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トンイ長いあらすじ(小説風)完全版一覧1~60話 byちょびかじり コピペ厳禁よ

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2019年06月09日
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粛宗7年 (1681年)

絶壁の黒い陰の向こうに川が広がり、さらにずっと奥には山々が連なっている。一帯と水面は藤色のもやに包まれていた。

闇の中に子船が一隻浮かんでいる。先尾の竿に引っかけた盆ちょうちんが水面に映って赤く揺れた。

空気が冷たく気持ちがいい。まもなく夜が明ける頃である。

オールとカゴを足元に置いて、船の老人は竹竿をひゅんと放った。釣り糸の行方を追う彼の目つきは、へびのように鋭い。
糸は線のしぶきをかいて、水面に輪をはった。


彼は司憲府の(役人の違法行為を監督する官庁)の長官である。名をチャン・イッコンという。

彼は先程から一隻の船がゆっくりとこちらの方へ近づきつつあることに、すでに気づいていた。

その船にはやはり男が一人で乗っている。人目を忍んで暗めの服装だが、明け方の光が笠帽子を白く照らし出していた。

イッコンはかじかんだ手を丸めて、ふぅーと温かい息を吹き入れた。子船が背中から忍び寄ってくる間、釣り糸をじっと見つめたきりでいた。

やがて怪しい小船はランタンを揺らして、広い川のイッコンの後ろにわざわざぴたりと止まった。

「漁師かね? 朝早くから御苦労だな。私はもう帰るからここでやりなさい。ここは随分あたりがいい」

イッコンは振り向かずに声をかけた。

「それは御親切に。ありがとうございます。大司憲様……」

「……私を知っているのか?」

「はい……」

帽子の影の赤い唇が答えた。鼻筋からして、わりと若そうな男だ。

次の瞬間、男は高く舞い上がった。

イッコンの目が思わず頭上をあおぐ……と同時に男がイッコンの船へと素早く飛び移ってきた。

ぶすり…

イッコンの背中へ容赦なく剣が突き刺され、内臓から血が逆上した。さらに口から吹き出るまで、ぐいぐい奥深くまで差し込み、力づくで剣を引き抜いた。
うめき声をあげ、よろけるイッコンの死にざまを、男は見届けようとした。
しかしその間、凄まじいまでの執念が、イッコンの体の中で沸き起こったのだった。
意識を失い、川へ落ちる寸前、イッコンは反射的に刺客の腰から身分札をもぎ取ったのであった。





貧しい村の子供たちは、リレーの結果にブーイングを起こして、親指を逆さに振った。

この騒ぎを収拾しようと、えびす顔の役人がドラの音を一つたたいて、城壁前に集まった観客の注意を向けた。

トンイはついさっきアンカーで、ゴールのテープを切ったのだ。なのに一位がどうして自分たちじゃないのかさっぱりわからなかった。

結果がひるがえった理由は、トンイらが貧しい賎民村の子供たちだということにあるようだった。

トンイらに猛抗議された役人は、フラッグをあおいで追っ払おうとするばかりだ。

一番仲のいいケドラが、賞品のお菓子を食べられずに、ガッカリしているのが、とてもかわいそうだった。

トンイはいいことを思いついて、賞品台へ忍びよった。赤い布が掛けてある盆を盗み見ると、花型の黄色い薬菓が小判のように積まれて、目に眩いばかりだった。
赤い実を花弁にみたてて葉っぱの飾りが添えてある。トンイはそれを全部引っつかむや、代わりに石ころをのせて元通りそっと布を掛けておいた。

お役人が気付いたときには、もう後のまつりだった。

トンイの鶴の一声で、薬菓を一つずつつまんだ子供らが、皆クモの子を散らして逃げていった。


トンイは、ほとぼりのさめた橋の辺りまで逃げきると、ドミノのように岩が倒れている川まで下りていった。

川はごく浅く、泥水が流れていた。

橋のたもとに何かあると思ったら、なんと死体のようだ。

いや。目は天を見上げ、こと切れた表情をしているが、まだ脈はある。

どうやら半日かけて、死体同然に水中をさまよってきたらしい。


トンイは誰かの助けを呼ぼうと思って、すぐにも橋の上へ戻りかけた。

そのとき厚みのある手が、がしりとトンイをとらえたのだった。

男が唇を動かして必死に何かを伝えようとしている。だが限界を悟ったのだろう。代わりに血まみれの指をトンイに向けた。

最初は握りこぶしを作り、親指と人指を鍵の形に広げ、またこぶしにし、最後は手のひらを開いた。

「おじさん動かないで! じっとしてなきゃ。待っててね。誰か呼んでくる。動いちゃダメだから!」

哀れな男は走り去るトンイの後ろ姿を、蛇のような目つきで未練がましく見守るしかなかった。

その後、役人と一緒にトンイが橋のたもとへ戻ってきたときには、すでに死体となっていたのだ。



その日、トンイは庭に食卓を出して家族で夕飯をとった。

ドンジェ兄さんとトンイとは年が随分と離れていた。宮廷の音楽を担当する部署“掌楽院“に所属する若い楽師だった。父さんは知らない人が見たら、きっとトンイのことを孫と思うだろう。それくらい苦労と穏やかな人柄が顔からにじみでていた。

トンイが包紙を広げて四個の薬菓を見せると、父さんは少し大げさなくらいに驚いてみせ、せっかくだから端の方をかじって喜んだ。余った二個は夜眠りについたのを見計らって、兄さんがサンタみたいにトンイの枕元へ置いといてくれた。

その晩、父さんは捕盗庁の隊長であるヨンギ従事官に久々に呼ばれた。

オジャギンとは遺体調査人の仕事だった。父さんをわざわざ呼び出したのは、ヨンギの部下の誰一人として遺体の殺害場所を特定することができなかったからだ。

殺されたのは大司憲チャン・イッコン……

南人派の長老である。

父さんが小屋に入ってきたのを見て、鼻の頭の赤い小さな軍官と、昼に川で現場を視察してきた男が、いかにもうさん臭そうに見回した。

「お言葉ですけど川を流れて来た者が、どこで殺されたなどわかりようがないじゃないですか? しかもオジャギンなどに!」

しかしヨンギは部下の言葉など全く構わず、トンイの父さんに意見を迫った。

「どこで殺されたか言ってみろ。すでにわかっているのだろう? 違うのか」

トンイの父さんは、ためらいがちに目をふせた。それでも一応調べて思った通りのことを正直に答えた。

「だんなさま。凶器はもろ刃作りの剣です。場所は恐らくサムバンの渡し場…。大司憲様は朝早くから釣りをなさいました。ワカサギが釣れるのは十箇所足らず。死体の手にウロコがあります。これほどの深手を負って冬の川に落ちれば、流される前に死んでいたはず。でも息があったということは川の水が温かかったのです。今日は東の風で川の南側は春の陽気。川の流れの速さを考えると、たどりつく先は、サムバンの渡し場でございます…」

その分析はヨンギの想像以上に的確なものだった。
賎民の男をヨンギが師匠とまで崇める理由は、まさにこの検死の才能にあったことは言うまでもない。

検死が終わるとヨンギは、イッコンと同じ南人派のオ・テソクの屋敷を訪問した。

その理由はこれが南人を狙った連続殺人事件だったからである。
これまですでに南人の指導者ばかり三名の命が奪われた。次なるターゲットはオ・テソクだと推理したのだ。

ところがテソクはヨンギの忠告に対し、どうも自分が狙われるとは、ピンと来てないようであった。彼はありがちな意見を返したに過ぎなかった。

「南人派と敵対する西人のしわざでは……?」

「いえ、そうではありません。コムゲのことをご存じでしょうか?」

このときオ・テソクはヨンギの捜査の目が、対立派閥の西人でなくコムゲに向けられていることを知った。

コムゲとは都の賎民たちが作った秘密組織である。
彼らの主な活動は奴婢の逃亡の手助けだった。ヨンギは渡し場近くでコムゲが兵たちを襲ったとの情報をつかみ、南人殺害にも関与したのではと考えたようだった。

その後、ヨンギの指示でコムゲの洗い出しが徹底して行われた。

何か賎民の村に変化が起きていることは、幼いトンイにもわかった。

何の罪もない村の人たちが、コムゲの疑いをかけられて次々に兵士に連れ去られていくのだ……

貧しい者の味方であるはずのコムゲ…。それが人を殺すはずがないと父さんは言う。

その一方で、最近兄さんの様子が少し変わってきたのがトンイは気がかりだった。

と言うのも夜にこっそり家を出て行くことがあったからだ。家族同然のチョンス兄さんと会っているらしいが、村人らも交えて何か秘密に動いている感じなのだ。

でも昼間はいつも通り、楽師として宮中へ出勤する優しい兄さんに戻る。

兄さんの担当は弦楽器だった。糸巻きのネジ部分で留めた弦が、下のミニ太鼓のようなところまで張ってあり、指で弦を押さえたまま弓で音を鳴らすのだ。

大妃様が開いた宴へ、ちょうど兄さんの演奏を見物に来ていたトンイは、そのとき兵士らが会場内に乱入する現場を目撃したのだった。

楽師や宮中の者のなかに、コムゲのメンバーが潜んでいるとの情報が入ったらしかった。

見物客らは怖がって逃げ出し、城内の広場はたちまちアリがうごめくような大騒ぎとなった。


楽師らが兵士に連れ去られるのを、ぼうぜんと眺めていたトンイの口を背後から何者かがふさいだ。

兄さんだった。
兄さんはシィーッと唇に指をたててみせた。








最終更新日  2022年05月18日 17時01分58秒


2019年06月08日



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コムゲの摘発が進むにつれて、父さんはトンイを家の外へ出したがらなくなった。

留守のときはケドラの父さんの家に預けてから出かけた。

楽しみにしていた正月の門安婢 (ムナンビ)役も、父さんのお許しがでないままだ。

門安婢 (ムナンビ)と言うのは、婦人に代わって正月の挨拶をする下女のことだ。お屋敷に行って、美しい絹の衣装を着られるとっておきのチャンスだった。しかもその衣装は貰えて、御馳走だって食べられる。

なのにトンイがいくら寝ころんで泣きわめこうが、父さんは厳しい顔をしてダメの一点張りだ。

こうなったら何が何でも門安婢になってやる……

父さんの心配をよそにトンイは決意した。

幸いにも家を抜け出すのは簡単だった。最近父さんと兄さんがなぜか留守のことが多かったからだ。

ある日、トンイは屋敷の使用人に連れられていった。

娘の嫁ぎ先へ行かせる門安婢がハシカになり、ちょうど代役を探していたという。

座敷で待ちかねていた年配の奥方様は、こくりとおじぎをしたトンイを、品定めするようにじろりと見た。
トンイの藍色の上着ときたら色あせて毛羽だち、何度ほころびを直しかわからないくらいだ。髪は額の分け目から小さく飾り編みをして、まあ小奇麗にはしてあった。

「これがお前の話していた子か?」

「はい……」

使用人は申し訳なさそうに答えた。

「どこの何という者だ?」

奥方は今度はトンイに直接質問した。

「私はパンチョンから来たチェ・トンイと申します」

奥方は思わず絶句し、使用人を睨みつけた。

パンチョンといえば賎民の村だ…

「この娘はとても賢い子ですよ」

使用人の女はこの期に及んであたふたと言い訳を口走った。
実はさんざん探しまわったものの相応の娘が見つからず、急場をしのぐために連れて来たのだ。

奥方は改めてトンイの顔を見た。
確かに賢そうな顔立ちだが、使いものになるかどうか見極めることが肝心だ。娘の嫁ぎ先に失礼があっては困る……

「どうか私にやらせて下さい! 奥方様に恥はかかせません。挨拶文だけでも少し読ませ欲しいのです」

トンイのたっての頼みもあって、奥方は情けをかけてやった。そうしていかにも早く済ませたそうに、使用人に飾りダンスの小引き出しから挨拶状を持ってこさせた。

「一度だけ読ませてやろう。そのまま帰っては心残りだろうからな」

読み始めて早々、トンイは挨拶文の出だしでもう言葉を詰まらせてしまった。

「もうよい! しょせんその程度のものか!」

さすがに堪忍袋の緒が切れたらしい。今にも追い出そうとする勢いだった。
ところがトンイは意外なことを口にした。

「私読めます。……けど、漢字に誤りがあるのです」

「何? 誤り……?」

「はい。ここは形でなく“通る”の字で、またここは“曙”でなく、おめでたい瑞の字を書きます」

「見せよ」

奥方は驚いて挨拶状をトンイの手から取り上げると、卓上机をバンとたたいた。挨拶状すらろくに書けない使用人に呆れかえったのだ。

一転してトンイに対しては、満足そうに微笑みかけた。

「フリガナがついているのに漢字も読めるとは。たいしたものだな」

さっそく衣装あわせをさせようと、世話係の若い女がトンイを別室へと連れて行った。

まず紫の絹地で袖が三色の横しまの服を着せられた。胸と背にツバキのような刺繍がペアになっている。
額には光る玉をちりばめた丸い小皿の髪飾りをつけ、後ろのおさげから赤いリボンを垂らした。

