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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アメリカ史(上) 建国

 アメリカの歴史(1) 先史時代とアメリカ先住民 2004年12月26日

 「アメリカの歴史」という本をひもとくと、その先住民であるインディアン(「アメリカ先住民」という言い方が提唱されているが、あえてこう書く)の「歴史」に触れられることはほとんど無い。彼らに歴史的記録がないことも大きいが(ただしスー族は絵文字で部族の歴史を記録した)、あたかもアメリカという近代国家が「無人の地」に建設されたかのような言説がいまだにまかり通っている。このような歴史観はヨーロッパ人のアメリカ大陸「発見」以降、インディアンが歩んだ苦難の歴史と表裏一体である。ケヴィン・コスナー主演の映画「ダンス・ウィズ・ウルヴス」などはそのテーマに正面から取り組んだ最初の作品だろう。

 アメリカ大陸に人類が初めて現れたのはおよそ1万3千年前といい(ただし考古遺物の年代測定によって2万年前を主張する人もいる)、氷河期のため陸続きだったベーリング海峡を越えて北からやってきたと考えられている(最近サウス・カロライナ州で5万年前の炉址が発見されたと報じられたが、研究者の多くはその信憑性に疑問をもっている)。この人々はおよそ4000年かけてアメリカ大陸を南に縦断、こうしてアフリカ大陸に起源をもつ人類はユーラシアを経由し太平洋をぐるりと回ってその地球上全体への拡散を完了したのである。北米インディアンはじめアメリカ先住民は東アジア人と同じモンゴロイドの形質をもっている。
 従来の定説通りアメリカ大陸に人類が登場したのが1万3千年前、南米先端への到達が9千年前だとすると、西アジアで人類最初の原始農耕への試みが始まった時期とほぼ同時期ということになる。それまで狩猟採集による遊動生活をしていた人類は人口圧が起きると新天地に移住して危機を回避していたが、地球全体に人類が拡散したのと人類最初の定住・農耕の開始が時期的に同じというのは「百匹目のサル」の話(「サルの芋洗い」が地理的に互いに連絡の無い場所で起きたことを指す)みたいになるが、偶然の一致ではないのかもしれない。
 氷河期には現在のカナダはほとんど氷河に覆われていた。アメリカではユタ州クローヴィスで見つかった1万3千年前の石製槍先が最古の遺物である。このような石槍を使っていたインディアンの祖先にあたる人々は、20人ほどが互いに協力してバイソンなどの大型獣を落し穴に追い込む大規模な狩猟を行っていた(ワイオミング州キャスパーでは、1つの落し穴から75頭分のバイソンの骨が見つかっている)。その他漁労や植物の採集で生活していた。紀元前8000年頃からは植物を砕くための摺り石の量が増え、食生活での植物利用が増加したことを示している。ミズーリ州スローンで発見された埋葬址は北米大陸最古のものである。
 紀元前5000年頃、ミシシッピ河沿岸の中央平原でヒョウタンの栽培が始まった。さらに紀元前4500年頃には北米東部にトウモロコシ(南米原産)の栽培が伝わり、北米大陸での農耕生活が本格化する。農耕の開始は同時に、定住生活の始まりでもあった。しかし南米や中米のような集中した農耕やそれに基盤を持つ文明(都市)の成立は北米には見られず、農耕は粗放なものにとどまっていた。一方テキサスなど南西部では定住した狩猟採集生活が行われていたが、こうした自然の恵みに依存した生活形態は同時代の日本の縄文文化に似通っている。

 紀元前1800年頃にはヒマワリやカボチャの栽培も始まったが、いずれも中米の先進農耕文化の影響と見られる。農耕生活の始まりは余剰生産を生み出し、より組織化された社会を生み出した。ルイジアナ州ポヴァーティ・ポイントにある直径1.2kmの半円形に築造された土塁群は、宗教儀礼のために共同体による大規模な建設活動が行われていたことを示している。
 紀元前700年頃からはオハイオ川沿いに同じく農耕文化であるアデナ文化が栄え、古墳を多く築造し、自然銅を加工した装飾品などを副葬していた。このアデナ文化の遺物の中にはパイプがあり、タバコ嗜好の最古の例として知られている。紀元前300年頃にはアデナ文化に平行して北東部(オハイオ州)の森林地帯でホープウェル文化が成立し、首長制や遠隔地との交易が見られ、紀元前150年頃には「ガラガラ蛇の丘」という用途不明な蛇形の長さ405mの丘を築いている。
 一方南西アメリカではやや遅れて紀元前700年頃に農耕文化が成立し、紀元前後のバスケットメイカー文化2期では、1つの村は最大11軒の円形竪穴住居から成っていた。この文化の担い手はアナサジ族、ホホカム族、モゴロン族だった。500年頃からバスケットメイカー文化3期が始まり、アナサジ族の村は最大50軒規模にまで拡大した。
 600年頃、メキシコ文明の影響でホホカム文化が成立する。彼らは泥レンガで出来た家に住み、独特な土器を作り(独特の土器を持つ同類の文化にミンブレス文化がある)、900年頃からは乾燥した気候に対処して農耕のための用水路を引いていた。またアナサジ族はプエブロと呼ばれる日干しレンガ(アドビ)で作った集合住宅式の集落を営んだ。
 700年頃には北米に初めて弓矢が登場して大型獣の狩猟がより効率的になり、また750年頃にはミシシッピ河流域のコールズクリーク文化で北米に初めて都市的な集落が成立する。北東部ではアデナ文化に代わりイロコイ族・モヒカン族の文化が成立し、豆とトウモロコシを栽培していた。
 1000年頃になるとアナサジ族のプエブロに防御施設が見られるようになり、かつアリゾナ州メサ・ヴェルデやチャコ渓谷では防御に適した崖に住居が建設され、集団間で戦争が行われたことを示している。11世紀半ばにはミシシッピ河上流では都市的集落が発達し、イリノイ州カホキアでは人口3万に達する都市や120に及ぶ古墳が建設され、中でも大きさ300 x 200m、高さ30mにも及ぶ「僧の墓」は土製ながらも階段状のピラミッドを思わせ、アステカ文明のそれよりも大きい。地球上のほかの地域に比べ遅れてはいるものの、インディアン社会は着実に変化(進歩)していた。
 なお1000年頃、グリーンランドへの航路を外れたヴァイキングの一団がアメリカ大陸を発見し(=ヨーロッパ人による最初のアメリカ発見)、植民を試みているが、「スクレーリング」と呼ばれたインディアンに殺害されて失敗している。ニューファウンドランド島のランス・ド・メドウ遺跡はヴァイキング集落址と見られ、当時インディアンが知らなかった鉄器が出土している。またノルウェーの銀貨がインディアンの遺跡から出土した例もある。のち1121年にグリーンランドの司教エリークが北米に渡ったというが、ヨーロッパ人最初の北米移住の試みは、航海技術の未熟で上手く行かなかったようである。

