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カテゴリ:プチ旅行記
予告どおり、閑谷学校に行って来ました☆
意外と近かったです岡山。 っていっても、備前市は限りなく兵庫寄りなのですが(^^;) 朝、出勤時間と同じ時間に家を出て、地道に鈍行(新快速も鈍行って言っていいのかな? 特急料金かからないし)乗り継ぐこと約2時間半。 ![]() 今回は上郡は通過でーす。 しかしホントにブレないねこのカメラ! これ、もう動いてる電車の車窓から撮ったんだよー。 で、接続がおそろしくスムーズだったため、けっこう早くに吉永駅に到着! 吉永駅は、上郡から2駅です。っても駅と駅の間がすごく長いんですが(笑)。 ここから閑谷学校までは約3.5キロ。親切なタクのおっちゃんが道を説明してくれたので徒歩で行くことにしました。 ![]() 途中にあった貯水池。藤は、野生っぽい。 …しかし、3.5キロ、距離はたいしたことないし、上り坂っても緩やかだったんでそんなにキツくなかったんですが、途中、蜂がいっぱい飛んでるわクモの巣に引っかかるわ500メートルもあるトンネルは照明が少なくて足元見えないわで、気温は暑いのに鳥肌立ちっぱなし。 帰りは素直にタクで帰ろう、と泣きそうになりつつ、閑谷学校に到着! (…わたし、子供の頃に1度来たことがあるって、父母ともに言うんですけど、サッパリ覚えてない…。) ![]() 正門です。開閉の音が鶴の鳴き声に似てることから、鶴鳴門ともいわれてるそうです。 さて、閑谷学校とは、寛文10年(1670年)、岡山藩主・池田光政によって創建された、庶民のための学校です。 現存する学校建築物としては、日本どころか世界最古だとか。 教えられていたのは儒学(朱子学)です。敷地内には聖廟があり、孔子がまつられています。 有名どころでは、維新後に山田方谷が先生やってたそうですよー。 河井継之助も師事してた、備中松山藩の朱子学&陽明学者さんです。農商の子でしたが、藩主板倉勝静に抜擢され藩の筆頭教授となり、藩政改革に取り組みました。 板倉さんといえば、箱館戦争に従軍した3人のお大名の1人。日光に布陣しようとした圭介たちを「ここで戦争なんてやっちゃダメ!」と諭して追い出した人でもあり(笑)。 この人は徳川吉宗の玄孫にあたる血筋だそうで、徳川家命! な立場だったんですね。 ![]() 講堂。国宝です。 中はこんなカンジ。↓ ![]() 床が磨きこまれてピカピカです。いちおここは入れません。廊下まで。 ![]() 廊下と講堂内部を仕切る壁にはいちめんに花頭窓がしつらえてあり、意外と中も明るいです。 授業は全部ここでおこなったわけではなく、一と六のつく日にだけ、ここで四書五経の講釈が行われた、とのこと。 ![]() これは飲室門と飲室。 飲室門というのは、ふだん生徒らが使う通用門。さっきの正門は、来賓用でした。 門に連なってる石塀、これも重文です。カマボコ型で、中国っぽい。 飲室ってのは、休憩所みたいなものです。中央に、囲炉裏があります(でも炭火しか使っちゃダメだとか。薪はダメ。) ここで、圭介少年もゴロゴロ休憩してたのかなーと、ニマニマ。 あ、言ってなかった、ここは大鳥さんが14~18歳まで学んだ学校です! 一番イイお年頃ですね!(何が) ![]() 文庫。蔵書の保管場所です。 説明版を律儀に全部メモってる小学生くらいの女の子と、それを待ってるおじいちゃま。可愛かったので、勝手に撮っちゃった。 ![]() こちらは、敷地内の人工の山を越えたとこにある、資料館。 建物自体、明治38年に作られたという閑谷中学校の校舎を利用してて、すごくカワイイです。 薄ピンクの下見板張りの洋館で、写真じゃわかりづらいけど、窓のガラスが当時のままです。気泡が入ってて、ちょっとウネウネしてる。