トンイは嬉しそうに、小箱の鏡台の前でくるくるターンして膨らんだピンクのスカートを何度も眺めた。なんたって門安婢の役が終わったあとには、このきれいなお洋服が一式貰えるのだ。
世話係の女が、明後日までに丈を直しておくからとトンイに約束してくれた。


ソ・ヨンギ従事官は憂うつであった。トンイの父、チェ・ヒョウォンのことだ。果たして無事でいるのか……

今ではソ・ヨンギの所属する捕盗庁に取って代わって、なぜか重罪人担当の義禁府がコムゲの捜索に異様なほど熱をいれていた。

賎民村への捜索指示を与えるのは、南人派の大物オ・テソクの甥で野心家のオ・ユンであった。

ソ・ヨンギが高官殺しの捜査に向かう途中で、商店街の小さな路地に入ったときのことだ。

おめぐみを求めて、みの虫のような格好をした男が近づいて来た。

野ざらしの長髪に覆われて、顔はほとんど隠れている。深い目つきをした若い男だ。どす黒い一枚着は白かった名残は微塵もない。

男はついさっきまでリンゴをかじっていた手で、通りすがりのヨンギの手をぎゅっと握りしめてきた。

これはただの浮浪者ではないな……と瞬間的に思った。
大胆かつ無礼な犯行だったが、その手の力強さにヨンギは強い意思を感じとった。

手をそっと開いてみると、小さなメモ紙が残っていた。

赤・壁・松・下の四文字の暗号……

ヨンギは部下たちに悟られないようして、若い男の方をちらりと振り返った。

「無礼者めぇ!」

ちょうど大きな声と共に、若い男が護衛に突きとばされ、鍋屋の縁台へ倒れ込むところだった。
だが次の瞬間には、もうふっと路地から姿を消してしまったのだ……


夜、部署に戻ったヨンギは、暗号の文字を頭に浮かべながら、ゆっくりした足取りで見回りをして歩いた。

緑色の枠の障子……赤い柱と壁板……
部署の敷地の境に瓦つきのレンガ塀があり、その上空から枝が一本下りていた。

それが松だと気づくのと、レンガ塀と柱の隙間から「だんな様…」とささやかれたのが、ほぼ同時だった。

ヨンギはとっさに駆け寄り、ヒョウォンの手を熱く握りしめた。

彼が笠で顔を隠しているのを見て、やはり義禁府に追われていたかと心が打ちのめされた気分だった。

隠れ家をぜひ提供してやりたい。
そう申し出たヨンギに、ヒョウォンは小さく肩を丸めて言った。
「だんな様、めっそうもありません。手前のことはどうかご心配なく。それより見て頂きたいものがあります……」

と懐から折り畳んだ長半紙を差し出した。

「今回の事件を私なりに調べてみたのです。殺された南人三名それぞれの部署では互いの不正を荒探ししていたようです。はじめ手前は、高官殺しは西人勢力の仕業かと思いました。が、実は南人派内部による犯行ではないかと……」

ヨンギはそれを聞いてハッとした。

ヒョウォンと別れたその足で実家へ立ち寄り、ヨンギの父ソ・ジョンホに相談した。

「確かに疑わしい。私が出向いて王様に事実を伝えるとしよう。しかし王様は今日の午後、崇陵 (先代の王、顕宗の墓)へ出かけられた。明日参拝されたあと、治療のためそのままお泊りになるのだ」

父ソ・ジョンホは王様を追い掛けるつもりらしい。ヨンギと同じく責任感が強いだけに、ひどく気が高ぶった様子だった。

「ところでひとつだけ聞きたいことがある。そなたにこれを伝えたオジャギンとやらは信用できるのか?」

「ご心配なく。誰よりも信頼できる者です」

ソ・ヨンギはきっぱり答えた。

だが部署に戻ったヨンギに、部下からヒョウォンの違う一面を聞かされた。

夜も遅いし、護衛のつもりでこっそり部下に跡をつけさせたのだが、驚いたことにヒョウォンは道が行き止まりになると、がれきの壁を忍者のように蹴りあがり、集落の闇へと姿を消したというのである。

プロの尾行に気づくほどの軽い身のこなしは、これまで知るヒョウォンとは違う。

何か釈然としないものを埋めるように、ヨンギは明日の計画に全神経を集中させた。

雪が掻き乱れるなかを、ソ・ジョンホをのせた輿が王様を追って、少数の護衛兵と共に山腹へ入った。

その道中で起こった事件の速報に、ヨンギが思わず顔をしかめたのは、最初、部下の言った意味がよくのみ込めなかったためであった。

「コムゲが御父上様の輿を襲ったそうです。その場でオジャギンのチェ・ヒョウォンが捕まりました。あのオジャギンはコムゲの頭だったのです!」


同じ頃、下僕は門の前を掃き清め、嘉の字と猫みたいに愛らしいトラの絵を別々に貼った。赤いトサカと紫の長い羽尾を持った鳥の絵も、いかにもおめでたい。

青い空には正月らしく松の空き地に凧が三つ浮かんでいた。丸い穴の空いたのや、三色のストライプのもあがっている。
外は人通りが多く、子連れの家族などが出店の前で足を止めた。

「新春の門出にあたり、皆さまのご健康とご繁栄を心よりお祈りします」

門安婢のトンイは屋敷の主人へつつがなく挨拶を済ませた。
あとは「末長く幸福と成功がもたらされることを祈る」という主人の返事を、向こうの屋敷へ戻って伝えれば無事任務は終わりだった。

ご褒美にと控えの間へ一膳の御馳走が用意された。誰も見てなかったので、トンイは両方の手でつまんで、むさぼるようにして食べた。
残りは風呂敷にでも包んで貰って、父さんと兄さん、それに友達のケドラへのお土産にしたら、きっと喜んでくれるだろうと思った。


2011/4/24更新


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最終更新日  2020年01月08日 10時49分49秒
2019年06月05日








チェ・ヒョウォンがアジトへ姿を見せると、手下たちが道をあけた。

コムゲの頭……

それがトンイの父さんの正体であった。

洞窟の一番奥へ奥まで進む間、頭を垂れた手下たちの長い列が途切れることはなかった。

ドンジュのそばには友人のチョンスもいる。浮浪者に変装してヨンギ従事官にメモを渡したあの若者だった。

子ブタみたいに可愛い目をしたケドラの父さんは、愛情たっぷりの普通の父親だ。ここに集まっている多くの人がそうだった。もちろんトンイの父さんもトンイのことを大事に思っていて、トンイからの手縫いの贈り物のお花のアップリケの巾着袋を肌身離さず持ち歩いていた。

彼らはみんな家族を売られるか殺されるかして、無念の涙をのんだ者ばかりだった。

紫色のはちまきには、二本の白い角のマークが浮かんでいる。これがコムゲの証だった。

たいまつの炎が洞窟内部を隅々まで照らすなか、壇上にあがったお頭の姿は、総勢三百名の熱気に包まれ、豆粒ほどにしか見えなかった。それでも一人一人がお頭の熱い演説に心を震わせ、たいまつや槍をかかげて吠えたてた。


ヒョウォンは息子のトンジュや仲間数人を呼んで、会議のため洞窟内部のほったて小屋に入った。丸太のテーブルにちびたロウソクと地図を広げた。
一班は高官三人が殺された手掛かりを探す……
第二班は三人のいた各部署の役人の動きを探り、三班と四班は朝廷の重臣たちを見張ることが決まった。
一連の殺人事件は、政府内の陰謀に違いないと思ったからだ。

会議も一段落し、洞窟の入り口で白い人影が細長く浮かびあがった。

捕盗庁へ忍び込んだ密偵が、何か新しい知らせを持ってきたようだ。

それは驚くべき報告だった。

なんとソ・ジョンホを乗せたコシを、何者かが狙っているという……

一刻の猶予もならないため、ヒョウォンはたった数人の精鋭を連れて、ソ・ジョンホ救出に向かった。行き先は崇陵方面である。

そこで山中に放り出された輿を発見した。

しかしすでに手遅れであった。
輿の内部でソ・ジョンホの死体を見たとき、さらに思わぬ光景がヒョウォンを襲った。

たちまち禁義府の兵が現れ、コムゲを包囲したのである。


門安婢の帰り、トンイは偶然にも信じられない光景を目撃した。
父さんと兄さんが奴隷のようにつながれ、町を歩かされているのだった。

「お父ぁーん、お兄ちゃぁーん!」

野次馬の中からトンイが泣き叫ぶと、父さんがこっちを振り返って、悲しそうに小さく首を横に振ってみせた。

ここへ来てはいけない。隠れていなさい。
そう目で訴えているようだった。

トンイは美しい着物姿の自分を、今初めて本当にバカみたいだと思った。ご褒美欲しさにわがままを言って、勝手に家を抜け出したりしたから罰が当たったのだ……

泣きすぎてトンイの目は、ひな鳥のように腫れてしまった。けど今さらどんなに後悔したってもう元には戻せない。

トンイのことを心配そうに最後までちらちら振り返って見ていたドンジュ兄さんも、父さんと一緒にだんだん遠く見えなくなってしまった。


オ・テソクは机に座って、したたかに計画を練るタイプだった。
それでいてさも何も知らない風にとぼけて見せるところがある。
実行犯は甥のオ・ユンに任せていた。
オ・ユンは背が高くて、野望もありそうだが、まじめに任務をこなすところが気に入っていた。

策略は上手くいったと思う。誰も賎民の言い分など信じはしまい。事件は時と共に人々の記憶から消え去るのであった。

テソクは一仕事やり終えたときの気持ちのいい息をついて、旅の男を部屋に招き入れた。その人並み外れた神通力は、ピタリと未来を予言するとの噂だった。前もって呼んでおいた若い女をお披露目するつもりである。

小花の刺繍をあしらった衿元に、明るいピンク色の衣が、ぱっと差し込む春風のように、美人の女は華やかだった。

「チャン・オクチョンと申します。どうかお見知りおきを……」

オクチョンは軽い挨拶だけを済ませ、すぐにも退出していった。

「あの娘を王様の側室に推すつもりだがどうかね?」

テソクが旅人に尋ねた。

オクチョンの余韻に気を取られ、まだ障子をぼんやり眺めていた旅人は、はたと我に返った。

「側室……? それどころではありません! 天乙貴人の相です。王室に入れば頂点を極めることは間違いありません」

そう言いながらも、なぜか腑におちないことでもあるかのように、眉を潜めた。

帰り際、旅人はオクチョンとすれ違いざま声をかけた。

「あなたの他に、もう一人います」

「……何のことでしょうか?」

オクチョンが足を止めて、振り返った。

「もう一人、あなたと同じ相を持つ者がいるのです。あなたはそれに立ち向かわず、できれば避けた方がいい。あなたは全てを手に入れるが、もう一人はすべてを失い、そしてそこから始まります」

「では、もう一人が私の影なのですか?」

「いいえ。影はあなたの方です」

旅人の答えを聞いて、オクチョンは不安な表情を浮かべた。


父さんの正体が実はコムゲのお頭で、ソ・ジョンソ殺しの犯人に仕立てあげられたという事実を、トンイはチョンス兄さんから初めて聞かされた。

夜になって、いったんチョンス兄さんと山中に隠れた。武器の保管庫でもある小さなほら穴には、ケドラの父さんや逮捕をまぬがれた顔見知りの大人たちが集まっていた。

武器は大量にあっても、爆薬の材料はない。それで大人達はしばらく話し合いをしたあと、材料集めに町へ下りることになった。トンイもどうしてもと志願して、ようやく一緒についていけることになった。

町にはコムゲの人相書きが貼り出されていた。

幸い花火屋の主人は、門安婢の服を見て、トンイのことをお嬢様と勘違いしたようだ。ケドラの父親のことは使用人か何かと思ったらしく、そのままトンイと一緒にすんなりと店の奥へと案内した。
ヒモで連なる小さな筒花火が、丸い束にして柱に垂れていた。大きい筒花火は筒の色ごとにテーブルに寝かせてある。束になった花火は矢ほども長く、赤い竹筒に金の吹雪を散らした花火は、両端の穴からヒモを通して何個か縦にぶら下げてあった。

「この店に爆竹の筒があると聞いたんだが。赤い花火はないかね?」

ケドラの父さんが聞いた。

「はぁ。赤でございますか…」

主人は一人で隣の倉庫へ探しに行った。

その隙にケドラの父さんは外に待たせておいた仲間を呼び込み、棚に置かれた升箱のフタを手当たり次第に開けてみた。茶筒や鉢まで荒探しして、何とか必要な材料を手に入れた。

