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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

中央アジア

2006年12月26日

トルクメニスタン

 中央アジアにあるトルクメニスタン共和国(原語では「テュルクメニスタン」)は、1991年にソヴィエト連邦から独立した、面積48万平方キロ(日本の1.3倍)、人口500万(福岡県と同じ)の内陸国である。世界最大の塩湖・カスピ海(ハザル海)に面し(東岸)、北の隣国カザフスタン、ウズベキスタンは同じ旧ソ連の国であるが、東南でアフガニスタン、南でイランとも国境を接している。
 国土の8割はカラクム砂漠に覆われ、人口が集中するのはウズベキスタンとの国境にあたる北部のアム河沿いと、イランとの国境にあたる南部のコペト山脈北麓、そしてアフガニスタンから流れるムルガブ川沿いに点在するオアシスである。一見不毛な国土であるが、水を得れば豊かな実りが期待でき、また地下には天然ガスや石油が豊富に埋蔵されている。この国の輸出総額の実に8割を地下資源が占めている。
 国民の8割は他の中央アジア諸国と同じくテュルク系に属するトルクメン人だが(注・トルコ人=トルコ共和国の国民と区別するため、中央アジアのトルコ系民族に対しては「テュルク」と原語に近い発音で表記する)、他に同じテュルク系のウズベク人や、スラヴ系のロシア人もいる。ただしかつて支配者として移住してきたロシア人に対する現政権の風当たりは強く、ロシア人は減少傾向にある。イランに近いせいか、トルクメン人は中央アジアのテュルク系諸族の中で最もモンゴロイド的形質が少ないように思える。
 トルクメン語は中央アジアのテュルク系言語の中では特にトルコ語やアゼルバイジャン語に近い(だから僕にもなんとなく読める)。中央アジアのテュルク系民族の多くはかつて遊牧民だったが、トルクメニスタンの国旗はイスラム教のシンボルである緑地に三日月と五星、そして棹側に遊牧民の特産品である絨毯の文様をあしらった美しいものである。遊牧民の後裔を自負するこの国の特産品には、アレクサンドロス大王や漢の武帝も愛したという名馬アハル・テケもある。

 コペト・ダー北麓のオアシス地帯では、アナウ、ナマズガ・テペ、ジェイトゥンといった、紀元前6000年頃以降の初期農耕集落の遺跡が発見されている。南方の西アジア(世界で最初に農耕が始まった地域)から農耕が伝わったと思われ、ここでは夏の増水を利用した原始的灌漑が行われていた。フタコブラクダが家畜化されたのもこの地域だった。
 紀元前2000年頃には集住により都市が出現し、ゴヌル・テペ、アルトゥン・デぺ、ダシュリなど、城壁や塔が残る遺跡が見られる。2001年に文字らしきものが刻まれた印章が発見され、このオクサス文化をいわゆる四大文明に次ぐ「第五の文明」とする意見もある。またこの地がインド・ヨーロッパ語族(アーリア人=イラン人やインド人の祖)の原郷と主張する学者もいる。
 東のアフガニスタンの特産品であるラピス・ラズリ(宝石)や錫(青銅器の原料)は古代文明が栄えた西アジア・エジプトで珍重されたが、その交易路はこの地も通っていたと思われ、これが後の「絹の道(シルク・ロード)」へと発展していく。
 その東西交通の主役となったのは中央アジアの遊牧民だったが、紀元前6世紀に西アジアを制覇したアケメネス朝ペルシアの史料によれば、この地域には「サカ」と呼ばれる集団がおり、ペルシアに服属していた。ギリシャ人に「スキタイ」と呼ばれた黒海北岸の騎馬民族と同族のイラン系遊牧民であると考えられる。
 紀元前330年にアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王の東征により、この地にも都市を中心にヘレニズム文化が及んだが、間もなくイラン系遊牧民のパルティアが興り、この地を起点にイラン全土を支配する王朝となった。ニサの遺跡がパルティア最初の首都とされているが、今のところそれを思わせる遺構(王墓や王宮)は発見されていない。シルク・ロードの東西交易ではメルヴ(現メルゥ)などのオアシス都市が栄え、仏教やキリスト教(ネストリウス派)、ゾロアスター教も伝来している。
 一時はシリアやイラクで西方のローマ帝国と激しく攻防したパルティアは、224年にササン朝ペルシアに代わられた。中央アジアもその影響下に置かれたが、やがてエフタル(白匈奴)や突厥といった東方遊牧民の活動で弱体化してゆく。

