偲草 十二代目片岡仁左衛門 35 昭和21年
○昭和21年(1946年) 64歳1月 南座(1日~25日)『明朗新日本再建第一春を飾る初春興行・東西合同大歌舞伎』「松平長七郎」松平長七郎「弁天娘女男白浪」早瀬の娘お浪実は弁天小僧菊之助「壇浦兜軍記 阿古屋三曲」遊君阿古屋「名工柿右衛門」酒井田柿右衛門※3月16日、渋谷区千駄ヶ谷町3-496 (現在の同区千駄ヶ谷3丁目12番地あたり)の自宅にて妻子、使用人二名と共に遺体で発見される。(仁左衛門宅跡の現景 令和8年1月)〈新聞記事より〉『仁左衛門一家殺さる』「俳優片岡仁左衛門こと片岡東吉氏(六五)方で仁左衛門丈をはじめ妻登志子さん─元日活女優小町とし子─(二六)三男三郎ちゃん(三つ)ばあやの榊田はるさん(六九)子守岸本まき子さん(一二)の五名が薪割様のもので顔、頭などを滅多打にされ惨殺されてゐるのを十六日午前十一時登志子さんの実母がカヨさんが訪問して発見、原宿署に届出た。警視庁では特別捜査本部を原宿署におき捜査を開始した。犯人は戸締りのない四畳半から侵入、犯行は十五日深夜に行われたものらしく物品を物色した形跡があり、二日前に引出した現金六百円も見当たらぬが一方もと同居人飯田利明(二〇)が目下行方不明のため、怨恨による同人の仕業も一応は考慮に入れて捜査を進めている、なお次女照江さん(五つ)は神田の祖母宅に行っていたため難を逃れた。」(朝日新聞 昭和21年3月17日付 ※原文ママ、一部省略)『食と妹の財産の恨み “仁左”殺し犯人捕わる』「“仁左殺し”の有力な容疑者として警視庁捜査一課が全国に指名手配している同居人片岡一座座付作者森田こと飯田利明(二二)は二十日午後宮城県玉造郡川渡村温泉旅館で岩出山署員に逮捕された、二十一日朝晩身柄引取のため捜査一課と原宿署から現地に急行した、同所は殺された実妹岸本まき子さん(一二)が在学していた山谷堀国民校の疎開先だった所である。二十三日午後同人の着京をまって本格的取調べが行われる。【仙台発】川渡温泉で逮捕された飯田利明は岩出山署で警視庁から出張の係官から一応取調べを受けた結果犯行の一切を自白した、それによると飯田は兇行後一旦自殺を決意したが思い返し、十五日午前六時すぎ兇行を演じたもので、その原因は前夜妹の財産一万五千円のことで仁左衛門夫婦嫌味をいわれカッとなり妹が子守ばかりさせられ、学校にもやられず、配給のメリケン粉ばかりで米の飯も喰わせないではないかと喰ってかかり、これらを恨みに思ってやったと言っている。兇行後一旦自殺を決意したが思い返し、混雑にまぎれて常磐線に乗込み高飛びしたもの」(朝日新聞 昭和21年3月23日付)〈飯田利明の自白などによる事件経過〉3月15日 23:30頃─仁左衛門より馘首を言い渡され、日頃の食事のことなどの鬱憤から二時間ほど口論となる。また四月興行の客引原稿を書くが没にされる。3月16日 6:00頃─トイレに行く途中、廊下に立てかけてあった薪割り斧に躓く。それを凶器に就寝中の仁左衛門(65)、及び妻登志子(26)、四男三郎(2)を殺害し、逃げる使用人も殺害。そのまま自殺、もしくは逃走しようとしたが寒さに引き返し、飯とザラメを頬張り、都電で上野へ出て常磐線に乗り換え高萩下車、宮城県鳴子の川渡温泉に隠れる。9:00頃─仁左衛門宅の隣人が回覧板を届けに来たが、戸が閉まっていたため、引き返す。11:00頃─仁左衛門夫人の実母が訪ねて来たが応答なし。不審に思い、近所の人の立ち会いの上、裏手の雨戸より入り、遺体を発見する。「(前略) これで見ると、ともあれ食糧問題が重大な原因となっていることは明かだ。劇壇の名家、女形の随一仁左衛門が、その犠牲になったのは情ないことである。併しジャーナリズムでは仁左衛門を、まるで三荘太夫のような扱い方をしているのは、如何になんでも気の毒だ。飯田という男も、相当悪質なところがあったらしい。猿之助君(※二代目)にきいてみると、その前日に同一座へ、米を売りに来たそうだ。金に困っての仕業だろうが、恐らくクスねたものと思われる。仁左衛門という人も、一部には御贔屓を持っていたが、あれだけの美貌と芸の所有者としては、それほど見物に騒がれなかった。劇場人には不思議なほど嫌われて、これという友達すら持っていなかったのである。舞台を見ても想像される通り、あの冷たい性格が主として禍いしたのだが、東京で生まれながら、修行時代を上方で過し、しかも厳格な一座に長く居たというのでもなく、時に新派と合同したりして、自由に振舞う年限が多かった為か、芸風も他優と合わなかった。東京俳優ばかりでなく、上方俳優とも反りが合わず、いつも敬遠されがちであった。大正十年、横浜座で『太功記』十段目が出た(※該当興行確認出来ず)。中車(※七代目)の光秀に仁左衛門の十次郎であった。中車の光秀は例により、一時一句を粗末にしない手堅いやり方なのだが、仁左衛門の芸はまるでそれとマッチしない。中車は非常に怒って、それぎり仁左衛門とつき合はなくなり、自然外の役者とも疎遠となって、仁左衛門は孤立してしまった。