三橘──師・七代目嵐徳三郎の思い出── 17
四條河原と顔見世私が初めて京都南座の「吉例顔見世興行」に出演したのは平成十ニ年(2000年)、この興行の出演中に、師匠・七代目嵐徳三郎は亡くなった。十ニ月五日午前十時──自宅で朝食を済ませ、台所で食器を洗っていると、兄弟子から電話がかかってきた。「ええか、驚かんと聞いてな」「はい」「師匠が亡くなった」「……」「おい、聞こえとんのか?」「……はい」頭の中が真っ白になる、とはあのことだろう。どう返事をしたらよいのか、全くわからなくなった。今朝早く、病院の屋上から転落したそうや、と続ける兄弟子の言葉を、ほとんど空(くう)に聞いていたことは、記憶している。(※当時の新聞記事の一部)その夜、顔見世興行の出演を終えた私は、千里ニュータウンから近い斎場にいた。そして、師匠の枕許に端座していた。師匠は、安らかな表情で眠っていた。しかし師匠はもう、目を覚ますことはない。「……」私は師匠の顔を、じっと見つめた。師匠は、亡くなった──心で自分に何度言い聞かせても、私はこの現実が受け止められなかった。むしろ、嘘なのではないかと、本気で疑っていた。あとでいきなり、「バア、驚いた?」と、おどけて起き上がるつもりなのではないかと、期待や希望ではなく、本気で思っていた。十ニ月五日の早朝、いつものように病院の屋上で朝の空気を胸いっぱいに吸って発声練習をしようとしていた師匠は、にわかの立ちくらみに体勢を崩し、誤って転落した、と古くより師匠と親しかった人から聞いた。予想以上に回復が早く、舞台復帰の目処も立ち、意気揚々としていた師匠である。その実現に向かって、着実に準備を重ねてきた師匠である。それがなぜ……!「これは何かの間違いではないか……?」ただ、師匠がたまに目眩や立ち眩みに襲われていた様子は、私も病院で実際に見て知っている。一体なにがあったのですか……!師匠の訃報を載せた新聞は翌日に、「病院関係者の話し」として、嵐徳三郎の死因は自殺によるもの、と断定的な続報を載せた。私たちは怒り心頭だった。もちろん、そんな事実はない。そもそも、師匠が転落する瞬間を目撃した者は皆無なのである。この「病院関係者」なる者が憶測でものを言ったことは、明らかであった。ほぼ崩壊状態にあった関西歌舞伎を守ろと、学士俳優の仲間たちが次々に脱落していくなか、劇界の魑魅魍魎を相手に孤軍奮闘してきた、芯の強い、おそろしく強い師匠である、加賀見山の中老尾上ではあるまいし、自分の命を自分であやめるような、そんな脆弱な人間などではない。その後、この新聞は自殺は誤報であったことを明記した訂正記事を載せたが、もちろんそこにお詫びの言葉はなかった。やや筆が走ったので、話しをお通夜の日に戻そう。私は手にした数珠を見つめた。前年の夏、にわかに或る仏事に参列することになった私は、不心得にも数珠を持っていなかったため、翌日に京都の東本願寺ちかくの仏具店で袱紗と共に買い求めた数珠が、いま手にしているものである。まさか、自分の師匠の葬式が、その使い初めになろうとは……。しかも、出演中の顔見世興行で私は良弁大僧正の同行僧の役をつとめており、衣裳とはいえ僧衣姿で舞台に立っていたのである。偶然だったのだろうが、なんて皮肉な巡り合わせだろうと、私は天のなせることを恨まずにはいられない気持ちだった。翌朝の告別式は、二人の兄弟子は舞台の都合で途中で失礼することになり、出棺は末弟子の私が見届けることになった。たくさんの献花に囲まれた師匠の胸には、「小笠原騒動」の南座上演時の台本、師匠が出演する第三幕目のページを広げて、添えられてあった。師匠が復帰の第一歩をしるすべく、毎日準備を重ねてきた芝居の台本である。病室における師匠の、そんな姿を想像するだけで、胸が締め付けられる。蓋をした棺には、師匠が愛用していた楽屋暖簾が、ふわりと掛けられた。(※師匠と愛用の楽屋暖簾)やがて師匠をのせた車は、「葉村屋!」とさかんに大向うがかかるなか、ゆっくりと斎場をあとにした。私も、そろそろ南座へ向かわねばならない。「王子メディア」でいつも師匠のアシスタントをつとめてくれた二人の若手俳優にあとを託して、私も斎場をあとにした。師匠を載せた車は、道頓堀の旧中座、そして松竹座と回り、ご両親の待つ天国の玄関口まで、無事に送り届けてくれたとのことだった。この日は一日快晴だった。師匠が旅立つ日としては相応しいのかもしれない。が、私には世の無情を当てつけてがましく見せつけられているようで、南座に着いてから、そんな青空を睨まずにはいられなかった。楽屋では私たちに対して愁傷そうな空気ではあったが、舞台と客席では初日以来の歌舞伎の祭典が繰り広げられ、私の現実とはしょせん私だけの現実であり、世の中の大勢には何ら関係がない、そんな断絶と孤独を感じたことを、憶えている。