 ササン朝は7世紀ににわかに興起したイスラム教徒のアラブ軍に敗れ、最後の王ヤズデギルト3世が651年にメルヴで殺され滅亡した。アラブ人の支配は中央アジアにも及び、住民のイスラム化が徐々に進んでいく。747年にアブ・ムスリムがメルヴで起こした反乱は、ウマイヤ家からアッバース家によるカリフ位(イスラム教スンニ派の教主)奪取のきっかけとなっている。しかしイスラム世界はアッバース朝の混乱と共に分裂、この地方には875年にサーマーン朝が分立した。
 イスラム化の一方、中央アジアではテュルク化も進んでいた。上に触れた突厥は中国の北西にいたテュルク系遊牧民の一つであるが、騎馬に優れたテュルク人は時に傭兵、時に移民として西へと遷っていった。その中にトクズ・オグズ(中国史料の「九姓鉄勒」)と呼ばれる部族集団がおり、8世紀末にはアラブ史料にも初出するが、現在のトルクメニスタン人はこのオグズ族を自らの始祖と見なしている。
 サーマーン朝は999年にテュルク系遊牧民の攻撃で滅亡したが、やがてそのテュルク系遊牧民の中からトゥグリル・ベクが現れ、他部族を従えてセルジューク朝を樹て、ついにはイランを通ってイスラム世界の中心バグダード(イラク)に入城した。次代のアルプ・アルスランは西進を続けてビザンツ帝国を破り(1071年)、小アジア(現トルコ共和国)のトルコ化や十字軍のきっかけとなったが、彼の死後王朝は次第に衰退し分裂した。
 中央アジアはやはりテュルク系のホラズム・シャー朝の支配するところとなり、その都はトルクメニスタン北部のウルゲンチ(現在ウズベキスタンにある同名の都市とは別)に置かれた。しかし1219年に東方から侵入したチンギス・カン率いるモンゴル軍の攻撃を受け、ウルゲンチやメルヴを落とされ滅亡した。モンゴル軍は都市住民を大虐殺し灌漑水路を破壊したというが、モンゴル帝国支配下でむしろ東西交渉は活発化しており、疑問もある。
 14世紀後半にはチンギスの後裔を名乗るチムールが中央アジアを統一し、トルクメニスタンを通って連年遠征を繰り返した。しかし1405年の彼の死後その王国は分裂してゆき、中央アジアはテュルク系遊牧民の部族割拠状態に戻る。
 アム河沿いにはウズベク族のヒヴァ・ハン国が興ったが、その支配に従わない遊牧民は南方に移住した。彼らは名目上イランのサファヴィー朝に従いつつ、統一国家を持たず部族同士で抗争を続けていた。彼らはトルクメン族と呼ばれるようになり、その統一を謳った18世紀の詩人マフトゥムグル・プラギーは、現在では国民詩人と見なされている。

 その頃既にシベリアを征服していたロシアは、19世紀以降中央アジアへの南下を始める。隊商を略奪してロシアの中央アジア開発・交易を妨げるトルクメン族に対し、ロシア軍は1869年にカスピ海東岸に上陸してクラスノヴォツク(現在テュルクメンバシュと改名)を建設し、「ザカスピ(カスピ海の向こう)」と呼ばれたトルクメニスタンへの進出を始めた。トルクメン族の反乱はミハイル・スコベレフ将軍率いるロシア軍によって1881年にギョク・デぺで鎮圧され、7000人が死亡、脱出した8000人も砂漠で遭難した。ロシアによる征服は1894年に完成する。
 当時の中央アジアは、南下を続けるロシアと、インドを支配するイギリスとの「グレート・ゲーム」の場となっていた。アフガニスタンが両大国の緩衝国とされる一方、トルクメニスタンはロシアの最前線とされた。1879年にはザカスピ鉄道の建設が開始され、1897年に総督府があるタシケント(ウズベキスタン)まで開通した。またロシア人入植者のために1881年にアシュガバード(現在の首都)が建設されている。
 ロシアは中央アジアを綿花供給地及びロシア製綿布や雑貨の独占市場とする一方、住民には本国の倍以上の税を課して収奪した。第一次世界大戦でロシア国内が不穏になった1916年、総督アレクセイ・クロパトキン(日露戦争の際のロシア軍総司令官)の強権支配に対しバスマチ運動が発生した。
 1917年にロシア革命が起きると、ボルシェヴィキ(共産党)は当初バスマチと共闘したが、中央で権力を掌握すると鎮圧に転じ、反ボルシェヴィキの拠点となったアシュガバードは1918年に陥落、ボルシェヴィキによる中央アジア支配が確立した。1924年にトルクメン社会主義共和国はソヴィエト連邦内の一共和国とされ、現在の国境はこのとき画定されたものである。
 ソ連支配下では、計画経済の名の下に引き続き中央による収奪が行われた。農業が集団化されると同時に、遊牧民に対する強制定住政策が進められた。伝統文化・宗教・民族主義が否定され、1911年に411あったモスク(イスラム教寺院)は30年間で5つにまで減少、文盲率はむしろ上がったといわれ、教育はロシア語中心になった。これに反抗するバスマチ運動は1936年までに鎮圧され、100万のトルクメン人がイランやアフガニスタンに逃亡した。
 トルクメニスタンはソ連内で最も貧しい地域に留まっていたが、1950年代にアム河とカスピ海を結ぶ総長1300kmのカラクム運河が建設され、灌漑による大規模な綿花栽培が可能になった。また1960年代に当時としては中東最大の天然ガス田が発見されている。綿花と天然ガスは現在もトルクメニスタンの主要輸出品であるが、この開発は同時にアラル海の縮小、森林破壊など深刻な環境破壊をもたらすことになった。