作業の間しばらく外で待たされていたトンイは、店の表通りから横に外れたひとけのない路地で奇妙な光景を目にした。

小太りの中年男が、後ろにリボンを垂らした若い女官と立ち話をしている。男の頷き加減から、立場は女の方が上にあるようだ。女には何か生まれながらに備わった気性の強さが感じられた。

トンイが妙だと思ったのは、その女官が袖口から、ほんの少し手をのぞかせ、何か人目を気にするように手信号で会話を進めている点だった。

親指と人さし指で前をさし、手のひらをパッと開いて閉じ、最後にまた開いた。男にはその意味がわかったらしく、こくりと頷くと、すぐにどこかへ消え去った。

続いて女官もその場を立ち去ろうとした。
そのときぽろりと蝶のストラップが地面へ落ちたのをトンイは目撃したのだった。

トンイはすぐにも駆けよって、そのストラップを拾いあげた。

それはとても美しい蝶々の木彫りで出来ていた。
羽の斑点は透かし彫りで、花と玉飾りをあしらった組み紐の持ち手がついている。下の方には金属の鍵棒と茶色い房が垂れていた。

とても大事なものだったらしく、トンイが声をかけると、オクチョンは丁寧に礼を言った。


翌日、渡し場までチョンス兄さんが送ってくれて、男の子に変装したトンイが船に乗り込んだ。

すでに大きな船が二隻、港についており、桟橋は肩が触れ合うほど人でごったがえしていた。仮設テントから市場さながらの威勢のよい声が響いてくる。風通しがいいので、染物屋が糸や布を干していた。

チョンス兄さんは別れ際に、コムゲの証であるハチマキをまるで形見か何かのようにくれた。

後からお父さんやお兄ちゃんと一緒に行くことになっているという。
チョンス兄さんがそう約束してくれたので、トンイは少しはホッとして、船の隅の方へうずくまった。

チョンス兄さんが去ってだいぶ経ってから、二人の商人が船に乗り込んできた。重い荷物を床へおろすやいなや、息せき切ったように世間話をはじめた。

「おいおい聞いたか? コムゲが逃げちまったらしい」

「打ち首だろう?」

「そうだよ。コムゲの残党が兵士を襲ったそうだ。その連中が向こうの絶壁の岩場へ逃げこんだんだとさ」

トンイは思わず断崖絶壁の岩山を見上げた。
次の瞬間、慌てて船を飛び降り、岩山に向かって無我夢中で走り出した。

途中で雨が落ち始め、そのうち土砂降りになってきた。

ようやく絶壁へ到着したトンイは、この世のものとは思えない光景を目の当たりにした。

本当に雨ばかり降って、残虐の痕を洗い流すようにとても静かだった。
そこら中の死体から血が広がり、雨に打たれて水たまりのように跳ねあがっている。泥でぬかるんだ地面には、無数の槍が散らばり、兵士もコムゲも見分けがつかないほどだった。

トンイは父さんのかも知れないと思ってワラ靴を拾いあげた。雨をどっしり吸い込んで重く、ほころんだヒモから、ぽたぽたと滴が垂れてきた。

トンイは血眼になって父さんや兄さんを探すうちに、とうとう絶壁の先へ行き着いた。
もし真っ逆さまに落ちたら、下の川へ体をたたきつけられる前に、途中で息が尽きてしまいそうなほどの天空の絶壁だった。
そこへ巾着袋が一つ落ちていた。
色違いの布を花びらの形に縫いつけてある……
いつかトンイが父さんにプレゼントしたものだ。

トンイは絶望のあまり、どうしていいか分からなくなった。

ここにはもう自分の他に、生きている人は誰一人ないのだ。


山を下りる間に、疲れて眠ってしまったらしい。不気味な風がざわざわ笹を揺らし、目が覚めた。辺りはすっかり真っ暗になっていた。

廃れた集落を見つけて、一晩泊まることにした。ザルが転がっていたり、縁側に扉が倒れたりして、大風が吹いたあとのようだ。

寒さに手をこすり合わせながら床板の部屋に入ると、トンイはシーツだか布団だかわからない布に、そのまま倒れ込むようにして眠りについた。

父さんや兄さんも失った今、トンイはもう帰る家さえないのだった。



2011/5/1











最終更新日  2020年01月09日 11時35分24秒
2019年06月02日







ちょっとだけ眠って目を覚ますと、小屋の前で立ち話をする声が聞こえた。房の赤い立派な刀を手にした武官のようだ。

近くに住む村人の一人に、聞き込みをしているらしい。人相書きのビラを手にしていた。

きっと自分を捕まえに来たのだ……
トンイはそう思って、こっそり小屋を抜け出そうとした。ところが足が棒に蹴つまずいて、金のタライが派手な音をたて縁側から転げ落ちてしまった。

「追ぇーっ。逃がすなぁ!」

くるりと振り返った武官は、走り出すトンイの影を見た。


薬袋のぶらさがった店を曲がったトンイの目に、商店街のまっすぐの道が映った。そこはちょうど正月お祝いムード真っ盛りだ。

何もこんな狭い所に集まらなくてもと思うほど、人がこっちに押し寄せてくる。トンイの肩には、線香花火が降り注いだ。

追っ手はすぐ後ろまで迫っているらしい。上官のどなり声がした。

ロケット花火がミサイルのように、瓦や草屋根を笛の音とともに飛び超えていった。

花帽子の芸人が打ち鳴らすタンバリンのリズムが、トンイを後ろからさらに追いたてる。

「道をどけろーっ」

上官が叫んだ。しかし人々は気づかず、新年の夜を明かそうと、手のひらを返し、麦を踏むように踊る。踊る人が盾となって、上官と兵士はとうとうトンイを見失った。


どうやら兵士を上手くまいたらしいと気づいて、トンイは露店の隅へ座り込んだ。自分と同じ年の子が正月用の晴れ着姿で、父さん母さんと楽しそうにしていた。

トンイがひとりぼっちなのを見て、紙気球を折り畳む作業をしていたおじさんが声をかけた。

「これをあげよう。代金は気にするな。正月なんだから願いごとを書かないとね」

紙気球売りのおじさんは、細筆に墨をつけて待っている。自分で書きたいとトンイがお願いしてみたら、そりゃぁいいと快く筆を渡してくれた。

赤、黄緑、ピンクなどの種類から、トンイは黄色い紙気球を選んで、下の方に牛の角みたいなコムゲマークを小さく描いた。このマークを見たら、いつでも駆けつけるとチョンス兄さんが別れ際に約束してくれたからだ。

子供たちが父さん母さんと、紙の四方を持って気球の中に火を焚いた。

気球はきのこ型に膨らんで、骨組みの竹の輪を透かして、いまかいまかと浮きあがろうとしている。手を放した瞬間に、それぞれの願い事をのせ、こぼれそうなほど大量な気球が、一斉に空へ吸いあげられていった。トンイの気球もきっとその中にあるはずだった。

やがて狭い路地から空へ放たれた気球群は、ふわりふわりと闇の空を彩った。さようならと気球に向かって、下の方から人々が手を振った。

紙気球はさ迷いながら天高くあがり、そのうち色を失った。しばらくの間はまだ微かに炎が見え、最後に星と一緒に瞬いた。

トンイにはその一つ一つの星が、まるで父さんやお兄ちゃんがこっちに微笑みかけているようにも思えた。


賑やかな祭りもようやく終わりを迎えつつあった。ひっそりした庭から、女主人は灯篭の火を口で吹き消し、部屋の中へと姿を消した。

トンイは庭から掘立小屋に忍び込んで、飯たき釜にお椀を突っ込んだ。幸い正月とあって、まだたっぷり飯は残っていた。とっくりを置いた棚との暗い隙間にしゃがみ込んで、手づかみで飯をかき込んだ。

一度、女主人が台所へ酒を取りにやって来た。
なぜか釜鍋のフタがずれている……
女は首を傾げながらもフタをぴたりと重ね合わせ、棚から白いとっくりを選んで小屋を出ていった。

「泥棒猫めっ!」

とつぜんの叫び声に、トンイは自分のことかとびっくりした。でも庭で聴こえたのだから、泥棒猫とは自分のことではないはずだ。

外をのぞくと、トンイと同じくらいみすぼらしい子が、女主人に首根っこをつかまれて、哀れに泣き叫んでいた。腹ペコに耐えられず、食べものを盗んでしまったのだろう。

なんと幼なじみのケドラだった…


とっさにトンイは女主人の背後からカゴをぶつけるや、ケドラとその場を逃げ出した。

そのうちに枝葉に覆われた高い城壁までたどり着いたので、そこで一夜を明かすことにした。

ケドラの話でコムゲが一人残らず捕まるか、死んでしまったというのを初めて知った。

死んだ父ちゃんのことを思い出したケドラは、すっかりしょんぼりした顔だ。

「いいと思わない? ここ宮殿の裏よ。この上は屍口門。宮廷で人が死んだときに死体を運び出す門よ。王様と王室の人以外は死ぬ前に宮殿を出るでしょ。だからここを使うことはめったにないの」

トンイの話に、ケドラは悲しいのを一瞬忘れて興味を示した。

「本当? 誰に聞いた?」

「父さん。だからここなら絶対に見つかりっこないわ」

「へぇ。逃げるのも上手いし、何でも知ってんだな。俺、オオカミみたいな犬に足を噛まれたんだぜ」

ケドラが頼みもしないのに足袋を脱いで見せてくれた。でもその土まみれの甲の赤いのは、傷ではなくて凍傷だったのだ。

二人はススキやカヤの草むらに寝ころんで、厚いムシロを体にのせた。

今にも凍えそうな空気だ。それに正月だというのにとても静かだった。

星空を見てケドラがまた悲しい出来事を思い出した。

「父ちゃんに会いたい。怒られたってたたかれたっていい。父ちゃんに会いたいよ…」

「あの星を見て。あんたのお父さんよ。まんまるだもん」

トンイも涙があふれ出るのをくいしばってケドラを元気づけた。

突然ケドラが思い出したように起きあがって、包み紙を開いた。ひき肉を平べったく伸ばして焼いたのが、どこかの家の前にやまほど捨ててあったという。

トンイも一つだけ貰ってかけらを歯でひきちぎってみたものの、すぐぺっペッと吐き出した。

「腐ってるじゃない!」

「何か変な気がしたんだ。でも初めて食ったからこんなもんなのかと思って…」

ケドラはせっかく手に入れた肉が食べられないとわかってガッカリした。


翌日、腹が痛いとケドラが転げ回っていた。我慢しきれず肉を食べてしまったのだ……

トンイはケドラを背負って貧しい民を診てくれる部署の広場へ駆け込んだ。

何とかケドラを診療室へ預けることができたものの、門に指名手配のビラが貼ってある。
コムゲの頭である父さんの人相書だ。その似顔絵にはすでに墨で×が付いており、その隣にはトンイの顔も掲載されていた。

医官の一人がビラとトンイを見比べ、ちょうど捜索に来ていた武官のもとへ駆け寄った。

医官がトンイを指さすと同時に、トンイは部署の門を飛び出した。


山の中に逃げ込んだうちに再び夜になった。
高い木々の間を大風がふーふー不気味に吹き抜けていく。

波打つ笹を掻き分け、斜面をのぼりきったところで、ようやく安全になったと思って顔をあげてみると、そこにはなんと先回りしたヨンギ従事官が待ち伏せていたのだった。

「どうか見逃して下さい。お父さんは犯人じゃありません。私見たんです。例のあの手の動きを女官がしていたのを……」

トンイはひざをガクガクと震わせながら、涙ながらに手をすり合わせて頼み込んだ。

するとヨンギの表情が一瞬、変わった。
今の話をもう少し詳しく聞いてみたいと思ったのだ。ところがその矢先、ヨンギがハッとして振り返ると、笹野原の向こうにタイマツの群がある。軍がとうとうトンイに追いついたのだ。強風にあおられ、炎が不気味に長く伸びていた。

兵士が一斉に弓を構えた。

「待て! 撃つなー。やめろーぉっ!」

ヨンギが叫んだのと同時に、矢は一斉に放たれた。
怯えたトンイが後ずさりした直後、高い斜面から転がり落ちていった。ヨンギは最後にトンイの悲鳴を聞いたのだった。

その後、兵士と一晩中捜索したものの、ついにトンイの遺体発見には及ばなかった。


翌日、コムゲの頭の娘の死体があがったとの一報が入った。

ヨンギが遺体の保管場所へ足を運んでみると、なぜかテソクが来ている。重臣がわざわざ小娘の遺体を見に来たこと事態が不可思議だったが、テソクは実に興味深そうに、ベッドに寝かされた遺体を眺めた。