師匠の亡きあと、私は自分の進退を本気で考えなければならなかった。しかし、なんといっても突然の出来事であり、当然心の準備などできていようもなく、私はただただ悩み続けるばかりで、師匠の急逝から一年が過ぎた。よその一門への移籍──?東京へ帰る──?私は南座のそばを流れる鴨川の、四條大橋と三條大橋との間の河原を、毎日往ったり来たりして考え続けた。いろいろな考えが頭に浮かぶものの、すべて名案からは程遠く、妥協点すら見出せず、私の心はどんどん暗く塞ぎ込み、このまま鬱になるのではないかとすら思った。実際、その一歩手前まで来ていたように思う。この年も出演していた南座顔見世興行の何日目であったか、この日も重く暗い気持ちで阪急電車の河原町駅の階段を地上へ上がる瞬間、「そうだ、これからも、七代目嵐徳三郎の弟子という立場で、やっていこう!」と、ひらめいたように思ったのである。そして鴨川の河原に下りると、いつものように往復しながら、この考えを整理した。(※四条河原より三条大橋方面を望む 令和7年6月撮影)私の師匠は、七代目嵐徳三郎ただひとりである、その憧れである師匠を目標に、これからも関西で頑張っていこう。師匠あっての、いまのこの私ではないか。師匠は亡くなったのではない、ただ人の目には見えなくなっただけ、師匠はいまもそこにいるのだ。もう寂しくはない。私には常に師匠がついてくれている。私には心強い味方ではないか。私はせっかく、憧れの師匠がいる大阪に来たのだ、自分の力で出来る限り、このまま関西で頑張ってやっていこう!──そう気持ちが固まった途端、それまで私の心を重く塞いでいたものがいっぺんに消えて晴やかになり、体も軽くなったものだ。それが歌舞伎発祥の地とされる京都の四條河原であったのも、なにかの因縁だろうか。(※四条河原から南座を望む 令和7年6月撮影)もしかしたら、これは師匠からの応援メッセージだったのかもしれない。最後まで挫けなかった師匠の生き方を、私は弟子として受け継いでいくのだ。負けないぞ!私はようやく四條河原で、師匠と、そして自分に、はっきりとそう誓った。平成十五年十二月五日、師匠三回目の命日の夜、大阪の自宅にて追想す師匠・七代目嵐徳三郎令和八年のあとがき私がこれまで生きてきたなかでただひとりの師匠である歌舞伎役者・七代目嵐徳三郎の思い出を、弟子の目線で全十七篇に綴った「三橘(みつたちばな)」は、作中にもある通り平成十五年の夏の終り頃より思い出すまま筆を進め、翌十六年に当時関西歌舞伎の若手を応援していた方のご好意で、ご自身のHP上に毎月連載させていただき、のちにその方が開設してくれた私のブログ上に、再掲載したものであります。その後、私を取り巻く環境の大きな変化などから掲載の非公開を余儀なくされ、長らくそのままになっていましたが、令和八年(2026年)五月をもってかつての私の活動拠点であった大阪道頓堀の松竹座が閉館、また興行元の関西松竹も消滅し、ついに道頓堀から歌舞伎の灯が消えるとの驚報に接し、関西に歌舞伎があった時代にそこで生きた役者の姿を知る、ひとつのよすがになればと、もとの原稿に加筆修正、私が所有する写真もいくつか加えた上、今回新たに掲載したものであります。師匠に憧れてせっかく来た大阪で、自分の力で出来る限りやって行こうと固く決心した私は、それから五年後にいよいよその限界がきたことを感じて東京へ戻り、さらにその二年後、この業界には自分の追い求めるものが絶無であることを見極めて訣別、東京である人に騙されて取り上げられた“嵐徳江”の名を、読みはそのまま“嵐悳江”と改めて取り戻し、現在の手猿樂師としての私につながっております。師匠の急逝、かつて十年在籍した業界との訣別など、想定外の出来事に遭遇しても挫けずにここまで生きて来られたのは、すべて師匠の弟子という誇り、私の師匠は七代目嵐徳三郎ただひとりであるという誇りが、私の心の拠り所であり続けているおかげに他なりません。師匠が二十一世紀と誕生日を目前にして急逝してから早くも二十五年以上がたち、この「三橘」もふた昔前の作品となりましたが、今回の新掲載にあたり久しぶりに原稿を読み返したところ、いまではすっかり仕舞われていた記憶が次々と蘇り、それが久しぶりに師匠本人に会えたように思えて、そうした懐かしいひとときも楽しむことが出来ました。その人が亡くなったあとも、記録が殘る限り、その人の魂は生き續けると言います。拙文ながらこの十七篇をいつでも誰でも讀めるようにしっかり殘していくことが、不肖者ながら殘った弟子としてのつとめと、心得ているつもりです。令和八年五月かつての嵐徳江いまの嵐悳江