 しかしそのソ連は、冷戦や経済政策の失敗などで瓦解する。1991年10月、トルクメニスタンもソ連からの独立を宣言した。初代大統領には1985年以来トルクメン共産党第一書記の座にあったサパルムラト・ニヤゾフが就任した。
 長年ロシア及びソ連の属国であったトルクメニスタンには、部族意識はあっても統一的な民族・国民意識が欠けていた。ニヤゾフはにわか独立国の指導者としてトルクメン民族意識や愛国心を創出する必要があった。ところがその手法として、彼は自己へのいびつな個人崇拝を推進した。彼は「テュルクメンバシュ(トルクメン人の頭領)」を名乗って事実上の終身大統領になり、トルクメン民族の歴史やイスラムの伝統、国民意識を説いた自著「ルーフナーマ(魂の書)」(2001年出版)の講読を国民の義務とした。
 外交ではロシアと距離を置き、その影響を排除するため軍事同盟に属さず永世中立を宣言、1995年に国連総会で認められた。またその強みである天然ガス輸出を活用し、アフガニスタンからパキスタンに抜けるパイプライン計画でアメリカと、東方へのパイプラインで中国との関係強化に成功した(上海協力機構には非加盟)。更にニヤゾフは2005年に旧ソ連諸国で構成される独立国家共同体からの脱退の意向も示したが、ロシアはヨーロッパ向け輸出天然ガスの一部をトルクメニスタンに依存していたので、この離反を咎められなかった。その他綿花産業や天然ガス輸出でトルコとの結びつきを強め、また南の隣国イランとの経済関係も増大しているが、国内でのシーア派の布教禁止によりイランの影響力抑え込みを図っている。
 天然ガスの富は、一人当たり2700ドル(購買力平価だと5700ドル)という中央アジアでは高レベルの国内総生産、そしてガス代・電気代の完全無料化という形で国民への人気取りにも貢献し、ニヤゾフ個人の気まぐれとも思える幾多の禁令、年金・社会保障の大幅カット(2006年)、反対派への弾圧といった強権政治にもかかわらず、トルクメニスタンの内政は比較的安定していた。
 2006年12月、ニヤゾフは後継者を指名しないまま66歳で急死した。世界第3位ともいわれる天然ガス埋蔵量をもつ一方で、人権軽視・汚職国家と非難されているこの国の行方を、関係各国は固唾を飲んで見守っている。



 2007.04.23

 カザフスタン

 コメディ映画「Borat」のおかげか、最近カザフスタンの名を耳にするようになった。偽カザフ人レポーターのボラット・サグディエフ(実はユダヤ系イギリス人コメディアン)が「ご機嫌いかが」の意味の挨拶で使う「ヤクシェマシュ」は実はポーランド/チェコ語である。ただカザフ語と同系統(トルコ系言語)のウズベク語での「ヤフシミシズ」には似ていなくもない。
 僕は今まで一度だけ本当の(笑)カザフスタン出身の人と会ったことがある。ドイツの語学学校のクラスメートだったが、奇妙なことにドイツ語を習う彼女の民族帰属は「ドイツ人」、そして母語はロシア語だった。旧ソヴィエト連邦に属するカザフスタンというと、中央アジアにあって中国と接しているし、僕自身がトルコで「カザフ人か?」と聞かれたことがあったので、てっきりモンゴロイド人種(カザフ人)ばかりの国と思っていたのだが、ロシア系も多いと後で知った。
 かつてロシアには多くのドイツ人が移民しコミュニティもあったが、ドイツとソ連が戦った第二次世界大戦の時(1941年)に敵性国民としてソ連領中央アジアに強制移住させられている。彼女はその子孫だった。中央アジアで同様の運命を辿った高麗人(朝鮮系)や、同じく敗戦後5万8千人の兵士がカザフ国内に抑留された日本にも、彼女は好意的だった。
 カザフスタンは1991年にソ連から独立したのだが、その際公務員は従来のロシア語に加えカザフ語が必須となったという。彼女と医師であるその夫はこの規定や独立後の混乱を嫌って祖先の地であるドイツに移住し、祖先が失った「母国語」を習っていたのだった。

