師匠は来ない……。 兄弟子と私が楽屋の鏡台を片付け始めると、大先輩から、 「途中で休演になっても、鏡台は千穐楽まで片付けてはだめ!」 と、叱られた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。 この初日の舞台は、NHKが中継放送のために録画をしていた。 初日の夜の部がテスト撮りで、二日目の昼の部が本撮りであったが、公演プロデューサーの強い働きかけで、放送では師匠が出演しているテスト撮りの方を使ってもらえることになった。 奇しくも、師匠最後の舞台が、映像に記録されたのである。 後日、大阪の入院先でその事を知らされた師匠は、万全ではない姿を全国に放送されるのはイヤや、僕は絶対に見ぃひん、と苦い顔をしていたが、その年の十月の放送をしっかり見ていたようで、あとで師匠から私の仲居について、「じっとしている時に目をキョロキョロさせたらあかん」とお叱りの言葉を、兄弟子を通していただいた。 この近松座巡業では、京都南座での公演時に師匠の休演について驚きと残念がる声が私たちの楽屋にも届き、後日にNHKの放送を見たある人からは、左手で芝居をしていることをやたら指摘され、うるさいやつだと思った。 形見分けで、私は師匠が最後となったこの公演で使用した旅行トランクをいただいた。海外旅行でも使える一流メーカーの製品だ。 中をあけると、内ポケットから一冊の台本が出て来た。 それは、師匠が最後におえんさんをつとめた、近松座巡業の「封印切」の上演台本だった。 表紙の片隅には鉛筆書きで、“嵐徳三郎様”。 ![]() (※トランクのポケットから見つかった、上演台本と筋書) ページをめくると、自分のセリフの箇所にいろいろと書き込みがしてある。師匠が遺した直筆だと思うと、胸がジンとくる。 私は台本を、再び内ポケットにしまった。師匠が自分でここに仕舞ったのだと思うと、ほかの場所へ移すなどとても出来なかった。 いつか、この形見のトランクを携えて海外を旅行する機会があったら、この台本はもちろん、そのまま持って行くのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.05.09 03:00:08
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