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カテゴリ:ミーハーれきしトーク
つづきです。
さて、島田日記を見てみますと、土方の会津離脱に関して(谷口日記のような、列藩同盟との連携工作についても)、なにも触れていません。 島田らが仙台に入る段になって初めて、「此時土方公仙府に在り、公を慕ふ来会表の者凡2千人」(『島田魁日記』)と記しています。 『新選組実録』によれば、このあたりの記述は、島田に限らず新選組隊士はほとんど語っていないそうで。 まさか土方、「公を慕ふ」(島田)、「赤子ノ母ヲ慕フカ如シ」(中島)と、自分を慕ってピヨピヨ付いてくる新選組隊士に本心を言ってなかった、の…? あるいは、島田らも土方の真意を知っていたとしても、心のどこかで山口に共感する部分があった、とか? まあ隊士らの気持ちは置いといて、土方は、国府台で前軍を率いて出立したときから、新選組の元副長としてではなく、個人単位で活動しようとしていたのかも。 奥羽列藩同盟という大きなツテと、伝習第1大隊という洋式訓練の行き届いた優秀な手駒も手に入れたわけだし。 幕府お抱えの軍学者だった大鳥よりも、ある意味大局を見てた? (大鳥も本気で幕府再興や蝦夷共和国を夢見てたとは思わないけど、こと戦争に関しては目の前の戦いで手一杯な感がある) 第1大隊は、土方の会津離脱時にいったん大鳥のもとに返されますが、その後30名ほどが、正式に隊を辞して新選組に加入します。大島や谷口はこのグループ。 よっぽど土方に惚れ込んだんだなー。 最初、子飼いの伝習隊士に逃げられるなんて、大鳥、人望ないな~(笑)とカワイソがってましたが、直率の第2大隊はずっと行動をともにしてるんで、人望ないとも言い切れないのかも。 ただ、そうやって深く付き合ってないと、良さが見えない人なのかも(笑)。 (だから最初に総督になるの断ったのか…。自分でもそれを解ってて・笑) 8/25 土方、米沢城下に逗留 8/27 榎本武揚、仙台入り(土方も同時期?) 9/3 榎本・土方、仙台にて奥羽列藩同盟会議参加 9/4 米沢降伏 〃 如来堂の戦い 9/9 大鳥ら伝習隊・古屋ら衝鋒隊ほか旧幕軍(新選組含む)、会津出立 9/12 榎本・土方、仙台城登城 9/13 仙台降伏 9/15 旧幕軍、仙台入り 8/25、米沢城下にて土方、松本良順、友平慎三郎(壬生藩士・宇都宮戦争のとき、大鳥に壬生城進軍を勧めた人)らがらが会談し、「輪王寺宮をたて、夷狄(とくに仏軍)に力を借りてでも会津を救解すべし」との策略をたてていたそうです。(『戊辰庄内戦争録』) やっぱり、土方は輪王寺宮(同盟)に望みをかけていたんだな。 そして彼は「勝つ」つもりでいる。 会津を救うには、米沢がやったように降伏を勧めるとか手はあるけど。彼は「西軍に勝つ」ことで救おうと言ってるんですね。 もっとも、菊池明氏はこれを「土方の真意であったか不明」と一蹴してます。 じゃあ何が真意だったっていうんだ(笑)。 負けないため・死なないための戦をしている感のある大鳥(目の前の戦で手一杯っぽいと書いたのはそのせい)と違い、あくまで勝つ気で挑んでるあたり、真意とみていいんじゃないかなー。 菊池さんのように土方が好きで研究されている方にしたら、土方がフランス軍だの基盤の弱い奥羽列藩同盟を当てにした、なんて、カッコ悪いと思うのかも知れないけど。 同盟が実際は脆弱なものだったとは、後世のわたしたちは知ってますが、仙台藩の主戦派からの勧誘をたびたび受けていて、しかも大鳥のように戦場では役に立たない仙台兵らを見てはいない土方が、勝つために同盟をあてにしたっていうのは、決しておかしくないし、カッコ悪くもないです。 (※ 仙台兵の中にも気骨のあるのは大勢いて、箱館では一番勇猛だったというくらいなのですが。閑話休題) また、ここで「夷狄の力を借りてでも」と言ってるのが、興味深い。 彼は、近藤が抱いていたような攘夷論を最初から持っていなかったか、そうそうに捨てたかしているわけですよね。