 カザフスタンはユーラシア大陸のほぼ中央にある内陸国で、東西2000km・南北1200km、面積は日本の7倍の271万平方kmもあり、世界第9位(内陸国では最大)の大きさである。カスピ海、アラル海(著しく縮小しているが)、バルハシ湖といった世界最大級の湖沼の幾つかがこの国にある(面している)。隣接する国は北のロシア、南のウズベキスタン・トルクメニスタン・キルギスタン、東の中国だが、このうち中国以外は全て旧ソ連に属した。
 その広大な国土には1500万人弱(九州+沖縄とほぼ同じ)しか住んでいないが、それはこの国の国土の多くが砂漠やステップといった乾燥地域であることによる。国土の南端には天山山脈があり、広大なだけに風土は多様である。シベリアに隣接する北部では穀物生産も盛んだが、この国の富は何といっても石油や天然ガス、銅、金、銀、石炭、ウラン、クロム、マンガンといった多様な地下資源であり、輸出総額の8割を占める。そのため一人当たりGDPは3000ドル弱と中央アジア随一で、海外からの投資が増えており経済成長が見込まれている。
 なお日本ではロシア語の「カザフスタン」が通称となっているが、公用語のカザフ語では「カザクスタン」である(ここではカザフスタンで統一する)。この国名は「カザフ(カザク)人の国」という意味であるが、冒頭に述べたように民族帰属はカザフ人だけでなくロシア人、ウクライナ人、ウズベク人、ドイツ人など100以上もあり、国民の8割が共通語としてロシア語を話す。なおカザフ人は中国やモンゴルにも少数存在する。

 カザフスタンには旧石器時代の遺跡が見つかっており、早くから人類が居たことが判明している。おそらく西アジアから農耕や牧畜が伝わり、紀元前2300年頃にアンドロノヴォ文化が出現した。タムガルの岩絵彫刻群(世界遺産)の最古のものはこの時代に属すると考えられている。この文化では馬の家畜化を示す世界最古の確実な証拠(馬車の副葬)が見られるが、続くカラスク文化ののち、この地は羊の牧畜に特化した遊牧が主になる。
 文献史料に言及される最初の民族は「サカ」で、紀元前6世紀に西アジアを制覇したアケメネス朝ペルシア帝国の碑文に言及される。イッシク・クルガン(古墳)で発掘された被葬者の遺体を飾る膨大な黄金製品(黄金人間)は、サカの富強を示している。ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、サカの一派マッサゲタイ人は、紀元前529年に攻め込んできたアケメネス朝の太祖キュロス大王を戦死させたという。
 その後も中国の史書(史記・漢書)に烏孫、康居、奄蔡(西洋史料にみるアラン人か)などの民族が言及されているが、いずれもイラン系の遊牧民と推測されている。彼らは比類なき騎馬戦士であり、また東西交渉の荷い手だった。
 6世紀になって中国北方でトルコ系の突厥が台頭し、西方のエフタルを逐って中央アジアを支配した。突厥が衰えると中国(唐)の勢力が及んだが、751年に侵入したアラブ軍(イスラム教徒)と唐軍がタラス川で会戦、捕虜となった中国の職人により製紙法が西伝したという。766年以降、この地はカルルク、オウズ、キプチャク、キルギスなどトルコ系遊牧部族の天地となった。

 9世紀後半にトルコ系のカラ・ハン朝が成立し、その支配下では遊牧民による積極的なイスラム教への集団改宗が行われ、また東西交易が盛んになりオアシス都市への集住が進んだ。カラ・ハン朝は内紛やセルジューク朝(オウズ族)との戦いで衰え、1132年に中国北方から西遷したカラ・キタイ(契丹人)によって滅亡、遺領はカラ・キタイ(西遼)とホラズム・シャー朝(トルコ系)に二分される。
 突厥や契丹人のように、中世の北方ユーラシア遊牧民は東から西へ移住する傾向があるが、その最大のものはモンゴル族だった。モンゴル高原を統一したチンギス・カンは1218年にカラ・キタイを滅ぼし、さらに西進してシル河沿いのオトラルを皮切りにオアシス都市を次々に攻略した。ユーラシアの東西に及ぶモンゴルの支配下でこの地はチャガタイ・ウルスやジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)及びその後継政権の領土となった。
 次いでチャガタイ・ハン国の部将から成り上がったティムールが中央アジア全域を征服したが、中国遠征の途上1405年にオトラルで病没した。彼が建てさせたホジャ・アフマド・ヤサヴィ(12世紀の神学者)の霊廟はドーム屋根の青いタイルが美しく、未完成ながら世界遺産に指定されている。

