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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年06月29日
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カテゴリ:ニュース雑記
 今日は午前に雨が降ったが、午後は晴れた。雨のせいか湿度が高く、気温が上がらない割に蒸し暑い日となった。
 そんな中今日の午後はドイツからトルコに引っ越すK君の荷物運びを手伝った。彼は僕と同じ位の期間ドイツに居たが、やはり荷物の量は凄まじいものだ。多分重くてどうしようもない本の量では僕のほうが多いから、引越しの大変さでは僕のほうがひどいかもしれない。むう。

・・・・・・・
 今日はサッカーのコンフェデレーション杯の三位決定戦と決勝が行われた。三位決定戦ではドイツが延長の末メキシコを4:3で破り、三位に食いこんだ。決勝はフランクフルトでブラジルとアルゼンチンという南米の宿敵同士で行われ、4:1という意外な大差でブラジルが優勝を決めた。

・・・・・・・
 今年の一月、東ドイツで見つかった青銅器時代(紀元前1600年頃)の天文知識を示す「ネブラの天文盤」の真贋論争について書いたが、先日この天文盤と、一緒に見つかったとされる青銅の短剣がCTスキャンに掛けられた調査結果が公表されたので記しておく。「ネブラの天文盤」発見の経緯やその性格については先日の日記に書いたのでそちらを参照してください。
 CTスキャン調査結果によれば、ネブラの天文盤は最初に鋳造(「ちゅうぞう」=熱して溶かした銅を型に流し込む作業)され、その後丁寧に鍛造(「たんぞう」=ハンマーで叩き伸ばす作業)されていることが分かった。この天文盤は青銅の背景に金の薄板で作った月やプレアデス星団(昴)、星や船などがあしらわれているのだが、鍍金(めっき)技術などは当時まだ無かったのではめ込み細工で組み合わせて作ってある。その技術は丁寧でまさに名人芸というにふさわしいが、鍛造の結果と見られる金細工の裏側にはヒビが入っていることが判明した。金や銅は元々鍛造に向いていないのだが、細心の注意を払って鍛造が行われ少なくとも表面は完璧に均されている。
 一方天文盤と共に盗掘されたとされる青銅の短剣二本もCTスキャンに掛けられ、こちらは内部に気泡があることが判明した。この気泡は鋳造の際に溶かした銅に混じってガスが混入したことに起因するもので、真空鋳造などの近代鋳造技術ではあり得ないものであり、重力を利用した(つまり溶かした銅が鋳型の中を上から下に流れることを利用した)原初的な鋳造技術によって作られたものと判明した。内部にこのような気泡があると、衝撃を受けた際に割れやすくなる。つまりこの短剣はチャンバラには向いていないということだが、もとより短剣は一突きのために使うものでチャンバラなどの衝撃は想定していないだろう(新聞記事には「実用品ではないのだろう」と書いてあるが・・・)。この時代の青銅器は錫や鉛の含有量が低いだろうから溶かした銅の流れも悪く、気泡が混じることはよくあったかもしれない(錫を混ぜるのは第一義的には青銅の硬さを増すためだが、溶かした銅と混ぜると鋳型の中での流れをよくする効果もある)。
 気泡の多い内部とは対照的に、表面は小さな鑿(のみ)で丁寧に加工されており、調査者の表現を借りると「あたかもレコードの表面のように無数の細かい溝(=鑿の跡)があった」という。こうした細かい細工によってこの短剣の表面は完璧に均されている。その作業は非常に手間のかかるもので、最近の贋作にありがちなやっつけ仕事とは思えないという(そこまで苦労して贋作を作るとは考えにくいため)。
 今のところ天文盤にしろこの短剣にしろ、レーゲンスブルク大学のシャウアー教授(考古学)が主張するような贋作の可能性は低いということだ。

・・・・・・・・
 今日は岡山空襲から60周年である。1945年6月29日午前2時、B29の編隊70機が岡山上空に来襲し二時間にわたって焼夷弾を投下、市街の多くが火災に見舞われ死者1700人を出した。僕の父はまだ小学生になったかならないかくらいの年齢だったが、伯母(父の姉)に手を引かれて猛火の中を逃げ回ったそうだ。幸いというかうちの親戚で空襲で死んだ人は居なかった。ちなみにうちの母方も岡山出身だが、母方の一家は田舎に疎開していて空襲には遭っていない(ただし列車に乗っていて戦闘機の機銃掃射を受けたそうだが)。
 城下町岡山のシンボルだった国宝の岡山城天守閣(16世紀末の慶長年間に宇喜多秀家により建設される)は焼失し、1966年にコンクリートで再建されている。石垣だけの頃の岡山城址で記念撮影した若い頃の母の写真を見たことがある。
 僕の出身の小学校は明治5年創立の市内でも最古の小学校だが、その校舎は昭和10年に建設されたものだった(現存せず)。その庇には焼夷弾の直撃を受けた跡が残されていて、僕も実際に見た。市街の真中にあるのだがよく破壊されなかったものだ。コンクリート造りの校舎は黒ずんでいたが、これは戦争中に空襲の目標にならないよう目立たないように黒く塗られた名残だと聞かされたこともある(本当だろうか)。この小学校の校庭や校舎が空襲犠牲者の遺体安置所にされたという話を在校時に聞かされた。また近所の寺の門の柱にはやはり焼夷弾の直撃を受けた跡が今も残っている。





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最終更新日  2005年06月30日 09時15分06秒
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