それで仁左衛門もひどく困って、大谷社長(※松竹社長 大谷竹次郎)に執政し方を頼んだ。大谷さんも上方から東京へ来て、随分辛い目に遭ったこともあるから同情し、一緒に中車の内へ出向いて詫を入れ、再び芝居へ出られるようになったこともある位で、どうも他の俳優とは気質が合わなかったのであるが、昭和十年十一月の歌舞伎座で、羽左衛門の与三郎にお富をつとめて以来、女房役者となっていつも一緒に出ていた。羽左衛門の死と戦争との為に、その後は動静も一定せず、壽美蔵(※三代目壽海)と一緒になったり、我當(※十三代目仁左衛門)と一緒になったりしていた。東京でのお名残は、昨年十二月の東劇に、阿古屋と、二月堂の良弁、『佐々木高綱』のおみのとであった。二月には京都の南座へ出て、松平長七郎、弁天小僧、阿古屋、柿右衛門などを勤めたが、この柿右衛門がなかなかの出来で、芝居も大入であった。四月は大阪で延若梅玉と一座し、弁天小僧と『いもり酒』の夕秀とを勤める約束になっていた。(後略)」(「演劇界」昭和21年5月号 “仁左衛門事件” 筆者不明)〈判決〉昭和22年(1947年)10月22日─「精神鑑定の結果、心神耗弱がみられたため」、飯田利明に無期懲役の判決。→栄養失調による極限状態から、精神に支障をきたしたか?※飯田利明は出所後に自殺したとする資料もあり。〈遺族の証言〉「(前略) 仁左衛門には、それまでに我童(平成5年死去)、市村吉五郎、芦燕の男三人の子があったが、一緒に殺された登志子さん(当時二六)との結婚ですでによそに住んでいた。わずか二歳の三郎ちゃんも犠牲になったが、生活をともにしていた照江さん(当時三つ)だけが、たまたまその夜、神田の照江さんの祖母・吉田香代さんの家に泊まりにいっていて難を逃れた。そして、この香代さんが事件の第一発見者となった。照江さんを連れて千駄ヶ谷の仁左衛門宅に戻ったのだが、もう午前十一時というのに雨戸が閉まったまま。いつもはきちんと水も打ってあるのにと、戸を一枚だけ開けて真っ暗な廊下に入ると、妙に滑る。足袋がびっちょり。真っ赤に染まっていた……。『焼いてふくれたモチの頭にショウユを塗ってくれた』という優しい父の記憶はあるが、ほとんどは、この祖母から事件を聞いて育った。犯人は四日後、宮城県で逮捕されたが、凶器となった薪割は片岡家のものではなく、隣家のものだった。 (中略) その後、なぜか第一発見者の証言は求められなかったという。しかし、やはり最大の問題は“食べ物の恨み”で済まされてしまったことだった。食べ物の理由が世間の同情を受けやすいということもあったろうか。六百円がとられている。当時とすれば大金だ。『地方のひいきから送られてきたお米がいっぱいあったし、面倒見のいい父がそんな差別をするような人ではなかった』と、照江さん。照江さんによると、犯人の弁護士から『食べ物の恨みにしてもらえないか。そうでないと死刑になってしまう』と頼まれ、祖母がそれを受け入れたという。それが功を奏したか、犯人は無期懲役 (後に出所) になった。『実は犯人が獄中から祖母にあてた“礼状”があったのですが、紛失してしまった。唯一の証拠だったのに残念でなりません』これまでも“間違い”の訂正を試みたこともあったが、なにをいっても最後は『食べ物の恨みは怖い』になってしまい、あきらめていた。 (中略)『よくしてくれた父だった』と芦燕。何事も親身なのは父親譲りか。『だれもが忘れてしまっていること』という気持ちが強いようで『ああいう時代だったから』とあまり語らない。事件に隠れ、俳優としての評価が忘れ去られている。立役も女形もこなしたが、十五代目羽左衛門の相手役を務めた。現在(※当時)の十七代目羽左衛門は『仁左衛門さんの“義賢最期”の印象はいまも鮮明。名優の一人だった。』という。」(東京新聞 平成6年11月1日 「遺族が語る“50年目の真実”」)「世間はかれを梅幸の代替品として見ていたが、お富だの、三千歳だの、そういった役柄において梅幸に要求したのと同じものを、かれに要求することは見当違いだったように思える。狷介で、気取り屋で、気位の高い彼れ、そして冷たくけれども気品ある容貌の彼れには、市井の莫蓮女、例えばお富のような心中仕そこねのお妾風情には心からなり切れなかったのかも知れない。純情な悲恋の女──別して朝顔日記の深雪や安達ヶ原の袖萩、そういった“たとえ落ちぶれても、もとこれ“歴乎とした武家の娘”といった気位の高い悲劇美の女性を演ずる時においてこそ、彼れのよさはいみじくも光るのである。所詮彼は悲劇の、そして悲劇の美しさを最もよく表現し得る役者の一人だった。しかしその最期のあまりに残酷だったこと、これこそ彼に取っての悲劇である。」(「アサヒグラフ」昭和21年4月25日号 『“仁左”殺人事件』 小倉敬二 述)墓所は身延山久遠寺 覺林坊にあり、戒名「大乗院仁優日東居士」十二代目 片岡仁左衛門 明治15年(1882)9月9日~昭和21(1946年)年3月16日