 13世紀の世界的寒冷化(小氷期)は北米にも影響し、ミシシッピ文化の都市カホキアは衰退を始め、アナサジ文化のメサ・ヴェルデやチャコ渓谷は放棄された。15世紀半ばには疫病によってミシシッピ流域の人口が激減したという。
 16世紀の時点でリオ・グランデ川以北の北米大陸にはおよそ100万人が住んでいたというが、これは同じアメリカ大陸のアステカ帝国の1200万、南米のインカ帝国の600万という人口に比べても少なく、ましてやより狭いヨーロッパ全体の人口8000万人に比べるときわめて少ない(当時の日本の人口はおよそ1200万人)。ミシシッピ河流域を中心とする北米大陸の南西部でこそ農耕文化(チェロキー族など)があったが、西部の乾燥地帯(スー族、アパッチ族、シャイアン族など)や北部の森林地帯、そして太平洋沿岸地域(トーテムポールの風習がよく知られる海洋インディアン)では狩猟採集生活が続いていたから、この人口の少なさは当然とも言える。
 寒冷期の始まった13世紀は「世界史の曲がり角」といえる。モンゴル帝国によってユーラシア大陸の中心がほぼ統一され(この征服にも気候変化は何らかの影響を及ぼしているのだろう)、東西交渉が活発化した。ヨーロッパは一時的な好景気に見まわれたが、14世紀になるとペストの流行などで人口が激減、またバブルがはじけて不景気に陥る。農業が不振になる一方、肉食の割合が増加した。15世紀に人口は回復するが、肉食依存の食生活はむしろヨーロッパに人口を養うだけの土地の不足をもたらした(面積あたりの人口扶養力は肉食中心よりも穀物中心のほうがはるかに大きい。なおこれはアナール学派のピエール・ショーニョの説)。イベリア半島でのレコンキスタ完成(1492年のグラナダ陥落=イスラム教徒に対する勝利)の勢いにのったスペイン・ポルトガルを嚆矢として外部への拡大を目指す「大航海時代」が始まったのは偶然ではあるまい。
 1492年にアメリカ大陸を発見したスペインは、16世紀前半に中南米を植民地化し過酷極まりない収奪を行った。一方北米の植民地化は遅れた。1497年にイギリス王の委託を受けたジョヴァン二・カボトが北米大陸を発見し、1524年にフランス王の支援を受けたジョヴァン二・ダ・ヴェラッツァーノによって北米大陸の大西洋沿岸が探検された。さらに1540年前後にはスペイン人フランシスコ・バスケス・デ・コロナドやエルナンド・デ・ソトらによって北米大陸の内陸部が探検された。
 しかし北米大陸大西洋沿岸部の荒涼とした気候や土壌はヨーロッパ人の関心を惹かず、漁業及び毛皮目的の少数の入植者があるに過ぎなかった。1584年にイギリスのウォルター・ローリー卿によりヴァージニアに植民者が派遣されるが失敗(インディアンに殺されたという。なお映画「恋に落ちたシェイクスピア」でもアメリカ植民地が背景として出てくる)、1607年のヴァージニア植民地(ジェイムズタウン)が本格的なイギリスによる植民地建設の嚆矢となった。フランスも1604年に北米植民地を建設している。

 スペインは南米でインディオを労働力として使い、またスペイン人とインディオ間の通婚も行われてのちにメスチーソと呼ばれる混血集団が南米人口の多くを占めるようになったのだが、北米に植民したイギリス人やフランス人はインディアンとの交渉がほとんど無く(アニメ映画になったポーハタン族の娘・ポカホンタスなどは稀有な例だろう)、インディアンは「文明外」として排除された。
 のちにアメリカがその領土を大陸西方に拡大するにつれて、インディアンも居住地を追われた。「涙の旅路」と呼ばれる、ジョージア州からのチェロキー族の強制移住(1838年)などはその最たるものだろう。1830年代の連邦最高裁判所の判決によれば、インディアンは外国と同じように条約を結ぶ対象で「アメリカ領土内に存在する独自の国民」と定義されており、アメリカ国民とは見られていなかった。
 白人たちは「マニフェスト・デスティニ」(明白な運命)という、「アメリカ大陸は神が白人入植者に与えた約束の地」という勝手な理屈でインディアン追放を正当化した。白人の植民が西部に及ぶと、スー族やアパッチ族などは果敢に抵抗したが(アパッチ族のジェロニモことゴヤスレー、スー族のクレイジー・ホースことタ・シュンカ・ウィトコ、シッティング・ブルことタタンカ・イヨタケの抵抗が有名。なおインディアン映画でお馴染みの騎馬の風習はスペイン人が持ちこんだもので、元来アメリカに馬は居なかった)、近代軍隊には勝てず1890年(ウーンデッド・ニーの虐殺)までに鎮圧され、不毛の地の居留地に押し込められた。アメリカ合衆国でインディアンが公民権を得るのは1924年になってからである。
 アメリカという国は多民族国家、自由の国といわれている。しかしそれを享受できるのは至高のアメリカという文明に属する(もしくは属そうと努力する)者に限られており、そうでないもの、またはそうあって欲しくないもの(インディアン、黒人、かつての日系人)に対しては酷薄・尊大極まりない態度を取る。20世紀に入ってからはアメリカはそれを国内に限らず世界中で行っているわけだが、こうした体質は先住民のインディアンとの接し方で身についたものなのだろう。


