「ジョーのこころの縹渺(ひょうびょう)」

2011/12/03(土)07:51

私たちができること

想い出(7)

いくら利権が絡み、人々の弱みにつけ込むようにお金がばらまかれたとしても、迎合し受け取る者がいなければばらまきようがないことになります。 そういった意味では、ニュースなどで汚職や賄賂の事件をいくら放送したとしても、ひとりひとりのそういったニュースからの情報の受け取り方が異なる以上、それなら私も貰いたいなどという方たちが登場してしまう逆効果の可能性は、常に存在していることになります。 そういった心理状況の方たちを求めている方たちにとっては、テレビや映画が手助けをしているという見方をすることもできるのではないでしょうか。 性犯罪や凶悪犯罪などにもそういった傾向が少なからずあるように感じます。 それでは、そういったことも含めまして、どのようにそういった汚職や賄賂による悪巧みを阻止する術があるというのでしょうか。 実は、その答えの鍵が故祖父の教えの中にあるのです。 若い頃の私、特に実家を飛び出してしまい一切就職活動も拒否した上で、就職せずに自活を始めた頃は、大学まで出て、そんな自ら大変になることをする、もしくは考える人間というのはあまりおらず、ほとんどの方はあまり苦労をせずに一生を終えるために人生設計を立てるので、私のような人生を歩んできた者はそうそういないのです。 中学や高校の頃に家を飛び出してしまった人などは、私が家を飛び出した大学卒業の年代頃は、既に、社会に揉まれているために、格好や立居振舞などとは異なり、揉まれながら社会というものを見てきた分、実は現実的なのです。 ここでいう現実的とは、自分達に学歴の無いことを踏まえたうえで、学歴社会の日本社会で生き抜くための術として、よりお金を稼ぐということに照準を合わせて生きているという意味です。 その中でも、コツコツと学ぶ人もいれば、学ぶことを一切せずに生きていこうとするタイプに分かれはするのですが、彼らの思考の中にはお金という概念が染み込んでいるのが常でした。 当時の私の立ち位置を振り返り、位置付けしてみますと、私の思考の中にはお金を稼ぐということと、生き抜くこととは全く別次元として捉えていたきらいがあるのです。 まず、大学を通常通り4年で卒業して就職活動自体に一切関わっていない生徒などいなかった点。 将来的なことなどには一切目を向けず、家賃高熱費食費分の収入確保にしか興味の対象はなかったこと。 そして、私が知りたかったのはお金の稼ぎ方でも知識でもなく、世の中の枠組みや人々の現行動に興味の重きがあったこと。 そして自分で言うのも何ですが、最も奇妙であったのは、1度もあった事も話したことも無い、空想上の私が話を見聞きして勝手に頭の中で作り出した幻想の故祖父と幼少より語らい続け、その架空の彼の後ろ姿を追い続けていたこと。 まだまだ、いくらでも出てきますが、要するに夢見がちであったことは確かです。 そして、違う視点で生きていることの強みは、通常の方たちが感じる劣勢の部分などをあまり感じずに過ごしていることは確かでした。 そして今に思いますと、そうであったからそのずれによりいろんなことに耐えられたのだと思われます。 別に私が特別、他者よりも強いわけではありませんし、強いていえば見た目の通り体力やスタミナはあまりないのですから。 それではなぜ、私のような人間が出来上がったのかといいますと、家族内で厳格に求められた制限によってなのです。 どんな制限かといいますと、勉強のみを求められる。 友人などとの接し方にもいろいろと制約が存在し、貸し借りや物を貰ったりあげたりすることも禁止でした。 家の中での過ごし方もこれでもかというくらいの決まりに縛られながら過ごすのです。 しかし、子供とはそういった環境下に置かれましても慣れるのは確かです。 私が不幸であったのは、幼い頃はそういったことにさしたる窮屈感を持たずに過ごすことができた点です。 そのうえ、転校入が父の仕事上の関係上多かったために、消極的なタイプであった私は一切馴れ合うということを学ばないままに、10代を過ごしてしまったのです。 当り障りのない会話はしても、誰とも突っ込んだ会話などはせず、日々の話し相手は故祖父でした。 お金を使うことなどそのような状態ですと、はっきりいってありませんでしたし、常にお年玉などの封を開けていないお金があり、お小遣いというものをもらっていなかったにもかかわらず、郵便局の口座には預金があったほどでした。 