 さて「カザフ(カザク)」とはトルコ系言語で「独立不羈の民」という意味があり、ロシア語の「コサック」と語源は同じである。1428年、ウズベク族(トルコ系)のアブル・ハイルがボラクを倒して中央アジアの覇権を握ったのだが、それに従わぬ者がボラクの子ジャニベク兄弟を指導者に仰いで1456年頃にウズベク族から分離し、北方に移動した。これがカザフ族の起源である。
 1468年にはアブル・ハイルを倒して復仇を果たし、南下するカザフ・ハン国はウズベク・ハン国を脅かした。ただ「国」というより部族の寄せ集めであり、有能な指導者が死ぬたびに部族は分裂している。統一と分裂を繰り返したが、18世紀初頭にタウケが三つのジュズ(部族連合体)を統一し、シベリアを征服したロシア帝国の使者に面会、また初めて部族の成文法を作っている。
 しかし1718年のタウケの死後再び部族は三つのジュズに分裂、折りしも東方のオイラト族(モンゴル系のジュンガル帝国)の攻撃を受け弱体化した。1728年に三ジュズは再統合したが劣勢は覆いがたく、1731年を皮切りに各ジュズがロシアと条約を結び、その保護下に入った。ロシアは砦を築いてその支配を固める一方、オイラトは中国の清朝に討伐されその藩国となった。無敵を誇った遊牧民の騎兵も火器には勝てなくなったのである。カザフ族も一時期名目上ロシアと清の双方に属した。
 19世紀に入るとロシアは直接支配に乗り出し、ロシア人による入植が相次いだ。カザフ族(ロシア人は「コサック」との混用を避けるためか、誤って「キルギス人」と呼んでいた)の一部は対露反乱を起こすが失敗(1837年のケネサルの乱など)、1863年にはカザフスタン全域がロシアに併合された。
 1906年にはトランス・アラル鉄道が開通、ロシア人は農耕に適った北部や西部に多く入植し、それにより伝統的なカザフ族の遊牧生活は失われていった。第一次世界大戦で疲弊した1916年には中央アジア全域で対露反乱が起きたが、鎮圧されている。

 1917年にロシア革命が起きると、アラシュ・オルダと呼ばれる民族主義者グループがカザフ国家の独立を画策したが、1920年にボルシェヴィキ(共産党)軍に敗れて瓦解した。カザフはソヴィエト連邦ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国内の一部となり、1925年にはキルギスと分離してカザフ自治共和国とされ(キルギス人がカザフ人との混同を嫌ったため)、現在の国境が画定された。民族としての「カザフ人」はこのとき成立したといえる。1936年には共和国に昇格している。
 ソ連の独裁者スターリンは農業の集団化や遊牧民の定住化を強引に推進したが、反対する遊牧民はその家畜を屠殺して抵抗した。その結果1934年までの5年間でカザフ人150万人が餓死・刑死し、家畜の8割が失われたという。一部のカザフ人は中国に逃げようとしたが多くは餓死した。さらに第二次世界大戦中にはスターリンによって「敵性国民」と看做されたソ連国内のドイツ人、チェチェン人、高麗人、ポーランド人などが中央アジアに強制移住させられた。カザフ人たちはこの不幸な新来者に自分たちの乏しい食料を分け与えたという。
 辺境と看做されたカザフスタンへの移民は戦後も奨励され、1950年代にはカザフ系3割に対してロシア系4割と、国名に反してカザフ人が少数派に転落した。また中央アジアの北辺にいたカザフ人にはイスラム教の影響が割合少なかったため、カザフ人自身にもロシア語を日常的に使いロシア文化を受け容れる者が多くなった。カザフスタンは灌漑開発が進められて連邦の穀物供給地とされる一方、僻地を利用してバイコヌール宇宙基地やセミパラチンスク核実験場が置かれ、500回以上の核実験が行われている。

