駆け出し記者の一期一会

2008/06/21(土)23:28

未知への扉

音楽(22)

今年の始めだったか、新聞社に届いた一枚のハガキ。 「動物かんきょう会議」というタイトルとタヌキのイラストにピンと来て、 行ってみたそのギャラリーで目白バ・ロック音楽祭のことを知り、 バ・ロック音楽祭の取材を通じて参加したフォーラムで出会った人に導かれて、 浜離宮朝日ホールの高橋悠治さんのコンサートに出かけた。 このあいだ読んだ勝間和代の本にあった「わらしべ長者理論」みたいで人生面白い。 出会いはいつも未知への扉を開いてくれる。 作曲家でピアニストの高橋悠治。 名前だけは知っていたが、演奏を聴いたことはなかった。 …桐朋中退後、ベルリン、ニューヨークで学び、コンピュータを使用し作曲。ソリストとしても活躍。 1970年の大阪万博・鉄鋼館「今日の音楽」音楽祭にて演奏とシンポジウム。 72年から日本で活動。武満徹・湯浅譲二らと作曲家グループ結成、季刊誌の編集など。 アジア民衆の抵抗歌をうたう水牛楽団を組織。即興、ライブ。CD録音多数。絵本、著作も。 1938年生まれの70歳。 プロフィールをざっと読んだだけでもすごい人だ。 このコンサートに誘ってくださったプロデューサー氏も天才と絶賛する。 ベージュのゆったりしたシャツをまとって小柄な仙人のように現れたその人は、 満席のホールで、あくまでもひょうひょうと弾き、語った。 バッハの平均律がさらさらと流れたのち、ブゾーニ、高橋悠治本人、モンポウという ピアニストでもある作曲家という共通点のある3人の現代曲が続く。 正直言って、ピアノの現代曲はほとんど知らない。 現代曲だからと言って敬遠するつもりは決してないのだが、 ラジオの周波数が合ったり合わなかったりするような感じだ。 発信する側の問題ではなくて、受信する自分の受け入れ幅の問題だろう。 残念ながらコンサートの前半はなかなか受信できずに ふと眠気を催すといった情けないような申し訳ないような有様だった。 曲の合間の高橋さんの軽妙なトークの部分になると目が覚めて、 その該博な知識と肩の力が完全に抜けた語り口に感心するのだが、 曲が始まると、どうもそれが自分の中に入って来なくて、置いて行かれる感じなのだ。 それでも耳を傾けようとしているうちに、後半のモンポウの作品には だんだん周波数が合ってくるではないか! 憂いがかったメロディと微妙に調和的な不協和音が美しい。 とくにゲストの波多野睦美さんとのデュオがすばらしかった。 メゾ・ソプラノの波多野さんの歌も初めて聴いたが、 プログラムの最後になって舞台に登場した瞬間、ただ者ならぬ強いオーラを感じた。 クリーム色のプリーツのドレスに長いウェーブの髪。 上背もあって堂々たる風貌は女神か巫女のようだ。 歌詞の言霊を包み込んで聴衆の一人一人に届けるような豊かな響きの声だった。 中世スペインのカトリック神秘主義の詩人修道僧の詩による「魂をうたう」や、 逝った身体の上に置かれた百合の花をうたう「君の上には花ばかり」という 悲しい歌は、もとの歌詞が直接にはわからなくても、悲しみが切々と伝わってくる。 その伴奏のピアノの和音がまた何と悲しいこと……今のは何と何と何の音の組合せだったんですか?と教えてもらいたくなる。 なじみのある古典派やロマン派のメロディやハーモニーはもちろん美しいのだが、 そういう5や3で割り切れるような、あるいは定型的な美辞麗句のような わかりやすいパターンに当てはめて表現するばかりでなく、違った言い方で、 人の心の襞の奥のどこかにある何かを探り当て、言い表そうとして、 こういうちょっととっつきにくい現代の音楽は、実験を繰り返してきたのではなかろうか。 不思議な不協和音や、謎のようなメロディや、何拍子だかわからないリズムが、 全然キャッチできなくて、物別れになる場合も多いけれど、 ある人のある瞬間においては、天啓のようなメッセージとして受け取るのかもしれない。 それは聴いてみなければわからないし、 何度も聴いているうちに発見するものなのかもしれない。 この曲はいいなあ!と感じるのは、きっと自分の心とその曲の周波数が合ってて、 曲が発信するメッセージを受け取っているということなのだ。 その感覚を信じることにしよう。 アンコールの2曲もとてもよかった。 谷川俊太郎さんの詩に高橋悠治さんが曲をつけた「ゆめのよる」 そして、バッハのマタイ受難曲より「私を憐れんで下さい」 自分の無知と音楽の奥の深さを改めて感じ、 もっともっといろいろなものを聴いてみたくなった。 今日の前半の曲も何回も聴いてみると違ってくるかもしれない。 CDを買って帰ればよかった。また探してみよう。 今日のコンサートに出会えたことに感謝します。

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る