(さすがにこの時期にもなって攘夷論者はいないでしょうが…) 新選組自体は、尽忠報国・尊皇攘夷、そして公武一体と、それなりに思想集団として成り立っていたと思うんですが、土方個人で見るとそういったイメージがまったくないのは、こういう合理主義っぽい面のせいなんでしょな。 さっきから言ってる、新選組と伝習第1大隊との付き合い方を見てても、それは感じます。 さて、釜さん登場です。 釜さんは土方をやたらめったら買っています(笑)。 奥羽列藩同盟の会議上で、同盟軍の総指揮官として土方を推薦。 「(榎本は)大息して曰く、「我が土方君をして兵に将たらしめば、大勝を得んこと、あに難からんや」と。列藩、土方をして主将たらしめんとす。」(『二本松藩史』) 「武揚容を改め、「さらば某と同行してこの地に参りたる士、新徴組(新選組)の長たる土方歳三こそその人なれ」と言う。皆々大いに呆れしかど、武揚はさる人物なるに、この言あるは定めてその人なるべしとて、「さらば土方ぬしを挙げ給うべし」と答う。」(『学海日録』) よーするに、榎本がはりきって土方さんを推しまくって、参加者たちはちょっと(゚д゚)ポカーンとなったんだけど、まあ、榎本さんの言うことなら…といったんオッケーしたと。 でもそこで、土方が「総指揮官になるからには、相手が大藩のご家老であろうと、生殺与奪の権利はいただきます」言うたらば、同盟軍ビビって躊躇しちゃったんですね。(『二本松藩史』より超意訳) 土方の言ってること、間違ってないんだけどね。 数日後、仙台に降伏の話が出て、釜と土方、仙台藩執政・遠藤文七郎らのもとを訪れ、説得をしようとします。 ですが時既に遅し、彼らの進言は、あっさり突っぱねられてしまいます。 「榎本、膽気愛スベシ。然レドモ順逆ヲ知ラズ。維新ノ皇業ニ大害ヲ与エン。土方ニ至リテハ斗屑ノ小人、論ズルニ足ラズ。」(『仙台戊辰史』) この扱いの差。 もちろん釜は弁はそうとうに立ったと思いますけど。のちにロシアから千島列島を奪い取る男。(笑) でも、前述の、大山さんが言ってた出自の差、やっぱりあるよーな気がします。 この日、土方らは仙台藩主伊達慶邦に拝謁しています。佐藤家に伝わる刀の下げ緒というのは、ここで拝領したのかも。 9月なかば、大鳥と旧幕軍の敗残兵が仙台入り。 鳥さん、釜やフランス軍事顧問団と久しぶりに再会して、また嬉し泣き(笑)。かーわ(略) しかしここでも、またしても土方に触れてない。榎本と同じ宿にいたはずなのに。 そろそろ「…仲、悪かったのかな」と本気で疑い始めている私(笑)。 (でも『聞き書き新選組』に、土方さんが大鳥さんをよくからかってた、なんていう市川鉄之助の談話が。交流はちゃんとあったのね。大鳥さんが一方的に苦手だったのか? 笑) 9/20 桑名・唐津・備中松山藩士、新選組加入 9/22 会津藩降伏 10/? 相馬主計・野村利三郎合流 10/12 榎本艦隊、仙台(石巻)出航 桑名藩主(元京都所司代)・松平定敬、唐津藩世子(元幕府老中)・小笠原長行、備中松山藩主(元幕府老中)・板倉勝静の3公も榎本艦隊に拠ることになります。 藩閥や家柄を一掃したい榎本は、3公に「家臣は数名のみ」と言います。 藩主と引き離されるも、一緒について行きたい家臣らを、30人弱にまで減っていた新選組がまとめて引き取りました。 「必ず尽力すべし、心を安んぜよ。速やかに我が隊(新選組)に来たれ」って、出典がわかんないんですが(石井勇次郎日記かなー)。 桑名・唐津藩士らは、新加入ながらも箱館新選組内でかなりのポストが与えられてますが、備中松山藩士はうっかり「自分らは藩主について行きたいだけなので、蝦夷に着いたら新選組は抜けたい」と本音を言っちゃって、土方の機嫌をそこねて、全員平隊士にされてます(笑)。あーあ。 (ちなみに新入りで1番多かったのが唐津藩士。桑名藩士は関東~越後~会津と転戦を重ねて来てたので、戦死や怪我で減ってしまったのかも…) また、仙台では、京都時代の新選組隊士2名が復帰。 