「チャンネ川で発見されました。門安婢を頼んだ家の者に、同じ服だと確認済みです」

役人がテソクのそばで説明をした。

「しかしだいぶ痛んでいるな。これでは顔が確認できぬ」

テソクは白布のかけられた顔をのぞき込んで、口惜しそうにした。

スカートの裾から泥まみれの足が見え、べたついた頭部は地肌がでていた。すでに門安婢の絹の衣装の美しさは色あせて、まるで遠い年月が過ぎ去ったかのようだ。

テソクにしてみれば、この娘は遺体の第一発見者であった。さらにはテッコンが死に際に刺客からもぎとった武官の名札を捕盗庁に提出したという。他にも何かしら証拠を握っているとも限らない娘などは、迷惑な存在でしかなかったのだ。

「間違いなく頭の娘トンイです。最後に見たときにその服を着ていました」

ヨンギがきっぱり断言したので、まだ煮えきらない表情を浮かべながらもテソクは諦めたようだ。

テソクがその場からいなくなるなり、付き添いの部下がヨンギに言い寄った。

「従事官様。最後のあの服は…」

ヨンギは部下の言葉を遮った。
何が言いたいかはわかっている……
最後に見たとき、トンイは男の子の格好をしていたからだ。

「どうか何も言わないでくれ……。あの娘は私が探す。必ずこの手で見つけなくては。私はまだあの子に用があるのだ」


トンイの行方を追っていたのは、ヨンギや兵士ばかりではなかった。

もしものことがあったとき、トンイの兄さんがキーセンのソルヒに世話を頼んでおいたのだ。

美しいうえに人並み外れた行動力から、ソルヒの協力者は後を絶たなかった。

瀕死の状態からトンイを救い出したのも、すべて彼女の指示によるものだ。

ソルヒは母のような優しいまなざしでトンイを看病した。トンイの兄トンジュに想いを寄せていたからだ。

まもなく健康を回復したトンイが、トンジュ兄さんの所属していた掌楽院への就職を強く希望すると、その願いさえも叶えてやった。

まさかコムゲの娘が宮中にもぐり込んでいようとは誰も思わないだろうから、かえって安全であると思ったのだ。

掌楽院に勤めるジュシクもまたソルヒのあまりの美しさに、鼻の下を伸ばしてトンイの世話を引き受けた一人だった。

ソルヒはトンイを彼に預けた後、孤児になったケドラを連れ、まもなく船で都を離れた。

一人都に残ったトンイは風呂敷一つの身で、赤いやぐら門から宮中へと入った。

門の石段には等間隔に兵士が立っていて、その向こうになだらかな山々が霞んで見えた。

トンイの目的は、他ならぬテッコンと同じ手信号を使った女官を探し出すことにあった。

そんなこととは露知らないファン・ジュシクは、幼いトンイの手をゆっくりひいて、敷石の広場から掌楽院を目指して歩きだした。



2011/5/8更新









最終更新日  2020年01月14日 18時05分40秒
2019年06月01日








雑用の仕事は、目まぐるしいほどの忙しさだった。

琴を運んだり、倉庫へ楽譜を取りに走ったりするだけでなく、水汲みまでする。それが終わると楽師らの衣装の洗濯が待っていた。石に服を広げて一枚ずつ棒でたたき、こすり洗いするのだ。

楽師らが帰宅してからも、まだトンイには夜まで楽器置き場の片付けが残っていた。

琴を棚にたてかけ、畳に散らかし放題のバチや譜面を拾い集め、太鼓を他のと同じように二段に積み重ねた。

幼いトンイにはどれも重労働で、明け方には大抵へたばってしまう。

仕事が済んだら済んだで、今度は父さんや兄さんたちのことを思い出した。

寂しくてどうしようもなくなると、トンイはヘグムをひざにのせて弾いた。トンジュ兄さんにちょっとだけ遊びで教えて貰ったのだ。そのときはなかなか良い音が出せなかったけど、六年も経つ頃には腕も上達して、トンイ自身も大人の女性へと成長した。

トンイはヘグムの弓を白毛の束にあてた。弦の音色は張りつめた明け方の空気に触れて、悲しい音になった。

「どうなさいました…?」

おつきの男が王様に声をかけた。王様は忙しい視察から戻り、今こうしてようやく明け方に、散歩に出たところだった。女官や尚宮のお供もいない二人だけだ。

「静かに。少し待て」

心に浸みわたる深い音色は、いたずらにかすんだ。

王様はもっと耳を澄ました。音色をたどっていけば演奏者がわかるだろうと思って歩きはじめた矢先、ヘグムの音がぴたりと消えてしまった。


トンイの宮中入りの経緯を唯一知っているのは、ファン・ジュシクだけだった。

この六年、まるで姪っ子のようにトンイのことをずっと可愛がってはきたものの、随分とヤキモキもさせられたものだ。

ジュシクはちらりと不安そうに後ろを振り返った。

雪の降る庭の隅で、内官らがさっきから立ち話をしている……
お辞儀されている方の内官は、見間違いでなければ王様のつかいの者であった。

王様の命で、明け方にヘグムを弾いていた楽師を探しに来たらしい……

嫌がるトンイの耳たぶを引っ張り、ジュシクはその場からトンイを追い払った。宮中の外へある鋳鐘所の手伝いへ行かせたのだった。奴婢のトンイが楽器を演奏したことがバレたら一大事だからだ。それこそ自分の命だって保障はできないだろう……


「何? ヘグムを演奏していた楽師が見つからないと?」

「心に響かれたのですね…」

王様のがっかりした様子を見て、おつきの男が慰めた。

「ああ。初めて聞く清らかな調べであった……」

それにしても楽師の一人一人に聞いて回ったのに、実におかしな話だった。あの調べは空耳だったのだろうか……?


通常、王様は忙しい政務に追われっぱなしである。渡り廊下を移動する間も、都承旨が肩越しにスケジュールの説明をし、内官が筆でメモを取るほどだ。

「宴のあと議政府と各官庁の役人から国政の報告があります。また朝廷の重臣たちもお目通りを願い出ております」

「一度で済ませよう」

重臣らを板の間へ集めて聞くことにしたが、その前にも隕石を見に立ち寄った。

なるほど報告通り宮中の庭には大穴が開いている。調査員がハケで隕石の土埃を払っているところだった。

「王様、不吉なことが絶えません。ついに隕石までもが宮廷に落ちたのです。隕石は古来、死と災いの兆し。これらは全てチャン氏のせいではありませんか? そうでなければなんなのでしょう?」

南人オ・テソクは、これら西人の発言をいぶかしげに思った。
この六年間に力をつけた南人は、チャン・オクチョンが宮中を追放されて以降、西人の勢いに圧倒されていた。

だが最近になって、王様がオクチョンを呼び戻すと宣言した。南人と西人のバランスを保つためである。ところがその発表をしてからというもの、珍事件ばかりが起こるようになったのだ。

恐らく黒幕は大妃であろう。薄々気づいていながらテソクには今のところ打つ手はなかった。

甥のオ・ユンの話では、掌楽院で不穏な動きがあるという……

どうやらまた大妃が西人とつるんで何かを企んでいるようだった。

今のところはっきりしているのは、大妃がとつぜんウンピョン君の誕生祭を、オクチョンの宮中入りとわざと同じ日に設定した事実である。
一体何を企んでいるのか……
裏があるような気がしてならなかった。

トンイはタライに浮いた四匹のフナをよく観察した。肥えてつややかで、うろこの網目模様がくっきりしている。
でも皆死んでいるのだ。
縄を持ちあげフナのえらを指でぬぐうと、血の他に砂が付着していた。

「お腹が膨れているから窒息死ですね。原因はこの砂です。えらに詰まって息ができなかったんです。池の水を替えれば生き残った魚は大丈夫でしょう」

「本当かい? いやぁ助かったよ。魚が次々死んで途方に暮れてたんだ」

雑用係の男らは、ようやくホッとした笑顔を見せた。

トンイは砂をはたいて立ちあがり、袖口を元の長さに戻した。ついでにエプロンのシワも伸ばして歩き出すや、別の所から次々に助けを求められた。
「弦にロウを塗るのを試してみたけど、どうも上手くいかないよ…」
琴を弾く男はトンイに弱音を漏らした。

昔は冷たかった楽師たちの態度は一転、今やトンイに頼りっきりだった。

トンイは楽師の頭巾が潰れているのに気づいて、四角い形にふっくら整えてやり、鼻づまりのヨンダルには、コヤシを嗅がせる法を伝授した。ヨンダルの長い鼻は、途端にすーっと通りがよくなった。
くたびれたブーツの代わりに、昇給試験にふさわしい平靴を用意してやった。
いくらトンイが賢いとは言え、ヨンダルはまだ半信半疑だった。ところがトンイは自信たっぷりにこう言うのだ。
「大丈夫ですよ。昇進試験には練習したウットドゥリが必ず出ます!」

楽師の昇進試験は年に一度、掌楽院の前庭で行われる。

当日は約三十名がゴザの前後に平べったい靴を並べて座った。三列に並んだそれぞれの席に、譜面台、紙、墨、筆が用意された。

「ただ今より、昇給試験をはじめる!」

掲示板の巻物のひもがするりと解かれ、最初の課題「聴音」が発表された。

五音十二音、音の高さ、曲調、弾き方、テンポなどを漏らすところなく書き記す。制限時間は曲が終わるまでとされた。

「はじめよ!」

合図とともに、琴や長笛の参考曲が生演奏された。

受験者らは一斉に筆を取って、六×二十行ほどの縦のマス目に黄と書いた後、一、二つ空けてから、仲、林仲、仲黄などとマスを埋めていった。


次の課題は「聴奏」であった。

指にオウムをのせた上官と、竹製の鳥かごをさげた部下が登場した。鳥かごの中には、二羽のインコとオカメインコが止まり木に止まっていた。
竹カゴが台へ置かれると、オカメインコは少しバランスを崩して前のめりになり、灰色の長い尾がシーソーのように傾いた。

聴奏は鳥の声を聞いて、その音律通りに演奏できるかを試す試験だ。

オウムは黄緑の毛にむっくり首を縮めて、気持ちよさそうに目を閉じたままで鳴いた。

ぴるるるるー。

受検者はできるだけそれに似た音を駆使し、弦や笛音を小刻みに響かせた。審査官数名が受験者の間に立って、ノートに判定を記録していった。

いよいよ最後の課題「合奏」のために、受験者たちに譜面が配られた。

課題曲はウットドゥリである。

ヨンダルは嬉しくて、もう飛び上がりたい気分になった。

ウンピョン君の誕生祭のため、踊り手たちは伝統的な仮面舞踏である処容舞を稽古していた。だからその伴奏曲であるウットドゥリが必ず出るだろうというトンイの予想がずばり的中したのだ。

試験官の拍子木の合図で、子笛、ヘグム、琴、長笛が、太鼓ののどかな拍子に合わせて演奏された。


ウンピョン君の誕生祭が予定通り、華やかに開催された。その裏でオクチョンの入宮がひっそりとなされた。

あてがわれた御所へ入居した早々、王様より恋歌が届けられたとの知らせを受けた。

その頃にはすでにファン・ジュシクと掌楽院の楽師たちが、オクチョンの御殿の庭へ馳せ参じていた。

トンイは一番後ろに隠れるようにしながら、持ち前の好奇心からオクチョンを盗み見た。

小花を散りばめた銀のかんざし、花金模様をあしらったエンジ色の掛けえり、ピンクの短い衣…

華やかな衣装に彩られたオクチョンの喜びあふれる笑顔。

トンイはハッとした。

(あのときの女の人に似ているわ…!)

