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2005.07.16
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最近すっかり堂々と「土方はそれほど好きじゃないんだよね」などと公言しているわたしですが(笑・少し前までは遠慮してたのですよ…土方ファンこわそーなんだもん)、箱館新選組には興味あるし(特に仙台加入組)、大鳥スキーとしても土方さんの足跡は気になるところなので、あらためて国府台~会津~仙台の土方さんを追ってみよーと思います。
実際に会津に行ってみたら、なんか気になっちゃって。わたし全然解ってないわ~、って。
喉に小骨がひっかかったよーなカンジなんですよね、このへんが解ってないと(笑)。
あ、土方さんを追う企画のくせに、不必要なほど頻繁に大鳥さんが登場すると思いますが、それは標準装備なので諦めてください。(ゴメンナサイ…)

年号はすべて慶応4年です(※ 9/8、改元して明治元年となる)


4/11  江戸城開城、旧幕陸軍ら国府台に集結
〃   土方、旧幕混成軍の参謀となる(総督は大鳥圭介)
〃   旧幕軍前軍、出立(中・後軍は大鳥が率いて翌日出発)
4/19  土方属する前軍、単独で宇都宮城攻略
4/21~ 宇都宮城奪還戦
4/23  宇都宮にて土方負傷
4/25  近藤勇、板橋で斬首
4/26  同じく怪我を負った秋月・本多らと会津へ向かう


土方が、なぜ新選組本体とわかれて、たった6人の隊士だけを連れて国府台の旧幕軍に合流したのか?
4/3、流山で近藤が捕縛されて、その晩には土方は近藤の助命嘆願のため江戸へ戻り、翌日勝海舟を訪ねています。
「土方歳三来る。流山顛末を云う」(『海舟日記』4/4)
ここで、勝に旧幕軍との合流を勧められたのかも知れません。
4/4に、新選組本隊は会津に向けて流山を発っていますが、土方含め7名の隊士だけが、国府台の旧幕臣たちに合流しています。
その後会津へ向かった本隊は、「吾々隊(新選組)は元斎藤四郎(斎藤一)と申す古参人、仮に隊長となり」(『近藤芳助書簡』)とあるように、先に会津入りしていた斉藤一(山口次郎)が指揮を取っています。
山口は、甲州鎮撫隊のあと、そのまま会津へと向かっていました。

ところで、土方は「全軍」の参謀じゃなくて「前軍」の参謀、ですよね?
小説とかだと「全軍」参謀って書かれてるけど。
前軍の隊長は、会津藩士・秋月登之助。幕府伝習隊に参加して調練を受けてました。
公用方の秋月悌二郎さん(大河にもよく出てた、秋月さま)とは血縁関係はありません。
前軍の主体は伝習第1大隊で、土方と第1大隊との付き合いがここから始まります。
一方、大鳥は第2大隊を中心とする中軍&諸隊混成の後軍の指揮を取ってました。
大鳥は元々第2大隊の人だったんで(江戸脱走時は第2大隊約500人だけ連れて行ってます。その後、大林院で第1大隊や旧幕諸隊と合流しますが、あらかじめ申し合わせてあったのかは不明)、こちらは当然の配置。
しかしこの軍隊、連携が非常に弱い。目的地は日光と決まっていましたが、総督たる大鳥には宇都宮城攻略の考えがあったのかどうか怪しいです。
大鳥さん、宇都宮方面で戦闘が始まったのを、こんなふうに言ってます。
「十九日合戦場(地名)を出て鹿沼のほうに向いしに、昼前に至り東の方に当り火災起ると見えて烟焔天に漲り日光も暗く見ゆる」(『南柯紀行』4/19)
なんか他人事っぽい(笑)。