2005年01月03日
アメリカの歴史(2) ヨーロッパ人の入植から独立前夜まで

 1492年のコロンブスによるアメリカ大陸(中南米)発見に続き、1497年にカポトにより北米大陸がヨーロッパ人に発見され、1524年にヴェラッツァーノの航海でアメリカ東海岸の地理が知られることになったが、ヨーロッパ人の入植はずっと遅れた。中南米には先住民の金銀財宝や豊富な銀鉱山が既に知られており、そこを征服したスペインは手っ取り早く収奪することが出来たのだが、北米先住民は冶金を知らず、鉱山の存在は未知数だった。
 イタリア人航海士カポトやヴェラッツァーノに探検を委託したのはイギリス王やフランス王だったことも留意しておきたい(コロンブスもイタリア人だが、早くから地中海・イスラム文明との接触があったイタリアでは地理学や航海術がヨーロッパでもっとも進んでいたのだろう)。先行のスペイン・ポルトガルが中南米の植民地化を独占してしまったのに対抗して、この両国は「無人の地」を探していた。海上勢力として興隆するイギリス、そしてスペインから独立(1581年)するオランダの両国は、スペイン船に対する海賊行為に留まり、その中南米植民地を奪うほどの力はまだ無かった。
 
 当初北米の産物として重視されたのは魚介類(鯨油)、毛皮、そしてタバコである。北米原産のこの植物を利用した喫煙の習慣は、スペイン人によって一世紀足らずで地球の裏側の日本にまで爆発的に広まった(同じように梅毒も猛烈な勢いで広まった)。今やヒマワリと共に北米原産の世界中どこにでもある栽培植物だろう。16世紀中は大規模なヨーロッパ人による本格的な北米入植は行われず、これらの品を獲得するための一時的な滞在だった。
 1584年、イギリスのエリザベス女王の寵臣ウォルター・ローリーは処女王にちなみ「ヴァージニア」と名づけた北米植民地に入植者120人を派遣したが、行方不明になった。かつて(1000年頃)のヴァイキング同様、良好な関係の樹立に失敗したインディアンに不意に襲撃されたと推測される。イギリスが植民地建設に成功するのは1607年のヴァージニア州ジェイムズタウンを最初とする。ヘンリー・ハドソンによる探検で北米の地理が明らかになるにつれ、入植も進んだ。スペイン植民地と異なり、イギリス人の北米入植は国家事業ではなく企業(ヴァージニア・カンパニーなど)や個人的な動機によっており、国家はむしろ無関心だったという特徴がある
 1620年11月20日、イギリスのプリマスを出航しアメリカに向かっていたメイフラワー号の船内で、祖国での宗教的迫害を逃れ新天地を目指す清教徒(ピューリタン)101人が「メイフラワー誓約」という自治を定めた誓約を行った。これはアメリカ民主主義の嚆矢としてよく知られた逸話である。彼らはその年末に上陸地をプリマスと名づけ植民地を建設したが、厳しい冬に耐えられず最初の冬に半数が病死した。しかしインディアンからトウモロコシの栽培などを習って辛うじて生き延びた。
 1641年までにイギリス人7万人が大西洋を渡ってアメリカに入植したが(1640年頃の植民地人口25000人以上)、その内訳は一旗組も居れば流刑もあり、また清教徒やカトリック(1632年のメリーランド入植)、クエーカー教徒(1683年のウィリアム・ペンによるフィラデルフィア建設)のような宗教的理由の者も居る。1692年にはセーラムで魔女狩りが行われ20人が処刑されるなど、ヨーロッパ人の宗教的偏執体質も持ちこまれた。ナサニエル・ホーソーンの小説「緋文字」(1850年)は、当時の世情に取材して書かれた初期アメリカ文学の代表作である。
 当初北米植民地に無関心だった本国政府も免状や貿易特権を与えて入植を奨励した。1670年にはサウス・カロライナを占拠して、長さ2000km、幅300kmに及ぶ大西洋沿岸地域をほぼ支配下に置いた。植民地の大部分は王立とされ、王に任命された総督が派遣されるようになった。住民から制限選挙で選ばれた代表がイギリス議会を模倣した集会(アセンブリー)を開き、財政面で総督に意見を述べることが出来た。アセンブリーは徐々に北米植民地全体に影響力をもつようになる。

 北米に入植したのはイギリス人ばかりではない。
 スペインはフロリダ半島に植民しサン・アゴスティン(セント・オーガスティン)を建設している。しかし中南米に比べ儲けの少ない北米にあまり関心を示さなかった。英仏の北米分割が激化する中ようやく危機感を抱き、1697年にフランスに対抗してフロリダ植民地の境界(アラバマ州)にペンサコラを建設、またアメリカ西部をメキシコ領の一部とし、ロシアのアラスカ進出に対抗して1780年にロサンゼルスを建設している。
 オランダは1609年に西インド会社を設立し、アメリカで敵国スペインの船舶を攻撃すると共に、入植を開始する。1623年にインディアンからマンハッタン島をタダ同然の約20ドルで購入し、ニュー・アムステルダムと名づけた。今のニューヨーク市の始めである。オランダ人はインディアンやイギリス人の襲撃から守るため集落北端に城壁を築いた。現在は株式取引などでよく耳にする「ウォール街」という地名にその名残りがある。発掘調査の示すところによれば、オランダ人たちはその生活用具(陶器やガラスなど)のほとんどをオランダから輸入して賄っており、母国と変わらぬ生活をしていた。
 北欧のスウェーデンも現在のデラウェア州などに小規模な植民地を建設したが、オランダに奪われている。しかしオランダも海上交易の覇権を巡るイギリスとの英蘭戦争に敗れ、1664年にニュー・アムステルダムをイギリスに奪われた。イギリスはこの集落をニューヨークと改名した。オランダ人たちはイギリス支配下でそのままアメリカに住み続けた。現在オランダ系はアメリカ国民の中では多く無いが(ミュージシャンのヴァン・ヘーレンやスプリングスティーン、二代の大統領を出したルーズヴェルト、鉄道王ヴァンダービルトといった苗字はオランダ系)、その文化的な影響はサンタクロースの行事などに残っている。
 一方フランスは初代カナダ総督サムエル・シャンプランの下、より北方のニューファウンドランド島(1603年)を基点に、セント・ローレンス川沿いに入植を始め、1608年にケベック植民地(モントリオール)を建設している。1625年からはフランス・イエズス会が布教のためアメリカ内陸部に入っている。フランスはインディアンとの毛皮と酒の交換で利益を挙げた。蔵相ジャン・コルベールのもと重商主義政策をとるフランスは、国を挙げて活発な入植活動を続け1690年頃カナダ入植者は1万を越えた。その植民地は五大湖に達しさらに1682年に以降はロベール・ラ・サールによるミシシッピ河沿岸探検が成功した(当時のルイ14世にちなみルイジアナと名づける)。フランス人たちは要所に砦を建設しつつさらに南下、1718年にはついにカリブ海沿岸にニューオーリンズ(オルレアン公に因む)を建設してフロリダのスペイン植民地との関係が緊張し、また大西洋沿岸部のイギリス植民地を大きく包み込む形勢となった。
 オランダがイギリスの軍門に降った今、ともに世界帝国を目指すイギリスとフランスは、アメリカを含む世界中を舞台に帝国主義国家同士の戦争を繰り返すことになる。