記憶が曖昧ながらも、あの手信号を使った女官と同じ顔に思えた。


オクチョンは赤とピンクの二枚掛けのテーブルについた。
心地よい春風が赤い柱と四方に咲き誇る梅の枝を抜け、ピンクの縁取りのすだれを揺らした。
楽師らは床へ直接座り、トンイとファン・ジュシクは柵のそばへ立った。

「恋歌というと、もしや艶陽春か?」

「はい。さようです」

楽師は長い横笛二名、小さい縦笛二名にヘグム一名、鼓が一名ほどである。大部分の楽師は表舞台で行われているウンピョン君の盛大な宴の方へ参加中だった。

そちらの方では大妃、正妻、王様、テソクら重臣が総勢顔を揃え、楽師たちは椿の刺繍をあしらった特別な冠衣を着ていた。

偶然にも演奏は二会場で同時にはじまった。

鼓がトントンと風を漂い、チャルメラの高い音が波にのる。音はどこまでも高く駆けあがって、最後にはとんでもない調子っぱずれの音を連発した。

「申し訳ございません。楽譜を間違えていたようです…」

トンイは楽師の譜面を急いで差し替え、文鎮を置いて引きさがった。オクチョンは我慢強く笑みを浮かべている。

演奏をやり直した途端、おかしなことにまた調子が外れた。

それはウンピョン君の宴でも同じだった。

誇らしげに演奏を取り仕切っていた指揮官が、風呂の火でもおこすように、ヒステリックにじゃばらの拍子木を打ち鳴らした。

輪唱でもないのに、たちまち演奏がズレてしまう。踊り子たちの舞いもままならなくなり、ついには立ちすくむ始末だった。

西人の重臣らがざわざわと立ちあがった。

「聞かれましたか!? 音変です! 国の音が乱れたのです。災いが起きますぞ」

「掌楽院が絡んだのはこれだったのだ。早急に手を打たねば…!」

南人のテソクが甥のユンに呟いた。

オクチョンはこの頃にはしびれを切らして、女官と共に退場した。同時にこの狙いの意味するところを察してもいたのだった。

王様も、トンイも気づいた。

「音変だわ!」

一方ファン・ジュシクは何が何だかさっぱり訳が分からず、演奏が失敗に終わった腹いせに譜面台を蹴り飛ばした。


音変の嵐が吹き荒れた夜、トンイはこっそり門番の目をかいくぐって、チョン尚宮の住む就善堂へ行った。

六年前に会った女官と同一人物か、どうしても確かめてみたかった。思い切って蝶のストラップのことを聞いてみればはっきりするだろう。

トンイは紙を広げて、蝶の図案を見つめた。

忘れないようちゃんと描いて保管しておいたのだ。

羽模様がくり抜かれ、胴体のところに玉の字が行書で浮きぼりになっている。

緑色の裏口門から、そっと庭をのぞいてみると、オクチョンの部屋で休んでいた王様が庭に出てきた。オクチョンの包み込む笑顔に見送られようとしているところだった。

灯篭持ちや女官らを後ろに従え、王様は屋敷の向こう側へ抜けていった。
その様子を見届けた瞬間、トンイは何者かに背中を突かれてガクンと倒れ込んだ。

「尚宮の部屋をのぞいていた怪しいやつです。どうしますか?」

「事件を探っていたのかもしれん。ついでに監禁しておけ」

男らがささやいた。

そのままトンイはサマク山の倉庫へと運ばれ、袋ごとどさりと投げ捨てられたのだった。




2011/5/15更新



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奴婢の女に逃げられたとの一報が西人イングクのもとへ舞い込んだ。

手首と体を縛りあげていたため、そう簡単に逃げだせやしまいと部下が油断したらしい。

あの小屋には鋳鐘所の職人の遺体が昨晩まで放置してあったのだ。女はそれを目撃して逃げたに違いなかった。

警備の目を盗んで脱走したくらいだから何をしでかすか…

イングクは思わず泣きたくなった。


「この目ではっきり見ました。ピョンギョンを作る職人の死体です。その死体が消えたんですよ。誰の仕業にせよ犯人は宮廷の人に違いありません」

トンイは庭の片隅で昨夜の出来事を、ヨンダルに事細かく説明した。

殺された職人は、先日トンイが手伝いに行かされた鋳鐘所で見たのと同じ顔だ。柱の土台に血もあった。

「知ってるでしょ? ピョンギョン(編磬)が乱れると、他の楽器にも影響が出ます。誰かがチャン尚宮様を陥れるために、ピョンギョンに細工をしたんです。だからあの職人さんが口封じに殺された。ほらね。つじつまが合うじゃありませんかっ!」

トンイは推理を展開し、パチンと手をたたいた。

ピョンギョンの製造工程は、だいたいこうだ。大理石に似た板をシャープに切り、泥水を少しずつ垂らして周囲を研く。そのあと表面にたっぷり泥をなでつけ、さらに磨きあげる。

絵馬みたいな形に仕上げた石版のてっぺんに、ロープで吊るす穴が一つあけられる。それが屋根つきの木枠に八つずつ二段にかけられる。木枠はただ赤く塗っただけのものもあれば、透かし模様の板を貼ったの、他に幾何学、半円、花、波模様など万華鏡のような塗装をしたものまでいろいろだ。

玉のついた棒で石版を軽くたたくと、カーンと鳴る。この打楽器の音をもとにして、例えばもう片方の手で小笛を吹きながら調律していくのだった。

「話していることを全部聞いたぞ! デマカセばかり言いおってぇ!」

とつぜん背後でファン・ジュシクの雷が落ちた。

音変だの殺人だの、ジュシクはもう生きた心地がしなかった。普段ならトンイの耳をかっぽじって説教を聞かせたいところだったが、それより心配が先んじて大きな目を潤ませた。

「トンイ。百歩譲ってお前が本当に死体を見たとしよう。だが目を覚ませ! 俺だからお前の話を聞くが、お前が他で人間扱いされると思うか? お前は奴婢だ! 奴婢なんだよ……」

ジュシクは必死に言い聞かせた。実は音変のあと、ジュシクもピョンギョンを疑って真っ先に調べてみはしたのだ。でもいい音色が響いただけだった。

音変の翌日、乱れた音を戻すよう王命が下された。

しかしすでに王宮の外では、人々が国の混乱に備えてボウルやザルを手に、われ先にと米屋へ押し寄せていた。

どうやら町には怪文書まで出回っているらしい。部下が持ち帰って王様の前で読み上げた。

「音変とは国を滅ぼす音。怪しく邪悪なチャン・オクチョンの宮廷入りを天がお怒りになり、国の音を乱した」

辰の刻、巳の刻、午の刻にも義禁府のオ・ユンと司憲府(役人の違法行為を監督する官庁)の担当者が来た。
しかしどれもふがいない報告ばかりで王様はイライラした。残るは捕盗庁に期待をかけるしかない……


王様が自ら来たと聞いて、捕盗庁では急きょ軒先の壇上に会議席が設けられた。

しかし武官が口にしたのは、捜査の進展状況ではなかった。

「米の値上がりを抑えるため、都の行政官庁との協力態勢を整えております」

やはり捕盗庁も同じなのか…。王様はガッカリを通り越して、もはや怒りさえ込みあげた。

「恐れながら王様…。掌楽院と関連部署をくまなく調べるのは間違っております。今は掌楽院にあるものではなく、消えたものを探すべきではないでしょうか…」

「その消えたものとは何だ?」

王様が問うと、武官は途端に言葉を詰まらせた。

どうもこの武官は言わされているだけのようだ。

ならば気の利いた発案をしたのは誰なのか……?

王様は興味をそそられ、六人のメンバーの顔を眺めた。だが皆一様に黙りこんでいる。

都承旨がやきもきして何か言いかけたが、結局思いつかずに口をつぐんだ。

「名乗り出よ。王命である!」

するとようやく口を開いたのはソ・ヨンギであった。

「私です王様。役職は捕盗庁の従事官です……」

ヨンギは警備隊の日誌を王様に差し出し、話を続けた。

「昨夜、ピョンギョンを作る職人の死体をサマク山で見たという届け出が警守所にありました。……ところが兵士が行ってみると死体は消えていたのです。そのためいたずらと思って、捕盗庁には何も報告されませんでした」

確かにそれは一見、取るに足らない出来事のように思えた。届け出た者の名さえ日誌に残されていなかった。

だがもし音変に関わりがある遺体だとしたら……?

一転して、それは唯一の手掛かりになる。

王様がヨンギに好感を持ったのは、鋭い洞察力もさることながら、控えめな人柄と日誌すべてにコツコツと目を通したという点にあった。


トンイはその晩、ファン・ジュシクが口を酸っぱくして叱ったにも関わらず、サマク山へ戻っていった。

掘立小屋は中がきれいに片付けられていて、トンイが脱走するときにぶち開けた板壁の穴さえ、何事もなかったかのように修復されていた。

確か昨晩はピョンギョン職人が持っていた袋が落ちていたのだ。その中にはトンイの手首のロープを切るのに役立ったやすりが数本と、白っぽい石のかけらも入っていた。

人声と馬の足音がして、トンイは素早く俵の裏側に身を潜めた。

見張り二人を外へ残し、お忍び姿の王様がタイマツを手に小屋へ足を踏み入れた。ざっと中を見渡し、石のかけらを見つけた。

「岩塩のようだ…」

かけらを拾い上げたとき、外で物音がした。
王様が板壁の隙間からのぞいてみると、なんと見張りが手裏剣で胸を刺されうごめいている。

王様は急いでタイマツの火を床でもみ消した。一瞬たじろぎ、とっさに俵の裏へと飛び込んだ。

「一体どなたですか?! こんな夜遅くに……」

とつぜん見知らぬ男と顔を突き合わせたトンイは、心臓が止まりそうなほど驚いた。しかしその男が質問に答える前に木戸が開き、悪党の一人がゆっくり様子をうかがうように入って来た。

床から燃えさしの黒い煙がのぼっている。悪党の視線はやがて煙をたどり、俵の方へと注がれた。

悪党の足が俵へと近づいたそのとき、小屋の外が騒がしくなり、悪党がくるりと引き返しそのまま外へ出ていった。

その間に、トンイは王様の手を引いて、表の木戸からそっと小屋を抜け出した。
応援に駆けつけた王様の護衛と悪党が戦いの真っ最中で、幸いにも誰もこっちに気付いていないようだ。

無我夢中で山を駆けおりるうち、王様が立ち止まった。

「もう動けぬ……。走ったことがないのだ。一体何が起こった? 謀反か?」

「謀反? それは王様を殺めるときに使う言葉ですよ」

トンイは男の無様な様子にあきれ果てた。足をまる投げにしてハァーハァー息を切らし、情けないことこの上ない。そのわりにはえらそうな口をきくと思った。

「ところでそなたは誰なのだ。あそこで何をしていた? もしやピョンギョン職人の死体を見たというおなごか」

「だんな様は武官様ですか?」

「えっ…? あ、あぁ~そうだ。私は漢城府の判官だ」

王様はとっさに嘘をついた。

昼間に尾行しておいた悪党のアジトへトンイが案内してくれるというので、そのままついて行った。

土塀がやけに長い屋敷だ。つま先立って中をのぞき込むと、池に渡した細い石の上を、悪党らが行き来しているのが見えた。

池のそばに建物が二つある。吹き抜けの入り口の奥から障子の薄明かりが漏れていた。

「あそこです。あの男達はあの家に入りました。戌の刻に都を出ると言っていたので、もうすぐ動くはず……。ここは私に任せて判官様は兵士を呼んできてください」

「おなごのそなたがどうやって一人で見張るのだ?」

「心配要りません。お恥ずかしいですが私は人から豊山と呼ばれます。一度噛みついたら絶対に敵を離さない豊山犬なのです。急いでっ!」

言われるがままに、王様は衣をひるがえし走り去って行った。
しかし町の通りまで出たところで、ふと冷静になり足を止めた。
町に人影はなく、戸口はどこも閉まっている。どっかから悲鳴でも聞こえてきそうな晩だった。

王様はさっきの現場まで戻ると、トンイの体を引き寄せた。
トンイは捜査に夢中になるあまり、もう一歩で塀の角から飛び出し、ちょうど木戸から出て来た悪党らに姿を見られるところだったのだ。

それなのにトンイときたら、

「兵士たちはどうしたのです?」

と王様がもう戻ってきたのを見て、理由を聞いた。

「通りすがりの者に伝言を頼んできたのだ」

「えっ? 通りすがりの者にですって……?」

いい加減なうえに、反省の色もない。
トンイは判官の行動に、すっかりあきれ返った。しかしさすが豊山なだけあって、その間にも塀をくまなく調べあげ、一番低い箇所を発見した。

「何をぐずぐずしているのです! この塀を乗り超えるんですよ!! 男だったら授業を抜け出したことくらいはあるでしょう」

「家の塀はいささか高すぎたからな……」

「じゃあ私が超えますから馬になってください!」

「この私が馬になるのか……」

王様は渋々、地面に四つん這いになった。次には黒い布靴の底で背中をぐいぐい踏まれる振動が走った。

もっと高く上げろというので、うめき声をあげ必死に持ちこたえた。
トンイは土塀の瓦へまたがるように体をのせ、ひらりと向こう側へ飛び降りていった。

すぐに裏口のかんぬきを外して、王様を庭から招き入れた。腰をかがめつつ敷地に入った途端、岩塩を入れた袋が放置されているのが目についた。でもかなり重くて、運ぶのにモタモタ手間取っていると、悪党らに気づかれてしまった。

悪党は王様とトンイを塀の端まで追い詰めた。あとは余裕たっぷりに、ゆっくりこっちへ近づいてくる。

王様は地面に落ちていた刀をとっさに拾い上げるや、小手先でぶんぶん振り回した。あまりのへっぴり腰ぶりをバカにするかのように、一味のなかでも一番すばしっこそうなやつが、キラリと刀を抜く様を見せつけた。

「余はこの国の王であるぞぉーっ!」

王様は死に物狂いで発狂した。すると悪党らはますます薄笑いを浮かべた。誰一人、王の言葉を信じていないようだった。


その頃、捕盗庁にいるヨンギのもとへ、部下が一人の村人を連れて現れた。

この忙しいときに……という気分だったが、巾着を見せられた瞬間、ヨンギの顔つきが変わった。

美しい刺繍が全体にほどこされた巾着は、村人が持つにしては不相応な品だった。

もしやと思い、大玉の石が三つ付いた袋口を緩めて、半円型のケースを取り出した。長細いフタをスライドさせ、ぽんと中身をたたき落とすと、半円形の発兵符がぽろりと出てきた。