そんな私が、大学生になりアルバイトなどを始めたこともあり、異性とも出会うようになり、お金を使うことや同世代と付き合う方法を模索し始めたのがこの頃でした。 当然ながら、いろんな失敗があったりと人間付き合いがいかに難しいことであるのかを知るようになるのもこの頃です。 私の場合ですが、いろんな失敗などを繰り返しながら20代の間は痛い目にも度々合いながら、人々と私の温度差や価値観などの違いを肌で感じながら我が家の教えについて、なぜ他者の方たちとの違いを見せつけられねばならないのかと反抗心なども持ちつつ自己分析を繰り返し、世の中について学べることができました。 私のように架空の人物である故祖父との対話がなければ、当時既に社会の輪の中に戻り暮らしていたのだと思います。 しかし、私はそうはしなかったのですよ。 それはなぜなのかといいますと、反抗心というものなどは、厭きっぽい私ですから、当の昔に薄れていたのですが、どうしても納得できないものがあったからです。 それは、不公平についてです。 ターゲットにされてしまいますと、有無を言わせずにコントロールに入るのです。 お金をちらつかせ、お金が通じないとわかるや、魅力的な異性を、異性が利かないことが分かると、地位や名声をちらつかせ。 馬鹿でなければ許さない、馬鹿でなくても振りはしろという要求が至るところにあるのです。 人間づきあいの仕方がよく分からなかった私は、いちいちそういった部分でムキになり、知らず知らずとそういった方向に引摺り込まれていったのでした。 私がごく普通の家庭に生まれ、何の不自由も感じずにすくすくと育ち、皆の輪の中で楽しく過ごせる環境下で育っていたら、もちろん、私もおバカの仲間入りをし、飲まれ切った状態で一緒に馬鹿騒ぎに加わり楽しんでいたでしょう。 しかし、私は自分の意思とは関係なしに十字架を背負わされて生を受けたのです。 そして、勝手に神聖化してしまった故祖父が、命をかけてきた電気業界を汚してほしくはないと思ってしまったんですね。 文字にしてたった35文字の思いのお陰で、紆余曲折はあるものの自分の中での決めごとの中でなんとか踏みとどまり過ごすことができたという事実。 子供が嫌がるから、決して変えようとしてはいけないからという理由付が、実はひとりの人間が自立するにあたっては、如何に危険な理由付なのか。 大人になれない人間を作り出してしまうかもしれないのです。 そういったことへの信念ともいうべき覚悟なしには、体は大きくはなりますが、心はいたって弱い、何を仕出かすか分からない人間が出来上がってしまう可能性がとても高くなってしまうのです。 自他共に厳格の極みであった故祖父が、世の中を熟知したうえでのそういった高いハードルを設置してくれていたからこそ、本来の私のような弱い人間でも、今までどうにかいろいろな囁きから逃れ切ることができたのです。 そして、それが紛れもない事実なのです。 そのことを1度も面識のない祖父から受け継ぎ、その彼が関わってきた電気業界の将来にもかかわる、子供たちの未来にもかかわる、地球の継続にもかかわる一大事の現在だからこそ、私はどうにか原発を停止に漕ぎつけたいと願わずにはいられません/ どのように原子力発電所の建設が進められてきたのかは、ゴルフ場建設やダムやトンネル工事などでもおなじみの手法です。 原子力発電所の建設に当たり、本人が気がついた時には巻き込まれていた方なども多かったのではないのでしょうか。 そして、その事をネタに現時点では原発推進反対の意見であっても、言い出せない方なども反原発推進していくためには発掘していかなくてはいけないと私は考えています。 つい先日の炉心棒に対する東電の発表は、数値などの参考資料などが一切ない状態での憶測の計算での発表であり、根拠自体は希薄であると小出教授が発言されておりましたが、その懸念が捨て切れない以上、本格的な放射能漏れ対策にも着手しないといけませんね。 小出教授は、5月からずっと言っていたそうですが、もう12月です。 時間は刻いっ刻と過ぎています。 ですが、起こり始めてしまっている現象は何一つ待っていてはくれないのです。 最悪の事態を想定したうえでの対処を進める。 これは、渡航などの準備などを紹介する大使館などのパンフレットにも以前載っていた文章です。 それが日本の段取りの基本なのではないのでしょうかと...。 いざ!!!

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