 1619年にオランダの海賊船が、カリブ海でスペイン商船から奪った20人のアフリカ黒人をヴァージニア植民地のイギリス人に食料と引換えに渡したが、これがアメリカにおける黒人奴隷の始まりといわれている。ニューヨークでも初期の黒人奴隷の墓地が発見されているが、その中には歯を平らに削ったり腰の周りにタカラガイをぶら下げるアフリカ大陸の習慣を残した「第一世代」の骨も見つかっている。骨に歪みや激しい磨耗があること、乳幼児の骨が多いことや平均死亡年齢が低いことなど、出土した人骨は黒人奴隷が過酷な条件で厳しい労働を強いられたことを窺わせる。
 そもそも黒人を奴隷として使う習慣は中東に古代からあり、アラブ商人に雇われたアフリカ黒人が敵対部族などから奴隷狩りをしていた。南米植民地でインディオを酷使して激減させ(南米には無かった結核の蔓延もあって人口の9割が死滅)労働力供給に悩んだスペイン人は、いわばその真似をしたのである。後発国オランダ、イギリス、フランスなどはスペインに習い、より組織的かつ大規模に西アフリカで奴隷を入手し、むしろ南米よりも北米のほうが黒人奴隷は多くなった。
 黒人奴隷の連行は続き、やや時代は下るが1770年代の10年間だけで71万人のアフリカ人が奴隷として南北アメリカに連行され、1820年頃には200万人のアフリカ系住民が北米大陸におり、これは当時の北米人口の2割にあたる。

 イギリス北米植民地の人口は25年毎に倍増していき、18世紀後半にはのちの「建国13州」となる地域の人口は250万人を数え、都市化も進んでフィラデルフィアは人口4万、ニューヨークは2万、ボストンは人口1万5千を数えた。ヨーロッパから持ちこまれた麦の栽培も成功し、逆にヨーロッパに輸出するほどになった。移民の6割はイングランド人だったが、スコットランド、アイルランド、ドイツからの移民も多くなった。また大規模な農園経営のため特に南部で黒人奴隷の需要が増した(黒人の9割が南部に居た)。
 アメリカ、インド、アフリカでの植民地経営で競りあうイギリスとフランスは、1754年にヨーロッパでプロイセン(ドイツ)が起こした七年戦争に乗じてアメリカを舞台に戦争を始めた(イギリスがプロイセンを支援)。40万という少ない人口にも関わらず要所が砦で守られたフランス植民地軍はインディアンも味方につけて善戦し、オハイオ川に進撃する。イギリスはウィリアム・ピットが宰相に就任し、海外派遣軍を増やして態勢を立て直し逆襲、1758年にはフランス側のデュケイン砦を奪いピッツバーグと改名(のちのアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンも従軍)、1760年にはモントリオールを落としてアメリカ大陸のフランス植民地を全て奪取した。
 1763年にパリで和平条約が締結され七年戦争はプロイセン・イギリス連合の勝利に終わった。条約の結果イギリスはカナダ及びミシシッピ河以東(ルイジアナ東部)、さらにスペイン領フロリダを獲得し、北米大陸のヨーロッパ植民地はほとんどイギリスの有に帰した(ミシシッピ以西はスペイン領とされたが、未開発だった)。
 イギリス系入植者にとってみればフランス植民地による包囲網からの解放だったのだが、イギリス本国政府は1763年10月7日に、獲得したルイジアナについてはアパラチア山脈以西への白人の入植を禁止してインディアンの所有地とした。敵対して苦戦したインディアンを懐柔するための策だったのだが、人口増加による農地の不足を感じていた植民地住民(以下「アメリカ人」と呼ぼう)たちにとっては、西方への拡大を封じられ、包囲網がフランスのそれからイギリスに代わっただけだった(1774年に五大湖周辺がイギリス直轄のケベック植民地に編入され、この危機感はさらに高まった)。
 イギリスは大勝利を収めたものの、その戦費調達のための負債が国庫を圧迫していた。イギリス政府は1764年に北米植民地に「アメリカ国庫管理法」、一般に砂糖法と呼ばれる税を導入する。それまで本国政府がアメリカ人に税を直接かけることは無かったので、アメリカだけに施行されたこの法は、「アメリカ人を二等市民として扱うのか」という反感を招いた。さらにイギリスは翌年印税法を導入、公文書、新聞、書籍に税をかけた。この税は猛反発を呼び翌年撤回されるが、代わりに輸入関税をかけ、本国とアメリカ人の感情的対立は決定的なものになった。
 こうして独立運動が起きてくるのだが、そのきっかけは領土拡大制限への危機感や特別税・関税への反感だったということは留意すべきだろう。あくなき拡張主義と自由貿易主義というアメリカの体質は既に独立時に見られるようである。


