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カテゴリ:七代目嵐徳三郎
闘病
脳血栓と診断され、長期療養が必要となった師匠は、その年の十二月五日に亡くなるまでに三度、大阪市内で病院を替えている。 初めは扇町の関西テレビ近くにある病院、二度目は京橋の外れにある病院、最後が四天王寺のすぐそばにある病院である。 脳血栓とは、血液中の水分が不足することで濃度が上がってドロドロになり、血管を詰まらせて脳への信号伝達を妨げる病気である。 師匠は、舞台上での発汗を嫌って、扮装(こしらえ)を済ませた後は口中を軽く湿らす程度の水分しか摂らなかった。 舞台で汗をかいた後も、さらに発汗することを嫌って水分補給を避けていた。 それが長年続いた結果の、発病だった。 幸い師匠の場合は、右手の指先のみが不自由という軽度で済み、その部分以外は全く異常がなかった。 持ち前のお喋り好きは闘病中も健在で、端から見ればこれのどこが病人なのだろうと、首を傾げるくらいであった。 病院での師匠はそれくらい元気で、誰が見てもすぐに退院出来るだろうと、信じて疑わなかった。 血色も至って良好で顔の色艶も良く、食事の量を制限されていたため少し痩せてはいたが、むしろ首回りがすっきりして見た目が綺麗になっていたものだ。 むしろ医師との相性の方が問題で、二度目に移った病院へ兄弟子たちと三人でお見舞いに伺った時には、元気のない表情で絶えずそのことで愚痴をこぼしていた。 この年の夏に私は、東京の国立劇場で行われる研修々了生たちの勉強会に出演し、師匠も平成七年の南座顔見世興行でつとめた「寿曾我対面」の“大磯の虎”をつとめることになっていた。 もちろん師匠から役を教わりたかったのだが、 「もういまは芝居のことなんか、これっぽっちも考えたくないわぁ……」 と言われては、とても話しを切り出すことなど出来なかった。 結局、その舞台の記録映像を見て動きやセリフ回しなどを覚えると云う、修業中の者には好ましくない方法をとるよりほかなく、やはり師匠からちゃんと教わりたかったと、私は現在(いま)も残念に思っている。 この二度目の病院については、その後とうとう担当医と口論になった挙げ句、 「ならば、もうええわ!」 と師匠が自分から病院を出てしまい、私たちは呆れつつも、それだけの元気があるなら大丈夫だな、と妙なところで安心したものだ。 幸いすぐに、ある方の紹介で四天王寺そばの病院に移ることが出来て、ここは性に合ったようで不満もなく、不自由な右手の指先はみるみる回復していった。 私たち門弟も、その予想以上に早い回復ぶりを、実際に目にすることが出来た。 平成十ニ年八月二十五日、関西における勉強会「上方歌舞伎会」の初日を翌日に控えて、私たち門弟は師匠へ挨拶に病室を訪ねた。 前もって連絡はしておらず、夕方の時刻に病室を訪ねると、ちょうど師匠はベッドで食事中であった。 しかも、不自由なはずの右手で、箸をつかっていた。 それまでいくらリハビリしても回復の兆しが見えず、苛立ちと不安を募らせてきた右手。 「もう、アカンかもしれん……」と、落ち込ませてきた右手。 その右手が、しっかり箸をつかっているではないか。 「あ、いらっしゃい」 師匠は明るい表情で、三人の弟子を迎えた。 それは以前の病院の時とはまったく違う、私たちがいつも楽屋で見ている表情だった。 「やっと、指が動くようになったんよ」 師匠は毎日、瓶のなかの大豆を一粒づつ、箸で摘まみ出すリハビリを続けていたのである。 毎日、休まず、コツコツと。 そのおかげで、 「ようやく出来るようになったんよ」 と、それを実際にやって見せてくれた。 広口の大きな瓶に詰まった大豆を、箸で一粒づつ、摘まんで出す。 箸をつかう指の動きに、もはやなんら不自由は見えない。 やって見せている師匠は、心底嬉しそうだ。 「今まですべて左手でやっていたやろ、せやから僕は、左手も使えるようになってな」 と、師匠は今度は箸を左手に持ち替えて、同じように大豆を摘まみ出してみせた。 「あんた達も出来るか、やってごらん」 もちろん、三人とも出来なかった。 師匠はその様子を、嬉々と見ていた。 「僕はね、年内には退院できるかもしれん」 初耳であった。 「そうなったらな、早ければ来年の七月には舞台に復帰できるかもしれんのや。その前に、四月に御園座(名古屋)で『小笠原騒動』の再演があるやろ、それにも出てほしいという話しも来ててな」 “岡田良助女房おかの”のことだ。 嵐徳三郎の病気回復が予想以上に早いということを知った中村橋之助さん(現 八代目中村芝翫)が、「リハビリだと思って」と、声をかけて下さったのだと云う。 「もちろん、出たいわぁ。家に南座の時の台本があるやろ、それを今度持って来てや」 師匠への朗報は、もうひとつあった。 「来年の十月に、もしかしたらオーストラリアで『王女メディア』をやるかもしれん」 数年前、奈良の薬師寺で野外劇として上演した「王女メディア」を、たまたまオーストラリア大使館の職員が観に来ていて、あの演劇をぜひオーストラリアでも、と後で演出の蜷川幸雄氏に直接オファーがあったのだそうだ。 「まだ決定ではないんやけどな、オーストラリアにはまだ行ったことないから、実現してほしいわ……」 そう話す師匠は、いまやすっかり本調子だ。 寝間着姿で病院のベッドにいることの方が、よっぽどおかしいくらいだ。 今からでも退院しそうな勢いであった。 リハビリの効果がようやく表れたところへ次々に舞い込む舞台出演の話しに、見通しがいっぺんに立って師匠はいつもの嵐徳三郎に戻ったのである。 「今は毎日屋上へ行って、発声練習を始めてんねん。半年以上も声を使うてへんやろ」 面会時間をとっくに過ぎているが、師匠の話しは止(とど)まるところを知らない。 だいぶ遅くなってから辞去する私たちを、師匠は病院の玄関まで見送りに出てくれた。 「明日から、三人ともよう頑張ってな。じゃ気を付けて。お休み」 師匠は別れ際も笑顔だった。 私は道路に出てからふと振り返ると、師匠がロビーからエレベーターに乗ろうとしている後ろ姿が、ドアガラス越しに見えた。 これが、私が最後に見た師匠の姿だった。 翌九月は道頓堀の松竹座に出演していた私は、空き時間に何度か四天王寺そばの病院を訪ねたが、師匠はあいにくいつも病室を留守にしていた。 こちらが前もって連絡をしなかったからだが、このとき師匠はリハビリの散歩の最中だったのだ。 楽屋に戻らなければならないギリギリの時間まで待って、結局いつも置き手紙をして病院を出た。 夜になってから、病院へ電話をかけて師匠に繋いでもらい、改めてお見舞いに伺った旨を伝えた。そういった電話を介した、声だけのやりとりが続いた。 平成十ニ年十一月三十日、京都南座の顔見世興行初日。 私は病院の師匠へ、電話で初日の挨拶をした。 「一ヶ月間、体には気ィ付けてな。先輩たちの言うことをよう聞くんやで。じゃ頑張ってな。電話ありがとう」── 私のような最末端の小僧にも、必ず「ありがとう」と言ってくれる。 師匠は、七代目嵐徳三郎は、そういう人であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.05.13 17:41:59
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