宇都宮城攻略のさい、土方が怖気づいた従卒を斬り捨てたエピソードは有名ですね。
「土方歳三は歩兵の退くを見て、進め進めと令しつつ逃る者一人を斬り倒す。歩兵はこれに激まされ再び進みたれども、土方は血刀提げ悠々と退きたる故、歩兵も再び退きたり。」(『桑名藩戦記』)
そしてこのあと、土方は親戚の土方勇太郎に、その兵卒の墓を建ててやるよう依頼したといいます。『聞き書き新選組』より。

面白いのが、前軍が宇都宮城を落としたときの大鳥日記。
「第1大隊ならびに桑名兵は前文にも記せるがごとく三津街道(水海道)より下館に赴き同侯に説て武器金子を借受け夫より直に宇都宮の方に進み十九日朝宇城を攻め第1大隊先鋒にて侵入せしところ城兵も頗る奮戦し之を防ぎしよしなれども桑名隊大奮発城の搦手の方に回り放火せしに由て防止すること能わず君侯始め散々に落去せしとぞ。」(『南柯紀行』4/21)
土方にひとっことも触れてない。
下館で強談判して武器金子を頂戴したのも土方なら、桑名隊を率いて搦め手門から攻め入ったのも土方だよね?
実は抜け駆けされて悔しかったとか?
城下を焼いて、一般市民に迷惑をかけたことでムカついてたってのもあるかも?
(このあと大鳥、城内に備蓄してあった食糧を焼け出された市民に配ってます。しかし小説などではこの行為を「人気取りのため」とか書かれがち…)
ていうかそもそも、宇都宮進撃が大鳥の本意でなかったとしたら、ムカついて当然か。これで大鳥も名実ともに「賊軍」になってしまったわけだから。
しかし桑名藩士は褒めて土方は褒めないっていうのは、ちょっとおとなげない(笑)。

ついでに。
「総督大鳥氏曰、昨日ノ戦、桑ノ新士官隊先鋒トシテ功ハ多シ。故ニ諸隊ニ先テ杯ヲ我軍ニ与フ。是ニ於面目ヲ施ス」(『戊辰戦争見聞略記』石井勇次郎(桑名藩士→のち新選組に加入))
ここでも土方の名前は出て来ないんだよね。
この文章は桑名藩士が書いたものですが、大鳥の記述と整合性があるし、なにより後で新選組に加入する人が、土方の名前を書かないわけはないですよね。
桑名藩兵を土方が率いてたっていうのは、先の『桑名藩戦記』からわかりますので、やっぱし大鳥ってば土方の功はねぎらってないみたい…(苦笑)。

ともかく、秋月&土方の率いる前軍は単独で宇都宮城を落としたのですが、その後数日で、増兵した西軍に奪い返されます。
原因の一つが、無駄な壬生攻め。
このときの壬生城攻めは、壬生藩士・友平慎三郎の進言によるもの。
宇都宮城に比べて城郭は脆弱で西軍の防備も手薄、今なら押さえられると。
それに乗った形で、大鳥は壬生攻めを主張。しかし決議を取るまでに半日もかかっています。
さらに本人は病欠(苦笑)。
実はその頃、壬生城の西軍は、大幅に増援部隊が来ていたのでした。
大山格さんは、軍事的な視点から、「大鳥が臥せっていたため、後方で戦全体を統括する総指揮官がいなかった。本来ならそれは土方が代理しなければならないのだが、彼は前線指揮官クラスなのでできなかった」と、土方の指揮官としての限界を指摘しています。
(これはたとえば、後の二股口・木古内口での戦いで、単にその場の勝敗だけを見て指揮官としての優劣を決め付けてる人たちにも考えて欲しいです。)
ただまあ、当日の戦闘自体に関して言えばそうですが、そもそもの敗因は大鳥の戦略ミスですね。
前軍の戦功に焦ったんだろうか。この後の大鳥の慎重な戦いぶりを見ていると、このときの判断は未熟というか血気に逸ったというか、確かに「実戦を知らない学者」扱いされてもしょーがないかなと(笑)。