 しかし1980年代になるとソ連の経済政策失敗は明白になった。改革を唱えて登場したミハイル・ゴルバチョフ連邦共産党書記長は、保守派と目されたカザフ共産党のディンムハメッド・クナーエフ第一書記を1986年に突如更迭した。カザフ人であるクナーエフがよそ者に替えられたことはカザフ人を刺激、暴動が起きて軍隊が鎮圧に出動する騒ぎになった。これに配慮して1989年にはカザフ人のヌルスルタン・ナザルバエフがカザフ共産党第一書記に任命された。連邦の箍が緩むや、カザフ国内でほぼ同数のロシア系住民とカザフ系住民が独立か否かを巡り対立するようになった。
 1991年に大統領に選出されたナザルバエフは、ロシアに依存している経済を考慮して当初はゴルバチョフ支持で独立に消極的だったが、連邦の権威が失墜するやロシアや中央アジア諸国などの旧ソ連諸国と独立国家共同体を組織することを確認、その年末にソ連からの独立を宣言した。即座に首都アルマアタはカザフ語風にアルマトゥと改名され、カザフ語が公用語とされた。国外流出するロシア系住民の割合は独立以来年々減少しており、現在は3割以下になった(対するカザフ系は5割以上に回復)。
 1992年にはロシアと友好協力条約を締結、経済協力や国境不変を確認し、カザフスタン国内の戦略核兵器の引き揚げ、ロシア軍の駐留継続、バイコヌール宇宙基地の租借などを定めた。以後もロシアや旧ソ連諸国との協調を強める一方、地下資源大国の強みを生かして中国(直通パイプラインが開通)、トルコ(カザフ人と民族系統が近い)、EU、アメリカ(カザフスタンへの援助額第一位)、日本(同第二位)などと全方位外交を展開している。
 一方国内では独立以来ナザルバエフが大統領職にあり、メディア統制や野党への弾圧などの強権的手法や汚職が批判されているが、経済的な好況もあって内政は比較的安定し、原油の日産200万バレルも可能という地下資源の強みもあって欧米からの批判も形式的なものに留まっている。
 1997年には北部の部族やロシア系住民の懐柔を目的として、首都を国土南端のアルマトゥから北寄りのアクモラに遷してアスタナと改名、黒川紀章氏の都市計画に基づいた活発な新首都建設が進められている。



2008年10月15日 ウズベキスタン 1:1 日本

・・・・・・・
 僕は多年トルコに行き来しているが、そこで「日本人か?」と聞かれることは最早ほとんどなく、大抵東南アジアか中央アジアの国名が挙がる。トルコ人とは似ても似つかない僕のモンゴロイド顔からそうした地域が挙がるのだろうが、東南アジアは僕が日に焼けて黒くなっているせいとして、中央アジアのほうは僕の話す流暢だがやや拙いトルコ語のせいだろうか。中央アジアにはトルコ語と同系統の言語を話す民族が広く分布している。
 特に「オズベキ」に似ていると言われたことが何度かある。「オズベキ」とは日本では通例「ウズベク」と称される、中央アジアのウズベク人のことである。トルコ人にとって最も身近なモンゴロイドの代表が、ウズベク人なのだろうか。

 ウズベキスタン共和国は、サッカー日本代表の国際試合などで耳にするほかは、日本人にとって馴染みが薄い。この国は隣接する中央アジアの国々(トルクメニスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)とともに1991年にソヴィエト連邦から独立した。「一衣帯水」という言葉があるが、内陸国であるこの国は隣国(旧ソ連諸国とアフガニスタン)も全て内陸国という稀有な二重内陸国で、そういう意味では島国の日本から最も「遠い」かもしれない。
 ウズベキスタンは面積44万平方キロ(日本の1.1倍)で、世界で4番目に大きい湖だったアラル海から、中国の国境に程近いフェルガナ盆地までの東西120kmに及ぶ国土がある。その多くはキジルクム(「赤い砂」)など砂漠に覆われているが、アラル海に注ぐアム川沿いや、点在するオアシス、そしてフェルガナ盆地などは対照的に肥沃であり、人口2700万と中央アジア諸国で最多の人口を擁する。国民の約4割が18歳以下ときわめて「若い」国でもある。
 「ウズベキスタン」という国名は「ウズベク人の国」という意味だが(ウズベク人は少数民族として中国やアフガニスタンにも居る)、ウズベク人は全国民の7割程で、かつてのロシア帝国やソ連支配の名残でロシア人が5%いる。またウズベキスタンの西端1/3はカラカルパク自治共和国となっているが、同じトルコ系ながらウズベク人よりモンゴロイド形質が強いカラカルパク人は、国民全体の2%に過ぎない。
 東部のフェルガナ地方では、旧ソ連時代に画定された隣国タジキスタンやキルギスとの国境が複雑に入り組んでいるが、それはこの地域の多様な民族構成を反映している。そもそも「ウズベク人」という民族概念は、近世の部族名を20世紀になってこの地のトルコ系民族の総称として採用したもので、例えば古都サマルカンドやブハラではトルコ系のウズベク語とペルシア系(印欧語)のタジク語の両方を話すバイリンガルが普通だった。公式にはウズベキスタンのタジク系国民は5%程度ということになっているが、タジク人の主張ではもっと多く、政府により少数派のタジク人は弾圧されているという。
 乾燥しているウズベキスタンでは、夏は雲一つない青空が広がり降水は無い。灌漑などで水を得れば豊かな実りが得られるが、ソ連時代の計画経済の名残で、耕地面積の8割が国家主導の綿花栽培にあてられ、食料自給率は低い。また灌漑による大規模な自然改変の影響で、流入水量が減少したアラル海の縮小が進んで現在はかつての面積の四分の一になり、干上がった湖底に漁船が放置される死の光景が広がり、漁業は壊滅した。他方独立以来の経済改革により外資を導入し、金、天然ガス、ウランなどの地下資源開発が進んでいる。地下資源輸出額は金が最多であるが、最近開発が進む天然ガスはパイプラインを通じてヨーロッパなどに輸出されている。