2005年01月08日
アメリカの歴史(3) 独立  

 「アメリカの歴史」の続き。やっと独立である。
 七年戦争の負債解消の為にイギリス本国政府が1767年にアメリカ植民地で施行したイギリスからの輸入品への課税(タウンシェンド法)は、アメリカ人の反感を助長し、それはイギリス製品の不買運動という形で現れる。1768年には不穏な情勢を察した本国政府はボストンに兵士を駐留させ緊張は高まった。1770年3月にイギリス兵がデモ隊に発砲し5人が死亡する事件が起きる。
 事態の急を悟ったイギリス政府はタウンシェンド法を撤回するが、「茶は除く」という例外付きだった。ヨーロッパ人は喫茶の風習を16世紀に中国から学び、タバコと共に爆発的に流行、18世紀に入ると一般家庭でも必需品となった(イギリス式のミルクティーが確立されたのもこの頃。ただしまだ緑茶だった)。ところが当時茶の栽培は中国と日本でしか行われておらず(イギリスがインド植民地で茶の栽培を始めるのは19世紀半ば)、その輸入はイギリス東インド会社が独占していた。しかしフランスと競ったインド経営で政治・軍事支出が増大し、東インド会社は破産寸前に陥る。茶に対する関税が廃されなかったのは東インド会社救済の意味もあった。アメリカ人たちも本国の影響で喫茶の風習に染まっていたので、これは憎むべき関税だった。
 経済的な要因のほか、思想的な要因もあった。「代表無くして課税無し」という言葉が唱えられイギリス本国議会への代表権要求が高まっており、ここまでは単なる反英的自治権拡大要求運動だったのだが、サミュエル・アダムスやトーマス・ジェファーソンといった急進派は、イギリスを去ってアメリカに来たばかりのトーマス・ペインの王制撤廃・人民主権を訴えた思想に影響され、反王制・独立運動を唱え出した。ペインはのち1776年に「コモン・センス」というパンフレットを著してアメリカ人を独立へとかき立てていくことになる。
 イギリス本国政府はこのアメリカ人の要求を無視したばかりか、1773年5月に改めて茶法を制定して東インド会社の茶葉交易独占体制を確立しようとした。関税にもかかわらずこの茶葉はアメリカ人自身の密輸する茶葉よりも安価であり(一種のダンピング。中国がヨーロッパに輸出していたのは最下級の茶葉だった)、茶の供給がイギリスに一手に握られる事は明白だった。1773年12月16日、インディアンに変装したサミュエル・アダムスらはボストン港に停泊するイギリス船3隻に乱入、茶の梱包された342箱を海に投げ捨てた(ボストン茶会事件)。
 植民地政府は非常事態を宣言してボストン港を閉鎖、マサチューセッツ州の自治権を停止しイギリス本国法を施行した。さらに1774年に入ってケベック法を制定、カナダでのカトリックの宗教的自由を認める一方で自治を認めず、五大湖周辺までをイギリス直轄植民地とした。カナダに多いフランス系植民者懐柔のためのカトリック解放令だったが、プロテスタントの多いアメリカ人の感情を逆なでするもので、かつ五大湖がイギリス直轄植民地になるという事は、アメリカの西方拡大を封じられたに等しかった。
 1774年秋、ジョージアを除くアメリカ植民地13州の代表が初めてフィラデルフィアで一堂に会し、「大陸会議」を開いた。対英穏健派も居たが大勢は強硬論に傾き、対英交易の停止とイギリス政府が1763年以降に制定した法律(アパラチア山脈以西への入植禁止や関税法、ケベック法など)の撤廃要求、全州での民兵の結成を宣言した。ただし「独立」という言葉はこの時点ではまだ見られない。

 1775年4月18日、マサチューセッツ州レキシントンに武器を集積していた民兵と、それを押収しようとしたイギリス軍の間で武力衝突が発生、事態はついに戦争に発展した。アメリカの人口はおよそ300万人に達していたが、彼らには職業軍人がおらず、また兵器もインディアンから身を守るための銃器程度しかなく、さらに統一的な指揮系統を欠いていた。1775年6月、第二回大陸会議はヴァージニアの農園主で州の代表を務めていたジョージ・ワシントン(43歳)を総司令官に任命した。七年戦争で市民軍を率いてフランスと戦った経歴が評価されたのである。
 一方イギリスはアメリカ派遣軍を3万近くにまで増強したが、その兵士のうち1万7千人はドイツのヘッセンやブラウンシュヴァイク出身で、彼らは金と引き換えに母国の諸侯によって異郷に送られて来ており士気に問題があった。また同じアメリカ人とはいえイギリス王に忠誠を誓う王党派や、イギリスに懐柔されたインディアンもアメリカ独立派にとって敵となった。
 ワシントンは当初独立には懐疑的だったようだが、ペインの「コモン・センス」を読んで独立論に転じ、1776年7月4日、ジェファーソンの起草したアメリカ植民地13州の独立宣言を発表した。この独立宣言は基本的人権(「生命・自由・幸福の追求」)や支配に対する抵抗権(革命権)を謳っている。単なる植民地支配からの独立ではなく「アメリカ独立革命」と言い習わされる所以である。なお独立13州を示す赤白13の縞があるアメリカ国旗は、2年後の1777年6月17日に制定された。
 戦況は一進一退だった。正面切って戦えば勝ち目の少ないアメリカ軍は、今で言うゲリラ戦のような奇襲を各地で繰り返した。上述のようにアメリカ人全てが独立派だったわけではなく親英派や無関心派も多かったので、イギリス軍としては敵の捕捉が難しかった。1776年12月、アメリカ軍はクリスマスをついてトレントンのヘッセン軍を攻撃して勝利、またプリンストンでもイギリス軍を奇襲して破り、ニュージャージー州を奪還する。イギリス占領下にあったフィラデルフィア攻略に失敗するも、1777年にはサラトガで勝利を収める。
 アメリカ政府は、雷が電気であることを証明して既にヨーロッパでも知名度の高かったベンジャミン・フランクリンを大使としてフランスに派遣、その立場を代弁させた。ヨーロッパの開明的思想を持つ貴族たちには、イギリスに対する反感や自由を求めるアメリカ人への共感から、アメリカ軍に義勇兵として従軍する者も出て来る。フランス貴族マリ・ジョセフ・ラ・ファイエット(のちのフランス革命の大立物)や、たまたまパリに留学していたポーランド軍人タデウシ・コシュチュシコ(ワシントンの副官として活躍、のち母国で対露反乱を起こす)、ドイツの男爵フリードリッヒ・フォン・シュトイベンなどである。特にシュトイベンは素人の寄せ集めだったアメリカ軍に軍事教練を施し再編成した。またフランスやオランダからの武器密輸でアメリカ軍の装備は向上した。
 フランクリンの活躍もあって、1778年にフランスとスペインはアメリカに味方することを決め(植民地をめぐってイギリスとの抗争を続ける絶対王制の両国には自由や独立とかはどうでもよく、イギリスの窮地という絶好の機会だった)、ジブラルタルやカリブ海のイギリス植民地を攻撃し始めた。その他のヨーロッパ諸国は中立を掲げてイギリスによる海上封鎖に協力しなかったので、アメリカは経済的打撃を受けなかった。
 さらにフランスは1780年にジャン・ロシャンボー率いる援軍をアメリカに派遣する。米仏連合軍は1781年にヴァージニア州ヨークタウンでイギリス軍を包囲、7200人を捕虜(この中にはのちにプロイセンの軍制改革に活躍するアウグスト・グナイゼナウも居た)とする大勝利を収め、ここに独立戦争の帰趨は決した。
 1783年、イギリスはヴェルサイユ和平条約でアメリカの独立を認めさせられ、かつての13州の領域のみならず、五大湖以南・ミシシッピ河以東がアメリカ領とされた(フロリダはスペインに返還)。なおこの戦争で多大な出費を強いられたフランスは財政が悪化して重税に走り、また自由のために戦った義勇兵たちが帰国するに及んで絶対王制への反感が強まり、6年後のフランス革命へと繋がっていく。この戦争でのアメリカ人の死者は7万人に及び、またイギリスによる独立承認後、王党派10万人がカナダに移住した。
 こうした独立運動の成功には、小異を捨てて大同を取る統一された指揮系統の存在、外国列強の支援、そして中立派を独善的な論理で巻き添えにせず、巧みに取り込むことが不可欠なのだろう。