4/29  土方、会津七日町の旅籠「清水屋」に搬送される
〃    唐津藩士・大野右仲、土方のもとを訪れ、宇都宮戦争について話を聞く
?/?   土方、幕臣・望月光蔵に新選組加入を強いて断られ、枕を投げつける(笑)
閏4/22~ 新選組本隊(山口次郎※ 隊長)、白河方面に出陣(※ 斉藤一)


清水屋で枕を投げつけられたという(笑)望月は、土方のことを「余、其傲慢、人を易ずるを悪む」(『夢乃うわ言』)と酷評。
土方自身、人の好き嫌いが激しかったんでしょーか? 評価がバラッバラですよね(笑)。
その清水屋に、宇都宮戦争の様子を聞きに来た、唐津藩士・大野右仲。
大野は、唐津の漢学者の家系に生まれ、江戸の昌平坂学問所で学んでいた才人。若い頃は尊攘派志士らとも仲良くしてたりして。
人物叢書『高杉晋作』には、吉田松陰の墓参をしたのち江戸を去る高杉を、桂小五郎ら長州藩士数名が見送った、とありましたが、実はその数名の中に、唐津藩士である大野もいたそうで。昌平校での友達だったんだって。
良かったね、新選組に目つけられないで(笑)!
彼は前述の望月さんと正反対に、この時点で土方さんのこと気に入った、の、かな。
『開国の旗手 小笠原長行』にそうあったので、そういうことにしておこう。
少なくとも、箱館で土方が亡くなったときの大野は、めちゃくちゃションボリしています。(↓)
「砲台(弁天台場)は湾を隔てて雲煙の中に髣髴たり。独り兄事する所の奉行(土方)の死を嘆き、同胞のごとく交りたるもの(新選組)は、皆、彼にありて、我のみ敵陣の遮る所となりて至るを得ず。涙をたれて、楚の項羽の『時利あらず、騅行かず』の句を吟ず」(『箱館戦記』)

自分用メモとしては、閏4/2、会津田島に向かう途中の宿場で大鳥さん、本多さんと再会。
大鳥さん、日記で弱音吐いてるんですよ。
「(日光にて)宇都宮一敗後人心瓦解唯一寸にても退くことを考え敵に近づく出ずることを好まず、夫に本多幸七郎ならびに会(津)人垣沢某も深手なれば相談相手もなく甚だ困却せり」(『南柯紀行』4/26)(※この日、日光から土方を含む怪我人を会津へ送る)
本多さんってのは旧幕では別手組(外国人警護)で歩兵頭並で伝習第2大隊の隊長で、れっきとした旗本で(部屋住みじゃないっすよ、本人がですよ)、『南柯紀行』にもしょっちゅう登場する大鳥さんの右腕。…と、言い切っていいのかわかんないけど(笑)。
箱館では古屋佐久左衛門に並んで連隊長になってます。
本多さんとは無事再会できましたが、垣沢(柿沢)さん(会津藩公用方出身の伝習隊士)は、4/28、怪我がもとで亡くなってしまいました。大鳥さん、寺院に埋葬をお願いしています。
そして、土方さんのことはあんまし頼ってないようです。まだ出会って日が浅いからかな。それとも宇都宮でムカっときたのが尾を引いてるのかな。(笑)

そんな大鳥さんが心配だったのか頼りなかったのか(たぶん後者・笑)、土方さん、会津から山川大蔵を参謀として向かわせるよう、手を回しています。
「土方公会着、後当藩山川大内蔵と申者をして総督に命し日光口に向はしむ」(『島田魁日記』)
山川はこのあと会津藩家老となる、新進気鋭の若者で(彼岸獅子を引き連れての若松城入城は有名ですね)、大鳥さんも珍しくベタ褒め。
土方さんが裏で配慮したことを知ってか知らずか、「余一見其共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり。」(『南柯紀行』閏4/5)なんて無邪気に喜んでいます(笑)。かーわいい。


さて、ここから土方は会津で療養生活に入るわけですが…。
長くなってきたので、分けます。





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最終更新日  2005.07.17 02:39:39
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