王命の発令である……




2011/5/22更新




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最終更新日  2020年01月14日 18時23分49秒
2019年05月26日




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捕盗庁の軍が屋敷周辺を包囲している。
門の両扉が開けられ、槍兵が一気になだれ込んだ。

前方をふさがれた悪党らは、別門から押し寄せる兵士に後方から挟まれた。

屋根の上から矢が飛び、悪党のうち二人が肩をおさえてうずくまった。

「見て下さい。兵士たちが来てくれました。でも漢城府の兵士じゃありませんね? 捕盗庁みたいです…」

避難しつつ、トンイはささやいた。床下を支える赤柱は両腕を回して足りないほどの太さもあり、土台の岩はさらに大きく体を隠すのに十分だった。
「まぁどこの兵であれ、私のものに違いない……」

判官が呟いた。トンイは妙な事を言うなと思いながらも、そういちいち反応などしていられない状況だった。

それにしてもいくら危険な状況だからって王様の名を語るなんて……

「気をつけないといつか大事になりますよ」

逃げられたから良かったものの、トンイは念のため忠告しておいた。

「王だと言えば殺されまいと思ったまでだ……だがそう言うならもう王のフリはやめよう………ところでホラとは何だ?」

「はぁ? 嘘をつくホラですよ」

「なるほど。そんな風に言うのか」

判官は思わぬ新発見に目を輝かせた。そうしてブツブツと味わうように何度かホラホラと唱えてみもした。

「確かに今日のそなたの振る舞いは無礼だったが、国のために尽くした功績は忘れまい……」

まだ王様のつもりだろうか。
トンイは判官様の様子をうさん臭いとさえ思いはじめて、思わず眉を潜めた。
「そろそろもう戻らねばならぬ……」
判官はとつぜん宣言した。そうして去り際にひと言念を押したのだった。
「そなたの名は、トンイだったな……?」


王様が無事な姿であらわれると、ヨンギをはじめ総勢四十名の補盗庁の兵士らが片ひざを立て、ひれ伏した。

捕えられた六名も王様のおなりに慌てて頭を垂れた。

その中でもリーダー格のすらりとした男は、王様の顔を見た瞬間うろたえた。

自分たちがせせら笑ったあの男に瓜二つだったからだ……


その夜、ヨンギは連日の激務にも関わらず、夜なべで調査資料に目を通した。

真相が闇に葬られるのは、六年前のあのいまわしい事件だけで、もうたくさんだった。
しかし音変事件の黒幕を暴くのは、予想以上に難しいだろう。

敵はあらゆる手を使って証拠を隠そうとするはずだ。

こんなときにも幼いトンイがどうか命だけは助けて欲しいと拝んだ姿が、ふと浮かんで、ヨンギの胸をしめつけるのだった。


翌日、敷石の広場にて、王様の立ち会いのもと検証が行われた。

参加者はオ・テスク、甥のオ・ユン、南人の重臣とチョン・イングクをはじめとする西人である。

石造の寝そべる階段前に、水をはったタブが用意された。

内官の持つ盆から、都承旨が石のサンプルをつまんだ。水の中へそれが沈められるのを見て、チョン・イングクはいよいよこの世の終わりと思った。音変のからくりが暴かれる瞬間が、もう目前に来ているのだ……

一方南人のオ・テスクは何食わぬ顔で、タブの変化に目を向けていた。

ぷくぷくと泡が立ちのぼり、固形物が端から粉になった。さらに浸食が進んでいくと断層のような裂け目ができ、石がふわりと二枚にはがれた。

「これは石に見えるが実は岩塩である。溶かせば証拠を隠滅できる点に目をつけ、ピョンギョンに細工して音を狂わせたのだ!」

王様はそう断言したものの、事件の背後に潜む黒幕とこの岩塩のトリックとを結び付ける決定打がない。
結果、ヨンギの執念も虚しく、事件は六年前と同じく闇の中へと葬られる見通しとなったのである。


山の見えるお堀がある。

掘の水は深く濁り、積石の壁が水面にはっきりとしていた。

石の隙間に咲き乱れる小花の華やぎが、かえって王様の気分を孤独なものにする。

考え込んでいるのは母大妃のことだった。大妃がオクチョンのことを毛嫌いしているのは、オクチョンが賎民の出身だからである……

側室入りを阻止するためなら、どんなことでもしようとする勢いだ。

母の態度と音変事件が頭の中で嫌でも絡みついた。 

事件の解決を願う一方、証拠が出れば出たで、国王として母を断罪に問わなければならない。

物事にはすべて光と陰があるようだ。

この悲しみを埋めるものは何か……?

そもそも誰かと分かちあえるものだろうか?

オクチョンの気配を背後に感じて、王様はがらりと愛嬌のある顔に戻った。

話したいことが山ほど浮かんでしょうがない。オクチョンの手を引っ張って部屋に移動する間にも、ぺちゃくちゃ喋りまくった。

「昨夜はひどい夜だった。若いおなごに踏みつけられ、振り回され、なじられたのだ。この話は決してホラでないぞ!」

「民が使うそんな言葉までご存じなのですか?」

オクチョンはやや驚いた様子だ。昨夜出会った賎民のことが、よっぽど王様の印象に残ったのだろう。
トンイの活躍を事細かく聞くうちに、オクチョンもだんだん興味が沸いたほどだった。


シーツを干し終わったトンイは、絞り終えた洗濯物を木の洗面器に詰め込んだ。そこへヨンダルが大慌てで呼びにきた。

現場へ行ってみると、雑用の男たちがご馳走のいっぱい並んだテーブルの四隅を抱えて、庭へ運び入れているところだった。

テーブルは掌楽院の敷石の道へ下ろされた。全部で七卓もある。

王様から賜ったお膳だそうで、楽師や野次馬に加えて、尚宮や女官もが手伝いに入った。

まもなく王様の御所から内官がやって来て、掌楽院の役人が丁寧に出迎えに出た。

王様のおつきのハン内官はトンイを目の前に呼んで、大きな桃色の絹に包まれた褒美を手渡した。

音変事件の解明に貢献したことが評価されたという。

褒美は三つの玉手箱からなっていた。

一つ目は黒い漆塗り。角度によって貝の花模様が青白くきらめいた。

次の箱の中身は銭と金の延べ棒に、ストラップが四本。
ストラップの上部は鳥の模様を彫り込み、四つ角を丸く削って宝石の表面をつややかに仕上げてある。持ち手は花びらに結わえてあり、下の方には三色の房束が長く垂れていた。

赤い箱には服一式が入っていた。衿をきちんと表に出して畳まれ、生地と同じ色のピンクの糸を使った菊と葉っぱの刺繍入りのスカートとセットのものだ。

最後の箱には色違いの生地が二枚。金の刺繍で描かれた鳥が、美しい尾を垂らして空を舞った絵柄だった。

一つ品を取り出すたびに、野次馬の歓声があがった。普通だったら賎民が触れることのない高貴な品々ばかりだ。


おつきのハン内官は王様のいる御所へ戻ると、贈り物をすべて届けた旨を報告した。

ハン内官が部屋をさがったあと、本の続きを読み始めた王様は腰に手をあてた。

四つん這いの馬になったときに、腰を痛めてしまったらしい…

それなのになぜかもう懐かさすら覚えるのは、なんとも不思議なことだった。


トンイもまた同じだった。危険な目にあったとは言え、判官様の愉快な顔を思い出すと自然と顔がほころんだ。

これほどの褒美を賜ったということは、きっと判官様が王様に話してくれたのだろう……

トンイは一息ついて、夜空の星を見上げた。

昼間のおめでたい空気は、もう消えていた。

たとえ一度でいいから、お父さんやお兄ちゃん、チョンス兄さんに会えたらどんなに嬉しいか………

きっとみんな一緒に、今日のおめでたい日を喜んでくれただろうに…


オ・テプンは南人の重臣オ・テソクの弟で、その息子はホヤンといった。

残念ながら実務能力には不安を感じるが、音変事件が起こった掌楽院を監視したい目的もあって、オ・テソクが一族の中から仕方なくこの男を送り込んだのだ。

新任の署長がいよいよ来たというので、掌楽院の御殿前へ集められたのは、楽師四十名を筆頭に、上官四名、舞女七名、雑用係の男十数名に、内官らしき者が三名である。

テプンは赤衣、息子のホヤンはそれより下っ端の青い冠衣で揃って壇上に姿をあらわした。

「音変が起こったのは掌楽院の規律の乱れのせいである! しかし私が所長となったからには二度と問題は許さん!」

テプンは顔をくしゃくしゃにして演説を行った。大きな期待を寄せられていると勘違いしている当人は、相当な意気込みである。

こぶしで胸をたたき、飛び上がって説教をしたおかげで、楽師らを震えあがらせるほどの効果があった。

背の高い息子のホヤンは、ただ父親の陰に隠れてへらへらと笑っているだけだ。

演説が終わると、歓迎の宴が催された。美しい舞女に親子は大喜びだった。舞女は何日も踊りあかし、楽師らは昼夜を問わず伴奏に付き合わされるはめになった。

興が冷めたところで今度はホヤンの女遊びが始まった。目をつけられたのはトンイである。

譜面を運んでいるトンイを見るなり、虫のようにサササと駆け寄った。

「美しい手だなぁ。顔と同じくらいに…」

「何か御用でしょうか、ホヤン様」

トンイは戸惑って、手を引っ張り返そうとした。このままでは手首がもげてしまいそうだったので、思い切って振り払ったところ、落ち着きのないホヤンが後ろにひっくり返ってしまった。

「こやつー! 奴婢でありながら私を殴るとは! 命はないと思えっ!」

ホヤンはトンイの頬を豪快にひっぱたいた。

騒ぎを目撃した仲間の楽師らは、手が出せずにただ見ているだけだった。というのもホヤンは以前に、下働きの女を半殺しの目に合わせたともっぱらの噂だったからだ。

トンイを棒で二十回ぶつよう命じられた雑用係が、棒を手にぶるぶると立ちすくんだ。

ホヤンはその様を見て男を蹴り倒し、自らトンイの頭の上に棒を振りかざした。

そのときちょうど父親のテプンがやって来た。

「あ、父上。この女がですね…」

ホヤンは急にしょぼんとしおれて、甘ったれた。

「やめろ。やめておけ…」

父親はため息をついた。息子の情けない姿に、振り子のように首を振るばかりである。
それもそのはず、オクチョンの住む就善堂から使いの尚宮が来ていたのだった。

「このおなごか?」

尚宮がトンイを見て尋ねた。

「はい。確かにこの者にございます」

そうと分かるや、使いの尚宮は親しみの笑みをトンイに向けた。

「早く身なりを整えて参れ。チャン尚宮様がお前に会いたがっている」

思ってもみない要請だった。

就善堂へ通されたトンイは前掛け姿だったが、オクチョンの目にはどこか奴婢らしくなく映った。

~もしその者が生き残ったら、あなたが敵う相手ではない。なるべく出会わぬことです~

今ふと、旅人の言葉が浮かんだ。

予言を受けたのはもう六年も前のことなのに、なぜか……

オクチョンは自ら急須を取り、菊花茶と茶菓でトンイをもてなした。それからここへ呼び出した理由を打ち明けた。

「私は苦しい立場にあったが、そなたのおかげで助けられた。何か望みはないか? 高価なものでもよいのだ。欲しいものがあれば何でも与えよう」

オクチョンの口ぶりは、何かトンイを試すようだった。

「褒美など…。頂くわけにはまいりません」

トンイはとても恐れ多くて、顔さえあげようとしなかった。
期待に添えず、かえってオクチョンの気を悪くしただろうか…?

