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カテゴリ:東北の旅
三内丸山遺跡から黒石温泉郷にある民宿「大川」に到着した私たちはしばしくつろいだあと夕食をとりました。
夕食は食べきれませんでした。この食事で1泊2食付き6450円は大満足です。 ![]() 食事をとったあと当初予定の黒石のねぶたを変更して弘前のねぷた祭りに行くことになりました。 私たちの出発前には地元のねぷたの行列が民宿の前を通って行きました。 ![]() 民宿を出て弘前の駅付近に車を駐車して祭りの会場へと向かって歩いていると雨が降り始めました。 まず傘を買いにお店に入りますが、ふたりで1本あれば大丈夫だろうと全員の分は買いませんでした。 ところがどっこい、雨は激しさを増して叩きつけるような雨になりました。 やむを得ずコンビニに入りまた傘を買いました。 確かに今日は大雨警報が出ていましたが、1日中雨には逢わずにきましたのでそんなことはすっかり忘れていました。 しかしこの集中豪雨は私たちが駅から会場に向かう10数分間の出来事で会場に到着すると雨は小振りになりました。 ついついこの意味を考えてしまいます。 前日は雨で中止になったそうで、その日も雨対策で山車にはカバーがかけられていました。 様々な山車が次から次へと通り過ぎ、私たちは時間を忘れてかなり長い間、それぞれの思いの中で祭りを見ていました。 ![]() ![]() 途中ふと横にいるひめのさんを見たら雨の中、傘もささずに涙を流しながら悲しい表情で立っていました。 しばらくの間、ひめのさんに傘を差し出していましたが、そのことには氣がついていないほど悲しみの世界に入り込んでいるようでした。 ねぷたという祭りの謂われを聴いていましたので、ひめのさんの悲しみがどれだけ深いものかは想像がつきました。 8月15日のひめのさんの日記にその時のことが書いてありますが、その時は襲いかかる攻撃のエネルギーを敢えて受けていたようです。 ふと我に返ったのか傘を差し出していた私に氣がつき「もういいよ。ありがとう。」 私は頷いてひめのさんから離れたところで見ることにしました。 このあとひめのさんは斉明天皇としての衣を脱ぎ捨て、『透明になる』という方法でエネルギー攻撃を交わし、祈りを始めたようです。 この件に関しては8月15日の2本目の日記に詳しく書かれていました。 今回私たちは弘前のねぷたを見ました。 一方、青森のねぶたはその特色としてハネトの大乱舞があります。期間を通して約9万人のハネトが「ラッセラー」というかけ声で跳ねまわるそうです。 『Wikipedia』にはねぶたの起源として仮説ということで次のようなことが書いてありました。 このほかにも「ねぶた」という言葉の語源から推察した仮説も存在する。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。 阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。 つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。 このような悲しい謂われのある祭り。 もし私たちが青森のねぶた祭りを見にいっていたら長い時間その場にいることはできなかったでしょう。 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)は首を切られるために京の都に向かったわけではないでしょう。 そして妻子残党の末路。 こうした歴史を今の教科書はどのようなかたちで伝えているのかと思い、中学生の息子の教科書を見ました。 このまま書き進めると長くなってしまいますので改めて書くことにしますね。 いつもありがとうございます。 すべての流れに感謝します ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.20 11:25:17
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