 ウズベキスタンでは古くは中期旧石器時代(ネアンデルタール人)の遺跡が発見されている。紀元前2000年前後には南部のオアシス地域に都城を伴う高度な文明が出現した。一方同じ頃北部にはアンドロノヴォ文化が及んだが、この牧畜民はのちに騎馬を利用した遊牧民になり、オアシス地帯の農耕・都市民とステップ地帯の遊牧民という、この地域を特徴付けていた二つの生態が成立する。
 この地域は古代にはソグディアナあるいはバクトリアと呼ばれたが、紀元前6世紀頃に西アジアを統一したアケメネス朝ペルシアの支配下に入った。西方の西アジア文明、そして東方の中国文明の中間という位置により、ユーラシア大陸のほぼ中央にあたるこの地は、「シルクロード」と通称される東西交易の主役となる。
 アケメネス朝を滅ぼしたマケドニアのアレクサンドロス大王は、紀元前328年にこの地に遠征して越冬し、当地の豪族の娘ロクサネを最初の正妻に迎えている。アレクサンドロスの東方遠征とともにヘレニズム(ギリシャ)文明がこの地に伝わる。紀元前240年にはギリシャ系支配層によるバクトリア王国が成立、インド北部まで勢力を伸ばし、そこで仏教はヘレニズム文化と融合して優れた偶像芸術を持つことになる。
 紀元前140年頃から、東方から遊牧民である月氏(中国の史書での呼称。印欧語族)がこの地に移って来る。紀元前1世紀にはクシャン朝を樹立してインド北部にまで進出し、カニシカ王は仏教を保護した。
 一方中国を統一した前漢も西方への関心を持つようになり、中国の史書は張騫が探検した、馬と葡萄を豊富に産する「大宛国」について伝えているが、この大宛とはフェルガナ地方のことである。東西交渉は活発になり、仏教やその美術はこの地を通って中国へ伝わり、さらに6世紀には日本に伝来することになる。

 交易と農耕の富に恵まれていたが故に、この地は様々な民族の支配を受けることなった。5世紀半ばには東方から騎馬民族エフタルが現れ、それを追うように6世紀にはやはり東方から突厥が出現し、この地のオアシス都市を支配した。「突厥」とは中国史書での呼称であるが、「テュルク」すなわちトルコの音写である。7世紀初め、仏教の経典を求めて天竺に旅立った玄奘三蔵は、この地を通ってインドに辿り着いた。
 やがて突厥が分裂して中国の唐王朝の勢力が及ぶようになり、この地に住むペルシア系のソグド人たちは、商魂たくましく中国との交易に従事した。しかし中央アジアに勢力を伸ばしていたイスラム教徒のアラブ軍(アッバース朝)に751年のタラス川の戦いで敗北し、またソグド人安禄山が起こした反乱で国内が混乱したため、唐の中央アジア支配は後退した。この地にはゾロアスター(拝火)教徒のほか、ユダヤ教徒、仏教徒やキリスト教ネストリウス派もいたが、以後はイスラム化が進んでいく。
 アラブ人たちはこの地を「マーワラーアンナフル」(川の向こう側)と呼んでいた。アッバース朝が衰えると、819年にブハラを都とするサーマン朝が分離独立した。「知の鉱脈」と謳われたブハラはバグダッドなどと並ぶイスラム世界の中心地となり、ブハーリー(ハディース=預言者ムハンマド言行録の編者)、イブン・シーナ(医学・博物学者)などを輩出する。
 サーマン朝は地元のペルシア系官僚や東方遊牧民出身のトルコ系軍人を重用したため、ペルシア語文学が隆盛する一方、トルコ系軍人が実権を握り、その西方移住が促進された。サーマン朝はカラ・ハン朝に代わられ(999年)、ついで現れたセルジューク朝は11世紀にアム川を越えてペルシア、さらに小アジア(現在のトルコ共和国の領域)へと進出してゆく。1141年にセルジューク朝を破ったホラズム朝もまたトルコ系である。