案の定、オクチョンは準備しておいた褒美をトンイにくれてやると、早々にも話を切り上げ、唐衣を持って来るよう尚宮に言いつけた。どうやら外出する用があるらしい。

退出すべき空気が流れるなか、トンイは意を決したようにとつぜんオクチョンの前へ土下座した。

「尚宮様! 本当は私にも望みがございます! 尚宮様にぜひともお願いしたいことです!」



2011/5/29更新











最終更新日  2020年01月14日 18時36分03秒
2019年05月22日




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「待て!」

オクチョンがおつきの尚宮を制した。

おかげでトンイは危うく部屋からつまみ出されるところで難を逃れた。

オクチョンがトンイに発言の許可を与えたのは、その器がいかほどのものか見極めようと思ったからだった。

トンイは無礼を承知で、再度オクチョンに申し出た。

「尚宮様がお持ちの鍵飾りをお見せ願いますか……? 私には命をかけるほど大事なことなのです。どうかお願いします」

よりによって私物を見せろとは、決して気持ちのいい話ではない。しかしどんな願いも聞くと言った手前、オクチョンは黙って卓上机の小さな引き出しから小箱を取り出し目の前に置いてやった。

花が一輪と両側には鳥が羽ばたいている。素地が隠れるほど貝細工の唐草が彫り込まれた小箱は、角度によっては虹色に光った。

トンイはぶるぶる震える手で、アーチのフタを外して中を確認した。

蝶の鍵飾りが三束の房を揃えて寝かしてある。金の縁どりの羽上半分は水色で下半分は赤だ。木でできたあの蝶に比べたら、薄くてずっと持ちやすそうな品だった。

残念ながら探していた物ではない…

トンイは肩をがっくり落とした。

トンイが部屋を去ってすぐ、おつきの女官が外出用の装身具を入れた漆塗りの平箱を持って来た。

オクチョンはその中から木彫りの蝶鍵飾りを手に取り、身につけた。

大切なものなので普段使いにはせず、別にしまっていたのである。

「あの子についてもっと詳しく調べなさい……」

オクチョンはおつきの尚宮に指令を出した。結果的には大胆な行動をとったトンイのことを高く評価したのだ。

(だが法外な夢を持ち、手に入らない物を求める人間なら、もっと気に入っただろう……)


オクチョンは王様の囲碁のお相手もできる女だった。

家臣があれだけいるというのに、王様の腕に敵うのは、オクチョンくらいのものだ。

今日も楼閣で、二人の対局を尚宮や内官、それに四名の女官たちが見守っている。
仕切り天井で木陰になってはいるが、外の土手に立つ護衛兵の背は日差しで白々して見えた。

オクチョンが優勢となり、そろそろ対局の終わりが近づいていた。

「それでも勝負は最後までやってみなければわからん……」

王様は碁石を指に挟んだまま、碁盤の上であれこれと目を迷せている。

「捨て石という手もございます。わずかな石を捨てることで多くを得られるではありませんか」

「待て……。それは囲碁の勝負の話ではないな?」

はたと気づいて、王様は興味をそそられた。これだからオクチョンといる時間は面白かった。

オクチョンは頷き、ゆったり微笑んだ。

「囲碁は世の中の動きと似ております。音変事件の黒幕を暴くのは難しいそうですね? ならばこのまま不問にふされてはいかがですか」

なるほど弱みを握っていた方が、かえって牛耳りやすくなるというわけか……

王様はふと目についたマス目に黒石を投じて、すっかり感心した。

たったこの一石で勝ちが決まったのである。

王様の面目を保とうと、オクチョンがわざとそのマスを空けておいたものだろう。相当に賢い女である…


このあと王様は新しい人事を発表した。

それは南人派のオ・テソクが左議政へ昇進を果たしたのに対し、音変事件に関わったと見られる西人派の多くが降格となる内容であった。


トンイのオクチョンの印象は微妙なものだった。
あんな無礼なお願いをしたからには、もう二度と呼ばれることなど無いだろうと思っていたのが、就善堂の女官がトンイを迎えにやって来た。

オクチョンの実家へお使いに行くようにとの直々の指令である。


行ってみると、オクチョンが出世しただけあってかなりの邸宅だった。

ドアの格子の数が細かくて、しっかり作り込まれている。広い敷地に数本の低木が目につき、門から軒下まで飛び石が伸びていた。大きな井戸には朽ちた木ぶたが被せてあった。

用事というのはオクチョンの母親の付き添いで、町の薬局まで薬を取りに行くことらしい。

「宮殿に薬材を持ちこむのは禁じらているのではないですか……?」

トンイが念のため尋ねると、おつきの女が急いだ風に答えた。

「だから見つからないようにおまえが運ぶのだ……」

その詳しい中身や目的については一切わからない。高価なものだから間違いなく届けよとのことである。

でもいざ風呂敷を受け取ってみて、トンイにはその香りから中身のおおよその検討がついた。

母益草……懐妊に効く薬のようだ…


屋敷から戻る間に、すっかり暗くなって、遠くでぼんやり門限の時刻を知らせる鐘の音が鳴った。

これはまずいことになった。
門限が過ぎたら護衛兵に出入り札を見せなければ門をくぐれない。鋲が打たれた板門には二人の兵がいて、外から帰ってきた者たちをせき止めていた。

尚宮、女官、楽師、青い冠衣の役人らが中へ入れずに待っていた。
列の一番後ろの男は、どのくらい進んだか確かめようと、つま先立って見ている。
タイマツの火を頼りに、兵士が札のチェックを済ませて、まず一人を通過させた。

薬が見つかってはまずい…

このまま列に並ぶのは自ら網にかかりに行くようなものだった。

トンイは門から入るのをあきらめて、ひとけのない離れた所へ移動した。

そこでこっそり塀をよじ登っていたとき、後ろから例の判官様に声をかけられたのだった。

「また懲りずに塀超えする気か? 通りかかったら子犬がきゃんきゃん言っていたのでな。来てみたら豊山であった。一度噛みついたら放さないプンサン犬だ。ところでここでは踏み台になってやれん。ついて来い」

普通の外出着姿の判官様は、得意げに後ろに手を組んで、さっきの門の方へ向かって先に歩きだした。
いくらトンイがそっちはダメだと訴えても、いっこう足を止めようとしない。

門の前まで着くと、判官様は振り返ってニヤリとした。

トンイは内心自分の目を疑った。

なんと先ほどの兵や人の列がすっかり消えている……!

かがり火の炎が揺れ続けているのが、ただ同じなだけだった。

「私がみんな帰したのだ」

判官様は何食わぬ顔で門をくぐって、掌楽院の方角を指さした。

「このまま真っすぐ行けるはずだ」

先を急ぐ前に、トンイはふと王様から賜った褒美の件を思い出した。

「判官様が話してくださったんでしょう?」

「え? ああそうだ。私が話したのだ」

偽判官のとぼけぶりも次第に慣れて上手くなった。

「あたしのような奴婢にもお心配りをされるなんて……王様はきっと慈悲深いお方なんですね」

「そうとも。もちろんだ」

偽判官はトンイに褒められ、すっかり優越感に浸った。


トンイを見送ってすぐ、隠れていたお供がぞろぞろと偽判官の前に姿を現した。

「王様、なぜそこまであのおなごに気を使われるのです?」

おつきのハン内官が率直な疑問を口にした。王様は目を輝かせて実に楽しそうなのだ。それにしたって塀から忍び込む女の手助けをするなど、いくら何でも行き過ぎているという気が、ハン内官にはした。

しかし王様にしてみればそんなことより、普通の人間として扱われたことに大きな意味合いがあったのだ。


翌日、お昼がとうに過ぎたのを知って、トンイは洗濯を急いで片づけた。

父さんや兄さんたちの命日だから、山へ登らなくちゃいけない。

宮中を出て市場へ寄り、供え物を入れる長い脚付きの木皿を調達した。

山の岩場をいくつも超えるうち、額に汗がにじんだ。あの日の土砂降りと違い、今日は薄曇りながら日が差している。枝にピンクの小花が咲いて、のどかに鳥もさえずった。

かすむ空気の間に、透き通った青空が一筋挟まれている。

断崖絶壁の頂上にシートを広げ、トンイは位牌を三つ並べた。

父さん、トンジェ兄さん、チョンス兄さんだ。

梨、柿、ミカンも三つずつ皿に盛って、両端にロウソクを立てた。それから酒の入った湯のみをゆっくりと回し崖下へ注いだ。

「たくさん食べて。お父さん。お兄ちゃんもよ」

トンイはむき栗と干しなつめも放りやった。


その頃、チョンスがちょうど山をのぼっていた。

瀕死の状態で川から助け出され、坊さんの世話になっていたのだ。

だいぶ体力が回復してからは、トンイを探しに旅に出掛けることにした。

万が一のことを考えトンイの世話を頼んでおいた美しいキーセンの女は、行方さえわからなかった。

きっと皆と一緒に自分も死んだと思われているに違いない。

懐かしい皆は遠くに去り、チョンスは今独りぼっちだった。

さんざん各地を探し回った挙句に、今こうして再び都へ戻ってきた。

今日はあの場所へ行ってみようと思い立ち、断崖へ着いたのだ。

辺りには誰もいないー

チョンスは布を敷いた上に直接お供え物の果物を並べて、柿餅みたいなのを転がした。

「トンイを守ってやれなくてごめんなさい…」

チョンスは大きな目に涙をため、地面にひざを揃えて深々と詫びた。



2011/6/5更新









最終更新日  2020年01月24日 16時04分54秒
2019年05月21日







チョンスはそろそろ山を降りようと思って、見おさめに辺りを見渡した。山のふもとに川が流れている。六年前、兵士に追い詰められ絶壁から転落したものの、あの川のおかげで助かったのだ。

周りは枯れ枝ばかりなのに、頂上には明るいピンクと赤の桜が咲いている。その咲きほこる枝の二股のところに、見覚えのあるものが引っかかっていた。

急いで駆け寄り、心臓が止まりそうになった。

思った通り、コムゲ印のはちまきだ…

渡し場で別れたときに、トンイに渡したものに違いない。

ひょっとしてトンイがそこら辺にいるような気がして、チョンスは無我夢中で探しまくった。

いないとわかったら、今度は山を駆けおりた。

山のふもとに市場がある。

大うちわや婦人用の白い平靴……ふたつきのしっかりした丸かご………賑わいはいつも通りだったが、トンイの姿はどこにも見あたらない。

しかし少なくともトンイが都にいることだけは、これではっきりしたのだ。

今までと違い、ただ闇雲に探すのとはわけが違う。

そのためにこれらどう動けばいいか…?

そうだ。まずは事件資料のある捕盗庁に入ろう……



もう亥の刻だよと声をかけられて、ヨンギは思い出したように「あぁ…」と息を吸った。

軍官と副官は困ったように顔を見合わせた。

上官が帰らなければ、部下も帰れないのに、テーブルのあちこちにまだ調べ物の本が広げてある。

先に帰っていいと言われても、いつまでも気を使ってぐずぐずしていた。

「さっさと帰れっ!」

ヨンギは目を資料に落としたまま、後ろの気配に怒鳴りつけた。

ふと顔をあげてみると、軍官たちの姿はもうその場にはなかった。

代わりに何か物音のした戸口から現れたのは、なんと王様である。

「たびたび世話を焼かせて済まぬな」

王様は人懐っこい笑みを浮かべた。

どうやら音変事件の裏話をしに来たらしい。ぺちゃくちゃと面白おかしく語るお喋りは、事件が不問となりせっかくの捜査が水の泡となったヨンギのもどかしい心を、いくらか慰めてくれた。

「その奴婢の名は何と言ったか…。そう、チョン・トンイだったな」

王様がふと言ったとき、ヨンギの顔色がサーッと変わった。

(トンイ………? あの子だろうか……?!)

ヨンギの記憶では、チョンではなくチェのはずである。

王様はまもなく帰っていったが、ヨンギはもう仕事など手につかなかった。

(そうだ。奴婢ならば姓を替えることもできるのだ)

ヨンギの中で胸騒ぎがした。

そもそも掌楽院に女の奴婢とは珍しいことだった…

さっそく掌楽院の奴婢の記録を調べてみたところ、チョン・トンイは六年前から掌楽院に在籍していた。

コムゲ事件のあったのも同じ頃だ……

副官がせっかく取りに行った戸籍に目を通すのを後回しにし、ヨンギは掌楽院へと足を運んだ。直接本人に聞いた方が早いと考えたからだ。


あいにくトンイは外出中ということだった。


あえなく捕盗庁に戻ったヨンギを、門まで部下が出迎えに来た。

「状況はどうかね?」

一緒に広場を歩きながら、ヨンギが尋ねた。

「はい。薬屋の医者の死体を調べ、それから怪しい者を探しています。帳簿をもとに薬房の客全員から話を聞いているところです」

ヨンギは渡された帳簿に目を通し、思わず眉を潜めた。

昨日、薬を受け取った客の一覧にチャン・トンイの名がある……


その後、帳簿をもとに捕盗庁の広場には薬材購入者たちが呼び出された。

薄絹の黒帽子をかぶった身分の高い男から、庶民の男女までいる。

テントのテーブル席で内官と武官が一人ずつ対応にあたり、順に供述を書きとっていった。

軍官が列をうながし、次の男を机の前に立たせた。ようやく番の回ってきたトンイを、武官は疑いの目でじろりと見た。

「この者は宮廷の奴婢のようだな。薬材は楽師が使うものか?」

「はい…」

トンイとしては宮中に薬を持ち込んだことがバレてはまずかった。

ところがやましい気持ちが顔に現れていたのか、武官が机を激しくたたいて責め立てた。
「こやつめ! よくもぬけぬけと。お前が買ったのはヤクモソウ、センキュウ、トウキ。おなごが子供を授かりたいときに飲むものだ!」

「それは……それは武官様がご存じないだけです! それらは血の流れを良くし、血をきれいにします。楽師様は頭の痛みや疲れをよく訴えられますので」

トンイは怖さに身を震わせながらも、驚くべき知識で何とか言い逃れをした。

「間違いなくそのような効能もある……よってその者を調べるには及ばん」

「これは従事官様…!」

武官が急に立ちあがり、会釈した。

そのときトンイの前に現れたのは、なんと六年ぶりに見たヨンギ従事官の顔であった。

「このおなごが掌楽院の奴婢か?」

トンイはとっさに体の向きをできる限りそむけようとした。でもなぜかヨンギ従事官の関心は常にこっちにあるようだ。

あれから六年も経ったのに、まさかバレて捕まるはずがない……
そう思っても、心の中は焦るばかりだった。

(早くどこかに立ち去ってくれればいいのにー!!)

