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テーマ:新選組(6)
カテゴリ:ミーハーれきしトーク
空白の(笑)2年ちょいの間は、ほとんど歴史関係の調べ物はしていなかったのですが。
(M子姉さん&ミケ氏との西南戦争ツアーのときはミケ氏がすごく頑張ってくれたから私は何もしなかった。だってメジャーな熊本鎮台じゃなくて藤田五郎巡査と抜刀隊足跡ツアーだったんだもん) (斉藤一ファンのミケ氏の付き合いで、行ったさ佐賀関! 台風で岡城址は諦めたさ!) (ただしミケ氏を騙して人吉に行くのにステキ観光列車いさぶろう号や鹿児島中央に行くのにステキ特急はやとの風に乗ったったウヘヘ) (そんなミケ氏、騙されてるとも知らずに、大分の郷土研究家さんからいただいた資料をコピーしてくれました。やさしい! なんと西南戦争中の塹壕や砲台跡のなかに、函館の四稜郭と同じ形のものがいくつかあるんです。このかたちの台場は函館とここにしか見つかってなくて、その資料では「箱館戦争で大鳥圭介に学んだ台場だろう」と言われています! 大鳥の技術がこんなとこに!) (ついでにM子さんは土方ファンで西南戦争には興味ないので一足先に九州新幹線で鹿児島入り) 唯一、M子姉さんとミケ氏の3人とでハマってたものがあります。 それは、近藤勇の首塚。 なんで3人とも近藤ファンじゃない(そもそも私は新選組ファンですら…)のに、そんなん気にしてんだかわかんないんですけどね。 首のない体のほうは三鷹の龍源寺(近藤の菩提寺)に葬られたそうですが、じゃあ首はというと、諸説あるようです。 ・ JR板橋駅前の、永倉新八らによって建てられた墓 供養塔なので遺体は埋まってない。斬首された場所がここだった。 斬首された首は京都に送られて三条河原で晒されたあと、行方不明になっています。 ・ 会津若松の天寧寺 さすがに戦時中に京都から会津若松まで首を運ぶのは無理じゃ? 墓石には、松平容保が贈った『貫天院殿純忠誠義大居士』という戒名が刻まれています。 ・ 京都東山山中 粟田口刑場とか東大谷とか霊山とか黒谷とか、こちらも諸説あるようで場所は特定できません。 ただ粟田口と東大谷と霊山は近いんで、この3つは同じ場所を指しているのかも? 黒谷だけはやや離れていますね。 ・ 愛知県岡崎市の法蔵寺 近藤の首塚であるという言い伝えが残る。 しかしここが本当に近藤の墓であるかどうかは現在は疑問視されている。(理由はあとで) ほかにもいろいろ説はあるようですが、有名なとこはこんなもんです。 いちおう全部直接行ってみましたが、行っただけじゃホントのとこはわかんなかったです(当たり前)。 で、私らがなぜか気になってるのが、法蔵寺。 若いころの徳川家康が学んだお寺で、境内には家康手植えの松(ただし4代目)(すでに手植えじゃない)がある。 おととし3人で訪れたときは、「まあ話のタネに見てくか~」くらいの軽いノリだったんです。 「さすが三河、徳川色強いわね~」とか「これがホンモノの東海道か~情緒ある~☆」的な。 だから下調べもほとんどナシ(笑)。 でも、行ってビックリ。 なんとお墓に見知った名前が刻まれてるじゃあーりませんか。 それは、伝習隊の内田さんや小笠原さん! なんで? なんで?? 法蔵寺に伝わっているお話はこう。 近藤勇の首は、京都三条河原に晒されていたのを新選組隊士が取り戻し、近藤と親交のあった京都誓願寺の僧 孫空義天が供養した後、義天が転勤で岡崎法蔵寺の住職となるのに伴い、明治元年にこの地に埋葬された。 ついでに、新選組研究家の伊藤成郎さん(だったっけ?)が法蔵寺に話を聞きに行った際、「新選組の、足の速いヤマグチさんという人が首を持ってきて…」と説明されたんですって。 新選組にヤマグチさんっつったら、山口二郎(=斉藤一)と仙台で入隊した唐津藩士の山久知文次郎2人しかいないっつーの! (個人的に山久知さんも気になる御方ではあるのですが…なんせ唐津が生んだ日本建築界の父・辰野金吾の恩人なのだ) ってことで、首を誓願寺(あるいは法蔵寺)に持ち込んだのは斉藤一決定。 同じ話を住職さんに聞きたかったんですが、去年再訪したときはちょうどお留守でした。又聞きでスンマセン。 刻まれてる名前は以下のとおり。 土方歳三 戸村静一郎 小笠原新太郎 内田良太郎 鈴木万之助 佐藤善二郎 鈴木源兵衛 菰田幸之助 松下信三郎 市原鐘太郎 太田政一郎 建立者 内山勝行 世話人 清水三右エ門、堀川廉之助 慶応?年(読めない) 今は風化して読めなくなっている年号が、もともと慶応三年と書かれていたらしいし(近藤の斬首は慶応四年)、墓に刻まれた名が伝習隊士のものである事から、今ではここが本当に近藤の墓であるかどうかは疑問視されてるんだって。 「単に伝習隊士の墓(あるいは慰霊碑)だったんじゃねーの?」って。 でもさあ…、 だったらなんで伝習隊士のお墓がここにあるの? ちなみにお墓の名前は伝習隊士のもの、と言われてるようですが、よく見ると全員がそうではありません。 土方歳三:前軍参謀・慶応4年4月19日(?) 