 1219年、東方からチンギス・カン率いるモンゴル軍が侵攻してホラズム朝を滅ぼし、中央アジア全域を支配下に収めた。1227年にチンギスが死んだ後、モンゴル帝国は分割され、この地はチンギスの次男チャガタイの子孫が継承するチャガタイ・ウルス(国)の領土となった。モンゴル帝国もトルコ系軍人・官僚を重用したため、中央アジアのトルコ化はさらに進んだ。
 1336年4月にシャフリサブズで生まれたティムールは、チャガタイ・ウルスの一部将から身を起こし、一代で中央アジア・西アジアを制覇した。故郷近くのサマルカンドに都したティムールやその孫ウルグベクは、碧いタイルも鮮やかな壮麗な建築物を数多く建設したが、その王朝は数代で分裂・衰退した。
 それに乗じてこの地を征服したのが、北方のトルコ系遊牧民ウズベク族(シャイバーン朝)である。ウズベク(オズ・ベク)とはトルコ語で「真の君主」くらいの意味だが、その名はチンギス・カンの子孫で敬虔なイスラム教徒君主ウズベク・ハンに因むとされる。1512年にウズベク族はティムール朝のバーブルを破って中央アジア支配を確立した(敗れたバーブルはインドに転進しムガル帝国を樹立する)。
 しかしウズベク族は内部抗争や南方のペルシア、北方のカザフ族との戦いで疲弊し、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドを拠点とする小ハン(王)国に分裂した。

 中央アジアでこうした盛衰が繰り返される間に、世界情勢は大きく変わっていた。シベリアを征服したロシアが南下して中央アジアを窺うようになる一方、インド支配を確立したイギリスもまた中央アジアに関心を持つようになった。産業革命による紡績業の発達やアメリカ南北戦争の混乱による綿花の品薄感が、両帝国をして綿花栽培の盛んな中央アジアに目を向けさせた。
 イギリスがアフガニスタンで手を焼くのをしり目に、1860年代からロシアは中央アジア征服に乗り出す。かつて無敵を誇った遊牧民の騎兵もロシア軍の火器には勝てず、敗れた各ハン国は1876年までに全てロシアの支配下に置かれた。
 ロシアはタシュケントにトルキスタン総督府をおいて植民地経営を進め、綿花増産を強制し、鉄道を建設した。伝統の崩壊を危惧したウズベク人の反乱は容易に鎮圧され、ジャディードと呼ばれる知識人たちは、ロシアやオスマン(トルコ)帝国、日本などに習いトルコ民族の統一・近代化を目指す運動を始めた。第一次世界大戦中の1916年にはロシア支配に反対するバスマチ蜂起が発生し、さらに翌年にはロシア革命が起きたが、ジャディードたちの多くは革命で成立した社会主義ソヴィエト政権に合流した。
 
 1924年にソ連内の一国としてウズベク・ソヴィエト社会主義共和国が成立、1929年にはタジクと分離した。ソ連の独裁者スターリンの下では、1930年代に「民族主義者」の烙印を押されたウズベク人が多数粛清された。第二次世界大戦中はスターリンに敵性国民とみなされたドイツ人、高麗(朝鮮)人、タタール人などが前線に近い地域からこの地に強制移住させられ、現在も少数民族として残っている。
 1959年にウズベク人シャラフ・ラシドフがウズベク共産党第一書記に就任し、20年以上その地位にあったが、その下では縁故主義や汚職がはびこった。ラシドフは中央からの綿花増産指令も嘘の達成報告で乗り切った。ソ連は綿花大増産を「社会主義の勝利」として宣伝し、その褒賞としてウズベキスタンには資本が分配され、1977年には中央アジアで唯一の地下鉄が首都タシュケントに開通している。
 ラシドフの死から3年後の1986年、ソ連ではミハイル・ゴルバチョフ書記長による改革が始まってウズベク共産党の偽装や汚職が明るみになり、指導部が総入れ替えされた。改革でソ連政府の権威が弱まると、1989年にはフェルガナ地方で民族紛争が発生した。その結果イスラム・カリモフがウズベク共産党第一書記に任命された。
 しかしソ連は崩壊し、1991年にウズベキスタンは独立した。カリモフはそのまま大統領に就任し、国民投票を根拠に、憲法の規定に背いて現在まで任期を延長し続けている。外交ではロシアから離れて西側に接近する姿勢を見せ、2001年以降のアメリカによるアフガニスタンでの「対テロ戦争」にも協力し、アメリカ軍やドイツ軍の駐留を認めた。国内でも1999年や2004年にイスラム原理主義勢力によるテロが起きている。
 2005年5月、アンディジャンで反政府暴動が発生し、当局による発砲で市民数百人が死亡したといわれる。非難声明を出した欧米の姿勢に対抗して、ウズベキスタンはアメリカに米軍の駐留延長拒否を通告、同年11月に米軍は撤退した(ドイツ軍は今も駐留)。同月ロシアと軍事同盟を締結、また上海協力機構にも加盟して、ロシアや中国との関係強化に乗り出している。



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