トンイの必死の祈りもむなしく、次の瞬間、ヨンギは副官に告げた。

「このおなごを私の執務室へ連れて行け!」


執務室でトンイは取り調べを受ける罪人のような気分だった。

チェ・ヒョウォンの娘だとわかってしまったら、父さんやお兄ちゃんの濡れ衣も証明できず、すべてが終わってしまう…

「そう身構えなくてもいい。疑って呼んだわけではないのだから。名はチョン・トンイだそうだが…」

ヨンギ従事官はどういうわけか穏やかだった。ここへ連れて来た理由も正直に打ち明けた。

「大意はない。実は以前から探している子がいてな。苗字は違うがその子の名も同じトンイと言って、もし生きていればちょうどおぬしくらいの年だ。私に見覚えは? 六年前に会ったことは?」

「会うわけがありません。私は平安道のソンチョンで生まれ育ち、掌楽院の前はキーセンの家の下女でした。苗字も初めからチョンです」

トンイがあまりきっぱり否定したので、ヨンギは明らかにがっかりした顔になった。
「そうか。そうだったか…」
深いため息をついて、ただ納得をした。

それでも無念が残ったのだろう……トンイが帰った後でもまだ穴が開くほど戸籍を見つめた。

残念ではあるが、人違いだったー

そう自分に言い聞かせた。

結局のところ、あの子ではないかという期待が大きすぎただけだったのだ。

「大丈夫ですか?」

あんまり肩をがっくり落としたヨンギを見て、副官が思わず声をかけた。



こんな夜には懐かしい皆に会いたくなる。

トンイにとって、ヨンギとの再会は、眠った子を揺り起こすように六年前の恐怖をぶりかえさせた。

トンイは星空を眺めながら、兄さんに教えて貰ったヘグムを奏でた。

でも悲しみが紛れるどころか、弾けば弾くほど涙がこぼれ落ちてくる。

底から響く高い音色は風にのって、楽器置き場から、一人で考え込むヨンギ、眠りについた街、山を歩くチョンスの方角へと流れ去った。

月明かりの下で散歩中の王様の耳にも、その音色はちょうど入った。

「王様、どうなされたのです?」

立ち止まった王様に、おつきのハン内官が心配そうに聞いた。

「あ、いや、気のせいのようだ。ただ…」

やはり空耳か…?

前に聞いた音色と同じに思ったが、こうして再び耳を澄ますと、急に何も聴こえなくなってしまうのだ……


日中、薬局のある通りに庶民の野次馬がたくさん周りに押し寄せていた。

そこで今、家宅捜査が行われている。

壺の表面を筆で払い、虫めがねで犯人の指紋を探し出す。薬材の分析、帳簿の押収など、捜査班は黙々と仕事をこなした。

監察府に昼ごろ、西人派のチョン・イングクによって書かれた匿名の投書が届けられたのだ。

~奴婢を使って薬材を宮殿に持ち込んだ者がいる~

この投書をもとに、直ちに監察府の女捜査班が宮殿の外へ出動した。

女官の上に立つ最も優秀な女官たちの集団だった。

彼女らの仕事は女官を監視し、罪を調べることにある。

それだけに監察府の女官を恐れる者は多かった。

女捜査官の一人が怪しい者を発見し、こっそりミニ鏡を反射させた。
すると少し向こうで待ちぶせていた捜査仲間が、合図を送り返した。




2011/6/12更新



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最終更新日  2020年01月24日 16時10分25秒
2019年05月16日






医官は王様にこれで何度目かの報告をした。

「大妃様の煎じ薬のスッポンの甲羅と半夏がまざって毒が生じたのです。半夏は内医院では使っていないのに、私も理解に苦しむところでして…」

幸い大妃が口にする前に銀のさじが変色したことで気づいたという。

何者かが殺害を企て、外から持ち込んだのではないか……

ではそんな大それた計略を一体誰が………?

王様はひどくイライラした。

先日も音変事件が起きたばかりというのに、もうこれだ。

宮中内部で繰り広げられる、しがらみや憎しみが尽き果てることなど、永遠にないように思えてくる。


夜になり、王様はオクチョンに会いに就善堂を訪ねた。

ところがオクチョンづきの尚宮が、動揺した様子で事情を説明するには、オクチョンは今、監察府の取り調べを受けているとのことである。
王様おつきのハン内官は、心苦しくも王様にその事実を隠していたのだ。取り調べをスムーズに進めるために、王様の口出しは返って邪魔になったからだ。


一方、取り調べ室では監察府の尚宮がオクチョンに、まず詫びを口にした。

「このような場所で申し訳ございません。すぐに済みますのでご安心ください。薬材の持ち込みくらいの失敗はどなたでもなさること……時間は一時もあれば十分でございます」

王様の寵愛を受けたオクチョンに対し、ユ尚宮の対応は丁寧で、速記係の女にお茶も用意させた。
席を外した女の後を追うように、ユ尚宮もひとまず建物の外へと出ていった。オクチョンには一人でじっくり考える時間が必要と思ったからだった。
ついでにユ尚宮はオクチョンづきの尚宮と女官を、先に就善堂へ帰らせた。

(そう安々とは自白しないだろう……)

実のところオクチョンへの態度はあくまで表面的なものであって、腹の底ではユ尚宮も長期戦を覚悟していたのである。

拘留期限は明日の夜までであった…


翌日、都承旨は王様に驚くべき報告をした。

「申しあげにくいのですが。監察府ではすでに就善堂の家宅捜索を終え、大妃様殺害の証拠まで見つけたそうです」

続いて監察府の最高尚宮が、木屑のような薬材を持ってきた。

「就善堂から見つかった半夏でございます…」

事態は流れるようにオクチョン不利の方向へ動いていく……

トンイはこんなときこそ慎重な調査が必要と思った。

夜が更けるのを待ち、壺小瓶、ガラス瓶、白布を風呂敷に包んで出発した。

お役人に呼び出されたフリをし、捕盗庁の敷地にはわりとすんなり入れた。
タイマツの火を手にした五人の警備兵が、トンイに気づかずに足早で裏口の門をくぐっていった。

トンイもすぐ後からその赤門を通って、砂利の音がたたないよう注意深く建物の軒下に沿って歩いた。

とつぜん向こうの角から別の兵士らがあらわれ、トンイは慌てて建物の角にうずくまった。兵士たちが石段をのぼって行くのを見届けてから、再び軒下を歩きはじめた。

建物の基礎部分は白い目地のレンガで、しっかり石柱で支えられた高床式だ。トンイはその床下通路に並んだ板張りのドアを片っ端から開けていった。吐き気でむせそうになった部屋があり、たちまちそこへ忍び込んだ。

どうやらここが検死場に間違いなさそうである……

中は暗くて、銀盤つきの燭台が入口の柱にかかっている。

トンイはその小さな炎を頼りに、真っすぐ細い廊下を進んだ。

月明かりが遺体にかけられた白布を照らし出した。左右の部屋に二体ずつある。検死台の上でひっそり眠りについていた。

トンイはまず左の部屋の遺体の顔を確認し、続いて右の部屋の遺体の布をめくった。すると二人目の顔が薬局で見た医者と同じだった。

手早く風呂敷包みをほどいて、小壺のゴマ油を自分の鼻の穴に塗りつけた。

「これでいくらかは臭いがマシになったわ!」

ガラスの小瓶の栓をポンと抜き、布に液をたたきつける。

…と何者かが後ろでドアを開けたようである。

トンイはロウソクの明かりをフッ…と吹き消した。遺体の顔へ元通り布を被せ、ナイフや銀の器材が並んだ棚の陰へ身を隠した。

上司に検死道具を片づけるよう言われたチョンスが、カゴを抱えて入ってきた。

薬品の小瓶八つと薬材が六種、空気が入らないようぴったり紙をかぶせたジャム型の瓶など納めたカゴを、ひとまずそこらの台へおろすと、こっそり棚を探りはじめた。まさか他に誰か室内にいるとは思ってもない様子である……

チョンスはそばに本人が隠れているとも知らず、トンイの記録を探していたのだった。
そのためわざわざ新人検死官 (オジャギン)になったのだ。

少し書物を開いては、また次の本を奥から取り出し、本の名だけを荒探しした。

目当ての記録がないとわかると、別の棚へ移動した。トンイの吹き消したロウソクの煙が足元を流れていった。

足音は次第にトンイのそばまで近づいたが、その姿は本棚の陰へ隠れたままである。トンイからはかろうじて暗闇に薄っすら背中が見えたのみだった。


いくらか長い時間が経った。

いつまでも戻ってこないチョンスを、とうとう上司が呼びに来た。チョンスは後ろ髪を引かれるように、上司と一緒に部屋を出ていった。

互いの存在に気づかないまま、トンイはホッと胸をなでおろした。

後は続きに取りかかるだけだ。

医者の手は爪の奥がどれも真黒で、指の関節のとこが焼けただれたように光っていた。

トンイは医者の指を一本ずつ広げて、酢を染み込ませた布でぬぐってみた。

どれも色の変化はない。

証拠はこれだけで十分だった。

胸まで下げたシーツをまた元のように顔までかけ、風呂敷に小瓶をまとめた。あとはロウソクを柱に戻して、何も置き忘れがないかもう一回ざっと見まわしてから、急いで部屋を出た。


「そこで何をしているっ!」

逃げ去る途中によりによってヨンギ従事官に声をかけられた。

この前、会ったときとは違って、今度ばかりはヨンギも穏やかではないかった。

こんな夜更けに捕盗庁へ忍び込んだワケを知るまでは、決して見逃さんとばかりに目をぎらつかせていた。

「殺されたお医者様の検死をしていたのです。あの日、薬材を運んだのは私ですが、半夏はありませんでした。就善堂で発見された半夏も、恐らく誰かが陥れるために置いたものではないかと……」

「従事官様、そんなの聞くことはありません。投獄すべきですよ」

そばにいた副官がじれったそうに言った。

ヨンギは助言には耳を貸さず、もう少し詳しい説明をトンイにうながした。トンイは風呂敷包をその場で解いて見せた。

「これです。この瓶に入った濃いお酢を塗れば、医者が半夏に障っていないことが証明できます。半夏には必ず毒を弱めるショウガ汁を一緒に使うのです。酢はショウガと混ざると薄桃色に変色します」

「なのに変色しなかった。……ではあの日、医者は半夏に障ってはいないというのだな……?」

ヨンギは実験結果にとても大きな衝撃を受けた。トンイをそのまま帰すと、一刻も早く王様に伝えたいという思いにかられた。

その一方で、不思議に思ったことがある。

なぜあの娘はオジャギンの専門知識を知っていたのか……?


夜、王様がオクチョンに面会しに来て、監察府が急に騒がしくなった。

部屋から下がるよう言われた尚宮は、しかたなく従った。

壁と一体になったアーチの鴨居が、女ばかりの部署にふさわしい雰囲気だが、柵で仕切られた傍聴席風の小部屋が周りを取り囲んでもいる。
壁や扉が格子なので、たまり場から中の様子がうかがえた。しかし尚宮と女官が外へ出た後には、場はガランとなった。
部屋には二脚の木椅子、紫の布をかけたテーブルと真ん中にロウソクが一本あるだけだった。

「私なら大丈夫です」

オクチョンは気丈に言った。
こんな状況ですら涙を見せることがなかった。それでも疲れから顔は白くむくみ、唇は乾き、目の下は腫れて見えた。

王様はこんな悲しい姿を目の当たりにするくらいなら、いっそオクチョンを宮廷になど迎え入れなければ良かったと思って、涙が出そうだった。

「もちろん誇り高いそなたが卑劣なマネをするはずがない……しかし余は王である。男としてはそなたを信じるが、王としては証拠を信じなくてはならぬのだ」

「そうなさることはわかっておりました……私がお慕いする方はこの国の王です。王様、私のことでお心を痛めないで下さい…」

オクチョンの目にも涙が浮かんだ。

まもなく王命が下る。

そうなればいよいよ身柄が禁義府へと引き継がれるだろう。

宮中は今、その準備で忙しい最中だった。



2011/6/19更新










最終更新日  2020年01月24日 16時29分55秒
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