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2010.01.25
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函館に関して調べていましたら、明治から大正にかけて活躍した素晴らしい医師の存在を知りました。その人の名は  高松凌雲(たかまつりょううん)

箱館戦争において、幕臣であった凌雲は、医師として敵である政府軍の負傷者まで、分け隔てなく治療を施しました。
また後年、貧しさ故に治療を受けたくても受けられない人々のために設立した同愛社は日本における赤十字の先駆けとなるものでした。

国際赤十字の父であるアンリデュナンはその活動を評価され第1回のノーベル平和賞を受賞していますが、デュナンと同時代に生きた高松凌雲という人が凄い人だなと思うのは、榎本武揚率いる旧幕府軍の中心的人物であったことです。

凌雲は榎本武揚から箱館病院の頭取(院長)を要請された時、病院の運営に一切口出ししないことを条件に引き受けたそうです。

戦時の病院の中で何をするか、すでに決めていたのでしょうが、病院内でも当初混乱がありました。(下記青線部分)

しかしその状況は大きく変わっていきました。(下記緑線部分)

箱館市内は戦場と化し、死体がたくさん転がっているまさに地獄であったであろうその中で、この病院内は敵も味方もない天国のような空間になっていったといえるでしょう。

志、思いひとつで場は変えられる。

「夜明けの雷鳴」というタイトルで小説になっています。

夜明けの雷鳴

高松凌雲に関して大変丁寧に紹介していました国際留学生協会のHPより引用させていただきます。ブログの文字数制限の関係で一部割愛させていただきましたことをお断りします。

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  豊かな者しか治療を受けられない現実を憂い、貧者が診察を受ける道を開いた医師、これが高松凌雲である。「医は仁術」とはこの人物のためにある言葉のように思われる。彼の医師としての精神は、フランス留学で得た体験によって形成されたものでした。

患者に奉仕するもの
  凌雲は、明治と大正の時代に活躍した民間の医師である。「医は仁術」。凌運は、この言葉をそのまま実践し、日本の医療界に多大なる功績を残した。
  明治初期、旧幕臣や会津藩士などが榎本武揚をリーダーとして、新政府に抵抗を試みた。箱館戦争である。凌雲はこの時、榎本と運命を共にし、医師として負傷者の治療に当たった。この時、彼は敵である政府軍の負傷者まで、分け隔てなく治療を施したことで知られている。
  また後年、貧しさ故に治療を受けられない人々のために同愛社を設立した。広く医師に参加を呼びかけ、寄付を集めるために篤志家の参加を募った。
「医師というものは、患者に自分の全てを注いで奉仕するものであり、患者の貧富、地位の高低によって差別してならない」という考えを実行に移したのである。

フランス留学
 1836年12月25日に現在の福岡県小郡市に生まれた凌雲は、22歳で上京し、石川桜所の門下に入り、オランダ医学を学び、その後大阪に出て緒方洪庵の指導も受けた。適塾には天下の俊才が集まっていたが、凌雲はすぐに頭角を現した。西洋医学の知識を身に付けただけでなく、オランダ語を自由に操り、幕府が開いた英学所で、英語までもマスターした。
  1865年、彼の学才を知った一橋家が、凌雲を専属の医師として抱えることになり、この一橋家から出た徳川慶喜が第15代将軍となったので、凌雲は自動的に幕臣となった。

  1867年パリ万博開催の年、フランス政府は徳川幕府に万博への参加を求めてきた。幕府としても国際社会から認知を受け、幕府の主権を固めるチャンスである。将軍徳川慶喜は弟の昭武を名代として派遣することにし、随行医として選ばれたのが高松凌雲。
  パリ万博が終えた後、留学生として、パリで勉学に専念するように言い渡された凌雲は歓喜し、フランス医学を本格的に学べることに胸躍らせた。
  彼が選んだのは、オテル・デュウという名の病院を兼ねた医学校である。フランス語で「神の館」という意味。新しい生命が生まれ、また消えていく神が宿る場所、これが病院ということなのだ。医学とは神聖なものであるということを凌雲は、この学校から学ぶことになる。

貧民病院
  学び始めて驚いたことの一つは、外科手術。日本では人体を開くということはまずなが、ここでは変色した胃を容赦なく摘出する。一つ一つが驚きの連続であった。
  凌雲を最も驚かせ、医師としての後の人生に決定的な影響を与える出会いは、「神の館」に附属する貧しい者を無料で治療する貧民病院を知った時であった。医師も看護婦も、「神の館」に所属する者たちが担当し、一般患者と同じ診察を貧民たちに施しており、貴族、富豪、政治家などの篤志家の寄付により成り立っている民間の病院である。
  「神の館」では、「医師は人間の生命を救う尊い職業である」という精神を徹底的に教える。故に医師に高尚な人格が求められ、患者には常に最良の治療を施し、貧富の区別をしてはならないとされた。これが凌雲に与えた衝撃の大きさは計り知れない。その後の彼の生涯がそれを証明している。

幕府再興に捧げる
 凌雲の留学中、日本で政変が起こり、帰国を余儀なくされた。徳川慶喜が政権を天皇に奉還し、日本各地で倒幕派と佐幕派の戦争が勃発していた。
  凌雲らが江戸湾に到着したのは、1868年5月16日。すでに幕府は完全に崩壊し、江戸城も薩長勢に明け渡され、凌雲の主君慶喜は水戸で謹慎中であるという。
  凌雲の選択には迷いがなかった。こうして留学までさせてもらい、医師としての勉学に励むことができたのも、徳川慶喜のおかげである。その徳川家は今存亡の危機に瀕している。その徳川家を見捨てることは彼の武士の魂が許さなかった。
  榎本武揚が幕府の軍艦を率いて、蝦夷地(北海道)に立て籠もり、幕府再興を期す計画があるという。勝てる見込みは、限りなくゼロに近い。しかし、凌雲は武士であった。榎本と運命を共にする道を選択した。