カワイイよ~。 実際、日常的な勉強は、今この資料館がある東側エリアで行われていたそうです。当時の建物が残っていないのは、残念。 寄宿舎も、こっち側にあったんだろうな~。 資料館を出て山の西側に戻り、講堂などをもう一巡りして、敷地内の閑谷神社におまいりして、おしまい。外に出ます。 ![]() 門を出てすぐのとこにある、はん(さんずいに半)池。石橋は重文です。 近くには閑谷川も流れてて、生徒たちも遊んだかも知れない。 ![]() で、こちらは、光政公の遺髪などが収められている御納所、椿山。椿谷とも。 圭介がよく夜中に肝試しをした、と言われてるんですが…昼間でも鬱蒼としてます。けっこう、怖いです。 圭介のことをヘタレ扱いしてる小説家や脚本家を、夜中にここに放り込んでみたいです☆(笑顔) そんな感じで、お土産の閑谷せんべいを買い、閑谷学校をあとにします。 もちろんタクシーで帰りました(笑)。虫の居ない、冬場なら往復歩いたけど…。ヘタレです。(でも蜂は怖いって!) で、吉永駅を出発したのが13:45と、かなり早かったので、姫路に寄り道していくことにしました。 15時すぎ姫路到着、みゆき通りでいまさらお昼ごはん食べて、姫路城のほうへ向かいます。 このさい、圭介学び舎ツアーってことで(笑)。 あ、じゃあ適塾にも行くべきだったか…?(さすがに無理) それにしてもやっぱり姫路は大都会。前に、上郡帰りに寄ったときもそんなこと言ってたけど。そりゃあ圭介少年もビックリしますわな。 姫路城の天守閣は、これだけビルが増えた現代においても、ピョコンとその上から頭を出して城下を見下ろしています。 建物の高さ制限などがキチンとしているのでしょうね。 ![]() アーアーアーアーアーアーアアー♪(大奥) 各種時代劇で江戸城として登場する、天守閣です。 実際、大奥の時代には江戸城の天守閣はなかったんだけど…。 こないだM子さんと話してて、ドラマにでてくるあの建物は、江戸城の辰巳櫓か何かだよ! という結論に達しました。江戸城って、姫路城よりだいぶデカかったらしいし。(by 兵庫県立歴史博物館のスタッフさん) って、世界遺産の姫路城つかまえて辰巳櫓呼ばわり。罰当たりな。 実際は江戸城は塔層型だったので、望楼型の典型の姫路城をロケに使うこと自体間違ってる気が。 (会津若松城とかのがデザインとしては近かったんちゃうかな~) でもまあ、天守以外にもこれだけの建物群が残ってる大規模なお城はほかにないか~。 ![]() 本日最後の訪問は、好古園です。 昨年のGWにも、とーま姉さん&入潮さんと慌しく回りましたが、今回も閉園時間が迫っていたため、慌しかったです(笑)。 ここは姫路藩主の下屋敷とお屋敷街の跡地につくられた、日本庭園です。 名前の由来は、この庭園の入り口付近にあった姫路藩校「好古堂」から来ているそうです。 去年調べたところ、もともと藩校は現在のイーグレ(ショッピングセンター)あたりにあったんですが、藩主酒井氏の頃にこちらに移設されたもよう。 ってことは、圭介の祖父がこの藩校で教官をしていたのは酒井氏の頃なので、圭介が祖父の赴任にくっついて姫路に来て一緒に勉強してたのは、この場所ってことですね。 圭介が10~12歳のときです。このあと上郡に帰って、祖父が亡くなって、閑谷学校に入るわけです。 このあたりのことは、「神戸又新日報」に詳しいです。引用しようかとも思いましたが、字数制限にひっかかるのでやめておきます(笑)。 そんな感じで、圭介の少年時代の学び舎訪問ツアーでした★ 楽しかった! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.05.05 11:26:25
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