野村は、流山での近藤捕縛の際に西軍陣地まで同道して捕らえられてました。 相馬は、勝海舟の手配した近藤の助命嘆願書を西軍陣地に届けに行って、やはり捕まります。 2人は近藤処刑後に釈放され、上野の彰義隊に参加。 彰義隊壊滅後、陸軍隊として再編され(隊長・春日左衛門)、2人はそこの小隊長となって北上してきました。 箱館では、相馬が陸軍奉行添役・野村が添役介という、幹部に近い役職に就いています。 仙台での土方の言葉。 「ただ我儕のごとき無能者は決戦、国家に殉ぜんのみ」(『松本順自伝』) 榎本の方策に必ずしも賛成ではないが、幕府への恩義に報いるため、自分は最後まで戦いとおすのみ、と。 いや、わかんないな。「国家」が幕府を指してるとは言い切れないな。この人の場合。合理主義っぽいし。 このあと、榎本艦隊は仙台を出発して、蝦夷地へと渡ります。 箱館では箱館で、いろいろ気になるエピソードはあるのですが、またいずれ。 …なんか色々追っかけてるうちに本当は土方好きなのか? って気がしてきた。(自己暗示? 笑) よく、マンガや小説では、箱館に到るまでに土方がだんだん鬼の仮面を剥いでって、あたかも慈母のよーになっちゃう展開が多いじゃないですか。 わたしアレ苦手で(笑)。 だって京都では細かいことに難癖つけて仲間(とは思ってなかったかも知れんが)に切腹命じてた人がよ? 「新選組を守るためには仕方なかった」って、ねえ? んなアホな、と。 (今、わたし、全国数十万の歳サマファンを敵に回してますか?) (いやいやウチの日記、1日に100人ちょいしか読んでないし大丈夫か・笑) しかしこーして見てみると、慈母どころかアナタ、鬼っ子健在。 なんかもー、冷たい。新選組に冷たい! 「赤子が母を慕うかの如く」っていうのは、土方が母のように優しくなったわけじゃないんだよ。きっと。 幕府が倒壊し、局長の近藤は亡くなり、後ろ盾になってくれてた会津藩は壊滅、京都にいた頃ならまだ帰る場所があった彼らも(脱退は切腹ですが、きちんとした理由があれば除隊はできた)、いまや錦旗に弓を引いた逆賊。 どんなに細く急峻な道でも、こけつまろびつ先に進むしかない。 そんな中で、これまでと変わらずにただ勝つことだけを考えて前向きに行動している土方を、たとえ仙台行きについて相談してくれなかろーと伝習第1大隊ばっか可愛がってよーと、頼らずにはいられないじゃないですか。 わたしが隊士なら頼る。 そして相談して欲しさに一生懸命頑張る。(野村っぽい) つーわけで、私の中での土方像は、一匹狼な兄貴キャラに固まりつつあります。 …っておかしくない? ヲタク世間では、土方さんは慈愛に満ちた箱館の母で総受けキャラだったりするんじゃないの?? わたし、腐女子失格!?(ガーン!) ちなみに史料原典にはぜんっぜん当たってません。また引きばっかり(スミマセン…)。 うち新選組関係の本、少なくて(なぜなら大鳥の扱いが悪いと買わないから)。 ほとんど『新選組実録』(相川司・菊池明/著)に頼って書きました。これはお気に入り。 あとは『戊辰落日 上・下』(綱淵謙錠/著)『新選組日記(島田魁日記)』『歴史群像シリーズ 土方歳三』『救え会津 来援の勇者たち』『桑名戊辰戦記』(郡義武/著)、それとM子さんがコピーして下さった『新選組日誌』などを参考に。 史料は『南柯紀行』のみです。(スミマセン…☆) そんな、いい加減な記事なので、参考にしないようにお願いします! って最後に言うな(笑)。 はー、ちょっぴりスッキリ。 これで心置きなく原稿に取り掛かれます。(ヲタク) いや、土方はほとんど描かない予定なんですけどね。自分の中でキャラが固まってないと、どーも喉に小骨が。 ………こんなヲタクの自分用メモを延々日記にアップしてごめんなさいでした。m(_ _)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.07.23 17:03:46
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