 新生アメリカ国家は、どのような国体をとるべきかという問題に直面した。今まではイギリスという共通の敵がいたものの、戦争が終わった今、緩やかな連合に過ぎない13州はともすれば分裂の危険があり、独自通貨の発行やインディアンとの抗争などで各州は連合の枠組みを必要とした。各州はそれぞれ独自に、主権在民(1776年のヴァージニア権利章典)、権力の分散、公務員の公選、政教分離が定められていたヴァージニア州を範とした憲法を導入していた。
 1787年、フィラデルフィアで制憲会議が開催されるが、中央集権志向(連邦派=フェデラリスト)のワシントンやジョン・アダムズらと連合・分権志向(共和派=リパブリカン)のジェファーソンらの意見が対立した。フランクリンの調停で13州55人の代表は「大統領制による連邦共和国」の樹立で合意する。こうして9月17日、アメリカ合衆国憲法が制定される。当時もっとも民主的とされた議会制度をもつイギリスは成文憲法をもたないので、このアメリカ憲法が最初の近代民主主義憲法ということになる。その特徴はシャルル・ドゥ・モンテスキューの思想を体現した三権(司法・行政・立法)分立制度、そして「チェック・アンド・バランス」と呼ばれる連邦(防衛・外交・貿易を管轄)と各州(交通・教育・司法・警察を管轄)、及び連邦行政機関同士の相互監査システムにある。なおこの憲法は22の追加条項が加えられた他はこんにちまで変化していない。
 1789年、最初の大統領選挙が行われ、かつての軍最高司令官ワシントン(57歳)が選出された。ワシントンは同じ連邦派のアレクサンダー・ハミルトンを財務長官に任命し、北東部の都市を中心とした新生アメリカ国家の産業・交易育成を推進した。1793年、彼の名を冠したワシントン市が建設され、彼の死後の1800年から大統領府と議会もそこに置かれたが、ヴァージニアとメリーランド両州がしぶしぶ差し出したその土地は、有り体は不毛な沼沢地だった。
 彼の就任早々フランス革命が起こり、ヨーロッパは革命・反革命の戦乱に巻きこまれる事になるが、フランスとの同盟にもかかわらずアメリカは中立を維持した。ワシントンは2期8年を務め、その退任演説でヨーロッパ諸国との固定的同盟を避けるように警告したが、足元の固まらない若い共和国が、老獪なヨーロッパ外交に振りまわされて瓦解するのを恐れたのだろう。
 個人的信望のあったワシントンに続く第2代大統領には副大統領ジョン・アダムズが選出された(1797年)。連邦派だった彼の在任期間中、早くも連邦と南部(ケンタッキー州)の対立が始まっている。強権的と批判されて不人気だった彼は一期で任期を終えたが、その息子ジョン・クインシー・アダムズは1825年に第6代大統領になっている。現在のブッシュ大統領はアダムズ父子以来の親子による大統領就任となった。
 第3代はやはり副大統領だったジェファーソンが選出される。1809年まで2期8年務めた彼は自由思想の持ち主、かつハミルトンとは対照的な農園主層を代表する共和派で、各州への介入を極力避けた。ジェファーソンの在任中、大陸西方への進出が加速した。政府は開拓者に土地30アールにつき僅か1ドルで所有権を認めたので、アパラチア山脈を越えて白人植民者が殺到、そのため先住民であるインディアンとの衝突が激化した。開発の進んだケンタッキー、テネシー、オハイオが州に昇格し連邦に加盟した。
 1803年、イギリスと争うフランス第一統領ナポレオン・ボナパルト(翌年皇帝に即位)は、1800年にスペインから得たミシシッピ河以西の土地(ルイジアナ)を、好感を得るためにアメリカに1500万ドルで売却、アメリカ領は北部でロッキー山脈にまで及び、その面積は一挙に倍増した。またヨーロッパからの移民が相次ぎ、1790年に390万だった人口は20年後には720万にまで増えている。


2005年02月26日
アメリカの歴史(4) Go West!