敵の負傷者を治療
  榎本武揚に付き従った兵士は総勢3千人に及んでいた。戦闘で負傷する者、蝦夷地箱館での環境に慣れず病床に伏す者など後を絶たない。榎本は西洋医学を学んだ凌雲を見こんで、箱館病院の頭取(病院長)になってくれるよう頼んできた。しかし、簡単に引き受けられるものではない。榎本軍は混成軍で、各隊には専属の医師がいた。漢方医の彼らが凌雲の指導に素直に従うようには思えなかった。しかし、一人の兵士も死なせたくないという榎本の熱意は痛いほどわかった。凌雲は、「病院の運営には一切口出ししない」という条件で、頭取を引き受けることにした。
  凌雲の考えが徐々に病院に浸透し始めた頃、農民らが6人の負傷兵を病院の玄関に運び込んできた。この負傷者は榎本軍と敵対する箱館府側の守備兵であり、内一人は片足切断の重傷だった。凌雲の助手は、負傷者が敵方であることに躊躇している。しかし、凌雲は直ちに病人寄宿舎に彼らを収容した。寄宿舎内は騒然となる。「外に放り出せ」と叫ぶ者。「死者の仇、殺す」と言って刀を抜く者。助手たちは顔をこわばらせて立ちすくむばかり。
  次の瞬間、凌雲の怒声が響き渡った。「私はこの病院の頭取である。全権を委託されている。たとえ敵であろうと、負傷者は負傷者だ。私がこの者どもを入院させる必要があると考えたから入れたのだ。彼らと一緒であるのがいやだと言うなら、ただちに退院せよ」。凌雲の気迫に圧倒されたのか、いきり立った患者たちに沈黙が広がった。凌雲は敵方の負傷者の治療を開始した。
  その日の午後、凌雲は患者たちにフランスでの体験を話したという。「神の館」は、富める者も貧しい者も同じ治療を受け、戦争にあっても敵方の負傷者を味方と同様に治療する。日本の良き伝統は守りながらも、こうした西洋の良き習慣は日本も積極的に取り入れるべきではなかろうか。凌雲の言葉に、負傷者の中には無言でうなづく者もいた。
  凌雲にとってうれしかったのは、病人寄宿舎内では敵も味方もなく、互いがすっかりうち解けるようになったことであった。敵方の負傷兵の寝台に近づいて家族や故郷のことを話したり、出歩くときには肩を貸したり、時には笑い声さえ聞こえてきたという。
  敵味方なく負傷者を治療する凌雲の名は、政府軍の参謀黒田清隆の知るところとなり、黒田は榎本との和議の仲介を凌雲に頼んできた。凌雲は「榎本ら首脳部を手厚く遇する」という条件で、この仲介を引き受けた。
  箱館戦争後、政府内では反逆者である榎本らを断固処刑すべしの声が高まっていた。しかし、黒田清隆は有為な人材を失うことは国家の損失だとして、彼らの赦免を主張した。黒田の尽力で榎本ら首脳部は処刑を免れ、榎本は北海道開拓使の役人として赴任し、後に海軍大臣、外務大臣などを歴任した。

同愛会の設立
 黒田や榎本から、凌雲に対し北海道開拓使に出仕するよう申し入れがあった。他のいくつかの県からも同様の申し入れがあったが、凌雲は全て辞退した。民間の一開業医師として、自由に生きると決めていたからである。
  開業医として、凌雲の名声は日々高まるばかりであった。待合室はいつも患者で溢れ、入りきれない者が外で列をなすことも稀ではない。しかし凌雲の心は晴れない。なぜなら、診察を受ける患者はいつも裕福な者ばかりであったからだ。当時の薬代や診療費はまだまだ高額で、庶民の手の届くものではない。重病に冒されても、医師に診せることもできず、死を迎える者が大勢いた。親を医師に診せるため、娘が遊郭に売られることもしばしばだった。凌雲の病院では、貧窮の家庭には治療費を無料にしていたが、彼一人でどうなることでもなかった。凌雲は医師が助け合って貧しい病人を無料で診察できる組織を作る必要性を痛感した。
  1878年12月、医師会の席上、会長であった凌雲は、貧民を無料で診察する組織「同愛会」の設立を提案した。彼はフランスで見た「神の館」に附属する貧民病院の説明をした上で、「貧民の困窮をただ傍観するのみではなく、我ら一致協力して、彼ら貧しい病者を救うために立ち上がり、将来、貧民病院を創設する一大事業を興そうではありませんか」と締めくくった。凌雲の顔は紅潮し、声は震えていたという。
  深い感動が会場全体を包み、静かな沈黙の時が流れた。一人が「賛成」と言って立ち上がり、「貧民救済は、我ら医師が社会でなすべき義務であり、一致協力してこの一大事業をなし遂げたい」と叫んだ。この言葉に万雷の拍手がわき起こり、凌雲は感極まって涙ぐみ、何度も何度も頭を下げた。凌雲はこの時、42歳になろうとしていた。同愛社は、医師による救療社員と篤志家による慈恵社員によって構成されていた。この同愛社によって診察を受けた貧民は、70万人に達し、篤志家は千人を越えた。1916年10月12日、81歳の凌雲は、家族に見守られながら、静かに息を引き取った。市井の医師として仁の道を貫き通したその功績は、医療界に燦然と輝いている。








Last updated  2010.01.26 00:56:52



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