宇都宮にて負傷→その他のけが人と会津へ 戸村静一郎:回天隊隊長・慶応4年4月19日 宇都宮にて戦死(別名 相馬左金吾) 小笠原新太郎:伝習第一大隊・慶応4年閏4月22日 板室にて戦死→会津天寧寺に埋葬された説あり 内田良太郎:伝習第一大隊・明治2年5月23日 箱館山あるいは千代ヶ岱の戦傷がもとで死亡 鈴木万之助:伝習第一大隊・明治2年5月11日 戦死 佐藤善二郎:回天隊・慶応4年4月19日 宇都宮にて負傷 鈴木源兵衛:回天隊 菰田幸之助:伝習士官隊・明治2年5月11日 一本木関門にて戦死 松下信三郎:? 市原鐘太郎:? 太田政一郎:回天隊・慶応4年4月19日 宇都宮にて戦死 ちょっと所属がわかんない人もいますが、こんな感じです。 (相変わらずネットで拾った借り物知識でスマヌス…) 幕府直参によって結成された回天隊の人も多いですね。隊長までいますよ。 てゆっか戸村さん=相馬さんって同一人物だったんだ(笑)。相馬さんは宇都宮戦争のお話ではよくみる名前ですね。 彼らは江戸城開城後、江戸を脱走し鴻の台(国府台)にあつまり、幕府脱走軍の前軍に組み入れられ土方とともに宇都宮城を襲った人たち。 (※ 大鳥のいた中軍や後軍は宇都宮城襲撃には関係なかったのよー) …で、なんでこの人たちのお墓(慰霊碑)がここにあるの??? 以下は想像ですが。 <近藤勇の首塚だとする想像> 宇都宮で、いま近藤が捕えられていてたぶんそのうち死罪になるだろうなーって話を土方から聞かされた戸村さんや小笠原さんたちが、そのときはこれで供養したげて! ってカンパかなんかする。 その後、近藤斬首を知った土方が、近藤と親交のあった京都誓願寺に供養を頼むべく、会津入りしていたヤマグチさん(斉藤一)に首の奪還と誓願寺への供養をたのんだ。 そんときに土方から預かった名簿に、上の人たちが載ってた。 <伝習隊士・回天隊士の慰霊碑だとする想像> …なんで???? 全員の出生や経歴は知りませんが、全員が愛知県なり法蔵寺に縁があったとは考えにくい。 また、お寺に伝わっている話からも、伝習隊や回天隊とのかかわりは見られない。 箱根で戦った遊撃隊などとは違う。彼らは江戸脱走後、栃木~福島へと移動している。 それに伝習隊全て、回天隊全ての慰霊碑ではなく、「土方とともに宇都宮城を襲撃した前軍」にいた数名なのだ。 (伝習第二大隊は中軍にいたし、回天隊のもう半分は別行動をとっていた) …なので、想像できませんでした。 と、いうわけで、近藤勇の首塚だったのが疑わしいっていっても、そう考えるのが一番自然じゃないの? って私たちは思っちゃうんだよね! もちろん上記の想像もツッコミ処はあって、 慶応四年 4月4日 近藤勇 官軍に投降、斉藤一ら新選組本体は会津へ向かう 4月11日 土方歳三 幕府脱走軍と合流 4月19日~ 宇都宮戦争 土方ケガのため戦線離脱 4月25日 近藤勇 板橋にて斬首 4月29日 土方 会津到着 閏4月6日 山口(斉藤一)新選組を率いて白河方面へ出陣 会津若松→赤津 閏4月7日 山口 赤津→三代 閏4月8日~10日 京都三条河原にて近藤梟首(首はその後行方不明に) (山口さん関係を調べてくれたのはミケ氏です。ありがと~☆) 7日に福島県白河にいた人が、10日に京都三条にいるのは、どうなんだろう…? 難しくないのかな? そのあとヤマグチさんが資料に登場するのは閏4月下旬の白河城防衛戦なんで、「足が速」ければ可能? もしくは、10日以降は京都のどこかに保管されていて、それをたとえば12日とか15日に京都にやってきたヤマグチさんが盗んでいったとか。 でも保管されてるのを盗むよりかは、晒されてるのを盗むほうがはるかに簡単そう。 あと、法蔵寺側には上記のように言い伝えが残っていますが、肝心の誓願寺は「近藤勇の首の埋葬依頼をされたが拒絶」したらしい…。 でも、誓願寺に「拒絶した」という言い伝えが残っているのなら、逆に法蔵寺に押し付けた証拠になるわな。 誓願寺と法蔵寺の言い伝えが合致しているので、そこは疑わなくてもいいか。 今度誓願寺にも行ってみよう。 (新京極商店街の中にあるのに行ったことないのよね…テヘ) と、いうわけで。 「法蔵寺のお墓の名前リストからして、あれは近藤勇の首塚ではない!」 という世論に真っ向対決姿勢で、私たち3人は 「法蔵寺の名前リストからして、あのお墓には絶対に宇都宮での土方が関わっている!」 と言い切りたい。 さすがに「近藤勇の首塚だ!」とまでは言い切らないけどね。 宇都宮での土方が関わっている=近藤関係、と言えなくもなくない? あとはヤマグチさんの、マラソンのタイムがわかればね…!(笑) (まあ、ヤマグチさんのくだりが単なる伝承で、実際は京都に潜伏してた同志が~とかヤマグチさんの命を受けて閏4月7日以前に会津から京都に向かった平隊士が~とかのが可能性高いかも知れない) (さすがにヤマグチさん自身は当時の新選組隊長なので、おいそれと白河を離れられなかったのではないかと) 京都東山説もそれほど疑ってはいないんですが、それだと法蔵寺のあれは何よ、っつー疑問が残ったままに。 近藤さん… 正直アナタのお墓(正確には首塚)に、ここまで振り回されることになるとは、4年ちょい前の大河最終回「トシ…」とかおっしゃってた時には想像もできませんでしたわよ!(笑) ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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