 1789年に起きたフランス革命は、ヨーロッパを戦乱の渦に巻き込んだ。その混乱の中で台頭した軍人ナポレオン・ボナパルトは1804年にフランス皇帝に即位し、その軍事的才能と徴兵制による国民軍でヨーロッパを席巻し、イギリスと激しく争った。独立時にフランスの多大な援助を受けたアメリカだったが、ワシントンの遺訓もあって中立を維持した。ところがイギリス軍艦はアメリカの中立を無視してしばしばアメリカ商船の拿捕を行った。硬化したアメリカ議会は、イギリスとの通商関係を重視する北東(都市)部の連邦派の反対を押し切る形で、1807年に対英禁輸法を制定する(当時の大統領は共和派のジェファーソン)。
 第4代ジェイムズ・マディソン大統領(共和派)が就任してから米英関係はさらに悪化し、1812年6月、アメリカは対英宣戦を布告する。第二次独立戦争とも呼ばれる米英戦争で、アメリカとしては英領カナダ及びスペイン領フロリダの征服が目標だった。ところがこの目論みは外れてしまう。おりしもヨーロッパではナポレオンがロシア遠征に失敗しフランスは敗北、イギリスはその力をアメリカに振り向けた。海岸からのイギリス海軍の攻撃にさらされ、1814年8月には首都ワシントンがイギリス軍によって焼き払われた。なおこの時の焼け焦げを隠すために白く塗られた大統領官邸(1809年完成)は、「ホワイトハウス」と呼ばれるようになった(俗説かもしれない)。また現在のアメリカ国歌「星条旗」はこの戦争の際に作られたものである(制定は1931年)。
 ナポレオンの没落を受けてアメリカはイギリスとガン(ベルギー)条約を締結、現状維持と五大湖の中立化を認めさせられた。講和を知らない南部ニューオーリンズでは戦闘が続き、アンドリュー・ジャクソン将軍がイギリス軍を撃退してようやく一矢報いた。なおこの戦争は、対英戦争に一貫して反対した連邦派の衰退、また対英貿易が低調になったため産業革命の勢いで興隆するイギリス産業からの輸出攻勢からの保護となりむしろアメリカ国内の産業が育成されるという副作用も生んだ。

 1820年、ナポレオンによる占領からの解放(1813年)後に国王による反動政治が続いていたスペインで、自由主義者の反乱が起き内戦状態になる。既に南米のスペイン植民地ではシモン・ボリヴァルらの活躍で植民地在住のスペイン人(クリオーリョ)が本国からの独立を宣言していたが、この内戦に呼応して1821年にはアメリカに隣接するスペイン領メキシコも独立を宣言する。
 1823年12月、アメリカの第5代大統領ジェイムズ・モンロー(共和派)は「アメリカをアメリカ人に」と謳いヨーロッパ諸国によるアメリカ諸国への干渉を拒否する「モンロー宣言」を発してこの独立運動を支持した。中南米諸国は独立を達成するが、富の偏在や人種間の対立で政治的・経済的に安定せず、アメリカの中南米諸国への影響力が増大していくことになる。またこの「モンロー宣言」はのちのちアメリカの孤立主義の根拠として利用されることになる。
 一方1818年にアメリカは北緯49°以南の土地(現ノースダコタ州)をイギリスから割譲され、1819年にはスペインからフロリダを購入、アメリカ領は徐々に拡大した。アメリカ人の西方植民及びカナダの西方探検が進んだが、長い対立の末1846年にはイギリスとオレゴン条約を結び、北緯49°が英領カナダとアメリカの国境として確定した。アメリカ領はついに太平洋に達したのである。

 ヨーロッパではイギリスを起点として産業革命を迎えていた。1793年にはアメリカ人エリ・ホイットニーが綿繰り機を発明、作業能率は従来の50倍になった。規模の割に人的労働力に乏しいアメリカではのちのち機械力が重視される傾向になる。一方「世界の工場」イギリスに輸出するため綿花への需要が増大、黒人奴隷を用いた南部の大規模綿花栽培を促進させた。
 イギリスで発明された蒸気機関はアメリカにも導入され(1807年、ロバート・フルトンによる外輪式蒸気船建造)、蒸気船による水上輸送が重要になる。水運のためにニューヨークを流れるハドソン川と五大湖の1つエリー湖が運河で結ばれ(1825年)、のちに世界最大の都市となる港湾都市ニューヨーク(当時人口6万人)の隆盛はここに始まる。また翌年最初の鉄道がマサチューセッツ州に敷設され、1829年にはボルチモアとオハイオの間で旅客鉄道輸送が始まった。
 サミュエル・モースが発明した電信システム(「モールス信号」)は1844年にワシントン・ボルティモア間に敷設され、徐々にその情報伝達力の威力が認められていった。1858年にはアメリカとイギリスを結ぶ海底通信ケーブルが敷設され、交通手段の機械化もあいまって世界は急速に「狭く」なっていく。
 その他1833年にサミュエル・コルトによるリボルバー(連発)式拳銃、1834年に自動刈取機、1839年にチャールズ・グッドイヤーによるゴムの加硫固定法(タイヤに応用)、1856年には冷凍保存(冷蔵庫)、翌年にはエレベーターが、アメリカで発明されている。また1859年にはペンシルヴァニア州で世界最初の油田採掘が始まった。

 1828年の選挙で、米英戦争の英雄で南部テネシー州出身のアンドリュー・ジャクソンが初めて独立13州以外から大統領に選出された。東海岸都市部の産業資本家層に対する農民層や労働者層の反感がもたらした勝利であり、本来政治の素人だったその支持層はのちに民主党と呼ばれるようになり、南部諸州を中心に支持を集めこんにちに至っている。ジャクソンは公務員を自分の党派で固めるなど露骨な党派性を発揮し、その手法は「ジャクソン的民主主義」と批判されることになる。北部に多いジャクソンの反対派は、ホイッグ党を結成した(のちの共和党の源流)。
 幌馬車に乗った白人による西方への移住・農地開拓が進んでいたが、ジャクソンは1830年に「強制移住法」を制定し、ジョージア州やヴァージニア州にあったチェロキー族などのインディアンから土地を取り上げて狭い居留地に押し込んだ。アメリカ軍によるインディアン虐殺は枚挙に暇が無く(特にフロリダのセミノール族に対し多発した)、また1839年にヴァージニア州のチェロキー族がアメリカ軍の監視下で1000キロ以上を無縁の西方に移動させられ、1万7千人のうち4000人が死んだ出来事は「涙の旅路」と呼ばれている。
 1830年から60年の間に460万人がヨーロッパからアメリカに移住しており、そのうち39%は100万人の餓死者を出した1845年の大飢饉を逃れてきたアイルランド人、30%が1848年の革命失敗に失望して移民してきたドイツ人だった(その中にはのちに自由共和党を率いるカール・シュルツもいた)。アメリカの人口はこうした大量移民の流入もあって1820年の960万が40年間で3100万にまで激増しているが、その陰にはこうしたインディアンの悲劇があった。
 移民してきたヨーロッパ人は安い労働力としてアメリカ産業の巨大化に貢献し、また「マニフェスト・デスティニー(神に定められた運命)」として正当化された西部への入植を加速させた。ヨーロッパで民族主義が吹き荒れる中、アメリカは民族・人種の坩堝となった。

 スペインから独立し共和国となったメキシコでは、1828年以降主導権争いによる分離運動・内戦状態が続いていたが、その北辺であるテキサスにはアメリカ人があいついで入植していた。アメリカ人入植者らは1836年にはメキシコからの独立とテキサス自由国の建国を宣言する。メキシコ政府は討伐軍を差し向け、アメリカ人入植者のこもるアラモを陥落させたが、財政的にアメリカに依存し、国論がまとまらない事から、この独立を事実上認めるしかなかった。
 ジャクソン大統領は1837年にテキサス自由国を承認し、連邦への加入は認めない方針を打ち出したものの、西部(オレゴン)やテキサスへのアメリカ人入植が続く中、テキサス側の要請を受け1845年にジェイムズ・ポーク大統領(民主党)はテキサスを38番目の州として連邦に加えた。メキシコはアメリカとの国交を断絶、翌年駐留米軍がメキシコ軍の攻撃を受けたためアメリカが宣戦し米墨戦争が始まった。内戦状態で足並みの揃わないメキシコはアメリカ軍に連敗、首都メキシコ・シティを落とされて敗北した。1848年の講和条約でメキシコはリオ・グランデ川以北のニューメキシコ、カリフォルニアを割譲させられた。
 1848年、新領土カリフォルニアで金鉱が発見され、ヨーロッパからの移民や中国人出稼ぎ労働者など、入植するものが相次いだ(1849年だけでその数8万という)。いわゆる「ゴールド・ラッシュ」である。一方アメリカでは鯨油を目的とした捕鯨が盛んで北太平洋でも鯨を乱獲していたが(1849年には760隻のアメリカ捕鯨船が太平洋にいた。ハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」の背景となっている)、そうした捕鯨船の補給基地や中国への繊維製品輸出の中継基地として、カリフォルニアの領有によって俄然注目されたのが、広大な太平洋の対岸にあって当時鎖国状態だった日本である。
 日本の江戸幕府は既に従来の外交ルートを通じたロシアやイギリスによる通商要請を断り続けていた。1852年11月、マシュー・カルブレイス・ペリー准将率いる4隻の艦隊はヴァージニアを出航、半年かけて大西洋・インド洋経由で江戸湾に到達した。日本側の要請に聞く耳を持たない砲艦外交によってミラード・フィルモア大統領(第13代、ホイッグ党)の親書を幕府に手交し、翌年7隻の軍艦で再び江戸湾に現れ、日本を開国させることに成功した(日米和親条約)。
 このときペリーは琉球(沖縄)の日清両属という曖昧な外交的立場、また太平洋西部を扼する戦略的位置に注目して、その奪取と領有を具申したが、本国でホイッグ党から民主党(フランクリン・ピアース大統領)に政権が交代し外交政策も変わったため却下された。

 既に1802年には黒人奴隷制度を巡って南北が対立、1808年には北部主導の連邦政府はアメリカへの黒人奴隷輸入を禁止した。1820年には北緯36度30分以北での奴隷使用が禁止され、奴隷州と自由州に分かたれた(ミズーリ協定)。これには単なる人道上の問題のみならず、アメリカ産業育成のための保護貿易を掲げる工業中心の北部と、自由貿易主義で対英綿花輸出を主な産業とする南部との主導権争いの側面があった。
 黒人の説教師ナット・ターナーは1831年に奴隷州ヴァージニア州で叛乱を起こしている。同年ウィリアム・ガリソンは「リベレイター」紙を創刊し、奴隷制攻撃の急先鋒となった。その一方で黒人への差別は根強く(特に白人貧困層であるアイルランド系による)、1834年にはフィラデルフィアで人種対立による暴動が起き、暴動を起こした白人に対し市議会は黒人に対して賠償の支払いを命じている。「アメリカ反奴隷制協会」の助けを得た黒人奴隷の南部から北部への脱出も相次ぎ、1847年にはこうした逃亡黒人のうちアフリカに戻った者によって「リベリア」が建国されている。
 国内分裂の危機感から、1850年にユタ、ニューメキシコなどの連邦新規加盟州での奴隷制導入問題をめぐって「クレイ妥協」が成立し、奴隷問題は各州の決定にゆだねられることになった。しかし1852年にハリエット・ビーチャー・ストウが反奴隷制新聞に連載した小説「アンクル・トムの小屋」は推計32万部を売る大ヒットとなり、再びアメリカ世論の奴隷制廃止論が強まった。
 1854年、西部のカンザス、ネブラスカ(当時は准州)で奴隷制導入を巡って再び紛争になる。1820年のミズーリ協定に基けば両准州は自由州になるはずだが、両准州では住民投票によって奴隷制導入の有無が決まることになった。奴隷制反対派・賛成派はそれぞれ両准州に大量移住させて住民投票での主導権を握ろうとし、武力衝突さえ起きた。南北の対立は決定的になった。
 奴隷制反対派はホイッグ党を取りこんで共和党を結成した。一方南部に支持層の多い民主党内部では奴隷制賛成派と反対派が分裂、1860年の大統領選挙では共和党のエイブラハム・リンカーン候補に敗れて、共和党最初の大統領が誕生することになる。


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